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 斬靄剣ざんあいけん  ―― 鈴音道行すずねのみちゆき ――
 序  幕
 ― Makoto.Kanzaki Original Novel ―
(2002/5/18 11:59)
神崎 真


 月の明るい晩だった。
 街道を、わずかにそれた森の中。
 朽ち寂れた廃寺に、水底みなぞこを思わせる薄青い月光が、しらじらと降りそそいでいる。
 樹々の梢にかかる、月は臥待ふしまち
 満月を数日過ぎた銀盤が、澄んだ大気を染め上げるかのように、輝いている。
 そして、その透明な夜気を震わせ、響く弦の音 ――
 それは廃寺の濡れ縁から聞こえていた。
 既にひび割れ、幾つも開いた穴から雑草が顔を出しているような板張りの上に、片あぐらをかく人影がひとつ。
 組んだ足の片方を無造作に立て、その膝で支えるようにして三味線をかなでている。
 本来であれば膝を揃えて正座するか、あるいは立った状態で演奏するべきものだ。足を崩し、着衣の裾も乱れたその姿は、いわばひどく不調法なそれで。
 だが、紡ぎ出される旋律の見事さは、それを補ってあまりあった。
 聞く者とてない深夜の廃寺で奏されるには、惜しすぎるその音色。
 高く、時に低く響きわたる糸の響きは、けして夜の大気を乱すことはなく、波紋のごとく広がり、溶け込んでゆく。沁みわたり、降り積もるかのような音の連なりが、ばちを操る手元から生み出され ――
挿絵1  ふ、と。
 無心に奏でていたかに見えた弾き手が、その手を止めた。
 ひときわ高い一音の余韻を残し、唐突に曲は途切れる。
 うつむいていた顔が、静かに持ち上げられた。月光を浴びたその面差しは、ぞっとするほどに、白い。
 臈たけたと表現するのが相応しい、冷たく整った容貌。視線を巡らせるわずかな動きにあわせ、長い黒髪がさらりと揺れた。無意識の仕草で持ち上げた長い指が、落ちかかった髪を掻きのける。その動きであらわになった目元に、泣きぼくろの覗くのが、どこか艶めかしさすら感じさせて。
「……どなたか、いらっしゃるのですか」
 薄い唇を割ったのは、男の声だった。
 上げた瞳に浮かぶ、硬質な輝き。線の細い、ややもすると女性かとも思われかねないその姿が、紛れもない男の空気を身にまとう。
 だがそれは、けして粗野さを感じさせるといった意味合いではなかった。
 表情を消した清冽な眼差しで、の下闇を見はるかす。
 重なる枝葉に月光をさえぎられ、木立の奥は墨を落としたかのように深く、黒く塗りつぶされている。文目も分かぬ闇の底、獣の瞳を持つ者でもなければ、一歩を進むことすらできぬようなそこに、確かに何者かの息づかいが感じられた。
 夜も更けきったこのような折りに、好んで歩む人間などそういるものではない。ましてこの廃寺は、街道からしばらく分け入った場所に建っている。道を失って迷い込むにはいささか不自然だったし、最初からここを目的としているにしては、灯りひとつたずさえていないのが不信感を煽る。
 しかし……
「邪魔ぁ、しちまったかね」
 闇のむこうから応じたのは、そんな、どこか間延びしたように聞こえる声だった。
 続いて落ち葉を踏む音がして、ひとりの人物が月明かりの下へと姿を現す。
 うっそりと歩み寄ってくる影は、思わず見上げるほどに丈高かった。一段上の位置に座っている青年が立ち上がったとて、なお目線を合わせるのがせいぜいか。
 上背にみあった見事な体格をしているのが、暗がりでもはっきりと判った。腰に刀を差している。だが、まっとうな侍とはほど遠い、崩れた雰囲気をも漂わせていた。主君を持たないはぐれ浪人か、あるいはもっとやっかいな野盗あたりだろうか。
 警戒する空気を感じたのか、大男は少し距離をあけて立ち止まる。
 そうして彼は、濡れ縁の青年へと、笑いかけた。
「できれば、続きを聞かせてほしいんだがな」
「…………」
 屈託のないその物言いは、深夜の廃寺などには似つかわしくない、のんびりとしたそれで ――


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