その身に負った傷の回復が、異常に早いと気づいたのは、はたして幾つぐらいの頃だっただろう。もとより正確な年齢など、当時はとうに定かではなくなっていたのだけれど。
少々の打撲程度なら一日と経たずに変色も痛みも消え、ざっくりと深く切れた創傷も、三日もすれば膿むことすらなく乾いた
瘡蓋を残す程度。衛生的でもなければ、絶対的に栄養の足りていない生活を続けている中で、それがけして普通のことではないのだと、悟ったのはいつだったか。
劣悪な環境で生きていくのにはひどく便利が良い、しかし下手な人間に知られては面倒きわまりないその体質が、いったいなにに由来したものなのか。しばらくは疑問に思っていたものだ。
だがある日のこと、たまたま虫の居所が悪かった地廻りによって斬りつけられた腹の傷は、その深さとは裏腹に奇妙に出血が少なくて。うち捨てられた場所で死を覚悟した己の目に映ったのは、生々しい傷口からのぞく、鮮やかな銀色のきらめき。
ああ。これは確か、あの時の、と。
痛みにかすむ頭でぼんやりと、かつて目にしたものを思い出したとき、おぼろげながらその理由を理解した気がした。
それから数年。
ひょんなきっかけから王宮などという、とうに縁がなくなったはずの場所へと出入りするようになり、予測に過ぎなかったそれに、確たる保証を与えられた。
それでもいまだ謎は多く、知らされたことはごくわずかでしかなかったけれど。
* * *
深い森に覆われた山中へと、その日も破邪を行うべく派遣された。
いつもと同じように大剣をふるい、妖獣どもを
屠ってゆく。セフィアールの細剣を使うことはしなかった。そうすることは、何故か自分にとっては負担を感じさせるからに他ならず。しかし騎士団に所属する者たちは ―― 面と向かって問うたことはないのだが ―― そうでもないようだった。けれど自分は細剣をとって破邪の異能を行使するたびに、ただ剣をふるう以上の倦怠感と、そして本能的な危うさを感じるのだった。立ちくらみにも似たそのけだるさと、どこか底知れぬ禁忌に触れるかのような感覚を厭うて、もっぱら鋼製の大剣を愛用する。そんな己を他の騎士どもは、口を揃えて野蛮だ、洗練されていないなどと評した。
もっとも、そんなことなど、心底どうでも良い。他人から何を言われようと、知ったことではなかった。自分はただ、自分の為すべきことを果たしていればそれで良い。ただそんなふうに思って日々を過ごしていた。
耳を傾ける価値があると思える言葉は少なく、それを口にする人間はわずか五指にも満たぬほど。それでも別に、どうとも思いはしなかったけれど。
ただ与えられた立場と異能に対する興味は少なからずあり、図書室の文献を読みあさるのはそれなりに面白かった。たとえ求める情報はほとんど得られなかったにせよ、知識が増えていくことは純粋に楽しかった。
どうせ読み書きもろくにできぬ、下町上がりのならず者よとあなどってくる
輩の用意した、駆け出し向けのお粗末な講義など糞食らえ。いささか腹立たしくはあるが、こればかりは感謝してやっても良いかと思える、幼い頃に詰め込まれた教養の数々は、膨大かつ高度な内容の王宮大図書室の蔵書を読み解くのに、ずいぶんと役立ってくれたから。
そうやって、知識を得られる立場にあること。そして子供の頃わずかな間だけだったとはいえ、基礎教養を得るための、教育を受けられる特権を享受していた身の代償。民のために剣を取るということは、そういった形で国税から借りたものを返す義務があるからだと、そんなふうに納得することができていた。
―― ああ。そういえば最近になって、人知れず学んでいた行為に連れができたか。
妖獣の痕跡を求め茂みを掻き分けながら、ふと唐突に思った。
これもいつものごとく、単独行動の真っ最中のことだ。知識的にも肉体的にも足手まといにしかならぬ他の騎士たちとなど、行動を共にする気はさらさらない。いちいち判断の理由を問われるのはうっとおしいし、説明したところで異を唱えられるのがせいぜいだ。それぐらいなら最初からひとりで動いた方が、よっぽど話が早くて有意義だから。
乾いた落ち葉の上に散らばるのは、まだ新しい生き物の糞。尋常な野生動物のそれと異なるのは、色や形、臭いを観察すれば明白だった。折れた枝と表土の乱れを頼りに痕跡を追うのは、生活のために狩りをした経験がある者なら誰にでもたやすい。だが奴等にはそんな簡単なことすらできないのだ。
地形を読み取り、風の流れを確認して、妖獣の向かった先を予測する。
これぐらいは説明不要でついてこれる相手でなければ、とそう考えて、再び先の人物が脳裏に浮かぶ。
しばらく王都を離れていた間に、新たに
破邪騎士団へ入団していた、同年輩の若者。
王太子自らが
見出したという彼、アーティルトは、自分と同じように平民階級の出身と言われていた。しかも片目を失い言葉も話せぬという、本来ならば一般兵としての兵役も免除されるだろう、不具の身の持ち主だ。しかしその戦闘能力は王太子のお墨付きだった。どうやら教養もそれなりに備えているらしい。声が出せないこともあって詳しく語るのを聞いたことはなかったが、しばらく共に時を過ごせば、その察しの良さや打てば響くような反応が、充分に優秀さを教えてくれた。他の者が見向きもせぬような書物にも手を伸ばし、様々な知識を得ることに熱心で。しかも口がきけないから、必要以上にわずらわしいおしゃべりを聞かせてくることもない。
だから、あの男がわざわざ伝えようとすることであれば、注意を向けてやっても良いかもしれないと、そう思った。少なくとも、必要だった可能性のある有意義な発案を、己の怠慢で切り捨てるといった愚かな真似をさらすなど、我慢ならなかった。
そんなふうに考えたから、面倒だったけれど指文字を学んでみた。
そうして時おり交わすようになった会話は、やはりそれなりに満足のいく内容だった。一を語れば十を呑み込むし、綴られる言葉は簡にして
要を得ている。
他の騎士どもも、あれぐらいの水準にあれば良いものを、と。
風上から聞こえてくる喧騒に、鼻を鳴らしつつ毒づいた。
あの様子では気配にさとい妖獣どころか、普通の動物でさえ即座に逃げ出してしまうだろう。
風向きと地形から考えて、妖獣が向かう方向は ―― と考えを巡らし、その先の風下へと歩を進める。もちろんのこと、枯れ葉が音をたてるような足運びはしない。
片方が丘のように盛り上がり、逆側は雑木林の中へ深く落ち込んだ崖道を、上から見下ろしてしばらく待った。腰の大剣を抜いて手にぶら下げ、気配を殺して耳をすます。
やがて、口許に小さく笑みが浮かんだ。
勢子となった騎士たちに追われ、崖の道を近づいてくるものがある。足音とも異なった、重いものを引きずるような低い響き。
間もなく視界に入ったのは、巨大な芋虫だった。二頭立ての馬車ほどもある薄黄色い肉の塊が、全身を波打たせるようにして這い進んでくる。その速度は見た目に比して意外なほど速かった。
口のまわりを、花弁のような放射状の突起が囲む。全身を包む皮膚は、
鞣した皮革のように、丈夫でかつ厚いはずだ。普通の剣で貫くのはまず難しいと、そう言われている。しかし ――
ぺろりと唇を舐め、跳躍しようと膝を折った瞬間だった。
唐突に背後に気配が生じた。今までまったく気づかなかったそれに、思わず息を止めて動きを中止する。不用意に過剰反応はしない。いつでも攻撃できるように身構えたまま、背中ごしに様子を探る。
無言のまま近づいてきたそれは、音もなく傍らに並んだ。視界に入るのは見慣れた
青藍の制服。掲げられた左手、象牙色の五本の指が素早く確実に動かされ、はっきりとした意図を形作る。
『 ―― ここは、狭い』
前置きも余計な修飾もない、ただ事実だけを告げる指文字。
『先に、広場。そこで』
下手に暴れられて崖下に落ちては厄介だ。自分が落ちるのも危険だし、妖獣がそうなった場合にも追うのが格段に面倒くさくなる。だから相手をするなら、充分な広さの確保できる場所が望ましい。
それらの理由をすべて省略した一方的な提案だったが、十全に理解して立ち上がった。
どうして彼がここにいるのか、広場の存在をいつ確認したのか、それを問うこともしない。そんなものは些末だからだ。
剣を持ったまま、相手を追って木々の間を走った。前を行く背は、森に慣れた軽い身のこなしを見せている。
すぐに目的の場所へとたどり着いた。丘と崖に挟まれているのは変わらないが、道幅はしばらくのあいだ四倍ほどになっている。そして妖獣はいままさに、その場へと這いこもうというところだった。
さらに先へと向かう広場の出口を、細剣を抜いたアーティルトが押さえた。銀の刀身に、破邪の淡い白光が宿る。
ロッドは大剣をかまえて妖獣を待ち受けた。余裕を隠さない、傲岸な笑みを浮かべたまま。
この巨大な妖獣をも、大剣一本で下せるとの確固たる自負がそこにはある。
その気迫を感じたのか、妖獣が進むのをやめた。目のようなものは存在しないが、なんらかの感覚器官を備えているのだろう。口のまわりに生えた突起が、不規則な動きで蠢いた。白濁した涎が地面にしたたり落ちる。
乗馬靴の底がざり、と音を立てた。
呼吸をはかる一瞬。
ロッドは切っ先から妖獣へとつっこんでいった。腹の底から発せられる気合いが、大気を重く響かせる。
鈍く光る鋼の刃が、厚い皮膚へと食い込んだ。普通ならば強靱な外皮に阻まれるはずのそれは、深く肉を裂いて沈み込む。
苦痛に跳ね上がる巨体から、素早く剣を引き抜いて飛びずさった。発声器官は存在しないのか、苦鳴は上がらない。ビチビチというよりは、ずしんずしんと重い響きをたてて暴れる姿を、一歩身を引いて観察する。そして隙を見すましてもう一撃。先の傷に重なるようにした斬撃は、妖獣の肉体の半ば近くまで達した。のたうつ身体から悪臭を放つ体液が噴出する。
「そら、もう一丁!」
自らを鼓舞する叫びとともに、再び大剣を振り上げる。
決着はもはやそこに見えていた。
残りの破邪騎士たちが道なりに追いついてきた頃には、既に妖獣は弱々しく痙攣するばかりになっていた。
アーティルトはいまだ警戒を解かぬまでも、塞いでいた退路をあけて広場へ歩み入っており、ロッドは逆に大剣をぶら下げたまま、崖近くへ移動して異臭のない新鮮な空気を吸っている。
遅ればせながら状況を見てとった騎士たちは、成果が出ている以上ふたりの先走りをいさめることもできず、煮え切らない態度で言葉を濁していた。
そんな様子に喉の奥で笑ったロッドへ、騎士のひとりがむっとした表情を見せる。
「おい、お前……っ!」
腹に据えかねたようにずかずかと広場を横切ってくる。そうしてロッドのすぐ近くに立ち、その肩を乱暴につかんだ。
面倒くさげに振り返ったロッドは、しかし次の瞬間、顔をしかめて舌を打つ。
「どけ!」
伸ばされた手を逆につかみ返し、その身体を引き倒すように力を込める。騎士は反射的に抵抗した。
「阿呆! 避けろッ」
ただならぬ叫びに全員がそちらを注目した。ただひとり、アーティルトだけがその言葉に反応する。
小刻みに震えながらも鎌首をもたげた妖獣が、円形の口を開いていた。その中央から、濁った黄色い何かがぐうっと顔を出し ―― 次の瞬間、爆発的に伸びる。その先にいたのは、互いに相手の腕を引き合う二人。
渾身の力で騎士を引きずり倒したロッドは、反動で大きく姿勢を崩していた。
たたらを踏んだ足では、鋭く伸びる舌らしきものを避けきれない。
覚悟を決めた瞬間、鈍い衝撃が横合いから彼を襲った。
体当たりで押しやられた身体が、間一髪で危機から逃れる。顔のすぐ脇でべしゃりと木の幹に貼りついた舌は、しゅうという音とともにすえた臭いのする煙をあげた。ごつごつとした固い樹皮が、焦げたように黒ずんでひび割れてゆく。
しかし安堵の息をつく間もなく、足下の感触がなくなった。
「 ―― ッ!?」
移動したはずみで踏み外したのか、それとも土が崩れたのか。
自分を救ってくれた相手と諸共に、ロッドの身体は切り立った木立の中へと落ちてゆく ――
* * *
意識を失っていたのは、そう長い間ではなかったはずだ。
枝葉を折りながら急傾斜を転がり落ち、強い衝撃に見舞われたことが思い出される。そこここから襲ってくる痛みを口の中で噛み殺しつつ、ロッドは骨折などの急を要する怪我がないか全身に意識を向けた。四肢は問題なく動く。ゆっくりと上体を起こした。大丈夫だ。何も問題はない。
しかしそこで鼻をつく強い血臭に気づいた。濃い。かなりの出血量だ。だがそれは自分のものではない。
はじかれたように周囲を見わたした。葉の
深緑、落ち葉と木の幹の茶色。それらに囲まれて鮮やかな青藍の塊が転がっている。
「おい! アーティルト!!」
一挙動で立ち上がった。己の痛みなどどこかへ飛んでいる。邪魔な茂みを手荒くかき分け、倒れた身体へと走り寄った。
そうして、思わず息を呑む。
斜面に背を預けるようにして転がっていたのは、黒髪で隻眼の唖の若者。ロッドをして教養と剣の伎倆を認めさせうる、数少ない存在。その彼の、右腕が。
言葉にならぬ呻きが、口元を押さえた手のひらの下でくぐもった。
傍らに落ちている血染めの大剣は、他ならぬロッドの持ち物だった。斜面を転がり落ちる中で、いつしか手放したそれが ――
落とすように地面に両膝をつき、そっと手を伸ばす。どっぷり血を吸った袖を
小刀で切り取り、腰に下げていた革袋の水で傷を洗う。
露わになった傷口は、酷いものだった。
刃が、手首と肘のちょうど半ばあたりで、完全に骨を断っている。
いわば残されたわずかな皮膚と肉で、かろうじてつながっている状態だ。
さしものロッドも、声をなくす。
今回の破邪に、王太子は同道していなかった。そしてここは王宸ワで馬でも二日はかかる土地だ。
命には、関わらないだろう。たとえ王族の助けがなくとも、破邪騎士セフィアールは総じて苦痛に強く、傷の治りも常人より早い。化膿や感染症もほとんど起こさないから、適切な処置さえしてやれば、これほどの重傷でもまず死ぬことはない。実際、既に出血は止まりかけている。
しかし、この腕は。
神経を、筋を、そして骨を断たれたこの右腕は、もう ――
傷口に触れられたことで、意識を取り戻したのか。
アーティルトが大きく息を吸い込んだ。ひくりと身体を痙攣させ、そうしてゆっくりと眼帯に覆われていない左目の目蓋を持ち上げる。
反射的にか身体を起こそうとし、果たせない事実と痛みに表情を歪めた。しかしその喉から苦痛や疑問の声が漏れることはない。状況を見定めるかのようにのろりと視線が動かされ、自らの右腕へと落とされる。
どちらからも、言葉は発せられなかった。
思いのほか冷静だと感じられたのは、彼が見苦しくわめき散らすことができないからか、それとも単に実感がわいていないためか。
しばし無言で使いものにならなくなった腕を見つめていたアーティルトは、やがて深く息を吐き出した。震える左手が右の上腕をつかみ、強く握りしめる。
それは、騎士として利き腕を失うことに対する、覚悟であったのか……
ロッドは、ただただ無言で唇を噛みしめていた。
目の前にいるのは、今まさに騎士生命を失おうとしている男。その原因はロッド自身の油断であり、また手にしていた得物のためでもあり。
そして彼は紛れもなく……ロッドがその価値を認めうる、数少ない貴重なひとりであった。
ぐっと強く拳を握りしめる。口の中に血の味が広がった。
落ち着け、冷静になれ。取り乱したところで何になる。言い聞かせる己の理性を、感情と金臭い味が邪魔した。
取り乱してどうなる。いまできることは何だ。謝罪か、悔いる言葉か。そんなものが何の役に立つ。手当てだ。治療だ。そうだ、それしかないだろう。だが破邪騎士の中でもずば抜けた回復力を持つ自分は、治療に使えるような道具など常備していない。この身に流れる血筋ゆえに、王族の助けすら滅多に必要としない己だ。持っているのはせいぜい、傷口を縛る布ぐらいか。
ああ、そうだ。自分には王族の助けなどいらないのに。だから庇われる必要などなかったのだ。負傷したのがこの身であったなら、傷口を固定して、あとは余人の目に触れないようしばらく隠しておくだけですんだのに。
そうだ、この身にセイヴァン王家の血を引く、自分であったならば。
ぎり、と奥歯が軋んだ音をたてる。
セイヴァン王家の血を引く者は、破邪騎士に特別の恩恵をもたらす。手首にはめた腕環の宝珠が鮮血のような真紅に染まるとき、その表面に触れた騎士は、急速に回復するのである。使いすぎて枯渇した破邪の術力も、そして傷つき疲れ果てたその肉体さえも。
もしも、国王か王太子がこの場にいたならば。そうでなければせめて、せめてあの腕環がこの手にあったならば。けして認める訳にはいかない、けれど消しようもなくこの身に流れている王家の血が、あの腕環を発動させ、アーティルトの傷を癒すことができただろうに。
あの腕環の宝珠。透き通った水の色の石。それは癒しの力を帯びる時だけ、真っ赤に染まる。まるで、血を吸ったかのように、鮮やかに赤く。
「血を……吸ったよう、に……?」
その時、何かが心に引っかかった。
鮮血に酷似した、宝珠の輝きが脳裏をよぎる。癒しの力を持つ、王家の血。騎士たちを癒す際に、やつれの色を見せる王族のふたり。そして……破邪の力を使うたび、倦怠感に襲われる自らの経験。
一見無関係のような、それでいて関連しているかのような事柄が、バラバラに脳内を駆け巡る。
血筋。真紅。舌を刺す金臭い味。王家の血。癒しの力。赤い赤い、血の色の宝石。
「……血筋……王家の、血……血か……!?」
閃いたのは、はたして直感だったのか、それとも願望だったのか。
思いわずらう時間は無駄だった。ただ可能性を思いついたその瞬間、行動していた。
持ったままだった小刀を、広げた己の手のひらへとためらいなく突き立て、思いきりひねり、えぐり抜く。
鮮血がほとばしった。生暖かいそれは、激しい痛みと共に鼓動にあわせてどくどくと流れ出る。したたるほどの赤い液体を、アーティルトの傷口へと落とした。一度水で清められていた傷が、再び真紅の血液にまみれてゆく。
突然の蛮行にアーティルトは仰天したようだった。とっさに身を起こそうとして叶わず、わずかに身体を揺らすにとどまる。
あふれる血潮は深く口を開けた傷を満たし、さらに幾筋もの流れを作ってアーティルトの指先へと伝い落ちていった。
そうしてそのうちの一筋が、中指の指輪へと到達する。
セフィアールの証しと言われる、銀線を寄り合わせたかのような精緻な細工の指輪。抜けることも回ることもないそれへとロッドの血液が触れた瞬間、投げ出されていた腕がひくりと動いた。
神経も筋も断たれたはずの指が、かすかに震えている。
そうして、指輪はあくまで輝いていた。血にまみれ汚れるはずのそれは、しかしまったく輝きを失わず、しかも指輪を越えて血が指を汚すこともない。
指輪が ―― その銀色の金属が、貪欲に血液を吸収しているのだ。
そのことに気づいたロッドは、未だ出血を続ける手のひらでアーティルトの右手を指輪ごと握りこんだ。そうしてもう片手で、傷口を閉じ合わせるように押さえつける。
効果は、劇的だった。
王族による癒しを受けたことは、アーティルトにもあった。幾度も経験してきたそれと、現在自分の身に起こっている現象が共通しているのに、彼はすぐ気がついたようだ。混乱の色をその目に宿しながらも、抵抗を止めて身を任せてくる。
「 ―――― 」
やがて。
ロッドの手のひらからの出血は止まった。
そうして、切断されかけていたアーティルトの腕は、完全に癒着していた。
傷口はいまだ生々しい一筋をさらしてはいたけれど。けれど、紫色に変じていた指先には、いま確かに生きた温かい血が通っていた。その手のひらは本人の意思に反応して、ゆるやかにだが開閉した。
深い深いため息が、どちらからともなくこぼれる。
ロッドは横たわるアーティルトの胸元に力なく額を伏せ、アーティルトはぼんやりと宙を眺めながら、指先をすり合わせるようにして失っていたはずの感触を確かめている。
どちらも無言のままだ。
説明をすることも、それを求めることもなく。
傷つけた謝罪をすることも、救われた礼を告げることもなく。
ただただ、無言で。
けれどふたりの胸中には、多くのことが渦巻いているはずだった。
驚愕、疑問、確信、困惑 ――
様々な感情が入り乱れ、それぞれを深く悩ませる。
それでも……
救われたものの貴重さは、かけがえがなかったのだ、と。
それだけは双方ともに、心底から理解していたのだった ――
* * *
―― 思い返せば、きちんとした事情を教えられるのは、これが初めてだ。
エドウィネルの王位継承の儀を目前にして。コーナ公爵領から帰参したロッドら三人の破邪騎士とコーナ公女フェシリア=ミレニアナは、間もなく王位を継ぐその人物から、驚くべき話を聞かされることとなった。
地下に眠る『船』と呼ばれる不思議な施設。そこに記録された、数々の秘められた過去。
妖獣の発生した原因と、
経緯。
そしてセフィアールという存在の始まりと、人為的に条件付けられたその性質。
ある部分は想像を絶する未知の事柄であり、そしてある部分はうすうす察していたところではあった。
特に王族とセフィアールの関係については、ロッドにとって自らの経験と推測から組み立てていた仮説と、そう大きく外れるところはなかった。
たとえばあの腕環は、癒しの技を必要とするたびに王族の肌を傷つける必要がないよう、用意された道具だと予測していた。いったいどういう原理なのかまでは判らなかったが、皮膚を切開することなく血液だけを取り出して、なおかつ一滴の無駄も生じないよう、宝珠の中に蓄えておく機能を備えているのだろうと。あるいは取り出された血液が外気にさらされ、凝固や劣化することを防ぐ効果もあるのかもしれない。
実際あれは便利な代物だ。国王も王太子も、セフィアールの能力は持ち合わせていないのだから。彼ら自体は怪我をすれば掠り傷でも治るのに多くの時間を必要とし、許容以上の傷を負えば、あえなく死んでしまう尋常の人間だ。その血に宿る癒しの力も、王族自身にはなんの効果ももたらさない。
そう、王族の血とセフィアールの能力をあわせ持った、ロッドひとりを除いては。
そうだ、
先から不思議だったのは、何故に王族は自らセフィアールの能力を求めようとしないのか。祖なりしかつての王エルギリウス=ウィリアムは、何を思って破邪と癒しの力を二つに分けたのかだった。
だがその疑問も、いま説明されて納得がいった。
あくまで『実験動物』に過ぎなかったセフィアールは、けして完全な存在ではなかったらしい。なんでも『移民』とやらが、捕らえてきた先住民族を素体として作成した数多の実験体のうち、まともに機能したのは、エルギリウスただ一人だったのだという。
その他の者達は、植え込まれた植鉱物セフィアによって、あるいはその血肉を喰い尽くされ、あるいは再生能力の暴走によって自らが化け物 ―― 妖獣と化し、またあるいはいくら傷ついても死ねぬ苦痛から徐々に正気を手放していった。
そんな元仲間達を己が手に掛けることで救ってやったエルギリウスは、先住民族を人とも思わぬ『移民』のやり口に怒りをつのらせてゆき、やがて反旗を翻した。
優れた機械文明を持つが故に、それなくしては無力だった彼らを殺戮し、生き残った者は厳しい荒野へと追いやって滅亡させた。自分達の世界を自分達の手へ取り戻すために。
しかし世界には、未だ妖獣が数多く存在していた。大陸や海中などの各地に墜落した『船』の残骸からも、いつまた新たに這い出してくるか判らない。故にセフィアールの能力を消滅させてしまうわけにはいかなかった。ただひとり生き残った、罪深き造物主殺し。そんな実験体の持つ忌まわしい能力でも、確実に、絶対に、後世へ残す必要があったのである。
だから、暴走を防ぐために力を二つに分けた。また癒しの血を持つ者の肉体を傷つけることなく、他者に移植した
植鉱物に血を供給できるよう、『移民』の残した施設を使って腕環を開発した。
力が強すぎるために破滅をもたらすのであれば、たとえ多少なりと弱く不便になっても、確実に運用できる方法を考えた結果が、今の
有り
様だったのだと。
それを聞いて、自身もまた稀有なる成功の一例だったのだと、初めて知った。
セフィアを培養しうる血肉を持つ苗床に、死に瀕した破邪騎士の肉体を見捨て、強引に寄生してきた植鉱物。結果的に祖王ほどの術力こそ発揮しなかったものの、ロッドはいまだ喰い尽くされることもなく、妖獣と化すこともなく、そして発狂することもなかった。それは本能的に感じていた、術力をふるう事への
躊躇いも大きかったのだろう。もしも思うがままに破邪の力を使っていたならば、あるいは今ごろ生きてはいなかったかもしれない。
国王は、詳しいことなど何も教えてはくれなかった。
あの老人はただ、セフィアに喰われるかもしれなかった自分に老いた己の血を削って与え、そして破邪の力を使おうとせぬやり方を、いさめもせず黙って見守っていただけだった。
なにも語らず、教えず、謎は謎のままに残して逝った、実の祖父。
そうだ。はっきりと言葉に出しては、祖父と孫という、そんな名乗りすらしないままだった ――
同じように、アーティルトもまた積極的に事情を聞こうとはせず、ただ一を聞いて十を知るがごとくにふるまっていただけだった。彼も彼なりに、見聞きしたものと書物などで得た知識をもとに、ある程度の仮説は立てていたのだろう。だがそれを形にすることはなく、もちろん誰かに告げることもなく。
いまこの時、王太子から教えられるまで、ただひっそりと沈黙を守っていた。
それはなにも無関心や、責任逃れからくる行動ではなくて。
世の中には、形にしなければ判らないことが、たくさん存在する。
いき違い、すれ違いは数多く、そこから生まれる悲劇は枚挙にいとまがない。
それでも ――
語られないが故の優しさもあるのだ、と。
優しさ故に語りたくない、そんな事実もあるのだと。
我が身に流れる血の持つ過去に、苦悩する王太子を前にして。
最後までそれを語らぬままに逝った、国王の最期を想って。
ロッドは目を伏せて、しばし思いを馳せたのだった。
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