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 式典の朝は、夜明け前からすべてが始まった。
 星の海ティア・ラザの水面を、薄もやがたなびく黎明の時刻。一艘の小船が王宮内の桟橋を離れる。その桟橋を使うことが許されるのはただ一人。そしてその桟橋が使用されるのもまた、一年にただ一度、この朝のみだ。
 波ひとつない静かな湖面を、小船は滑るかのように進んでゆく。
 甲板に見えるは、セイヴァン国王の姿。そしてその背中を守るかのように、セフィアール騎士団団長が一歩控える。
 舵を取る者の姿は、薄闇に隠されてはっきりとは見えなかった。他にも数名、立ち働く人間はいたが、誰もがまるで影が揺らめいているかのような、ひっそりとかすかな気配だけを身にまとっている。
 やがて、行く手に現れる小島の影。
 薄闇の中にぼんやりとした陰影が浮かび上がる。
 張り出した桟橋に横付けになった小船から、国王が島へと降り立った。後に続く者は、いない。
 国王はゆっくりとした足取りで歩を進める。
 ごくわずかな木立と、小さな石造りの建物のみが存在する小島だった。建物にも、装飾めいたものは一切存在していない。切り出した石材を積み上げただけの、質素とさえいえる建造物だ。
 だがそれは、セイヴァン建国の王エルギリウス=ウィリアムによって建てられた宮殿みやどのだった。年に一度のこの日、代々の国王のみがそこを訪れる。
 その内部でどのようなことが行われるのかは、誰にも知られていない。
 セイヴァン建国より300年。
 それは毎年欠かすことなく続けられてきた、儀式 ――



 楽園の守護者  第九話
 ―― 宴の夕べ ――  第二章
 ― Makoto.Kanzaki Original Novel ―
(2001/11/21 11:40)
神崎 真


 水平線を光の筋が走り、やがてまばゆい曙光がゆっくりと差し込めてきた瞬間、岸辺を埋める民衆の間から大きな歓声が沸き起こった。
 それまでの、針が落ちる音すら聞こえるような、張りつめた静寂を取り返す、活気に満ちあふれたどよめき。
 輝き目を射る朝陽をものともせず、ティア・ラザ沖に浮かぶ小島を見はるかし、建国の英雄とその流れを汲む者に感謝の念を捧げる。己と愛しい者が無事に一年を過ごせたことを喜び、そしてこの先の一年もまた、無事に過ごすことができるようにと祈り願う ――
 やがて、光に埋もれる小島の方向から、一隻の船が現れる。
 帆に風を受け、ゆっくりと岸辺へ向かってくる小船。帆柱に掲げられている旗の意匠は、交差する二本の細剣と枝を広げる大樹と宝冠。セイヴァン王家の紋章だ。
 夜明けと共に、島での儀式を終えた国王の船は、王宮の桟橋ではなく、城下町のそれを目指す。
 市街中心の港へと上陸した国王は、そこで貴族や騎士達に迎えられ、都の大通りを王宮へと向かうのだ。年に一度姿を現す国王を一目拝さんと、民達は大通りの両側へあふれんばかりに詰めかける。
 その間を進む国王の馬車とその護衛、後ろに続く有力貴族達の列がとぎれる頃には、昇る陽も完全に水平線を離れ、上がり始める気温に誘われるように、人々もお祭り騒ぎを開始するのだった。


「ほとんど見せ物だな」
 耳元で聞こえたささやきに、カルセストはぎょっと息を呑んだ。
 セフィアール騎士団の面々は、桟橋のたもとで向かい合って二列に立ち、上陸する国王を迎えていた。全員が銀色の鎧と細剣レピアで武装し、青藍の外套をまとっている。完全装備とも言えるその姿は、同時に妖獣を相手に剣を振るう彼らの、盛装であり正装である。背筋を伸ばした姿勢の良い立ち姿は銀と青とで彩られ、繊細な細工を施された鎧が陽光を浴びて燦然さんぜんと輝く。
 三十名余の騎士達がそうして一同に会するさまは、見る者の目を奪うほどに荘厳で華麗なものだった。
 向かい合う列の後尾側に立ったカルセストは、唯一己より下手に立つ男を、そっと横目で見上げる。
 カルセストの身長もけして低いそれではないのだが、それでも相手の顔を視野へ入れるには、かなり上を見なければならなかった。かろうじて見えた横顔には、しかし表情と呼べるようなものはまるでうかがえない。
 まっすぐに前を見つめる、夏の海を思わせる深蒼の瞳。よく陽に焼けた肌。固く結ばれた薄い唇が、その意志の強さを示している。
 はたと気付くと、向かいに立つ騎士達が厳しい目を向けてきていた。
 この大切な式典のさなかに、なにを落ち着きない素振りをしているのかと、無言でとがめたててくる。慌てて視線を前に戻したカルセストの耳に、ふたたびかすかな呟きが届く。
「一人ではろくに歩けもしねえ老いぼれが、まったくご苦労な話さ」
 思わず振り返りかけたが、かろうじてそれはこらえた。
 だが自分一人だけが聞いたのだろうその言葉の内容に、血の気が引くような心地を味わう。
 この男の無礼な物言いにはいい加減慣れたつもりだった。だがそれにしても、これは不敬が過ぎた。
 彼らの目の前を、上陸した国王がゆっくりと歩んでゆく。金糸銀糸でずっしりと刺繍された長衣と、豪奢な宝飾品とで飾り立てられたその肉体は、過ぎる歳月にむしばまれ、衰えを隠せないそれだ。握りに大粒の宝石をはめ込んだ杖をつき、すぐ傍らにはいつでも支えることができるよう、側近が控えている。
 こうして間近に見れば、その老いは確かに明らかだった。
 だが ――
 国王が馬車に乗り込むと同時に、騎士達はいっせいに動いた。訓練された一糸乱れぬ足どりで、それぞれの馬へと歩み寄り、鞍上あんじょうへ身を落ち着かせる。国王の馬車を取り囲むように、ある者は先触れとなり、ある者は脇を固め、そしてある者は後ろへと続いた。それらそれぞれの位置もまた、事前に定められた、無駄のない配置だ。
 揺れの無いようゆっくりと進む馬車から、国王が時おり民衆へと手を振る。
 警備の兵に押しとどめられる民達からは、その容貌さえもはっきりと見て取ることはできまい。それでも彼らは、自らの統治者たる老人へと、熱狂した声を投げかけていた。
 祖王エルギリウスより十数世代。三百年の時を経てもなお、王家の血筋は連綿と保たれ続けている。近隣諸国の栄枯盛衰を思えば、一つの王家がそれほどに長い時を統治者としてあり続けたのは、驚異的と言って良かった。
 だが、どれほど野心的な臣下が現れようと、時に天災や飢饉により国民が貧困にあえぐこととなろうとも、それでもセイヴァン王家に取って代わろうと、かの血筋を廃するべきだと考えた者は、誰一人として存在しなかったのだ。
 それほどまでに、この地の民はかの王家を心の拠り所としていた。
 恐るべき妖獣に対し、対抗手段を持つ唯一といってよい存在。
 たとえ他にどのような欠陥があったとしても、それだけでかの王家は奉ずるに足る、と ――
 そして、彼らはけして、統治者としても愚昧ぐまいではなかったのだ。それはこうして市街を進めばはっきりと判る。
 整った清潔な町並み。明るい表情をした民達。
 この光景は、特殊能力にあぐらをかいた、愚かな王の元で得られるそれではない。
 そして、現国王カイザールの治世下、この国の歴史でも指折りの平穏で豊かな時代。カイザール陛下に寄せられる敬愛の念はどこまでも強く。
 たとえどれほどに老い、衰えになられたとしても、それを嗤うような人間などいるはずがなかった。むしろ、国のために力を尽くして下さったことを感謝し、誰もがその辛苦を思いやり憂えることだろう。
 それを、見せ物だなどと……っ
 騎乗している間は、それほどかしこまっている必要はない。形式的とはいえ、国王や共にゆく貴族達の護衛として馬を進めている以上、ある程度あたりを見ることは許されていた。それを良いことに、くつわを並べているロッド=ラグレーを盗み見る。
 彼は先刻と変わらぬ無表情で手綱を取っていた。
 制服の襟元はきっちりと合わせられ、半身を覆う外套マントの流れ具合も申し分ない。視線をさまよわせることもなく、すっきりと背筋を伸ばしたその騎乗ぶりは、どこから見ても文句のない立派なものだった。普段の立ち振る舞いからは想像もつかないが、今の彼はセフィアール騎士団員の一人として、民衆や貴族達の前に出したとしても、まったく問題のない姿だ。
 あえて言うならば表情の無さが気にかかるところだったが、勤勉な騎士が任務中にそういった態度をとることは、むしろ当然とも言えた。いま沿道に詰めかけている民衆達は、この男を優秀な騎士だと信じて疑わないだろう。
 だがそうでないことは、先ほどの呟きでも明らかだった。
 この男は、ある意味では非常に優秀だ。少なくとも、妖獣を相手にしたときの強さ、そして ―― これはあまり信じる者もいないのだが ―― 民達を、弱者を守ろうとするその誠実さは、カルセストとても認めていた。複雑なものは、あったが。
 しかし、礼儀作法や宮廷における儀礼、人が人として他人に払うべき当然の配慮や敬意などを、この男はどこかに置いてきたとしか思えなかった。
 普段の彼を知る人間からすれば、今の表情を消した面もちは、爆発寸前の仏頂面にしか見えない。この男の行状からして、次の瞬間にもぶち切れて、罵声をまき散らしたあげくふいと姿を消してしまうことだとて、充分にあり得るのだ。
 おそらくこの男は、国王に対する敬意など欠片も持ってはいまい。
 カルセストは、彼が騎士団に籍を置く理由の一片を知っていた。だからこそ、他の騎士達のように、彼が性に合わぬ王宮から飛び出そうとせぬことを、金や身分を目当てにしているからだとは思わない。もともと地位や名誉などクソ喰らえと放言してはばからぬ男だ。
 けれど、それでも彼の性格と宮廷という世界は、あまりにも違いがありすぎて。
「 ―――― 」
 小さくため息をついて、カルセストは視線を前へと戻した。
 前をゆく国王の馬車は、ようやく大通りの半ばを過ぎたばかりである ――


*  *  *


 長い行列が王宮へとたどり着くと、留守を預かる形で待っていたエドウィネルが、国王を出迎えた。
 そうして港から付き従ってきた貴族達との、遅い朝の会食が始まる。広い食堂にいくつもの長卓を並べ、家柄と血筋と職務と権力を配慮して定められた、厳密な席順により腰を下ろす。純白のクロスに並べられるのは、王宮の厨房が腕によりをかけた料理の数々だ。
 国王の乾杯により始まった会食では、表面上は和やかに、しかし水面下ではめったに顔を合わせることのない貴族同士の、腹のさぐり合いや駆け引きが、綿にくるまれた棘のように持ってまわったやりとりで行われる。
 どれほどの珍味やすばらしい味付けも、楽しめたものではない ―― などと考えるのは、しかし、ごく少数の人間だけのようであった。
 やがて、大広間に場を移して行われた式典も無事に終わり、諸侯達は夜の舞踏会の準備をするべく、大広間を後に散ってゆく。ある者は王都内に手配した仮の宿へ、ある者は別邸として所有している家屋敷へ、そしてある者は控え室として用意された、王宮内の豪奢な客室へと向かった。
「お疲れさまでございました」
 幾つもの続き部屋 ―― それも離宮のそれなどではなく、広大な王宮の中でも本棟の一角にしつらえられたそこ ―― を与えられたコーナ公爵とその跡継ぎは、それぞれの部屋でそれぞれの召使い達に出迎えられていた。親子とはいえ、ある程度の年齢に達した男女が同じ部屋を使うことなどありはしない。まして彼らには、その身分にふさわしく充分な数の部屋が用意されている。
 フェシリアは侍女の一人が捧げる水盆で顔と手を洗い、別の侍女から受け取った布で雫を拭った。そうして柔らかなクッションが幾つも重ねられた椅子へと、そっと腰を下ろす。
「式典はいかがでございましたか」
 戸口脇に控えたレジィが、控えめに問いをかけた。
「とても、壮麗で……圧倒される心地がしましたわ」
 フェシリアは、吐息混じりに呟いた。
 その頬は心なしか上気しており、艶やかに潤んだ瞳はどこか遠くを見るかのようだ。
 爪の手入れをしようと膝をついた侍女が、そのあまりの麗しさに思わず手を止めてしまう。後ろから髪をかしている年かさの女官が、そんな娘を叱責した。
「夜明け前から桟橋におられては、さぞお冷えになられましたでしょう。お風邪など召されなければよろしいのですが」
 心配する女官に、フェシリアは優しく微笑みかける。
「外套をきちんと着ておりましたから。軽いし、肌触りはよいし ―― 良い品を用意してくれました」
「もったいのう……」
 今回の長旅に際して、身の回りの用意を仰せつかった女官は、誇らしげに頭を下げた。
「今宵の衣装はいかがなさいますか」
 そう言う彼女の言葉に合わせ、他の娘達が素早く動く。部屋の隅に置かれた長持ちから色とりどりの衣装を取り出し、フェシリアの前へと広げてみせた。
「こちらの薄衣うすぎぬを何枚も重ねたものはいかがでしょう。透ける絹の濃淡がとても栄えるかと存じますわ」
「こちらは縫い取りが美しゅうございますよ。これをお召しになって、御髪おぐしに花を飾られれば、どんなに華やかなことか」
「それとも ―― 」
 次々と出される衣装は、どれも見事なそれだ。染めや織りの素晴らしさはもちろんのこと、意匠や仕立ての質も最高級の品々である。
 この舞踏会には国内中の主立った貴族達が顔をそろえている。まして今回の宴が、未だ独身である王太子の伴侶選びの場であることは、ほぼ周知の事実だった。故にそこには一目王太子の目に止まらんと、華麗に着飾った姫君達があふれているはずだ。
 もちろん、自分たちの主人以上に美しい姫君などいるはずはない ―― と、侍女達は心から信じ切っている ―― が、万が一にも彼女が見劣りするようなことなど、あってはならなかった。
 そんな使命感にあふれた侍女達は、衣装やそれに合う装飾品、髪を結い上げる形から化粧のしかたまで、熱心に検討してゆく。
「……公女さま?」
 やがて、ふとレジィがいぶかしげな声を出した。
「もしや御加減でも?」
 先ほどからどうもお元気がないようですが、と。
 レジィの言葉に、侍女達ははっと顔色を変えた。
「そうなのですか、フェシリア様!?」
 ある者は慌てて肩に掛けるものを探そうとし、またある者は薬湯を用意しようと身をひるがえす。
「いえ、そのようなことはありませんわ」
「ご無理はいけません。ただでさえ船旅でお疲れですのに」
 すぐにでも寝台を整えさせかねない女官へと、フェシリアはかぶりを振ってみせた。
「本当に違うのです。わたくしはただ……」
「ただ?」
「せっかく王都を訪れているのですから、少しあたりを歩いてみたい、と。そのようなことを……考えていただけで……」
 恥じらうようにおもてを伏せる。
 公爵家の姫ともあろうものが、はしたないことをと考えているのだろう。
 事実、身分ある女性が軽々しく外出するなど、けして誉められた振る舞いではなかった。
 しかし ――
「王宮内を散策するぐらいであれば、よろしいのではないのですか」
「レジィさま」
 言い出したレジィに、女官がとがめるような目を向ける。
「フェシリア様にも良い息抜きになりましょうし、それにゆくゆくのことを考えますと、多少は王宮内の様子を知っておくことも、必要になってくるのではありませんか」
 いずれは公爵の跡を継いで、フェシリアが爵位を継承するのだ。そうなれば王宮に上がることも、そこで責務を果たすことも増えてくる。その段になって、右も左も判らぬではすまされまい。
「ですが、今宵の準備がございますし」
「着付けや化粧は夕方からでも間に合いましょう?」
「それは ―― 」
 なおも難色を示す女官を、フェシリアがそっと振り返った。
「ティティス……」
 小さく名を呼び、見上げてくる。
 銀を帯びた薄墨色の瞳が、無言で訴えかけていた。
「 ―――― 」
 じっと見つめられた女官の表情が、やがてあきらめの色へと変わってゆく。


「まったく……彼女達の職務熱心さには頭が下がるが、いささか息が詰まるというのが、正直なところよの」
 肩から羽織った薄布をほっそりとした指先で持ち上げたフェシリアは、それで口元を隠すようにしてため息をついた。辛辣だが小さなささやきは、かろうじて傍らを歩むレジィの耳に届く程度に、押さえられている。
「 ―― お疲れさまでございました」
 レジィもまた、周囲の耳目には触れぬよう、低い声で応じた。
 主人の気性を知り抜いているレジィは、フェシリアが侍女達から開放されたがっていることを、敏感に察知していた。だが、ほとんどの侍女達はフェシリアをその見た目通りの、優しくたおやかな姫君だと信じ切っている。そしてその印象を崩すのはまだ早いとフェシリアが考えている以上、助け船は不自然にならぬように出す必要があった。
 無論、フェシリアとて美しく装うことが嫌いなわけではない。彼女は己の容姿が他人より優れていることを自覚していたし、身分と立場にふさわしく着飾ることで、他者に対して良い印象を与え、それが結果的に己の味方を増やすことにつながることもまた、充分わきまえている。
 故に、化粧や美容をいとうつもりはない。
 だがそれに対して必要以上に時間をかけることは好まなかった。
 彼女は己の見た目を武器にしてはいたが、それはあくまで二次的なものでしかない。
 フェシリアにとって重要なものは、情報であり、人脈であり、そしてそれらを有効に役立てることができるだけの手腕を磨くことであった。
 だからこそ、せっかく王宮に滞在できる短い時間を、部屋に閉じこもって過ごすなど愚の骨頂というものである。
 少しでも見聞を広め、かなうものならば、今後に役立つ伝手つてのひとつも作っておきたい。それが無理ならば、王宮に出入りしている人間に顔を覚えてもらうだけでも、次回訪れたときの足がかりとできる。
「それにしても、いつもながら女性の盛装とは、実に手間暇のかかるものなのですね」
 レジィがしみじみと嘆息した。
「他人事ではございませんわ」
 一歩下がって後ろに続いていた侍女 ―― リリアが可笑しそうに答える。
「レジィさまとて、れっきとした侯爵家の姫君。あの程度の美容術は、本来なさって当然です」
 爪を磨いたり産毛を処理したり、はては卵の白身を使った肌の手入れやら、海藻の煮汁で髪を洗うなど、女性が美しさを保つためにかける労力は果てしがない。レジィのように髪は洗い放し、陽には焼けっぱなし、唇にべにのひとつもささすじまいなどとは、貴族女性の風上にも置けぬ所行である。
「まあ……私の場合、いくら装ったところでどうしようもないからな」
「そのような、ことは……」
 自嘲するようなレジィに、リリアは笑みを消して言葉を呑み込んだ。
 レジィの容貌は、けして醜いそれではなかった。万人に訴えかけるような華やかさこそないものの、すっきりと整った、充分に異性からの好感を得られるべき面差しである。そんな彼女を一見男性であるかのように見せているのは、あくまでその装いや立ち振る舞い ―― 胸元でぶっつり断ち切られた短い巻き毛や、男物の衣服、歩幅の広いかっちりとした身のこなし ―― などなのである。
 背中を覆うほどに髪を伸ばし、絹を身にまとい、紅や白粉おしろいいたならば。
 陽光と土埃と潮風に荒れた肌、部下達に指示することで鍛えられた掠れ声、そして剣を振るい続け固くなった手指。
 それらはひとたび剣を捨て、侍女達にかしずかれる生活を始めたならば、いくらでも取り戻すことができるものだった。公爵家とも縁深い彼女の生家は、それが可能なほどには裕福な名門である。
 だが ――
 良く陽に焼けた、レジィの端正な面差し。形良く伸びる細い眉と、黒曜石を思わせる深く澄んだ漆黒の瞳。その右眉から目の上をよぎり、頬の半ばにまで届く一筋の傷が、彼女の人生を今のようなものに定めていた。
 未だ物心すらつかぬ頃、乳母の過失により顔面へと負ったその傷痕ゆえに、レジナーラは得られたはずの女性としての幸福を、失ったのである。
 貴族女性として最大の務めは、婚姻することである。
 フェシリアのように、家名を継ぐ女性もけしてまれではない。だが、そういった女達もたいていは、優秀な婿養子を迎え、総領としての仕事のすべてを夫へ任せてしまう。彼女達の多くは、あくまで優秀な指導者を得るための道具であり、さらに優秀な次代の跡取りを生み出すための中継ぎでしかなかった。それが当たり前であり、それこそが女性の幸せなのだとされている時代である。
 事実、幼い頃より蝶よ花よと、真綿にくるまれるようにして育った姫君達に、領地の運営だの部下の統率だのを行えと言う方が無理な話だ。彼女達にしてみれば、面倒なことはみな親や夫、息子達に任せ、自分は屋敷の奥で何に煩わされることもなく、穏やかに日々を送ることのほうが、よほど幸せなのだろう。
 レジィとてそれを否定するつもりはなかった。むしろ叶うものであれば、そうでありたかったと思うことさえある。だが、一度『傷物』という評価を受けてしまった彼女に、まともな縁談など持ち込まれるはずもなく。そして他に幾人もの兄弟姉妹を持つ彼女に、無理な婚姻をさせる必要があるほど、ロミュ侯爵家は落ちぶれてもいなかった。
 だが、それは……けしてレジィの事をおもんぱかったが故にの処置ではない。
「……世に美しき姫君は数あるが、私を守れる伎倆ぎりょうを持つ女など、そなたの他にはおらぬ」
 フェシリアが、前を見たままで呟いた。
 すぐ横のレジィを振り向きすらせぬ、素っ気ないとすら呼べる口調。
 はっと顔を上げたレジナーラは、主の横顔をまじまじと見つめた。
 やがて、その口元に小さく笑みが浮かぶ。
「御意 ―― 我が君」
 目を伏せて答えるレジィを、リリアがほっとしたような瞳で見守る ――


 貴族達の控え室が集中している棟を抜けた彼女達は、いつしか再び、大広間のある一角へと戻ってきていた。厳粛な儀式を終えた後のそこは、一般市民達へと開放されており、多くの人間が群を為すようにして出入りしている。その中にはフェシリア達と同じような、滅多に王都へ上ることのない、地方に住まう貴族の子弟の姿も見られた。周囲をお付きの者達に囲まれて、並ぶ絵画や彫刻を物珍しげに眺めている。
 薄衣で顔を隠すようにし、連れているのも護衛と侍女が一人ずつというフェシリアは、ほとんどあたりの目を引くこともしなかった。あるいはどこかの姫君に伴われてきた女官が、わずかな休憩を許され、散策しているようにでも映ったのかもしれない。
 今宵の準備があろうからと、ついて来たがる侍女達を置いてきたフェシリアは、身軽に足を進められることに満足していた。一歩踏み出すごとに、室内の装飾がどうのすれ違った人間の装いがこうのと話しかけられては、わずらわしいことこの上ない。
「この大広間と前庭は、毎年この時期の間だけ、市民達の出入りが許されているそうです」
 レジィがフェシリアへと説明した。
「あれらの美術品も、普段は宝物庫へ納められているとのことですが、祭りの間はこうして一般の目にも触れられるようにしているのだとか」
 壁際に陳列されている絵画や彫刻、鎧などは、どれもセイヴァン王家の歴史を伝える、見事な品々ばかりだ。傷つけられることのないよう、柵こそ設けられてはいたが、興奮した人間が一押しすれば、その程度のものはひとたまりもないはずだ。
「しまい込むばかりでは宝も意味がないと、陛下も判っておられるのだろうな」
 どれほどに価値ある金銀財宝も、素晴らしい芸術作品も、目にする人間がいなければただの物体にすぎない。それを見て、心動かされる者がいるからこその芸術であり、高い価値であり ――
 だが、それを理解せぬやからのなんと多いことか。
 それに、
「この祭りは祖王の功績をたたえ、その子孫たる王家の威光を、世に再認識させるためのものだ。そのために手間を惜しむことは無かろうて」
 祖王の偉業を、ひいてはセイヴァン王家の素晴らしさを民達に知らしめれば、おのずと財も権力も集まってくるものだ。そのための投資とあれば、この程度のことは造作もあるまい。
 フェシリアの声はあくまで小さく、この喧噪の中では、レジィとリリアの耳にしか入らぬだろうものだった。だが……
 フェシリアは急に息を呑んで顔を上げた。
 射るように周囲を見わたした眼差しが、やがてひとりの人物へと向けられる。
 二者の視線が真っ向からぶつかり合った。
「 ―――― 」
 その人物は、彼女達から数歩離れた位置に立っていた。
 両者の間をなにも気付かぬ人間が何人も行き来してゆく。だが二人の目は、あくまで互いの姿だけを映し続けていた。
 フェシリアの方に、相手の見覚えはない。
 若い男だった。かなり背が高く、そしてひどく痩せている。顔つきや姿形はフェシリアにもなじみ深いそれだ。彼女達と同じ、南方の出身なのだろう。だが今回公爵領より伴ってきた中には、このような男などいなかったはずだ。そもそも公爵家に縁近い人間であれば、こうもぶしつけに彼女を注視するはずもない。
 やがて、髪も肌も黒いなか、着ているものが映ったかのように蒼い瞳が、フェシリアを見つめたまま、じわりと細められる。
 口の端が歪められた。一方を持ち上げたそれは、紛れもない笑み。
 あからさまに向けられた嘲笑に、フェシリアの頬がさっと上気した。
「そ……っ」
 とっさに叫びかけて、寸前で危うく自制する。
 このような場所で周囲の耳目を集めては、あとあと面倒なことになる。かろうじて言葉を呑み込んだ彼女に、レジィが気遣うように声をかけた。
「フェシリア様。どうか?」
「そなた、あの男を知っておるか」
 フェシリアは歯の間から押し出すようにして問いかけた。レジィはいぶかしげに眉を寄せ、視線の先を追う。
 その時にはもう、男は彼女達に背を向けていた。そばにいた同じような服装をした者達と共に、人混みの中へ紛れようとしている。
「あれは……」
「覚えがあるのか」
「あの外套の色合いは、セフィアール騎士団のものではありませんか? 私は遠目からしか見ませんでしたので、はっきりとは申せませんが」
 光を弾く額環の銀細工といい、間違いないのでは。
 言われてようやく、フェシリアも思い当たる。いささか着崩されてこそいたが、あれは紛れもなくセイヴァン王家の誇る破邪の騎士団、セフィアールが身にまとうそれだ。
 くと唇を噛む。
 まずい人物にまずい言葉を聞かれてしまった。セフィアールといえば、国王直属の騎士達だ。王家と同様に祖王エルギリウスの破邪の力を受け継ぐ彼らは、当然その発言力も高く、国王の信頼もあつい。下手なことを奏上されては、公爵家の跡取りとして、致命的なことにもなりかねなかった。
 いや……まだあの呟きを聞かれたとは限らない。それに己の素性をあの男が勘づいたとも思えなかった。しかし、このまま放置しておくのも危険である。
「追うぞ」
 短く言って、フェシリアは足を踏み出した。一拍遅れ、慌てて二人が後に続く。
「いったいどうなさったのですか」
 レジィもリリアも、いきなりフェシリアの様子が変わったことに、戸惑っているようだ。だが説明している暇もないし、下手に言葉にすれば、また誰の耳に入るやもしれない。
「良いからついてこい。いや ―― 」
 むしろ先に行ってあの男を足止めせよ、と。
 そのように指示しかけた時だった。
 突如、間近で悲鳴が上がった。
 聞き苦しく裏返った、女性の金切り声。反射的に足を止め、あたりを見まわす。
 周囲のざわめきを圧して響き渡ったそれに、一瞬室内はしんと静まり、それからさらなるどよめきが発生した。
「うわぁぁああっ!?」
「よ、妖獣だあッ!」
 この国に住まう人間にとって、それは何よりも恐ろしく、そして身近な危険を示唆する叫びだった。
 大広間を埋めていた民衆達が、その一言で恐慌状態へとおちいる。
 最初の悲鳴が聞こえたあたりを中心として、我先に逃げ出そうとする者達で大混乱が生じた。
「フェシリア様っ」
 乱暴に突き飛ばされたフェシリアを、レジィがとっさに抱きとめた。だが彼女も次々とぶつかってくる人波に、抵抗することができない。なんとか己の身を盾にしてフェシリアをかばおうとするが、突き倒されないようにするのが精一杯だ。
「リリア!」
 フェシリアがレジィの腕の中から侍女を呼んだ。だが、既に少女の姿は視界から消えていた。視界は押し寄せる集団に遮られ、もはやどこにもその姿を認めることはできない。
「リリア、返事をしろ! リリアッ」
「フェシリア様、じっとしていて下さい。危のうございます」
「だがっ」
「まずは御身をお考え下さい!」
 このような状態で人混みに巻き込まれれば、リリアのようにか弱い少女がどうなることか。突き飛ばされる程度ならまだ良い。だがひとたび倒れでもしたら、起きあがることは容易ではなかった。そしてそこにさらに倒れかかる者があったなら……集団が将棋倒しになることで出る死傷者の数は、けして少ないそれではないのだ。
 そしてか弱い少女であるのは、フェシリアもまた同じ事だった。レジィとてリリアを心配しないわけではない。だが同時に二人を守ることができぬ以上、レジィが選ぶべきなのは己の主人以外になかった。それはリリアも同じように思っているはずだ。
 あちこちで悲鳴が上がり、恐怖と苦痛に泣き叫ぶ声が聞こえる。
 フェシリアはもがくのをやめた。彼女自身、己の身こそがなによりも守られねばならぬ事を、熟知しているのだ。だが、レジィの胸元を握りしめる拳が、籠められた力に震えている。レジィもまた、公女を抱きしめる両腕に力を入れた。歯を食いしばり、少女の無事を祈る ――
 一方、主の姿を見失ったリリアは、幾度かひどく身体をぶつけながらも、なんとか無事でいた。
 流されるままに翻弄されていた細い身体が、いきなり圧迫から開放される。
 突然支えを失った彼女は、姿勢を立て直すこともできず、床へと投げ出された。なんとか手をついたが、踏みつぶされる予感に、息を呑んで全身を縮める。
 だが、襲ってくるはずの苦痛はやってこなかった。
 うずくまっていた彼女は、おそるおそる面を上げる。
 ぽっかりと周囲に空間ができていた。驚いて半身を起こすと、何歩か離れた位置に人垣ができていた。そしてその最前列にいる者達は、懸命に人混みの中へ潜り込もうとしている。だが限界まで身を寄せ合った人々の間には蟻の這い込む隙もなく、彼らは狂ったように泣きわめきながら、リリアのいる方向を振り返っていた。
 いったい何が起きているのか、リリアには判らない。
 とにかく立ち上がろうと足に力を入れた。
 と、彼女のすぐそばで鈍い音がした。
 湿った布を叩きつけたようなそれと共に、鼻を突く生臭いにおいが漂ってくる。
 リリアは口の中が干上がるのを感じた。それから、思うように動かない身体を叱咤し、背後を振り返る。


 次の瞬間、彼女は甲高い悲鳴を上げていた。
 絹の手袋をはめた両手で、大きく開いた唇を覆う。


 そこに『在った』のは、おぞましい、人間の成れの果ての姿であった ――

(2001/12/22 15:51)
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