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 楽園の守護者  第六話
  ―― 風の吹く谷 ――  第七章
 ― Makoto.Kanzaki Original Novel ―
 
神崎 真


 角灯カンテラの投げかけるほの白い光が、周囲の岩肌をまだらに浮かび上がらせていた。地面に直接置かれた角灯の中、透明な材質でできた火屋ほやに覆われ守られた炎は、吹きわたる風にあおられることもなく、静かに油を消費し続けている。
 岩肌がむき出しになった、風車小屋へと向かう途中の谷間。
 ちょうどカルセスト達が妖獣に襲われたあたりで、三人はおのおの地面に座り込んでいた。角灯を囲むように向かい合わせになって、もうずいぶんと時が過ぎている。
 常に風が吹き続ける谷間は、夜が更けたこともあり、相当に冷え込んできていた。山の中というものは、たとえ夏場であっても夜間はかなり気温が下がる。まして周囲はむき出しの岩ばかり。すぐ横には川まで流れているのだから、寒さもいっそうつのるというものだ。火を焚きたいのはやまやだったが、こうも風が強くては、それもできなかった。外套を身体に巻きつけるようにして、わずかに岩がくぼんだあたりへ居場所を定めるのがせいぜいだ。
 妖獣の常識はずれな巨体からいって、村へ向かうにはまずこの谷を通っていくしかなかった。不意をつかれ無防備な村を襲われる心配だけはない。
 だが、今日の昼間深手を負ったばかりの妖獣が、次に動き始めるのはいったいいつになるのか。傷を癒すために休眠に入る可能性もあったし、逆に滋養を求めていっそう貪欲になることも考えられる。また手負いとなった生き物は、むしろ苦痛と興奮からいっそうやっかいとなる傾向があった。それは妖獣であっても同じである。
 長期戦になるかもしれぬことを考え、彼らは交代で休みをとっていた。いまもカルセストが、岩にもたれかかり目を閉じている。
 アーティルトとロッドは、革袋の酒を水で割ったものと、干し肉の夜食をとっていた。黙々と固い肉を噛みしめ、取っ手のついた木製の杯を傾ける。
 ロッドの杯が空になったと見て、アーティルトが手を伸ばした。投げ渡されたのを持って立ち上がり、川の水を汲みにゆく。
「ん」
 差し出された杯を受け取ったロッドは、短く呟いた。視線もろくに向けず、口元へと運ぶ。もともと二人でいる時にはさほどしゃべらぬ男だったが、今宵の沈黙はどこか心ここにあらずという風情があった。
 再び向かいに腰を下ろしたアーティルトは、軽く手を動かして注意を引く。ようやく顔が上がった。
「なんだ」
『訊く、いいか?』
 指文字で問いかける。
 良いとも悪いとも、答えは返らない。ただ無言で見返してくるロッドに、かまわず先を続ける。
『い、け、に、え』
 該当する単語が指文字には存在せず、対応する表音文字をひとつづつ綴ってゆく。
『他に、どこで、あった』
「…………」
 村長に対し、生け贄など珍しいことではないと言い切ったロッド。
 保管されている膨大な量の破邪の記録を、こまめにひもといている彼だからこそ、自信を持ってそう言えたのかもしれない。実際、地方の村などではセフィアールに対する信頼感も低いことを、アーティルトもまた身をもって知っていた。
 だが、同じくそれらへつぶさに目を通しているアーティルトは、かつてこういった所行について記述されたものを見たことがなかった。なにも己の知るものが記録のすべてだと自惚れはしないが、かといってロッドの把握しているそれよりも、格段に少ないとも考えられない。ロッドが珍しくないと評する以上、一例や二例ではないだろうそれらの存在を、なぜ自分は知らず、彼だけがそうと断言できるのか。
 持ってまわった言い方はせず、率直に質問する。
 すぐにはそれに答えず、ロッドは手の中の杯をのぞき込むようにした。揺れる水面を眺める瞳は、けして酒や、そこに映るものを見ようとしているのではなく。
 アーティルトは、せかそうとはしなかった。ただじっと、目を落とすロッドを見つめる。
 やがて、ロッドはひとつ息をついた。
「……馬鹿な男が、いたのさ」
 アーティルトの問いかけとは、まったくつながりのない言葉を口にする。
 一度杯を持ち上げ、喉を湿らせた。
 いっそ穏やかとさえ表現できる、静かに落ち着いた面もち。
 常に皮肉な物言いをし、吐き捨てるかのように侮蔑の言葉をまき散らすこの男が、乾いた、感情の色のうかがえない口調で先を続ける。
「見も知らない、こ汚ねえ浮浪児のために身体ぁ張りやがった」
「 ―――― 」
 アーティルトは何も反応しなかった。意志を伝える指一本動かそうとはせず、ロッドの言葉に耳を傾ける。ロッドの方も、返答など望んではいないようだ。己の気がむくままに、ぽつり、ぽつりと語ってゆく。
「ここと同じような、山ん中の小さい村だった。正確にどこだったかなんざ覚えちゃいねえ。……とっ捕まんのも袋叩きにあうのも、別に珍しいこっちゃなかったし、な」
 庇護してくれるべき大人を持たぬ、流れ者の浮浪児。
 土地に異変が生じたとき、真っ先に被害をこうむるのは、いつもそんな弱者達からだった。ある時は盗みの疑いをかけられ、またある時はたまりにたまった生活共同体内のうっぷんを晴らすはけ口となり、そしてある時は村を脅かす妖獣や賊達への犠牲スケープゴートとされる。
 それはなにも珍しくなどない、ごく当たり前の光景だった。何故なら人はみな、己やその近辺を構成する身近な者達を優先し、守ろうとするのだから。それは生き物が本能のままにとる、ごく当然の行動で。
 そして、だからこそそういった不条理を押しつけられる側の子供達もまた、懸命に己を ―― 己だけを守ろうとしていた。すなわち盗みや直接的暴力などによる、他者からの搾取さくしゅという方法によって。
 彼らにとって他に生きる手段が存在しない以上、そう言った不正な行為をどうこう取り沙汰するつもりなど、ロッドにはなかった。生き物はみな、『生き抜く』というその目的のためであれば、何をやっても構わない。それがロッドの持論である。故に彼はザン達がやってきたことを責めるつもりなどなかったし、同様に、悪事に手を染める子供達の生き方を否定する気もなかった。あの村人達も、そして子供達も、それぞれに手前勝手な『生』を生きている。そして時にぶつかり合い、負けた方が死ぬのだ。死にたくなければ強くなるしかないし、汚かろうが卑劣であろうが、どんな手段を使おうと、這いずり泥にまみれてでも生き延びられれば、それで良い。そんなふうに、考えていた。
 ―― そう。
 かつての彼もまた、そういった自身で自身を守るしかない、孤独な境遇にあったが故に。
 そうだ。もう十年近く前になる『その時』も、彼は死ぬ覚悟などまったくつけてはいなかった。
 詳しいいきさつなど、とうに忘れた。確か数日間ろくに食っていなかったおかげで、盗みに失敗し、逆に捕まってしまったのだ。頻発する妖獣の出没で殺気立っていたその村の人間達は、痩せこけた盗人の少年へうさ晴らしをかねた容赦のない暴力を振るった。
 おそらく何本か骨が折れていただろう。満足に身動きもできなくなった彼を、やがて村人達は妖獣のエサにしようと相談した。たとえ子供一人分であれ、腹に収めさせればそれだけ妖獣の被害も減るであろうから、と。
「が、そこに通りがかった旅人がいた訳だ」
 そう言って、ロッドは再び酒を口に運んだ。唇を濡らす程度にわずかに含み、しばらく沈黙する。角灯の光が映るその瞳は、どこまでも深い色をたたえている。
「……おきれいな理想を並べたててたな。『子供に罪はない』だの『ひとりを犠牲にして助かろうなど間違っている』だの」
 杯を持った手を額に当て、喉の奥で笑った。
「つくづく馬鹿な男さ。手前ェらの命が大事で目ぇ血走らせてる野郎共相手に、んなご高説たれたところで、役に立つはずないってのによ」
「 ―――― 」
「多勢に無勢。よってたかって叩きのめされたあげく、いっしょに妖獣の巣穴へ放り込まれたさ」
 おおかた目撃者の口をふさごうという意図もあったのだろう。
 その男もそれなりの腕は持っていたらしいが、ほとんど丸腰で多数を相手にしては、どうにもならなかったようだ。
 村人達が逃げるように去ってから、男は隠し持っていた小柄で縄を切った。
 そして手の中に収まる小さな刃物だけを頼りに、妖獣を迎えうとうとしたのである。
「ひとりで逃げりゃよかったんだ。少なくとも、俺はそのつもりだった」
 甘いことをほざいて、自ら危険に飛び込んだ世間知らずのお坊ちゃん。そんな奴につきあってやる義理など、これっぽっちもありはしない。そう、思っていた。いい格好をしたあげくの自業自得。今さら後悔などしても遅いというものだ。だがこいつが先に喰われてくれれば、自分の逃げる隙ができるかもしれない。せいぜい泣きわめいて妖獣の気をひいてくれ。そんなふうにあざ笑ってさえいたのだ。
 それなのに ――
『立てるか? 早く逃げろっ』
 己に続いて少年の縄をも切った男は、彼を背中にかばってそう叫んだ。
 こんな目にあってもなお、その男は彼を守ろうとしたのだ。意外なその行動に、少年は呆然とする。
『何をしている、早く……ッ』
 男の言葉が終わらぬうちに、巣の奥から現れた妖獣の爪が、その腹を深くえぐっていった。
 ほぼ同時に、小柄を握った男の腕が、カッと開いた妖獣のあぎとへとつっこまれる。銀線をったかのような細い指輪が、一瞬きらめいて、印象に残った。
 くぐもった咆哮があたりにとどろく。
 妖獣は苦悶の声を上げ、頭を振って逃れようとした。その勢いで男の右腕が半ばから食いちぎられる。鮮血が水のようにあたりへまき散らされ、妖獣の口腔からは、男の血と腕と共に、自身の濁った体液があふれ出した。体内から襲う苦痛に、妖獣は狂ったようにのたうちまわる。
 やがて、理性を失った妖獣は巣穴から飛び出していった。おそらくは猛り狂うままに、村へと暴れいったのであろう。その後、その村がどうなったのかは判らない。
 目の前で起きた惨劇に動くこともできずにいた少年は、やがて身体を引きずるようにして倒れる瀕死の男へと近づいていった。
『……無事……か?』
 まだ息があった男は、開口一番、そう問うてきた。
『ば、馬鹿かアンタ。なんで手前ェから死ぬようなマネ……』
 とっさに毒づいた少年に、男はにこりと笑ってみせる。
 その顔には既に死相が現れていた。なのに驚くほどに屈託のない、穏やかな微笑みだ。
『大人と、いうのは、な……子供を守る義務が、あるんだ』
『んなわけ……ッ』
 思わず声が荒くなった。子供だからと虐待されたことはあっても、守られたことなど一度もなかった。
 いや、なかった、のだ。それなのに、この男は ――
 全身鮮血にまみれた男は、力無く横たわったまま、ゆっくりとかぶりを振った。
『私は、そう思っている。だから、だ』
 たとえ他の誰が違うと言ったとしても、彼自身はそうあるべきだと思っているのだ。そして、その為に命を懸け、最後まで信念を貫いた。
 ならば、それは真実と言ってもいい。少なくとも、この男にとっては。
『 ―― 頼みが、ある』
 そう言った声は、既に掠れて聞き取りにくいものになっていた。
『王都、の……セフィ……ア、に……』
『なんだって、聞こえねえよ』
 地面に手をつき、口元へと耳を近づける。
 だが、その耳に届いたのは、小さく吐き出された最後の息の、かすかな温もりだけだった。


「…………」
 杯を地面に置いたロッドは、無意識のような仕草で指輪に触れていた。
「人間、死ねば肉の塊だ。手負いのガキに大人ひとりどうこうできるはずもねえ。死体はそのままほったらかしさ。だがまあ……金目のもんぐらいはもらっていこうと思ってな」
 左手の指が、精緻な細工をたどってゆく。
 せめて遺品を、と表現できないのがこの男らしい。
 やがて追憶を断ち切るように、ロッドは杯へと手を伸ばした。残っていた酒を一気にあおり、音をたてて戻す。
「似たようなことは、それからも何度かあったさ。場所が判んねえのも同じだ」
 日々を生きぬくだけで精一杯だった浮浪児にとって、地名などどうでも良いことだったし、まして放浪の記録などというものをつけているはずもない。残されているのは、こんなことがあったという、あいまいな記憶ばかりで。
 だいいち、それらをはっきりとさせたところでどうなるというのか。
 どれもこれも、何年も前の過去の出来事である。今さら復讐だの告発だのというのも馬鹿馬鹿しい。前述したとおり、それが彼らにとっての生きる手段であり、また自分もそれらを無事くぐり抜け、現在こうして生き延びているのだから。
 もし、くだんの村や街が、今もなお同じことを繰り返しているというのであれば、確かにそれは憂慮するべきことだろう。破邪の騎士団の一員として名を連ねている以上、新たな犠牲者を減らすべく力を貸す必要はある。それをいとおうとは思わない。
 だが ――
「手前らの罪を、そうほいほい白状する奴らはいねえさ。俺の記憶だっていい加減なもんだしな。この村だって、もしかしたら……」
 何十年もの昔から、妖獣に対して生き餌を与え続けてきた山間の村。
 己もまた、その内の一人であった可能性も、ないとは言いきれないのだ。それほどに、彼の記憶は薄れている。もはや、あの男の顔すら定かでないほどに。覚えていないのは顔立ちだけではなかった。年頃も、髪の色も、瞳も声も。
 もちろん調べれば判るはずだった。十年ほど前に、行方が判らなくなった破邪騎士といえば、どこの誰であったのか、さほど労せず突き止めることができるだろう。
 しかし……それこそ、今さらはっきりさせたところで、仕方のないことだった。
 あの男がなんという名で、どういう立場の人間だったのか。そんなことなどはどうでも良いのだ。国王には男の存在を告げていたから、遺族がいたのなら、知らせぐらい行っているだろう。もっとも渡すべき遺品は既に所有者を変え、死体の場所すら不明では、遺された方も知らないままの方が幸せだったかもしれなかったが ――


*  *  *


 はっとアーティルトが顔を上げた。傍らに置いていた細剣を掴み、膝を立てる。
 ほぼ同時にロッドも大剣の柄に手をかけた。ガチャリという金属音と共に、鈍い鋼色の刃がわずかに引き抜かれる。カルセストが外套を跳ね飛ばすようにして起きあがった。
 カルセストもアーティルトも、外套の下に銀色に輝く胸甲をつけている。腰には草摺くさずりを巻き、肘から先と膝から下にもそれぞれ籠手と臑あてを装着していた。どれも銀色の金属の表面に繊細な浮き彫りをほどこした、装飾とも思える品。セフィアール騎士団における完全装備である。
 ロッドだけは相変わらず簡素な防具を選んでいた。革を幾重も張り合わせた軽い胸あてに、細縄や小刀を仕込んだ籠手。いつもはめている傷だらけの額環は、頭部を防護するための鉢金がわりだ。
「来たか!?」
 カルセストが抑えた声で鋭く問いかける。
 アーティルトは唇の前で指を立てた。めいめいに息を殺し、周囲の気配を探る。
 狭い谷間を吹き抜ける風が、時おり笛のような高い音をたてていた。ざわざわと、灌木が枝を鳴らす。流れる小川のせせらぎは、既に耳になじんでしまっていた。
 あたりの空気がぴんと張りつめている。来るなら下流側か、もしくは崖の上からだが ――
「向こう岸だっ」
 カルセストが叫び、角灯を振りかざした。振りまわされ、激しく揺れる灯りが、かろうじて小川の向こうにまでその光を届かせる。
 足場などほとんどない急勾配の岩肌に、ルファルスは二十体節はあるだろう、長大な身体をへばりつかせるようにしていた。
 突如むけられた光をいとうように、ぎちりと節を鳴らし頭を持ち上げる。油を塗ったかのような紫色の複眼が、毒々しく輝いて彼らを視界に映した。
 話には訊いていたものの、実物は初めて拝んだロッドが、小さく口笛を吹いた。どうやら驚嘆の意をあらわしているらしい。
「見ろよ。もう生えてきてるぜ」
 顎をしゃくってみせる。
 昼間カルセストが切断したはずの右側の節足十数本は、既に再生してしまっていた。長さも先端の鈎爪の鋭さまでも、他の脚とまったくく変わらない。
「そんな……」
 呆然とするカルセストをよそに、ロッドは幅広い大剣を完全に抜いて構えた。
「狙い目は身体の継ぎ目だ。二番目からこっち、体節五個ごとに神経の塊がある。脚の関節はどっちにも自由に曲がるから気ぃつけろ!」
 叫びざま妖獣めがけて突進していった。
 アーティルトが角灯の燃料を入れた壷を地面へと叩きつける。破片と共に油が飛び散ったところへ、発条ばね仕掛けの着火具を鳴らした。ボッと勢いよく炎が上がる。大量の油のおかげで、強風の中でもしばらくは保ちそうだった。この暗がりでは、まず充分な明かりがなくては足場すらおぼつかない。妖獣よりも村に近い側に火を放ったので、牽制にもなる。
「うぉおおッ!」
 水を蹴立てて小川を渡ったロッドは、腹に響く雄叫びをあげた。構えた大剣の重量をものともせず、地を蹴り、岩を足がかりに妖獣よりもさらに高みへと身を運ぶ。
 振り下ろした刃は、迎え撃つ妖獣の顎にがっきりとくわえ込まれた。幾対も連なった可動式の大あごは、表面に鋭い棘を生やしており、たとえつき立てられずとも、触れればそれだけで皮膚を裂かれるだろう代物だ。ひときわ巨大な二本が剣を押さえ込み、他の短いそれが、間近でギチギチと出入りする。
 不自然な体勢で剣を固定されたロッドは、片足を崖に、もう片足を妖獣の首にかけ踏んばった。その喉から、先程よりさらに力の込もる気合いがほとばしる。
 妖獣の身体がぐらりと揺れた。そこへやはり川を越えてきたアーティルトが加勢にはいる。
 さしもの巨体も崖から引き剥がされた。背丈の倍ほどの高さから、ロッドもろとも川の中へ転落する。盛大な水しぶきが上がった。
 飛んでくる飛沫からとっさに身をかばったカルセストは、出遅れた己を叱咤し膝まで深さのある川へ踏み込んだ。淡い光を放つ細剣をかまえ、露わになった妖獣の腹を狙う。
 だが、間合いに踏み込むより早く、横合いから襲った鈎爪に足止めされた。とっさに振り上げた剣の籠状になったつば部分と、二股に分かれた妖獣の爪が、がっちりと絡み合う。繊細な透かし彫りの鍔は、破邪の光を帯びて妖獣の爪を灼き焦がした。そんな末端でも痛みを感じるのか、節足ははじかれたように退く。
「……ッ」
 脚一本とはいえ、細い丸太ほどの太さはある。そんなものに突き飛ばされたカルセストは、体勢を崩してよろめいた。とっさに動かした足が水底の藻を踏んだのか、ずるりと滑る。危うく膝をつきそうになったところを、二の腕をつかまれた。強い力で引っ張られ、しっかりと立たされる。目の前で白銀の光が数度ひらめいた。関節を断たれた節足が水をはね飛ばして落ちる。
「す、すいません」
 助けてくれたアーティルトに、礼を言った。応じてちらりとだけ視線が向けられる。今は悠長に話しなどしている場合ではない。慌てて剣を構え直した。互いの背後を守るよう背中合わせに立った二人を、妖獣の胴体がぐるりと囲み、ざわざわと脚を揺らめかせる。
「くそッ、剣が……ッ」
 ずぶ濡れになったロッドが、大あごの攻撃をかわしながら毒づいた。
 とっさに手を放すことで下敷きになるのを免れたのだが、代わりに剣を失ってしまったらしい。川の中を探せば出てくるのだろうが、この状況で暗い水面下に沈んだ刃物を手探りするのは、あまりに危険が大きすぎる。
 幸いなことは、落下の勢いで大あごの片方を切断したことだろう。おかげで何とか身をかわしていられる。
 大きく後ずさって間合いを広げたロッドは、ひとつ舌を打って腰に手を伸ばした。親指で鯉口こいぐちを切り、セフィアールの銀の細剣を引き抜く。
 使い勝手が悪いと、細剣は持ち歩くことすらほとんどしない彼だったが、さすがに今回ばかりは腰に吊していた。もっとも使う気などなかったのは、苦々しげな表情からも察せられる。
 右手に握った細剣が、いっこうに光を放とうとしないのに気付いて、カルセストが焦った声を上げた。
「お前ッ、大丈夫なんだろうな!?」
 思い返してみれば、この男がセフィアールの技を使っているところを見たことがない。いつも無骨な大剣を力任せにふるっているか、さもなくば気付かぬうちに姿を消して、戦いが終わった頃に戻ってくるかのどちらかで。おまけに訓練も講義も欠席してばかりだ。どうせろくな術は使えなかろう、というのが騎士団内での共通認識である。だが、まさか……
 破邪の力を帯びなければ、飾り物に等しい軽く脆い細剣を、ロッドは無造作にげていた。突き出される大あごを受け止めようともせず、ひたすら身体を動かして避ける。加勢しにゆこうにも、周囲を取り囲む無数とも思える節足が邪魔をして動けなかった。曲がる方向に制限のない関節のせいで、予測もつかない方向から攻撃が来る。
 やがて、すばしこい獲物に業を煮やしたのか、ルファルスはぐうっと上体を持ち上げた。レドリックを襲ったときのように、その頭部で直接叩きつぶそうと、大きく首を振り勢いをつける。
「危ない!」
 思わず叫んだ。
 為すすべもなく見守る前で、妖獣の首がロッドのいるあたりへと振り下ろされる。
『 ―― ッ』
 鋭い叫びが大気を震わせて響いた。
 わずか一音節のそれが、呪文を構成する単語のひとつだと気付くよりも早く、目映い閃光があたりにほとばしる。鮮やかなその輝きは、一瞬夜の闇すらも薙ぎ払った。
 何が起こったか判らず、目を細めて手をかざすカルセストの横で、アーティルトが動く。硬直した節足の間を抜け、妖獣の背中を踏み、十二番目と十三番目の体節の間へ逆手に握った細剣を突き立てた。再び破邪の光がひらめく。
 妖獣の身体がびくびくと痙攣した。
 のけぞったルファルスの首が、すさまじい勢いで崖にぶち当たる。ぱらぱらと落ちる石くれをまとい、跳ね返るように今度は水面を叩いた。神経節を破壊され、統制を失った一部の節足が、でたらめな動きで振りまわされる。カルセストは襲い来る胴体に押しつぶされそうになり、川から地面の上へと転がるように逃げた。
「う、わ……」
 思わず喉から声が漏れる。
 ひときわ大きくはねた妖獣の中心部は、それを最後にぴくりとも動かなくなった。残る両端は、まだ激しくのたうっている。その顎の下。いささか色の薄い腹側の甲殻に、くっきりと魔法陣が灼きついていた。計算され尽くした緻密な構成のそれは、ごく高度な術によってえがき出されるものだ。
 ロッドの姿を探す。彼もまた、妖獣の狂乱を避け、岸へと上がってきていた。再び光を失った細剣を、それでもまだ構えて妖獣の様子をうかがっている。やがてちっと舌打ちが漏れた。
「アーティルト!」
 鋭く名を呼ぶ。
「動きを止められるか?」
 問いかけに、向こう岸にいるアーティルトから指笛が返る。かんばしい返答ではなかったらしく、ロッドはぐっと眉を寄せた。
「おい」
 いきなりこちらを見る。その目が放つ強い光に、一瞬言葉に詰まった。うろたえるカルセストをロッドはにらみつける。
「『 ―――― 』だ。やれるな」
「あ、ああ」
 口にされた技の名に、反射的にうなずいていた。
 ロッドが訊いたのは複数人で協力して行う術だ。等間隔で立つ施術者を頂点とした魔法陣へ、妖獣を封じたうえで灼き滅ぼすというものである。比較的使用頻度の高い術だが、こんな少人数で行うのは初めてだった。確かに、理論上は三人いれば可能なはずだ。しかし行う人数が多ければ多いほど成功率は上がるし、当然一人一人にかかる負担も少なくなる。通常は6人から10人ほどで行うのが慣例だった。
 しかし、いまこの場には三人しかいないということも現実で。
 カルセストがとまどっている間に、ロッドもアーティルトもそれぞれに位置を定めていた。
 細剣をまっすぐ顔の前に立て、指を開いた左手をその刀身へと添える。目蓋を半ばまで下ろし、精神を集中した。
 カルセストも慌ててそれに習う。だが、いつまでも呪文が始まらないことにいぶかしんだ。
「なにしてる。さっさとしろ!」
 ロッドの怒声が飛んできた。
「だ、だが呪文が……」
「覚えてねえのか!?」
「馬鹿にするな!」
 カッとして叫び返す。
 半ばやけになって一人で唱え始めた。
 複雑な音韻と旋律を持つ言葉が朗々と響きわたる。立てた細剣がじょじょに光を放ち始めた。無言で立つロッドのそれも、アーティルトのものも、同じように破邪の力を帯びてゆく。
 構えなおしたのは三人同時だった。いっせいに宙を薙ぐ剣の光が、大気に三次元的な魔法陣を描き出してゆく。舞にも似た、優雅とさえ言える動きで細剣を動かすたびに、光の線が生み出され妖獣へとはしる。
 紡ぎだされる捕縛の網は、妖獣の肉体に喰い入り容赦なく締めつけていった。
 のたうちもがいていた妖獣は、やがてそれすらも叶わなくなり、ただびくびくと震えるばかりだ。
『 ―― ッ!』
 最後の一声だけは、ロッドとの唱和になった。
 響きの違う二つの声が、同じ言葉を高らかに叫ぶ。
 術が完成し、ルファルスは閉じた魔法陣の中で光の網に分断され、灼き潰されていった。


 魔法陣が消滅すると、あたりは途端に暗くなった。
 アーティルトが放った炎も、既に小さくなりつつある。一同は構えていた細剣を下ろすと、おのおのに息を吐いた。どの顔にも、色濃い疲労が刻まれている。無事に戦いを終えた後のそれは、一種心地の良いものではあったが、それにしても今回の破邪は負担が大きかった。
 周囲には生き物の燃える異臭が立ちこめている。吹き続ける風にも容易に流されぬそれに、カルセストは顔をしかめて咳き込んだ。そこここに、黒焦げになった妖獣の断片が落ちている。それぞれひと抱えはあろうというそれらは、本来ならすべて燃え尽き、後には残らぬはずのものだった。やはりこの人数では、そこまで完全にはいかなかったのだ。
 背中を岩に預け、上がった息を整えていると、アーティルトが川を渡ってきた。岩づたいに飛ぶのも面倒なのか、ざぶざぶと無造作に水の中を歩いている。もっとも、戦いの中でとうにずぶ濡れになっているのだから、いまさらではあった。
 岸に上がったアーティルトは、まっすぐにロッドの方へと向かう。
 無意識にその動きを目で追っていたカルセストは、ふと眉をひそめた。
「…………」
 歩み寄ったアーティルトが、ロッドの肩に手を置き、顔をのぞき込むようにしている。ロッドはその視線を避けるようにそっぽを向いていた。暗いこともあって、両者の表情はよく見えなかったが、ロッドが振り払いもしないのが少し意外だ。
 ロッドの右手が、己の胸元を握りしめるように押さえているのも気にかかる。
 どこか、負傷でもしたのかもしれない。
「おい、大丈夫なのか」
 寄りかかっていた身体を起こし、そちらの方へ近づこうとする。
 途端に鋭い視線が向けられた。
「うるせえ。半人前に心配される筋合いはない」
 唸るように毒づく。その顔はやはりいささか青ざめていたが、薄暗い中カルセストにはそこまで見てとれなかった。相変わらずの物言いに、さっき覚えた腹立ちを思い出す。
「誰が半人前だ!」
「お前以外に誰がいるんだよ」
「やかましい。それを言うなら呪文もろくに唱えない、貴様はどうなんだ!?」
 術を行うには、本来厳密な法則にのっとった複雑な呪文を必要とする。それなのにこの男は、さっきも最初の術の時も、わずか単語ひとつしか口にしていないのだ。ものぐさにも程があるというものである。
「はっ、あんなクソ長いもん、いちいち言ってられるかよ。面倒臭え」
「そう言う問題じゃないだろうが」
「じゃあ、こいつはどうなんだよ。ひとっ言も唱えてないじゃねえか」
 かたわらに立つ、喉に傷を負った青年を指差す。
「アートさんは仕方がないさ。言おうにも言えないんだから」
「つまり、術をかけるのに呪文なんざ、なくたってどうにでもなるってことだろうが」
 顎を上げて傲然と言い切る。
 術の施行において、呪文の存在は絶対ではない。必要なのは、あくまで術力を望んだ通りに制御する意志の力だ。呪文を口にすることは、ただ概念イメージを具体化し、方向付けるための手段にすぎない。
 呪文に頼ることは、かえって概念を固定化し、術を融通の利かないものにしてしまうおそれがあった。素早くかつ、状況に応じた力の使い方をするには、むしろ呪文などない方が便利な部分もあるのである。
 ―― もっとも、言うのは易いが、実際にやってみせるのはかなり難しいことだ。そうそう誰でもができる技ではない。実際、ロッドとてまったく呪文に頼らないというわけにはいかないのだ。
 いかに必要にかられたからとはいえ、その点アーティルトの意志力の強さには、ロッドも一目を置いていたりする。
「おい、まだ酒残ってたよな」
 話はそれで切り上げて、ロッドはあたりを見まわした。どこかへ放り出したはずの革袋を探す。アーティルトが拾い上げ、横に転がっていた杯を投げてよこした。ロッドは杯についた砂を袖で拭きながら、全身濡れそぼった己の姿に改めて不快そうな顔をする。
「畜生、このまんまじゃ風邪ひいちまう。後始末は明日にして、いったん戻るぞ」
「……そうだな」
 戻ろうと提案するのではなく、断言するところが気に入らなかったが、異論はなかった。三人とも、すっかり濡れてしまっている。外套など完全に水を吸って重くなっていた。こんな格好で火も焚けぬまま風に吹かれていては、肺炎すら起こしかねない。
 とりあえず自分にも酒をよこせと、カルセストも近づいていった。今度はにらまれることもなく、たぷつく革袋を手渡される。杯を取りに行くのが面倒で、直接口をつけた。いささか行儀の悪い仕草だったが、誰もとがめることはしない。なかなかうまく呑めず、しばらく革袋をいじっていたが、やがて高く持ち上げるようにして首をのけぞらせた。いい具合に酒が口の中に流れ込んでくる。
 労働後の一杯とは、また格別のものである。喉を鳴らして味わった。仰いだ空には、見事な月が出ていて心をなごませてくれる。
 と ――
 いきなり咳き込んだカルセストに、残る二人はそれぞれ振り返った。アーティルトは心配げに、ロッドは呆れたように視線を向ける。
「がっついてんじゃねえよ」
 鼻で笑うロッドを目でたしなめ、アーティルトが背中をさすった。激しくむせるカルセストを、大丈夫か、とのぞき込む。げほごほと涙すら浮かべながら、カルセストは何かを言おうとした。が、止まらぬ咳に邪魔されて、とても聞き取れるような言葉にはならない。
 無理をするなと制そうとするアーティルトに首を振り、震える手で崖の上を指差した。
 いったいどうしたのかと指先を追おうとした二人のそばに、ぱらぱらと小石が降ってくる。
 おや、とそちらを見た彼らは、地に落ちた月光をさえぎる、巨大な影に気が付いて言葉を失った。
 またも落ちてきた岩の欠片が、小さな音をたてて跳ね返る。
 物理的な強さすら感じさせる威圧感が、頭上からひしひしとのしかかってきた。
「……冗談、だろ」
 地面に目を向けたまま、かすれた声でロッドが呟いた。
「二匹いるなんざ、聞いてねえぞ」
 黒影が、ゆらりと身体を起こす。長い大あごがこれ見よがしに開閉した。大きく広げられた節足は、片側のそれが他の三分の二ほどの長さで。
 つまりは、そういうことだ。
 アーティルトが無意識のような動きで親指を立てた右手と、小指を立てた左手を合わせた。それは、夫婦をあらわす指文字だ。
 百足は夫婦で行動する。だから一匹見かけたら、必ず近くにもう一匹がいるという。しばしば農家などで語られる俗信である。
「 ―― むしろぶっちぎれたのが、再生して二匹になったってのに酒一壷」
 律儀につっこんで、ロッドが細剣の柄に手を掛けた。
 さっさと大剣を拾っておけば良かったと、今さら考えても後の祭りである。カルセストもようやく咳をおさめた。
 ひときわ強く吹いた風で、小さくなっていた炎がかき消される。地に落ちる黒影がひときわその濃さを増した。そしてぶわりとその範囲を広げる。
「避けろ!」
 呪縛から解き放たれたように、皆が地を蹴りその場を飛び離れた。
 第二戦目の幕が、切って落とされる ――


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