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 楽園の守護者  第六話
  ―― 風の吹く谷 ――  第一章
 ― Makoto.Kanzaki Original Novel ―
 
神崎 真


 そこは、どこにでもあるような、ごくありきたりの店だった。
 一階が食堂を兼ねた酒場で、二階は旅人を泊める造りとなっている。料理の味はとりたてて不味くもないが、さりとて美味いかと訊かれれば答えをためらうところ。しかし懐にさほど余裕のない旅人や、その日暮らしの日雇い仕事などしている面々にとってはちょうど良いぐらいの値段だ。下町にしては悪くない立地条件から、客の質はまずまずで。言ってみれば、善良な労働者達が仕事帰りに一杯やる店、というところか。
 促されるまま席に着いたアーティルトは、さりげなく周囲を観察し、そう結論した。
 向かいに座ったロッドは、アーティルトの素振りなど気にも止めず、手を上げて店の人間を呼んでいる。
「これはこれは! ようこそいらっしゃいました。いつこちらに?」
 飛んできたのは下働きなどではなく、ここの主人とおぼしき中年の男だった。料理中の所を慌てて出てきたらしく、濡れた両手を前掛けで拭いている。
「ついさっきだ。ガリアスに向かうんで、今日はこの街に一泊だとさ」
 頭を下げる主人に対し、ロッドはだらしなく卓に肘をついた姿勢で答えた。足も行儀悪く組んだままで、お世辞にもいい態度とは言えない。だが主人は気分を害した様子も見せず、何度も大きくうなずいた。
「こちらの方は?」
「見りゃ判んだろ。セフィアールのアーティルトだ」
「…………」
 投げやりな紹介に合わせて、アーティルトが軽く会釈をする。
 ロッドとそろいの ―― もっとも彼は相当に着崩していたが ―― 青い詰襟の制服に、腰にいた銀の細剣。卓にのせた右手の中指には、銀線を寄り合わせたかのような精緻な細工の指輪をはめている。破邪国家セイヴァンの誇る対妖獣騎士団、セフィアールの一員であると、ひと目で判る装いだ。
 が、主人がたずねたかったのはそう言う意味ではないだろう。
 もとは流しの傭兵 ―― と言えば聞こえはいいが、要は雇われ用心棒に毛の生えたような生業なりわいをしていたロッドは、どういった事情でか国王直属の騎士団に籍を与えられてからも、いっこうに同僚達となじもうとはしていなかった。地位や名誉などクソ食らえ、と放言してはばからず、他の団員達などとも、まともに言葉すら交わそうとはしない。ましてこうして一緒に食事をしようとする光景など、滅多に見られるものではなかった。
 困惑する主人をよそに、ロッドはさっさと注文を取れと顎で促す。慌てて主人は姿勢を正した。
「では、何にしましょう」
「なにがある?」
「そうですな、シチューが上手く煮えてます。いい干し肉が入ったんで」
「じゃぁ、それとパンだな。それから穀物酒の辛いやつ。―― お前は?」
 最後の問いかけはアーティルトに対してだった。応じて彼はうなずき、胸の前で数度手指を動かした。
「こいつも同じのだ。酒は発泡酒を頼む」
「は、はぁ……シチューとパンが二人前に、穀物酒と発泡酒ですな」
 さらに困惑を深めた主人が首を振り振り戻ってゆくと、アーティルトは苦笑して頭を下げた。知り合いに変な風に思わせて、と謝罪する。が、他人にどう思われようがいっこう気にしないロッドは、ひらひらと手を振っただけだった。
『ここ、良く来る?』
 喉に癒えぬ傷を負っているアーティルトは、肉声を発することができない。聾唖者が使う指文字でそう問いかけると、面倒くさげにではあったが、ちゃんと返事が返ってきた。
「この街に来た時はな」
『何故?』
 ちょっと首を傾げる。
 確かに悪い店ではないかもしれないが、それでもごくありきたりの酒場だ。さほどひいきにするような所とも思えないのだが。
「ここの親父にゃ貸しがある。だから手持ちが無いとき便利でな」
 しゃあしゃあと言い放つ。ここでならタダ飯が食えると言っているようなものだ。
 普通ならそのふてぶてしさに眉のひとつもひそめそうなものだったが、アーティルトはうなずいただけで主人が消えた方に視線を投げた。彼は知っているのだ。ロッドが貸しと言った場合、それが掛け値なしに『貸し』だということを。
 シチューは確かに美味かった。入っている肉は言葉ほど上等でもなかったが、しっかりと煮込まれていて、よく味が出ている。具の根菜もとろけるように柔らかい。
 しばらく無言 ―― もっともアーティルトはいつもそうだったが ―― で口を動かす。皿が片づくと、それぞれに酒杯を引き寄せた。互いに手酌でのんびりと杯を重ねる。気心が知れた者同志で過ごす、穏やかな時間。
 やがて、それぞれの酒甕がおおむね空になった頃、アーティルトはロッドの注意を引いた。
『何故、来た?』
 改めて問う。
『食事、市長の館で、出た。わざわざここ来る、どうして?』
 タダ飯が食いたいのであれば、あえて外出などせずとも、今宵の宿であるここアスギルの市長の館にいれば、もっと上等な夕食をいくらでも摂ることができたのだ。それなのに、わざわざ疲れた身体で下町に繰り出したのは、どんな理由があるからなのか。
 ロッド、アーティルトを含めたセフィアール騎士団員十三名からなる一行は、国境近くの山岳地帯にある、ガリアスという都市からの要請により、破邪へと向かう途中だった。なんでも中型の鳥ほどの大きさがある翼を持った妖獣が、何百体という群をなし、毎夜のように通行人を襲っては、その血を啜っているのだという。
 折り悪しく、数日前にも地方での妖獣の出没があり、かなりの騎士がそちらの方へと向かっていた。三十名余いる破邪騎士のうち、何名かは国内の各地に常駐して任に当たっている。王都に残っていた者達の中から、さらに数名を万一のために残し、彼らは急いで国境方面へと出立した。が ――
「日もろくに暮れねぇうちに泊まる手配なんざしやがって、なぁにが緊急の任だか」
 屋根の下、それもある水準以上の上等な館で、たっぷりの食事と柔らかい寝台がなければ不可、などとほざく連中と一緒に食事なんかできるものか。馬鹿馬鹿しい。
 吐き捨てて杯をあおる。
 王都を早朝に発ち、整備された街道を騎馬で下って、この街まではずいぶんと早くたどり着いた。あの速さで駆け続ければ、もう少し道程が稼げたはずだ。それを一行は、これ以上進めば街道の途中で日が暮れてしまうからと、少々早い宿泊を決め、この都市の統治を任されている市長へと連絡をとったのだった。
 この、妖獣が数多く出没する大陸南方地域で、セイヴァンが国家としての形態を保ちうる、その根幹を成す二つの柱。すなわち破邪の秘術を伝承するセイヴァン王家と、その直属の実働部隊たる対妖獣騎士団セフィアール。その騎士団員が任務途上に宿を求めたとあっては、相手が断ろうはずもなかった。下にもおかぬもてなしとともに、街中の有力者達がご機嫌伺いにやってくる。これまでの武勇伝を聞かせて欲しいとの要望もあって、夕食は列席者の多い宴に近いものとなった。礼儀作法だの社交だのの大嫌いなロッドが、好んで参加などするはずもない。
『野宿、慣れない、体力消耗する。破邪前に体調崩す、控えるのは当然』
 アーティルトの弁護もまた、もっともなものだった。ロッドの主張は常々厳しすぎるきらいがある。平素から野宿に慣れていない人間に急に地べたで寝ろと言っても、満足に疲れを取れるはずがない。まして、良く知りもしない街道を無理に日暮れ近くまで飛ばしたところで、たいした距離を進めるとも思えなかった。一刻も早く現地へ駆けつけることも大切だが、それ以上に、たどり着いた先で充分な働きができるだけの体調コンディションを整えておくことも、任務を果たす上で重要な責務のひとつなのだ。
「だからそれくらい慣れろってんだ!」
 また無茶なことを言う。
 育ちの良い貴族階級の騎士達に、そこまで求めるのはいささか酷というものだ。
 自身は初めての土地だろうがひとりでだろうが、食事にも寝床にもいっこう不自由を感じないだけに、ロッドは平気で他者にも無理を要求する。そして実は己もそれに付き合うことができるだけに、アーティルトもあまり強くは否定できなかった。彼らはともに、それが当たり前にできるだけの経験と精神を持っている。あとは自分達と違う存在をどこまで容認できるかの問題だ。
「少数精鋭を気取るなら、この国のどこに妖獣が現れようと、即座に駆けつけられる状態を維持しとくべきだ。国境から王都まで早馬で三日かかってる。そして俺達がたどり着くのにこの調子なら五日。それだけありゃどれだけ被害が広がる?」
『逆に言えば、飛ばしても、二日しか、変わらない』
 八日と六日の差を惜しみ疲れ果てた状態で到着しても、結局は即座に戦力とはなれない。どのみち同じことだ。
「言うじゃねぇか。手前ぇがその街の人間でも、同じことがほざけるのか。ぇえ?」
『いや』
 かぶりを振って即答する。
 これがあくまで駆けつける側の理論なのは判っている。助けを待っている方にしてみれば、一刻でも早い騎士団の到着を待ちわびていることだろう。しかし、全てに都合のいいやり方など存在しはしないのだ。ならば、自分は自分が一番良いと信ずる道をゆくしかない。
「……フン」
 ロッドは鼻を鳴らしただけで目をそらした。酒の小甕を持ち上げ、二三度振る。
「おい、もう一個だ!」
 厨房に向かって声を張り上げる。
 アーティルトも便乗して酒甕を持ち上げてみせた。この程度の酒で翌日に残りはしない。苛立ちを紛らわすのに酒盛りするぐらいなら、いくらでも付き合ってやれる。
 威勢のいい返事があって、十六、七とおぼしき給仕の娘が二つの甕を持って出てきた。小柄な少女だったが、いっぱいに酒の満たされた甕を盆に載せ、満員に近い店内を器用に歩いてくる。
「はいどうぞ。これ、店長からです」
 卓に置かれたのは、切り分けた塩漬け肉を盛った皿だった。
「……おごられる筋合いはねぇぞ」
「は……えっ?」
 意外な返答に、少女は空になった盆を抱えて目を白黒させた。
 いままさに無銭飲食している、その当人の言い草ではない。
「こいつはあくまで先払いしてあるだけだ。払った以上に食う気はねぇ。ちゃんと勘定からさっぴぃとけ」
 そう言ってから肉に手を伸ばす。
「はぁ……」
 判ったような判らないような顔をする少女に、アーティルトがくすくすと笑う。
 と、その時、店の片隅から罵声が上がった。
 続いて物の壊れる派手な音が、立て続けに響きわたる。店中の視線がそちらへと集中した。
「ンだ、この野郎ぉ! いい加減にしやがれッ」
「いい加減にしろは手前ぇだ。このド下手クソが。ろくな腕もねぇくせにいい気になってんじゃねぇぞ!」
 そこにいたのは、さっきまで囲んでいた卓をひっくり返して罵りあう、数人の男達だった。床の上に、割れた杯や皿の破片と混じって、貨幣が数枚と手札が散乱している。どうやら賭事にまつわるいさかいらしい。
「何がイカサマだ! お前がひとりでぼろ負けしてるだけだろうがよッ」
「やかましい! 俺ぁいままで負けたことなんざ一度もなかったんだ。手前らグルになって騙してやがんだろう!」
 髭面の男がわめいて、持っていた杯を投げつける。
 それは相手が避けるまでもなく、とんでもない方向に飛んでいった。そして中の酒をまき散らしながら、隣の卓の男に命中する。
 服を汚されたその男は、たちまち激高して立ち上がった。
「なにしやがる!!」
 既に酔っていることもあって、そいつも手加減をしなかった。横に置いていた自分の酒甕を取り上げ、半分ほど残っていた中身を髭面めがけてぶちまける。派手に飛び散った酒は、髭面はもちろん、相手の博徒や周囲の関係ない人間達にまで被害を及ぼした。当然、どちらも黙ってはいない。
「へへ、ざまぁみろ」
 甕を持ったまま笑っていた男は、横から乱入した別の男にどつき倒された。たちまち数人が群がり、寄ってたかって殴る蹴る。
 出遅れた髭面の襟首を、博打仲間が掴み上げた。
「あんま聞き分けねぇこと言ってっと……」
 その言葉が終わらないうちに、髭面の膝蹴りが腹に決まった。
 男は呻いて手を離したが、別の男が髭面へと掴みかかる。後ろから押さえ込んだところで、腹を蹴られた男が恨みを込めて殴りつけようとした。そこに、酒をかけられた者達が集団で押し寄せていく。
「あ〜あぁ」
 あっという間に乱戦となった一角を眺め、ロッドは呆れ顔で失笑した。他人事のように見ているが、さほど広い酒場でもない。彼らの周りにいた人間は、皆とばっちりを避け、部屋の反対側へ避難するかさっさと店を出ていっていた。逃げ損ねた給仕の娘が、震えて床にへたりこんでいる。
「おまえ酒場にいるんなら、これぐらい慣れてねぇのかよ」
 席を立ちながらロッドが言うと、涙に潤んだ目で見上げてきた。
「あ、あたし、まだ三日目なんですぅ……」
「はっ、こんな店じゃ喧嘩騒ぎはしょっちゅうだぜ? いちいち腰なんざ抜かしてたら、やってらんねぇぞ」
 すたすたと歩を進め、乱闘の中へと躊躇なく入り込んでゆく。
 たちまち数人が殴りかかってきた。しかし彼は無造作に殴り倒し、蹴り飛ばし、輪の外へと相手を放り出してしまう。何度か手を動かしただけで、あっという間に中心部へと到達した。ことの発端になった数名は、団子状になった人波の中で押しつぶされてしまっている。
 外部から力任せに引き剥がしてゆき、どんどん発掘していった。乱暴なそのやり方に、周囲の男どもが罵声を上げる。みなでいっせいにかかろうと、一瞬、間をはかる空白が生まれ ――


 耳を聾する甲高い音が響きわたった。
 役人が吹く呼子に似たその響きに、全員がいっせいに動きを止める。
 それぞれに拳や得物を振り上げたまま音の出所を探した一同は、乱戦の場からわずかに離れた位置に立つ、ひとりの騎士に注目した。
 質の悪い獣脂の灯のもとでも、なお目に鮮やかな青藍の制服。すっきりと背を伸ばした立ち姿ひとつで、彼がなんらかの組織に属す、正式な訓練を受けた人間なのだと察せられる。
 絶妙の間で指笛を吹いたアーティルトは、口に当てていた指を離し、ひとつしかない視線を乱闘の中央へと向けた。皆が呑まれたようにその眼差しを追い、そして自分達が襲いかかろうとした人物もまた、同じ身なりをしていることに気付く。
「……セ、セフィアールだって!?」
 誰かが呻くように叫んだ。
 周囲が大きくどよめき、そしてシンと静まり返った。
 一瞬にして動く者のいなくなった中で、ロッドは悠然と構えを解く。そして掘り出した髭面の腕を掴み直し、重なった人体の間から引きずり出した。
「ぼんやり見てねぇで、手伝え」
 ぶっきらぼうな物言いに、数名が弾かれたように手を貸した。邪魔な位置にいた人間が慌てて場所を空ける。
 ―― な、なんで王都の騎士サマがこんなとこにいんだよ。
 ―― どうすんだ、役人なんか目じゃねぇぞッ。
 ―― おれ……おれ、殴りかかっちまった……
 不安気なささやきがあちこちで交わされる。
 彼らのような下層階級の人間など、貴族の服に泥を跳ねかけた、ただそれだけでも即牢屋にぶち込まれかねないのだ。下手をすれば監獄行きに加えて、一生働いても返せぬだけの慰謝料や弁償金などを科せらるはめになってしまう。そんな日には、この先の人生なくなったも同然だ。
 いっそ今のうちに逃げ出してしまいたいのだが、下手な真似をすれば犯人が特定できぬからと、街全体の連帯責任にも発展しかねない。そうなってはもはや、自分達だけの問題ではすまなくなってしまう。
 真っ青になって立ちすくむ一同の間を、酒場の主人がすり抜けていった。まっすぐにロッドへと向かい、取りすがるようにして立ち止まる。
「も、申し訳ありませんでした。また、とんだ騒ぎを……」
 平身低頭する主人に、ロッドが肩をすくめて答える。
「まったく、たいした損害だな。そら」
 隠しを探り、出したものを指で弾く。高い澄んだ音がして、きらきらと光を反射する物が主人の手の中に収まった。
「壊れたモンはそれで釣りが来るだろ。残りは騒がせ賃だ」
 え? と皆が目をしばたたく。主人の手の平で光っているのは、大振りの金貨だった。
「俺らはこいつを引っぱってくから、手前ぇらはそこらへん片付けろ。すんだらそいつで一杯づつやれや。―― 足りるな?」
 確認する。
 主人はこくこくとうなずいた。しょせん安酒しか置いていない店だ。壊れた物を買い換え、いまいる客全員に一杯づつ出したとしても、まだ余るぐらいである。
「充分です。こいつはまた勘定に入れときますから」
「馬ぁ鹿。いつ俺が出すっつったよ。こいつに払わせるに決まってんだろうが」
 肩に担ぎ上げた髭面を揺する。
 騒ぎを起こしたのはこいつなのだから、弁償も詫び酒もこいつが出すのが道理というものだ。
 それから視線を巡らせ、ようやく起きあがり始めた博打仲間達を見る。途端に彼らは凍り付いた。にやりとロッドが笑うと、震えて床にはいつくばる。
「す、すいませんっ、俺らは……ッ」
「イカサマだかどうかは知らねぇが、ま、訊かないでいてやるさ。どっちにしろ、引っかかる方が馬鹿なんだからよ」
「へ……」
「だがいちいち騒ぎにしちまうようなら止めちまえ。―― いつか本当にブッ殺される前にな」
 そう言って、くるりときびすを返した。
 ひどく痩せ、背ばかりが高いその身体つきに似合わず、人ひとり肩に載せて悠々と店を出てゆく。言葉通り、役所にでも連れていくのだろう。
 その後をどこから探し出したのか、髭面の荷物とおぼしきズダ袋を下げたアーティルトが追っていった。


 ふたりの背が戸口から消えた途端、どっと店内に歓声が沸き起こった。
 さっきまで殴り合っていた男どもが、互いに手を叩き、肩を組んで笑い声を上げている。
「うっしゃぁ、助かったぁ!」
「いやっほぅッ」
「オラオラ、とっとと片付けて呑むぞ!」
「おおっ!」
 手分けして、いそいそとひっくり返った卓を起こしたり、こぼれた酒を拭きにかかる。人数が多いだけに、店内は見る見るうちに片付いてゆく。
「ねぇちゃん、ほうきないか?」
 破片を片そうと給仕の娘に声をかけた男は、ぼんやりと戸口を見たまま返事をしない娘に、ちょっと眉をひそめた。
「おい、ねぇちゃん?」
「……すてき……」
 ほぅ、とため息をつき、持ったままだったお盆を抱きしめる。よく見ると頬が上気し、両目の焦点があっていなかった。
「あ〜あぁ」
 男は苦笑いして話しかけるのをあきらめた。
 顎を掻く男に、横から箒が差し出される。
「お、どうも」
 振り向いて受け取った。相手はやはり苦笑している。酒場の主人だった。
「ほら、お前も準備を手伝ってくれ」
 娘に言う。
 雇い主の命令に、さすがに娘も反応した。
「は、はいっ」
 いそいそと後について厨房へと入る。
 大量の杯に酒を注ぎ分けながら、娘は主人に問いかけた。
「あ、あのぅ、あの人達、よくいらっしゃるんですか? 都の騎士さまっていうけど、ぜんぜんそれっぽくないっていうか……」
「ロッドさんは貴族なんかじゃないからな。アーティルトって人も、噂には聞いたことがある。お二人とも剣の腕を買われて、平民なのに特別に入団を許されたって話だ」
 地下室から酒樽を運び出した主人は、腰を叩いて大きく伸びをした。
「ロッドさんは前にもこうして騒ぎを治めてくれたことがあってな。あの時出してもらった金は、食事代ぐらいじゃとても返せない金額なんだがなぁ……」
 そう言って、嘆息する。
 あの時は、今回のように客のせいではなく、純然たるこの酒場の責任だったから、その金を返さない訳にはいかなかった。そもそもあれだけの金額をぽんと貸してもらえたおかげで、どうにかこの酒場を手放さずにすんだのだ。しかも無利子無期限、ある時払いの催促なしである。
 そして彼は、この街に来るたび、ここで食事をしてゆくのだ。その食事の分だけ借金から引いていけ、と。
 けして恵んでやるとも、返さなくて良いと言う訳でもない。だが、限りなくそれに近い。
「えっと、それじゃあ……」
 しばらくの間考えていた娘は、やがて酒を注ぎ終えた盆を持ち上げ、にっこりと笑った。
「次にいらっしゃる時までに、い〜っぱい稼いで、少しでもお返ししましょうね。あたし、注文とって来ます!」
 弾む足取りで食堂へと出ていく。
「…………」
 主人はその後ろ姿をしばらく見送っていたが、ややあってため息をつくとかぶりを振った。何はともあれ、従業員の勤労意欲が増すのは良いことである。
 店内の様子をうかがえば、どうもみな一杯では収まりそうにない気配だった。せっかくだ。彼女の言うとおり、せいぜい稼がせてもらうとしよう。
 帰りにも寄られるならば、今月中にはまた顔を出されるだろう。
 それまでに少しはまとまった金額を作ろうと、彼は値の張る上質な酒の在庫を求め、再び酒蔵へと下りていった。


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