―― まるで、お伽話のようだと思った。
 右も左も判らない、遠く遙かな異国の地。
 死ぬような目にあったことは、一度や二度ではなかった。
 現実とは思えない。これは夢だと信じたくなるその思いは、けして日々の美しさや過ぎたる幸福の裏返しなどではありえず。
 ただただ、自身を守ることだけで精一杯であった。
 そんなある日、突然に開けた道。そして ―― 彼は見つけたのだ。
 夢のような、幻のような。けれど断じて夢でも幻でもない。
 美しく、優しく、清らかで、愛しいそれ。
 この一瞬に出会うために、己のこれまではあったのだ。
 そして、その未来を守るために、己のこれからはあるのだ。
 何の疑いもなくそう信じた。
 否 ――  そう、決めたのだ。他でもない、自分自身の意志で。
 そうして彼は、新たな生を生き始める……



 楽園の守護者  第五話 外伝
 〜 いとしきもの 〜
 ― Makoto.Kanzaki Original Novel ―
(2000/07/26 PM14:25)
神崎 真


 薄く焼かれた白磁の器には、良い香りを放つ鮮やかな色の茶がそそがれていた。添えられている焼き菓子も、料理人が腕を懲らしたものなのであろう。整えた形を乾燥果実や粒砂糖で飾ってあり、見ているだけで目に楽しいそれだ。
 今日はひどく良い天気で。大きく開けた窓から吹き込んでくる、爽やかな風がとても心地いい。
 彼らは日射しが当たる場所に絨毯を敷き、柔らかなクッションを幾つも重ね置いた一角で、穏やかな午後のひとときを楽しんでいた。
 小さな白い手が伸び、焼き菓子をひとつつまんだ。口元に運ぼうとして、ふとその動きを止める。傷ひとつない、ほっそりとした指先。桜貝のような爪が慎ましく先を飾っている。その指で焼き菓子を裏返し、戻し、横にし、また戻す。
「…………」
 まわりの者が首を傾げる前で、やがてその少女はにっこり微笑んだ。
 艶やかな桃色の唇がほころび、真珠にも似た歯並びをちらりと覗かせる。差し込む陽光すらも色褪せる、極上の笑み。
 それを見て、傍らに控えていた女官も笑顔を見せた。
「お気に召されましたか? 姫さま」
 そう言いながら、胸の前で数度指を動かした。
 少女はこくりとうなずいて、可愛らしく焼かれた菓子に視線を戻す。
 そんなわずかな動きで、肩から髪が一房すべり落ちた。柔らかく縮れた、豊かな金髪だ。明るい陽の光を受けて、金砂がこぼれるようなきらめきを放っている。
 腰を越え、クッションの上にまで毛先を散らすその房を、傍らから伸びた指がそっと戻した。少女がふと顔を上げる。振り返った翠緑の目が、見つめていた瞳と視線を合わせた。
 その視線の持ち主もまた、優しい笑みを浮かべていた。寄り添うほども間近に座り、少女のあどけない仕草を穏やかに見守っている。
「…………」
 少女が焼き菓子を示すと、その青年は無言でうなずいた。一度自分の胸を指し、それから少女を指差す。少女の表情がいっそう晴れやかなものになった。指を伸ばした右手の横で左の甲を叩き、その手を視線を伏せた顔の前へと持ってくる。応じて青年は手のひらを少女に向け、二度左右にずらした。それから親指と人差し指を立て、手首を軸にくるりと回す。
「よろしゅうございましたわね、姫さま。アーティルト様も、そのようなことはおっしゃらないで、どうぞ素直に礼を受けて下さいまし」
 少女の感謝を固辞しようとする青年に、女官が苦笑混じりに口を挟んだ。
 滅多に外出することのない公女のために、この青年は訪れる度に様々なものを持ってきてくれる。それは今度のような菓子であったり、装身具や書物であったり、あるいは任務で遠出をした際の土産話であったりした。
 それらは、国家セイヴァンの公爵家令嬢、しかも現王太子であるエドウィネルの異母妹にあたる公女、ユーフェミアにとっては、けして贅を尽くした品という訳ではなかった。が、不自由な身の上で、孤独でもある彼女のことを深く理解し、思いやって選ばれた品々は、少女にとっても、また彼女の世話をする周囲の者達にとっても、ひどく気持ちの良い、心を安らがせてくれるものであった。
 ユーフェミア=エル=グラシエナ=アルス。
 もう二十歳にもほど近かったが、とてもそうは見えない少女である。小柄でほっそりとした肢体は、まだ十代初めといっても通りそうだった。生まれつき身体が弱く、こうして一日中起きていられるようになったのも、つい最近のことだ。父親譲りの見事な金髪と若葉色の瞳は頑健な異母兄と同じだったが、それ以外にはまるで似たところなどない。たおやかで、吹く風にも折れてしまうのではないかと、そう思わずにはいられない、深窓の姫君。
 生まれながらに聴力を失っているという、その境遇がいっそう哀れを誘っているのだろう。彼女はこの国でも最も高貴な生まれにありながら、身に負った障害故に社交の楽しみも知らず、良縁も望めぬまま、ひっそりと屋敷の奥深くで日々を過ごしているのだ。
 もっとも ―― 彼女自身は、そのような屈託からは無縁のようだった。
 生来に障害を得ているということは、裏を返せばそれ以外の状態を知らぬと言うことでもある。無論、だからといって健常であることを望む心が消える訳ではないし、知らぬからこそ、いっそう焦がれる気持ちもあるだろう。しかし……足ることを知っている人間は、不可能な願いに身を焼く愚かさをも知っている。無駄な苦しみで身も心も、己も他人も傷つけるくらいであれば、全てを甘んじて受け入れ、その上で己なりの幸せを手に入れようと、前を向き努力することを選ぶ。
 彼女は、それだけの強さと聡明さを、小さな身体の内に確固として秘めていた。


『美味しい』
 ようやく焼き菓子を口にして、ユーフェミアは指文字 ―― 聾唖者が使用する手指の動きで表される言語 ―― でそう綴った。
『作った、誰?』
 問いかけに、返されるのも指文字だった。
『ウェィキィ』
 喉に傷を負い、後天的に声を失った青年は、ユーフェミアに劣らぬなめらかさで指文字を操った。
『町の食堂の主人。料理どれもとても美味しい。見た目もきれい。だからお土産』
『嬉しい。ありがとう。どんなところ? どんな人が来るの?』
『一階が食堂。二階が宿屋。昼間は食堂だけど、夜はお酒も出る。いろんな人が来る。大人、子供、男、女。町の人、旅人、商人、船乗り。たくさん』
『たくさん? 知りたい。教えて』
 もちろんと頷いて、アーティルトは横に置いていた石板を引き寄せた。その間ももう片手の動きは止まらない。指文字を綴りながら、表現しきれない部分は石板に絵を描く。指の動きはどんどん早くなり、省略も増えていく。こうなるともはや、長年使えてきた女官でもついてはいけない。
 しかし忠実なる女官は、無粋な横槍などいれなかった。
 彼女にとって大切なことは、大切な姫さまが楽しげに話を聞いていることである。ユーフェミアの元には、ときおり異母兄とアーティルトが訪ねてくる他は、滅多に人の出入りなどなかった。もうひとり同母の兄や両親もいはするのだが、忙しいのか不憫な肉親を見るのが辛いのか、滅多に足を運んできたりはしない。ユーフェミアはそれで寂しいなどと訴えたりはしなかったが、それでもアーティルトや異母兄がやってきた折りには、やはり表情が違う。彼女がこうして生き生きと楽しそうにしているのなら、会話の細かな内容に頓着するなど無益なことだった。
 まして彼は、アーティルト=ナギ=セルヴィム。生まれこそ定かならぬとはいえ、エドウィネル直々の声がかりによって、セフィアール騎士団へと迎えられた青年である。その人柄は、女官自身の目でもしっかりと確認していた。そうでなくてどうして、このように間近くになど席をしつらえようか。
 年頃の ―― というには、いささかユーフェミアの見た目は幼かったが ―― 男女二人が触れそうなほどに身を寄せていたとしても、彼らの間にやましいものなど存在してはいない。それは二人を知る誰もが理解していることだった。
 冷めはじめたお茶をそっと淹れなおし、数歩下がって部屋の隅へと控える。
 午後はまだ、始まったばかりであった。


*  *  *


 ―― 気がついた時には、彼はひとりぼっちになっていた。
 一体何が起きたのか、まるで判らない。両親とも、兄弟とも、友人ともはぐれ、たったのひとりでなじみのない世界へと、置き去りにされてしまったのだ。
 年端もゆかぬ少年を最初に捕らえたのは、無慈悲な人買い達の手だった。大陸では珍しい顔立ちと、いかにも愛されて育ったのであろう、栄養状態の良いしなやかな身体つき。それらは人買い達にとって、彼を上物と値踏みさせるに充分なものだったのだ。
 何よりも彼は、保護してくれる大人達も持たず、この国の言葉すらほとんど理解してはいなかった。さらい、売り飛ばすのにこれほど適した存在があるだろうか。膝を抱え、不安げに見つめてくるその目前に、一杯の粥を差し出し、薄っぺらな笑顔を浮かべながら手を引いてやる。それで簡単にことはすんだ。
 労働力にするには、まだ非力な幼い少年。売られていく先は決まっていた。
 人買い達には、一片の情けも容赦もなかった。その行為が何を意味するのか……いや、そもそもそんな行為の存在すらろくに知らなかった無垢な子供を、彼らは仕込みと称し、数人がかりで陵辱したのだ。小さな身体を己らの欲望のはけ口とし、泣き叫ぶその姿を見て、暗い嗜虐心を満足させた。

 そうして、身も心もずたずたにされた少年は、場末にある不法な売春宿へと引き渡されたのだった。


*  *  *


『それから? どうなったの?』
 問い返す公女の顔に浮かんでいたのは、けして無神経な好奇心などではなかった。
 ひそめられた眉には、ただただ純粋な悲哀が込められている。
 あまりな話に心を痛める公女へ、アーティルトは安心させるように頷いてみせた。
『大丈夫』
 心配することはないのだと、強張っている指先を優しく撫でた。


*  *  *


 売春宿での生活は、地獄に等しいものだった。
 まだ日も高い内から頻繁に客が訪れるそこは、あまり治安の良くないその地域でも、さらに屈指の低俗な店だった。客の多くは臑に傷持つ前科者か、もしくは捕らえられたことがないと言うだけの犯罪者予備軍だ。相手をするべく集められているのも、およそまっとうな手口で仕入れた者達ではなかった。男女を問わず、まだ年若い十代の子供がほとんどで、なかにはほんの小さな幼子も混じっている。
 ろくな食事も休息も与えられぬまま、昼夜に分かたず客を取らされる毎日。客の中にはろくでもない趣味を持つ者もおり、そんな男に見込まれた子供は生傷が絶えなかった。傷を負っても病を得ても、満足に治療などしてもらえるはずもなく。まるで櫛の歯が欠けるように、次々と仲間はいなくなっていった。だが、新入り達はいくらでも補充されてくる。
 少年が生き延びたのは、偶然でしかなかった。他の者より客の当たりが良かった訳でも、身体を壊さなかった訳でもない。死にかけたことは数え切れないほどあったし、消えない傷がそこここに幾つも刻まれていた。数年間、彼が死なずにいたことは、本当にまれなる僥倖だった。
 そうして、ようやく機会チャンスが巡ってきた。
「行こう」
 最初に言い出したのは、少年より二つほど年かさの少女だった。彼女もまた、運と偶然を味方につけたひとりで、少年が売られてくる一年ほど前からこの宿で働かされていた。手足の長い、すらりとしたその身体付きは、彼女が南方の血を引いていることを示している。だが肌の色は淡いクリーム色だ。短く切られた赤い髪から細いうなじが覗き、ぱっちりとした大きな目が猫を思わせる。
「行こうよ」
 もう一度繰り返す。声変わり前の少年のような、甘く涼やかな美声。歌うことをも売り物になると認められた少女は、小さなささやき声でも充分な力強さをもって、聞く者に訴えかけた。
「けど……」
 早朝、ほんのわずか客足が途切れる時間帯。疲れた身体を引きずるようにして部屋に戻ってきた少年少女達は、店員達の目を畏れるように、狭く汚い室内のさらに片隅へと身を寄せ合っていた。
 口ごもったのは亜麻色の髪をした少年だった。怯えた光を放つ灰色の目が、落ち着きなく動いている。
「もし見つかったら、どんな目に合わされるか……」
「殺されるかもね」
 おどおどと呟く少年の言葉を、ばっさりと切って捨てる。それがどうしたという口調だった。
「どうせこのままここにいたところで、いつまで生きられるか判ったものじゃないわ。だったら私は自由になれる機会を選ぶ。失敗して殺されたところで、こんな場所でのたれ死ぬよりはるかにましよ」
 そうでしょう?
 光る目でぐるりと一同を眺めわたす。何人かはその視線を受けて頷き、そして何人かは目をそらしてうなだれた。明らかに心を動かされてはいるのだが、やはり失敗した時のことを怖れる気持ちが強いらしい。煮え切らないその態度に、少女は舌を打った。
「あんた達、それでもいいの? 自由になりたくないの?」
「なりたいわよ!」
 別の少女が叫んだ。それからはっと息を呑んであたりを見まわす。一同も思わず身体を小さくし、室外の気配をうかがった。何もないことを確認してから、ほぅとため息をつく。
「……だけど、逃げたってどうなるって言うのよ。こんな……」
 半ば泣きそうな声で呟いた。細い右手が大きくあいた襟元を押さえる。
 そこには、鮮やかな入れ墨が施されていた。妖しい色彩と曲線を組み合わせた意匠デザインは、その持つ淫猥な意味合いを、見る者に容易に想像させる。
「こんなものつけられて、どうやってまともに生きていけるっていうの」
 暗い稼業についていたと、一目で知れる刻印。逃げて、自由になったとしても、そんなものを持つ身でまともな職になどありつけるはずもない。それどころかばれただけでも、周囲から蔑みの目で見られることは必至だった。
「そんなの、やってみなきゃ判らないじゃない」
 少女もまた、肩から二の腕にかけて彫られた入れ墨を撫でた。それでもきっぱりと言い切る。臆することなく、ただ未来を見つめる強い瞳。その輝きの前には、汚らわしいはずの入れ墨すらも、彼女を彩る装飾となった。
 彼女は、けして汚されてなどいない。こんな入れ墨も、日々その身に訪れる男達の肉も、腐った息も、けして彼女を損なってなどいなかった。彼女の身体を、心を支配し、輝かせるのはあくまで彼女自身だ。彼女が生きることを望み、諦めることなく前を見つめている限り、その魂は誰よりも鮮やかに光を放っている。毎日を共に過ごす仲間達ですらもが、その姿に一瞬瞳を奪われた。
 少年は、手を伸ばし、そっと少女の肩に触れた。
「…………」
 振りむいた瞳を見つめ返し、力強くうなずく。
 他の誰が賛同しなくとも、自分だけはついてゆく。その意志表示だった。
 どん底の暮らしの中、彼が今まで生きてこられた理由の大半は、この少女にあった。何も判らぬ自分に根気よく言葉を教えてくれたのも彼女なら、傷つけられる度に看病してくれたのも彼女だった。今の自分の生は、彼女のためにあると言って間違いない。
 たとえ、成功の確率など皆無の逃避行であっても、彼は迷うことなくついていっただろう。それが彼女の選んだ道だというのであれば。そして、最後の最後にその身を盾とできたなら、それで彼女を逃がすことができたなら、それに勝る喜びはなかった。
「行こう」
「行こう」
 二人の決意に、徐々に賛同の声が上がり始める。
 そして ――


 荒い息づかいが夜の森に響いた。
 集団脱走はすぐに店の知れるところとなり、何人もが再び捕らえられるのを目の当たりにした。見せしめを兼ね容赦なくふるわれる暴力に、上がる悲鳴が耳にこびりついている。
 が、追っ手の目を逃れるために潜り込んだ荷馬車は、幸いにもすぐ出発し、少なくとも彼ら二人だけはその夜の内に町を遠く離れることができた。
 もっとも、幸運は長くは続かなかった。
 あの界隈に出入りする者の御多分に漏れず、馬車の持ち主も裏街道を行く者のひとりだった。余人の目を避け、人通りの少ない道を深夜進むその馬車は、人里離れた森のただ中で、妖獣に襲われたのだ。
 それでもどうにか、投げ出されるように横転した荷台から無傷で脱出することはできた。そうしてそのまま手に手をとって、夜の森へと逃げ込む。
 星明かりすら満足に届かない森の中は、真の闇に等しかった。幾度も足を取られ、木々や岩にぶつかりながら、彼らは必死に走った。背後からせまる妖獣の気配に怯え、ともすれば止まりそうになる足を叱咤する。
「きゃぁッ」
 少女が悲鳴を上げて転倒した。一歩先を進んでいた少年が慌てて立ち止まり引き返す。ここではぐれれば、二度と会うことはかなうまい。互いに伸ばした手を必死に握りしめた。
「…………」
 少年の腕がむき出しになった少女の肩を抱く。その肩も、そして腕も、小刻みに震えていた。見えるはずもない闇の向こうを透かしながら、彼らは懸命に恐怖と戦っていた。
 茂みの揺れる音が近付いてくる。ぱきぱきと枝の折れる音が聞こえてくる。
 二人とも、身に寸鉄も帯びていない。己を守る、鋭い爪も牙も持ち合わせてはいない。あるのはただ、その身ひとつだけで。
 少年は少女の肩にまわしていた腕をほどくと、その身体を背後へと押しやった。迫る妖獣の気配に正面を向き、彼女を己が身でかばう。わななく喉で唾を呑み、少女の肩を押す。先に行けと。自分が襲われている間に、わずかでも遠く逃げよ、と。
 彼は己の非力さを知っていた。満足に言うことをきかぬ身体が、恐怖に震えていることも自覚していた。死にたくない。ようやくあの地獄から逃れてきた今この時に、むざむざ妖獣に食い殺されるなど、断じていやだった。けれど ――
 歯を食いしばり、必死に目を見開く。
 守りたかった。
 誰よりも、何よりも、愛しい少女。何も知らぬ自分を守り、様々なことを教えてくれた、優しく、美しく、そして強い女性ひと。母にも姉にも等しい彼女を、今こそ守ってみせたかった。
「駄目! どきなさい……ッ、どいて……!」
 少女の拳が背中を打つ。その小ささに、今さらながら気が付いた。
 行け。
 声にならない声で促した。
 逃げようとしない少女に焦りがつのる。早く、早く。もう『ヤツ』が来てしまう!
「……ッ」
 悲鳴を上げたのはどちらだったか。
 圧倒的な質量を持つものに、彼は一瞬にしてうち倒されていた。
 全身が激しく叩き付けられる。闇の中、重力の方向すらも判らなくなった。枝を折る音と、少女の悲鳴だけがわずかに知覚できる。
 必死に頭を振って身体を起こした。顔面にあてた手がぬるりとした感触を伝えてくる。上体がぐらぐらと揺れ、重心が定まらなかった。
「しっかりしてッ。大丈夫? 立てる!?」
 耳鳴りがうるさい中、かろうじて少女の声が聞き取れた。横から抱きつくように手を貸してくれている。ひらひらした仕事用の衣装が点々と血に染まっていた。それがみな自身のものであることに安堵する。
 自分など放っていけ。頼むから逃げろ。
 願う思いは、しかし少女には届かなかった。
 彼女もまた、同じことを思っているのだと、その時少年は気付いていなかった。己が少女を愛したように、少女も自分を愛していたのだと。己の命に替えても逃げ延びて欲しいと願っていた、その切ないほどの想いは、彼女もまったく同じだったのだと。
 再び妖獣の爪が振りかざされた時、少女は微笑んですらいた。
 闇の中、どうしてそれを目にすることができたのか。少年の瞳には、彼女の笑みがいつまでも焼き付いていた。ほっそりとした身体が少年のそばを離れ、襲い来る妖獣の前に投げ出される。大きく広げられた両腕は、振り下ろされる死の鎌を待ち受けるようにすら見えた。
 少年は絶叫した。人買い達によって潰された喉からは、一音も肉声など発せられはしなかったけれど。それでも少年は叫んでいた。己の全てを吐き出すかのように、ただ咆哮した。
 血にまみれた少女の唇が、かすかに動いた。何を言っていたのか、それが言葉になっていたのかすら、彼の記憶には残っていない。
 細い身体で妖獣を抱きしめるようにして、少女の姿は視界から消えた。すぐ横が崖になっていたのだと、その時になってようやく気が付く。
 だが、そんなことなどどうでも良かった。
 彼にとって意味があったこと。その生の理由として存在した全て。
 それが、その瞬間に消えたのだ。


 ……彼の意識は、そこで途切れる。
 全てを失った少年にとって、まだ出血を続けるひどい傷も、血の臭いを嗅ぎつけて集まりつつある獣達の気配も、もはや意識すべきことではなかった。慟哭する彼の周囲に、新たな獣や妖獣達が迫り ――


*  *  *


『 ―― それで、彼の借金は帳消し。お礼に、このお菓子、もらった』
 食堂の親父を襲った受難をそうしめくくると、アーティルトはにこりと笑ってみせた。めでたしめでたし、とうなずく彼に、ユーフェミアも安心したように破顔する。
『良かった』
 手のひらをあわせてため息をつく。
 にこにこと笑みをかわす彼らの姿は、はたから見ていても実に温かく、微笑ましいものだった。
 話が途切れたところを見計らって、女官がつつましく間に割り込んだ。
「あの、アーティルト様。そろそろ……」
 騎士団の訓練時間がせまってきていることを、そっと告げる。
 もうそんな時間かと、ふたりして空を見上げた。夢中になって話している内に、ずいぶんと太陽は移動していた。確かに、もうそろそろ行かなければならない時刻だ。
 いとまを告げるアーティルトを、ユーフェミアは寂しげに見上げた。が、わがままを言って引き止めるような真似はしない。彼には彼の努めがあると、ちゃんと理解しているのだ。
 また来て欲しいなどと、拘束するようなことすら彼女はしなかった。代わりに、優雅な所作で席を立ち、見送りにたった。
 戸口の所で足を止め、もういちど目を見交わす。
 アーティルトの手がごく自然に動いた。
 ゆったりと広がり流れ落ちる、黄金の髪。その一房をとり、そっと唇を寄せる。
 万感の想いが込められた仕草だった。
 言葉のない彼らには、それだけで充分に伝わるものがある。
『では』
 女官に対して一礼し、退出する。
 完璧な作法にのっとった、洗練されたその所作に、女官は目を細めて頭を下げた。


 公爵家の門外に出るまで行き違った人間は、みな心安げな笑みを浮かべて彼に礼をとった。奥付きの気むずかしげな侍女から下働きの庭師まで、公女のもとに出入りするアーティルトを知らぬ者はいない。セフィアール騎士団員というその地位と、温厚な節度ある人柄、そして王太子エドウィネルの覚えめでたいこともあり、この屋敷での彼の心証は、きわめて良いものだった。もちろん公爵その人や、その跡継ぎである若君にも、悪い印象は与えていない。
 口々に挨拶をよこす使用人達に笑顔で応えながら、しかしアーティルトは内心で皮肉なものを感じていた。
 彼らは自分を敬称づけて呼び、腰を低くして敬っている。だがこの内の幾人が、彼の過去を知ってもなお、同じ反応を見せるだろうか。
 服の上から、さりげない仕草で胸元を押さえる。
 ―― この下には、今もまだ忌まわしい入れ墨が残っていた。
 あれからもう、十年近くが過ぎる。
 売春宿を脱走し、少女とふたりで迷い込んだ森の中。妖獣に襲われ少女を失ってからの記憶は、おぼろで曖昧なものになっていた。
 ただ、死ぬことだけはできない、と。そればかりを考えていた。何をする気力も湧かないまま、ただただこの命を守らなければ、と。少女がくれたこの命を、無駄に散らすことだけはできない。それだけを思って生き抜いた。
 幾たびも妖獣に襲われ、満身創痍となりながら、それでも人里にたどり着けたのはただその一念故だったのだ。
 幸いにもその村は、正体不明の少年を快く受け入れてくれた。異国語が耳障りだからと潰された喉も、胸の入れ墨も、全身に刻まれた傷跡が隠れ蓑となった。ことに入れ墨の真上を斜めによぎる爪痕は、その痛ましさに誰もがすぐに目をそらした。ぶしつけに注視でもされない限り、入れ墨の存在に気付かれることはない。
 人格者だった村の医師は、彼の未来を思い口をつぐんだ。行き場のない彼を共に住まわせ、下働きの代わりに生活の知識や読み書きなど、様々なことを教えてくれた。
 そうして、平穏のうちに数年が過ぎ ―― やがて、村を妖獣が襲った。
 その時の気持ちを、どう表せば良いだろう。
 彼にとって、妖獣は忌むべき仇だった。誰よりも愛しかった少女を奪った、その相手。たったひとり生き残った彼は、それまでただ義務感のみで生きていたと言っていい。少女の死を無駄にはすまいと、それだけで。喜びも、楽しみもないままに、無彩色な日々を過ごしていた。そんな日常が、その時だけ色を取り戻した気がした。
 気が付いた時には、妖獣のただ中で刃をふるっていた。
 もちろん、平和な農村に満足な武器などあるはずもない。だが農具や、調理用の刃物でも充分だった。かつての不健康な生活とは比べものにならない、栄養のある食事と充分な休息、適度な運動を与えられた肉体は、幾体もの妖獣を相手に立派に戦闘力を発揮した。なにより彼には、なんとしてでも妖獣を倒そうという、揺るぎ無い意志があった。
 そして、通報を受けて到着した、破邪騎士団セフィアールを率いる王太子が、そんな彼に目を止めたのだった。
 彼はセフィアールとして破邪の力を持つ訳でも、正式な戦闘訓練を受けている訳でも、妖獣の生態に関して詳しい知識を持つ訳でもなかった。そしてそれでもなお、これだけの強さを持っている。これを迎え入れずしてどうしようか、と。
 生まれも定かならぬ平民と言うことで、入団に関してはずいぶんともめたらしかった。が、実を言うと、アーティルト ―― 当時は単にアート=ナギと名乗っていた ―― 当人にはどうでも良いことだった。騎士団の名誉だとか、王宮勤めの華やかさとか、そんなものへの興味は微塵もなかったのだ。ただ、それが他者の言う『幸せな人生への一歩』であるのなら、それを進んでいくのもいいと思った。自分には、幸せになる義務がある。だからみなが口をそろえて栄誉だという、それを受けようと。
 王宮での生活も、最初はそれまでとさほど変わらぬ、平穏で味気のないものだった。
 飢える心配もなく、毎日規則正しく与えられる訓練のおかげで、退屈することもない。出自故にあなどられ、心ない振る舞いを受けることもあったが、しょせん育ちの良い者達が相手である。かつて味わってきたえげつない仕打ちに比べれば、どうと言うことはなかった。
 が ――
『痛い?』
 小さな手が、臆することなく無惨な傷跡に触れてきた。
 何かと自分を気に掛けてくれる王太子の、母を異とする妹姫。やはり言葉に不自由だという彼女に引き合わされたのは、話し相手として、少しでも彼女の気晴らしになってくれればという試みからだった。
 寝台に身を起こした少女は、その年齢よりも遙かに幼く見えた。生まれながらに聴力を失い、病弱な体質をもった少女は、儚いほどに細く小さかった。
 けれど、惨たらしくえぐられた彼の半面を見る目には、自身も痛みを知る者が持つ、深いいたわりと共感があった。
 互いに言葉を持たぬからこそ、彼らは一目で分かり合えた。互いに互いの痛みを理解し、そして共有することができた。だからこそ彼は、年端もゆかぬ ―― 見た目の幼さを抜きにしても、彼らの間には四歳の年齢差があった ―― 少女を相手に、己の汚れた過去を隠すことなくさらけ出したのだ。
 ―― もっとも、閉鎖された環境にある彼女が、いったいどこまでそれを理解したのかは判らない。だが彼女は、アーティルトがどれほど傷ついているのかだけは、完全に理解した。そして、言葉のないままに、ただ微笑み、それを癒してくれた。


 そうして。
 彼女に出会ったその日から、世界は色彩を取り戻した。
 彼の世界は再び回り始めたのだ。彼女のために。
 満足に出歩くことのできぬ彼女を喜ばせたい。彼の目はそのためにあらゆるものを見つめ、耳はあらゆる話を聞き集めた。町を歩けば珍しい小物を探し、また噂話をあさった。積極的に日々を過ごし始めたことは、彼にとっても良い効果をもたらし、それまでほとんどなかった他者との交流も徐々に増え始めた。懸命に知識を得ようとするその姿は、多くの人々の好感を誘い ―― 今の王宮で、表だって彼を蔑む者はひとりもいない。
 もっとも、その中で彼の過去を知る者はほとんどいなかった。
 今の彼があるのは、あの過去があってこそだった。過去にあった様々な事柄の、何ひとつが欠けても、現在の彼は違ったものになっていただろう。
 その全てを知り、それでも微笑んでくれる公女ひめ ――

 この命は、彼女のために使う。

 そう、アーティルトは決めていた。
 自分を愛した人がくれた命を、自分が愛する人のために使う。
『いいよね、それで……』
 胸の内。消えることない少女の面影にささやきかけた。
 勝ち気で面倒見の良かった彼女は、きっとユーフェミアのことも気に入ったに違いない。もしも出会うことがあったなら、彼を差し置いてでも世話を焼いただろう。
 そのさまが目に浮かぶような気がして、思わず口元がほころんだ。
 ふたりの女性の面影を追う彼の目は、どこまでも優しく、暖かな光をたたえている。




 ―― 愛してる。誰よりも。
 呟く言葉は、果たして誰から誰に向けられたものか。
 甘く、そっと。
 大切なものを胸の中に抱きしめるように、優しくささやきかける。
 だから、どうか、
 と。
 幸せに……
 と ――


(2000/07/31 PM16:20)


『少女』のキャラクターイメージは、以前メルマック様よりいただいたイラストを元にしております。


本を閉じる

Copyright (C) 2000 Makoto.Kanzaki, All rights reserved.