楽園の守護者  第四話
  ―― 過ぎゆく流れ ――
 ― Makoto.Kanzaki Original Novel ―
2000/05/22 AM9:30)
神崎 真


 少年は飢えていた。
 ぼろのような衣服をかろうじて身につけ、道端にうずくまり、じっと行き交う人々を見つめている。痩せた手足。削げた頬。前髪の間から覗く大きな目ばかりが、ぎらぎらと青く光を放っている。
 まるで、野良犬か何かのような、薄汚れてみすぼらしい姿だ。
 しかしそれは、さほど珍しいものではなかった。
 養う親を持たない浮浪児達は、どこの街にも存在している。徒党を組み、盗みやゴミあさりなどで生計をたてる子供ら。建前上は行政によって保護されるべき彼らが、しかし定められた庇護を享受できることはまずなかった。まっとうな市民達はみな、痩せこけすさんだ彼らに対し眉をひそめ、追い払いこそすれ、しかるべき施設へと手ずから案内し、寝床と食物を与えてやるようなことなど滅多にしはしない。またたとえ施設に入れたとしても、彼らは束縛を嫌い、あるいはあまりにもひどい ―― そういった施設は、悲しいかなしばしば児童虐待や公金横領の場となっていた ―― 扱いに耐えかね、たいていのものは脱走し、再び路上生活へ戻ってしまうのだ。
 その少年もまた、そんな子供のひとりであった
 だが彼の周囲に、他の子供達の気配はなかった。数日前、他の街から流れてきたばかりの少年には、互いに助け合い、乏しい食物を分け合うような仲間などありはしなかった。むしろ彼は縄張りを侵すよそ者として、追われ、排斥される存在だった。
 薄汚れ黒ずんだ身体のあちこちに、いくつもの生傷が刻まれている。
 犯罪者予備軍である彼らを疎む大人達、同じ境遇にある貧しい子供達。そのどちらも、少年を受け入れてくれはしない。
 彼はただひとり、己れ自身の力で己れを守り、生かしてゆくしかなかった。



 いきなり運び込まれたその少年は、めったに事件などない平和な山村を、いっとき珍しく騒がせた。泊まりがけで山菜を採りに行った男達が、山中で倒れているのを発見したのである。
 年齢はおそらく十二、三というところだろう。一目で異国の出と判る、茶色味を帯びた黒髪と、象牙色の肌をした子供だった。
 森の中で妖獣に襲われたのだろう。彼は正直、息をしているのが不思議なほどの状態だった。村の医師は運ばれた少年を診て、まず助かることはないだろうと判断した。全身を縦横無尽に爪痕が埋め尽くし、顔面も半分が惨たらしくえぐられていた。栄養状態の悪そうなやせこけた身体つきでは、体力もほとんどないだろうと思われたのだ。
 しかし ―― それでも彼は生き延びた。
 片目を失い、言葉すら話せず。それでも少年は生きようとする意志を失わなかった。
 やがて回復した彼は、自分を救ってくれた医師の元で生活を始めた。読み書きを学び、村人達の雑用を引き受け、勤勉に立ち働くその姿は、人々の同情と好感を集めた。
 そうして彼は、徐々に己れの居場所をそこに確立していった。



 ある日、突然に呼び出された少年は、緊張と共に執務室の机の前に立った。
 机の向こうに座った父親は、黙って彼のことを見つめている。いつも忙しく、時間を無駄にすることを嫌う父にしては、珍しい沈黙だった。
 居心地の悪いものを感じて何か言おうとした時、横の椅子に座っていた男が立ち上がった。
 今まで見かけたことのない、しかし上等な身なりをした男だった。一目でそれなりの身分を持つ、有力な貴族の一員だと判る。男は機敏な動きで彼の前に歩み出ると、膝を折った。そうして戸惑う彼に深々と礼をとる。
 何年も前に亡くした母の実家が、嗣子を失ってしまったのだと、そう男は告げた。
 本来ならその次に跡継ぎとなるべきだった ―― 彼にとっては従兄弟にあたる ―― 少年も、昨年から行方不明となっており、必死の捜索にも関わらず、その行方は杳として知れなかった。故に彼を、新たな後継者として迎えに来たというのだ。
 驚愕した彼は、父の方を振り返った。
 自分は父の長男であり、この公爵家の嫡男であった。それなのにこの男は、自分に他家の当主となれと言う。
 少年の視線を受け、父は重々しくうなずいた。
 彼には母を別とする、二人の弟妹がいた。公爵位は彼らに譲ることも出来る。しかし、かの血筋を最も濃く引く者は、もはやお前しか、否、貴方しか遺されてはいないのだ、と。
 その日をもって、少年は至高の未来を約束された。同時にあらゆる義務と責任を背負い ―― そして、実父を父と呼ぶことを、許されなくなった。


*  *  *


「どうぞ、殿下」
 ことりと音をたてて、机にカップが置かれた。薄く焼かれた陶磁の器に、良い香りを放つお茶が八分目まで注がれている。
「ああ、ありがとう」
 目を通していた書類から顔を上げて、エドウィネルはそう礼を言った。応じて盆を脇へ抱えた青年が、軽く会釈を返す。
「少しご休憩なさってはいかがですか?」
 気遣うように訊いてきた。
 彼はエドウィネルとそう年が変わらぬ、金茶の髪の若者だった。名をフォルティス=アル=トーニア=イオシスという。エドウィネル付きの侍従の一員で、もっとも彼の信頼を得ているひとりでもある。
 実直かつ有能な侍従である彼は、仕事が程良く一段落つくのを見計らっていたようだった。タイミングのいい言葉にうなずいて、椅子に背中を預ける。体重を受けて背もたれがぎしぎしと軋んだ。大きくため息を洩らし、肩や首の骨を鳴らす。
「こちらは、お持ちしてよろしいのですね」
 フォルティスが決裁済みの山を手に取る。
「ああ。それからこれとこれは、後で担当の者を呼んでくれ」
「かしこまりました」
 指示を出して、湯気を上げるカップを手に取った。口元まで運び、いったん動きを止める。そうしてしばらく香りを楽しんだ。それから一口含む。ほのかに甘い。どうやらほんの少し蜂蜜が垂らしてあるらしかった。いつもはそのままで飲んでいるのだが、疲れているのを気遣ってくれたのだろう。本当によく気が付く男である。
 書類を次の間に控えた侍従に手渡した彼は、お代わりのポットを持って戻ってきた。
「お疲れさまでございます」
「このところ外に出てばかりで、書類を溜めてしまっていたからな。自業自得だ」
 目頭を揉みながら言う彼に、フォルティスは苦笑いして答えた。
「確かに。騎士団の破邪に同行なさるのも結構ですが、多少は控えて戴きたいものです」
「そう言うな。妖獣から国民を守ることこそ、セイヴァン王太子の最大の務めだぞ」
「それはそうですが、何もともに行かれずともよろしいでしょう。もう少し御身を大事になさって下さいませ」
「そうはいかんさ」
 たしなめる口調になってくるのに首を振る。こればかりは譲る訳にいかない一事だった。
「ですが殿下。もしも万一のことがあった場合、この王家はどうなると思われるのです。殿下に御子がない以上、他に王位を継げるだけの血統を備えた方は ―― 」
「……いなくもないだろう」
 その先がどう続くのかは予測がついた。いつもの小言が始まる前にと先手を打って答えたが、フォルティスはとんでもないとかぶりを振る。
「いいえ! それは確かに、完全に血筋が絶えてしまう訳ではございません。しかし遠い分家筋の皆様方では、とても正統なるセイヴァンの後継者とは申せません」
「養子なのは私も同じじゃないか」
「殿下の母君、エリシア様はれっきとした現陛下の御息女にございます! しかも父君は、先々代国王の妹君を祖母とする、アルス公爵。これ以上の血筋の者は、いまのセイヴァンにはおりません!」
 フォルティスが力説するが、エドウィネルは苦笑するだけで取り合わない。
「殿下っ」
 聞いておられるのですか。
「まったく……陛下が殿下のお年の頃には、既に母君を含め四人もの御子がおありだったというのに。殿下ときたら、浮いた噂のひとつもお持ちでないのですから……」
 ほぅとため息をつく。嘆かわしいと言わんばかりだ。
 そんな言葉は既に飽きるほどに聞かされ続けていた。彼からだけではない。重臣達からも、数少ない親族からも、そして他でもない、現国王その人からも。
 どうか一刻も早く世継ぎを、と。
「……結局、四人が一人も残らなかったんだから、皮肉なものだな」
 口中で呟いた。もちろん、フォルティスには聞こえないようにだ。
 代々出生率の低さに悩まされていたセイヴァン王家の中で、現国王カイザール=ウィルダリアは珍しく子沢山の王だった。だが慢性的な後継者不足もこれで解消される、とみなが喜んだのも束の間。第一王子は王位継承前、破邪の任の最中に死亡した。双子だったその妹も、既に嫁ぎ先で船の事故にあい死んでおり、三番目の王子もまた、立太子した直後に病に倒れた。そして四番目の姫エリシアも、生来の病弱が祟り、嫁ぎ先であるアルス公爵家の嗣子を産んでまもなく没している。
 セイヴァンの王位は、国王崩御をもって、長子に受け継がれる。そこに男女の区別はない。本来であれば、王位は二番目の姫の子、ロドティアス=アル・デ=ティベリウス=フォン・コーナが継ぐはずであった。エドウィネルの生家、アルス公爵家と双璧をなす名門、コーナ公爵家の嫡子だった少年だ。
 しかし……彼もまた、母を死なせた船の事故により、行方が判らなくなっていた。八方に手を尽くして探されはしたものの、結局遺体が見つからなかったというだけで、その生存は絶望的と見なされている。
 そうして、王位継承権六番目の、エドウィネルへと任がまわってきたのである。
 セイヴァン王家継承者、アル・デ=セイヴァンを名乗るようになって、はや十年以上になる。早くに子をなしていた現国王 ―― 祖父は、幸いにも未だ王としての努めを果たし続けている。しかし徐々にエドウィネルへと執務を譲りつつあり、『その』時がさほど遠くはないのだと、暗に示していた。
 王位を継げば、これまでのように城を空けることはできなくなる。それを思えば、一刻も早く次なる後継者を、騎士団達と共に破邪へと臨む王太子を、との声が挙がるのも当然だった。恐るべき妖獣を相手どり、危険な任務に明け暮れる騎士達を、守り支える次世代を、と ――
 だが、
「……だからといって、手当たり次第にという訳にもいかぬだろう?」
 椅子から立ち上がり、窓の方へと歩み寄った。
 見下ろせば、石畳の中庭だ。そこここに、組になって剣を合わせる騎士達がいる。目のさめるような、深い青色の制服と銀色の細剣レピア。破邪国家セイヴァンの誇るセフィアール騎士団だ。風に乗って、打ち合う剣の甲高い音や、勇ましいかけ声がここまで届いてくる。
 見知った姿を幾つか見分け、エドウィネルは微笑んだ。それから視線を上げてぐるりと景色を見わたす。
 視界の半分を占めるのは、鏡を張ったかのような、なめらかに青い湖面。
 石造りの堅牢な王宮は、湖に突きだした岬の上に建っている。徐々に高くなった土地は、先端で切り落とされたように落ち込み、険しい崖になっていた。立地条件からしても、建物の規模からしても、近辺でもっとも高い場所だ。当然見晴らしは最高である。
 岬の根本から岸辺にかけて広がる町並みも一望できた。都市計画にのっとり、放射状に伸びる石畳の道と運河で区画された、美しい王都の姿。近くの山から切り出された白い石材と、とりどりの色彩を持つ屋根とが目を楽しませてくれる。往来や運河を行き交う人々の姿が、まるで芥子粒のように小さくかすかに見えた。水面が、ちらちらとさざ波で光っている。
 平和で、穏やかな、いつまでも続くことを望まずにはいられない光景。
「殿下?」
「 ―― 判っているさ。この国を守り続けるのが、我々王族の努めだ。ちゃんと、後継者は遺す」
 それもまた、王位を継ぐ者の義務であり、逃れてはならない責任だった。それはしっかりと理解している。それに、少なくともこの景色をずっと守り続けたいと思う、その気持ちは、けして義務感などではなく、まぎれもなく自分の、エドウィネル=ゲダリウス自身の望みであるのだから。
 ただ、叶うものならば……
「共に努めを分かち合う相手くらい、じっくりと探させてくれないか」
 知性や教養、血筋を兼ね備えた人物というだけではなくて。
 共にこの先を歩んでいこうと願える女性。そして相手もそれを自分に願ってくれるひと。
 望むのは、贅沢というものだろうか。
 じっと窓の外を眺める後ろ姿に、フォルティスは小さくため息をついた。
 この方の責任感の強さは良く知っていた。いつも、むしろそこまでと思ってしまうほどに、義務や責任というものを忘れない人だった。その彼が、ようやく望んだこと。それはなんてささやかで小市民的な……難しい願いなのだろう。
 彼がこの国の正統かつ唯一の王位継承者である以上、まず叶えることはできないであろう望み。彼の持つ立場と時間が、けしてそれを許しはしないだろう。
 けれど ―― せめて、今しばらくは。
「お茶を、もう一杯いかがですか?」
 問いかけると、エドウィネルは我に返ったように振り向いた。二三度瞬きをしてから、ようやく口元を緩める。
「そうだな、もらおうか。ちょうど飲みごろに冷めたあたりだ」
 再び机の前へと戻り、椅子に腰かける。
 差し出されたカップにお茶を注ぎながら、フォルティスはからかうように笑ってみせた。
「奥方はお茶を淹れるのが上手い方だとよろしいですね」
 エドウィネルのお茶好きにはかなりのものがある。この年頃の男性なら、もっと酒などをたしなむものだが、彼はもっぱら各種の茶を愛飲している。下戸というのとは、少し違うのだが。
「お前以上の奴はいないさ」
 さらりと言う。思わず手元が狂った。
 注ぎ口が器の縁に当たって高い音をたてる。
「す、すみません。失礼いたしました」
 慌てて謝る。こぼしこそしなかったが、とんだ粗相である。
「珍しいな」
 動揺するフォルティスに、エドウィネルが苦笑する。
「殿下が妙なことをおっしゃるから」
「妙な?」
 首を傾げる彼は、自分の何がフォルティスをうろたえさせたか、まるで判っていない。もちろん、フォルティスも告げるつもりはなかったが。
 あんな ―― ごく些細な一言が、ひどく嬉しかったなどと。
 とりあえず、咳払いなどして場を取り繕う。
「さて、書類はまだ終わっておりませんが?」
「ああ、そうだな」
 生真面目にうなずいて、机に視線を戻す。未処理の束は、まだ半分以上残っていた。手を伸ばしてペンを取りながら、二三枚を目の前に引き寄せる。
「午後にユーフェミアと会う約束をしているのだが」
 手早く目を通しては署名していく。
 果たして間に合うだろうか。
「それは ―― 」
 忠実なる侍従は、目を伏せて答えを避けた。彼の主人は約束を守ることにもこだわるが、かと言ってそれで仕事の手を抜くことなど、断じて出来ない人物でもあった。
 とりあえず、次のお茶は胃に優しい家畜の乳でも入れてみよう。
 たまっていく決裁済みの書類を取り上げて、彼はひとまず退出することにした。



「よし、そこまで!」
 副団長の声が中庭に響いた。
 良く通るその声に、みなが一斉に動きを止める。
 年若い新米騎士と剣を交えていたアーティルトも、振り下ろした細剣を首筋の皮一枚残してぴたりと止めた。
「……ッ」
 荒い呼吸をつきながら切っ先を見つめる騎士 ―― カルセストに、にこりと微笑みかけて剣をひく。
「本日の訓練は以上! 御苦労だった」
 副団長の言葉に、全員がその場で姿勢を正し一礼した。
 アーティルトも額ににじんだ汗を袖で拭い、歩き始める。その後ろを小走りにカルセストが追いかけてきた。
「アートさん!」
 見上げてくる目には、率直な賛嘆の色が透けて見えている。
 まだ十代後半で、騎士に叙任されたばかりの彼は、身分的には下になるアーティルトに対しても、屈託のない尊敬を抱いてみせていた。首の後ろで束ねた亜麻色の髪が、動作の度にぴょこぴょこと弾み、まるで、仔犬が尻尾を振ってまとわりついているかのようだ。
「あの、もしよかったら、あとでもうちょっと相手してもらえませんか? 最後のこう……」
 身振り手振りで、先刻アーティルトが見せた動きを真似ようとする。
「剣をすり上げて切り込むやり方を、教えて欲しいんです」
 熱心な後輩に、アーティルトは片方しかない目をわずかに細めた。その口元に笑みが浮かぶ。半面を黒革の眼帯で覆っているせいか、いつもは表情の読みとりにくい彼だったが、珍しくはっきりとした微笑みをみせる。
 隠しを探り、手のひら大の石板を取り出した。
『夕方、なら』
 そう書き込んで、差し出す。ぱっとカルセストの表情が輝いた。
「ありがとうございます!」
 弾んだ声で礼を言い、大きく頭を下げた。ひとつひとつ大げさなその仕草に、周囲の騎士達がくすくすと笑い声を漏らす。みなこの若者の熱心さを、微笑ましく思っているのだ。
「どうだ? 運動後の一杯、つき合わないか」
 同僚がグラスを傾ける仕草をして片目を閉じた。一汗かいたところで、冷えた発泡酒などやろうという訳だ。横からそいつの肩を抱きながら、さらに数人が誘いをかけてくる。
『ごめんなさい、約束』
 石板を見せると、落胆の声が上がった。
「ちぇっ、つまんないな。もしかして……女か?」
 口を尖らせた一人が、悔し紛れのように言う。途端に一同の目の色が変わった。
「なにっ? そう言うことなのか」
「どんな相手だ!?」
 興味津々で取り巻いてくる仲間達に、アーティルトは違う、と手を振ってみせる。
「怪しいなぁ。隠してるんじゃないだろうな」
 普段、浮いた噂などついぞ流れない人物だ。うりうりと肘でこづかれて、困ったように首を傾げる。
「こらこら。困らせてるんじゃないぞ」
 助け船を出したのは、副団長だった。ひとかたまりになった彼らに、少し離れたところから声をかけてくる。
公女ひめさまからのお呼びだろう? 早く支度をさせてやれ」
 その言葉に、皆はなんだと納得した。少々落胆の色を残しつつも、あっさりと引き下がる。
 公女とは、アルス公爵家の三の姫にしてエドウィネルの異母妹、ユーフェミア=エル=グラシエナ=アルスのことである。
 彼女がしばしばアーティルトをそばに召すのは、既に王宮内でも知れわたった事実であった。とはいえ、けしてそこに色めいたものが存在する訳ではない。
 ユーフェミア公女は、生まれながらに聴力を失った聾唖者である。近親婚を繰り返す傾向にある上流貴族階級では、先天的に障害を持つ子供はそう珍しくなかった。が、そういった境遇に産まれた子供が、おおっぴらに社交界へ出られるはずもなく ―― 彼女は公爵家の一棟で侍女達にかしづかれ、ひっそりと日々を送っていた。セイヴァン次期国王を実兄に持つ、国内屈指の高貴な女性でありながら、身に持つ障害故に、表舞台には立てぬ哀れな姫君。
 しかし、兄エドウィネルは彼女をこよなく愛し、しばしばそのもとに足を運んでいた。そして、唖であるアーティルトが騎士団に入団した折りにも、良き話し相手になるであろうと、手ずから引き合わせていた。
 本来であれば、いかに訳有りの公女とはいえ、生まれも定かならぬアーティルトごときが、直接まみえられる相手ではない。だが共に言葉に不自由する存在として、彼らの交流は周囲からも広い心をもって認められていた。それには、アーティルトのセフィアール騎士団員という地位もむろん働いていたが、彼の好もしい人柄も大いにものを言っていた。
「仕方ないな。この次はつきあえよ?」
「…………」
 手を振る一同にうなずいて、アーティルトは足早に中庭を後にした。いったん周囲を囲む建物へと入り、外庭への出口を目指して大股に歩を進める。
 まだ時間には充分余裕があったが、それでも王宮内の一角にあてがわれている、自室まで戻っている暇はなさそうだった。本当なら汗を流し、きちんと着替えるべきなのだが ――
 近い棟には水浴場の設備もあったが、多くの人間が利用するそこは、できるだけ足を踏み入れたくない場所であった。となると、選べる道は限られている。


 両手で水をすくい顔を洗うと、こぼれた滴が水面にいくつもの波紋を広げた。
 運動後の火照った頬に、冷たさが心地よい。しばらくそのままの姿勢で顔を覆っていたが、やがて大きく息をついて顔を上げた。
 濡れた前髪が、額に貼りつき筋になっている。水滴が尾を引いて伝い落ちた。
「…………」
 貼りついた髪を、うっとうしげに指でかき上げる。
 そうすると、いつもは眼帯で隠されている右半面が露わになった。革で覆っていると、必要以上に熱がこもるし、汗もたまる。人目を気にしないですむのを良いことに、無惨な傷跡を心ゆくまで風にさらした。
 ―― ここは、王宮の敷地内でも滅多に人が来ない、木立の中にある泉のほとりである。
 王宮内の庭は手入れの行き届いたとても見事なものだが、場所によっては自然により近い風景を楽しもうと、ほとんど手つかずのままに残されている部分もある。もちろん、見苦しくはならない程度に、それなりに庭師が入ってはいるのだろうが、申し訳程度の踏み分け道しかない木立の中は、そこが人の住まう敷地の一部だということを忘れそうになるほどだ。
 そして、そんな風情のある場所を好ましく思う人間は、残念ながらあまりいないらしい。この近辺で余人の姿を見かけることはほとんどなかった。
 それでも一応あたりの気配をうかがってから、アーティルトはきっちりと止めていた襟元の金具を外した。飾りボタンも次々と外し、上着を脱いだ。汗を吸った肌着も思い切りよく脱ぎ捨て、上半身裸になる。
 手拭いを泉の水で絞り、手早く汗を拭いていった。
 申し分なく鍛えられた肉体である。腕も肩も胸も、たっぷり肉がついているという訳でこそなかったが、固くひき締まっている。常に長袖の衣服を、着崩すことなく身につけているおかげで、地肌の持つ生来の象牙色が保たれていた。
 しかし ――
 きめ細かい肌を冒涜するかのように、その身体には幾筋もの醜い傷が走っていた。明らかに爪痕と判る、平行して盛り上がる赤黒い古傷。背中にも腕にも、胸から腹にかけても。
 他者に見せることを厭うのも無理はなかった。もし偶然見る者がいたとしても、誰もがいたましさに目をそらすだろう。それほどにむごい姿だった。
 手早く身体を拭いて、手拭いを洗う。広げて日向に置いておいた肌着も、乾いて軽くなってきていた。
 と、
 突然、激しい葉擦れの音があたりに響いた。
 虚を突かれたアーティルトは、とっさに濡れたままの手拭いを胸元に抱えこみ、首だけで振り返った。素早く周囲を見まわす。
「なぁに、ノゾかれた小娘みたいなマネしてんだよ」
 からかうような声は、かなり高い位置から聞こえてきた。
 見上げてみれば、立ち上がった背丈ほどの高さにある枝に、腰かける人影。幹に背中を預け、張り出した枝に両足を投げ出すようにして乗せている。
 おそらくアーティルトより先に、そこへ陣取っていたのだろう。まるで気配を感じなかったが、彼が相手ではそれも当然と納得できた。
 ほぅと息をついて、アーティルトは立ち上がった。傷を隠す素振りも見せず、逆に歩み寄ってゆく。
『ずっと、ここにいた? 訓練時間も』
 指文字でそう問いかける。
 騎士団内で唯一その言語を理解する男は、あっさりとうなずいた。とんとん、と指で膝の上に広げた書物を叩く。どうやら風の通るこの場所で、のんびりと読書にふけっていたらしい。この青年は、これで意外に勤勉な読書家なのである。
『副団長、呆れてた』
「あんなかったるい手合わせなんざ、やってられっかよ」
 面倒くせぇ。
 無断で訓練をすっぽかした彼は、鼻を鳴らしてそうぼやいた。妖獣を相手取るために、団員同士で剣を合わせるなど、彼にとっては何ら価値を認められない鍛錬法だった。これで互いがそれなりに伎倆を持ち合わせているというのならともかく、『あの程度』の腕しか持たない奴らどもが相手では、暇つぶしにもなりはしない。
 言外に団員達の腕をこき下ろすのを、アーティルトは苦笑いしただけで聞き流した。
 ここで反論などしたところで、倍になった罵詈雑言が返ってくるのは目に見えていた。それに彼の剣技が、騎士団員達の水準を遙かに上回っているのも事実である。そして……彼が自分とは手合わせしてくれることもある、という実績もまた。
「で? ここで水浴びしてるってことは、なんか急ぎの用事でもあんのか?」
 訊いてくる。こくりとうなずいて手指を動かした。
「はン。姫のお呼びか」
『昼食。いっしょ』
 嬉しそうなアーティルトに、あっそ、とだけ答える。
「いってらっせぇ」
 ひらひらと手を振って、再び書物に目を落とす。その態度には愛想のかけらもあったものではない。
『邪魔した。ごめん』
 一応断ったが、視界に入っているかどうかすら怪しいものだった。
 肌着と上着を拾って腕を通す。再びきっちりと襟まで止めた。
 王都にあるアルス公爵家所有の館は、広大な王宮の、敷地内と言っていい場所にあった。王宮の建つ岬を中心に、幾重にも張り巡らされた堀の内側だ。
 いまからゆけば、時間はちょうど良い頃合いだった。
 さて、今日は何を話そうか。この間行った、自由交易都市での市場の様子、などというのはどうだろう?
 めったに外出することのない公女のために、興味を引きそうな話題をあれこれと思い浮かべてみる。瞳に浮かぶ光は、ひどく優しげなそれだ。
 かの姫は、彼にとって誰よりも愛しく、して差し上げられることなら何でもしようと、心定めた存在であった。こうしてその為に思案することは、ひどく楽しく幸せで ――
 そうだ、先日の破邪で出会った、猟師達の話がいい。
 思いついた話題に満足した彼は、足早に木立を抜け、石畳の道を大手門目指して歩いていった。



 扉を叩く音は、ノックとはとても思えない乱暴なそれだった。
 厚い木製のドアと石壁の向こうから、くぐもった声が聞こえてくる。罵るようなその声音は、既に聞き慣れた人物のそれだった。
「はいはい、いま開けるよ」
 控室の机で蔵書目録を整理していたオーリィは、大儀そうにため息をついて立ち上がった。控室と書庫の間に扉はない。さっさと通り抜けて、まだどんどんと鳴っている大扉へと向かう。
 重い木彫りのドアを、声もかけずに引き開けた。
「そら。とっとと入んな」
 脇に避けると、向こう側にいた人物が本の山を手に入ってきた。重い装丁の書物ばかり、十冊近くも抱えている。これでは前もろくに見えまい。
 ちらりとドアの下に目をやると、膝より少し低いあたりがすっかり傷だらけになっていた。毎度のことながら、いくら手が塞がっているからといって、ああも乱暴に蹴るのはやめてほしかった。もしこの傷が奥向きに見つかったら、責任は図書室を管理している自分にかかってきてしまうのだ。
 注意しても無駄なことなので実際に言いはしなかったが、かわりに下からぎろりと睨み上げる。
「コラ! 乱暴に扱うでないッ」
 許可もされないうちに控室へと入り込んだ青年は、どさりと音をたてて本を机に置いた。途端にオーリィの眉が吊り上がる。
「そいつは本来、持出禁止の貴重な資料なんじゃぞ!」
 ずかずかと大股に歩み寄り、皺だらけの手でひったくる。その弾みに爪で引っかかれて、青年はむっと眉をひそめた。
「乱暴なのはどっちだよ、糞ジジィが」
 吐き捨てる。が、口の悪さではオーリィも負けてはいなかった。問題がこと本のこととあっては、譲る気などこれっぽっちもありはしない。
「フン、それくらい放っておけばすぐに直るわ。まったく、こいつらが痛んだら、修繕するのはワシの仕事なんじゃぞ。せっかく好意で貸してやったものを、恩を仇で返す気か。この罰当たりめ」
 しかめ面でぼやきながら、ページを手早くめくってゆく。損傷や汚れがないか確認しているのだ。
「だいたい、読むなら閲覧室で読めばいいだろうが。どこで読もうとお前の勝手かもしらんが、この間なぞページに草がはさまっとったぞ。すぐに気付いたから良かったものの、染みになったらどうしてくれる。え?」
「……そりゃ悪かったな」
 青年がふてくされたように謝る。
 余人が見たら目を剥いたことだろう。あの傲岸不遜で他人の非難などどこ吹く風、という粗暴粗野な不良騎士 ―― ロッド=ラグレーが、あろうことか己の肩までしかないような老人に、言葉だけでとはいえ謝罪するなどとは。
 しかし、老人は感銘を受けた様子もなく、当たり前のようにうなずいた。
「ああ、大いに悪い。以後、気をつけろ」
「へぃへぃ」
 肩をすくめて答えると、壁に掛けてある角灯を取り上げた。
「んじゃ、続き借りてくぜ」
「待てと言うに! ここで灯を使って良いのはワシだけじゃ」
 慌てて奪い取る。
 古今東西の蔵書が多数納められた王宮内の大図書室では、管理人以外の火気携帯は厳禁されている。貴重な蔵書にもしものことがあっては、取り返しがつかないからだ。陽光での退色を防ぐため、この部屋には明かり取りの窓すら存在しない。高い天井も延々と書架が立ち並ぶゆく手も、深い闇に沈み、手持ちの明かり程度ではとても見透かすことなどできない広さだ。
 乾燥した埃臭い空気が漂う中を、オーリィを先導に進んでゆく。ロッドの長靴の踵がたてる、固い足音だけがあたりに響いた。
「ほれ、この辺りじゃ」
 目印などろくにない室内を、いったいどう歩きまわったのか。
 オーリィが足を止めたのは、階段を登った先にある、吹き抜けの回廊の途中だった。手摺りの反対側の壁は、びっしりと背表紙で埋められている。
「あれとあれがさっきの続きじゃな」
 指差した先に、数冊本を抜いた隙間がある。さっきロッドが持ってきた物が入るべき場所だ。かなり高い位置にある。背表紙を読もうと目を細めていると、老人がどこからか梯子を引きずってきた。室内のあちこちに備え付けてあるらしい。
「どら」
 登ろうとかけた手を、ぴしゃりと叩かれた。
「ワシの仕事に手を出すな」
 一言くれて、さっさと登ってゆく。
「年寄りの冷水って、知ってるか?」
「やかましいわ!」
 下から声をかけると、勇ましい返事がかえってきた。
 上までは危なげなくたどり着いた。しかし本を取り出す段になって、小さな身体が頼りなくふらつく。当然だ。厚みが手の平を縦にしたほどもある、革装丁の書物である。老人の手には相当重い代物だ。
 落とせと手を振ってみせるが、頑固な老人は断じて従おうとしない。よろよろと梯子を下りてきて、直接手渡しする。続いてもう一冊。
「そら」
「ああ」
 息を切らしながら渡された書物を、ロッドはしっかりと受け取った。
「他にはいらんのか?」
「そうだな……」
 呟いて書架に視線を走らせる。薄暗い中では背表紙の字も読みとりにくいのか、なかなか続く言葉は発せられなかった。老人の息が整う頃になって、ようやく口を開く。
「こいつにしよう」
 手を伸ばして取り出したのは、目の前にある数冊だった。やはりがっちりとしたつくりのそれを小脇に抱え、オーリィを見下ろす。
「いつまでくたばってやがんだ。いくぜ」
「ノロノロ選んどったのは、貴様の方だろうが」
 すかさず悪態が返った。
 床に置いていた角灯を取り上げる。
「言っとくが、そいつも本当なら持出禁止なんじゃからな。汚したりしたらタダじゃおかんぞ」
「あいよ」
 再び ―― 今度は出口を目指して歩き始める。
 無言で歩を進める老人の背は、曲げていることを別にしても、ひどく小さいものに見える。
「それにしても ―― 」
 やがて、ぽつりと呟いた。
「こうして本を選びに来るのは、もうお前さん達ぐらいなもんじゃな。ワシがまだ見習いだった頃には、案内の人手が足らんで往生したもんじゃったが……」
 深々と嘆息する。
 長い年月をこの書物達を守ることに費やしてきたオーリィだった。貴重な資料が損失することのないよう、整理し、修繕し、厳しく管理してきた。だが、近年ではここを利用する者などほとんどいなくなっている。若者の活字離れなどという話も耳にするが、要は自ら調べものなどするよりも、誰か他人に質問した方が楽だし早いと言うことなのだろう。
 開かれなければ、書物が傷む道理もない。置き場が判らぬと探しまわる必要もない。全てが彼の思う場所に、思うように納められている。しかし ――
 書物とは読まれてこそのものだった。それを読み、得た知識を活用する者があってこその資料だ。いかに膨大な蔵書があろうとも、保存状態の優秀さを誇ろうとも、利用されなければ意味がないのだ。
「ジジイのくり言か?」
 辛辣な言葉に、思わず苦笑いが漏れた。
「かもしれん」
 ここまで遠慮のない物言いは、いっそ心地が良かった。喉を鳴らして笑う老人に、ロッドはつきあいきれないというように、はっと息を吐く。
 大扉の前まできて、立ち止まった。
 両手が塞がっている青年の代わりに、ドアを開けてやる。ロッドはいつも通り礼も言わずに出ていった。閉めようと体重をかけて押す。重い扉はわずかに抵抗してから、ゆっくりと動き始めた。
 扉が完全に閉じる寸前、ロッドがこちらをふりむいた。隙間から届く角灯の明かりに、きらりと一瞬その目が光る。
「じゃ、またな」
 一言。
 答えを返す間もなく、音をたてて扉が閉まる。
 老人は、しばらく無言でその場に立っていた。残響が消えた後、油の燃えるかすかな音だけが耳に響く。
「……ああ。また、な」
 やがて、言い損ねた返事を呟いて、彼はきびすを返した。
 控室に入り、持っていた角灯を壁につり下げる。再び椅子に腰を下ろした。
 そうして彼は、中断していた目録の整理を、もう一度始めたのだった。


*  *  *


 彼は、ゆっくりと閉じていた両目を開いた。
 玉座に深く身を預けた姿は、まるで年経た古木のように痩せ衰えている。肘掛けに置いた両手の皮膚は、たるんでいくつもの染みを浮かべ、骨との間にある血管の存在を、くっきりと透かせて見せていた。頬が削げ、目の下も落ちくぼんで幾重にも皺になっている。顔色には血の気が無く、どう贔屓目に見ても半病人としか言えなかった。
 だが、
 目蓋の下から現れた双眸は、深く澄んだ光をたたえていた。静かに落ち着いた、しかし揺るぎない力を感じさせる瞳だ。凪いだ湖面を思わせる、深蒼の輝き ――
 額にまわした銀細工の額環サークレット。その中央にはめ込まれた宝珠と、良く似ている。
「愛し子、達よ……」
 つぶやく声は、掠れてほとんど聞き取れないものだった。
「陛下?」
 傍らに立っていた初老の騎士が、いぶかしむように問いかける。それに気付いた様子もなく、彼は深く息を吐いた。呼吸と共に、残された力すら吐き出してしまいそうな、長く、震えたため息だった。
「いま少し ―― いま、少しだけ ―― 」
 それだけ言って、力尽きたように再び目を閉じる。
 続く言葉を待って、セフィアール騎士団団長は、腰を曲げて耳をその口元に寄せた。しばしそのまま様子をうかがう。が、それきり口が開かれることはなかった。
 背筋を伸ばし、姿勢を正す。
 既に一線を退いた彼にとって、この、玉座の傍らこそが居るべき場所であった。かつて共に戦場にあり、破邪の任をこなし続けた主君に、最後まで忠節を尽くすことこそが、今の彼の努めである。
 騎士団員達に破邪の力を与える。長年にわたりその役目を果たし続けてきたことで、この方はすっかり老い衰えてしまわれた。歴代の王の中でも、最も長くその座にあり続け、誰よりも国に尽くしてきた、素晴らしき国王。
 騎士団の長として……その恩恵を受けてきた者として、もう遠くなく訪れるであろうその最期から、目をそらすことは許されなかった。
 ―― だが、
 そう。まだ時はあった。
「いま、少しだけは……」
 口の中でひっそりとつぶやく。

 その言葉に、反応する者は誰も、いなかった ――


(2000/05/30 PM17:25)



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