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 楽園の守護者  第二話
  ―― 運河の街 ―― (後編)
 ― Makoto.Kanzaki Original Novel ―
 
神崎 真


 幸い少年を追うのはそう難しくなかった。確かに彼の足は相当に速かったが、その小柄な身体が走り抜けたあとは、決まって通行人が道を開け見送っているので、それをたどっていくのは楽なことだった。あまり愉快な想像ではなかったが、まわりの人間は私が掏摸スリかなにかを追いかけているととったようだ。
 だが大通りをはずれ狭い路地に入り込むと、その背中はすぐに見えなくなってしまった。入り組んだ建物の間をなんとか足音と気配を頼りに走る。
 方向の感覚はあっという間に狂った。あたりはどんどんさびれてゆく。足元はかろうじて舗装されているが、組み合わされた石の上には得体の知れないゴミが散らばっているし、両脇の壁も妙に汚れていて、あちこちに染みが浮き出ている。空気に嫌な臭いが混じり始めた。腐った泥や排泄物の放つ臭い。思わず走りながら鼻を押さえる。
 角を曲がると唐突に視界が開けた。
 目の前に先を走っていた少年の背中。
 その向こう。中空にあるのは、今まさに襲いかからんとする妖獣の姿だ。
「危ない!」
 とっさに少年の肩を掴んで引き寄せていた。間に合わないとは判っていたが、せめて腕一本で済むよう、逆の手を前方へとかざす。
 衝撃は予想しなかった方向から来た。
「邪魔だ! ボケぇッ」
 横合いから私を蹴り倒したロッドは、持っていた荷物で妖獣を殴りつけた。ひとかかえもあるアメーバ状の妖獣は、ぐにゃりと変形して石畳に叩きつけられる。
「ふんっ」
 荷物にまとわりついたまま離れようとしない妖獣を、ロッドは力任せに持ち上げた。相当な重量があるだろうそれを、苦もなくふりまわし、今度は壁へと叩きつける。さすがの妖獣も力を失い、ずるりと剥がれ落ちた。
「いつまでも転がってんじゃねぇよ」
 我々を見下ろして怒鳴りつける。私は慌てて起きあがった。下敷きにせぬよう、どうにかかばい通した少年を立たせる。
「怪我は?」
 問いかける。だが衝撃が大きかったのだろう。ただ驚いたような顔で私を見つめ返すだけだった。ざっと身体に視線を走らせ、目立つ負傷が無いことを確認する。
「ここは危ない。下がっていなさい」
 安全圏を求めてあたりを見まわす。
 そこは倉庫街の一角らしかった。もう使われていない、すっかりよどんだ水をたたえた運河のほとりだ。並ぶ倉庫の扉も、長らく開かれた形跡はない。中身は空か、そうでなければ潜り込んだ浮浪者のねぐらになっているか。本来の用途はとうに終え、うち捨てられた施設達だ。
 元は荷物の積み卸しを行っていたあたりに、いくつかの木箱が残っていた。建物と積み上げられたそれとの間に、幾人かの子供達が身を寄せ合っている。そのまわりを年かさの、とは言っても十代後半とおぼしき少年達が、棒きれや石を手に取り囲んでいた。もちろん、子供達を妖獣から守っているのだ。
「この子も頼む」
 引きずるようにして少年を彼らの方へ連れていった。守られている子供達の間へ押し込み、背中をむける。とっさに抜いていた剣をいったんおさめ、鞘ごと腰から外して構えた。
 アメーバのような妖獣 ―― 確かゾルバと言った ―― は、運河の中から続々と這い上がってきていた。動きはさほど早くはないが、とにかく数が多い。こいつらは獲物を体内に取り込むと、強力な消化液でじわじわと分解し吸収するという、ぞっとしない食性を持っていた。油断して貼りつかれた日には、表皮を溶かされのたうち回る羽目になる。先刻のように壁を這い昇り、死角から降ってくる場合があるから要注意だ。
「アーティルト!」
 ロッドが高らかに呼ばわった。応じてゾルバの真ん中で棒を振りまわしていた青年が振りむく。ロッドと同じく、セフィアールの青い制服をまとった年若い騎士。アーティルト=ナギ=セルヴィムだ。黒い革製の眼帯で半面を覆った彼は、残る片方の瞳でロッドを認め、ぱっと表情を輝かせる。
「使え!」
 声と共にロッドが投げた荷物を、あやまたず片手で受け取める。包んでいた布を素早くほどき、伸び上がってきたゾルバに被せた。その上から乗馬靴で踏みつけ、続くもう一体を手にしたばかりの剣で刺し貫く。
 貫かれたゾルバはびくびくと痙攣し、その場で力を失った。水たまりのように石畳に広がり溶けてゆく。見事な技だった。正確に急所を貫かねば、ああはいかない。少なくとも私では、逆に剣を奪われるのが落ちだった。
 ぴぅ
 アートが軽く口笛を鳴らす。ちらりと投げた視線はロッドにむけてだ。
「は! 言っとくが、市庁舎から適当にかっぱらってきたヤツだからな、質は保証しねぇぜ?」
 おしである彼から寄こされた感謝の意に、ロッドはそんな憎まれ口を返した。その間も鞘ごと抜いた段平でゾルバを殴りつけ、あるいは運河へと蹴り落とす。
「一体これは何事だ! 妖獣はすべて倒したんじゃなかったのか!?」
 私も近付いてきたゾルバを殴った。あまり応えた様子はない。嫌悪感を堪え、たぷつく身体の下に剣を押し込んだ。
「手伝ってくれ」
 少年達に声をかけた。剣を梃子にして何とか持ち上げようとする。少年達はわずかにためらったが、二三人が力を貸してくれた。剣と棒とで半ば引きずるようにして運河へ押しやり、最後はロッドにならって蹴り落とす。
「ああ、倒したとも! 大通りに出てきた分はなっ」
 怒鳴りざま、ロッドが二体を続けざまに叩きつぶす。さほど大きさのないそれらは、段平の一撃であっけなく潰れて広がった。
「正当な市民権を持つ、まっとうな人間達と、その財産はきっちり守ったさ。けどな ―― 」
 言いかけたロッドの頭上に影が落ちる。はっと空を仰いだ彼へと、平べったく広がったゾルバが覆い被さった。振り下ろしたばかりの重い段平では間に合わない。
 すっとロッドは頭を下げた。その場を動くことなく、ただ姿勢を低くする。それだけではほんの一瞬、時を稼いだにすぎない。だが、それで充分だった。いつの間に近付いていたのか、背後にいたアートが横薙ぎに剣を振るう。峰打ちにされたゾルバは、見事に吹っ飛んで壁にへばりついた。すかさずロッドが立ち上がり、段平を叩きこむ。
 甲高い悲鳴が上がった。慌てて後ろを見ると、子供達の真上の壁に小振りなゾルバが数体貼りついている。
「こっちに来なさい!」
 手近な子供を建物のそばから引き離した。しかし怯えてなかなか言うことを聞こうとしない。焦る我々の上でゾルバが壁から離れた。開いて落とした布のように、大きく身体を広げて降ってくる。
 一匹目は剣で叩き落とした。が、後が続かない。挙げた左手にべっとりと貼りつかれる。幸い袖の上からだった。消化液を分泌されるより早く、腕ごとそばの木箱へ叩きつける。空っぽだった木箱は景気良く割れ、ささくれた木片がゾルバの肉に食い込んだ。力を失い、ずるりとはがれ落ちる。
 駆け寄ってきた二人が残りを始末した。幸い犠牲者はない。
「これではきりがないだろう。どうして術力を使わないんだ」
 叫んだ。
 本来ゾルバはけして手こずるような相手ではない。確かに直接攻撃でもなんとか倒せる程度の奴ではあるが、セフィアールの破邪の力をもってすれば、一撃で簡単に滅せるのだ。
 だが言った直後に私は後悔した。
 使わないのではない。使えないのだ。
 彼らはもともと、あまり術力に頼らない方だった。妖獣の習性や急所を熟知し、いつも極力、力を浪費せぬ戦い方をする。だが、術を使わねばならない時は、ためらわず行使した。いま、この時に出し惜しみなど、するはずがない。
 昨夜、市庁舎にはいなかった二人。私の元へ力の回復に来なかった彼らに、どうして充分な術力が残っているだろう。まして ―― もしもただ二人、昨日からずっとこうした破邪を行っていたのだとしたら……
 アートが困ったようにちらりと笑みを見せる。片方しかないその目の下には、隠しようのない黒ずんだ影があった。弱音や言い訳を吐くことをせず、またそれが出来ぬ彼に、私は無体な言葉を投げつけてしまったのだ。
「手を ―― 」
 腕環をはめた右手を差しのべる。宝珠は既に紅い。数秒だ。数秒、手を重ねるだけで良い。それでわずかなりとも力は回復する。
 しかし我々の間を割るように、ゾルバが降ってきた。アートは反射的に手を引き、構えた剣でゾルバに斬りつける。
 ロッドが罵りの声を上げた。気が付けば子供達を中心に、すっかり囲まれている。いかに相手の動きが鈍いとはいえ、手足を剥き出しにした子供達にとっては、完全に退路を断たれてしまっている。
 私は彼らを背後にかばった。しかし革製の乗馬靴も、縫製のしっかりした長袖の衣服も、ゾルバの消化液を完全に防いでくれる訳ではない。
 どうする。このままではみなやられてしまう。せめて年少の者達だけでも、なんとか逃がさなければ……
 唇を噛みしめる。なにか、なにか手はないかと、二人に問いかけようとした。
 と、その時。
 あたりに喚声が響きわたった。
 手に手に武器を持った大人達が、つぎつぎと路地から駆けだしてくる。
 男も女も入り混じっていた。手にしているのは少年達と変わらないような、粗末な物ばかりだ。しかし体格と人数、気合いが違った。
「この野郎ぉ! くたばっちまえ」
 先頭に立った男が、スコップでゾルバを殴りつけた。その横から荷運び用とおぼしき長い棒を持った男が、先端を柔らかい身体へと突き込む。二三人の女達が箒を振り上げ、一匹を袋叩きにする光景もあった。
「な……」
 突然の展開に、不覚にも我を忘れて立ち尽くした。そんな私の前を横切って、まだ五六歳くらいの少女が、子供達の元へと走り寄ってくる。彼らは歓声を上げて少女を迎え入れた。
「みんな、へいき? だいじょうぶ?」
 少女はほとんど半泣きだった。薄汚れた裸足の足の、あちこちがすりむけて血が滲んでいる。
  ―― どうやら少年がロッドを呼びに来たように、この少女が大人達の助けを求めに行っていたらしい。
 そう推測したところで、私ははっと目を剥いた。
「ま、待て!」
 思わずそう怒鳴りつけていた。
 自慢する訳ではないが、普段命令を下し慣れている私の声は、かなりよく通る。包丁を振り上げていた女性が、びくりと動きを止めた。
「ゾルバを相手に闇雲に斬りつけては駄目だ。消化器官を傷つけると、溶解液が噴き出してくる。浴びたらひとたまりもないぞ!」
 言いながらそちらへと駆け寄る。
「このあたりだ。正確に貫かないと暴れて刃物を持っていかれる」
 三人がかりで押さえ込んでいるゾルバをのぞき込んだ。濁った表皮越しに、脈打つ器官がぼんやり透けて見える。女性はうなずくと両手で包丁を構えた。慎重に狙いを定めふりおろす。
 少しむこうで悲鳴が上がった。ゾルバに片足を呑み込まれた男が、地面を転がりながら必死に手足をふりまわしている。数人が走り寄って引き剥がそうとした。
「直接触れるな! 火傷するぞ」
 私もそちらに向かいながら、ボタンを外し上着を脱いだ。それをぐるぐると片手に巻き付け、幾重にもなった布越しにぬめるゾルバを掴む。思いきり力を込めるが、収縮した肉の塊はなかなか獲物を離そうとしない。
「あ、あの、これを……」
 一人の女性が小さな壷を抱えてきた。中身は白い結晶。塩だ。ありがたい。
「かけてくれ」
 言いながら、待たずに空いた手を突っ込んだ。掴みだしてぶちまける。
 表皮の水分を奪われて、ゾルバは苦しげにのたうちまわった。力が緩んだのを逃さず、足をひっこ抜く。
「すぐに水で洗うんだ。痛がるだろうが、とにかく消化液を洗い流せ」
 指示する。男は即座にひきずっていかれた。
「もっと塩はないか! 水際に撒けばこれ以上はあがってこれなくなる」
「お前ら、買ってこい!」
 ロッドが隠しから財布をだした。丸ごと近くの子供に投げ渡す。子供達はうなずくと全員で走っていった。重い塩を運ぶには、彼らの手だけでは足りなかろう。アートがさらに数名の大人に金を渡し、後を追わせる。
「兄ちゃん、こっちも頼むっ」
 横合いから助けを求められた。見れば背中から貼りつかれた男を救おうと、数名がとり囲んでいる。
「ああ、今いく」
 右手の上着を巻き直し、私はそちらへと足早に向かった。


*  *  *


 数刻後、我々はてんでに座り込み、荒い息をついていた。
 あたりはひどい有り様だった。潰れたゾルバの残骸と運河のヘドロが石畳にこびりつき、ところかまわずぶちまけられた塩が、あちこちで半溶けになっている。ゾルバの消化液は空気に触れると数分で効力を失うから、既に害はないが、潰れた身体から洩れだしたそれは自らを分解し、鼻をつく刺激臭を発している。よどんだ水が放つ臭気とあいまって、空気は吐き気をもよおす臭いに満ちていた。
 もっとも、我々の嗅覚はとうの昔に麻痺している。乱れた呼吸を整えるべく、みなせっせと酸素を補給していた。
「兄貴、これ返すぜ」
 子供のひとりがロッドに財布をさし出した。ほとんど空になっているのが一目で判る。残った数枚の小銭を、ロッドは子供達に渡した。
「何でもいい、飲み食いできるモン頼む。釣りは駄賃だ」
「あいよ!」
 ぱっと子供達の顔が輝く。たとえわずかばかりの小銭でも、彼らにとっては貴重な収入だ。二三人が先を争うように走ってゆく。
「塩代は後で申請してくれ。経費から出させよう」
 上半身は肌着一枚。地面に直接あぐらをかき、壁に背中をもたれさせるという、いささか行儀の悪い格好でロッドを見上げた。彼は立ったままだったが、さすがに近くの建物へと寄りかかっている。
「あたり前だ」
 財布を隠しにつっこみながら言った。いくら物資流通のさかんな街だからといっても、塩はやはり貴重品だ。これだけの量となると相当の散財だったはず。
 はたと気付いて、周囲を見まわした。
「さっきの女性……彼女の分も……」
「もう払った」
 私が彼女を見つけるより早く、ロッドはあっさりと答えた。
「そ、そうか」
 手まわしの良いことだ。それとも最初からそういう話だったのだろうか。考えてみればあの場で彼女が塩を持っていたのも、あのたぐいの妖獣は蛞蝓なめくじと同じで塩に弱いのだと、どちらかから教えられたからかもしれない。騎士がたった二人という、絶対的に術力が足りない状況では、人力も物資も使えるものは全て使わねばならなかっただろう。
 問題は、何故に彼らだけがこうして妖獣を相手にしていたのか、だ。
「これは一体どういったことなんだ?」
 私は中断していた問いを再び投げかけた。
「妖獣がまだ残っているというのなら、それを相手取るのは騎士団の努めだ。なぜ皆に知らせて協力を仰がない」
「協力? はっ」
 ロッドは荒っぽい仕草で天を仰いだ。短く息を吐く。それは嘲笑ともため息とも取りがたい、投げ遣りなものだった。
「する訳ねぇだろうが、あのボケ共が」
「どういう意味だ」
「言っただろう。このあたりはスラムさ。クズ共の吹きだまりだ。お偉い貴族の騎士様がたが、お御足を踏み入れて下さるような土地じゃねぇんだよ」
 揶揄するような、わざとらしく使われた丁寧語。再びこちらを見たロッドの目は、この私が身震いするほどの、凄みに満ちた光をたたえていた。反論しようとしていた舌が凍り付く。
 隣に座るアートを見た。彼は困ったように目をそらせた。周囲の人間を見る。共に座り込んだエレネスの住人達は、私の視線を受けて次々にうなずいてみせた。
「あんたも貴族らしいけど、あのいけ好かない奴らと会ったことないのかい?」
「尊い騎士様だかなんだか何だか知らないけどさ、偉ぶってるろくでなしどもさ」
 まず口を開いたのは、がっしりとした身体つきの、年輩の女性達からだった。おそらく一家を預かる主婦なのだろう。荒れた化粧気のない肌に、無造作にひっつめた髪型。肉のたるんだ太い手はあかぎれだらけの、私が暮らす王宮などでは、まず見かけることのない種類の女達。だが女性特有の、生活に根ざしたたくましさが感じられる。
「あたしらだって、一応は訴えに行ってみたよ。相手にもされなかったけど」
「怪我人が出たとかでね。あたしらの身なりを見るなり、邪魔だ、どけの一言さ」
「話を聞いてくれたのは、この二人だけだったよ」
 互いに顔を見合わせ、ねぇと同意する。
「あんな奴ら、こんなこ汚いスラムになんか、来てくれやしないんだ」
「そうそう、せいぜい表通りに現れたのを狩ってくぐらいさ。市民権も持たないで、勝手に住み着いてる住人なんざ、いくら襲われたって知ったこっちゃないんだよ」
「むしろ街がキレイになるって歓迎してるくらいさ」
「そ、そんなことは……」
 否定しようとする私の肩を、今度は男達が気安げに叩いた。
「そう言うモンなんだよ、兄ちゃん」
「お貴族サマってのぁな、口じゃキレイなこと言ってっけど、しょせんは手前ぇらのことしか考えちゃいねんだ」
「俺達みてぇなクズにゃ、近づくのもごめんだとさ」
 遠慮のない言葉には、しかし陰湿な響きはなかった。当たり前のことを当たり前に説明する、そんな口調だ。乾いて、落ち着いたその話しぶりは、どこか笑いを含んだ陽気さすら感じられる。
 ……彼らにとって、そんな差別はいつものことなのだ。既に期待をし、裏切られたと恨みを抱くことすらやめてしまった、日常的に存在する事実。
「あんた、いいとこのボンボンみてぇだけど、なんでこんなとこに紛れ込んだんだ。道にでも迷ったのかい?」
 問いかけてくる表情に悪意はなかった。あるのは純粋な疑問と ―― わずかながらの気遣い。貴族ではあるけれど、なりゆきで共に戦った私のことは疎んだりせず、そうして訊いてくれる。それが、彼らなりの礼儀なのだろう。
 貴族階級の人間が、みずからこのような場所になど来るはずがないと、それがここに住まう彼らにとっての、当たり前の認識なのだ。
  ―― 見放されている。
 そう思った。彼らが行政に、ではない。行政の方が彼らから見放されている。
 彼らは我々に、何も求めてはいない。何も求めず、期待をせず……我々の存在を必要としていない。彼らの生活において、我々貴族は ―― セイヴァン王家はなんの役割も果たしていないのだ。
 愕然とした。
 セイヴァン王家は妖獣を狩るために存在する。セフィアール騎士団もまた、そのために設立された。そしてそれ以前に、身分や権力とは、弱者を守るためにこそ生みだされたものだ。なのに……
 妖獣を狩らない騎士団。貧しいからと一方的に卑しみ、弱者を守ろうとしない貴族達。そしてそんな彼らの頂点に立つ我が王家。
 その存在価値はどこにある。我々が民衆より一段上に置いてもらえている、その理由はどこにある。それはただひとえに、我々に彼らを守る能力があったからではないのか。民衆達を妖獣から守り、その文化的生活を保証する、その為ではなかったのか。努めを果たす代わりに、わずかばかりの財産と、権力を与えられている、ただそれだけではないのか!?
「兄ちゃん?」
 沈黙した私の顔を、何人かがのぞき込んでくる。
「どうした。どっかケガでもしたのか?」
「おい、血ぃ出てるじゃねぇか」
 そう言って一人が私の腕を掴んだ。
 見ると確かに裂傷ができていた。おそらく木箱の破片があたったのだろう。左腕の手首から肘にかけて、何ヶ所か血が滲んでいる。しかし、既に血も固まりかけているそれらの傷よりも、うっすらと赤くなった歯形のほうが、私の目を釘付けにした。
 もうほとんど消えかけた、小さな子供の歯形。大通りで捕まえた少年が、怯えた叫びと共に噛みついてきた痕。
 私はただ、引き止めただけだった。事情を聞かせて欲しくて、走り去ろうとする腕を掴んだ、ただそれだけのこと。だが少年はどんなふうに感じたのか。歯を立ててまで逃げ出そうとする、そんな行動をとらせてしまうような、どんな経験を今まで積んできたのか。
「……大丈夫だ。たいした怪我じゃない」
 かろうじてそれだけを言った。布で傷を拭おうとしてくれる手から、そっと腕を取り戻す。
 満足に義務も果たさず、ただ与えられる恩恵だけを貪る我々。クズなのもダニなのもこちらの方だ。
 情けなさに、身の置きどころがなかった。



「おまちぃっ」
 にぎやかな声と共に、子供達が戻ってきた。
 手に手に紙袋や、串に刺して焼いた肉などを持っている。
「買ってきたぜ、兄貴」
「おぅ」
 ロッドが嬉しそうに受け取った。さっそくかぶりつく。
 旺盛な食欲だ。周囲の状況はとても食事に適しているとは思えないが、またたく間に一本目を平らげ、次の串に取りかかる。アートもゆっくりとではあったが、しっかりと口を動かしていた。二人とも実に美味そうに物を食べる。
 ぼんやりと彼らの食事を眺めていた私に、湯気の立つ椀が突きつけられた。
「…………」
 そちらを見ると、むすっとした顔で頬を膨らませた少年が、両手で椀を差し出していた。さっきロッドを呼びに来た、あの少年だ。私は思わずまじまじと彼を見返した。
「食わねぇのか」
 ロッドが見下ろしてきた。
 少年は無言で椀を押しつけてくる。木を削って作った、粗末な器だ。中に粥が盛られている。家畜の乳で雑穀を煮て、酒を入れたものだ。わずかばかり肉片が混じっている。
 少年は無言のままで動かず、私が受け取るのを待っていた。はっと我に返り、椀を手にする。匙はない。仕方なく直接口へ運んだ。
 と、そこでふと動きを止めた。
 これは表通りの屋台で売っている粥だ。そう高いものではない。しかしロッドが渡した小銭もわずかだった。私の分まで食料を買っては、釣りなどほとんど残らなかったはずだ。
 目を上げて少年を見る。彼はまだそこに立っていた。上目遣いで、私の動きをじっと見ている。私が食べるのを待っているのか。
 椀を傾け、一口すすり込んだ。
「 ――― 」
 思わずため息が洩れた。
 美味い。
 考えてみれば、目が覚めてから何も口にしていなかった。
「うまい?」
 少年がぽつりと訊いてきた。私は何も言えず、ただうなずいた。それを見た少年が、にっと笑う。輝くような、心の底からの笑顔だった。
 くるりときびすを返し、仲間達の方へと走ってゆく。
 驚いて見送る私の頭を、ロッドが軽くはたいた。見上げると、視線はあさっての方向をむいている。不審に思ってアートの方をうかがった。視線が合うと、柔らかい微笑みが返ってくる。
『助けた。お礼』
 彼の手指がそう形作った。そしてゆっくりとうなずいてみせる。
 ……胸の奥からこみ上げてくるものがあった。
 とっさに顔を伏せる。そうすると手の中の椀をのぞき込む形になって、さらに動揺した。
 礼など言ってもらえる筋合いではなかった。私は私の義務を果たしただけで、その見返りは王族という立場を得ていることで、既に充分もたらされている。過分にすぎるほどに。貧しい彼らにとって貴重な金銭をはたき、食事をふるまってもらう権利など、私ごときにはないのだ。
 けれど ――
 嬉しかった。不覚にも涙がこぼれそうになるほどに。
 昨夜、騎士達の傷を癒し、術力を回復させた時は、こんなふうには感じなかった。確かに義務を果たした達成感はあったが、ただそれだけだった。なのに何故だろう。正直なところ、今回の私は義務だのなんだのとは、ほとんど考えていなかった。ただ成り行きで破邪に立ち合い、成り行きで子供達を守った。それなのに、彼らを守れたことが……少しでも感謝してもらえたことが、こんなにも嬉しい。
 義務ではなかった。努めではなかった。
 ただ私が彼らを守りたいと思い、そして守れた。だからなのかも知れない。
 両手を温めるように椀を持ち直した。素朴な木製の椀は、湯気を上げる粥の熱を、ほどよいぬくもりに和らげてくれる。
  ―― 血の気が引いて冷えてゆく指先も、手首の痛みもまったく気にならなかった。
「アート。手を」
 紅く染まった腕環の石を差し出す。
 緊急時でもなし、大切な儀式をこんな場所でするべきではないのかも知れない。だが、疲れ切った彼を一刻でも早く癒してやりたかった。
 他でもない、『私が』そうしたかったのだ。
「騎士達には、この界隈を徹底的に調べさせよう。運河の底に巣があるはずだ。必ず見つけさせる」
「おおかたゴネるぜ」
 ロッドが揶揄するように言った。
「命じるさ。誰が何と言おうと、絶対にさせる」
 断言した。
 ロッドが口の端を上げる。嘲りの混じった、突き放すような口調。
「せいぜい期待しとくさ」
「ああ。してくれ」
 うなずいた。
 何も求められることなく、黙って見放されるよりはずっと良い。かけられた期待は、たとえどんなに重くとも、叶えるべく努力することができるのだから。
 回復を終えたアートの手を離す。
 続いてロッドの方へと手を伸ばした。
「お前もだ、ロッド」
 ロッドはしばらくじっとこちらを眺めていた。
 やがて、ひとつ息をついて右手を重ねてくる。アーティルトのそれと同じく、傷跡だらけで皮膚も硬くなった、まるで労働者のような手のひら。それはけして、彼らの育ちや破邪における未熟さを表しているものではない。
「ひっくり返っても知らねぇぞ、エドウィネル」
 苦笑する。セイヴァン広しといえども、私を呼び捨てにするのは、現国王とこの男ぐらいだった。
「薄情だな」
「ひきずってくぐらいなら、してやってもいいぜ」
「その時はせめて頭の方を持ってくれよ」
「王太子がタンコブだらけじゃ、サマになんねぇか」
「そういうことだ」
 我々のやり取りに、アートがくすくすと笑っている。その周囲では、エレネスの住人達が目を剥いていた。



  ―― 彼らに期待をされたいと思う。
 この国の繁栄、そして自分達の生活は、王家によって支えられているだと、みなにそう言ってもらいたい。そしてその繁栄がこの先も不動の物なのだと信じて欲しい。
 いまは切実にそう思った。
 ない保証は作ればいいのだ。私の、この手で。
 それが王位を継ぐ者の義務であり、努めであり ――

 なによりも、私自身の望みであった。

(2000/03/10 PM04:22)
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この作品は、高原 旭さんのHPへと貢がせていただいております。


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