あるいは ―― それは、ごくささいな意趣返しに過ぎなかったのかもしれない。
国を傾けるだとか、王家に反旗を翻すだとか、そんな大それた考えなどは毛頭
抱くことなく。
ほんのわずかな妬心と、本来ならば得られていたはずの現在との食い違いに、少しずつ蓄積していた鬱屈を、解消したかった。ただその為に、些細なことに対してしばしのあいだ口をつぐんだ。それだけのことでしかなかったのかもしれない。
けれどそれは、彼のような立場にある人間に、許される行動では断じてありえず。
目の前に立ち、厳しい瞳を向けてくる人々を前に、彼は足元から這いのぼってくる戦慄に、ただその身を震わせていたのだった ――
* * *
コーナ公爵領を、未曾有とも呼べる妖獣の大発生が襲ってから、半月。
本来であれば、半月が半年、いや一年であってもまだ復興には至らぬかもしれぬ大きな痛手を負った街だったが、そこはさすがに二大公爵家の一に数えられているコーナ公爵領下。
補修の痕跡がありありと見える建物や、ひび割れた街路の石畳など、妖獣の残した爪痕は未だそこここに散らばっていたが、それでも街を行き交う人々の表情は明るく、広場で開催される市場には多くの品物が集まり、活気に満ち満ちていた。
既に街は、あの襲撃から立ち直りつつある。
もはや妖獣の第二波も訪れることはあるまいと、破邪騎士達はすべて王都に引き上げられていた。
それは同時に、遅れに遅れていた王都での王位継承の儀が、ついに行われることをも意味していた。
本来であれば、国王の崩御から間をおかずして行われるはずだったそれは、儀式に連なるべき破邪騎士団セフィアールの大幅な不在と、国家セイヴァンの中でも重要な位置を占める港街、コーナ公爵領が妖獣の奇禍に見舞われていたことから、延び延びとされてしまっていた。
先代国王への弔意を示す城下町は、遠き南方の地を襲った危難へも思いを馳せ、この半月、賑わうことはついぞなかったものである。
しかし明るい陽差しきらめく夏の盛りでありながら、どこか灰色にくすんだような雰囲気を漂わせていた王都も、ついに継承の儀が執り行われることが発表されてからは、それまでの暗さを埋め合わせるかのように、華やかな雰囲気に包まれていった。
街のそこここには、人の出入りを当て込んで臨時拡張された酒場や、出店などが数多く現れ、庶民達の多くは普段袖を通すことのない晴れ着にその身を包み、毎年行われる様々な祭りとはまた異なった、滅多に立ち会えることのない国王の即位という大事件を心から楽しむべく、仕事を放り出して笑いあっている。
そう、彼らにとってそれは、あくまでも楽しむべきお祭り騒ぎなのだ。
たとえ王宮の、そのまたさらに奥深くで、どのような思惑が繰り広げられていようとも、彼らはそんなものなど知ったことではないのである。
無論のこと、そう安易に知られて良い話でも、けしてないのではあるのだが ――
セイヴァン王家の存在意義が、妖獣を相手どるためにある以上、即位の儀式もまた、建国祭のそれと基本的な流れは変わらなかった。
すべては祖なる王、エルギリウス=ウィリアムの遺したあらゆるそれを敬い、その業績をたどることにある。
そして何よりも国民の為を想い、その忠誠に報いることをこそ至上とするセイヴァン王家において、民達に対する一種の演出とも呼べる顔見せは、今回においても多分に存在していた。
まずは夜明け前、いまだ
星の海に黎明の影が訪れるよりも早く。国王となるべき王太子は王宮内の桟橋から小舟でティア・ラザ沖の小島へと向かう。
そうしてただひとり、国王のみが上陸することを許された小島内の
宮殿にて、長き祈りを捧げるのである。そして祖王と、それに連なる代々の国王に思いを馳せ、その末席を汚す事への許しを請うたその後に、
払暁の光とともに小島を離れ、城下町の桟橋へと上陸するのだ。
集まった民達の歓呼の声に迎えられ、笑みと共に手を上げて応える王太子を、囲み護るは白銀と
青藍に包まれた、破邪の騎士団セフィアール。
全員が銀の鎧と
細剣で盛装した彼らは、新たな王となるべき王太子の馬車を騎馬で幾重にも囲み、王宮へ向かうその道筋をゆっくりと歩んでゆく。
隙なく整い配置された彼らの間から、王太子は通りの両脇に詰めかけた民衆へと、笑顔を向けては時おり手を振る。そこからうかがえるのは、新王として立つことに対する、喜びや期待、誇りといった明るい表情ばかりだ。
―― ほとんど見世物だな、と。
セフィアールの鬼子と呼ばれた不良騎士は、かつて建国祭の折りにそう呟いたことがあった。隣に立つカルセストのみがそれを耳にし、顔色を変えるほどの怒りを覚えたその物言いであったのだが……
しかし実際に行列に参加しながら、馬上で前を向き駒を進めていたカルセストは、いまその言葉を感慨深く思い出さずにはいられなかった。
現在馬車の中で手を振っているエドウィネルは、けしてその胸中に喜びばかりを宿しているわけではないだろう。
新たに王位を継ぐ事や、いま現在、己に何かが生じた場合の継承者が存在しないことへの不安などはもちろんのこと、公にはできない数多くの問題が、その心中には山積されているはずだった。
しかしエドウィネルは、欠片たりともそれを表にあらわそうとはしていない。少なくとも、自身が守らねばならぬ民衆の前では、一点の曇りもない笑顔を作りだし、なんの憂いもないかのようにふるまって見せている。
それこそが、国王たるものの勤めであると、知っているが故に。
たとえ現実はどうであったのだとしても、国王としての彼は、民に対しそのように見せてやらねばならないのだと。
そのことを悟ったいま、わずか数ヶ月前のロッドの言葉が、カルセストの胸には深く、深く突き刺さる ――
国王の馬車の後ろには、さらに二大公爵家たるアルス公爵家とコーナ公爵家の馬車が続き、その後にもまた長々と、多くの貴族諸侯等が馬車を連ねた。
そうして時間をかけて王宮へとたどり着くと、彼らはいつにも増して華麗に装飾を施された大広間へと場所を移す。
列席してゆく諸侯等の前で、玉座を傍らに新王を待っているのは、破邪騎士団セフィアールの団長、ダストンと、副騎士団長のゼルフィウムだ。
やはり銀の鎧と細剣で盛装した二人のうち、ゼルフィウムの方は、手に
天鵞絨で覆った盆を持ち、王冠となる
額環を捧げ持っている。
すべての家臣達が定められた位置に着いたのを確認して、係りの者が王太子の来場を告げた。
大広間の両扉が大きく開かれ、そこに盛装姿の王太子が姿を現す。
胸元に銀糸でずっしりと、枝を広げた大樹に、重なる交差した細剣と王冠という、セイヴァン王家の紋章を縫い取った黒衣に、毛の縁飾りがついた濃藍色の外套がひるがえっている。普段は目と髪の色に合わせ、緑や茶を基調とした服装を好む王太子であったが、今はセイヴァン王家に伝わる額環を意識しているのだろう。右手にはセフィアールに術力を与える、銀に水色の宝珠をはめ込んだ、幾何学模様の刻まれた腕環。剣帯や耳飾りの意匠なども、白金や
藍玉石などの色調で揃えられている。
中央に通路を開けて並び立つ家臣の間を、エドウィネルはゆっくりと歩んでいった。
そうして全ての視線を一身に浴びながら、玉座の前の数段を登り、並び立つ二人の破邪騎士と相対する。
そんな彼らを見下ろすのは、頭上高くに掲げられた、祖王の巨大な肖像画。
既に老境に達しているダストンは、正面に立つエドウィネルの姿に、わずかに目を細めたようだった。その目尻にほのかに光るものがあったかにも見うけられたが、しかしそれもすぐに伏せられた目蓋によって、隠されてしまう。
ダストンは差し出された盆から額環をとりあげると、一歩エドウィネルへと近づいた。
エドウィネルはその場でゆっくりと姿勢を低くし、床に膝をついて拝跪の礼をとる。
「我、セフィアール騎士団団長ダストン=アル・ディア=スタビンズ=エストは、セイヴァンの祖なりし初代国王、エルギリウス=アル・ディア=ウィリアム=フォン・セイヴァンに代わり ―― 」
しん、と静まりかえった大広間に、ダストンの声が、朗々と響きわたった。
両手によって掲げられた額環が、エドウィネルの額へと丁重に収められる。
「ここに第十九代国王、エドウィネル=アル・ディア=ゲダリウス=フォン・セイヴァンの即位を認める!」
王太子殿下から、
国王陛下へと。
その称号を変え、立場を変え、一国の王が誕生したことをそこに宣言する。
静かに膝を上げたエドウィネルは、その場でゆっくりと列席する諸侯等をふり返った。
縁飾りの付いた外套がふわりとひるがえり、その動きを追って裾を揺らす。
穏やかな眼差しと、額で光る水色の宝珠に、静まりかえっていた大広間が次の瞬間、どっと爆発的にわきかえった。
「新国王陛下万歳!!」
「エドウィネル陛下! おめでとうございます!!」
口々に投げられる
言祝ぎに、エドウィネルは口元を和らげ、鷹揚に応えてみせた。
広いはずの大広間は、わきあがる歓声と熱気とで満ちあふれんばかりになっている。耳を聾する歓呼の声に、最前列で並ぶ破邪騎士達の一画で、カルセストもまた声を上げながら、なおも複雑な思いで主君の姿を眺めやっていた。
その後、エドウィネルは城下町を見下ろす
露台へと場を移し、集まってきた民達へも同じように微笑み、手を振って見せていた。
その額に輝く王位の証を見せつけるように、幾度も幾度も、
倦むことなく笑顔を浮かべ。
―― この後、城下町では十日にわたってお祭り騒ぎが続くのだという。
王宮内でもその間は、力関係の構図を微妙に書き替えた貴族諸侯等が、歓談という名の外交を繰り広げることとなる。
そして、その十日間こそが、事態の分かれ目であるのだと。
この日王宮に集まっていた者達の何名かは、そう肝に命じて時を過ごしていたのである。
* * *
上流貴族としての対外交流には、様々な形が存在している。
たいていは書簡を出し合い、折を見て互いの屋敷を訪問したり、狩猟や船遊びといった催しを行っては、遊興に紛らわせた政治的なやりとりを交わすのが慣例である。
だがこういった王家主催の行事が行われる場合は、様々な立場にある複数の貴族が一堂に会するため、その規模も種類も重要性も、大きく異なるものとなってきた。
なにしろわずか小半刻前、北の広間で歓談していた貴族と敵対する勢力に、いまは東の庭園で笑いながら応対しているといったことも、ごく当たり前に行われている状況なのだ。
顔を合わせる相手はめまぐるしく変わり、ひとつその交友関係を読みあやまれば、どのように足下をすくわれるかも判らない。それが貴族社会における外交というものなのだ。
また一人、有力な伯爵家の当主とその姫とをやりすごしたコーナ公爵セクヴァールは、それと悟られぬよう口中で小さく息を吐くと、襟元へその手をやった。
祝宴も三日目ともなった本日は、多くの相手と言葉を交わし、さすがにそろそろ疲労が蓄積してきているように感じられた。しかし周囲にまだ取り巻きとも言える人々が存在する状態で、そんな姿をあからさまに見せるわけにもいかない。
少し休息をとった方が良いかと、セクヴァールは向かう先を人気の少ない庭園の方に移してみた。さりげなく会話を誘導し、自分一人でしばらく散策できるよう、少しずつ取り巻きの数を減らしてゆく。
そうしてしばらくの後に、彼は鬱蒼と茂る、まるで自然の森のただ中を思わせる遊歩道を、ひとりで歩くことになっていた。
実際にはそのようなことなどありえないのだが、うまく木々や泉を配した王宮の庭は、さながら手つかずの自然の中にいるかのような錯覚を、歩む者に味わわせてくれる。
無論のこと実質的な広さそれ自体も、かなり広大なものではあるのだが。
やがて ―― ゆったりと歩を進めるその先に、わずかに広くなった空間が現れてきた。
おや、と目を見はり近づいてゆくと、そこには瀟洒な作りの
四阿が存在していた。そして面倒なことに、どうやら先客とおぼしき人影がかいま見える。
まだ今しばらくは、誰とも顔をあわせたくないのだが、と。
内心で小さく舌打ちした公爵だったが、そこにいるのがごく見知った ―― というより、身内に他ならないことに気がついて、止めかけた足を再び前へ進めることにした。
「フェシリア」
その名を呼べば、
己が娘は驚いたようにふり返り、座っていた籐の椅子から立ちあがる。
「お父さま……」
軽く膝を曲げ、会釈をよこすその姿に、セクヴァールは適当に手を振って四阿へと足を踏み入れた。ちょうど良いから、しばらくそこで休んでいこうかと考えたのだ。
が ―― 柱の影になって見えなかった位置に、思いがけない人物を発見して、セクヴァールは思わず足を止め姿勢を正していた。
「こ、これは、殿……いえ、陛下!」
慌てて一歩足を引き、胸元に手を当てて一礼する。
フェシリアと卓を挟んで向かい合っていたのは、即位したばかりの若き新王、エドウィネル=ゲダリウスその人だったのである。
「失礼いたしました。よもやこのような場所で、お目に掛かるとは思いもよりませず」
自らもゆったりと落ち着いた仕草で立ちあがっていたエドウィネルは、セクヴァールの挨拶に小さく頷くと、空いている椅子を彼へと勧めた。そうしてまずは自身が再び腰を下ろす。
続いてセクヴァールが、そしてフェシリアが席に落ち着いた。
良く注意してみれば、卓の上には簡単な茶と菓子が用意されており、四阿からいくらか離れた場所には、護衛とおぼしき姿がかすかに見え隠れしている。
その時セクヴァールはこう考えていた。
すなわち彼らはこの場所で、逢い引きを果たしていたのだと。
かつてセクヴァールは、エドウィネルからフェシリアへ向けて送られた書簡という形の白紙委任状を、そうと悟らせぬため、恋文だと誤解するようしむけられた経緯がある。そのいきさつを考えれば、人目につかぬ場所でただ二人席を同じくしていたこの状態は、男女の密会と取られてもなんら不思議はなかった。
一度は良き臣下、大切な友人だなどと口にした癖に、裏に回ればこういうことかと。
そう考えたセクヴァールは、己の思考が至極不敬なそれであるということを、その実、はっきりと自覚していた。むしろ自覚しているが故にこそ、そのような思考を紡いでいたともいえる。
故に次の発言は、ある種の意地悪い意味を含んだものとなっていた。
「それにしても陛下は、このようなところで、我が娘といったい何を……?」
その発言こそが、自身の足元を崩す、最初の一言になるなどとは、まるで予想すらすることなく。
彼は自身の
墓穴の最初の一掘りを、自らの手で行ったのである。
果たしてどのような答えが返されるのかと。
何食わぬ表情で意地悪く考えていたセクヴァールは、国王エドウィネルが洩らした深いため息に、どこか冥い喜びすら感じていた。
エドウィネルは卓の陰で持っていた数枚の書類を、セクヴァールにも見えるよう、わずかに持ち上げてみせる。
「実はいま、フェシリアどのに、内密のご相談を申し上げていたところなのですよ」
「内密の、でございますか」
「ええ。この書類をご覧になっていただければ、その重要性は公爵にもお判りになると思うのですが……」
そう言って手渡された書面を、セクヴァールはいぶかしげに見下ろした。
なにか、話が思っていたものとは違う方向に向かっている気がする。
ざっと流し見たところ、一番上になっている書類は、なにやら男女の間で交わされた艶書の類であるらしかった。眉をひそめかけたセクヴァールだったが、その差出人の署名を目にした瞬間、思わず椅子を蹴って立ちあがる。
「で……いや、陛……こ、これは……!」
自らの側室と、どこの馬の骨とも知れぬ下級貴族らしき男との間にとり交わされたそれに、セクヴァールはもはや言葉を選ぶこともできぬまま、顔色を変え、書簡を握り潰さん勢いで立ち尽くした。
「入手元は残念ながら明らかにはできませんが。ただ、私にもそれなりの人脈というものがあるとだけ、申し上げておきましょう」
真っ青になって再び書類を見下ろすセクヴァールの両手は、わなわなと大きく震えていた。
無理もあるまい。それは自身の後継者として目していた、実の息子と疑わずにいた少年が、不義の結果産まれたそれであるのだと。それを証明する確かなあかしとなる書類であったのだから ――
「無論のこと、公にするには及ばない情報です。幸いにも公爵家の次期継承者がフェシリアどのである以上、ことはあくまで公爵家内で収まるべき問題でしょう。ただ、フェシリアどのは、自身に続く後継者を選ばれるにあたり、このことを知っておかねばならない立場にあられると、私は考えました」
それ故の人払いであり、密会であったのだと ――
そう告げるエドウィネルの言葉にはいくつかの不審点が存在していたのだが、しかし動揺の内にあるセクヴァールは、そうと気付くことはなかった。
たとえばそういった内容の話であるのならば、フェシリアよりもまず当代公爵たるセクヴァールにこそ話を通すべきではないのかとか、さりげなく周囲に護衛を配置し人払いをしているようなのにも関わらず、なぜセクヴァールは止められることなくこの場へ通されたのか、など。そういった疑問に感じるべき点に関して思い至れるだけの余裕を、突然の攻撃に平静をなくした彼は、完全に失ってしまっていたのである。
実際の所は、セクヴァールをこの三日間ずっと見張らせていたフェシリアとエドウィネルが、頃合い良しと見はからったその瞬間から、速やかに先回りして張った罠であったのだということを、セクヴァールは最後まで気付くことはなかった。
「それにしても、フェシリアどのがいらっしゃって、本当に良かったです。場合によっては、公爵家の血筋が絶えるということにもなりかねませんでしたからね」
穏やかに告げるエドウィネルが示唆するものは、かつてセクヴァール自身がエドウィネルに対し、フェシリアを王太子妃にしてはどうかと持ちかけた、その件についてであろう。もしもあの話が実現し、フェシリアを廃嫡、西の方の息子を世継ぎに据えていたならば。その時には確かにそれが、現実となっていたはずなのだ。
「は……いや、確かに……ですが……」
セクヴァール自身の目算としては、もう数年が過ぎファリアドルがそれなりの年齢となったならば、フェシリアはさっさと廃嫡し、ファリアドルを
コーナ家次期継承者として擁立する予定であった。その為の準備は何年も前から周到に行われており、いまさら変更など、できる相談ではなかったのだ。
なぜなら、フェシリアは……
しかしそれをこの場で口にすることは、断じてできない相談だった。
五十を過ぎたコーナ公爵は、まだ政治の場ではけして年配とは呼べぬ年頃ではあったが、それでもさすがに、これから新たな後継者を生み出すには、既に年をとりすぎていた。三人いる側室の間には、他に子供ができることはなく、仮に新たな側室を迎えるにしても、そうして産まれた子供が成人するまでには、最低でも十数年は待たなければならない。それは今の彼にとって、あまりにも長すぎる時間だった。
言葉の続かないセクヴァールを、エドウィネルはあくまでも穏やかな表情で見つめ続けていた。まるで、何もかも判っているのだと、そう告げるかのように。
―― 何も知らぬ、若造の癖に!
内心で口汚く罵ったセクヴァールは、わずかなりとも落ち着くべく、皺の寄った書類を少しでも伸ばそうと手を動かした。そうしながら、懸命に思案を巡らせる。
残る方法は、もはや公爵家の縁者の中からふさわしい男を選び出し、フェシリアに
娶せる。それしかないように思われた。
ようやくそのことに思い至って、セクヴァールはかろうじて息をつくことができた。
忌々しい書類をどうにか元通り近くにまで伸ばし直し、震える手で卓の上へと重ねる。
「へ、陛下におかれましては、過分なるお心遣いを、いただきまして……」
かろうじて意味のある言葉を紡ぎだしたセクヴァールに、エドウィネルは泰然とかぶりを振ってみせる。
「いえ、若輩ながらも王として即位した以上、臣下に対して心を砕くことは当然の責務です」
あくまで年長者を立てる丁寧な物言いでありながら、そこには己より格下の者に向けるごく自然なまでの鷹揚さが漂っていた。
正式な王位について、まだわずか三日。
その三日で既に彼は、王者としての空気をその身にまとっていた。
それは無論のこと、長年唯一の次期王位継承者として過ごしてきた日々が、培ってきたそれではあったのだけれど。
しかしいまこの場におけるその物言いには、幾分かなりと作為的なものが存在していた。
わずかに、少しずつ、彼は意図的に公爵の神経を逆撫でる言動をとっていたのだ。
なぜならば、
「それから……ちょうど良い折りですから、公爵にうかがっておきたい点がひとつ、あるのですが」
「……私に、何か?」
どこか掠れた声で問い返すセクヴァールへと、唐突にそれまでの穏やかさをかなぐり捨てたエドウィネルが、叱責する激しさで問いかける。
「『公爵領に、下賜した物体に類似した品が現れた際は、速やかに国王へと知らせを送るべし』。この王命を果たさなかったのは、いったいなにゆえの事なのか! いますぐこの場で釈明してみせるが良い!!」
その瞬間、空気すらも震わせるような怒気が四阿の内部に叩きつけられていた。
椅子から立ちあがることも、卓を打ちすえることすらせぬままに。ただ膝に置かれたその拳が、震えるほどに硬く握りしめられているだけでありながら。
しかし籐椅子に座すエドウィネルの姿は、その時ひとまわりもふたまわりも大きくなったかのように、錯覚させられたのだった。
事実彼は、心底からの怒りを身の内に秘め続けていたのである。
己に対する不甲斐なさを、国王や『彼』に対する申し訳なさを覚えながらも、それ以上に彼は、すべての発端となった公爵の怠慢に対し、激しい怒りを感じ続けていたのだった。
もしも公爵が、『舟』の発見とほぼ同時に王都へ知らせを送っていたならば。
そうすれば倒れる前だった国王は、速やかにふさわしき処置を行うことができていた。そしてそれはあの未曾有の妖獣大発生が、未然に防がれていたことを意味している、と。
現在のエドウィネルはそう『知って』いたのである。
もしそうであれば失われなかったはずの、多くの人命と、数々の資源。
さらには、事実関係を確かめるため、『彼』が公爵領へと一人居残る必要もなく ―― そうすれば、国王のその末期に一目ぐらいは、顔をあわせることができていたかもしれない、その可能性が ――
ぎり、と。
膝の上で拳が、込められた力に鈍い音を立てる。
「どうであるのか。コーナ公爵!」
エドウィネルの怒号に縛られたかのように、セクヴァールはただ呆然と立ち尽くしていた。
いったいなにを言われているのか、理解できない。
その表情は、そういった思いをあらわに見せている。
ぐらりと、わずかにその姿勢がよろめきを見せたその瞬間、どこか脳天気な響きを持つ声が、彼らの間に割って入っていた。
「言える訳ねえわなあ、そりゃ」
―― と。
低く潰れたようなその掠れ声は、聞き取りにくい悪声であるのにも関わらず、何故か魅力的な響きをその内にはらんで、聞く者の耳に届いた。
その持ち主である、褐色の肌と夏の海の色の瞳を持つ青年は、いったいいつの間にその場へと現れていたのか。四方の柱のひとつに背中をもたせかけるようにして、腕と足を共に組んだ姿勢で立っていた。
一度公爵領で
襤褸と化したその制服は、すべて新たなものに改められ、いつもの如く襟や袖口を緩めた、だらしない着こなしとなっている。
額環は、防具を兼ねた安物の鋼鉄。セフィアールの
細剣と並べて下げた大剣も、装飾ひとつない傷だらけの鞘をさらしている。
とても国家セイヴァンが誇る破邪騎士団の一員とは思えぬ、その姿。
当代公爵とその後継者、そして国王が顔を合わせるこの場には、とてもふさわしいとは思えぬ下賤の姿に、コーナ公爵はわずかに我を取り戻したかに見えた。
「貴様……何故このような場に。不敬であると思わぬのか!」
自らの後ろめたさを繕うかのような厳しい叱責に、しかし青年はどこ吹く風といったような、何気ない表情であっさりと受け流してみせる。
「不敬ってえなら、そりゃてめえの方だろ。え? コーナ公爵さんよ」
寄りかかっていた柱から身を起こし、一歩、乗馬靴が前へと足を踏み出す。
「な……ッ」
言葉に詰まるセクヴァールへと、ロッドは芝居がかった笑みを浮かべながら、こつりこつりとゆっくり近づいてゆく。
「国王陛下……ああ、当時は王太子殿下であられたか? その王太子殿下が公爵領に現れたあの『舟』について質問したとき、あんたはいったいなんと答えた。『なにかが判れば知らせる』だったっけか? よくもまあ、ぬけぬけとほざいたもんさ」
セクヴァールへと数歩を残して立ち止まり、丸めた背中で、立てた指を胸元へと突きつける。
下からねめつけるように見上げるその両目には、嘲るような光が宿されていた。
「あんたは、王太子に何も教えないことで、優越感を感じていたんじゃねえか。次期王位継承者でありながら、なにも知らぬ愚か者よと、その胸の内でそうあざ笑っていたんだ」
なあ、そうだろう? と。
それは、なによりも明らかな不敬の証。
態度や身なりなどであらわされる判りやすいそれとは根本的に異なった、のちに多くの犠牲すら生む結果となった、悪質で卑劣な裏切り。
セクヴァールは ―― その言葉に、なにも返すことができずにいた。
その身体ははた目からも判るほどに、小刻みに震え始めている。
そんな彼を眺めている、三対の鋭い瞳。
いや……いつの間にか四阿の周囲を固めていた護衛達 ―― それはフェシリアの私兵であるレジィ=キエルフであったり、またセフィアールの一員であるカルセストやアーティルトであったり、またその他、公爵にも見覚えのあるフェシリアとエドウィネルの腹心達の姿であったりしたのだが ―― が、遠く離れた柱や木々の向こうから、確かにこちらをにらみつけてきている。
そんな、鋭く厳しい視線にさらされて、セクヴァールは足元から這い上がってくる破滅の予感に、その身を震わせつつあった。
いったいどこで、何を間違えてしまったのかと。
この期に及んでまだ、そんなささいな事を考えながら ――
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