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 楽園の守護者  第十五話 外伝
 〜 疑 惑 〜 前編
 ― Makoto.Kanzaki Original Novel ―
(2006/10/21 10:37)
神崎 真


 純白の布に覆われた広卓には、彩りも鮮やかな料理がところせましと並べられていた。
 傷ひとつない白磁に金や銀で装飾が施された食器類は、それだけで一財産になるであろう、芸術品に近い品々だ。その中央に形良く盛られた料理はまた、食材も調理方法も文句なく一級のもので。
 広い食堂はそこここに絵画や彫刻、生花が飾られ、数多く配された燭台と洋燈ランプの光とが、眩しいほどにあたりを照らし出している。
 ほのかに甘い芳香すら漂わせる蝋燭は、蜜蝋から作られる高価なもの。洋燈に使われている油もまた、獣脂や粗悪な混ざり物のあるそれではなく、澄んだ柔らかい光をもたらしている。
 皿の一枚、蝋燭の一本でさえ、下町に住まう平民達には到底手の届かない高級品。まして、山海の珍味を取り揃えたその献立にいたっては。
 ―― たかが一度の食事に費やされる、果てしのない贅沢。事情を知らぬ平民達がこの様子を目にしたならば、そう言って口々に非難したことだろう。
 だが、国内屈指の名門貴族。王家に最もちかしいとされる二大公爵家のひとつ、コーナ公爵家のそれにしては、ずいぶんとまた質素におさえられている、と。王都に住まう貴族達がこの食卓を見たならば、逆の意味で驚きの声をあげるはずだった。
 王都の貴族達の間では、毎夜のように客を招いては祝宴を催すことも珍しくない。ましてコーナ公爵ほどの大貴族ともなれば、その持つ力を誇示するためにも、他家との交流のためにも、率先してそうした宴を開くべき立場にあった。
 にも関わらず、現在この食卓についているのは、公爵家の親族 ―― しかもこの本家の屋敷に住まう、ごくごく内輪の人物達しかいない。
 高価でこそあれ、けして奢侈ではない、と。そう評するに相応しい食卓の、もっとも上座となる短い一辺の中央は、現在館を離れている公爵、セクヴァール=フレリウスの席だった。そこには誰も座ることなく、ただ食器だけが虚しく形を整えられている。
 そしてその両脇に座を占めるのが、公爵の二人の子供。フェシリア=ミレニアナとファリアドル=ウラヌスだ。フェシリアは向かって右に、ファリアドルは左に。それぞれが背後に専任の給仕を控えさせている。さらに卓の角をはさみ、彼らに横顔を見せる形で、三人の女性が席についていた。
 フェシリアの側に座っているのは、けぶる淡い金髪を結い上げた貴婦人。明らかに北方の出を思わせる、透き通るような白い肌と薄紫色の瞳。美しく整った面差しに、どこか儚げな ―― と言うよりは、影の薄い ―― 雰囲気を漂わせている。年齢はっきりしないが、三十を幾つも越えてはいないだろうと思われた。
 対して彼女の正面、ファリアドルの側に座っている女性は、ずっと生命力を感じさせる空気を身にまとっている。容貌も対照的だ。赤銅色の肌によく映える、緩やかな癖のある黒髪を、大きく襟が開いた衣装の肩口へと散らしており、真っ直ぐに向かいを見るその瞳は、燃えたつような赤瑪瑙。
 肉感的な唇にほのかな笑みを浮かべ、フェシリアや向かいの貴婦人へと強い視線を投げかけている。
 そして彼女の隣に座っているのは、やはり黒い髪を結い上げ、黒い瞳を伏せた貴婦人だ。硬い表情でうつむいたまま、誰の姿も目に映そうとせず、ただ静かに座り続けている。
 彼女達こそが、セクヴァールの三人の側室。すなわちフェシリアの生母たる北の方、ファリアドルの母親である西の方、そして未だ子をなしていない東の方であった。
 古き血筋と歴史を誇る名門貴族から嫁いできた北の方と、貴種と呼ばれこそすれ、けして裕福とは言いがたかった下級貴族の出でありながら、その容姿と話術の巧みさをもって公爵の目に留まった西の方。そして特筆するほど名門でも裕福でもないが、そこそこ名の知られた、しかも多産系と噂される家より迎えられた東の方。
 公爵の住まう本棟を中央に、それぞれひとつずつ別の翼を与えられた彼女達は、日常生活において顔を合わせることなど、まずないと言って良かった。
 だが毎夜、その晩餐の席にだけは、出席することを義務づけられている。その席に呼ばれることが、公爵家の一員であることを証明するひとつの指針である以上、よほどのことがない限り、それを否むわけには行かない。
 しかし……
 食事の場は、けして心躍るものとは言いがたかった。
 誰一人、進んで口を開く者はなく、ただ黙々と手を動かし、豪勢な料理を口へと運んでいる。まれに交わされる言葉といえば、ただ給仕との間で料理についてやりとりする程度でしかない。
 上座にいる一人、ファリアドルなどは、時おりなにか言いたげにあたりを見まわしていた。未だ七つという年若い子供は、幼心にも何か居心地の悪いものを感じているのだろう。あどけない目で周囲の様子を伺い、そして傍らの母を見上げては、またうつむいてしまう。
 公爵が同席しているときは、それでもそれなりの会話が成立していた。公爵が水を向ければ誰もがそれに言葉を返し、また笑顔を見せることもする。
 だがその公爵が旅立って、はや数日。
 日ごとに晩餐の席での会話は減ってゆき、今宵などは一言の挨拶すら交わされていなかった。これでは、どれほど贅を尽くした料理であったとしても、美味だと感じるはずもない。
「…………」
 室内には、食器同士の触れ合うかすかな音だけが存在していた。
 淡々とした晩餐はそれだけに滞りなく進み、最後の皿が運ばれたのは、まだずいぶんと早い時間帯のことだった。手の込んだ作りの菓子と、よく冷やされた果実酒 ―― ファリアドルにはただの果汁 ―― が、それぞれの前へと並べられる。
 傍らに置かれた専用の匙を手にとって、フェシリアはきれいに飾られた表面をすくおうとした。誰もが同じようにしていた、その時のこと。
 唐突に、何の前触れもなく食堂の扉が押し開けられた。
 ありえない事態に、一同はあっけにとられたように顔を上げ、そちらへと視線を向ける。


 重厚な彫刻を施された両開きの扉の、一方を片手で押し開けて。
 そこに立っていたのは一人の青年だった。


 そもそも、その地の領主でもある大貴族の一家が、己の屋敷で晩餐をとっているまさにその時、食堂に部外者が現れるなど考えられなかった。
 たとえなんらかの緊急事態が生じたにせよ、それは事前に使用人へと取り次がれ、静かに主へと伝えられるものである。
 それなのに。
 その青年は館の使用人ではなく、また貴族でもなかった。本来であれば、この食堂はおろか、屋敷自体にさえ足を踏み入れることなど許されぬはずの、下賎な若者。
 しかし同時に彼は、この国でもっとも貴ばれるべき立場にある者でもあった。
 濃い青藍せいらんの制服に、銀と見まごう芸術品のような細剣レピア。利き手の中指には、簡素でありながら繊細な細工の指輪。
 国家セイヴァンが誇る破邪の騎士団セフィアールの一員たる、その装い。
 選び抜かれた数十名のみが許されるそれを、紛れもなくその身に帯びて。
 あるいは敬意とともに、晩餐への同席を乞われても不思議はない、貴き若騎士は。
 ―― 汚れた外套マントを肩に担ぎ、埃と泥にまみれた顔で、ふてぶてしく笑ってみせた。

「うまそうなモン、食ってるじゃねえか」

 支えていた扉から手を離し、ずかずかと大またに入り込んでくる。
 慌てて給仕が駆け寄っていくが、彼もまたこの傍若無人な相手にどう接していいのか迷ったのだろう。困惑したように数歩離れた位置で立ち止まる。
 そんな相手に、青年 ―― ロッドは無造作に外套を押し付けた。泥だらけのそれを、給仕は反射的に受け取り、一礼までしてしまう。
 その隙に食卓へと近づき、北の方の背後を抜け、ロッドはフェシリアの席へと歩み寄っていった。控えている給仕を手を振って追い払い、高い背もたれへと片手をかける。
「こちとら兵どもの訓練で、ろくにメシも食ってねえってのによ」
 低い位置にあるフェシリアへと覆いかぶさるようにして、そんなふうに言う。
 匙を置いたフェシリアは、ゆっくりとした動きで青年を見上げた。長いまつげに飾られた目蓋が一度伏せられ、それから静かに持ち上げられる。
「……騎士様のご助力には、感謝のしようもございませんわ」
 清らかに澄んだ、気品のある声が発せられる。


 コーナ公セクヴァールが、国王危篤の報を受け取り領地を離れてから数日。公爵代行として留守を預かるフェシリアの元へ滞在しているこの騎士は、王太子の命だと称し、公爵家の指揮下にある兵達を再訓練していた。
 その目標として掲げられているのは、妖獣に対する際の心構えと、身を守るすべ
 つい先日、妖獣の襲撃を受けた公爵領下の町では、多くの人的被害を出していた。無論、その規模からすれば驚くほど少ない ―― それどころか非戦闘員からの犠牲者をまったく出すことのなかったその戦いぶりは、王太子からも非常に高く評価されていたのだが。
 それでも、失われた人命は尊く、かけがえのないものだった。
 前例のないヴェクドの大量発生を重く見た王太子は、事態が繰り返されることを懸念し、破邪騎士の一人を公爵家に遣わした。そうして今後同様なことが起きた場合への対応に備えるべし、と。
 王太子の紋章が捺された封書を傍らに、フェシリアは兵を束ねる立場にある者達へとロッドを引き合わせ、その指示に従うよう、改めて命じたのだった。
 この国において、王家の命は絶対と言ってよい。まして破邪騎士の一人が、自ら先頭に立って指南するのだという。
 既に先だっての町における、破邪騎士達の活躍を耳にしていた兵らにとって、それは願ってもない命令だった。
 それからのロッドは、明るい間のほとんどを、各部署の兵達と過ごしている。
 あるいは入り混じって剣を振るい、あるいは迅速な用兵を行うべく指揮系統に踏み込んで怒声を張り上げ、あるいはまた妖獣の種類や弱点を教えるため、地べたに絵を描き身振りまじりで解説する。
 上品とも洗練されているとも言い難いそんなやり方を、行政を司る官僚 ―― すなわち文官達などは、あまり良い目では見ていなかった。
 しょせんならず者上がりの下賎なやからがと、眉をひそめる者も数多い。
 しかし……


「すぐに席を用意させますわ」
 柔らかく微笑んだフェシリアがそう告げるなり、控えていた給仕が素早く身をひるがえした。
 失礼にならない程度に足早に厨房へと向かう給仕と入れ違いに、別の給仕が新たな食器を手に食卓へと近づいてくる。
 はっきりと命じられるより早いその行動は、使用人として充分に訓練されている証明でもあった。だがそれ以上に、彼らがこの口の悪い破邪騎士に対し、強い好意を抱いていることの現われでもある。
 平民から破邪騎士に成り上がったこの青年を、貴族階級の者達は粗野で鼻持ちのならない人物だと噂していた。しかし同じ平民出身の使用人達の目には、貴い身分を得ながらもそれを鼻にかけず、気さくで、どんな身分の相手にでも変わらず接してくれる、そんな相手なのだと映っている。
 今も前線に立つ兵達と共に、泥まみれになって訓練に明け暮れる青年に対し、館の使用人達はごく自然な親しみと敬意を感じている。
 食卓についた者達の反応はそれぞれであった。フェシリアの生母たる北の方は、いったいどのように感じているのか。特に表情を変えることもなく、ただ静かに視線を向けるばかりだ。唯一子のいない東の方は、ほのかな不快感を表情に浮かべていたが、それをあからさまに見せることは、貴婦人としてのたしなみが許さなかったのだろう。ついと無言で視線を落としてしまう。
 そして西の方は、興味深げにロッドの姿を見つめていた。控えめにこそしている、それでも好奇心を持って観察しているのが、端から見ていてはっきりと判る。
 北の方の隣へと席が整えられるまでの間、ロッドは卓に寄りかかるようにして、フェシリアを見下ろしていた。
 唐突に手を伸ばし、卓上にある脚付きの杯ゴブレットを取り上げる。もちろんそれは、彼のために用意されたものではなかった。
 甘い芳香を放つ果実酒を無造作に口元へと運び、当たり前のような仕草で口に含む。
 誰もがその振る舞いに唖然として、とっさに反応できずにいた。
 しんと静まり返る中で、ロッドは数度舌の上で転がすように、丹念に酒を味わっている。そうして、ふとわずかだが表情を動かした。
「……ずいぶん、刺激的な味のする酒だな」
 口の端をわずかに歪め、ゆっくりと杯を揺らす。
「刺激的、とおっしゃいますと」
 フェシリアがほのかに首を傾ける。
 なにか特別な銘柄ででもあっただろうかと、記憶を辿っているらしい。そんな彼女の様子を見やって、それからロッドはぐるりと席上を見わたした。その視線を北の方は感情の色の伺えない、冷めた目で受け止め、東の方は俯いたまま無視し、西の方は驚きをたたえたままの目で見返してくる。

「 ―――― 」

 しばし、燃えるような赤瑪瑙と、夏の深海を思わせる濃蒼の瞳が互いを映す。
 やがて、ロッドはくっと小さく笑った。そうして手にしたままだった杯を一気にあおる。
 残っていた酒をすべて干し、空になった器を卓へと戻した。
「ごっそさん。なかなかうまかったぜ」
 そう言って寄りかかっていた卓から離れ、フェシリアを再び見下ろす。
「メシはもう良い。また後でな」
 意味ありげに目配せし、そのまま厨房へ続く扉へと歩き始める。
「え……あ、ロッド様!? お、お食事の用意が」
 湯気の立つ皿を運んできた給仕が、面食らったようにすれ違った背を振り返る。それには肩越しに手を振って、青年はあっさりと部屋から退出していった。
 後に残された一同は、しばし言葉もなくそれを見送っていたが、やがてまたそれぞれに食事の続きへと戻ってゆく。
 フェシリアはしばらく無言で、彼女のものだった空になった杯を見つめていた。再び戻ってきた給仕が、新たなものと取り替えるべく、それを卓から取り上げる。
「 ―― 待て」
 ふと、顔の近くを通り過ぎかけたそれに、フェシリアが声を発した。鋭い声はしかし低く押さえられたもので。ごく間近にいた給仕の他に気づいた者はいなかった。
 反射的に動きを止めた手の中の杯を、フェシリアはまじまじと見つめている。
「フェ、フェシリア様?」
 なにか粗相でもしたのだろうかとうろたえる給仕に、フェシリアは答えず、ただ恐ろしいまでに真剣な眼差しで空の杯を凝視している。
 やがて……彼女は一度目を伏せ、それから柔らかい微笑みを浮かべてみせた。
「なんでもありませんわ。それより、そんなに変わった味のするお酒なのですか?」
 問いかけられて、給仕はほっとしたように表情を緩めた。
「刺激的と表現されるかどうかは、判りかねますが……この年に作られたものは、酸味に独特の風合いがあると言われておりまして ―― 」
 己の職務に立ち返り、滔々と説明を始める。


 ―― 穏やかに耳を傾けているフェシリアが、その実まったくその話を聞いていないことになど、忠実な使用人は気づこうはずもなかった。


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