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 楽園の守護者  第十四話
 ― 継承のとき ―  第三章
 ― Makoto.Kanzaki Original Novel ―
 
神崎 真


 飢え、というものがこれほどまでにこらえがたいものなのだと、少年は生まれてはじめて思い知っていた。
 食べるものがない。ただそれだけのことで、胃の腑をえぐるような痛みを覚えることも、焼けるような喉の渇きを感じることも、彼はこんな状況に陥るまでまるで知らなかったのである。
 いっそ不思議なほど、手足に力が入らなかった。頭が重く、まっすぐに立つことすらおぼつかない。思考がまわらず、知っているはずのことすら思い出すことができず。脳裏に浮かぶのはただひたすら、食物のことばかり。
 時おり、道端にある店から料理のいい匂いが漂ってくる。
 それだけで口の中には涎があふれ、喉がぐびりと動いた。無意識のうちに足がそちらの方へと身体を運んでいってしまう。
 だが次の瞬間には、激しい痛みと共に石畳へと叩きつけられて終わるのが常であった。
 店の番をする男達は、古着を身につけたみすぼらしいなりの子供に対し、一片の容赦も持っていなかった。手を伸ばそうとした瞬間にも、罵声とともに殴りつけられる。一発ですめばそれでもまだいい方で、たいていは続けて幾度も殴られ、こらえきれずにうずくまれば、今度は足蹴にされる。
 盗もうなどと、そんなことを考えたのではなかった。
 もちろん今は持ち合わせがない。だが屋敷へ戻れたあかつきには、両親に事情を話し、代価とともに充分な謝礼を贈るつもりでいた。だから、せめてパンのひとつ、粥の一杯だけでも分けてもらえぬかと。
 しかしその訴えを聞いてくれる者などほとんどおらず、まれに耳を傾けてくれた人間も、聞き終えると同時に失笑し、まるで犬猫を相手にするように少年を追い払うのだった。
 はたしてもう何日、まともに食事をしていないだろう。
 話の判らぬ職員に腹を立て、孤児院を飛び出してから、もう半月ぐらいは経っているはずだった。
 まずは市庁舎に向かおうとした彼だったが、誰に道を尋ねてもまともには取り合ってもらえなかった。そして連れ戻そうとする職員から逃れるうちに、彼は完全に方向を見失い、下町へと迷い込んでいた。そこでは親のない子供達が身を寄せ合うようにして生活していた。そして余所者である少年は、彼らから縄張りを侵すものと見なされたのである。
 生まれてはじめて受ける暴力は、肉体だけにとどまらず、彼の精神をも激しく傷つけていた。なぜ自分がそんな目に遭わなければならないのか、領主の後継者として平民達を支配するはずの己が、なぜ口汚く罵られ、価値ない一介の浮浪児として扱われなければならないのか。彼にはまったく理解できなかったのだ。
 道端にうち捨てられた少年は、動けるようになっても、もはや貴種の面影などどこにも残してはいなかった。全身痣だらけで腫れあがり、まとう服は破れ汚れて襤褸同様。
 動かない身体を引きずるようにして、少年は下町から逃げ出した。
 だがそんな状態では表通りを歩くことすら許されない。町を巡回する警備兵に追われ、市庁舎には近づくこともできなかった。
 ここでは、誰も自分のことを知らないのだ、と。
 ようやくそのことを悟った少年は、ならば自身の足で屋敷に戻らなければならないのだと、そう考えた。幸いそこから屋敷のある町までは、陸路を歩いたとしても一日とかからない距離だった。
 一日歩き通せば、屋敷に戻れる。もとの生活に帰ることができる。
 旅どころかろくに屋敷から出たこともない子供が、食料も荷も持たず、そう簡単に町から町への移動などできるはずがない。しかし地図と書物の上でしか世界を知らぬ少年が、そんなことになど思い至るはずもなく ――


 それでも、ようやく彼はそこまでたどり着いていた。
 飢えと渇きに苦しめられ、時にごみをあさり、時に理不尽な暴力にさらされ、ようやく彼は見慣れた町並みを目にすることができていた。
 通りに並ぶ店の壁にすがるようにして、一歩一歩石畳を踏みしめる。
 目に映るのは、高い塀に囲まれた、公爵家の屋敷。いくつも並ぶ窓のひとつから、自分はいつもいま立っているこの通りを見下ろしていた。
 もうあと少し、あとわずか。
 あの門を叩けば、顔見知りの門番が自分を迎えてくれる。ひと月近くも留守にしていたのだ。きっとみな心配していたはずだ。
 力をふりしぼり、まっすぐに立とうとする。
 と ――
 門のあたりで、人々があわただしく動き始めていた。
 なにかあったのかと見つめていると、道の向こうから馬車が走ってきている。公爵家の紋章がついた二頭立てのそれは、じょじょにその速度を落としてゆく。馬車が近づくのに合わせ、門番達が門扉を大きく開け放った。
 一瞬馬車の窓に、父の横顔が見える。
「父うえ……ッ!」
 掠れた声で、父を呼ぶ。だがその言葉は馬蹄の響きにかき消されていた。少年は馬車に導かれるように壁を離れ、走り出す。
 はたしてどこにそれだけの力が残っていたのか。よろめきながらも開かれた門扉をくぐり抜け、馬車の後を追い、必死に玄関前へと向かう。
 後ろで門番がなにかを叫んでいたが、それも耳には入らなかった。
 思うように動かない足を叱咤し、車寄せへ横付けになった馬車へと、懸命に近づいてゆく。
 側仕えが開いた戸をくぐり、公爵が降り立ったところだった。
 懐かしいその姿を前に、帰参を告げるべく、口を開こうとする。

「ちちう……」

 しかし、その言葉が最後まで発せられることは、ついになかったのである ――


*  *  *


 カルセストら三人が港近くの屯所へとたどり着いたとき、そこはさながら戦場を思わせる慌ただしさに満ち満ちていた。
 壁に貼られた地図には様々な印が付けられ、走り書きされた紙片が何枚も留められている。真ん中にある大きな卓にも図面が広げられ、そこには船や兵をあらわすのだろう、幾つもの駒が配置されていた。
 指揮者格とおぼしき壮年の男が、次々と届けられる報告を受けて指示を飛ばし、駒を動かしている。
「ゼルギ殿、状況はどんなで!?」
 バージェスの問いかけに、男ははっと顔を上げた。
「ああ、バージェス、戻ったのか! レジィ様は?」
「まだ王都にいらっしゃいます。あっしだけ戻りまして」
「そうか……それは、残念だ。是非とも指揮を代わっていただきたかったのだが」
 その答えを聞いてゼルギの顔が曇る。
「この丸い印が妖獣の現れた場所なのか? 十字で消してあるのは?」
 つかつかと歩み寄ったカルセストが、挨拶もせず図面をのぞき込んだ。アーティルトもまた、内容を把握しようと無言のまま目を走らせている。唐突に割り込んできた見知らぬ二人に、ゼルギがむっと顔をしかめた。
「バージェス、彼らは……」
「破邪騎士のお二方です。休暇中……ということになっておりやすが」
「カルセスト=ヴィオイラだ。こちらはアーティルト=ナギ。よろしく頼む」
 カルセストが二人分まとめて名のる。図面から顔もあげぬままの返答だったが、ゼルギの表情は途端に明るいものとなった。
「それは……! ああ、ありがたい!」
 卓に大きく身を乗り出し、全身で感謝の意を表す。
「白い丸は、おっしゃる通り妖獣の現れた場所です。丸を塗りつぶしたものが、現在交戦中の場所。十字を重ねてあるのは、既に戦闘が終了し死骸の処理まで終えた印です」
 ひとつひとつ指差して、てきぱきと説明してゆく。
「こちらの駒は、差し向けている人員をあらわします。小さな駒が五名編成の小隊で、大きなものは十名編成の中隊です。現在パルディウム湾、とくに公爵領のある河口付近を中心として、妖獣が多数発生しておりまして。ほとんどが海岸線に集中しており、現れるのも一、二体ずつなのですが、なにぶん場所が多く……」
 一箇所に集中して対処するわけにもいかず、手がまわらない状態になっているのだという。
 うなずきながら聞いていた三人だったが、ふとカルセストがある駒へ手を伸ばした。
「これだけ他のものと違うようだが、なにか意味があるのか」
 それは中隊をあらわす大きめの駒だったが、他の駒がみな黒いのに対し、ひとつだけ青く塗られている。
「ああ、それは ―― 」
 ゼルギの答えをさえぎるように、戸口から伝令が走り込んできた。室内にいた全員がそちらを振り返る。
「ハク村に上陸したゾルバ三体、片付いたとのことです! 村人への被害、兵の負傷ともに軽微。ロッド様はそのまま、小隊を率いてトヤ桟橋の現場へまわると」
 報告にうなずいたゼルギが、黒い丸を十字で消し、小隊を示す駒と青い駒を移動させる。
 つまり、そういうことだ。
「本来であれば、ロッド様にこうして指揮を執っていただきたいところなのですが。しかしいくら多少の訓練を受けたとはいえ、一般の兵だけで妖獣を相手にするのは心許なく……」
 ため息をついてかぶりを振る。
 ここしばらく、ロッドによって妖獣に対する場合の心得を叩きこまれた公爵領の兵達だったが、それでも直接的な力の差は覆しようがなかった。相手がゾルバ程度ならまだしも、妖獣の種類によっては複数でかかっても足止めがやっとと、そんな具合である。
 故に唯一の破邪騎士であるロッドは、ほとんど現場に出ずっぱりで、報告に応じてあちらへこちらへと忙しく動いているのだという。
 それを聞いたカルセストとアーティルトは、視線を合わせてうなずき合うと、布袋から銀の細剣レピアを取り出した。
「防具があれば貸してもらえるだろうか」
 旅の荷はすべて、公爵領へ着いてすぐ、フェシリアの屋敷へと立ち寄った際に置いてきていた。どちらにせよ、かさばる鎧の類は持ってきていない。装備しているのはセフィアールの力をふるうのに必要な細剣と、あとは予備の長剣と短刀ぐらいだ。
 動きの妨げとなる外套を脱ぎ、布袋ともども丸めて部屋の隅へと置く。ゼルギは慌ててうなずき、手近な人間に籠手と胸当てを用意するよう命じた。
 アーティルトがバージェスを手招きし、身振りで自分についてくるよう頼む。破邪の力を持つ者は別々に行動した方が良い以上、声の出せないアーティルトの意思を、他に通訳する人間が必要だ。その点バージェスは船で過ごした数日の間に、ある程度意思の疎通ができるようになっている。
 部下が防具を用意している間に、ゼルギは青い駒を新たにもう二つ取り出し、卓上へと置いた。
「 ―― 報告ですッ」
 防具を持った兵士と共に、新たな伝令が駆け込んでくる。
「カティ区画の運河沿いで、巨大な海草の塊のようなものがはしけを襲っています! それからその上流では、海星ひとでのような生き物が数十匹、水門にとりついて表面を喰い破りつつあると」
「どこだ!?」
 防具を受け取りながら地図をのぞき込む二人に、伝令が手早く場所を示す。
「どちらがどっちへ向かいやすか」
 バージェスの問いに、カルセストがアーティルトを見やる。アーティルトはそれを受けて、指文字ではなく身振りで互いの行くべき場所を割り振った。判りやすいその指示に、場にいた全員が了解してうなずく。
「こちらに船を用意してあります」
「途中までは同じ方向ですんで」
 案内に立つ兵士を追って、三人は足早に部屋を走り出た。装備をととのえるのは船に乗ってからで充分間に合う。
「お気をつけて!」
 ゼルギの声が、遠ざかるその背を追いかけていった。


 日もだいぶ傾いた時分になって、カルセストは指揮中枢となっている港の兵屯所へと幾度目かの帰還を果たした。
 半ばよろめきながら桟橋を歩く彼に、兵達が労るように道をあけてくれる。
 と、屯所の入り口から呼びかける声があった。見上げてみれば、バージェスが手を振ってきている。
「お疲れさんで」
 笑いながらそう言う彼の顔にも、疲労の色が濃く宿っていた。
「新たな、妖獣は?」
「今のところ、ちっと落ち着いているようです」
 堤防の石段を上がるのに、手を伸ばして力を貸してくれる。
「あとのお二方も、上で休んでらっしゃいます。カルセスト様も少し休憩なすった方が良いんじゃないですかい」
「ああ……」
 アーティルトとロッドの二人とも戻っていると聞いて、カルセストの肩から力が抜けた。あの二人が休んでいるというのなら、本当に余裕ができているのだろう。
 ふらふらとした足取りで兵屯所の戸口をくぐる。
「お疲れさまですっ」
 そこここから熱のこもった、しかしどこか控えめな声がかけられた。
 室内を見まわすと、壁際の長椅子ベンチにアーティルトが腰かけている。彼は湯気の立つ杯を手に、こちらへと笑いかけてきた。その全身は砂と泥と得体の知れない汚れにまみれている。着ている服も、あちこちが破れほころびたひどい有様だ。顔や手など拭ってこそあるようだったが、綺麗になっているとはとても言い難い。半日近く妖獣を相手に走りまわっていたのだから、当然といえば当然だった。
 もちろんカルセストの状態とて似たようなものである。
「あの、どうぞ」
 兵の一人が絞った手拭いを渡してくれた。ありがたく受け取ってまず顔を拭く。白かった手拭いは、あっというまに真っ黒になった。冷たい感触の心地よさに、思わずうなり声が洩れる。
 と、アーティルトが口元に指を立てた。彼だけではない。何人もが同じ仕草で、とがめるようにカルセストを注視してくる。
 思わず自分もならって指を立て、それから首をかしげた。いったいなんだというのか。
 アーティルトが笑みを浮かべ、自分の横を指し示す。
 アーティルトの身体が邪魔になりよく見えていなかったそこには、ロッドが座っていた。
 背後の壁に背を預けるようにして腰かけた彼は、胸の前で腕を組み、そして両目を閉ざしている。長椅子が部屋の隅に置かれているため、すぐ横手にも壁が張り出してきているのだが、そこに寄りかかるように、わずかに上体が傾斜していて。
 耳を澄ましてみれば、規則正しい呼吸がかすかに聞こえてきている。
「 ―――― 」
 人間、予想外なものを目にすると、理解するのにしばらく時間がかかるものだ。
「ここ数日、昼も夜もほとんど休みなく動いていらしたので……」
 ゼルギが茶の入った杯を差し出しつつ、そんなふうに言ってくる。
「珍しい……」
 茶を受け取ったカルセストの唇から、かろうじてそんな呟きが洩れた。
 ロッドが人前でこうも無防備に寝るところなど、これまで見たことがなかった。
 上官が話している途中に居眠りをしているだとか、船などで移動する際、物陰で寝転がっているだとか、そういった場合とは話が違う。カルセストもそこそこの時間ロッドとつきあいを続けてきて、この男のそういった傍若無人な態度の何割かが、意識して装った、いわば見せかけのそれであることを、なんとなく理解するようになっていた。人目をはばからず高いびきでいるようでいて、その実なにかあった際には、特に驚きもせず静かに目を開け起きあがる。ロッドは眠っていてさえ、いつもそういった一定の警戒を怠らないところがあった。
 そんな、この男が。
 つとめて声を低くしているとはいえ、すぐそばで話題にされているというのに、身じろぎひとつせず眠り続けている。
 その様は、彼らがたどり着くまでの数日間が、どれほど過酷なものであったのかを雄弁に語っていた。
 改めてよくその顔を眺めてみれば、ただでさえ痩せぎすで薄かった頬が、削いだように鋭角な線を描いている。浅黒い肌にまぎれてはっきりとはしないが、目の下には影が浮かんでいるようだった。顔色も、あまり良くない。
「……なにか、掛けた方が良いんじゃないか」
 どう評せばいいのか迷ったあげく、カルセストが口にできたのはそんなことだった。
 確か彼らの脱いだ外套が、部屋のどこかに置いてあるはずだ。あたりを見まわすカルセストに、兵士の一人がそれを取り上げてみせる。しかしその兵は迷うようにそのまま手の中で丸めてしまった。
「我々もそれは思っているのですが……その、起こしてしまいそうで……」
 気配にさといこの男のことだ。いくらそっと近づいたとしても、感づいて目を覚ましてしまうかもしれない。せっかくこうして眠っているものを、邪魔をするのはあまりに心苦しいが、しかしこのまま放っておくのも申し訳ないし、と。彼らは彼らなりに先程から葛藤していたらしい。
 さて、どうするべきか。
 自らも考えようとしたカルセストだったが、ふと視界の端で動くものに気づいた。顔を上げてそちらを見ると、座ったままのアーティルトが手招きしている。何事かと数歩近づいていくと、腕を引っぱられ、長椅子のあいている部分に座らせられた。
 杯を持っているのと逆の手が、ひらひらと目の前で動く。
『休む。今の、うち』
 疲れているのはカルセストも同じなのだから、時間のあるうちに少しでも身を休めておけと、そう言いたいらしい。
 確かにこうして腰を下ろすと、もう立ちあがりたいとは思えなかった。足元から重いものが這い上がってくるような気がする。足を締めつける長靴ちょうかを苦労して脱ぎ捨てると、少しは楽になった。深く息を吐いて壁によりかかる。
 これほど多くの妖獣をたて続けに倒したのは初めてのことだった。単純な数だけならば、先日のヴェクドの群よりは少ないかもしれない。だが何種類もの異なった妖獣が相手で、しかも破邪の力を持つ者はその場に自分一人だけという状況が、想像以上にカルセストを消耗させていた。体力的にもそうだが、頼れる上位者がいないというのは、常に集団で行動することに慣れていた彼とって、かなりの負担となっている。
「まだ、たった半日……なのに……」
 両目を閉ざして嘆息する。
 己の未熟ぶりが、まざまざと身に染みた。


*  *  *


 室内が急に騒がしくなった気がして、カルセストは目を開こうとした。と、途端にがくりと落下したような感覚を覚え、驚いて顔を上げる。
「おう、起きたか」
 かけられた言葉にふり返れば、碗を手にしたロッドが、匙をくわえたままこちらを見ていた。起きたのはそちらの方だろうと言い返そうとして、ふと己の身体が外套でくるまれていることに気が付く。
 いつの間に、というか。もしやまさか。
「寝て……?」
「ああ。きっちりしっかり寝てたぜ」
 ロッドがまた容赦なく繰り返してくれる。
 きょろきょろとあたりを見まわせば、同じように食事中の兵達が、こぞってうなずきを返してきた。
「い、いつの間に……」
 ほんのちょっと目を閉じただけのはずが、外套をかけられてもまったく気づかないほど熟睡していたらしい。思わず頭を抱えるカルセストに、そこここで笑い声が起きた。
「眠れるときに寝とくのは賢いですぜ」
 バージェスがそう言って、魚の包み焼きが乗った皿を差し出してくる。それを目にすると同時に、カルセストの腹が音を立てて鳴った。またもどっと笑いが生じる。
 カルセストは真っ赤になりながら、それでも皿を受け取った。窓の外を見れば、すっかり日が暮れて夜になっている。公爵領に着く寸前、船の中で摂った朝食を最後に何も口にしていないのだから、腹が空いているのも当然だった。
「胃が受けつけねえなら、粥もありますが」
 そう聞かれたときには、既に包み焼きの半分が消えていた。
「……大丈夫そうですな」
 半ば呆れたような呟きがこぼされる。若いってのぁ良いですなあ、などとゼルギと二人ぼやいているのをよそに、残りの半分も腹に収めるべく口を開けた。
 と ――
「飲み物はいかがでしょうか」
 突然かけられた涼やかな声に、カルセストは包み焼きを持ったまま顔を上げた。
 杯と水差しを手にした少女が、控えめにかがみ込んできていた。頭から薄手の布をふわりと羽織っているが、その下からのぞく銀の髪が、柔らかな角灯の光を浴びて虹色にきらめいている。澄んだ水色の瞳が、間近からカルセストに微笑みかけた。
「…………」
 口を閉ざすのも忘れ、カルセストはしばしまじまじと見つめ返していた。反応がないのをいぶかしんだのか、フェシリア付きの亜人種の侍女は、ほっそりとした首をわずかにかたむける。そうするとわずかに布がずれ、耳元の鰭がかいま見えた。
「あの、カルセストさま?」
 呼びかけられて、カルセストはようやく我に返る。
「や、その、えっと」
 馬鹿のように開けていた口を慌てて閉じ、そうしてなにか答えを返そうとする。が、気の利いた言葉などとっさに思いつけるはずもなく。わたわたと手足を動かしていると、リリアはくすりと唇をほころばせた。
「さあ、どうぞ」
 持っていた杯を手渡し、水差しから果実酒をそそぐ。
 皿を脇へ置いたカルセストは、促されるままに酒を口に運んだ。だが味などほとんど判らない。どうしてこんな所に彼女がとあたりを見まわしてみれば、先程は気づかなかったが、他にも数名の女性が給仕に働いているようだった。
「フェシリアさまから、皆さまへ差し入れるように、と」
 休む間もなく働いている面々 ―― 特に破邪騎士達をねぎらう意を込め、食べ物や飲み物を運ばせてくれたらしい。
「それは、ありがとうございます」
 心底からの感謝を込めて頭を下げた。兵屯所では、なにかを食べるとしてもせいぜい、パンと冷たい肉程度のものだったに違いない。この非常時ではそれが当然と言っていい。まだ温もりの残った粥や、さくりとした歯ごたえが返る包み焼きなど、最高の贅沢に感じられた。
「町の様子はどんな感じですか」
 公爵領へついてすぐ現場に向かい、あとはずっと妖獣を相手にしているか、わき目もふらず移動しているかだったカルセストに、町の様子を目に入れている余裕などほとんどなかった。ことに沿岸部には立ち入り禁止の令が出ているらしく、見える場所に一般の民達の姿はまるでなかった。
「ロッドさまの提案もあって、早いうちから情報を公開しておりましたので、混乱のようなものは今のところございません。危険な地域の避難もほぼ終了しておりますし……」
「人的な被害はあまりないということですか」
「はい。王都の方へは二日前に知らせを送ってあります。今頃は届いている頃でしょうから。セフィアールのかたがたがお着きになられるまで耐えられればと、みなそれを支えに」
 その言葉にカルセストは安堵の息をついた。
 建物や物資については、ある程度の取り返しがつく。妖獣に破壊されたものについては王宮から補償が出るし、各地からの寄付も集まることだろう。それでなくとも、蓄えの少ない僻地の町などとは違い、国内有数の貴族であるコーナ公爵家のお膝元だ。命さえ無事ならば、人々が路頭に迷うようなことにはならないはずだ。
 明々後日か、遅くとも四日後には援軍の破邪騎士達がやってくるはず。それまでなら、三人でどうにかしのげるかもしれない。
 ―― そう考えたカルセストは、現在の王都の状況を計算に入れていなかった。
 当代国王カイザールが危篤、王太子もまた王位継承にまつわる公務で忙殺されているだろういまの状態で、常のような迅速な対応など望むべくもないことを、彼は失念していたのである。
 ましてこの時のエドウィネルは、もたらされた報告を受けることも、そして指示を出すことも不可能な状況にあったのだが ―― 王都を遠く離れたコーナ公爵領で、彼らがそうと知ることなど、できようはずもなかった。
「あの、もう一杯もらえますか」
 少し気が楽になったカルセストは、杯の中身を飲み干すとリリアに差し出した。応じてリリアがお代わりを注ぐ。頭から羽織っている布が、その手元へと落ちかかって揺れた。
「邪魔じゃないですか?」
 杯にかかりそうになるそれを手でよけて、カルセストはなんの気なしに問いかけた。夜の屋内では日よけというわけでもなさそうだし、年若い貴人の女性は外出時に顔を隠すこともあったが、それにしては他の侍女達は普通の格好をしている。
 と、リリアは目を伏せわずかにうつむいた。
「 ―― いまは、あまり姿を見せない方が、良いものですから」
 消え入りそうな小さな声で、そうとだけ告げる。
「それは……」
 数ヶ月前のカルセストだったら、何を言われているのか判らなかったに違いない。しかしリリアの ―― 亜人種の存在を知り、そのことについて興味を持って調べ始めていた彼は、それだけでおおよその事情をくみ取ることができていた。
 人と ―― この大陸で大多数を占める『人間』という種族と異なる姿を持った亜人種達は、かつてそれ故に迫害の対象となった時代があった。妖獣という、常の生き物とは異なった存在に脅かされていた人々は、やはり自らとは異なるように見える亜人種達を、妖獣と同一視し狩りたてたのだという。
 亜人種達の不幸は、彼らに対してもセフィアールの力が、妖獣を滅する破邪の能力が有効だったことにあるだろう。
 妖獣を滅する破邪の騎士団、彼らの力の前に妖獣はすべて滅し去られる。ならばその力によって滅ぼされる、亜人種達もまた、妖獣の一種なのだと。人々はそう信じ、かつては隣人として共に過ごしていた彼らを、容赦なく排斥していったのである。
 無論のこと、それはもう何年も ―― 何世代も昔の話である。数代前の国王が、亜人種は妖獣にあらずと公式な触れを発し、理由なく亜人種を迫害することを禁じていた。それでも人々の意識の根底には、いまだ亜人種をいとう風潮が残されている。その存在がほとんど見られぬ内陸部で生まれ育ったカルセストと違い、東方や南方諸島などから海を渡ってくる種族が時おり見うけられる公爵領近辺では、ことにその感覚が根強いようだった。
「 ―― 馬鹿馬鹿しい」
 カルセストは思わずそう吐き捨てていた。
 思った以上に鋭くなったその口調に、リリアが小さく肩を震わせる。思い思いに談笑していた兵達も、驚いたように話をやめ二人の方をふり返ってきた。そんな他人の視線も目に入らぬまま、カルセストは杯を置き手をあげる。
 人目をさえぎるその布を、無造作につかんで引っぱった。軽く止めてあっただけのそれは、簡単にはずれ、床へとすべり落ちる。首の後ろで緩く編まれた銀の髪と、髪の間からのぞく鰭があらわになった。
 慌てたように頭に手にやるリリアを、カルセストはまっすぐに見上げる。
「妖獣と貴女に、なにも関係などあるはずがない」
 はっきりとした声で告げる。
「たとえ妖獣がどれほど現れようと、貴女が気にすることではないし、それを責める人間がいる方がおかしいんだ」
 握っていた布を投げ捨て、カルセストは立ちあがった。そうして壊れ物に触れるかのような、慎重な手つきでそっとリリアの髪へと触れる。
 冷たい、まるで水を思わせるすべらかな感触。耳元の鰭が、蝶のような動きでかすかに揺れている。
「こんなに、綺麗なのに……」
 鰭が光を透かしてきらめく様に、カルセストはしみじみと嘆息した。
 七色に輝く銀の髪も、うなじにのぞく水色の鱗も、まるで宝石細工のような美しさだとそう思う。ただ自分達と異なる姿だから、見慣れないものだからとこれを否定する輩が存在するのは、本当に馬鹿馬鹿しくもったいないことだ。
「 ―――― 」
 リリアはうつむいたまま顔を上げようとしなかった。
 怒らせてしまったのかもしれない。だがそれでも、間違ったことは言っていないと思う。
 いつしか室内が静まりかえっていた。シンと水を打ったかのように、物音ひとつ聞こえてはこない。不審に思って顔を上げると、場にいた全員がこちらへと注目してきていた。
 おや、と目をしばたたくカルセストに、高い指笛の音が浴びせられる。耳に突き刺さってくるその音に、カルセストは思わず身を退いていた。
「人前で口説くたあ、やるじゃねぇか!」
 意地悪い笑みを浮かべたロッドが口火を切った。
 は? と一瞬意味を捉えかねたカルセストだったが、続いてバージェスがしたり顔で声をかけてくる。
「お気持ちは判りますが、そう言う台詞は二人きりの時に言った方が、もっと効果があると思いやすぜ」
「え……なっ?」
 何を言われているのかじわじわと理解するにつれて、カルセストの顔に血の気が昇り始めた。慌ててリリアを見下ろせば、うつむいた顔の頬のあたりが、かすかに紅く染まっている。
「や、そ、そんなつもりじゃ……ッ」
 うろたえまくるカルセストに、どっと室内がわきかえった。そこここから口笛や笑い声が浴びせられる。給仕に働いていた侍女達までが、控えめに口元を押さえつつ忍び笑っていた。
「う、あ、その……」
 どうすればいいか判らないでいるカルセストの傍らで、リリアもまた居たたまれぬように身体を小さくしている。
 だが ――
 向けられる揶揄のほとんどが、微笑ましいものを見る好意的なそれであることが、場の雰囲気を明るくあたたかいものにしていた。
 リリアを取り巻く空気は、同僚である侍女達との間でさえ、ついさっきまで冷たくぎこちないものをはらんでいた。それがすっかり払拭されていることになど、真っ赤になった年若い破邪騎士が気づけるはずもなく。


 くつくつと笑いながら酒の杯を持ち上げたロッドに、ふと横から別の杯が突き出された。視線をそちらへ向ければ、アーティルトがやはり笑みを浮かべて立っている。
 目と目が交わされ、それは自然とカルセストの方を向いた。
 ようやく少し落ち着いたらしい彼は、リリアに向かって懸命になにやら話しかけている。だが対するリリアの反応からして、ますます墓穴を掘っているようだ。
「 ―――― 」
 アーティルトがひとつしかない目を細め、穏やかに笑う。
 つと持ち上げられた二つの杯は、無言で軽く、打ちあわされた。


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