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 楽園の守護者  第十四話
 ― 継承のとき ―  第一章
 ― Makoto.Kanzaki Original Novel ―
 
神崎 真


 エドウィネルとレジィが深夜の図書館で最初に言葉を交わしてから、二日目が過ぎようとしていた。
 フェシリアからの知らせを受け取ったエドウィネルは、即座に動かせる二人の破邪騎士 ―― アーティルトとカルセストを公爵領へ送り出すことを決定し、その補佐としてレジィは己の副官であるバージェスを推薦した。一般への募集により入隊した彼は、若い時分、賭博に手を出したり、ちょっとした荒事に首を突っ込んだりと、そういった生活をしていたおかげで、ひとところにはそう長居ができず各地の下町を転々としていたらしい。それだけに移動手段の手配などにも通じているということで。
 貴族出身の人間であれば、普通はそういった来歴を持つ兵士を使うことは敬遠するものだった。生まれすら定かでない、一癖も二癖もあるならず者上がり。なにか問題を起こすのはえてしてそういう輩なのだからと。
 だが、レジィはこの副官をひどく重宝していた。世慣れた人間だけに良く気がつくし、配下の兵士達からも慕われている。確かに口のきき方など丁寧とは言い難く、時としてぎょっとするほど遠慮のない物言いをしてくることもあったが、落ち着いて耳を傾ければ、なるほどそれももっともだと、そう思わせられる内容が多い。
 なにより、己よりはるかに年若いしかも女騎士に、こだわりなく上官として接してくれる。その割り切りの良さが有り難かった。無論 ―― そこに至るまでには穏やかならぬ一幕もそれなりにありはしたのだが。
 まあ、それはさておき。
 かなり癖のあるそんな人物を推薦するにあたり、レジィはどう説明したものかとひそかに心悩ませたものであった。が、なにしろエドウィネルはあのロッド=ラグレーを信任し、その有能さを認めている人物である。レジィが信頼をおいている人物であれば、信じて任せることに否やはなかった。
 そうしてそれぞれの配下を送り出した後は、彼らもそれ以上この件について打てる手はほとんどなく。
 エドウィネルは再び公務へと忙殺され、レジィはわずかでもなにかの役に立てればと、図書室にこもり出発した破邪騎士達のあとを継いで調べものを続行することになった。幸いにといっては複雑なものもあるが、コーナ公爵からなんらかの用足しを言いつけられぬ限り、この王宮で彼女が成さねばならぬことなど何もなく、そしてセクヴァールはレジィの存在などほとんど気にも留めていなかったのだから。
 それでも念のためフォルティスがそれなりの手をまわし、ちょっとした書類のまとめに人手を貸して欲しいと打診して、レジィが自由に動けるよう計らった。
 そうして彼女はこの二日というもの、膨大な書籍に囲まれて時を過ごしているのである。
 閲覧室の窓からのぞむ空は、だいぶ暗くなってきていた。そろそろ灯りを用意した方が良いかもしれない。そう思いながらも、もう少し切りの良いところまではとつい頁をめくってしまう。が、レジィは扉を叩く音を耳にしてふと顔を上げた。
「はい」
 この部屋が使用中なのは、扉に札を出しているので判るはずだった。何より戸を叩くというその行為が、中に人物がいることを前提としている。
 あるいは係りの者が、気を利かせて灯りを持ってきてくれたのか。
 そう考えてわずかに椅子を引いたレジィは、しかし開かれた扉の向こうを見て、思わず立ち上がっていた。乱暴に蹴り飛ばされた椅子が、床の上で騒々しく音を立てる。
「殿下!?」
 つい数日前、同じこの場所で拝謁したその人が、またもひとり護衛も連れずに現れたのである。
 実際のところこの気さくな王太子は、今回カイザールが倒れるまで、同じようなことを日常当たり前のように行っていたのだが。しかし王宮勤めではなかったレジィが、そんなことなど知るよしもない。彼女の認識では、貴い人間は一人でそう気軽に動きまわるものではないし、事実それがこの時代の常識なのである。
 とっさに床へとひざまずいた彼女を、エドウィネルは立ち上がるよう、卓に明かりを置きながら促した。
「ああ、気にしないでくれ。少し息抜きをさせてもらおうと思ってな」
 そう言って襟元の留め具を緩める。予備の椅子を引き寄せ、珍しく乱暴な所作で腰を下ろした彼は、大きくひとつ息を吐いた。俯いたその横顔に、疲労の色がにじみ出している。
「あの、殿下。お疲れでしたら、なにか飲み物でもお持ち ―― 」
 膝を上げたレジィはそのまま茶の手配に向かおうとして、この場所が飲食禁止だということに思い至る。
「いや……実はフォルティスにもだいぶ気遣われてな。いい加減、腹がだぼだぼなんだ」
 エドウィネルが胃のあたりを撫でながら苦笑いする。そんな子供じみた仕草に、レジィは思わずまじまじと王太子を見つめ返した。エドウィネルはエドウィネルで、真面目くさった表情でその視線を受け止める。
 やがて、最初に口元をほころばせたのはどちらであったのか。
 吹き出すような不作法こそしなかったが、二人はそれぞれに笑いを滲ませ、くすくすと小さな声を洩らしあった。
「それは災難でございました」
「心配してくれるのはありがたいのだが。いや、まったく」
 場には和やかな空気が流れる。レジィが先刻動かしてしまった椅子を元の位置へと戻し、散らかしていた卓上を軽く片付ける。そんな様子を無言で眺めていたエドウィネルは、彼女の作業が一段落した所を見計らって、声を掛けた。
「レジィ=キエルフ」
「はっ」
 改まった呼びかけに、レジィは姿勢を正して振り返った。背筋を伸ばした綺麗な立ち姿で続く言葉を待ち受ける。
 そんな彼女の前でエドウィネルは椅子から立ち上がった。明かりの傍らに並べていた細長い包みを取り上げ、数歩彼女へ歩み寄る。
「これを受け取ってくれるか」
 何事かと首を傾げかけたレジィだったが、差し出された包みの形状を目にしてすぐに思い至った。一瞬再度ひざまずくべきかと考えたが、それを実行に移すより早く、エドウィネルの手で包みを受け取らされる。
「気に入ってもらえると良いのだが」
「め、滅相も……」
 ずしりとしたその感触に、レジィは続く言葉もなく、ただかぶりを振るしかできなかった。
 目線で促され、おそるおそる布の端へと手を掛ける。濃い紫の絹布で丁寧にくるまれた中から現れたのは、刀剣の柄頭であった。この大陸で一般に使用されている剣とは異なり、重みもなければ派手に出っ張っているのでもない、ごく簡素な作りである。続く柄の部分もほっそりとしており、滑り止めに丈夫な糸をぎっしりと巻いてあった。鍔を親指で押し、鯉口を切る。かすかな金属音をともなって、刀身がわずかに引き抜かれた。
 窓から差し込む夕暮れの光に、鋭利な刃がきらめく。もっぱら勢いと重量で叩き割ることを目的とするこの大陸の剣と比して、自らの切れ味でまさしく相手を斬り捨てる東方の刀。それは、刃を見るだけで思わずため息を洩らさずにはいられない、そんな美しさを漂わせていた。
 軽く反りの入った細身の刀身は、迂闊に扱えばたちまち刃こぼれし、折れてしまうもろいものだ。だがうまく使いこなせれば、わずかな力で骨をも両断する鋭利さを備えていて。
 優美さすら感じさせるその刃がふるわれるさまは、いっそ舞のようにも見えるだろう。
 息を呑んで眺めるレジィの様子に、エドウィネルは小さく安堵の息を吐いていた。
 武人がその命を預けるものだ。中途半端な品は贈りたくなかったし、またどれほど高価であろうとも、持ち主の手になじまぬようでは、とても使って欲しいと口にはできない。刃渡りや柄の形状など、レジィが以前使っていたものとできるだけ近いものを選ぶよう意識したつもりだったが、なにしろ彼女が実際に剣をふるっているのを見たのはただの一度きり。しかもその時には既に切っ先が折れてしまっていた。
 そう ――
 砂と埃と妖獣の体液にまみれ、折れた剣を掲げて兵を鼓舞するその姿。
 あの時には既に疲労も限界だったことだろう。もつれた巻き毛が青ざめた頬にかかり、指揮する声は掠れていた。手足に何箇所も血を滲ませ、それでも膝を屈することなく顔を上げ。
 エドウィネルが援軍を連れて駆けつけたその時、こちらを振り返ったその瞳と、一瞬視線が交わった。
 あの一瞬を、エドウィネルは鮮烈に記憶している。
 強い光を宿す黒曜石の瞳が、エドウィネル達を映していっそう輝きを増した。こわばっていた表情が明るくほころび、ついで味方へと援軍の到来を告げる声が発せられる。
 あの瞬間は、ただ間に合ったのだとそればかりが頭にあった。これ以上の被害は断じて出せないと、兵達の指揮を受け取り、夢中で采配をふるっていた。
 だが、全てが終わり、王都へと戻ってきた、現在。
 国王が倒れ、いつ息を引き取るかも定かではなく、公務と即位への準備に忙殺され、緊張の日々が続くなか。少しは休まなければと気を緩めようとした時、思い描く内容はごく限られたものとなっていた。
 この王宮で過ごした日々のほとんどは、死の床にある祖父の記憶と密接に繋がっている。また、あの日常にはもう二度と戻れぬのだと、そんな思いもあった。未来に思いを馳せるにはあまりにも不安ばかりが大きく、こんなとき無理矢理にでも背中を押して ―― と言うよりは蹴りとばすと表現した方が近いかもしれない ―― くれるだろう数少ない人間は、みな詳細の判らぬ件を追って遠い場所にいる。
 そんな中、レジィに剣を贈ると約束したその件は、何のしがらみもなく、心安らかに思い返すことができる事柄だった。
 責務の合間を縫って東方の刀についての資料を眺め、手配された幾本かのそれを吟味することは、ずいぶんと良い息抜きになった。鞘や柄のこしらえはどんなものがよいだろうか。剣に合わせて剣帯もあつらえようか。ならばその細工はと思いを巡らせ、実際に刀を帯びたレジィの姿を想像する。
 そんなとき脳裏に思い描いたのは、あの一瞬のその光景。
 建物の中で礼儀正しく壁際に控えている姿ではなく、フェシリアの護衛として周囲に気を配りながら歩む姿でもなく。
 戦いのその現場において、誰よりも先に立ち、果敢に剣を振るう。そんな、姿。
 彼女のそんな戦いぶりの、わずかでも助けになるといい。助けとしたい。
 そんなふうに願いながら選んだ剣だった。正直気に入ってもらえるだろうかと、内心手に汗を握る心地で差し出したのだが。
 魅入られたように刃を眺めているレジィに、ひとまずは合格らしいとエドウィネルは胸をなで下ろしていた。
 実際に使ってみてもらわなければまだ安心はできないが、それでも一目で困惑させるような真似はせずにすんだようだ、と。
 そうして彼はもうひとつの包みへと手を伸ばした。卓の上に置いたまま布を開き、直接手に取る。
「留め具が我々の物とは合わぬようだったので、多少細工をさせたのだが。試してみてくれるか」
 そう言って差し出したのは、黒革と銀で作られた剣帯であった。鞘を留めるための金具が、通常のものとは異なった形状をしている。
「あ、は、はい」
 声を掛けられ我に返ったレジィは、慌てたように返事した。
「この部分をこちらにひっかけると思うのだが」
「そのようですね。しかしこれは、少々固い……ような」
 二人で額を寄せ合うようにして、使い慣れぬ金具と剣とを代わる代わる手にする。
 その様子はどこか、珍しい玩具をいじりまわす睦まじい子供達にも似ていて。
 そうして彼らは、すっかり陽が落ちて窓の外が闇に包まれるまで、刀と剣帯を間にしばし穏やかな時間を過ごしたのである。


*  *  *


 ―― そもそも。
 国王崩御をもって譲位とみなすこの国において、先王の喪に服するという習慣は存在していない。近隣の国家やあるいは国内でも一般貴族達の間では、先代の死後は数ヶ月から場合によっては一年程度、華やかな催しは控え、正式な継承も伸ばすのが慣例である。だがしかし、こと国王とその血にちかしい高位貴族達は、間をおかず後継者が名乗りを上げることとなっていた。
 なにぶん妖獣の横行が激しいこのあたりで、長期間にわたって玉座を空にしておくことなど、できる相談ではないからである。民達の心の拠り所として、破邪騎士達に力を与える者として、国王の存在は欠くべからざるものだ。たとえエドウィネルが王太子の名のもと、必要充分な権限と能力を持ち、それを行使したにせよ、『国王』と呼ばれる存在がもたらすものには到底及び得ない。
 故に彼は、本来であれば哀しみに浸り、間もなく訪れるであろう王の死を悼むべきその時間にも、為さねばならぬ多くの仕事に追われていた。
 妖獣という、誰の利害もしがらみも考慮し得ぬ共通の脅威を持つが故にか、皮肉にもこの国では内部での諍いというものが極端に少ない。地方領主同士の小競り合い程度ならばともかく、王権を危うくするような変事などはまず起きることなく、仮にそのような事態が起こりうる可能性が見られた場合も、そのほとんどが現実の目を見ることもなく、周囲のあらゆる人物が持てる手段を駆使し、事前に叩きつぶすのが常であった。
 それほどにこの国の民は王家を ―― 破邪の力を受け継ぐ血脈を必要としている。
 伝統や崇敬といった形骸的なものにとどまらぬ、確固たる現実的な力をもって国民を守る、王家の血筋。
 ―― あるいは。
 ただその血筋だけを必要とされ、政治になどたずさわることなき一騎士団の長としてあったならば、むしろ彼らは幸せだったかもしれない。
 政治的手腕など持ち得ず、ただその身に受け継がれた知識と特殊能力のみを武器として、なにを考える必要もなく他者に仕えることができたなら ――
 だが、彼らは現実、優れた統治者を排出し続けてきた。
 祖なる王エルギリウス=ウィリアムより数十世代。
 険しい地形により外界から遮断されたも等しい大陸の東南端にあって、現在この国が持つ国力は、他国の優に倍すると言って良い。
 わずかな輸出入しか存在せぬというその事実は、有する国民の全てを自国の生産力で養いうるという証明に他ならない。貧富の差、教育の偏りは確かに存在すれど、それを認め解消するべく政策を執り行う ―― そんな意識の高さこそが、未だ他国には容易に見られえぬものなのだ。
 妖獣の横行する荒野同然であった土地を、ひとつの国家としてまとめ上げた彼らの手腕を前に、誰がかの血筋の価値を否定できるだろうか。
 無論、これまでに暗愚な王が現れなかったわけではない。
 それはどの国の、いつの時代の王家、貴族にも共通することである。セイヴァン王家にも酒食に溺れ、政治を省みなかった王が存在した。またこの大陸に住まう者の大多数を占める『人間』とは異なる姿をしているからと、亜人種を妖獣と同一視し狩りたてるよう命じた者や、あるいは破邪騎士に力を与えることを拒み、セフィアール騎士団を解散させようとした王さえいた。だがそのつど後継者達がその行いを阻み、先代の愚行を埋め合わせるかのような賢政を敷いてきたのである。
 彼らは一様にこう口にしたという。
 『王のつとめは君臨し支配することにあらず。ただ民達を守り、その平穏なる生活のために奉仕することなり』と ――
 多くの王達が一貫して持つその意識こそが、この国のあり方を象徴しているといえた。
 そう、彼らにとって、王権とはけして誇るべきものでも望んで得るものでもなかったのである。それはむしろ義務であり、己が命を削りすらして果たすべき、責務であったのだ。


「……国葬と戴冠式の段取りは、おおむね確認できたようですね」
「はい」
 確認するように会議室を見わたしたエドウィネルに、間をおかず答えが返された。
「城下への告知や参列者の選出、必要な宿泊施設や物資の準備もほぼ完了しております」
 さらに別の声が、そう補足する。
 王宮の奥深く、国政に関わる重要な話し合いが行われる会議室には、いま王都で主だった役職に就いている、いわゆる重鎮の貴族達が顔をそろえていた。
 彼らの間に流れる空気は、ひどく重く、沈鬱なものだ。
 打ちあわされる事柄は数多く、議題が尽きることはなかったが、そこに活発さといったものが感じられることは、まったくと言って良いほどない。
 どこかひそやかに、息すらひそめるようにして、話し合いは続いてゆく。
 交わされる言葉に時おりうなずきながら、エドウィネルは手元の書類をめくり、その内容を確認していった。
 若くして王位についたカイザールは、代々の国王の中でも、もっとも長く王としてのつとめを果たし続けてきた存在である。その治世は既に半世紀にほど近い。その結果として、前回行われた継承にまつわる式典について、詳しく記憶している人間は、城内でも最早数えるほどしか残されていなかった。
 既に老境にあるそれらの人々の記憶と、残されている文献資料を頼りに、彼らは様々な手配を行い、来るべきその時を迎えるべく、準備をとり行っているのである。


 やがて、話し合いがひととおり落ち着いたところで、しばしの休息がとられることとなった。
 室内には低いざわめきと、散乱した書類をそれぞれまとめる、乾いた音とが満ちる。
 エドウィネルもまた、小さくため息をつくと固く強ばった首筋をほぐすように、数度手で揉んだ。
 そんな彼へと、隣に座っていたキアヌ伯爵が声を掛けてくる。
「だいぶお疲れのご様子でございますな」
 恰幅の良い ―― 言い換えればいささか運動不足の気がある ―― 伯爵は、ずいぶんあちこちが凝っているらしく、しきりに肩や腕を動かしている。
「こうも打ち合わせばかりが続くと、さすがに」
 苦笑してみせると、キアヌ伯爵もしみじみとうなずきを返してきた。
「まったく、なにもかもが手探りのようなもので。 ―― こうなりますと、諸外国の使節を受け入れずにすむのは、いっそありがたいほどですな」
「そうですね、確かに」
 ため息混じりのその言葉に、エドウィネルも同意した。
 今回の式典において、参列者の中に国外からの賓客は一人として予定されていない。
 もちろん、国王の代替わりともなれば、通常は周辺の諸国家にも招待状を送り、王族かそれに準ずる使節団の参加を要請するのが慣例であろう。そうすることで国同士の交流をはかるのが外交というものだ。
 だが ―― 地理的に外部との行き来が難しいこの国にあって、そういった交流が行われることは滅多にない。北の山地も西の砂漠も、あるいは東から南にかけて広がる海原も、越えるにはあまりに危険が大きすぎるからだ。旅慣れた商人達ですら多くは二の足を踏むそんな旅路を、要人と呼ばれる人々が踏破しようというのは、あまりに無謀といえる。
 故に今回のことについても、国外に対してはなんら公式な発表を行っていなかった。そもそも知らせを送ろうにも、その使者が無事目的地までたどり着けるかどうか、それさえもが危ういのである。そんな危険な真似など、どうしてわざわざさせられようか。
 ―― 国家セイヴァンが時に『閉ざされた楽園』と諸外国から称されているのは、そんな閉鎖性の故にであった。国家方針としての鎖国であれば、間者を送り込むといった情報収集手段もあるだろう。だがことは物理的な障害であるが故に、そういった方法もなかなかに難しいらしかった。
 現在セイヴァンと諸外国との文化交流を担っているのは、もっぱら冒険商人と呼ばれる一部の命知らずな交易商達である。かれらは妖獣と遭遇する危険をもかえりみず、険しい山脈を、広大な砂漠を、波渦巻く海原を越えて行き来する。滅多に交流のない土地同士であるが故に、一度の旅でもたらされる富は莫大。ただしそれは無事に目的地にたどり着けてこそのもので。そして思惑通りの富を手にできる者は、一部のごく限られた商人のみにすぎないのだという。
「……いずれは、もっと安全な行き来が可能になるよう、街道なり航路なりを整備したいところですが」
 エドウィネルが、独り言のようにそんなことを呟く。
 だが、そういったことに着手できるようになるのは、まだ何年も先のこととなるだろう。
 今はなによりまず、目の前に迫った儀式と、それにまつわる諸事から片づけていかなければならないのだから。
 気を取り直すように、再び書類を手にしたエドウィネルに、キアヌ伯爵はためらいがちな素振りで視線を向ける。
 幾度かその口が動かされ……やがて、意を決したように言葉が発せられる。
「その、殿下」
 ふと視線をあげたエドウィネルへと、伯爵は問いを向けた。
「陛下の……御容態は」
 絞り出すかのようなその問いかけに、エドウィネルは無言でその目を伏せる。
 やがて小さくかぶりを振った。
 それは、なにも変わりがないということを示す仕草だ。
 悪い方にも、そして良い方にも。


「…………」


 伯爵の返答もまた、無言のまま。
 やがて沈黙のうちに時が過ぎ、何事もなかったかのように、会議は再開される。


*  *  *


 ―― その日の夜遅く。
 エドウィネルの元へと、一通の書簡が届けられた。
 簡素な白い封筒には差出人を示す紋章もなく、そして署名すらなされておらず。本来であればうち捨てられて不思議のないそれは、しかしレジィ=キエルフの手を介して直接王太子へと手渡された。
 そして、それが故に、開封される以前より差出人の判明していたその書簡をきっかけとするかのように、この王都でも事態が動き始めることとなったのである。


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