楽園の守護者  第十三話 外伝
 〜 叙 任 〜
 ― Makoto.Kanzaki Original Novel ―
(2006/07/01 18:26)
神崎 真


 微かな物音を耳にして、老人は書物へと落としていた視線をあげた。
 室内を照らすのは、卓上に置かれた角灯が投げかける、もの柔らかな光だけである。ゆったりと広く取られたその空間を照らし出すには、あまりにもささやかな明かり。事実老人が身を預ける寝椅子と傍らの卓以外は、そのほとんどが暗がりに沈んでしまっている。
 閉ざしていたはずの窓が開き、吹き込む夜風に紗幕が緩やかに揺れていた。
 そしてその紗幕の後ろに、わだかまる黒い影が存在している。老人が気づいたとほぼ同時に、それは大きく伸び上がった。
 ―― 人だ。
 開いた窓から侵入し、絨毯へと降り立ったばかりの人間が、いままさに立ちあがったところであるらしい。
「…………」
 余人も寝静まった夜半過ぎ。
 前触れもなく訪れた侵入者に、しかし老人は誰何すいかの声をあげることもせず、ただ膝に置いていた書物に手をやり、ぱたりと閉じた。そうして卓へとそれを乗せる。
「危険な真似をする」
 老人はそう言って、角灯の芯を調節した。明るさを増した光に、侵入者の姿がかすかに浮かびあがる。
 それは、まだ少年と呼んでも良いだろう、若者であった。
 年頃はせいぜい十七、八。首の後ろで束ねた癖のある焦茶の髪と、褐色の肌を持っている。灯火に照らされて光る目は、深く濃い、蒼。
 ―― 数日後に破邪騎士への叙任を控えた、名無しの若者である。
 いや、名ならば昼間、王太子が手ずから運んできた書類に記されていたか。この若者が自身で選び、名付けた新たなそれが。
「ロッド=ラグレー……」
 老人 ―― セイヴァン国王カイザールの呼びかけに、若者は口元を歪めただけで答えなかった。
 毛足の長い絨毯を踏み、大股にカイザールの元へと近づいてくる。
「そなたの身の軽さは知っておるが、いくらなんでもこの闇の中では危なかろうに」
「別に? 慣れたことさ」
 角灯の置かれた卓へと無造作に腰を乗せ、若者は老人を見下ろしてくる。その顔には、どこか嘲るような笑みがたたえられていて。
 ここ、国王の寝室とそこに連なる居室とは、王宮内でももっとも奥まった一角に存在している。無論のこと、限られたごく一部の人間しか立ち入ることは許されておらず、そのわずかな人間達も、よほどの差し迫った事情でも存在せぬ限り、こんな夜も更けた時刻に訪れるなど、あるはずのないことだった。たとえそれを希望したところで、実行しようとすれば、国王の私室近辺を幾重にも護る兵達が丁重に退けるだけだ。それでも強行しようとするならば、力ずくで排除 ―― すなわち、武力にものを言わせられることとなる。
 だがそういった際に伝わってくるだろう穏やかならぬ喧噪もなければ、控えの間に詰めている侍従達からの取り次ぎも存在せず。しかし若者はこうして国王の寝室に足を踏み入れ、その主と相対している。しかもそれが初めてではないことは、両者の慣れた空気からも明らかだった。
 国王の私室は、星の海ティア・ラザに面している。高い岬の突端に建造された王宮のそこからは、広大な湖面と岸辺に存在する城下町を一望にすることができた。寝室の窓や居室の露台から、それらの美しい眺めを楽しむことができるのだが ―― しかしその目をふと足元へ転じたならば、どれほど剛胆な者であったとしても、思わず息を呑まずにはいられないだろう。そこで目にすることができるのは、岩場に叩きつける荒々しい波飛沫なのだ。数階層に及ぶ建物自体の高さに、岬の落差も加わって、文字通り目もくらむような高みがそこには存在している。見張りの兵士さえも配置できぬ、通常考えればどのような侵入者の通過も不可能なはずの危険な場所であった。
 それなのにこの若者は、いったいどのような手段を利用してか、窓からこの部屋を訪れるのである。さすがに崖を這い登るのは難しいであろうから、王宮内の手頃な窓から出て、屋根づたいの道をとっているのだろう。仮にそうだとしても、命知らずには違いなかった。
 これで、もしこの若者が国王を害そうとする刺客ででもあったならば、大変な問題である。たとえそこまではいかず、国の機密を探ろうとする間者程度であったとしてさえ一大事だった。
 しかし老人はそれらの問題を気に止めるどころか、思い至った素振りすら見せず、ただ穏やかに微笑んでいる。
「ならば良いが……くれぐれも無理はしてくれるなよ」
「はッ、この程度のことで誰が」
 カイザールが飲んでいたのだろう。卓上に置かれた酒の杯を、若者は断りもせず取りあげ口をつける。
 どこまでも傍若無人なその態度さえ、カイザールの気分を害することはないようだった。
「それで、今宵はいったいなんの用があって来たのだ」
 彼は静かな声でそう問いかける。
 いかに難しいことではないからといって、それでもこの闇の中、わざわざ危険を冒してやってくるのには、なにがしかの理由があるに違いない。もっともカイザール自身としては、別に理由などなくとも、まるでかまいはしないと思っていたけれど。
「ああ、訊きてえことがあってよ」
 空になった杯をしばらくもてあそんでから、若者は口を開いた。
「今度の儀式ってやつだがな」
「叙任の儀のことか」
 カイザールの声がかりにより、平民でありながら破邪騎士団セフィアールに入団することが決まった彼は、数日後に正式な叙任式を受けることになっていた。その儀式を通過することで、騎士の候補として選ばれた者は、初めて破邪の術力をその身に宿し、破邪騎士として認められるのである。
 しかし彼はそれが不満なようであった。
「俺はもうセフィアールとしての力を持ってるっつったのは、あんただろうが」
 それは他でもないカイザールが、同じようにこの部屋を訪れた若者に告げた言葉。
 かつて彼がまだ幼い頃、その身を救った破邪騎士の一人より、その術力が受け継がれているのだと。故にこそ彼は騎士団に入らなければならない。なぜなら彼は既に破邪騎士の一員に他ならないのだから、と。
 ならば ――
「なんだってんな面倒くせえ真似、今さらしなきゃなんねえんだ」
 必要な力は既に身についているのだ。なのに何故わざわざ、一ヶ月もかかるような儀式につきあわなければならないのか。
 聞くに耐えぬ口汚い言い様に、しかし破邪国家セイヴァンの国王たる老人は、まったく動じることなく答えを返した。
「物事には手順というものがあろう」
 と。
 柔らかな笑みすらたたえての言葉に、若者は小さく鼻を鳴らした。
 儀礼だとか格式だとか。そういったものに対し、わずかの価値をも見いだしていない彼にとって、それはとうてい満足のゆく答えではなかったらしい。
 カイザールは笑みをわずかに深め、さらに言葉を足す。
「それに ―― そなたの術力ちからは、まだ完全なものではないゆえ、な」
「……どういう意味だ?」
 はじめて興味を引かれたらしい。問い返す若者に、カイザールはゆっくりと人差し指を持ちあげた。
「その、右手」
 指し示された腕を引き寄せ、若者が手のひらへと視線を落とす。だが、なにも変わったものなどそこには見受けられない。訝しげに見返してくるのに、中指を ―― その根本を示してみせる。
「破邪騎士達は、みながその指にあかしたる指輪をはめていることは、知っていよう?」
「ああ」
 それはこの国に住まう民であれば、歩き始めたばかりの幼子おさなごでさえ知っていることだ。
 それは一見すると、ただ銀線を寄り合わせただけの単純な装飾にすぎない。だがよく見ればそこには、精緻な模様が存在しているのが判る。どこか木目を思わせるその表面は、まるで生きた枝をそのまま金属と化したかのような、不思議な生命力すら感じさせるのだという。
 破邪騎士として叙任されたその日から、その騎士が死ぬまで ―― 否、たとえ息を引き取ったその後もなお、それはその指にあり続ける。一生抜けることなく、回りすらしないその指輪こそが、破邪騎士の身分を証明するなによりの印だった。
「叙任の儀式はな、騎士達に破邪の力を与えるものであると同時に、あの指輪を与えるためのものでもあるのだ」
「……指輪なんざ、はめちまえばそれですむだろうがよ」
 わざわざ儀式など行わずとも、わずか数秒でこと足りる話だ。
「本当に、そう思うのか?」
 意味ありげに言葉を切る国王に、若者は沈黙で答えた。
 無意識の動きなのだろう。その右腕が己の上腕を掴んでいる。それはどこか、自身の身体を抱きしめる仕草にも似ていて。
「 ―――― 」
 込められた力に、手の甲へと筋が浮かびあがる。
「まさか……あの指輪は……」
 国王を見返す瞳には、どこか剣呑な光が宿っていた。低い声が、絞り出されるように洩らされる。
 国王はゆっくりとうなずいた。
「騎士達の体内で生み出される破邪の力は、あの指輪を通じて外界へと ―― その手にした細剣へと伝えられる。確かにその肌からも幾ばくかの術力は働くが……指輪からの力に比べれば、気休めのようなものに過ぎぬ」
 現在若者が得ているセフィアールの力は、その気休めのようなものと、そして肉体の強靱さ ―― 痛みや衝撃に対するある程度の耐性、治癒力の高さ ―― だけでしかないのである。それだけでいてなお、たった一人で大型の妖獣を相手どるだけの強さを、この若者は備えていたけれど。
 それでも、それは不完全なものでしかないのだった。
 カイザールは手を伸ばし、腕を掴む若者の手をそっとはずさせた。そうしてその右手を引き寄せ、指の根本へと乾いた指先をすべらせる。
「それがどういうものであるのか、そなたには、判っているな……」
 老人の手の中で、若者の指が強ばりを見せた。
 それは意思の力では押さえようのない、生理的な嫌悪感から来るものであった。
「恐れておるのか」
 国王の問いには、揶揄の色も、意外の響きも宿ってはいなかった。
 むしろそこには、共感の意すら存在していたかもしれない。嫌悪を覚えるのも、恐れを抱くのも、当然であるのだと、言外に告げて。
 だが若者は、見せたそれを恥じるかのように老人の手を振り払った。
「誰が!」
 小さく吐き捨て、視線をそむける。
 そうして彼はくるりと背を向けた。
「判った。それでもっと強くなれるってんなら、まあ良いさ。つきあってやらあ」
「……そうか」
 うなずく老人を省みることなく、彼は開け放ったままの窓へと歩み去ってゆく。
 あるいはそれは、うまく乗せられたことに対する苛立ちから来るものであったかもしれない。すぐにそうと思い至れるほどには、この若者は聡明であったから。
「じゃあな」
 一言を残してその姿が窓の外へと消える。かつりという靴が窓枠を蹴るかすかな音を残し、その気配はすぐに感じられなくなった。

「 ―――― 」

 名残のように揺れる紗幕を眺めながら、老人は小さく呟きを落とす。
「あの指輪は……王族の力を騎士へと伝える役割もする。あれさえあれば、そなたはもっと……楽に、なれるはずなのだ」
 吐息混じりのその言葉は、窓辺から吹き込む風にさらわれ、誰の耳に止まることもないまま消えてゆく。
「私がそなたにしてやれることは、ただそれぐらいしかないのだ……」
 瞳を閉ざし、老人は深い深いため息を吐く。


*  *  *


 石造りの広間には、青藍せいらんの制服を纏ったセフィアール騎士団員が一堂に会していた。
 総勢三十名余。破邪国家セイヴァンの根幹を為す騎士団としては、あまりに少ない数だ。だがそれ故にこそ、彼らは少数精鋭の名に恥じぬ存在として、選び抜かれた者達のみによって構成されていた。人格や剣の腕はもちろん、血筋や家柄、本人の容姿、果ては親族達の身上まで考慮された厳しい審査をくぐり抜けたうえで、初めて破邪騎士たるにふさわしいと認められた顔ぶれ。それはどれほど厳しく狭い門であることか、想像に難くない。
 だが ――
 長き騎士団の歴史の中で、ここに初めて、例外といえる存在が誕生しようとしていた。
 広間の最奥部、一段高くなった場所に扉が存在している。やはり分厚い石でできたその表面には、交差した二本の細剣に枝を広げた大樹という、破邪騎士団の紋章が浮き彫りにされていた。
 その前に国王が立ち、一歩下がって王太子エドウィネルと、騎士団長が控えている。既に老境にさしかかり、一線からは身を退いている騎士団長は、しかしいまだ姿勢の良い背筋の伸びた立ち姿で、よく通る声を張りあげた。

「騎士候補をここへ!」

 その声に応じて、広間の正面、両開きの扉がゆっくりと開かれる。
 大きく開け放ち、そして脇に控えた小姓のあとから、広間にいる者達と同じ青藍の外套をなびかせた騎士が入場してきた。髪に白いものの混じり始めた彼は、セフィアール騎士団の副騎士団長である。さらに数歩遅れて、こちらは外套も上着も身につけていない、肌着と脚衣ズボンに裸足の若者 ―― ロッド=ラグレーが続く。
 騎士達が両脇に並び形作る通路を、二人はまっすぐに進んでいった。
 歩むロッドの姿へと、左右から騎士達の視線が向けられる。そこには珍しいものを見る好奇の色と、そして少なくはない侮蔑の光とがあった。
 平民の、しかも生まれすら定かではないロッドが破邪騎士に任じられると決まって、宮中では少なからぬ混乱が生じていた。前例のない事態に多くの家臣が異議を唱えたが、しかし国王は普段に似合わぬ強引さで、そのすべてを退けたのである。賢王として名高いカイザールには珍しい ―― 前代未聞と言ってさえ良いその独断ぶりに、困惑を覚える者も数多かった。ことに騎士団内部にこそ、反発は多く。彼らには、自らが選び抜かれた存在だという自負がある。事実厳しい審査を経てようやく破邪騎士たる資格を手に入れた彼らにとって、突如現れ、単なる剣の腕のみにて叙任を認められた若者の存在は、軽蔑と ―― 嫉妬の対象にしかなりえなかったのである。
 ましてこの若者が、与えられた名誉の価値を知り、身をわきまえ慎んで拝領するのであればまだしも、そうでないことはこの短い期間のうちですら知れわたりつつあった。故にこの場にあって、ロッドに向けられるのは新たな仲間を迎える喜びでも、歓迎の意でもなく。
 しかしそれら好意的でない視線などまるで気に止める様子もなく、ロッドは副騎士団長に続き、一段高くなった場所へと足を運んだ。副騎士団長は一礼して脇へと退き、ロッドが国王へと相対する。

「 ―――― 」

 一瞬、両者の瞳がまっすぐに互いを映した。
 目を伏せようとすらせぬその態度に、見まもっていた正、副騎士団長の表情が歪む。
 が、それもわずかな間のことで、ロッドはふと視線を落とすと、大人しく床へと膝をついた。こうべを垂れたその仕草に、騎士団長はひそかに息をつく。
 そうして彼は、携えていた剣を両手で捧げ持った。国王の元へと歩み寄り、差し出す。
 国王はひとつうなずくと柄を握りしめた。
 刀身から柄頭まで一体となったそれは、セフィアール騎士団員のみが扱える、特殊な細剣である。銀に良く似た金属で作られているが、はるかに硬く、そして驚くほどに軽い。籠状になった鍔や柄には、びっしりと繊細な彫刻が施されていて、さながら儀礼用の装飾剣を思わせた。だがそれは騎士達が実戦で振るう、実用品に他ならない。セフィアール達の持つ破邪の力を宿したとき、その細い刃は白銀のきらめきを宿し、妖獣を一刀のもとに灼き滅ぼすのである。
 新たな騎士へと与えられるそれを、国王は右手で構えた。輝く刀身を一度眺め、それからゆっくりと切っ先を下ろす。
 ひざまずくロッドの肩口へと、刃が触れた。妖獣以外にはほとんど効果を及ぼさない剣ではあったが、それでもまったく切れないというわけではない。
 そのまま動きを止め、国王は口を開いた。

「汝、ロッド=ラグレーよ」

 一瞬、かすかなさざ波のような気配が広間をよぎった。
 それはその名が持つ響き故の失笑に近いものであったが、それでもそれをあからさまに出さない程度には、場にいる騎士達もわきまえていた。
 壇上にいる者達は無論のこと、誰一人として気に止めた様子など見せることはない。

「汝を破邪騎士として任ずるにあたり、いま一度問う」

 低い声が静かに続く。

「この国のため、民のため、その命を懸けて尽くすことを誓うか。強大なる妖獣に対し、恐れることなく立ち向かうことを誓うか」

 それは儀式の際の決まり切った文句だった。
 この儀式に臨むよりはるか以前に、その覚悟は定められ、それ故にこそ騎士候補は騎士たることを認められるのである。故にこのやりとりは、形式的なものに過ぎない。定められた問いに、定められた答えを返す。それだけの話である。
 事前に幾度も言い含め、教え込んだはずの文句であるが、本当に正しい返答を返せるのか。騎士団長らが気を揉む前で、ロッドはひざまずいたままその口を開いた。

「この身命のすべてをし、民のため剣をとることを誓います」

 短い言葉に、再度わずかな失笑があたりに満ちた。
 本来であれば、ここでの答えは『非力なるこの身ではございますが、身命のすべてを賭し、国のため民のため、王のため、剣をとることをここに誓います』と続くのである。
 しかし騎士団長は、形式だけでも整ったことに安堵の息を洩らした。
 口上を終えたロッドは、わずかに首を動かし、肩口の細剣の方を向いた。そうして銀色に輝くその刀身に、そっと口付ける。

「 ―――― 」

 そのまま数秒が過ぎ、再びロッドが頭を垂れると、国王は剣を引いた。騎士団長から渡された鞘に細剣を納め、今度はその中程を持って差し出す。

「受けとるが良い。これはそなたのものだ」

 顔をあげたロッドが両手でそれを受けとった。続く動きで立ちあがる。鞘に収められたままの剣は、左手に提げられた。
 国王が後ろを向き、閉ざされた石扉の方へと足を踏み出す。足早に先を越した副騎士団長が扉を引きあけた。そして国王、ロッド、最後に騎士団長が入室すると、体重を掛けるようにして扉を押す。
 分厚い石でできた扉は、ゆっくりとすべるようにして動いた。
 やがて、重い音を立ててそれが閉ざされると、内部で行われていることは、気配すら感じとれなくなる。
 それでも騎士達と王太子は、そのままその場で待ち続けていた。
 儀式を終えた国王と騎士団長が、騎士候補ひとりを内部へ残し、再び姿を現すのを ――


*  *  *


 石扉の奥は、思った以上に快適なしつらえとなっていた。
 わずか数歩ほどの暗がりを越えた先に小部屋が存在したのだが、分厚い扉の先に存在するにしては、ごく普通の造りをしている。
 床に敷かれた柔らかい絨毯を確認するように、ロッドは素足で数度蹴りつけた。それからあたりを見まわす。天井近くに小さな明かり取りが並んでいた。窓と呼べるものはそれだけで、外の景色を見ることもできなければ、外部から中をのぞくこともできない。多少息苦しくはあるが、不快なのはそれぐらいだった。壁の突き当たりに寝台がひとつ。周囲に薄布を垂らすことができる、天蓋つきのものだ。見れば敷布も上等そうで、さぞや寝心地が良さそうだった。
「こちらへ」
 国王に促され、ロッドは軽く肩をすくめると寝台へと向かった。紗幕をかき分け、敷布の上に腰を下ろす。
 で? と見あげると騎士団長が枕元の卓から盆を取りあげた。そこには液体が満たされた脚付きの杯ゴブレットと、小さな銀の粒が乗せられている。
 差し出されたそれを、ロッドは細めた目で眺めた。たたんだ絹布の上に置かれた銀粒は、小指の先ほどの大きさをしている。少し大ぶりな丸薬といった風情だ。表面の質感は、セフィアールの細剣レピアや指輪と同質のものである。
 つまみあげ、しばし眺めまわしたロッドは、ちらりと国王の方を流し見た。するとカイザールは、ロッドにだけ判るよう、目配せしてくる。
「…………」
 ロッドは銀粒を手のひらへ乗せ、無造作に口へと運んだ。それから杯を手に取り、こちらも無造作に傾ける。数度喉が動き、空になった杯が盆へと戻された。
「そなたはこれから一月の間、眠りにつく」
 盆を片付ける騎士団長を横目に、カイザールが告げた。
「その間に、いま飲んだ丸薬がそなたの身体へと染み通り、セフィアールとしての力をもたらすだろう。目覚めた時には、そなたは破邪騎士の一員となっておろう」
 疑わしげに見あげてくるロッドだったが、やがてその上体が微かに揺らいだ。数度まばたきし、いぶかしむように目元をこする。
「眠るが良い。この部屋は厳重に閉ざされ、そなたが目覚めるまで我ら二人のほか、誰一人として訪れる者はない」
 カイザールはロッドを支えるように、そっとその肩に手を回した。
「陛下、そのようなことは私が」
 慌てたように戻ってきた騎士団長が、国王と位置を代わる。
 意識を失いつつある身体を、騎士団長は慣れた手つきで寝台へと横たわらせた。酒に仕込まれた薬で眠りこんだロッドを、確認するように見下ろす。それから国王の方をふり返った。
「それでは、陛下」
 うなずきが返るのを確認して、彼は眠るロッドの身体へとその手を伸ばした。


 必要な処置をすべて終えた時、騎士団長はびっしりと額に汗を浮かべていた。
 騎士団長の位についてはや十数年が過ぎるが、幾度くり返しても、彼がこの儀式に慣れることはなかった。肉体的な疲労はもとより、精神的なそれが大きくのしかかってくるのだ。
 果たしてあと何度、あと幾人、こうしてこの手で儀式を執り行うことになるだろう。
 そんなことを思いながら、騎士団長は国王の方を向いた。
 カイザールもまた疲労の色濃く、わずかに息すら乱れさせていたが、それでもその瞳は力強く騎士団長の眼差しを受け止めていた。
「 ―― 御苦労だった」
 ねぎらいの言葉を、騎士団長は小さく頭を下げて拝領する。
「勿体のう」
 気がつけば、石扉をくぐってから一刻近くが過ぎている。扉の前では騎士達がじっと動くことなく待ち続けているのだろう。
 二人は彼らに儀式の終わりを告げるべく、寝台のそばを離れていった。


 ―― このとき、国王カイザールの手の中に、ロッドから密かに受けとっていた丸薬が握りしめられていたことなど、騎士団長は知ろうはずもなく。


*  *  *


 やがて、これから一ヶ月の後、セイヴァン史上初となる平民出身の破邪騎士が誕生する。
 さらに後には、王太子エドウィネルにより同じく平民であるアート=ナギが見出みいだされることとなるのだが、それはまだ一年も先の話であった。
 叙任された後も変わらぬロッド=ラグレーの奔放な振る舞いは、多くの者に眉を顰めさせた。わずか数ヶ月の間に幾つもの問題を引き起こし、持てあまされた彼はやがて、王都より遠く離れた開発途上の鉱山へと身柄を送られる結果となる。そこで鉱夫や近在の住民を護る任につきながら、彼は二年余りもの時を左遷近い境遇で過ごしたのだった。
 しかしそれでもなお、彼の振る舞いは改善されることなく ―― 否、そもそも自身の行動を悪しきものだと考えていない彼が、善き方向に改める、などという発想を抱くはずもなかった。
 誰もが国王の決定を疑い、呆れた目を向けるばかりだったこの破邪騎士の真価を、知る者はごく限られた数に留まる。
 叙任の儀式において口にしたその誓いを、彼は生涯違えることなく ―― 国のためでも王のためでもなく、ただ民のためにのみ細剣を振るったその行為は、しかしほとんど記録に残されることなく、歴史の中に埋もれ、消えていったのである。


 それでも ――


 彼の存在があればこそ、この国の行く末は変化を遂げたのだった。
 この日、彼が破邪騎士として叙任されることがなければ、セイヴァンの未来は大きく異なったものになっていただろう。
 だが彼自身も、また国王その人さえも、そんなことなど意図した訳ではまるでなかった。


 この日、ロッドは夢すら見ることのない深い眠りの内にただあり、国王カイザールは己の無力さをただ静かに噛みしめ、そして王太子エドウィネルは、なにも知ることなく、ただ無心で儀式の終わりを待ち続けていた。
 この日の彼らは、まさにただ、それだけにすぎなかったのである ――


(2006/07/02 18:32)



 

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