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 楽園の守護者  第十二話
 ― 縺れゆく糸 ―  第三章
 ― Makoto.Kanzaki Original Novel ―
(2003/12/31 12:31)
神崎 真


 少年が意識を取り戻したのは、川辺に堆積した泥溜まりの中であった。
 嵐で増水した河の水が引いたのち、そのあたりは広い範囲でぬかるみになっていた。そこへ流木や腐った水草などが、点々と取り残されて散らばっている。少年が乗っていた船から剥がれ落ちたとおぼしき木片や荷の残骸なども、そこここに見受けられた。それらの漂着物に覆われるようにして、彼もまた半ば泥に埋もれた状態で倒れていたのである。
 あるいは ―― そのおかげで体温が失われずにすんだのかもしれなかった。日は既に暮れ始めており、少年はずいぶんと長い時間、そこに放置されていたはずだった。意識のない状態で濡れた身体を風に吹かれていれば、そのまま死んでいてもおかしくなかっただろう。泥濘でいねい塵芥じんかいとに覆われていたからこそ、かろうじて彼は命を拾ったと言える。
 だがそれを感謝する気持ちなど、とうてい持ちえるものではなかった。
「……ッ、……げほッ」
 身動きした途端、激しい嘔吐感がつき上げてきた。まだ身体を起こしてもいなかった彼は、胃の中のものをみなその場で吐きもどした。それはほとんどが溺れる中で飲み込んだ川の水だったが、しかしそれが慰めになるはずもなく。彼は自らの吐いた汚物にまみれ、さらに激しく咳き込んだ。弱々しくもがく腕が、腐った泥を掻きまわす。異臭を放つぬめる感触が、さらなる吐き気を誘発した。
 果たしてどれほどの間、泥の中でもがいていただろうか。
 やがて少年は、力を振り絞って身体を持ち上げた。腕を伸ばし、泥を掻き、少しずつ、少しずつ、這いずるようにして固い地面を目指す。それには気が遠くなるほどの努力と時間がいった。
 あたりには手を貸してくれる何者も存在せず、一度あきらめて動くのをやめてしまえば、二度とこの泥から這い上がれないだろうと、少年は本能に近い部分で感じ取っていた。
 震える腕を伸ばし、まばらに生える草をつかむ。手入れされ整えられていた爪の間には、泥が黒く入り込んでいた。刺繍の施された上質な衣装は見る影もなく汚れ、もはや色すらも定かではない。髪が乱れ肌に貼り付き、見開いた両目は血走っていた。
 こんなところで、と。
 ただそれだけを念じて、少年は泥の中を這った。
 いまだ自身が置かれた状況も満足には理解せぬままに。
 ただこの時、己でも理解できぬ衝動のままに彼は、ひたすら生き延びる、その道を選び取ったのだった。


 次に少年が目を覚ました時、彼はそれまで目にしたこともないような、粗末な寝台に寝かされていた。視界に入る、屋根を葺いた草のむき出しになった天井が、いったいなんであるのか、それすらしばらく認識することもできず。横たわったままただぼんやりと視線をさまよわせていた。
 そんな彼の顔に、ふと影が落ちる。
「ああ、目が覚めたようだね」
 柔らかな声が語りかけてきた。
 腰をかがめのぞき込んできたのは、やはり見覚えのない中年の女だった。
 化粧気のない浅黒い肌に、無造作にひっつめたぼさぼさの髪。飾りひとつない、質素な衣服。それは川岸に住まう半農半漁の民達のごく当たり前の格好だったが、その時の少年にはひどく見慣れない、粗末な身なりに感じられた。
 唐突に伸ばされた腕に、とっさに身を引こうとする。だが身体は何故かほとんど動いてくれなかった。湿気たような肌触りのする薄汚れた敷布の中で、ただわずかばかり手足が揺れるばかりだ。
「まだあんまり動かない方がいいよ。ひどく弱ってたんだからさ」
 少年の動きを、見知らぬ人間に対するおびえと解釈したのだろう。女は安心させるように笑いかけると、枕元に置いていた物をとりあげた。
「ほら、喉渇いてるだろう? お飲み」
 言いながら差し出されたのは、木を削って作った素朴な器だった。中に半分ほど水が入っている。
 それを目にした途端、少年の喉がぐびりと鳴った。気がついた時にはおどりかかるように腕を伸ばしている。
 実際の所は、一人で起きることもできなかった少年を、女が手助けしてやっていたのだが、しかし彼はただ自覚した渇きをいやすことに夢中で、そんなことになどまるで気付いていなかった。むさぼるように水を飲み干した少年を、女は再び寝台へと横たえる。
「飲んだなら、もうちょっと寝ておいで。あとでお粥を持ってきてあげるから」
 軽く掛布を叩いて出てゆく女を見送って、少年は激しい脱力感に促されるまま、再び眠りの淵に落ちていったのだった。
 少年を拾ったのは、女の夫だった。網を打った帰り道、川縁に生えた茂みの隙間から腕がのぞいているのを、たまたま見つけのだそうだ。
 長い間水に浸かっていたせいで少年は高い熱を出し、丸三日も意識を失っていたという。
 見知らぬ子供を拾ったあげく、看病までしてくれたとはずいぶん人の良い話だった。なんでもその夫婦はしばらく前に子供を亡くしたばかりで、それだけに行き倒れの少年を放っておけなかったと、そういう事情があったらしい。
 看病がてらそんな話を女がしてくれたが、少年は別段興味もなく、適当に聞き流していた。彼が気にしていたのは、早く迎えが来ないかと、ただそればかりだったのだ。自分が公爵である父の船から落ちたことは母が見ていたのだし、嵐も既に止んでいる。ならばすぐにとは言わずとも、二三日中には父の命令で誰かが探しに来るだろうと、彼はそう信じて疑わずにいた。
 だが目を覚ましてから数日が過ぎても、それらしい人間は現れなかった。
 そこは村と呼ぶのもおこがましい、ごくわずかな家が寄り集まっただけの集落だった。そんな場所に部外者が足を踏み入れれば、誰が知らせるという必要もなく、すぐそれと知れるだろう環境だったというのにだ。
 このときの少年の意識には、自分の乗っていた船それ自体が沈没しているかもしれないなどという考えは、まったく存在していなかった。同様に母親や自分が死んだものと見なされているなどとは、想像すらできず。
 実際のところ、それも無理のない話ではあった。
 かねてよりその聡明さをうたわれてはいても、彼はしょせん十にも満たない子供にすぎなかったのだ。彼の世界はあくまで自分が中心であり、己がそれまで生きてきた以外の世界が存在することなど、思いも及ばないところであった。有力貴族の嫡男として生まれ、それに相応しい扱いで養育されてきたこの少年は、周囲のもの ―― それが人間であれ、天候といった人力の及ばぬ自然現象であれ ―― すべてが自身の有利になるよう働くのが当然だと認識していた。そして自分が現在ここに生きて存在している以上、己の生存も奉仕されるべき対象であることも、全ての人間にとって自明の理であるのだと信じて疑わなかった。
 故に彼は名乗ることもせず、己が何故そんな場所で倒れていたのかを説明すらせず、ごく当たり前に夫婦の好意を甘受し続けていた。自力で起きあがれるようになってからも、ろくに口をきくこともなく、ただひたすら来るだろう迎えを待ち続けるのみだったのだ。
 そんな少年を、夫婦を含めた周囲の人間は、どこか足りないところがあるのだと判断したようだった。
 動けるようになったのだからと、水くみや掃除の手伝いをさせようとしても、まるで聞こえていないか、あるいは言われたことを理解できないかのような、きょとんとした反応で見つめ返すだけ。実際、何故そんな仕事を自分がやらなければならぬのか、少年はまったく理解できていなかった。彼にとって、夫婦が自分を助けたのも、衣服や日々の食事を与えてくれるのも、ごく当然のことであったのだ。むしろ彼はその粗末さに辟易としつつも、今は平常の場合ではないのだからと、不平や我が侭ひとつ口にせず寛容に『我慢してやって』いたのである。
 事態に変化が生じたのは、彼が動けるようになって一週間ほどもたった頃だった。
 その時分になると、夫婦はこの少年を持て余し始めていた。最初は同情から面倒を見ていたものの、労働力にもならない人間をいつまでも食わせてやっていられるほど、彼らは裕福ではなかった。無論、なんの関わりもない子供を助けてやったぐらいなのだから、この夫婦は相当に人の良い方だった。だがそれにも限度というものがある。なにもひれ伏し、恩人としてあがめよとまでは言わないが、礼ひとつ口にするどころか、食べた食器を運ぶことも、一人で服を着ることも満足にできないとあっては、いくらなんでも手が掛かりすぎる。
 かといって、今さら放り出すのはいかにも後味が悪い。少年が『足りない』のは、なにも彼の責任ではないのだし、と。困惑しつつ、手をつかねていた夫婦の相談に乗ったのは、この集落の取りまとめ役にある老人だった。
 事情を聞いた老人はしばし考えた後、少年をもう少し大きな町に連れていってはどうかと提案した。そこには彼のような身よりのない子供を引き取り、里親かあるいは奉公先が見つかるまで面倒を見てくれる、そういった施設があるのだという。
 老人の考えは妥当なものだった。話はそれでまとまり、獲った魚を町へと売りに行く者が、少年を連れてゆく役目を引き受けた。
「もっと大きな町の、ちゃんとした施設に連れていってあげるからね」
 どうせ理解できないだろうからと、周囲の大人達は少年に対してほとんど説明などしなかった。ただいざ出発する寸前になって、女が少年を抱きしめそう言っただけだった。
 少年はこくりとひとつうなずいて、小舟へと乗り込んでいった。意識がなかった時間も含めれば十日以上も世話になった相手に対し、名残ひとつ感じるそぶりもない。そんな少年の様子に、見送る者達は小さくため息をついたものだった。
 少年の方はというと、小舟が出発してからずっと、その進行方向へと目を向けていた。舟を操る男は景色に目を奪われているのだろうとそう思っていたのだが、どうやら違ったらしい。
「どこにむかっているのだ」
 風に乗って届いた声が誰のものか、男にはしばらく判らなかった。
「 ―― え?」
 少年がしゃべったという事実に、しばし理解が追いつかない。そんな男を少年はいぶかしむように振り返った。
 ほっそりとした眉を細め、うろたえる男を見すえる。この少年がまっすぐ他人を見つめるのは ―― すなわち他者へと関心を向けるのは、これが初めてのことだった。
「おおきな町といっただろう? 名前はあるのか」
 この時代、地図に載らない無名の町や村は数多く存在している。少年が滞在していた村はもちろんのこと、数十戸程度の集落であれば、呼び名があれば良い方というのが普通であった。だがいずれ公爵位を継ぐ身として、領内の主だった地名は少年も既に記憶していた。これから向かうのが地図に載るほどの規模がある街であるならば、自分の現在位置を把握できるのだが。
 少年がそんなことを考えているなど、男には当然理解できない。彼は戸惑いながらも一応、訊かれたことにだけ答えた。
「ズマってところだが」
「ズマ?」
 口の中で小さく繰り返して、少年は再び舳先へと目を向けた。なにか反応があるのかと男はしばらく待ったが、それきり少年は口を開かない。やがて男は小さく息を吐くと、舟を操ることへと意識を戻した。
 少年がその時なにを考えていたのかというと、彼は思った以上に長い距離を流されていたことに驚愕していたのだった。彼が船から転落したのは、公爵領までまだ2日はかかるあたりだった。だがズマといえば、既に河口にもほど近い場所にある市街である。少年の屋敷がある公爵領中心部まで、小舟でもせいぜい半日かかるかどうか。必要ならば陸路からでも充分たどり着ける距離だ。
 だから父の手の者達は、なかなか自分を見つけられないのだろうか。
 そんなふうに思う。増水し早くなった河の流れと、身体が軽かったことが相まって、自分は予想されるよりもはるかに遠くまで運ばれてしまっていた。そのため探索の手が、未だここまで届いていないのではないか。
 納得してひとつうなずく。
 ―― ならば、やはりこちらから知らせを送らなければ。
 そう考えて、少年はさらにひとつうなずいた。
 ズマから連絡を送れば、公爵の元へはその日のうちにでも届くはずだ。即座に迎えが送られたとして、明日の夜には住み慣れた元の屋敷へ戻ることができるだろう。いやそれ以前に、ズマを統治する市長の元で、この格好をなんとかさせてもらわなければ。とにかくまずは身体を洗って、それからまともな服に着替えよう。他に着るものがなかったとはいえ、肌に臭いが染みついてしまいそうだ。
 ぺらぺらと頼りない生地の衣服を、いとわしげに眺める。
 泥にまみれあちこちほころびていた服の代わりに与えられたそれは、夫婦の息子が着ていた、いわば形見の品であった。だが贅沢を贅沢とも思わぬままに享受してきた少年の目には、単に粗末な仕立ての古着としか映らない。
 そう、この段階においてもいまだ、少年は自身が置かれた状況を理解していなかった。彼がいま向かっている先は、少年が考えているような公的機関 ―― すなわち市長や執政官といった、行政に携わる人間に直接面会できる、そんな場などではないのだと。彼が連れて行かれようとしているのは、身よりのない浮浪児を無償で受け入れる、福祉施設でしかなく、そんな場所から領地の長たる公爵に対し、手紙を出したり謁見を求めるなどできるはずもないことで。
 己の身分を証明する手だてが何もないということを、この時の少年はまるで想像できずにいた。
 彼にとって自身は他の誰でもない自分自身であり、それが疑われることなど考えも及ばないところだったのだ。彼は生まれてこの方、その言葉を疑われたことも、まして誰かに叱責されたことも、一度として存在しはしなかった。
 だがその事実が、けして自分自身に付帯する不変的な価値によるものではないのだ、と。
 少年がそれを理解するのには、今しばらくの時間と経験を必要としたのである。


*  *  *


 つい先刻まで閉ざされていた両目が、なんの前触れもなくごく自然に開いた。
 規則正しかった寝息も、大きくひとつ吸い込まれただけで、そのまま平常の呼吸へと移行する。
「…………」
 寝台からゆっくりと上体を起こし、ロッドはしばらくあたりを静かな目で眺めわたした。
 室内は、まだ暗い時間帯である。閉ざされた鎧戸の隙間から、ほのかに光が射し込んできているが、それも闇に慣れた目でなければ気がつけないような、ごく弱々しいものだった。
 彼がまず手を伸ばしたのは、枕元に横たえていた大剣の鞘だ。慣れた手つきで無造作につかみ上げ、それから寝台をきしませ床へ足を下ろす。裸足のままで部屋を横切り、窓辺へと向かった。鎧戸の掛け金を片手ではずし、大きく押し開く。
 朝の空気が、室内へと勢い良く流れ込んできた。
 澄んだ大気の流れを浴びて、彼は切れ長の目をつと細める。常に強い光をたたえる深蒼の瞳が、その鋭さはそのままに、ほんのわずか輝きを落とした。
 視界に広がるのは、いままさに動きだしたばかりの街の姿だった。石造りの街並みのそこここから、朝食の支度を行っているのだろう、細い煙が立ちのぼってきている。港や市場の朝は早い。人々は既に一日そつなく働くための準備を行い始めていた。
 目線を上げれば、建物の間から見える東の空が茜色に染まっている。どうやら今日も天気は良さそうだ。
 しばらくそうして街の様子を眺めていると、背後から扉を叩く音が響いた。軽く二度。それから室内の気配を探るような沈黙が続く。
「起きてるぜ」
 そう声を返し、彼は窓辺に腰掛けるようにして戸口を振り返った。
 いらえを確認して、静かに扉が開かれる。入り口で頭を下げているのはこの数日で顔なじみになった召使い達だった。
「おはようございます、ロッド様」
「おう」
 尊大な返答にも動じることなく、召使い達はぞろぞろと入室してきた。捧げ持っていた洗面用具を寝台脇の小卓へと並べ、乱れた寝台を手早く整える。
 本来であれば彼らの仕事は、もう少し遅くになってから未だ寝台内にある貴人を助け起こし、洗顔と着替えを手伝って朝食までに身支度を整えてもらうことなのだが。しかしこの客人は、そんな悠長な真似をしようとすると、とうに部屋からいなくなってしまっているのだった。最初の二日ほどでそれを悟った彼らは、こうして夜も明けやらぬ内に部屋を訪れ、疎ましがられない程度に手際よく職務を果たしていくのである。
 今朝も顔を洗う準備だけ整えると、一人が代表して控えめに問いかけた。
「朝食はどちらでお召し上がりになりますか」
 貴族の客人ならば、このまま寝室に運ばせるか、せいぜい次の間の卓に並べさせるのが普通である。しかしこの青年はどこまでも常識とは違う道を行くようだった。
「ああ、適当に外で食ってくる」
 窓から離れながら素っ気なく返答するのに、召使い達はそろってうなずいた。どうやら訊いてみただけらしい。一人が寝台脇から乗馬靴を取り、引き寄せた椅子の脇へと並べ置いた。
「どうぞ」
 騎士団の制服を緩めただけで眠っていた青年は、各部の留め具 ―― もっとも襟元だけはだらしなくくつろげたままだったが ―― を締め直すと、どっかり椅子へ腰を下ろした。腰を曲げ乗馬靴へと腕を伸ばす。乱暴に足をつっこんでゆく客人へと、彼らは最後の問いかけをなした。
「お出かけになるのでしたら、いつ頃お帰りになりましょうか」
「さあな。そん時にならなきゃ判んねえよ」
「それではわたくし共が叱られます。せめて予定だけでも言い置いて行って下さいませ」
「……公女が仕事始める頃だな」
「かしこまりました。どうぞお気をつけて」
 深々と頭を下げる召使い達に、ロッドは小さく鼻を鳴らした。


 夜明け間もなくではあるが、屋敷内でも下働き達が住まう部分はすっかり目を覚ましていた。貴人達の眠りを妨げぬよう静かに押さえられてはいるが、朝食の準備や清掃などで、多くの人間が行き来している。そんな中を褐色の肌の青年はゆったりとした歩調で進んでいった。
「おはようございます」
「ああ」
 ほうぼうから口々に声が掛けられる。誰も彼がここにいることを不審に思ってはいないようだった。無愛想に返される返答に、みなが笑顔で会釈する。
「あ、果物ありますよ。いかがですか」
 通りすがりに背負った籠を示す若者に、ロッドはお、と立ち止まった。
「悪いな」
「いえいえ」
 腕を伸ばし赤く熟したのをひとつ取り上げる。歩きながら行儀悪く囓り、数口で芯も残さず食べ尽した。
 ロッドが寝泊まりしている客室のある棟から、厨房などの集められた裏向きの建物は、もっとも遠くに配置されている。それは当然、賄いなどの裏方の仕事が客の目に入らないようにという配慮からだ。しかしこんな時間から開いているのは、市場に向かう買い出しが利用する通用門だけだからと、ロッドは毎朝のようにこのあたりを闊歩していた。最初は驚き困惑した周囲の者達も、あまりに自然体でゆき過ぎる青年に、数日もすれば当たり前のようにそれを受け入れるようになっていた。
 王太子が滞在していた折りからそれとなく伝わってきた噂で、この破邪騎士が平民出身の若者であるということも、みなが承知している。そんなことから親近感がわきやすかったというのもあるだろう。
 そして今朝もいつもの通り街へ出ようとしていたらしい彼だったが、しかしその途中でふと思い立ったのか、向かう方向を常とは違うものに変えた。
 重厚な扉をくぐり、使用人が利用する飾り気のない通路から、花や絵画で飾られた、いわば表向きの廊下へと足を踏み入れる。
 コーナ公爵の屋敷は、貴族の館にありがちなやたらと豪勢な代物というわけではなかった。無論のこと、金は嫌味なほどにかけられていたが、むしろ雰囲気は落ち着いたものを漂わせている。それは長い時間と、本当に良い品ばかりを取捨選択してきた、代々の公爵の趣味の良さがもたらしたものだった。そこここに飾られた絵画や家具調度の類は言うに及ばず、窓枠や階段の手すりに施された彫刻なども、丁寧に埃を払われ、つややかに光を放っている。単に手入れが行き届いているというだけに留まらず、長い時間をかけ触れた人の手により磨かれてきた輝きだ。
 この屋敷が経てきた時間は、王宮のそれとも遜色がない。コーナ公爵家は建国王エルギリウス=ウィリアムの娘の一人にして、二代目国王たるサラザール女王の妹、ミルトナーシャを始祖とする、セイヴァンでもっとも古い血筋を誇る一門であった。この建物は父王がまだ在位にある間に、手ずから建造の指揮を執り娘へと与えたもの。それから三百有余年。血は途切れることなく続き、屋敷の内にあり続けた。
「……実際、大したもんだ」
 行き足を止め、ロッドは視線を上げた。その口角が、皮肉の色をたたえてつり上がる。
 彼の視線の先にあるのは、ずらりと壁に掛かる肖像画の群であった。褪色を防ぐためか、高い位置にぽつぽつと明かり取りがあるきりの薄暗い廊下に、それぞれが一抱えもあろうかという大きな絵画が順に額を連ねている。一番手前にあるものなどは、相当に古びており、書かれた当初は鮮やかだったろう絵の具の色を、落ち着いた暗いものに変じていた。
「いくら戦のない時代だったとはいえ、妖獣もいりゃあ、事故もあり、病気にもなる。それでよくもまあ、ここまで途絶えもせず続いてきたもんだ」
 こつこつと拳で額縁を叩きながら、肖像画の前を通り過ぎてゆく。
 セクヴァールあたりが見たら目を剥きそうな行為であったが、幸いいまここにロッドの行いを目にする者は、一人として存在しなかった。
 ここに並ぶ絵画は、代々のコーナ公爵を継いできた者達の肖像だった。ざっと見ただけでも十数枚。男性も女性も入り混じっている。
 どうしても老いるのが早くなる国王とは異なり、ごく普通の寿命と贅沢な生活を甘受する公爵家では、それなりに天寿をまっとうする者がおおむねを占めていた。それでも中には早世した者あり、若くして爵位を譲った者ありと、そこそこ代を重ねている。複数の側室を持つ者が多かったせいか、不慮の事態にあっても血が絶えかけたことはなかったらしい。
 少なくとも ―― 十七年前、世継ぎの少年が行方知れずとなるまでは。
「…………」
 最後の絵画の前で、ロッドはぴたりと足を止めた。
 その顔に、表情と呼べるものは浮かんではいなかった。ただ固く ―― 冷淡な眼差しで目の前の肖像画を眺めている。
 そこに描かれていたのは、当代公爵セクヴァール=フレリウスではなかった。彼の絵は既にその隣、一枚前の位置に掛けられている。では次代女公爵であるフェシリアであるかというと、そうでもなかった。
 未だ、幼さを残すどころか真実幼いと断言できる、あどけない顔立ちの少年が、傍らに置かれた椅子の背に軽く右手を乗せ、立っている姿。ほっそりとしたその身を包む豪奢な衣服と床に届く外套マントが、どこか重たげな印象さえ感じさせる。父親譲りの褐色の肌に焦茶の髪。こちらを見つめるつぶらな青い瞳は、母方から受け継がれたものだ。
 かつてのコーナ公爵家次期継承者 ―― ロドティアス=アル・デ=ティベリウス=フォン・コーナ。
「……なんだって、まだ、こんなもの飾ってやがるんだ」
 乾いた声で、ロッドが呟いた。
 十七年前、わずか八歳でこの世を去った少年の絵姿が、なぜこのような場所に掛けられているのか、と。
 代々の公爵の肖像が飾られるこの廊下に、少年の絵が額を並べていた、そのこと自体はまだ判る。彼はかつてこの家の嫡男であり、いずれ次代公爵として爵位を譲られることが確定していたのだから。
 しかし、彼は既にここにはいない。嵐の晩、波にさらわれいずこかへと消えた。その生存はとうに絶望視され、次期継承者には異母妹であるフェシリアが選ばれている。ならばここにあるのは、当然彼女の肖像であるべきではないのか。
 ロドティアスが行方知れずとなって十七年、フェシリアが嗣子となってからでも十年以上が過ぎている。それにも関わらず、この絵がこのままにされているというのは、いささか道理が通らなかった。
 ―― あるいは。
 それほどまでに、この絵をはずしたくないと考えているのだろうか、コーナ公爵は。
 ならばそれはなにゆえにか。その行為に宿る、想いは果たして。
「…………」
 ロッドの表情は変わらない。
 いっそ平静とすら呼べるほどに、眉一つ動かすことなく、肖像画を眺めている。半ば瞼を下ろしたその瞳には、静かな暗い光が宿っていた。
 どれほどそうして立ち尽くしていただろうか。
 やがてロッドは、ふとなにかに気がついたように首を巡らせた。
 わずかに眉をひそめ、耳をすますような仕草をする。それから彼は壁から離れて歩き始めた。廊下の先を閉ざす扉へと向かう。と、時を見計らったかのように、当の扉が反対側から勢い良く開かれた。
「ロッド様ッ!」
 息せき切って駆けつけた召使いへと、ロッドは足を早めて近づいてゆく。
「何が起きた」
「そ、それ、が」
 呼吸が乱れて満足に口もきけない横を通り過ぎ、開け放たれたままの扉をくぐる。召使いは慌てて追いかけてきた。
「ああ、いらっしゃった!」
 廊下で右往左往していた他の召使い達が、ロッドの姿を目にして先を争うように駆け寄ってきた。
 口々に言いつのろうとする目の前に、ロッドはいきなり開いた手のひらをつき出した。彼らが一瞬息を呑んだ瞬間、先手を取って口を開く。
「妖獣か?」
「は、はいっ」
「場所は」
「それが……ッ」
 ちっと小さく舌打ちする。
「複数なんだな」
 こくこくといっせいに頭が上下する。
 一瞬思案したロッドは、足早に歩き出した。
「知らせ持ってきた奴は玄関だな」
「はいっ」
「状況は直接聞く。お前らは公女を叩き起こせ」
「は、たた……?」
「誰か兵屯所に走れ。すぐ動けるよう準備して待ってろと伝えてこい!」
「はいっ」
 慌ただしく動き始めた人々の間を、ロッドは落ち着いた足取りで縫っていった。
 彼の先を走る召使いが、行く手を閉ざす扉を大きく押し開ける。
 慌ただしい日々の最初の一日が、始まろうとしていた。


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