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 楽園の守護者  第十一話
 ― 失われた欠片 ―  第三章
 ― Makoto.Kanzaki Original Novel ―
(2003/04/24 19:03)
神崎 真


 それは、月のない晩のことだった。
 いやあるいは、分厚く垂れ込める雲の向こうに、それはあったのかもしれない。だが季節はずれの嵐のさなか、その恩恵は地上にまでもたらされることなく。
 墨をぶちまけたかのような闇の中、横殴りに叩きつけられる雨の粒と、吹き荒れる暴風とがその船を翻弄していた。
 時おり走る稲光に、丈高い帆柱と要所要所に施された豪奢な装飾が浮かび上がる。それは生半可な財力では建造もできぬであろう、大型帆船だった。昼の光の中でならば、その威風堂々たる姿を、通りがかる周囲の船へと見せつけるのだろう。
 だがこの嵐の中では、その姿に目を留める者など一人として存在しなかった。
 激しい波が船腹へとぶつかり、船体は絶え間なく上下左右に振りまわされている。甲板にあった荷のほとんどは、波に洗われとうに消えていた。既にどちらの方向へ向かっているのかすら判断のしようもなく、船を操る水夫達は、ただ風にあおられる帆をたたみ、舵へとしがみつき、流れ込む水をかい出しながら、船が沈まぬよう、座礁などせぬよう、そればかりをひらすら祈り続けていた。
 が ――
 隣の者との会話すら大声で叫ぶ必要がある暴風雨の中、悲鳴と怒号とが風に吹き散らされた。
 船内で火災が発生したのだ。
 深夜の嵐に不安を覚えた者が、明かりを求めたのか。はじめはわずかだったはずの炎は、吹きすさぶ風に消されることもなく、むしろより勢いを増して燃え広がった。
「落ち着け! まずは火を消すことを考えよッ」
「公爵さま!」
 右往左往する船員達を、駆けつけたコーナ公が叱責した。
 ずぶ濡れとなり、服も髪も乱れきった公爵は、それでも懸命に冷静さを保とうとしていた。血走った目で炎をにらみ据え、風に負けぬよう声を張り上げる。
「お主とお主は水を運べ。そちらは濡らした布で火の粉を払え。とにかく類焼を防ぐのだ」
 指示が功を奏したのか、かろうじて秩序と呼べるものが場に生じた。手分けした船員が、ある者は桶に汲んだ水をかけ、ある者は類焼をくい止めるため、あたりの壁を壊しにかかる。
 激しく揺れる船上でのこと。水も破壊も度を過ぎればかえって沈没の危険をいや増すこととなる。誰もが怯えと焦燥を抱きながら立ち働いた。
 いっぽう船腹にある一室では、侍女達などこんな場合には役に立たぬと見なされた者達が、身を寄せ合うようにより集まっていた。みな恐怖に震え、中には激しい揺れに耐えられず、嘔吐した者も多い。誰もが立つことすらもろくにできず、暗く狭い船室で、ただ怯え、すすり泣くばかりであった。
「う……」
 口元を押さえうつむいた婦人を、傍らにいた少年が気遣うようにのぞき込む。
「だいじょうぶですか、母うえ」
 問いかける彼の顔も、すっかり青ざめている。
 おそらくはまだ十にもなっていないだろう、ほんの子供であった。身につけた衣装の仕立てと気品のある顔立ちからして、その場にいる中でもかなり身分の高い人物なのだろう。母と呼ばれた方もやはり同様で、刺繍や縁飾りの施された、見事なドレスをまとっている。
「ああ、ディー……もっとこっちへいらっしゃい」
 すがるように手を差し伸べる母親に、少年は近くに座っていた身体をさらにそばへとすり寄せた。みずからも不安と恐怖におそわれながら、それでも彼は母親を気遣うことを忘れていなかった。
「しっかり、母うえ。もうすぐ朝になります。そうすればこの風だって、きっと弱まるはずですから」
 そう言って、周囲の侍女達へも気丈な笑顔を見せる。
 無論その表情は、ひどくやつれ強張っていたけれど。それでも室内のそこここから、小さなため息が洩れた。
 未だ年端もゆかぬ少年が、こうしてまわりを気にかけ、力づけようとしているのだ。年かさである自分達が、そうそう弱音など吐いていられようか、と。
 しかし一時いっときやわらいだかに思えた空気は、激しく扉を叩く音で破られた。
「近くの部屋で火が出ました! すぐに場所を移ってください」
 開け放った扉から投げ込まれた知らせが、限界間際だった緊張の糸をあえなく断ち切った。
 一瞬ざわりと棒立ちとなった室内の人間が、次の瞬間いっせいに出口へと殺到する。
 懸命に平静を保とうとしていた者達がついに恐慌をきたし、一刻も早く ―― 向かう先すらないことを知りながら ―― 逃げだそうとしたのだ。そこには身分も、弱者を守ろうという意志もなにもなかった。誰もがひたすら自分だけは助かろうとし、そこここで激しいもみ合いが生じる。まだ大丈夫、落ち着いてと叫ぶ船員の声など、誰の耳にも届いていなかった。皆が目の前にいる者を押しのけ踏み越えようとする中で、恐怖からではない悲鳴が幾つも上がった。
 少年とその母親もまた、その中に混じっていた。場を落ち着けようと努力していた彼らとて、けして余裕を持っていたわけではなかったのだ。混乱の中、金切り声と喧噪に揉まれるうち、彼らもまたいつしか無我夢中で他人をかき分けていた。
 小さな身体が幸いしたのか。
 押しやられ、突き飛ばされていた少年は、気がつくと集団の外へと放り出されていた。
 そこは既に、吹きさらしの上甲板であった。
 熱くほてった頬に、風と水滴が当たる。船内の灯りを落とした暗さに慣れていた瞳が、揺れる角灯カンテラを捉えそちらを見上げた。
 帆柱と船縁との間に幾本も張り巡らされた索具。そこに取り付けられた角灯の光が、降りしきる雨の粒をぼんやり丸く浮かび上がらせていて。
 激しい雨と風、闇と波に翻弄される船上で、少年は一瞬、状況を忘れてその光へと見入っていた。
 まるで、幻想のような。
 深い深い闇に浮かび上がる、かそけき灯火ともしび
 呆然と立ち尽くした少年の耳へと、悲鳴にも似た叫びが届く。
 はっと振り返った彼の目に映ったのは、手を伸ばし駆け寄ってくる母の姿。そして船縁を越えて襲いかかる、波濤の水泡みなわ
 殴打されるような衝撃とともに、彼はその意識を失う ――


 コーナ公爵家次期継承者、ロドティアス=ティベリウスは、その時を最後に消息を絶った。
 共に波に攫われた母、セルマイラが遺体で見つかった事から、その生存は絶望的だと判断される。
 そして、十七年が過ぎた現在、
 それはもはや確定事項として、認められていたのだった。


*  *  *


 王都に戻ったエドウィネルの前には、多くの仕事が山積していた。
 当初の予定よりも大幅に伸びた公爵領での滞在で、通常業務が滞っていたこともあるし、またカイザールに代わってこなさねばならぬ政務も多かった。そして何よりも、国王危篤の報を受けて王都を訪れる貴族諸侯らへの対応などなど ―― 帰参してからのエドウィネルは、意識のない国王の枕頭を見舞った以降、文字通り眠る暇すらろくに取れない状態が続いていた。
 常であれば、生真面目な主人の無理をそれとなく諫める周囲の者も、さすがに今回ばかりはそうもいかず。
 深刻な面もちで日に日に憔悴を深めてゆくエドウィネルに、側近くに使える者達は、せめてできる限りの手助けをしようと、ただ共に立ち働くことしかできずにいた。
 今日もまた、見舞いに訪れた諸侯との謁見を終えたエドウィネルは、退出する一行を見送ったのち、その場で重いため息を落とした。疲労の色濃くにじむ仕草で、手を載せていた玉座の背もたれへと体重を預ける。
 国王に代わって政務を執り行っているとはいえ、いまだカイザールが存命である以上、その玉座はかの王の物である。王太子である彼が座ることは許されない。
 無論 ―― もうまもなくそれが、名実とも彼の物になる事は、逃れようのない事実であったが。
 それでもその時が、一刻でも遅くあればいいと。
 見苦しいあがきに過ぎないと判ってはいたが、それでも願わずにはいられない。
「……殿下?」
 御気分がお悪いのかと、控えめに問いかけてくる侍従に、エドウィネルはようやくうつむいていた面を上げた。
「大丈夫だ」
 短く言って、自身も謁見の間を出るべく、玉座から離れる。向かう先は執務室だ。
 既に窓の外は完全に暗くなっている。本来ならばとうに夕食を摂るべき頃合いだった。日頃は国内に点在する各領地に住まう諸侯達が、王宮へと会している現在、大がかりな晩餐を催しそれぞれの交流を図るのが宮廷における慣例であった。しかし今の王宮 ―― いや、国内全体において、そういった華やかな催しは自粛されている。
 国王が意識不明となって、既に半月が近い。
 混乱を避けるため当初は伏せられていたが、エドウィネルが戻って間もなく、国民達へも事態が公表されていた。名君として信頼も篤かった王だけに、民達の嘆きも大きかったようだ。
 そして今は、誰もが息をひそめるようにして『その時』を待ち続けている。
 今日か、それとも明日か。
 夜が更け、新しい日の夜明けが訪れるたびに、人々は安堵の息をつき、また同時に ―― 続く緊張の終わらぬことに、かすかな苛立ちを覚えている。
 もちろんそれは、国王の存命をいとうものではないのだが。
「……長らく領地を空けていることは、諸侯らにとっても負担が大きい」
 エドウィネルは、低い声で一人呟いた。
 執務室の椅子へと腰を下ろし、裁可待ちの書類を手に取りながら。
 その目は、連なる文字を読みとろうとしてはいない。暗く沈んだ眼差し。寄せられた眉根に、疲労の色が濃い。


 ―― あいつらにしてみりゃ、とっとと片ぁついてくれた方が、手間も少なくて良いんだろうよ。


 皮肉に満ちた声が、どこからか聞こえたような気がした。
 含む嘲笑の響きすら感じ取れるような幻聴に、固く結ばれていた口元が、ふと緩む。
「それもまた……ひとつの正直な考え方なのだろうな」
 忠誠だとか、敬愛だとかいったものとはまた別に。
 地に足をつけた、現実的な見方として、それはごく自然に生じてくる感情だ。


 ―― 不服かよ?


「いや……国王として、民に尽くすのは当然の務めだ。長引けば彼らの生活に支障をきたす以上……すみやかなる崩御もまた、ひとつの望ましいあり方かもしれん」
 もし己が死ぬときが来たならば、それを努力してみるのも良いかもしれない。
 あるいは祖父もまた、そんなふうに考えたことがあるのだろうか。もしもそうならば、今のこの状況はさぞかし不本意に違いない。
 うつむいた口元から、かすれた笑い声がこぼれる。
 ひきつれた、お世辞にも明るいとは言えないそれであったけれど。
 それでも笑みと呼べるものを洩らしたのは、果たしてどれぐらいぶりだったことか。
 扉を叩く、低い音がした。
「 ―― 入れ」
 書類を持ち直し、エドウィネルは入室を促す。
 扉を開けて現れたのは、フォルティス=トーニアであった。エドウィネルのそれにも近いくすんだ金髪を持つこの青年は、立太子直後から彼の側近くに仕え、侍従の中ではもっとも信頼を置かれている存在である。それは長年のつきあいや同年代の気安さによるものが大きかったが、しかし彼はこの若さで王太子に重用される、それだけの有能さもまた確実に備えた存在だった。
 なによりその忠誠心のあつさは疑いようもなく、そしてそれはセイヴァン王太子に対してではなく、エドウィネル個人へと向けられたものであった。
「お食事をお持ちしました」
 夕食の載った台を押した侍女が、フォルティスの背後に従っている。
 エドウィネルが頷きを返すと、室内の卓に用意するよう侍女に指示し、彼自身は執務机の方へと近づいてきた。その手に数枚の書類がある。
 未裁可分の山に加えるかと思われたそれを、しかし青年はためらうように持ち直した。もの言いたげなその様子に、エドウィネルは読みかけていた書類から視線を上げる。
「急ぎのものか」
「いえ。公務に関するものではありません。ただ殿下がお戻りになってすぐ申しつけられました件について、幾つかご報告が」
 優先なさいますか?
 問いかける青年の前で、エドウィネルの表情が目に見えて変わった。
 疲労の色は変わらなかったが、どこか晴れやかとさえ呼べる表情になる。
「見せてくれ。あ、いや……」
 手を出しかけて、しかし彼は一瞬ためらった。そうして処理途中の書類を後ろめたげな顔で眺める。そうしてしばしののち、彼は上目遣いになって侍従を見上げた。
「まずは、夕食を、もらおうか」
 言い訳がましい口調でそんなことを言う。
「それがよろしいかと」
 フォルティスは努めて無表情を保ち、別卓に用意された席を示した。
 政務に身を入れるばかりで食事の時間すら満足に取ろうとしない主だったが、今宵はゆっくりしてくれそうだ、と。
 支障が出ない程度に報告の機会を見計らっていた青年は、内心で微笑みながら、立ち上がるエドウィネルへと道をあけた。


 深皿に盛られたシチューへ手を伸ばしつつ、エドウィネルは傍らに控える侍従を見上げた。いささか行儀が悪いことは承知していたが、なじみの侍女とフォルティスしかいないのだからと、開き直る。
 良く煮込まれたシチューは、肉がとろけるように柔らかくなっていた。半ば崩れた根菜が汁にとろみを加えていて、実に旨い。
 このところつい政務へ気を取られ、気がついた時にはすっかり食事が冷めていたなどということも多かった彼は、久しぶりの温かい料理に、思わず舌鼓を打っていた。無言で二三すくいしてから、思い出したように問いかける。
「 ―― で、報告とは」
 つい緩みそうになる口元を引き締めて、フォルティスは書面へと目を落とした。
「まず、東方産の剣についてですが、実用に耐えうるものをとのことで、畏れながら私の方で幾つか吟味させていただきました。現在候補として三本ほどを用意いたしております」
「持ってきてくれ。この目で確かめたい。そうだな、朝食の時にでも」
「では、そのように」
 うなずく。
 エドウィネルの様子は目に見えて上機嫌なものとなっていた。そんな主人を見ることは、彼にとっても喜ばしいことで。
 書類をめくり、次の事項を確認する。
「次にセフィアールのカルセスト=ヴィオイラ以下二名から、非公式の報告書が来ております」
「要約してくれ」
 エドウィネルはパンで皿に付いた肉汁をさらっていた。たとえ両手がふさがっていようと、これまでの彼であれば自分の目で読もうとしただろう。が、もちろんフォルティスに否やはない。
 そして ―― これは喜ぶべきではないかもしれないが、内容もまた、要約の必要すらない簡素なものであった。
「現在破邪の記録を中心に、それらしき物体の出現がなかったかを調査中なるも、いまだ該当する記述は発見できずとのことです」
 エドウィネルの手が止まった。しかし、すぐに動きは再開され、きれいに拭われた皿を前に、柔らかくなったパンが口へ運ばれた。
「そうか……前例自体ないかもしれぬことを考えると、無駄な働きを強いていることになるな」
 そのまましばしエドウィネルは考えに沈んだ。
 報告をよこしたのは、エドウィネルの指示を受け調査を行っていた、カルセストとアーティルトの二人であった。
 王都へと戻る船上で、らしくない屈託を見せたロッド。そのきっかけとなったのは、彼がコーナ家の領海で発見した奇妙な『舟』の存在だった。その出現と、そしてそれに対するセクヴァールの反応。この二事に対して、ひどくこだわりを見せた彼は、多くを語らぬまま、調べたいことがあるからとひとり公爵領へと引き返した。
 その結果の如何いかんに関わらず、事情は報告すると約したロッドではあったが、それまで手をこまねき座しているのも芸がない。たとえ憶測の域を出ないものであれ、仮説を立てる程度のことはしておきたかった。が、自身の手で調査する余裕など、現在のエドウィネルにあるはずもなく。
 場合によっては公爵に対する間諜行為ともとられかねず、また貴族出身の多くの騎士達は、エドウィネルと同様さまざまな雑事に手を取られていた。ことの発端があのロッドであることから、話の信憑性自体きわめて低いものと、ないがしろ ―― もとい、優先順位を低くされる ―― おそれもあり。結果、信頼して作業を任せられる人間となると、もはや選択の余地などないも同然だった。
「終了させますか?」
 報告書にある確認済み資料は、かなりの範囲にわたっている。これだけ調べても結果が出ないのであれば、これ以上の作業も無駄に終わる可能性が高かった。
 エドウィネルはしばし無言で考えていた。が、やがてはっきりとかぶりを振る。
「いや、もう少し続けて欲しい。手間をかけさせてしまうが、後悔はしたくないのだ。訓練や任務に支障が出ない程度でかまわないから、よろしく頼むと伝えてくれ」
「お心遣い勿体なく。彼らも喜びましょう」
 非公式な仕事だけに、彼らにかかる負担は大きいだろう。だが頭ごなしの命令ではなく、心のこもった言葉による依頼は、それだけで人を動かす力となるものだ。
「最後に、もうひとつ」
「 ―― なんだ?」
 さらに続けたフォルティスに、エドウィネルは意外そうに問い返した。
 彼が命じていたのは今の二点のみだ。もちろん、非公式にはという意味でだが。しかしフォルティスは頷き、わずかに眉を寄せた。
「これは、お耳に入れようか迷ったのですが」
 そう前置きしてから本題に入る。
「内密にお目通り願いたいと、そう申す者がございまして」
「私に、か」
「はい。本来であれば、正規の手続きをとって順を待てと諭すところなのですが」
 つまり正規の手続きを取らず、なおかつ早急に会いたいと、そう申し出ているのか。
 本来ならば、諭すどころか相手にもされない所行である。一国の王太子を相手に、しかも現在の状況が状況だ。たとえよほどの有力貴族が相手であろうとも、そのような無体など通るはずもなかった。その点、エドウィネルは公正であり、頑固でもある。身分の高低、貧富に関わらず、道理の通らない真似を看過するようなことはしない。
 もっともそこには、原則として、という注釈もつくが。
 それを承知しているからこそ、フォルティスもこうして話だけは通したのだろう。それにその相手というのが、彼をしてもしやと思わせる人物でもあったのだ。正確には、その相手の仕えている人物、が。
「面会を求めている者は、ロミュ侯爵家のレジィ=キエルフと名乗っております。用件は直接にしか申せぬとのことですが……」
 この人物は確か、コーナ家に仕える騎士の一人であったかと。
 そう続けかけたフォルティスは、突如生じた固い音に、思わず口をつぐんだ。
 エドウィネルがたいを開くようにしてこちらを見上げていた。床で音を立てたのは、無意識に引いた椅子の足のようだ。常の彼らしくもない不調法なふるまいだったが、それすらも気づいてはいないと見える。
「いつのことだ」
「は」
「申し入れがあったのは、いつだ」
「昨日のことです。私が昼食をお持ちしようと厨房へ向かっている折り、渡り廊下で呼び止められまして」
「昨日か。公爵が王宮入りしたのは三日ほど前だったな。それに同行していたのだろうか」
「おそらくそうでしょう。以降、それらしき船は入港しておりませんから」
「場所や時間の指定は?」
 問い返すエドウィネルは、内密にと断られたそれを迷わず受け入れたようだった。フォルティスは内心でため息を落としながらも、とがめる素振りは見せず応じる。
「ございません。ただできうる限り早く、内密にと、それだけを」
 その答えに、エドウィネルは執務机を振り返った。処理途中の書類の量を確認し、数秒思案する。
「では、伝言を頼む。お前の口から、直接本人に伝えてくれ」
「 ―― は」
 忠実な侍従は、短い言葉で首肯した。


*  *  *


 滞在用に割り当てられた部屋で、レジィは焦る気持ちをおさえ、一人座っていた。
 ゆったりとした長椅子で深く足を組み、肘置きについた手で軽く顎を支えている。膝の上では滅多に読めない貴重な書物が開かれていたが、頁は先刻から全く進んでいない。
「…………」
 紙面に落とされた目は険しく、薄い唇が固く結ばれている。
 彼女が焦るのも、もっともだった。
 王都に上って、はや三日。
 護衛の一員としてセクヴァールに付き従っては来たものの、この王宮で彼女がするべき仕事など、まったくと言っていいほどなかった。宮中でこれ見よがしに武官を侍らせる行為は、王宮内の治安維持に対する不信ともとられかねず、また権力を必要以上に誇示する無粋な真似ともみなされた。もともと彼女はフェシリアの騎士であり、他に同道してきた公爵付きの騎士達ともなじみが薄い。さらには女性であるという変えようもない事実により、彼女に対するセクヴァールの評価は、けして高いものとはいえなかった。それらが相まって、彼女がセクヴァールに随伴することなど、ほぼ無きに等しい状況となっている。
 そうなるだろうことは、事前にも予測できていた。できていてなお、強引ともいえるやり方で彼女が同行した理由は。
 表向き、先に王都を訪れた折りに親交を結んだ貴族の姫に、フェシリアからの私的な手紙を届けたるため、と。そういう形をとっている。だがもちろん、そんなものは口実でしかなく。
 フェシリアよりの ―― 正確には、今でも彼女と共にいるだろう、あの不遜な破邪騎士からの ―― 言葉を王太子へと伝えるため。それ故にこそ彼女は今ここにいる。
 余人の関心を避けるため、書面や第三者を介した伝言は控えるよう、きつく命じられていた。しかし彼女の身分で王太子との謁見など、とうてい望めるものではない。よしんば望んで叶えられたにせよ、その場で交わされた言葉は公的なものとして多くの耳目にさらされ、記録される。それでは意味がないのだ。ならばどうにかして、個人的な接触を図るしかない。
 とはいうものの、王太子本人に近づくのは難しすぎた。いっそ不可能と言って良いだろう。ならば頼れるのはその周辺。確実に王太子へと情報が届き、かつレジィでも容易に言葉を交わせる、そんな人物。その選択 ―― あの男は狙い目などと称していたが ―― については、何人かの候補があらかじめ挙げられていた。
 そのうちの、ひとり。
 王太子の側近くに仕える年若き侍従と、たまたま人目のない場所で遭遇できたのが、やっと昨日のこと。これを逃せば機会はないと、口早にこちらの意向を伝えたものの、それが礼を失した常識はずれな振る舞いだったとは百も承知していた。相手の怪訝そうな顔が、こうしていてもはっきりと思い出せる。
「やはり、失敗だっただろうか」
 くと唇を噛んだ。
 全く面識のない相手。しかもレジィはことが露見した場合をおそれ、フェシリアの名すら出さなかった。騎士とはいえ無名の地方貴族出身でしかない彼女が、後ろ盾も持たず、用件すら告げずに為した伝言だ。呆れ、無視される方が自然だろう。
 あるいはせめて、ロッドの名ぐらいは口にするべきだったかもしれない。しかしあの時は人目のないうちにとの気負いが先に立ち、本当に最低限のことしか伝えられなかった。今さら悔やんだところで、遅いとはいえ。
 ―― もしも、殿下まで話が通ったならば。
 声には出さず、胸の内でつぶやく。
 必ずあの方は耳を傾けてくれるだろう。
 そのことには確信があった。
 王太子が公爵領に滞在したのは、さほど長い期間ではない。それでもその人となりに対し、彼女は強い感銘を受けていた。己の主人ともどこか相通ずる、高潔な人柄と強い意志。理想を抱き、努力を怠らず、民の幸せと己が治めるべき地の繁栄を願ってやまぬ、そのありよう。自らの得るべきものと、それに付随する義務と責任とを知り、驕ることなく怯むことなく、前を見据えて立つその姿。
 いずれ主君として仰ぐべきその人が、この方で本当に良かった、と。
 おもねりではなく、ごく自然にそう思う。
 あの方であれば、一介の騎士でしかない己の名も、きっと御記憶下さっているだろう。そう信じることに不安はない。そして聡明なあの方ならば、フェシリアと自分の関係から、御自身が派遣なさった破邪騎士と関わりあろうことも御推察いただけるはず。
 だが。
 思考が再び沈む。
 それもみな、かの方まで話が通ってこそのこと。
 フォルティスという名のあの侍従は、いったいどこまで信頼できるのだろう。ロッドに言わせれば、まず間違いはなかろうとのことだったが、そもそもあの男自体、きわめて信用し難い人物である。
 レジィはやがて、小さくため息をついて書物を閉じた。
「座していても仕方ないな」
 一度目を伏せ、己に言い聞かせる。そうして彼女は椅子から立ち上がった。
 背もたれにかけていた室内用の外套マントを手に取り、ふわりと広げて羽織る。閉じたばかりの書物を手に、廊下へと出た。すぐ隣の扉を控えめに叩く。
「申し訳ありません。図書室に本を返しに行って参ります」
 顔を出したセクヴァール付きの騎士に一言断った。いかに待機中とはいえ、彼女はセクヴァールの護衛としてこの地にいる。居場所はつねに明らかにしておく必要があった。
「こんな時間にか」
 既に夜もだいぶ更けている。まだ寝るには早い時間だから係りの者ぐらいいるだろうが、それにしても明日にする方が自然な刻限だった。
「続きを借りようかと」
 実際には半分も読んでいない書物を、胸の前に持ち上げてみせる。
 その仕草で相手は納得したようだった。どうせ彼女が必要になる事態など、起こるはずもないと思っているのだろう。あっさりうなずいた騎士にもう一度会釈して、彼女は王宮の誇る大図書室へと足を向けた。
 そこは、ロッド=ラグレーから向かうよう指示された場所である。
 王太子に接触を図るにあたり、仲介となってくれるだろう人物と自然に顔合わせできる場所として、挙げられたうちのひとつ。
 破邪騎士アーティルト=ナギ=セルヴィム、同じくカルセスト=アル=ヴィオイラ=ルウム、そして侍従文官フォルティス=アル=トーニア=イオシス。
 他にも数名挙げられたが、もっともあてになるのはこの三人だろうと繰り返された。そしてこの三者はともに大図書室の利用頻度が高い。下手に破邪騎士の訓練中に顔を出したりなどするよりも、よほど目立たず接触できるはずだ、と。
 それに従い、彼女は何度か図書室を訪れていた。だがこの城の図書室は、閲覧室が個別になっているため、一度書物を選んで閉じこもってしまうと、誰がどこにいるのか定かではなくなってしまう。本を選ぶ振りなどしながら、それとなく長居するしか方法はなかった。
 フォルティスとは既に接触できたわけだが、安心にはほど遠い。他の手段も講じるべきだろう。次はロッドの名を出してみるのも良いかもしれない。そんなことを考えながら暗い通路を歩んでいた彼女は、進行方向の曲がり角から現れた人物に、ふと顔を上げた。そしてはっと息を詰める。
 背筋を伸ばした姿勢の良い歩みでこちらに向かっているのは、まさにいま思い出していた侍従文官であった。胸元に書類を抱え、足早に歩を進めてくる。レジィの存在を目にして、その歩みがわずかに調子を乱したとは、気のせいだろうか。
「…………」
 どう反応するべきか。とっさに判断に迷った。昨日の件について問いかけてみるべきか、それとも向こうからの働きかけを待つべきか。人気がないとはいえ、ここは王宮内の通路である。こんな時間帯にあまり声を出しては、すぐに人目を引いてしまうだろう。
 ひとまず立ち止まった彼女に、フォルティスは静かに歩み寄ってきた。わずかに視線を伏せた顔に表情はなく、ごく自然にすれ違うかのような素振りだ。
「 ―― あ」
 脇を過ぎかけた彼を追って、レジィは振り返った。呼び止めようと口を開く。
 と、フォルティスが急に足を止めた。さりげなく手のひらを向け、言いかけた言葉を遮る。
「ちょうど良かった」
 そう言って彼は、ちらりと彼女が持つ書物を見た。
「必要な資料が借り出されていたのですが、あなたが持っておられたのですね」
 フォルティスの言葉に、レジィは目をしばたたいた。
 彼女が手にしているのは、古い伝記や詩篇を集めた読み物である。政務の資料になるような代物ではないのだが。
 しかしフォルティスの表情を見て、彼女もすぐにのみこんだ。
「ちょうどいま、返却に行くところでしたので」
 うなずいて、自分が滞在している部屋の方へと視線を投げる。
「もう一冊は部屋に置いておりますが、お急ぎならそちらもお持ちしますか」
「 ―― そうですね。助かります」
 互いに視線を見交わして、その含む意思を確認した。そうして肩を並べ、レジィにとってはいま来たばかりの方向へと向かう。
 いささか性急な足取りになったことは否めない。それでも扉は意識して静かに閉め、彼女は相手に向き直った。
「貴方が来て下さったということは、殿下にお伝えいただけたと思ってよろしいのでしょうか」
 前置きもなく問いかける。
 礼を失した態度だったが、フォルティスはそれを咎めようとはせず頷いた。
「こちらも儀礼は省かせていただきましょう。お会いになるとのことです。ただ殿下もお忙しい身、そう時間はとれません」
 その返答に、思わず膝から力が抜けるような心地を覚えた。先刻まで感じていた苛立ちが溶けるように消滅してゆく。
「では、いつ頃お目にかかれますか」
 問い返す声は、拭いようもない安堵の響きをまとっていた。
「それなのですが ―― 」
 言いよどむフォルティスの素振りにも、もはや焦りは感じなかった。あの方は会うと言ったなら会って下さる。ならば後は待てば良いのだ。
 どこか余裕すらもって返事を待つ。
 そして彼女に与えられた時間は、予想を遙かに越えたものだった。
「これからでございますか」
 目を見開くレジィに、フォルティスは無表情のまま問い返した。
「なにか不都合が」
「い、いえ」
 慌てててかぶりを振った。
 不都合どころか、たとえたったいまセクヴァールからの呼び出しがかかったとしても、何とでも理由をつけて退けることだろう。
 そんな内心を知ってかどうか、フォルティスは小さく頷いた。
「では小半刻後に、図書室の第五閲覧室までお越し下さい」
「ありがとうございます」
 頭を下げるレジィを置いて、フォルティスは部屋を出ていった。
 その姿が廊下の先へ消えるだろう時間を見計らって、彼女も再び図書室へと向かう。
 背筋を伸ばした姿勢の良いその歩みは、先刻までのそれとうって変わり、颯爽としたごく軽い足取りとなっていた。


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