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 楽園の守護者  第十一話
 ― 失われた欠片 ―  第二章
 ― Makoto.Kanzaki Original Novel ―
(2003/2/16 20:46)
神崎 真


 王宮より急使が訪れたとの知らせに、コーナ公とフェシリアは困惑の念を隠せずにいた。
 紅旗を掲げる船ともなれば、その携える知らせは最重要の、時として国家機密とさえ呼べる内容であるはずだ。そのような使者など、いかに有力貴族たる公爵といえども、そうそう迎えるものではない。
 つい先日まで館に滞在していた、王太子に対するものであるならばまだ判る。しかしその王太子も既に王都へと出立していた。いかに幅広い大河とはいえ、彼らが行き違うはずもない以上、この使者は確かに公爵へと向けられたものなのだろう。
 公爵も ―― また、フェシリアも ―― それなりの情報網を持っている。しかし王都に住まう手の者達からは、特別な知らせなど届いてはいなかった。
 ならばこの使者がもたらす情報は、その彼らさえも知ることのできなかった、特別なものであるのか。
 接岸した船が舫綱を投げるのを、公爵親子は桟橋から見守った。
 吹きわたる風に外套をなびかせながら、国王の使者が現れるのを待ち受ける。
 果たしてもたらされるのは、吉報かあるいは凶報か。予測すらつかぬままに、彼らは無言で甲板を見上げていた。


 執務室へと入り、厳重に人払いをした上で、その知らせは明らかにされた。
 国王重態と聞いて、さしものコーナ公爵も顔色を失う。
 数度息を吸い込み、しばし視線を室内にさまよわせた。
 その背後に立ったフェシリアも、組んだ細い指を震わせ、凝然と立ち尽くしている。聞かされた言葉を理解するのに、かなりの努力を必要としているようだ。
「陛下が、御危篤だ、と。それはつまり……」
 セクヴァールが問いかけようとしたが、言葉に迷ったのかしばし口ごもる。だがこんな場合に口にされる内容など、決まり切っていた。使いの者は沈痛な面持ちでうなずきを返す。
「もはや、御譲位は確実なものと」
 静かに告げる。
 この国における国王の譲位とは、すなわち崩御と同義である。
 しばし室内には重い沈黙が降りた。それぞれが無言の内に、主君に対する畏敬と哀悼をあらわす。
 やがて、口火を切ったのはセクヴァールが最初であった。
「すぐに王都へ参じましょう」
 確固たる言葉。
 国王崩御、そして新王の即位に際し、公爵ともあろう者が居合わせぬ訳にはゆかない。まして、たとえその意識がないままであろうとも、一目国王の枕頭を見舞い、尊顔を拝したいと、そう願うのが臣下として当然の思いである。
 使者も心得たように一礼した。
「夕刻には出立できましょう。使者どのはいかがなされますか」
「食料と水の補給を終えましたなら、ラスツ侯爵の領地へ向かいます」
「すぐに手配させましょう」
 セクヴァールが言うより早く、フェシリアが裳裾をひるがえし、執務室を出ていった。それを見送った一同も、それぞれの準備を始めるべく、席を立とうとする。
 と、それまで無言で控えていたロッドが、一歩前に進み出た。
「待てよ」
 ぶっきらぼうに呼び止められて、セクヴァールは眉をひそめた。このようなぞんざいな口の利き方など、彼はされたことがない。
「なにかな、騎士どの」
 それでも落ち着いた声で返したが、その声音には自然不機嫌さが滲んでいた。
 もちろん公爵はロッドを見知っている。その青藍の制服と銀の指輪を見れば、彼がセフィアールの一員であることは容易に知れるし、つい先だっても王太子エドウィネルの護衛として顔を合わせたばかりだ。ましてロッドの存在は、数年前、特例としてセフィアールに入団した折り、大いに話題となっている。それ以降もその態度の悪さ、場をわきまえぬ傍若無人さで、常に悪い意味で噂の元であった。
 生まれすら定かではない、身分卑しい流浪の身で、陛下の過分なる慈悲を賜りお取り立ていただいたものを、それに感謝すらせず無頼の振る舞いを繰り返す。王宮の中でも生活に密着した下層に属する者や、ことありし折りには前線に立つ兵士達などからはまた違った評価を受ける彼であったが、内政的な部分を担当する文官や、武官でも上層部に位置する者には、おおむね悪印象ばかりを抱かれていた。
 公爵もその点例外ではなく。ロッドに対する態度には、ごく儀礼的なものしか含まれていなかった。
 対してロッドは、なにしろ国王や王太子に対してすら、粗雑な物言いを改めぬ男である。昨今はそれでも、多少公共の場で取り繕うことも覚えたようだったが、いまはほとんど余人のいない室内だ。公爵の冷ややかな目も気にすることなく、口を開く。
「あの『舟』については、どう手配するつもりなんだ」
 前置きもなにもない言葉に、公爵の表情がわずかに動いた。
「舟というと、先日の破邪で発見された物ですな。あれが、どうか?」
 しかしセクヴァールは問いに答えようとはせず、逆にそう訊き返した。途端にロッドが顔をしかめる。
「『あれ』が妖獣に関わりあるモンだってのは確実だ。そしてそれはあんただって知ってるはずだ。なのにあんたはあれをほったらかして、意識もねえ国王のご機嫌伺いに行くつもりかよ」
「陛下が御危篤のこの折りに、見舞いに上がるのは臣下として当然のつとめですが」
「てめえの領地はどうなっても良いってのか」
「不在の間の手配は、抜かりなく行うに決まっているでしょう」
 そのためにこれから指示を出そうというのだ。
 言外に邪魔をするなと告げるセクヴァールに、ロッドはたまりかねたように机を叩いた。
「だったらなんで、エドウィネルに何も言わなかった!?」
 室内がしんと静まりかえった。
 唐突なそのふるまいに、立ち上がりかけていた使者が唖然として両者を眺める。
 反動のように物音が消える中、乱暴な仕草にかきまわされた空気が、わずかに塵を舞い上げ、光った。
 やがて ――
 真っ向からその視線を受け止めていたセクヴァールが、小さくひとつため息をついた。
「……いったい」
 磨かれた艶のある机に肘をつき、蔑むようにロッドを見上げる。
「何を言っているのか判りませんな。どういうおつもりです?」
 いかに陛下にお気をかけていただいている破邪騎士の一員とはいえ、無礼を寛恕するのにも限度というものがある。己の分をわきまえぬのも、大概にしてはどうか。
 そんな言葉を視線にのせ、身のほど知らずの無礼者を眺めやる。
 ロッドの奥歯が軋んだ音をたてた。ぎらついた光を放つ目で公爵をにらみ返す。
 しかしセクヴァールは堪えた様子もなく、あっさりと視線をはずし、椅子から立ち上がった。
「騎士どのはどうやらお疲れのご様子。出立の準備ができるまで、別室でお休みになられた方がよろしいかと」
 冷めた口調で言い残し、使者を促して執務室を出ていった。
 その背中を見送ったロッドは、もう一度拳を握り机へと叩きつけた。
 うつむいたその口元で、余人には聞き取れない、唸りにも似た声が発せられる。
 それは、怒りのあまり漏れた毒づきとも、また ―― どこか聞く者の胸をつく、苦痛に満ちた呻きのようにも感じられて ――


*  *  *


 扉の傍らにたたずんでいたフェシリアは、しばしどう言葉をかけるべきかと思案した。
 食料や水の手配を素早く終え執務室に戻った彼女は、公爵とロッドのやりとりを途中から聞くことになった。
 そして、公爵がそれに取り合うことなく、部屋を出てゆくのを見送る。
 音を立てて扉が閉ざされたのちも、青年はしばし執務机の傍らに立ち尽くしていた。うつむいたその表情は、フェシリアの位置から見て取ることができない。普段のこの男のふるまいを思えば、たかが己の言葉をすげなく扱われた程度で、落ち込んだりするとは考えにくい。
 だが……


『だったら、なんで ―― 』


 しぼり出すかのような、そんな響きすら感じさせる問いかけだった。
 この男とフェシリアには、さほど長いつきあいがあるわけではない。むしろまだほんの数回、短い会話を交わしたことがある程度だ。だがそれでも、彼女はこの男について、それなりに理解できていると思っていた。互いに向けあったその言葉は、それぐらいには率直で忌憚のないものであった。
 その短くはあるが、浅くはないつきあいの中で得た印象から言えば、先刻の問いかけはひどく『らしく』ないものだった。
 言葉遣いの粗雑さは、いつもと同じかもしれない。公爵に対しまっこうから問いをぶつけるそのやりかたなど、この男にしかできはすまいと断言できる不作法さだ。しかし、実際に口にされた内容はといえば、揶揄するでなく、侮蔑するでなく、あくまで純粋な問いかけ。それも場にいる余人にはその意味を悟らせることない、曖昧に内容を濁したそれだ。
 いつも、腹立たしいまでに言葉を選ばない、この男が。
 フェシリアは無意識のうちに唇を噛んでいた。柔らかな桜色の唇に、きりと歯が食い込む。
「いったい、何を言っておるのか」
 ひとつ息を吸って、フェシリアは口を開いた。
 反応して上げられた瞳を真っ向から見返し、言葉の続きを口にする。
「私にも説明してもらいたいものだが」
 貴族の姫らしからぬ、低くまた傲慢な響きを持つ声。普段周囲の者に対して見せている、繊細でたおやかな素振りを装うでなく、またエドウィネルに対するときのように、率直ではあるが礼をわきまえた振る舞いでもなく。あるいは ―― 信頼した部下であるレジィやリリアに向ける、打ち解けたがゆえの鷹揚さすらなく。
 ある意味この青年のそれにも似た、敬意も配慮も何もない、ただ己の意志のみを告げる言葉。
「言っておくが、私には訊く権利と義務がある。コーナ家の後継としてな。そなたも父に取り合われなんだのなら、私を相手にするのも、ひとつの方法ではないのか」
 どうしてお前に説明しなければならないのか、と。そう言われるより先に答えを返す。
 案の定、先まわりされたらしく、ロッドは開きかけた口をいったん閉ざした。それからふと思い出したように懐を探り、封筒を取り出す。
「おら」
 無造作に突き出されたそれに、フェシリアはわずかに意表を突かれた。ロッドはそのままの姿勢で近づく様子もなく、室内には間を取り次いでくれる女官もいない。しばし迷ったが、彼女は足を踏み出し、みずから歩み寄っていった。
 受け取った封筒を裏返せば、封蝋に押された印章は王太子のそれだ。ロッドを見返すが、相手は何かを思案しているらしく、視線を何もない場所へと向けている。
 これは読んだ方が早いと、執務机から開封用の刃物を取り出した。封の隙間に差し込み端を切る。
「……これは、また」
 内容を確認して、フェシリアは思わずため息をついた。と、それに興味を惹かれたのか、ようやくロッドがこちらを見る。
「なんて書いてあったんだ」
 中身を知らないらしい男へと、フェシリアは無言で便箋を見せた。
「…………」
「信頼されたものよの」
 まじまじと文面を眺める横顔に、失笑する。
 書かれている内容は、わずかに一行。
『我が名において、この男ロッド=ラグレーの行動に力を貸されたし』
 あとは受手としてフェシリアの名を、差出主としてエドウィネルの署名を記してあるのみ。
 確かにあの場において、長々とした文章を書く時間などなかったし、エドウィネル自身ほとんどなにも知らない状態ではあった。それにしても、これはいささか行き過ぎではないだろうか。王太子の署名が入ったこの文書は、いわば白紙の委任状である。うかつな人物の手に渡れば、どのように悪用されるか知れたものではない。
「……馬鹿か、あの男は」
 呆れたように呟いて、ロッドは便箋から視線をはずした。
 そうして ―― 深く、ひとつ、息を吐く。
 右手を挙げ、口元を覆い、一度だけ目を閉じた。
 そうすることで、この男は何かを吹っ切ったのか。
 再びフェシリアを見下ろしたその瞳から、この数日見られた迷う色は、完全に消え去っていた。同時に漂っていた、どこか苦痛を滲ませた空気さえも。
「俺が知ってることなんざ、たいしたことじゃねえんだけど、よ」
 いつものごとき嘲笑を口元に浮かべ、彼は語り始めた。エドウィネルにも言わずにいた、彼だけが知っていたその事実を。
「俺が見つけた『舟』について、何か訊いてるか」
「報告書にあった正体不明の構造物のことだな。いや、あれに書いてあった以上のことは、何も知らぬ」
「 ―― そうか」
 ロッドはうなずくと、あっさり先を続けた。
「俺の知ってる限り、あの物体が見つかった際には、かなう限りすみやかに王都へと知らせを送り、国王の助言を受けるべしってえ話だ」
「かなう限り、と?」
「そうだ」
 繰り返すフェシリアとまっすぐに視線を合わせ、肯定する。
 フェシリアの顔から、じょじょに血の気が引いていった。
「……馬鹿な」
 しぼり出すように呟いた。
 既にあの物体が確認されてから、一週間以上の時が過ぎている。
「もしも、それが事実ならば」
 フェシリアともあろう者が、考えをまとめるのにしばしの時間を必要とした。
 重ねて言うが、既に十日近くが経っている。妖獣の来襲を退けたのち、その事後処理へと忙殺され、さらに当初の目的であった王太子による視察をも、行えるだけは行い、ようやく一行を送り出してからもう二日である。
 かなう限りすみやかに、と。
 知らせを送る先が国王である以上、その意味はまったく完全に言葉通りだ。
 たとえ半日でもまだ遅い。親書をしたため、使者を選び、船を仕立てて送り出す。仮にも公爵の名を託された臣下の筆頭である存在に、許される時間は長くても一刻。それができるだけの力を持ち合わせていて、はじめて公爵を名乗ることを許されるのだ。
 たかが王家の血を引いているが故の、名ばかりの爵位だなどと、そう呼ばれることは耐えられぬ。だからこその野心であり、努力であるというのに ――
「信じねえのはてめえの勝手だ」
 素っ気なく吐き捨てるロッドを、フェシリアは鋭い目つきで見上げた。
「何事も鵜呑みにせぬのは、上に立つ者として当然の務めだ」
 他人を指揮し、その結果に責任を持たねばならぬ存在として、その指示の裏付けとなる情報は常に吟味し、真偽を確かめることが必要である。誤った情報を元に出した指示は、多大なる損害をもたらす結果となる確率が高い。故にこそ、彼女は全ての事を、まず疑ってかからねばならない。たとえそれが、どれほど信頼できる相手からもたらされた情報であろうとも。
 まして、その情報源も、裏付けすら定かでない情報であれば、なおのこと易々と信用などできない。
「そなた、どこからその情報を仕入れた。殿下が……そのようにおっしゃられたのか?」
 問いかける。
 セクヴァールが王都に使者など送っていないことは、断言できた。たとえ一時しのぎの後継者とないがしろにされがちであろうと、彼女は彼女なりに力と人脈をたくわえている。たとえ公爵がどれほど内密に手を打っていたとしても、その動きがまったくフェシリアに伝わらないなどあり得なかった。
 もしもエドウィネルが使者の必要を感じており、なおかつセクヴァールが行動を起こしていないと知っていたならば……
 色の失せた唇を噛む。
 考えたくない状況は、しかしロッドによって否定された。
「エドウィネルは何も知らねえ。ただ、あいつは王都に戻って国王に心当たりを訊くつもりでいたからな。知らせが行くことに代わりはなかっただろうよ」
 結果から言えば、さほど変わりはなかったかもしれない。ほんの、数日ばかりの遅れが生じるだけで。
 だが……もはや王都に戻ったところで、国王に事情を訊くことは叶わない。
「では、そなたはどこでそれを知ったのだ。殿下はご存じなく、陛下もまた、殿下がご出立の際には『舟』の出現など思いもよられなんだはず。ならば何故そなたがそのようなことを知っておる」
 言い逃れなど許さぬと、強い光を放つ目がロッドを見据える。
 ロッドもまた、今度はそらすことなくその視線を受け止めた。
 ―― しばしの、沈黙。
 やがて彼は、目を合わせたまま、顎だけ動かして壁際の書棚を指し示した。
「あそこの事は、知ってるか」
「……?」
 言わんとするところが理解できず、フェシリアはただわずかに眉をひそめた。それだけで回答を得たロッドは、彼女を促して書棚の方へと歩み寄ってゆく。
「どうやらあの男、てめえに後譲る気は本気で無いらしいな」
 あの男というのは、もちろんコーナ公爵のことである。
 それは改めて言われるまでもなく承知している事ではあった。だがそれでも第三者から面と向かって口にされると、いささか面白くない。
「何が言いたい」
 尖った声で問い返す。
 ロッドはしゃがみ込んで、一番下の段から数冊の書物を引き出していた。完全に抜き取ることはせず、分厚いそれらが半ばまで姿を現したところで手を離し、立ち上がる。ぱんぱんと手のひらをはたき、埃を払った。
 そうしてフェシリアを振りかえる。
「肝心なことは、何も教えられてねえってことさ」
 そう言って、書棚の横板に手をかけ、思いきり左へと押しやった。
 ごとりと、鈍い音が壁の向こうから聞こえる。
 書棚それ自体が、ゆっくりと横方向へすべり始めた。移動していく書棚に隠されていた壁には、人ひとりが立って通り抜けられるほどの、四角い穴が穿たれている。
「これは ―― 」
 フェシリアは息を呑んで、あらわになってゆく隠し通路を眺めた。
 こんなものの存在など、一度として聞かされたことはない。
 驚愕に言葉すら出ない彼女を、ロッドは書棚を押さえたままで見下ろした。
「突っ立ってないで、さっさと入れ」
「だ、だが」
「ぐずぐずしてると人が来るぜ。見られても良いのか」
 その言葉に、はっとフェシリアの表情が引き締まった。確かにこんな通路の存在を、余人の目に晒してはならない。まして、教えてもいない隠し通路をフェシリアが知っていると、そうセクヴァールに悟られたならば、よりいっそうまずいことになる。
「入るのは良いが、内側から閉められるのか」
 おそらくは鍵になっているのであろう、引き出された最下段の数冊。たとえ書棚を戻したとしても、それがそのままになっていては、誰かが侵入したのだと一目で知れてしまう。
 一瞬で冷静さを取り戻したフェシリアに、ロッドは虚をつかれたようにまばたきした。
 が、すぐにその表情を楽しげな笑みがとって変わる。
「心配すんな。勝手に戻るようになってる」
「ならば良い」
 うなずいて、フェシリアは床に引く裳裾を片手で持ち上げた。石造りの通路は薄暗く、どのような汚れがあるのかもさだかではない。
 先に彼女を中へと入らせ、ロッドも後を追って足を踏み入れた。後ろ手に軽く引くと、床に刻まれた溝に沿って、下部に車輪の付いた書棚が戻ってくる。
「明かりは」
「そこの壁に角灯が掛かってる」
「なるほど」
 交わす会話は、並ぶ背表紙が断ち切った。一度揺れて書棚は止まり、後には何事もなかったかのような無人の執務室が残される。
 のちに部屋を掃除するべく訪れた召使いも、なんらそこに普段と異なるものを見つけることはなかった。
 そして ――


*  *  *


「船には乗らぬ、と?」
 意外な宣言に、セクヴァールは面食らった声を上げた。
「ああ」
 ぶっきらぼうに返答して、ロッドはふいと顔を背けた。
 出立の準備ができたからと彼を呼ばせた公爵は、桟橋の前で落ち合うなり言われた言葉に、眉をひそめる。
「どういうおつもりですかな」
 王都に上る船は、そうそう簡単に仕立てられるものではない。数日にわたる船旅を行えるだけの、人員と食料の手配、何よりも船そのものが貴重かつ高価なものだ。それらを用意するには、相応の金と時間がかかる。これほど迅速に出立することができるのも、それだけコーナ公爵の力が秀でているからに他ならない。
 もしこの船に同乗しないとなると、改めて船を用意するか、乗り合いの客船を利用するかしかない。そして公爵は、わざわざこのような男のために船を出してやる気など、毛頭なかった。
 またくだらない難癖でもつけようというのか。
 いい加減相手をするのも面倒だと、内心でため息をついたセクヴァールだったが、ロッドはひらりと懐から出したものを振ってみせた。
「こいつの返事をもらわなきゃならねえんでな」
「その、紋章は」
 既に開封された封書。その蝋に捺された印を確認して、公爵は驚いた。
 思わず伸ばしかけた手を、ロッドが身軽にかわす。
「っと、他人の手紙をのぞくんじゃねえよ」
「他人だと」
 改めて見直すと、その表書きはフェシリア宛となっていた。
 王太子手ずからの親書が、公爵にではなくフェシリアへ向けて送られる。その事実に愕然とし ―― 次いでわき上がる激しい怒りを覚えた。
「殿下はいったいどんな知らせを寄越したのです」
 低い声で問いかける。
 コーナ公たる自分を差し置いて、あの二人はいったいどんな情報をやりとりしようというのか。
 うなりにも似た声には、不審と、そして隠しきれない鬱屈の響きがあった。
 が、それに気がついているのかどうか、ロッドはにやりと意地の悪い笑みを浮かべる。
「野暮なこと言ってんじゃねえよ」
 若い男女が交わす手紙なんざ、盗み見したがる年でもなかろうが。
 指に挟んだ封筒で、笑んだ唇をなぞる。嘲るような物言いに、公爵はさっと気色ばんだ。
「ふざけたことを ―― 」
 激高しかけたのに水を差すように、そのとき傍らから声がかけられる。
「お父さま、いつでも出港できるとのことです」
 はっと振り返った先で、フェシリアが船長と並んで立っていた。
 公爵不在の代わりとして留守居を命じられた彼女は、見送りを兼ねて最後の出立準備の監督をしていた。すべての準備が整ったと告げに来たフェシリアを、公爵は険しい目でにらみつける。
 その視線に怯えたような表情を見せたフェシリアは、しかし傍らでロッドが手にしている封書に目を止め、ふと頬を染めた。
「あ、それは」
 言いかけた唇をあわてて押さえ、いたたまれぬようにうつむいてしまう。
 その風情は、あたかも秘密のふみをかいま見られた、恋する娘の仕草めいていて。
 公爵の視線は、とたんに侮蔑を含んだものへと変わった。
「……良き臣下が、聞いて呆れるわ」
 小さく吐き捨て、甲板へとかけられた渡し板に向かう。もはやフェシリアへもロッドへも、一瞥すら与えようとしない。
 船長が居心地悪げにフェシリアを窺いつつ、その後を追った。桟橋には二人だけが取り残される。
「また見事に信じ込んだな。疑いもしねのえか?」
「人とは己が信じたいことを信じるものだ。私ごときが父を差し置き重用されるなど、考えたくもないのだろうよ」
 ロッドは目の上に手のひらをかざし、甲板を見上げた。その横で、フェシリアもまた日差しに目を細める。その口元に浮かんでいるのは、先刻父が見せたそれと同じ、嘲りの色だ。
 吹く風に乱される黒髪を軽く押さえ、錨を上げる船を眺める。
 離れた位置で控える女官や見送りの者達に、ささやき声で交わされる会話が届くおそれはなかった。
「だがそなた、本当に戻らずとも良かったのか」
「ああ。何が起こるかは判らねえが、ことが妖獣がらみなら、俺がいた方が良いだろうしな」
「まあな」
 国王とロッドの親交を知らぬフェシリアは、あっさり納得する。
 二人は共に、事情をセクヴァールへ告げるつもりなどなかった。それはあえて話し合うまでもない、当然のこととして了解された。はじめに口をつぐんだのはセクヴァールの方。そして知らされなかったその情報について、彼らが知っているということをわざわざ告げなどしても、そこに生じるのはさらなる軋轢ばかりであろう。
 故に彼らは、ロッドがこの地に残ることについて、適当な理由をこじつけ公爵を納得させる必要があった。もともとロッドに対する心証は地を這っている。多少つつけばたやすかろうという考えは、的を射ていたようだ。
 動き始めた船縁に、人影が動く。
 振られた手に応じ、フェシリアが細い手を掲げた。
「お前こそ、あれは懐刀ってやつだろう?」
 このややこしくなりそうな時に、そばから離して本当に良いのか。
 問いかけるロッドに、船上のレジィを見送っていたフェシリアは、馬鹿にするかのような視線を流した。
「信頼できるからこそ、あのような伝言を託せるのだ」
 なにを今さら言いやるか、と。
 その言葉に、ロッドはひょいと肩をすくめる。
 ロッドが公爵領へ残る以上、何らかの手段で彼が明らかにした情報 ―― すなわちかの『舟』についてを、王都のエドウィネルへと知らせる必要があった。そしてロッドが自らの口で伝えることができぬのだから、それには第三者の手を介さねばならない。
 しかしそこでその第三者が問題となってくる。ことは公爵にも内密にせねばならないが、しかしフェシリアはあくまでコーナ家の次期継承者であり、現在の公爵はセクヴァールその人である。うかつな人間を選べば、その伝言は公爵へと筒抜けになるだろう。
 公爵よりもフェシリアに対して忠誠を誓い、かつ王太子へも謁見が叶うであろう身分を兼ね備えた存在。そしてなによりも、セクヴァールとフェシリアとの亀裂を決定的にもしかねない、そのような情報を動揺することなく預かり、平静を装える器量を持つ人物。そのような条件に該当するのは、レジナーラ=キエルフ、彼女ぐらいしかいはしまい。
「……王都まで四日。到着しても、エドウィネルに会えるのに、何日かかるか知れたもんじゃねえな」
「しょせんは一介の騎士、まして今は陛下のことがある。そうそうお会いできぬだろうことは承知の上だ」
「知らせたところで、何ができるって訳でもねえしな」
「ああ。だが、心構えのひとつにはなるだろう」
 何が起きるやもしれぬ。いつ起きるやもしれぬ。ただそれが緊急を要する可能性があるのだと、結局はただそれだけの情報でしかない。そんなことを知らされたとしても、だからどうしろと言うのか、としか答えようがないだろう。
 それでも、
 知らぬよりは知っている方が何倍も良い。
 何かが起こるだろう可能性も、そして公爵の欺瞞も。それはいざ事態が動いたとき、その先に選ぶべき行動を、決めるひとつの指針となる。
 だからこそ、集められるだけの情報を、集められる時に集めなければならない。人に対して指示を出す、その権利と義務を持つ人間は。
「このあたり一帯の地図と、いま至急で集められる兵の資料を見せろ。過去に領内で発生した、妖獣の記録もだ」
「すぐに用意させる。客室を使うか」
「いや、運ばせるのはめんどくせえ。書庫に直接入らせろ」
「……それは止めておけ。あそこには机もない」
「床でいいさ」
「そなたは良くてもこちらが困る。執務室に来い。大概のものはあそこにあるし、書庫もすぐそこだ」
 どのみちフェシリアも、この先しばらくはあの部屋で過ごすことになる。情報交換にはちょうど良い。
 それで納得したのか、ロッドはひとつ鼻を鳴らして返答すると、いきなり歩き始めた。すぐ傍らの公女に手を差し伸べるでもなく、一人でさっさと屋敷へと向かう。
 一歩遅れてフェシリアもその後を追った。控えていた女官達が、あわてて動き始める。
「お、お待ち下さい。どちらへ」
「あの、公女さま、この方は」
 うろたえたように尋ねてくるのに、フェシリアは執務室へと案内するよう指示する。その間にもロッドは足を止めることなく、勝手知ったるとばかりにずんずん進んでいった。
 フェシリアもまた、必要以上の問いかけには答えを返さず、そのまっすぐ伸ばされた背中を足早に追っていった。


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