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 楽園の守護者  第十一話
 ― 失われた欠片 ―  第一章
 ― Makoto.Kanzaki Original Novel ―
 
神崎 真


 王太子エドウィネルがコーナ公爵領から王都へと向かう帰路について、丸一日が過ぎようとしていた。
 喫水が深く多くの漕ぎ手を備えた船は、河の流れに逆らう旅をも好調に続けている。心配された揺れも少なく、船酔いしやすい体質の者なども、安堵していたようだ。
 季節は本格的な夏へと移りつつあり、晴れわたった空からは強さを増した陽射しが惜しみなく降りそそいでいた。濃い色の河面が陽光を受け、鮮やかにきらめいている。
 息苦しい船室を嫌い、ほとんどの者が甲板へと姿を現していた。忙しく立ち働く水夫達も、水面を渡る風を受け、ふと手を休めて目を細くする。
 万事申し分のない船旅だった。―― その時までは。
 最初に気がついたのは、帆柱の天辺にいた見張りの者だった。
 時と状況によって櫂と帆を使い分けるこの種の船は、丈高い帆柱を備えている。その最上部に設けられた見張り台からは、この船にいる誰よりも遠くを見はるかすことができた。その見張りが、上流より河を下ってくる帆船を発見したのである。
 それだけならば、なんら珍しいことではない。王都とパルディウム湾を繋ぐこの大河では、常に多くの貨物船や商船などが航行しているのだから。
 しかし……
「王宮よりの急使だと」
 船室で読書していたエドウィネルは、その知らせに眉宇をひそめた。
 帆柱の高い位置に掲げられた旗の紋章は、確かに王宮からの使者であることをあらわしている。そしてその下に長くたなびく、急を知らせる真紅の細布。
 甲板に姿を現したエドウィネルのまわりへと、セフィアール達が集まってきた。
「いったい何があったというのでしょう。殿下ももう、お戻りになるというのに」
 公爵領への滞在は、不測の事態もあり、予定よりもかなり長びいていた。しかし王都との連絡は密に交わしており、既にエドウィネルが帰途についていることも、当然知らされているはずだった。それにも関わらず、あえて使者を差し向けるとなると ――
「なにも私宛の知らせだとは限らない。セクヴァール殿に、何らかの命が下されたのかもしれないからな」
 エドウィネルは船首近くに立ち、近づいてくる船を眺めていた。
 王宮の紋を掲げる使者ともなれば、その向かう先はおおむね一定以上の地位を持つ者に限られる。現在エドウィネル達がいる場所より下流に住まうとなると、想定されるのはまずコーナ公爵だ。仮に最終目的地が大陸沿岸部の諸侯や他国であったとしても、いったんはコーナ公爵領で足を止め、外洋に出る準備を整えるはずである。
 だがその場合でも、こちらに乗っているのが王族である以上、船縁を合わせ、行き先を尋ねるのがしきたりであった。
 向こうの船も、こちらの旗印を確認したのだろう。既に速度を落とし始めている。
 やがて大河の真ん中で、二隻の船が寄り添うように並んだ。安定するよう錨を下ろしていたこちらに合わせ、向こうの船も完全に停泊する。
 どうやら知らせは、エドウィネルに対してのものらしい。
 慌ただしく渡し板が用意され、むこうから数人の人間が乗り移ってきた。
 先頭に立った風采の良い人物に、エドウィネルがわずかに目を見開く。
「キアヌ伯爵。あなたほどの方が使者に立たれるとは、いったい何事ですか」
 長きにわたり内政長官を務める、国王の信頼も篤い重臣の一人だ。そう滅多なことでは王都を動かぬ伯爵が、わざわざ使者の船に同乗してくるなど、ただごとではなかった。
 立派な顎髭をたくわえ、常に柔和な笑みを絶やさぬ伯爵が、いつになく真摯な ―― 強張っているとさえ呼べる表情をたたえ、一礼する。
「恐れながら殿下。誠に申し訳ございませんが、急ぎ王都にお戻り戴きたく、お迎えに上がりました」
「急ぎと、おっしゃられると」
 無論のこと、エドウィネルはまっすぐ王都へと向かう予定である。それは伯爵も知っているはずだ。それにも関わらず、あえて至急と断るからには、なにかただならぬ事態が生じたことを示している。
 あるいは妖獣の大量発生でも起きたのか……
 反射的に思案を巡らせたエドウィネルへと、キアヌ伯爵は沈痛な面持ちを向けた。
「国王陛下が……お倒れになられました。私が出立した段階でもう二日、意識が戻られませぬ」
 おそらく、もはやお目覚めになることはないものと。
 凍りついたかのような沈黙が、あたりを支配した。


*  *  *


 必要な指示を出したのち、ひとり船室へと戻ったエドウィネルは、扉を閉ざすと同時に深く息を吐き出した。
 震える指で服の胸元を握りしめ、うつむく。
「お祖父さま……」
 けして人前では口にせぬその呼び名を、小さく呟いた。
 判っていたはずである。
 『その時』が、もう間もなく訪れるであろうことは。
 代々のセイヴァン国王は、その身に帯びた使命故に、通常よりも早く老いてゆく。若くして即位したカイザールは、むしろ誰よりも長く玉座にあり続けた人物だった。今年七十を数えるそのよわいは、国王としては望外の長寿とも言える。
 覚悟はとうにしていた。否、していたつもりだった。
 だが……こうして現実にその死を間近なものと突きつけられて、彼は己が動揺していると自覚せざるを得なかった。
 早くに母を亡くし、王太子として家族からも引き離され、もはや実の父ですら臣下として膝を折る現在。けして通常の祖父と孫のように、親しく接することができたわけではないけれど、それでも国王とその世継ぎとして、時に厳しく、そして優しく導いてくれた肉親だった。
 誰よりも尊敬してやまない、その人が、失われようとしている。永遠に。
 皺の寄った服を離し、目元を手のひらで覆った。歯を食いしばって、洩れかける声をおし殺す。
「 ―― っ」
 こんな様を、誰にも見せるわけにはいかない。
 悲しみがあるのは当然だ。それを隠そうとは思わない。だが、あの王の後を継ぐ者として、悲嘆になどくれてはいられなかった。自分は人の上に立つ者に相応しく、毅然とした態度で王都へと戻り、己の為すべきことを為さなければ。
 だから、今だけだ。
 余人のいないこの部屋で、ただいまこの時、数分だけは。
 自分が出した指示により、錨を上げ、再び船が動き出すまでのごくわずかな時間。せめてその間だけは、と。
 一人になることを求め、逃げるように船内へと足を向けたエドウィネルだったが……しかし、そんなわずかな望みさえも、彼には許されていないようだった。
 背中越しに、扉を叩く音が伝わってくる。
「……もう、出航か」
 息を整え、どうにか問いかけたエドウィネルに、聞き慣れた声が返った。
「俺だ。話がある。開けろ」
 エドウィネルに対しこんな物言いをする者など、この船には ―― いや、たとえ国中を探したとしても、ただ一人しかいはしまい。
 しばしためらったが、エドウィネルは扉の前から離れた。あえて向き直ることはせず、卓上に置いておいた書物の方へと、手を伸ばす。
「入れ」
 声をかけると、即座にロッドが入室してきた。珍しく静かに扉を閉め、大股に歩み寄ってくる。
「どうしたんだ。急ぎの用でなければ後に」
「急ぎだ」
 言い終わるより早く、答えが返る。短い言葉には、常にない性急さが感じられた。表情を隠そうと、背を向けて頁へ目を落としていたエドウィネルだったが、その声音に気をひかれて振りかえった。
 エドウィネルの顔を見て、ロッドは一瞬眉をひそめた。何かを言おうとしたのか、唇が小さく動く。が、思い直したように、それは呑みこまれた。
「訊きたいことがある。『あれ』について、コーナ公爵はなんか言ってたか」
 本来の用件だったのだろう言葉を、前置きもなく切り出す。
「……あの、『舟』のことか?」
 詮索されないのは、エドウィネルにとってもありがたかった。
 何事もなかったかのように、彼の問いかけを検討する。
 『舟』とは、先だってコーナ公爵領の海上で発見された、正体不明の物体を指す。金属と半透明のモザイク状の物質で形作られた、丸木舟のような形の構造物。生憎それは海面下に沈んでしまい、エドウィネルが実物を見ることはなかった。だが報告を聞いただけでも、それが滅多に目にすることない、風変わりな代物であるとは想像できた。
 しかもロッドが手拭いに染ませて持ち帰った、その内部に満たされていたという粘液は、前日沿岸の町を襲った妖獣の体液と酷似していた。
 妖獣と何らかの関わりを持つ、正体不明の構造物。
 そんな物体についてなど、エドウィネルは聞いたことがなかったし、コーナ公爵もまた、心当たりなどないと言っていた。あるいは国王であれば、何らかの知識を持っているのではないかと、そう期待していたのだが。
「公爵は、なにか判れば知らせるとおっしゃっていた。戻ったら陛下にもお訊きするつもりでいたが、しかしそれも、もう ―― 」
 口ごもる。
 王都に戻ったとしても、もはや国王と話ができる可能性は、低い。
 最後に言葉を交わしたのは、視察に出立する直前のこと。それも儀礼的な挨拶に留まるのみだった。それが永の別れになるなどとは、考えてもみなかった。
「……まだ、くたばると決まった訳じゃねえだろ」
 ぽつりと、ロッドが呟いた。
 思わず見返すエドウィネルから、逆にロッドは目をそらす。そうして彼は、口早に言葉を続けた。
「アレが妖獣と関わりあるもんだってのは確実だ。ジジイが目を覚ませば、なにかは判るだろうよ。だがそれがいつになるのかは判らねえ。もしもなにかが起こった場合、間に合わないってことも考えられる」
「なにか、とは」
「それが判ってりゃ世話ぁねえ」
 苛立たしげに吐き捨てる。
 だが、彼はなんらかが起こるのだと予測 ―― 否、確信すらしているようだ。
 エドウィネルはふと沈黙した。ロッドを見る眼差しに、鋭いものが混じる。やがて、低い声がその唇を割った。
「心当たりが、あるのだな」
 あの物体について、それが何であるのか。そして何をもたらすのか。確たるものではないにせよ、予測できるなにかを持っているのか。
「…………」
 返答は、ない。
 だが視線をそらしたその沈黙は、何よりも雄弁な答えとなっていた。
「ロッド=ラグレー」
 静かな声が名を呼ぶ。
 とても本名だとは思われぬ、滑稽な響きを持つその名を。
 答えは返らない。
 常にまっこうから相手を見つめ、言葉を飾らず、不遜なまでに言いたいことを口にする、この男が。
 視線をはずし、拳を握り、なにかを逡巡している。
「ロッド」
 らしくないそのさまに、語調が強くなる。
 思えば、ロッドはかなり以前から様子がおかしかった。らしくない、まさにその言葉が当てはまる。あれはコーナ公爵領を訪れた頃からだったか。いつにもまして無愛想さが増し、たわいもないことで声を荒げるかと思えば、物思いにふけっているところも、時おり見受けられた。
 なにかあるのか、と。心当たりは、エドウィネルにも無くはなかった。
 だがいまのエドウィネルには、相手を心遣う余裕などなく。唐突にもたらされた衝撃的な知らせに、己を保つことで手一杯で。
 常であれば、もう少し穏やかな態度がとれただろう。あるいは相手がロッドではなく、他の騎士たちやキアヌ伯爵などであれば、それなりにとりつくろってみせられた。
 だが、この男を相手に、そんな努力をしようとは思えなかった。
 苛立ちささくれた気分をそのままに、険のある目でにらみつける。
「はっきり、してる訳じゃねえ」
 煮え切らない返事に、思わず手が伸びていた。
 身体の脇に垂らされた、二の腕をつかむ。無理矢理こちらへと顔を向けさせ、間近からその目をのぞき込んだ。
 翠緑と深蒼の瞳が、互いを映す。
「それでも良い。話せ」
 そもそも、急ぎの話だと強引に入室してきたのは彼の方なのだ。こちらの都合も斟酌せずに現れた以上、そちらの都合で口ごもるなど、勝手ではないか。
「……公爵は、知らないつったんだな」
「そうだ」
 重ねて確認するのに、うなずく。
 ロッドの目に、迷う光が生じた。やがて彼は、絞り出すように呟く。
「なにが起きるかは、判らねえ」
 一瞬、エドウィネルの指に力がこもった。感情のままに口を開こうとしたエドウィネルへと、しかしわずかに早く言葉がつがれる。
「マジで知らないんだ。だから、俺は、戻る」
「……戻る?」
「ああ。確かめたいこともある。公爵領に戻って調べてくる」
「それは任務放棄になるぞ」
 現在のロッドは、エドウィネルの護衛という形になっている。視察途中の王太子が万一妖獣に襲われた場合を想定して、対妖獣騎士の一員として警護に就いているのだ。多分に形骸的なものではあったが、それでも任務の途中には違いない。それを放り出して道を分かつなど、許されることではなかった。破邪における敵前逃亡などとは比較にならない。
 だが、
「今更だろうがよ」
 ロッドは鼻を鳴らして嘲笑した。
 その表情は、いつもの彼のものに近い。力強く、他者からどう思われようと気にすら止めない、そんな傲慢さを感じさせる顔つき。
 エドウィネルは小さく息を呑んだ。
 そうしてふとうつむいたかと思うと ―― こらえ切れぬように失笑した。面を伏せ、くつくつと小さく喉を鳴らす。
 なぜだろう。ひどく……安堵してしまったのだ。いつものような彼の姿に。
 掴んでいた腕を放し、一歩身を退いて肩の力を抜く。
 顔を上げロッドを見つめ返したその瞳は、既に常と同じ穏やかな光を取り戻していた。
「何を調べようというのか知らないが、報告はしてくれるんだろうな」
 問いかける。
「ああ」
「そうか」
 ひとつうなずいて、エドウィネルは書き物机へと向かった。
 引き出しを開け、中から封筒と便箋を取り出す。さらさらと手早く筆を走らせ、書いたものを封筒に入れた。
「これを持って行け」
 熱い封蝋を二三度振って冷まし、差し出す。
 ロッドはいぶかしげに受け取って、表書きに目を落とした。受取手に指名されているのは、次期女公爵、フェシリア=ミレニアナだ。
「私の使いとして、フェシリア殿に手紙を届けてくれ。内容がセフィアールの機密に関わることゆえ、騎士団員以外の者に預けるわけにはゆかぬのでな」
「ふ、ん。なるほどね」
 意図するところを汲み取って、ロッドは意地の悪い笑みを浮かべた。
 つまり彼は任務途上で行方をくらますのではなく、エドウィネルの指示により新たな仕事を与えられるわけだ。
 フォルティスあたりがこれを聞けば、また甘いと言うことだろう。
 セフィアール騎士団を率いる者として、次期国王として、エドウィネルはロッドに命令する権限がある。ロッドが何を危惧しているのか、今のこの場で全て白状させることも、彼にはできるのだ。むしろそうすることこそ、正しい行いなのであろう。
 だが、それでも。
「陛下の事もある。できるだけ早く戻れ」
「ああ」
 刹那、ロッドの瞳が翳る。
 ここから後戻りなどすれば、国王の崩御に間に合わないということも考えられる。そしてこの男は、余人に思われているよりもはるかに、国王へと敬愛の念を抱いていた。少なくとも、エドウィネルはそうと承知していた。
 危篤の報が届いたいまこの時、王都へ戻りたくないはずがない。
 それをおしてもなお、彼は公爵領へ向かおうというのだ。そうするだけの理由が、存在しているというのならば。
「今ならまだ間に合うな。小舟もらうぜ」
「私が直接言おう」
 エドウィネルは外套をひるがえし戸口へと向かった。
 互いに接近した船が反対方向へと別れるのには、細心の注意が必要となる。下手に近づきすぎて船腹同士をぶつけるような事になっては大変だからだ。
 使者の船は、キアヌ伯爵をこの船に移乗させたのち、コーナ公爵の元へ同じ知らせを届けることになっている。河の流れにそって下流へと向かうその船が先に錨を上げ、充分に離れてから、こちらが動き出す手はずだった。今ならばまだ、むこうが進み始めて間もない。小舟で充分に追いつけるだろう。
 足早に甲板を目指すエドウィネルを、ロッドがぴたりと追った。
「誰かあるか。向こうに停船の信号を送れ。それから小舟の用意を!」
 良く通る声で出される指示に、水夫達が弾かれたように動き始めていた。


*  *  *


 フェシリアは、私室の窓から周囲の街並みを眺めていた。
 公爵家の屋敷は、周囲の建物から一階層高くつき出している。フェシリアや公爵の私室は最上階へとしつらえられているため、かなり見晴らしが良くなっていた。
 連なる屋根の向こうには、きらめく水面がわずかに見える。セイヴァンの玄関口、パルディウム湾だ。
 行き交う貨物船と、その合間を縫うように散らばる小舟の姿。
 そのひとつひとつに人が、物資が乗り、積まれ、それぞれの目的地へと向かっている。あるいは内陸へ、あるいは外洋へと舳先を向け、沿岸の各国家や東方南方の諸島を目指すのだ。
 人と物資と情報の、全てがこの港を通じてセイヴァンを出入りする。
 その地を任されるコーナ公爵家は、セイヴァンでも屈指の権力と財力を蓄えていた。政治に関する発言力も強く、当然国王の信任もあつい。
 そのコーナ公爵家の、次期継承者たるフェシリア=ミレニアナ。
 次代の女公爵としてエル・ディ=コーナを名乗る彼女は、現公爵セクヴァールを父に、その側室である北の方を母に持つ、正当なる後継者である。この国においては、継承権に男女の区別などなく、一般に長子相続を旨としている。現在、彼女の兄弟と呼べるのは、腹違いの弟、ファリアドル=ウラヌスただ一人であり、それも未だ七歳という年若さである以上、彼女の継承権に揺らぎなどあるはずもなかった。―― 本来であれば。
 しかし現実において、彼女の立場はひどく微妙なものとなっている。
 フェシリアの母は、セイヴァン北部にある旧家の出である。古き血筋と、美貌を兼ね備えた ―― 言ってしまえば、ただそれだけの女性だ。実家から多くの持参金と共に嫁いできた彼女は、公爵家の側室として何不自由ない生活を送っている。名門の出であることを鼻にかける訳でもなく、常に穏やかに微笑み、貴族としての楽しみと贅沢をほどほどに享受し、日々を過ごす。それはある意味、貴族の姫君としてあるべき模範的な姿であったけれど。
 ―― 毒にも薬にもならぬお方よ。
 フェシリアは実母を指して、そう評したものだ。
 みずからのありように不満も持たず、疑念も覚えず、蝶よ花よとただ守られるだけの存在。娘であるフェシリアに対しても、もちろん愛情を抱いてくれてはいるが、だからといって、苦境にあるからと力を貸してくれるわけではない。いや……そもそも彼女が苦しい立場にあることなど、あの母は気付いてもいないのだろう。
 フェシリアにしてみれば、血の繋がりのある実母よりも、義理の母であるもう一人の側室のほうが、はるかに理解しやすい存在であった。
 西の方と称されるその女性は、フェシリアの異母弟にあたるファリアドル公子を産んだ人物である。公爵はさらにもう一人側室を持っていたが、そちらに子供はいない。
 西の方はフェシリアの母とは対照的に、身分の低い女性である。とはいえ無論、貴族と呼ばれる存在ではあったのだが、それでも特権階級とは名ばかりの貧しい暮らしをしていたらしい。
 半ば容色で取り入るかのように現在の地位を得た彼女は、野心の強い、上昇志向を持っていた。単なる側室の一人で終わる気などない。己の産んだ子に爵位を継がせ、次代公爵の母となるのだ、と。そうした想いを隠そうともしない。
 そしてまた、セクヴァールも彼女の意向に賛同しているようだった。もともと彼がフェシリアを跡継ぎとしたのは、長男であったロドティアスを失ったがための、いたしかない処置であった。後継者を亡くした彼は、早急に次を決める必要があり、側室との間に産まれた最初の子を選ぶしかなかったのだ。その出来如何いかんを問わず。
 だが彼は、かなうものなら信頼できる有能な男児に後を継いで欲しいと願っていた。初めはフェシリアに婿を取ることでそうしようとしていたのだが、ファリアドルが産まれてからは、彼にこそ爵位を譲りたいと考え始めていた。
「もしも、私が男児おのこであったなら……」
 フェシリアは呟き、そうして口元に嘲笑を浮かべた。
 変えること叶わぬ過去に対し、仮定など行ってもなんら益などなかった。まして彼女は、己が女であることを否定しようとも思わない。自分が自分であること。その性別も容姿も気性も、彼女にとって持って生まれたそれは、ごくごく当たり前のものである。より賢く、より気高く、より有能にあろうと努力する、そのことは必要だと考えていたが、それと現在持つものをいとい捨て去ろうとすることは、まったく次元が異なる話だ。
 自身が女であること、見るからにか弱き、繊細な容貌を持つことは、彼女の身に備わった属性である。故に、それを否定し苦悩するなど、まったく時間の無駄というものだった。
 窓辺に立つ彼女の髪を、吹き込む潮風が優しく揺らしてゆく。
「姫さま。いかに夏とは言え、あまり風を浴びてはお身体に障りましょう」
 入室してきた女官が、心配げに告げる。
 彼女は振り返ると、柔らかく微笑んでみせた。この程度で体調を崩すとは思わないが、せっかくの気遣いを無下にすることもない。
 窓から離れながら、彼女はもう一度外を振り返る。
 その目に映っているのは、パルディウム湾ではなく、そこに達する大河の流れだ。
「……エドウィネル殿下は、今頃どのあたりにいらっしゃることでしょう」
「さぁ」
 呟く彼女に、女官は曖昧な相づちをうった。
 フェシリア自身、特に答えを求めていた訳ではない。
 思えば、自分が女性であったからこそ、建国祭における舞踏会でエドウィネルはこの手を取り、結果として自分はこの上ない人脈を得ることができた。次代国王からの、信頼。これ以上心強いものはそうそうあるまい。
 もちろんあの王太子が、現公爵である父と対立してまで、自分を後援してくれるとまでは思わないが。
 そう考えるフェシリアは、エドウィネルの出発間際、彼と父との間で交わされた会話を知らず。
 また、
 遠く遙かな空の下、王太子の元にもたらされた国王危篤の報も、未だ知る由もなかった ――


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