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 楽園の守護者  第十話
 ―― 予 兆 ――  第二章
 ― Makoto.Kanzaki Original Novel ―
 
神崎 真


 荷物の整理はすぐに片が付いた。
 もともとたいした量のものなど持ち込んではいない。衣服の替えといくらかの小物を備え付けの長持ちにおさめると、それでするべきことはなくなってしまった。
 隣室のアーティルトは、解散してすぐにどこかへ出かけてしまったし、さらにその隣のロッドもとうの昔にひとり姿を消していた。今回の随行員としてやってきた騎士達は全部で6名。残りの三人もまた別の部屋を用意されていたが、別段これといって訪ねるような理由も用事もなく。
「はぁ」
 室内に誰もいないのを良いことに、カルセストはおおっぴらに息を吐き出した。丁寧に整えられた寝台へと、乱暴に腰を下ろす。
「自由にしてろったってなぁ……」
 膝の上に頬杖をつき、背中を丸めた。
 訪れたばかりの屋敷。しかもここはセイヴァン屈指の大貴族、コーナ公爵家のそれだ。右も左も判らないし、そもそもそう好き勝手に歩きまわって良いような場所ではない。セフィアールとて、セイヴァンでもっとも高貴と言われる騎士団であり、その一員であるカルセストは確かに相応の敬意をもって扱われる。だがそれでも、彼は未だ成人を迎えたばかりの若輩で、持って産まれた身分と言えば、公爵より二階級も格下の伯爵家の、これまた第三子に過ぎない。
 用もないのに出歩いて、余計な場所にでも迷い込んだらと思うと、なかなか部屋を出る気にもなれなかった。
 が ――
 正直を言うと、用事は幾つかなくもない。
 たとえば、以前から気になっていることを調べるのに、この屋敷には都合のいい人物がいるはずだった。かなうものならこの滞在中に、その相手と会って話をしてみたい。今回の視察に同行することが決まってから、そんなふうに思ってはいたのである。
 ただ問題なのは、その人物がこころよく自分に面会してくれるかと言うことと、そもそもどこに行けばその相手に会えるのかすら、はっきりとは判らないというあたりで。
 それから他にも……
「う〜ん」
 うなり声を上げて頭を抱え込む。しばらくそのまま動かずにいたが、やがて上体を起こすと、今度はそのまま両手を広げて仰向けに倒れ込んだ。ばふっと音を立てて、敷布が背中を受け止める。
 見上げた天井には、ちらちらと揺らめく光が踊っていた。
 屋敷を囲む内堀の水が映っているのだろう。この建物から湾岸に至るまではいささかの距離があったが、人工の水路が築かれ、屋敷内まで直接物資を運び込めるようになっている。また、数箇所に設けられた吊り橋さえ上げてしまえば、内堀の水と高い塀の二つによって、建固な護りをかためられる構造だ。
 カルセストは身体の向きを変えると、窓の方へと視線をやった。
 その動きに別段深い意味はなかったが、ふと外の景色に興味を覚え、寝台から身を起こす。
 三階から見下ろした先には、庭ではなく張り出した二階の屋上部分があった。差し引き一階分ほどの落差が存在しているそこに、見慣れた青藍の制服をまとった姿を見つける。石造りの手すりへと片方の肘をかけ、整えられた庭を眺めている、その人物は……
「ロッドじゃないか」
 先刻、王太子の許可も得ぬまま退出していった男の名を、口の中で呟く。
 いったいあんなところで何をしているのだろう。
 いぶかしむ。どうやらこちらには気がついていないらしい。
 とりあえず声をかけようと、カルセストが口を開いたそのとき ――
「……ッ」
 はっきりとは聞き取れなかったが、ロッドが何かを小さく毒づいた。固めた拳を振り上げ、乱暴に手すりへと叩きつける。
 あたりには、その言葉を向けられたとおぼしき人物は見受けられない。張り出しにも、その向こうの庭にも、人影ひとつ存在することはなく。まして表情を隠すようにうつむいた青年は、誰の姿をもその目に映していないことが、明らかで……
 握りしめられた拳の、丸めた背中の線の、小刻みに震えている様子がここからでもよく見える。
 カルセストは、言おうとしていた言葉を呑み込んで、その背を見下ろした。
「 ―――― 」
 何故、だろうか。
 どこか……見てはいけないものを見ているような、そんな心地がするのは。
 ロッドはまだ、見られていることに気がついていない。
 カルセストはそっと身を引くと、音を立てぬよう注意して窓の鎧戸を閉じた。それから一呼吸おいて、閉めたばかりの鎧戸を、今度は勢い良く押し開ける。
「う〜、良い風だ!」
 大きく息を吸い、あたり中に聞こえるような声を出した、そして窓枠に手をつき、空を見上げて伸びなどしてみせる。
「…………」
 しばらくそのままの体勢でいてから、ちらりと下へ視線を向けた。
 案の定、ロッドは驚いたようにこちらを見上げてきている。
「なんだお前、そんなところにいたのか。何やってるんだ」
 さもいま存在を知ったというふうに言ってやると、途端に顔がしかめられた。
「俺がどこで何やってようと、てめえにゃ関係ねえだろうが」
 いつも通りの憎まれ口が返ってくる。
「お前こそ、王太子ほっぽっといて良いのかよ」
「殿下なら公女様と御歓談中だ。アラヴァスどのが護衛についてる」
「公女 ―― フェシリア=ミレニアナか」
「おい!」
 相変わらず敬称すら付けようとしない傍若無人さに、思わずあたりの気配をうかがった。いかに人影が見あたらないとはいえ、カルセストのいる部屋と並び、まだ幾つもの窓が開いているのだ。誰かに聞かれでもしては大ごとである。
 こんなに離れた位置で言葉を交わしていては、自然声も大きくなってしまう。カルセストは一瞬どうするか迷ったが、すぐに心を決めると、はずしていた剣帯と外套をまとめて掴んだ。足を上げ、窓枠に乗馬靴の踵をかける。
 下は固い石組みだったが、それでもこれぐらいの高さなら、飛び降りることはできた。
 深く膝を曲げて着地の衝撃を吸収する。立ち上がったカルセストを、ロッドは意外げな表情で見下ろしてきた。
「たいした真似するじゃねえか。珍しい」
「うるさい」
 反射的に返しながら、剣帯を腰に巻き外套を羽織る。
 留め具を調整する間、ロッドは立ち去るでもなく、無言でたたずんでいた。カルセストにしてみれば、その大人しさのほうがはるかに珍しいことに思える。
 いつもであれば、目の前でカルセストがこんな振る舞いなどしようものなら、もっと揶揄する言葉を雨あられとぶつけて来かねない。それなのにいまも彼は、ふいと視線をそらし、再び眼下の庭園を眺めやっている。
「殿下から……」
 カルセストは口を開いた。
「夕食までは自由にしていて良いと、お言葉をいただいてる」
 身支度のことなどを考えれば早めに戻ってくる必要はあったが、それでもそれなりにまとまった時間を与えられたことになる。
「夕食まで、ね」
 呟いたロッドに、カルセストは幾分逡巡しながら切り出した ――


*  *  *


 緩い坂になった通りの両脇には、いくつもの露店が軒を重ねるようにひしめき合っていた。
 石畳で舗装された上にむしろを広げただけの粗末な店もあれば、木ぎれと日除け布で屋根を作り、それなりの体裁を整えているところもある。並べられている品は、衣料品や日常の雑貨、装身具など、どの店もさほど代わり映えはなかったが、さすがに名高い交易港とあって、ほかの土地では見かけないような舶来ものも多く目についた。
 呼び込みや値段交渉の声が、かまびすしいほどにあたりを満たしている。
「 ―――― 」
 活気に溢れた喧噪の中、アーティルトはゆっくりと歩を進めていた。慣れた足取りで人混みをすり抜け、時おり足を止めては商品を眺める。
「お、兄さん目が高いね! そいつはザニアの銀細工だ。きれいな石がついてるだろう?」
 透明な紫色の宝石がついた腕環をとり上げた彼に、店主が素早く声をかけてきた。
「安くしとくよ」
 アーティルトは小さくかぶりを振ると、腕環を元の位置へ戻す。それから横へ視線を移し、先端に淡い翠緑の丸石がついた、細い棒を手にした。
「…………」
 片方しかない焦茶色の目をわずかに見開き、指の腹でくるくるとまわす。しなやかな弾力がある褐色の材質。親指の先端ほどもある大粒のぎょくには、よく見れば細かい模様がびっしりと浮き彫りされていた。
「珍しいだろ? かんざしってえ、東方の髪飾りだ。ちょっとよそじゃぁ、見かけない品だぜ?」
 脈ありと見たのか、店主の売り込みが粘っこさを増す。
「300でどうだい」
 アーティルトは小さく肩をすくめると、髪飾りを戻そうとした。慌てたように、店主がその手を押し返す。
「っと、待て待て。せっかちなことすんなって。280にしてやるよ」
「…………」
 ひらひらと手のひらを振って、次の店へ移るべく背中を向ける。
「おいおいおい!」
 店主は陳列台の向こうから腕を伸ばし、やっきになって外套の裾を掴んだ。
「こんな珍品、他の店にゃねえって。幾らなら良いんだよ」
 問うてくる男に、アーティルトはしばし首を傾げるようにして考え込んだ。
 やがて隠しから石板を取り出し、数字を書きつける。それを店主の目の前に突きつけてみせた。
「ぁあッ!? 無茶言うなよ兄ちゃん! それじゃこっちが商売になんねえって」
 いきなり始められた筆談に、店主は悲鳴のような声を上げつつも、慣れたように応対した。異国の人間も数多く行き交うこの街では、言葉の通じない相手と商売することもよくあるのだろう。アーティルトの手から白墨を奪い取り、石板の空いた場所に別の数字を走り書きする。
「これ以上はまからねえぜ!」
 どうだ、と鼻息を荒くするその横で、アーティルトはさらに数字を書き込み、かつりと石板を鳴らす。
「む、むむむ……」
 店主は石板をにらんでうなり声を上げ、アーティルトはその横で腕組みをして待つ。
 そんなやりとりも、この通りではごくありふれた光景だ。あたりをゆく者の誰ひとりとして、彼らに関心を払おうとはしない。


「おい、いつまで考え込んでる気だ」
 不機嫌そうな声に、カルセストはびくりと肩をすくめた。地面にしゃがみこんだ姿勢から、おそるおそるという風情ですぐ傍らに立つ男を見上げる。
「な、なぁ。これとこれ、どっちが良いと思う?」
 両手に一枚ずつ持った壁掛けタペストリを、模様がよく見えるように指し示した。
 底光りする青い目がじろりと動き、鮮やかな色合いの織り目を一瞥する。
「んな安物、どっち選んだって同じだろう」
「なっ、安モンたぁなんだ!」
 カルセストがなにか言うよりも早く、商品を広げていた売り主の方が反応した。
 あぐらをかいていた筵から立ち上がろうとする大男を、ロッドは嘲るように見下ろす。
「織りはずれてるし、色も派手なばっかで品がねえ。舶来は舶来でも、すぐそのへんの島で作った紛い物だろうが。ま、せいぜい払って50が良いとこだな」
「う……ッ」
 赤くなったり青くなったりと、絶句して顔色を変える男に鼻を鳴らす。
「え、え? そうなのか」
 十倍近い額の書かれた値札と売り主を交互に見て、カルセストが目をしばたたいた。ロッドはその襟首を掴み、乱暴にひきずり立たせる。そしてそのまま大股で店の前を離れた。
「お前もちったぁ目ぐらい養え。あんなもん買ってったら、笑われんのが落ちだぞ」
「え、あ……」
 ほとんど真後ろに引きずられながら、カルセストは口をぱくぱくとさせる。
「ったく、壁掛け買いたいっつうから、詳しいのかと思やぁ……」
「しょ、しょうがないだろ。欲しがったのは妹なんだから」
 港町におもむくと聞いた妹が、土産に是非南方の壁掛けが欲しいとねだってきたのだ。なんでも先日、茶会に呼ばれた先で見たそれが、ひどく気に入ったらしい。王都でも手に入らないことはないのだが、さすがに品薄なうえにかなり値が張る。いかに伯爵家の姫君とは言え、彼らの父親はその点かなり質実さを好み、必要以上に高価な品をむやみに買い与えることはしなかった。
 この街で陸揚げされたばかりの品物であれば、それなりの値でそれなりの品が手に入る。とはいえ、同じことを考える人間が数多いだけに、それらを標的とした不当な値のつく紛い物もまた、数多く存在しており……
「目利きができねえんなら、露店なんざ行かず、最初から貴族向けの信用できる店にしろってんだ」
「だ、だが」
「だが?」
 問い返すロッドに、思わず口ごもる。
 そういった店は、信用もあるだけに値も高いから、予算が足りないとは言いにくい。
 セフィアールとしてそれなりに高給を受け取っているカルセストだったが、彼の金銭感覚は貴族にしては比較的まともな部類に属していた。さすがに壁掛け一枚で、庶民の一ヶ月分の生活費ほども支払う気は起こらない。
「ふん」
 沈黙したカルセストに対して唇の端を上げ、ようやくロッドは足を止めた。
「そら」
 顎をしゃくって目の前の店を指し示す。
 先ほどとたたずまいはほとんど変わらない、粗末な帆布を広げた上に何枚もの壁掛けが無造作に並べられた店だった。値札の額面は、さっきとほぼ同じ程度だ。
「今んとこよりゃましな物が置いてある。値段は自分で交渉しろ」
 それだけ言って、そっぽを向く。
「あ、えっと……」
 一瞬、状況が判らずぽかんとしたカルセストだったが、やがて口の中ですまんと呟き、商品へとかがみこんだ。落ち着いた色合いの織物に手を伸ばす。
 正直なところ、さっきまで見ていた品とどこがどう違うのか、カルセストにはほとんど判らなかった。だがまあ、この男がここまで偉そうに言うからには、信用できるのだろう。たぶん。
 何種類かの柄違いを並べてうなり始めた彼をよそに、ロッドは腕を組んで立ち尽くしていた。手持ち無沙汰な様子でぼんやりとあたりを眺めている。
 と、
 ふいにその表情が変わった。
 腕組みを解き、軽く手を振る。
「 ―― おう」
「…………」
 人混みの間から、同じように手を挙げて歩み寄ってきた青年を迎えた。
「あれ? アートさん」
 顔を上げたカルセストに、アーティルトはにこりと微笑んでみせる。
「アートさんも買い物ですか」
 問いかけには、片手で抱えた幾つかの包みを示すことで答えた。
「……まぁたおひいさんへの土産か? まめなこって」
 彼がエドウィネルの異母妹ユーフェミア公女の元へ足しげく通っていることは、騎士団の者なら誰もが知っている。そして破邪の任で遠出をするたび、地元の珍しい品物などを土産としているのも、わりあいに知られたことだった。
 よほど良い買い物をしたのか、機嫌よさげに指文字を綴る青年を、ロッドは薄笑いを浮かべながら相手する。
「ああ、こっちはこの世間知らずが、市場の場所知らねえかってぇからよ」
 いささか気に障る言葉が聞こえてくるが、嘘を言っている訳ではない。世話になったことも事実なので、なんとか黙殺し、店主に金を払う。
 包んでもらった商品を受け取って立ち上がったカルセストを、二人は同時に振り返った。
「すんだか」
「ああ。 ―― 助かった」
 小さく頭を下げたカルセストに、ロッドは軽く肩をすくめただけできびすを返す。
 む、と唇を尖らせたカルセストの背を、苦笑いしたアーティルトが叩き、後に続いた。
「どこに行くんだ」
 先に立ち大股で歩くロッドへと、足早に追いついたカルセストが問いかける。自分の用事で公爵の屋敷から引っ張り出してしまったが、彼にもなにか目的があるのだろうか。先に同道してもらったのはこちらだからつきあうのにやぶさかではないのだが、行き先ぐらいは確認しておきたい。
 だが、ロッドからの返答は素っ気ないものだった。
「別に。歩いてるだけさ」
「歩いて……って」
 思わず周囲をぐるりと見わたす。
 あたりにあるのは、なんの変哲もない石造りの街並みだ。歩を進めるうちに露店の集まった一角を抜けたらしく、王都のそれとそう変わらない、ごく見慣れたものに似た景色が続いている。
 この街の歴史は、存外に古い。セイヴァンはもともと星の海ティア・ラザ沿岸から発達していった国だが、水運による機動力を重く見た祖王は、早い内からパルディウム湾の開発へと手をつけていた。故にこのあたりの街並みは、王都の中心部と同じく祖王によって設計・建造されたものだ。湖と海洋という違いはあっても、共に水運を重視して行われた都市計画は、当然ながら非常に似通った風景を二つの土地にもたらしている。
 網目状に広がる運河と石橋、人や物資を乗せて行き交う幾つもの小船。建物や施設の多くは、いまだ湾内に妖獣が跋扈していた時期に建造されたものが、今でもそのまま使用されている。市街のそこここに防壁や水門、落とし戸などの、妖獣を防ぐための設備が数多く遺されていた。
 だが、大気に入り混じる潮の香りと行き交う人々の風俗が、ここは慣れ親しんだ場所とは異なる土地であるのだと告げてくる。
 どこか異国の空気が漂っているかのような、不可思議な感覚 ――
「あの男……」
 我知らず呟いたカルセストの視線を、残る二人が追った。
「獣人だな。あの毛色だと北の方の出だろ」
 ロッドがあっさりと言う。
 その目が向いた先にいるのは、長い銀灰色の尾を持った男だった。ふさふさとした毛皮に覆われたそれが、洋袴ズボンの尻から垂れてゆったりと揺れている。その他の部分はとりたてて変わっているようには思えなかったが、よく見れば耳がいささか尖っていた。袖無しの上衣を着て、たくましい両腕をむき出しにしている。その肘から手首にかけて、尻尾と同色の毛皮を巻きつけているようだったが、この暑い土地では、いくら夏には早いといえど不自然な服装だ。もしかしたら、あの毛皮も肉体の一部なのだろうか。
 まじまじと見つめてしまったカルセストの前で、視線を感じたのか男が振り返る。
 慌てて目を逸らしたが、一瞬まっすぐにのぞき込んでしまった相手の瞳は、縦に長い異形のそれだった。
「言っとくが、このへんは内陸と違ってけっこう亜人が多いからな。あんまりじろじろ見てっと、因縁つけてるのかと思われるぞ」
「そ、そうなのか」
「特に下町の方じゃ気の荒い連中が多い。へたすりゃ、路地裏引きずり込まれたあげく、身ぐるみ剥がれてぽいってなことになるぜ?」
「おどかすなよ! 我々はセフィアールだぞ。手を出したりなんかしたらどうなるか、彼らだって……」
 目に鮮やかな青藍の制服。銀の細剣と指輪。この国に住まう者なら、誰もが知っている破邪の騎士に対し、よもや ――
「セフィアールが亜人達に何をしてきたか。こっちが忘れてたって、向こうは覚えてるもんさ」
 ロッドの言葉に、カルセストははっと息を呑む。足を止めることなく先へと進むロッドが、どんな表情をしていたのかは見えなかった。ただ小さく肩を動かした仕草だけが、その後ろ姿からうかがえる。
「誰が何をやったかなんざ、当人が証言しなけりゃ、誰にも判らねえしな」
 たとえ貴族に連なる高貴な身分の者が不当な目に遭わされたとしても、それを証明できないようにする方法など幾らでもある。根深く強い恨みに突き動かされた人間は、少々手間のかかるような後始末でも、いとわずやってのけるものだ。
 死人に口なし。いやそれどころか、そもそも死体さえ出なければ、ことは単なる失踪で終わりを告げる。動機など、周囲の者がよってたかって適当に作り上げてくれるだろう。
「…………」
 言葉を無くしたカルセストを救うように、アーティルトがロッドの肩に手を置いた。
 なんだと振り返る目の前で、数度指を動かす。
 眉をひそめるロッドに、だめ押しのようににっこり笑った。ロッドは嫌そうな表情をしながらも、しかたねえなと呟いて歩く方向を変える。
「……アート、さん?」
 いったい何を言ったのかと問いかけるカルセストに、アーティルトは道の先を指差してみせる。
『疲れた。少し、休む』
 指し示した先にあるのは、酒場の看板だ。
 そうしている間にも、ロッドはさっさと歩を進め、ひとりで店の中へと入ってゆく。
 確かに、船に揺られた長旅を終えてすぐ人混みに揉まれ、いささか疲れがではじめていた。土産も無事手に入れたことだし、少し休憩した方が良いだろう。
「このへんは、どんな酒がありますかね」
『芋の酒が、おいしい。蒸留した、透明の』
「へえ」
 そんなことを言い交わしながら、彼らもロッドの後へと続く。
 日没までには、まだもうしばらく時間がある ――


*  *  *


 樹々の合間から見上げる空は、わずかに蜂蜜色を帯び始めていた。
「陽が落ちる頃には、麓の街にたどり着けそうだな」
 馬上でレジィが呟くのに、半馬身後ろで馬を歩ませているバージェスが、こわい髭をしごきながら答えた。
「奥方様があんまりお引き留めなさるんで、間に合わないかと冷や冷やしましたぜ。さすがにこの山道を夜になってから進むのは、かなり危のうございますからねえ」
「そう言うな。あの方も悪気がおありだった訳ではない」
「自覚がないってぇのは、余計に始末が悪いんじゃねえですか?」
「む ―― 」
 飄々としたその物言いに、レジィは思わず返す言葉に詰まる。
 レジィとその副官であるバージェスは、フェシリアの使いで、ある未亡人の館を訪れていた。未亡人とは言っても、既に五十も過ぎた老婦人だ。政略結婚の常でかなり年の離れていた彼女の夫は、とりたてて早世したと呼べるほどでもない。
 コーナ公爵よりひとつの市を任されていた夫が死んだのち、その跡は彼女の息子が継いでいた。既にその息子も結婚し、孫が産まれている。もはや後顧の憂いもなくなった老婦人は、市街の喧噪は性に合わぬからと、人里離れた山中の別宅へと居を移し、穏やかな余生を過ごしていた。
 気性の優しい老婦人は、まだ夫が健在の頃に視察で訪れた幼い公女を、しごく気に入り可愛がってくれた。それをきっかけに、季節の折々には手紙や贈り物をやりとりすることが始まり、その習慣はフェシリアが成長し、婦人が隠棲してからも変わらず続いている。
 此度のレジィの訪問は、この春の建国祭で王都を訪れたフェシリアからの土産と、手紙を届けることが目的だった。本来ならもっと早くにやってくるべきだったのだが、忙しさにとり紛れ、こんな時期になってしまったのだ。
 別に他の人間を遣わしても構わないと言えばそれまでなのだが、それでも信頼がおけ、かつそれなりの身分を持つレジィを派遣するあたりに、フェシリアの老婦人に対する思い入れがかいま見える。
「あの方も、お寂しいのだろうよ。騒がしいのが性に合わぬのも本当だろうが、それでもあのお屋敷は静かすぎる」
 茶のお代わりはどうか、珍しい菓子があるがと幾度も引き留められ、なかなか席を立つきっかけがつかめなかったことを、バージェスはしきりにぼやいていた。屋敷から麓の街までは、騎馬でもそれなりに時間がかかる。慣れぬ山道だけに、余裕をもって出立したかったようだ。
「とにかく、早く下りてしまおう。あまり遅くなってはメルフデスどのもご心配なさる」
 とうの息子である現市長の名を出し、レジィは手綱をとりなおした。今宵は市長の館で一泊し、明朝出発する予定になっている。日のある内に戻ってくるはずだった彼らが姿を現さないとあれば、何事か起きたのかと心配されるだろう。
 レジィの言葉を受けて、バージェスも馬足を早めた。


 枝葉を透かして麓の街並みがのぞめる頃になって、唐突にレジィが手綱を引いた。
 乗り手の意に素早く反応し足を止めた馬の上で、彼女は伸び上がるように景色を見はるかす。
「どうかなさったんで?」
 バージェスもまた轡を並べ、いぶかしげにレジィの視線を追った。
「あれは……」
 眉をひそめるレジィの傍らで、バージェスが目を凝らす。
「煙、ですな」
 山と海辺との間にできたわずかな平地に、へばりつくように密集する街並み。その一角、ちょうど家々と海との境目に近いあたりから、黒ずんだ煙が一筋上がっていた。火事や焚き火のそれにしては細くささやかな、しかし遠目にもはっきりと目立つ、黒煙。
狼煙のろし ―― なにかの合図か」
「そのようで」
 レジィの呟きに、バージェスがうなずく。
 二人は素早く視線を交わすと、馬首を巡らせた。ぴしりと鋭い音を立てて鞭を鳴らし、馬を走らせ始める。
「無理はするな。お前は後から来い」
「それはこっちの台詞ですぜ!」
 石や木の根の散在する荒れた山道をものともせず、二頭の騎馬が疾走してゆく。


 その行く手に待つものを暗示するかのように、たなびく狼煙は風に吹き散らされ、空を黒く汚し始めていた ――


(2002/5/15 10:02)
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