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 楽園の守護者  番外編
 ― 契約 ― 中編
 ― Makoto.Kanzaki Original Novel ―
 
神崎 真


 領内の復興作業も終盤に向かいつつある、そんなある日のこと。
 人々がせわしなく立ち働く土木作業現場の一画へと、場違いな一団が姿を見せていた。
 そこここに木製の足場が組まれたそこでは、分厚い石の防壁を建造している最中である。もしもまた同じように妖獣の襲撃が起こった場合に、それを効率よく防ぐためのものだった。
 できるだけ日常の行き来は妨げぬよう、広い開口部を多数設けているため、普段はその存在すら意識されることは少ないだろう。だがひとたび事が起これば、準備された頑丈な門扉が出入口を閉ざし、警備兵達の手によって土のうが積まれる手はずだった。人々の避難経路については、壁面に設置された石段を利用する形になっている。厚みのある防壁の上部には、兵士が余裕を持って行き来できるだけの空間を確保し、妖獣に対して弓や投石などで攻撃する設計だ。
 多くの労働者達が入れ代わり立ち替わり重い石材を運び、大声で合図をしつつ、積みかけの防壁上へと綱と滑車で吊り上げている。誰も彼もが汗と砂埃で汚れているが、活気のあるその働きぶりは、見ていて一種の爽快さがあった。
 肉体労働に従事する男達と一線を画した装いの集団は、ゆっくり歩を運びながら、それらの様子を観察している。
 派手でこそないが見るからに高級な仕立ての衣服を身に着けているのは、コーナ公爵領内の政治経済を動かす官僚達だ。普段は直接現場に足を運ぶことなどなく、書面上ですべての手配を行い、労働者達を指先ひとつで動かす役人である。
 その中でもことのほか存在感を持っているのが、土木部門の総括管理官ザイードだった。
 そしてその傍らには、やはり装飾を押さえてこそいるものの、それでもこんな場所では強烈な異彩を放つ上品な装いの女性 ―― 女公爵フェシリアの姿がある。
 紙に書かれた情報や部下からもたらされる報告だけではなく、実際に現場の様子を見聞きするのもまた、大切なことだとフェシリアは考えている。もちろんわずかな時間、表面上を見て歩いたところで、簡単に問題を発見できるはずもない。しかし幾度もそうした経験を重ねることで、培われる感覚は確かにあった。雰囲気という曖昧なものを肌で感じることも、それはそれで必要なことだ。
 なによりも、上に立つ人間がその姿を見せるという行為が、下の者へ与える影響は大きい。
 無論のこと、空気を読まない行動で作業の邪魔をしたり、失笑ならばまだしも反感を買ったりしては、本末転倒だ。あくまで自分達は門外漢であることをわきまえた上で、実際に現場で働く者の技術を高く評価しているのだと、それとなく態度で示すこと。そして上位にある者がいつ訪れるか判らない前例を作ることで、馴れ合い緩みがちな労働者達の気持ちを引き締める。それが重要なのだ。
 防壁の具体的な設計や作業の進捗状況、運ばれてきた資材の品質からかかった費用など、熱心に説明するザイードの言葉にうなずきながら、フェシリアは優雅に歩を進めてゆく。
 長い裳裾が柔らかく揺れ、小さな靴の爪先がわずかに覗いた。
 細かい土埃が靴や裾を汚すが、それを気にする様子は見せない。砕けた石の欠片や足場用の木材が散らばる中を、ザイードに片手を預けて導かれてゆく。そんな彼女に思わず作業の手を止めて見返ってくる人々には、かすかな笑みとともにうなずいてみせていた。
 ―― ご苦労。そなた達の働きは、確かにこの目で見ているぞ。
 無言のうちにそう伝える。
 美しくも力強い微笑みを向けられた男達は、はっとしたように姿勢を正すと、慌てて一礼する。そうして次の瞬間からは、いっそう熱を入れてそれぞれの仕事を再開するのだった。

「……今のところ、工期に遅れはないようだな」
「はい。この数日は天候が安定していたこともあり、むしろ予定よりもいくらか進んでいると申せます」

 そびえる高い石積みを、フェシリアは目を細めて見上げる。木製の足場で覆われたそれは、既に大人の背丈の三倍を越える高さがあった。完成時には、三階建ての屋根と並ぶはずである。
 傍らに付き従っているラスティアールが、感嘆の表情を浮かべていた。図面上で数値を眺めるのと、実際に作られた建造物を目にするのとでは、やはり感じる迫力がまったく異なっているのだろう。
 一方で、やはり一行に混じっていたロッドは、防壁よりも立ち働く人々の様子に注意を向けているようだった。幼い頃から身ひとつで各地を放浪していたこの男は、規模の大きな工事現場で日銭を稼いだ経験もあるし、また貴族や資産家達が住む贅を凝らした屋敷なども、数多く目にしてきている。いわば見慣れているのだ。
「おいそこの! 怪我してんじゃねえのか」
 片手に血のついたぼろきれを巻いた人物を見つけ、いきなりそんな声をかけている。息を呑んで立ちすくんだのは、まだ子供と呼んでも良いぐらいの、あどけなさを残した少年だ。どうやら資材を満載した大八車の後ろを、もう一方の腕で懸命に押していたようだ。
「……えっ、あ、あの。大丈夫です。ちゃんと働けます!」
 少年は、慌てたように傷ついた手を背中に隠した。おそらくここで働いて賃金をもらわなければ、生活が苦しいのだろう。もしかしたら親がいないか、幼い弟妹でも持っているのか。一家の中で重要な働き手であるのかもしれない。負傷を理由に仕事からはずされてしまっては大変だと、そう思っているのが必死の表情から読みとれた。
 ロッドは苦虫を噛み潰したようにその反応を見ていたが、やがて懐を探ると、綺麗に洗ってある手拭いを取り出した。さらに腰につけた物入れの中から、器に入った練り薬を出す。
「おら」
 つきつけられた二つを、少年はきょとんとした目で見つめた。いったいなんのことか判らないらしい。
「傷口は不潔にするな。腐って身体に毒が回るぞ。すぐに洗って、こいつを塗ってこい。おいお前、このガキしばらく借りるぞ!」
 大八車を誘導していた、監督者的立場にあるらしい男へと乱暴な口調で告げる。
 は、はい、と答えが返るのを確認するより早く、ロッドは少年の頭部をわし掴みにし、引きずるようにして場を離れた。遠くに見えている水場を目指して、大股に歩いてゆく。
 否も応もない一方的な行動を、一行は呆れたように見送った。フェシリアとラスティアールには苦笑の色があったが、他の面々は呆然としているか顔をしかめているかだ。
「作業中に負傷した者について、対応はどうなっている」
 フェシリアの問いかけに、ザイードははっと我に返ったようだった。一度咳払いをして気分を切り替え、それから記憶をたどる。
「……もちろん現場内に救護所を設け、治療を受けさせておりますが」
「治療を施した後は?」
「それは……入院を必要とするような重傷者は、一般の医者へ後を任せております。ここで行うのは、応急処置に過ぎませんので」
 現場内の救護施設は、あくまで作業中に負傷した人間を、その場で手当てするためのものだ。当然、入院用の宿泊施設などは付随していない。
「そうではない。負傷者への補償は行っているのか。よもや治療費を取ったりなど、しておらぬだろうな」
 薬も医者の技術も、けして無料ではない。むしろ商品としては高価な部類に入るだろう。貧しい庶民の中には、たとえ不調を感じても満足に医者へかかることができず、些細な傷病で命を落とす者も多かった。
 故に危険な作業中に負傷した場合でも、あえて治療を拒む者がいて不思議はなかった。下手に医師の手当てなど受けて、高額な借金を背負う羽目にでもなっては、本人だけでなく家族までもが共倒れとなるからだ。
 そのあたりのことを、ザイードは理解できていないらしい。裕福な家に生まれ育ち、体調を崩せば当前のように医者を呼んでいた彼のような存在には、治療に必要な金が家計を傾ける貧しさというものなど、想像すらできないのだろう。
「……作業中に負傷し治療を行った者については、責任を持ってその入費ついえを施工予算から負担するよう徹底せよ。それから、重度の傷で仕事からはずれざるを得なくなった場合は、その者に支払う予定だった日当の、十日分を見舞金として支払うように」
「は、いえ、しかしそれは……」
「何か問題があるか」
「恐れながら治療費については、まだよろしいでしょう。しかし見舞金まで出すのは、いかがなものかと」
 ザイードは心底から困惑しているようだ。
 彼にしてみれば、自分の不手際で負傷するような『使えない』人間に対し、どうして金など払ってやらねばならぬのかと、そういった考えがある。
 しかしフェシリアは異なった。
「怪我を負うのは、監督者の指導が悪いからだ。無能な者は無能なりに、簡単な仕事を安い賃金でさせれば良い。手際が悪い人間にはさっさと見切りをつけて、そちらへ回してしまうのだ。手際の良し悪しも見極められぬような、無能な監督者を放置しておるのなら、それはそなたの怠慢だぞ」
 フェシリアの目が、冷たい光をたたえてザイードを見やる。
「充分な数の労働者がおらねば、どれほど立派な設計図を引いても、実物は完成せぬ。労働者が安心して作業に従事できる環境を整えぬ限り、まともな人手は集まらぬぞ」
「なるほど……さすがのご深慮、私如きはとても及びません」
 興奮に顔を紅潮させてうなずくザイードから、フェシリアは視線をはずした。
 薄墨色の瞳が、立ち働く人々の上をゆっくり撫でてゆく。
「良いか。領民こそが、なによりの財産ぞ。彼らが懸命に働き、物資を流通させ、税金を納めているからこそ、領地の運営が成り立っておるのだ。それをゆめ忘れてはならぬ」
「はっ」
 ザイードが姿勢を正すその後ろで、続く一行の間には微妙な沈黙が流れていた。
 フェシリアの言葉に納得している者もいれば、不満を感じている者もいるようだ。しかし表立って反論する人間は、誰一人いなかった。
 手当てを終えたらしい少年が、小走りに駆け戻ってくる。傷口を覆っているのは、染みひとつない清潔な手拭いだった。きっちりと緩みなく縛られたそれは、明らかに医療の心得がある者の手によって施されたものだ。
 そのはるか後ろから、親指を腰帯ベルトにひっかけたロッドが、のんびりぶらぶらと歩いてきている。少年は大八車へ飛びつくと、元気良く作業に戻った。
 その様子を笑みと共に見届けたフェシリアは、再び一歩を踏み出す。わずかに遅れてザイードら一行がその後に続いた。
 それからも救護施設の実状や、港からここまで石材を運搬している様子を眺め、足場の途中まで実際に上ってみたりと、視察は順調に進んでいった。
 木製の軋む足場を上り下りする際には、作業員も含めた一同が手に汗握って気を揉む一幕もあった。しかしそれも最後の一人が無事地に足を着けると、皆がほっと安堵の息をついた。
 先に立ってフェシリアの手を引いていたザイードが、思わずと言ったように笑顔を見せる。フェシリアもまた、引き締めていたその表情をわずかにほころばせた。
 ―― その、瞬間。
 誰もが緊張を解いたその一瞬を狙いすましたかのように、頭上からせっぱ詰まった叫び声が響いた。ぎょっと見上げたその先で、縄で縛り合わされていた足場の材木が、ゆっくりとかたむき始めている。滑車で吊っている石材がおもりの役割を果たし、組み上がった足場全体を梃子の原理で防壁から引き剥がしていっていた。
 悲鳴と共に、作業員達が逃げまどう。何人もの男達が、死に物狂いの動きで足場板から積みかけの防壁へと次々に飛び移ろうとし、幾人かは届かずそのまま落下していった。

「ひ ―― ッ」

 真下にいた視察団の一行も、悲鳴を上げる余裕すらなく逃げだした。防壁から少しでも距離を置こうと、必死の勢いでまろぶように走る。
「……ッ!?」
 フェシリアもまた咄嗟に駆け出そうとしたが、その爪先が長い裳裾を踏みつけた。がくりと姿勢が崩れ、膝を強く地面に打ちつける。反射的に手をつき倒れ込むことこそ免れたが、思わず降り仰いだ顔が愕然とした表情に染まった。
 その頭上へと、崩れた木材が無情に降り注いでくる。
「フェシリア様ッ!?」
 誰かの呼ばわる絶叫が、雪崩落ちる足場の巻き起こす轟音にかき消され ――


*  *  *


 もうもうと立ちこめる砂埃が、少しずつ風にさらわれていった。
 遮られていた視界が、じょじょに鮮明になってゆく。
 目にすることができた惨状に、一同は言葉を失って立ち尽くした。
 足場の木材が、百歩ほどの幅にわたって崩れ落ち、地面を埋め尽くしている。足場同士を結びつけていた縄が何箇所も千切れ、折れた材木がささくれた先端をそこここから突き出していた。
 足場もろとも高所から転落した者や、逃げ遅れて下敷きになった者がいるらしく、苦しげな呻きが風に乗って聞こえてきた。もがくその手足が、隙間からわずかにのぞいている。
 しかし、それらを助けようと動く者は、ほとんどいなかった。
 誰もが血の気の失せた蒼白な顔で、ひとつの方向を凝視していた。
 ひとつの ―― すなわち、つい先刻まで女公爵フェシリアがいたはずの、その場所をだ。
 そこもまた、積み上がった材木によって覆われていた。
 太い木が何本も絡み合い、防壁の前で小山をなしている。
「フェ、フェシリア……さま……?」
 呆然とつぶやいたのは、ザイードだった。
 この男はかろうじて、安全圏まで逃げ延びていた。しかしほんのついさっきまで手を握っていたはずの主君が、材木の下敷きとなったのを目の当たりにして、ただただ呆気にとられることしかできないでいる。
 ザイードの声を聞いて最初に我に返ったのは、他でもないラスティアールであった。
 フェシリア=ミレニアナ個人に対して忠誠を誓っているこの侍従文官は、一時の衝撃から立ち直ると、素早く周囲へと視線を投げかけた。
「動ける者はすぐに集まれ! 公爵様をお助けしなければ!!」
 その言葉に、周囲の者達がようやく硬直から解き放たれてゆく。
「まずはこれ以上の崩落を防がないと。ザイード様、指揮を執って下さい。残った足場の補強と、負傷者の救出を!」
「わ、判った」
 行動指針さえ示されれば、ザイードの差配は的確だった。
 てきぱきと現状を把握し、無傷だった労働者をまとめ上げる。そうして彼らをいくつかの集団に分けてそれぞれ責任者を任命し、担当すべき作業を割り振ってゆく。
 未だ不安定に揺れている足場を、直せない部分は分解し、残っている部分は手早く補強する。二次災害の危険が除かれたところで、散乱している資材の撤去と負傷者の救出が始まった。
 救護施設からは医師が駆けつけ、助け出された人々の手当てにかかる。ラスティアールは伝令を出し、追加の医者と治療に必要な物資を至急寄越すよう手配した。
 時間は刻一刻と過ぎてゆくが、防壁のすぐ近くにいたフェシリアの元へ到達するには、まだまだ掛かりそうだった。一行の間に焦りの色が見え始める。知らせを受けて、フェシリアの屋敷やその他有力者達のもとからも人々が集まってきた。
「フェシリア様……」
 真っ青な唇で、ラスティアールが作業を見守る。
 ザイードもまた、死人のような顔色でその隣に立っていた。出せるだけの指示を出してしまったあとは、もはや見ていることしかできずにいるのだ。
 いつしかあたりは、水を打ったように静まり返っていた。
 聞こえるのは負傷者の漏らす苦痛の呻きと、瓦礫を取り除く音ばかりだ。
 誰もが固唾を飲んで、少しずつ露わになってゆく先を凝視している。
 やがて ――
 重なり合う材木を動かしたひとりが、急に驚きの声を上げた。慌てたようにかがみ込み、木材の隙間へ顔を寄せている。
「おい! 誰かいるのか!?」
 大声でそう呼びかける。
 その言葉は、静まり返った周囲に、やけに響きわたった。返答を待つために、しばらく耳を澄まして沈黙する。そうして次の瞬間、その男は歓声を上げた。
「公爵さまですか! 本当に公爵さま!? お怪我はございませんかッ!?」
 隙間に向かって叫ぶその声に、応じる言葉は聞こえなかった。しかし問いかけた男の耳には届いたらしい。表情を輝かせて、見守っていた視察団を振り返る。
「公爵さまのお声がします! 大きな怪我はないと、そうおっしゃっておいでです!!」
 そう告げられた途端、あたりはどよめきに満たされた。
 この状況で、フェシリアの無事を信じていた者など、誰一人としていなかったのだ。彼女がいた位置では、どう考えてもまず助からない。たとえ命はあったとしても、確実に重傷を負っているはずだった。それが意識を保っているどころか、はっきりと会話できる状態にあるとは、まさに奇跡としか思えなかった。
 ラスティアールとザイードが、真っ先に動く。
 未だ散乱する材木を乗り越えよじ登り、男を押しのけるようにして隙間へと顔を近づける。
「フェシリア様! ラスティアールですっ! ご無事ですか!?」
「ザイードでございます! すぐにお助けしますから、どうかお気を確かにお持ち下さい!!」
 先を争って叫ぶと、返答を聞き取るべく耳を寄せた。
 やがて、小さいが鋭く通る声が、はっきり二人の元へ届く。
「二人とも、私には大事ない。だが急いでくれ」
 落ち着いたそれには、しかし明らかに焦燥の響きがあった。
「位置はよく判らぬが、幸い被さっている木はそう多くない。光が見える」
 しばらく言葉が途切れた。それからなにか、良く聞き取れない声が数語続く。やがてわずかに離れた位置で、ミシリと積み重なった材木が動いた。
 皆がハッとそちらの方向へ視線を集中させる。
「 ―― フェシリア様!?」
「判ったか? いま動いた場所だ。急げ!」
「はっ」
 異口同音に拝命して、二人は立ち上がった。振り返って人々に指示を飛ばす。
「今の場所にフェシリア様がおられる! 急いでお助けしろ!」
「ただし気をつけろっ。間違っても押し潰すような真似はするな。慎重に作業せよ!!」
 応じる声は、明るく希望に満ちたものだった。
 それまでとは異なり、作業にかかる男達の動きも活気を取り戻している。何人もの屈強な労働者達が、協力して積み上がった材木を取り除いていった。
 そうして彼らは、困惑の声を上げる。
 どうしたのかと眉をひそめた二人の耳に、低く掠れた悪声が届いた。
「……ッあー、クソ」
 これみよがしな舌打ちと共に、砂埃にまみれた青い塊が動く。
 それはまだ残っている数本の材木を押し上げるようにして、隙間から姿を現した。がらりと音を立てて、太い木が転がり落ちる。伸び上がった身体は一度大きくふらついたが、それだけでなんとか踏みとどまり、頭から埃とを払い落とした。
「ったく、ヒデェ目に、あったぜ」
 顔を歪めて唾を吐いた。
 それは、こんな時でも変わることない口の悪さを誇る、不良破邪騎士その人の姿であった。
 そう言えば足場が崩れたあの瞬間からこちら、この男の姿はどこにも見られなかった。抜群の運動能力を誇るこの男が、よもや逃げ遅れていたとは誰も思わずにいたし、そもそもフェシリアの安否に気を取られ、彼のことを気にかける者など一人としていなかったのだが。
 その男が、どうしてフェシリアが埋まっているはずの場所から現れたのか。
 脳内で疑問符を浮かべる一同をよそに、一度払った濃紺の外套マントを胸元へ引き寄せたロッドは、続いて足元に向かって逆の手を伸ばした。
「……おら」
 短い声に応じて、隙間からほっそりとした手がさしのべられる。
 象牙色の繊手は褐色の手のひらにしっかりと捕まり、そうしてフェシリアが穴から上体を現した。ロッドの手を支えに木材の間で立ち上がる。
 長い裳裾はところどころ無惨に裂け、見る影もなく汚れている。靴は両方とも失っているし、長い黒髪もほつれ乱れてひどい状態だった。
 それでも彼女は、自身の足でしっかりと立っている。擦過傷らしきものはいくつか見受けられたが、骨折や裂傷といった大きなそれはないようだ。

「 ―― 皆の者、心配をかけたな」

 落ち着いた低い声が、見守る人々に向けて発せられた。
 強い意志を宿した薄墨色の瞳が、人々を映してきらめく。
 感極まったかのように、ザイードが叫んだ。
「 ―― フェシリア様!」
 その言葉を呼び水として、皆が口々にその名を呼び始める。拳を振り上げ、足を踏みならし、あたりはたちまちのうちに歓喜の声で満たされた。
 しばらくの間、フェシリアは無言で歓呼を浴びていた。
 やがてその右手が、すっと掲げられる。
「…………」
 途端、嘘のような静寂が落ちた。
 フェシリアが大きくその息を吸う。

「みなの気持ちは、ありがたく受け取ろう! だがまだ負傷者が残されておるはずだ。至急、救助活動を再開し、すみやかに全ての者を助け出せ!」

 凛とした声が、貫くように響きわたった。
「ザイード!」
「はっ」
「この一帯の監督担当者をいますぐ拘束せよ。そして他の監督者も集めて、残った足場の耐久性を点検させろ。それから工事全体の安全管理をすみやかに見直せ。同じ事故が二度と起こらぬよう、徹底せねばならん」
 力強いその命令に、ザイードは言葉もなくこうべを垂れた。
 指示を出し終えると、フェシリアはロッドにその手を預けたまま、足を踏み出した。不安定に積み重なった材木を踏み、よろめきながらも歩き始める。
 それを見たラスティアールが、慌ててフェシリアへと近づいていった。つりあいを取ろうと宙を泳ぐもう一方の手を素早く支え、その歩みを助ける。
 ロッドとラスティアールに両手を引かれ、フェシリアはようやく安全地帯へと生還した。すぐさまラスティアールが手近な人間を呼び寄せる。
「近くの建物に部屋を用意し、サントス医師を呼びにやれ。湯浴みの準備と替えの衣装もだ」
 公爵家専属の医者を迎えに行くよう指示し、さらに邸宅から女官を呼ばせようとして、フェシリアに制止される。
「良い。このまま屋敷へ戻る」
「は、ですが……」
 今の状態では、わずかな距離の移動でも辛いはずだ。多少設備は落ちるとしても、近くの有力者の館か高級宿で手当てを受けた方が良いのではないか。逡巡するラスティアールへと、フェシリアはさりげなく顔を寄せた。ささやきはごく小さい。
「屋敷でなければ、機密が守れぬ」
 早口で告げて、目線でロッドを指し示す。
 無言のままフェシリアに手を貸している男は、不自然なまでに表情を消していた。褐色の肌をしているため判りにくいが、その顔色が心なしか悪く見える。左腕に巻きつけるようにした外套で、腹から下にかけてをさりげなく覆っていた。
 ラスティアールが、わずかに目を見開く。
 ロッドの足元に、ぽつ、と小さなしずくが落ちたのだ。一見すると黒く見える暗紅色のそれは、既に同じものがあちらこちらで地面を汚していた。今さら目立つことはなかったが、それでも量が増えれば誰かに見とがめられるだろう。
 ラスティアールは素早く了解してうなずいた。
「訂正だ。すぐに帰りの馬車を用意せよ! フェシリア様が屋敷に戻られる。誰か先に走り、受け入れの支度を整えておけ!」
 改めての命令に、あわただしく動きが開始される。
 人々の合間を縫って、ザイードがフェシリアのそばへと近づいてきた。自らの外套を脱いでフェシリアの肩に羽織らせ、ぼろぼろになったその姿を衆目から覆い隠す。
 心底からの気遣いをその眼差しにたたえ、フェシリアの顔を見下ろした。
「……ご無事でなによりでした。どうぞ、馬車が用意できるまで、あちらでお休み下さい」
 先に立って案内しようとするのを、フェシリアは声だけで制止する。
「無論、私はしばらく休ませてもらう。そなたは先ほど言ったことを、確実に実行するように」
 素っ気ないともとれるその言葉に、ザイードは一瞬不服げな表情を浮かべた。だがすぐに消し去り、深々と一礼する。
 フェシリアはそのままラスティアールとロッドを促し、工事現場の出口を目指して歩み始めた。何人かが慌てて付き添ってくるが、その誰に対しても視線を向けようとしない。
 まっすぐに背筋を伸ばしたその後ろ姿は、見る影もなく汚れ乱れていてもなお、人々に畏敬を感じさせるほど凛とした佇まいを漂わせていた ――


*  *  *


 短い間に届けられた見舞い品の山を眺めて、フェシリアは呆れたように小さく鼻を鳴らした。
 その仕草はどこか、ロッドがするそれを思い出させる。
 既に医師の診察と湯浴みを終え、その姿はいつもと変わらないものに整えられていた。わずかに湿り気を残した髪は綺麗に櫛を通され、衣装も皺ひとつないものに改められている。服の下には数箇所打ち身と擦過傷が隠されていたが、他に重篤な傷は存在しない。あれほどの大事故に巻き込まれて、これだけの軽傷ですんだのは驚異的だった。
 とは言え尋常な姫君であれば、精神的な衝撃で寝込んでいるのが普通である。見舞いの品を受け取る行為はもちろんのこと、ぜひ顔を見て一言でも慰めの言葉をなどとほざく人間の相手も、できようはずがなかった。
 もっともフェシリアはその点で通常をはるかに凌駕しているので、やろうと思えばいくらでも直接応対はできた。しかし馬鹿正直にそれを周知する必要はない。むしろ臣下にその分をわきまえさせるためにも、一切の面会をすげなく断らせていた。見舞いの品もラスティアールが、あくまで公爵の代理として受け取りに出た。
 それでもなお品物を置いていくという行為は、彼らがフェシリア個人を心配しているのではなく、公爵家へ自分達は心を痛めているのだと、そう訴えかけてみせるための形式的な儀礼に過ぎなかった。
「……あの男の具合はどうだ?」
 新たな箱の山を両腕に抱え入室してきたラスティアールへ、フェシリアは低い声で問いかける。
 馬車で屋敷に戻ってすぐに、フェシリアは女官達にさらわれるようにして、医師の待つ部屋へ連れ込まれていた。その後ロッドがどうしていたのかは、誰からも聞かされていない。そもそもあの男が、使用人などに負傷を悟られるような真似を許すとも思えなかった。
 故に事情を知っていそうなのは、共にあとへ残されたラスティアールだけで。
 有能な侍従文官は、慎重に言葉を選んで返答する。
「 ―― 本人の申告によれば、三日もあれば治るとのことです」
「本人の申告、か」
「はい」
 フェシリアはしばし脳内で計算しているようだった。やがて解答がはじき出される。
「……ならば完治までは、おおよそ一週間と言うところかの」
「御意」
 あの男は不自由なく動けるような状態であれば、それを負傷とは見なさない。
 そしてその身に流れる血の特性ゆえに、通常のセフィアールよりもはるかに高い苦痛への耐性と自己治癒能力を持ち合わせてもいた。
 それらを考え合わせれば、そのあたりが妥当な計算である。
 ラスティアールは、使用人をすべて追い出し扉を閉ざしてから、ようやく張っていた気を緩めた男の姿を、苦い思いと共に記憶から呼び起こす。
 彼は身を投げ出すように寝台へと腰を下ろすと、腹を抱えるようにしていた左腕をだらりとぶら下げた。覆っていた外套がずれ露わになった下半身は、左の太腿にざっくりと裂傷を負い、脚衣ズボンの布を重く血で濡らしていた。既に出血は止まっていたようだが、それでもあの傷で足を引きずる素振りすら見せずに歩いていたのが、この目で見ていても信じられない。
 さらには、左腕。
 服の上から見ても、その形がはっきりと歪んでいた。明らかに複数の位置で、骨が折れている。他人に弱っている状態を知られるのをことさら嫌うあの男が、あえてラスティアールを部屋に残したのは、それが理由だった。
 あくまで不本意そうに、それでもロッドは協力を頼んできたのだ。
 いわく、ずれた骨を戻すから、手伝えと。
 ラスティアールに医療の心得はない。尻込みし誰か人を呼ぼうとするのを、ロッドはぎらつく目で制止した。
 できないなら、とっとと出てゆけ。そう低い声で吐き捨てる。
 確かにその負傷を、滅多な相手に知られるわけには行かなかった。
 この男はフェシリアの婚約者として、常にその身を狙われている。女公爵の伴侶という座を狙う相手に弱っていることを悟られれば、すぐに刺客が送り込まれることは目に見えていた。
 さらにまずいことに、負った傷の治りが早すぎる。それは彼が破邪騎士セフィアールであるという事実を計算に入れても、明らかに不審を招くほどの速度だった。その身に流れる王家の血と、セフィアールの能力。ふたつが許されない融合を果たした結果、この男は祖王の再来とも呼べる存在になっているのだ。その真実はどこまでも厳重に、秘されなければならない。
 故にこの負傷を、おおやけにすることはできなかった。ことに使用人など、どれほど善良な人柄をしていようとも、いつどこで誰に口を滑らせるか判らない。そこには悪意も打算も存在していない。彼らはただごくごく無邪気に、自らが知った事実を他人と共有したがるだけだ。それだけにいっそう、情報漏洩を防ぎようがない。
 いまこの屋敷の中でロッドの出生の秘密を知っているのは、ラスティアールを除けばリリアただ一人だ。以前はレジィ=キエルフもいたが、彼女は目下、国王の元で輿入れの準備という名の淑女修行中である。あとはフェシリアが重用している間諜のひとりが、ある程度事情に通じておりつつ、フェシリアが話すなと言った内容に関しては、たとえ拷問を受けても地獄まで持ってゆく覚悟を持っているぐらいだ。
 ……しかし二人のうちどちらかを探しだし、呼びに行く手間と時間を考えれば、いまこの場でラスティアールが手を貸す方が、よほど効率的で無駄がない。
 そう結論したラスティアールは、未知の作業に対する緊張と恐怖に青ざめながらも、ロッドの指示に従ったのである。
 『治療』の詳しい様子がどんなものであったかは、思い出したくもなかった。
 とにかく折れて歪んだ骨を正しい位置に戻した後は、室内にある適当なものを添え木にして固定し、あとは太腿の傷に入り込んだ砂と木屑を酒精アルコールの強い酒で洗い流して、包帯を巻いた。さらには肋骨にも数本罅が入っているようだったので、敷布を裂いて固く胴体に巻きつけて終わり。彼の肉体であれば、その程度の手当てで充分らしい。
 苦痛に息を荒げながらも必要な作業を終えたロッドは、気付け代わりに残った酒をあおった。唇の端からこぼれた筋を右手の甲で拭い、大きく息を吐く。
 そうして彼はきつい光を失わない瞳で、汚れた布や破れた服を片付けているラスティアールを見上げてきたのだった。
 低く掠れた声が、その唇から発せられる。
「……あの男は駄目だ。候補から外せ」
 突然口にされた言葉に、ラスティアールは思わず手を止めてふり返った。意味を計りかねていると、もう一度同じ言葉が繰り返される。そうして補足するように続けた。
「いくら熱烈な支持者に見えても、とっさの時にてめえの身を優先するような男に、女公爵の婿は務まらねえ。誰かに弱味でも握られれば、簡単に寝返りを打つだろうよ」
 忌々しげに舌を打つ。
 足場が崩れてきた、あの瞬間。
 フェシリアの一番近くにいたのは、ザイード=クルツであった。あの男はまさに彼女の手を取り、その歩みを補助していたのだ。
 それなのに彼は、事故が収束を見せたその時、安全地帯にいた。たった一人で。
 そう、あの男は確かに繋いでいた主君の手を離し、自分だけが安全な場所まで全力で逃げ去ったのである。その視界に、裾を踏んで転倒したフェシリアの姿など入ってはいなかった。あの男はただ己の身の安全、それだけを最優先したのだ。
 それは意識しての行動よりも、いっそうたちが悪かった。
 救助されたフェシリアに対し、欠片も後ろめたさを感じていないらしい素振りに、その根深さが見てとれた。ザイードはあの瞬間に自分が主君を見捨てたことを、まったく自覚していないのだった。
「女公爵の伴侶は、あくまで補佐。替えが効く種馬に過ぎないことを理解して、優先順位を間違えない男でなきゃならねえ。あの野郎には無理だ」
 ロッドはきっぱりと断言する。
 その瞳に宿る炎にも似た蒼い輝きが、激烈な怒りからくるものであることに、ラスティアールはようやく気が付いた。
 この男はいま、心の底から本気で腹を立てているのである。
 ―― 足場が崩れ始めた時、はたしてロッドがどのあたりに立っていたのか、ラスティアールは覚えていない。そして彼自身はフェシリアからかなり離れた位置にいたこともあり、とても助けに走ろうとは考えられなかった。
 しかしこの男は……ロッドは、迷うことなくもっとも危険な場所へと飛びこんでいったのだ。
 崩れ落ちてくる足場の、ほぼ真下。フェシリアがいたのは、安全地帯から一番遠い所であった。
 しかもその場で膝をつき、すぐには走り出すこともできぬだろう体勢。実際、時間的余裕さえあったならば、この男は不敬だなどとは考えず、小脇に抱え上げてでも彼女を運んだだろう。それだけの腕力と思い切りの良さを持っている男だ。
 ロッドはセフィアールの青藍の制服の下に、常に鎖を編み込んだ着込みをつけている。それは確かに防具の一種ではあったけれど、衝撃に対してはほとんど意味を成さない代物だ。ある程度は妖獣の爪を防ぐことができる、丈夫な織りの外套も同様である。
 結果としてこの男は、ほぼその身ひとつだけでフェシリアを守ろうとし、そうしてそれを成し遂げたのだ。
「…………」
 無言で目をぎらつかせているロッドを、ラスティアールは真剣な面持ちで眺める。どんな些細な反応をも見落とさぬよう、細心の注意を払って。
「ザイード様は、気に入らぬ訳ですね」
「ああ」
 即座に答えが返る。
 そこには一片のためらいもなかった。
「……どんな相手でも、気に入らないのではありませんか」
 ラスティアールが投げた問いに、ロッドはふと顔を上げた。
「どういう意味だ」
 眉をひそめて、訝しげに聞き返してくる。
 フェシリアの侍従文官は、務めてさりげない様子を装って、軽く肩をすくめてみせた。
「いえ、別に。ただその評価は ―― 『兄』としてのものなのか、と思いまして」
 あの場にいた誰一人として、そこまでは思い至らなかった、とっさの場におけるザイードの行動の、その裏側にあるもの。彼がそこに目を付けた理由は、あるいは娘や妹の恋人を、ことさら厳しい目で酷評するような。そんな世間一般の父や兄が陥りがちな、狭い視野からくる、感情に流されたものの見方ではないのか、と。
 途端にロッドは、ぐっと顔をしかめた。
 ラスティアールをたしなめるように、返す言葉には強い力がこもる。
「んな訳ねえだろうが。……いいか。俺とあの女は、あくまで『他人』だぜ?」
 他人という単語を、ことさら強調して発音する。
 その情報は、どこまでも秘密にしなければならない真実のひとつである。たとえ余人の目がない場所で、戯れにであっても、軽々しく口にして良い内容ではなかった。
 険しい表情でにらみつけてくる男に、ラスティアールは深く頭を下げる。
「その通りですね。失礼いたしました」
 その言葉で会話を切り上げた。
 負傷したロッドには充分な休息が必要であったし、ラスティアールにはフェシリアの代理として、間もなく大挙して訪れるだろう見舞いの数々に対応する仕事が待っていたのだから ――


 そうして、数刻ののち。
 身のまわりを整えたフェシリアを前にして、ラスティアールはロッドとの会話を内心で反芻していた。
 偽装婚約の期限は、もう残り半分を切った。
 そろそろ計画の最終段階に取りかかるべき頃合いかもしれない。少なくとも、下地は整いつつあるように思われた。
 故にラスティアールは、フェシリアへと報告を行うことにする。
 それは真実本命と見なしている婚約者候補に対し、その包囲網を閉ざし始めようという、そのきっかけとなるものであった。


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