―― まるで、能面のようだ。
それが最初の印象だった。
それなりに整ってはいる。目鼻のバランスも悪くないし、しみひとつない白い肌と光を吸い込むかのような闇色の髪は、女なら誰もがうらやむだろう、見事なそれだ。身体つきもすらりとしていて、もし己のそれであれば、自慢とまでいかずとも、文句を付けようとも思いはしないだろう。そんな、容姿をしている。
けれど、
その少年は、表情が死んでいた。
感情の色を浮かべない、ぽっかりとうつろな瞳で俺を見て、かけられる言葉にもただうなずくだけ。笑いもせず、泣きもしない。それこそ出来のいい人形を相手にしているような気分になってくる。
はっきり言って、おもしろくなかった。
もともと俺は、本家から厄介払いされた半端者だった。
かつてはそれなりの立場にもあったけれど、それはもう何年も昔の話だ。今はもう、俺の名前を覚えている奴すら、ほとんどいはしないだろう。存在すらほとんど知る者のない閑職に追いやられた、役立たずの三流陰陽師。それがいまの俺だ。
だが、それでもこんな人間を押しつけられるのは、いい迷惑だった。おそれ多くも当主じきじきのお声がかりだったから、いったい何事かと思えば。まったくとんだ『もの』を預けられたものである。
思わずため息をついて、立ち働く少年を改めて見た。
真正面から不躾に眺めていても、そいつは眉ひとつ動かそうとはしなかった。包帯を巻いた手で、ただ黙々とさっき言いつけた仕事をこなし続けている。
左手のその怪我は、既にほぼ治っていると聞いていた。もうじきかさぶたもとれ、完治するだろうと。だが、心に残る傷は深い。それを癒す場を、与えてはもらえないか、と。当主のその言葉をないがしろにする訳にはいかなかったが、はっきり言って柄ではなかった。
傷ついた少年の心を癒すだと? その手助けをしろ?
馬鹿馬鹿しい。俺にそんな真似などできるはずがなかった。いや、俺だけではない。そもそもどんな人間であれ、他者を癒すことなどできはしないのだ。耳に心地よい言葉を幾千連ねようと、どれだけの強い術力を備えていようとも、本当の意味で
人間の心を動かすのは不可能で。
そう。傷つくことも、そして癒されることも、すべてはその人間自身の問題なのだ。自分が何を感じ、そしてどうするのかを決めるのは、けっきょく当人の心次第。周りがいかに気をまわし、手を尽くしたところで、それが効果を発揮する保証などどこにもありはしない。それが、俺の信念だ。
だから、俺はそいつに対して最低限のことしかしてはやらなかった。
部屋と、着るものと食うものを用意し、そうして一緒に暮らしていく上でのルールを教えた。飯の準備と片付けは交代でやり、飯を用意しない日は掃除を担当する。うっとおしい真似はごめんだから、互いの部屋には立ち入らないこと。仕事はおいおいに教えるが、当面はそのつど言われたことだけやればいい。それ以外の時間は好きにしていろ。ただしこちらの邪魔だけはするな。
少年は文句も質問も口にすることなく、ただ俺の言葉にうなずいていた。本当に判っているのかと不安にもなったが、まぁ何かやった時には叱りとばせばいい。そう思って放っておいた。
正直を言うと、同居は思ったほどうっとおしいものでもなかった。
と言うよりむしろ、普段の俺はそいつの存在をほとんど忘れていた。なにしろ、まったく存在感というものがないのだ。言われたことはこなす。食事の用意などは慣れていないせいだろう、手際が悪く、つい横から口を出しもしたが、物覚えは悪くないらしく一度言ったことはすぐに飲みんだから、苛立ちはしない。
そしてそれ以外の時間、こいつが何をしているのかと言えば、どうやら何もしていないらしい。
いちど買い物を頼みに部屋を訪ねてみたことがあった。ノックとほぼ同時に扉を開けると、こいつは椅子に座っていた。別に本を読んでいるとか、何かを見ているとかではなかった。考え事をしているというのとも違うらしい。ただじっと椅子に座り、硝子玉のような目を宙に向けていた。その姿を見た時ばかりは、さすがの俺もやばいと感じた。これはまずい。このままの状態では『よくない』。そう思った。
……だが、思ったからといって、いったい俺に何ができるのか。
安倍陰陽道の使い手として、多少なりとも
術力は持っている。だが、それがなんだというのだ。
少年の面影が、かつて救えなかったものと重なる。
口元に苦い笑みが浮かんだ。
そう、俺にできることなど、何もありはしないのだ。
そもそも、何もしていないのは俺も同じなのだから。確かに俺は、笑うし泣くし、仕事もする。退屈な時はテレビだって見るし、たまには身体が二つ三つあれば掃除して洗濯して、飯作りながら本も読める、とか考えることもある。けれど、
ただ毎日を惰性で過ごし、叶えたい夢もなく、願う未来もなく、食い、眠り、呼吸しているだけの日々。考えることを放棄し、流れる時を無為に受け止めているだけの俺は、少年と何ら変わりのない、
自動人形でしかなかった。
* * *
少年が夜中になると出歩いていることに、気がついたのはずいぶんと経ってからだった。
毎晩、遅くまで電気がついていたのは知っていた。どうやらなかなか眠れないようで、何をする訳でもないが目を覚ましているらしい。
ある晩。
深夜まで酒を飲み歩いていた俺は、帰宅しようと裏口にまわったところで、出てくる少年の姿を見つけた。
一瞬夢遊病か何かかと疑ったのは、商売柄いたしかたない。うちの店にはいわくつきの骨董品といったものが多数収集されており、しかもやっかいなことに、それらはみな掛け値なしのモノホンなのである。ろくに術力を持たないという ―― 言いかえればそれらの影響に抵抗力のない少年が、何か悪質なものに取り憑かれるというのは、充分考えられることだったのだ。
だが、彼の足取りはしっかりとしたものだった。服装も寝間着などではなく、普段着のシャツとズボンだ。散歩だろうか。
後をつけてしまったのは、多分に酒の影響があった。それと幾ばくかの好奇心。
この、およそ自分の意志では何もしようとしない少年が、いったいどこへ行こうとしているのか、と。
やがて、我々はすぐ近くにある児童公園へとたどり着いた。
その日は月の明るい晩だった。
人っ子一人存在していないそこで、少年はやはり何をするでもなく、ベンチに腰を下ろしていた。しかし、その瞳はどこかを ―― 現実ではないにせよ、どこか、なにかを眺めているようだった。あるいは、少年の記憶のいずれかにある、忘れがたい存在を、だろうか。
俺は、そのまま声をかけることもせず、公園を後にしていた。翌朝少年と顔を合わせたときも、何も口にはしなかった。
そして、少年は、今晩も部屋を後にしている。ひとり、公園のベンチで闇を眺めるために。
出ていく後ろ姿を部屋の窓から見下ろして、俺は水割りのグラスを傾ける。
眠れぬ夜を過ごすには、それぞれのやり方があるのだから ――
何杯目かの水割りで、ボトルの酒がなくなった。
思わず舌打ちをくれて、階下の台所へとむかう。確か貰い物がもう何本かあったはずだ。
明かりをつけるのがわずらわしくて、暗い中を手探りで進んだ。よろけた弾みにふりまわした手が、棚から何かを払い落とす。派手な音が酔った頭に響いた。壊れ物だったらしい。
面倒だから片付けは朝になってからだ。とりあえずほったらかして、床の跳ね上げ戸を持ち上げる。顔をつっこむようにして中を物色した。
と ――
俺は息を呑んで顔を上げた。
視線を宙に固定し、酒で鈍くなった神経を研ぎ澄ます。そして罵り声を上げた。
「あの馬鹿……!」
立ち上がり、術具を取りに走る。
酔いは一瞬で醒めていた。
家を飛び出し公園へと急ぐあいだ、俺は奇妙に気分が高揚してゆくのを感じた。何年ぶりかで取り出した術具が、不思議なほどしっくり手になじむ。
砂利を跳ね飛ばしながら足を止め、叫ぶように真言を唱えた。
「 ―― 滅邪!!」
投じた術具が、勢い良く回転しながら
鬼獣に迫る。
鬼獣は素早い身のこなしでその場を飛び離れた。術具はぎりぎりでその身体をかすめ、大きく弧をえがいて俺の手元に戻ってくる。がっちりと掴み止め、油断なく相手の隙をうかがった。
そいつは、かなり妖力のありそうな鬼だった。
全体のシルエットは大型の犬に似ている。全身醜悪に発達した筋肉を、体毛のない鋼色の皮膚が覆っていた。鋭い鈎爪が生えた手は、ものを掴める長い指をそなえており、かなりの警戒が必要だ。三つ並んだ真円の瞳が、敵意をあらわに俺を睨む。
長い顎に鋭い牙が並び、そこはいま、鮮やかな紅い色に染まっていた。ぽたりぽたりと雫が落ちる。そして、力無く地に横たわる、壊れた人形のような身体。
「
臨める
兵闘う者、
皆陣列ねて前を
行く!」
立てた指で刀印を結び、宙に九字を切った。
「滅邪ッ」
気合いと共に再び術具を放つ。
破魔の気を帯びて光る術具は、今度こそ鬼獣の肉体を捕らえた。
しかし、ざっくりと肉を裂かれながらも、鬼獣は跳んだ。大きく距離を取り、闇の中へとその姿を溶け込ませる。とっさに後を追おうとしたが、流れた血の色が俺の足をひき止めた。
「おいっ」
戻って来た術具をベルトに挟み、少年の元へと駆け寄る。
長い髪が広がり、地面を黒々と覆っていた。細い四肢がぐったり投げ出されている。そして、大きく破れ、重く血に濡れた上衣 ――
傍らに膝をつき、傷の状態を調べた。思わず眉を寄せる。相当に深い。
病院に運ぶ訳にはいかなかった。騒ぎになるし、詳しい説明もできないからだ。幸い、俺の知る術の中には、傷の回復に役立つものも含まれている。
とにかくまずは傷を洗い、血を止めなければ。
破れたシャツをさらに裂き、ひとまずそれで傷口を縛った。そうして担ぎ上げる。
驚くほどに軽い。思わず意識のない顔を見た。
ちゃんと呼吸はあった。ほっと息をついて、それからもういちど眺め直す。
血の気を失い、透き通るように青いその顔は、しかし意外なほど穏やかな表情を浮かべていた。苦痛の色などまるでない。いつもの人形じみたそれよりも、よほど ――
はっと我に返る。なにを悠長に考えているのだ、俺は。
少年の身体をいちど揺すり上げて、足早に歩き出す。
幸い少年の怪我は、命に関わるそれではなかった。
肩の肉を少しとかなりの血を失っていたが、それはまぁなんとかなった。
瘴気による傷口の
穢れも ―― こいつを放っておくと、腕が腐って使いものにならなくなる ―― おおむね
浄めた。
しかし、消耗した肉体は回復に時間がかかる。少年は二日が経ってもまだ目を覚まさなかった。
いったいあの晩、何があったのだろうか。
台所で氷を用意しながら、俺は判るはずもないことを考えていた。氷は、瘴気の
残滓により発熱した少年を、冷やしてやるためのものだ。製氷皿をひっくり返し、洗面器にざらざらとあける。
そんなのは少年が意識を取り戻してから訊けばいいことだった。手がかりひとつある訳でなし、ここで考えていたところで答えが出るはずもない。そもそも俺は、ことの次第を知ってどうしようというのか。
逃げた鬼獣がその先で何をしようと、俺には関係のないことだった。誰かに依頼を受けたのでも、本家から命を下されたのでもなし。俺が動く理由などどこにもないではないか。
しかし、と心のどこかから声があがる。もしヤツが報復に現れたなら? その時また撃退するのは、俺の仕事だ。あの少年はそういったことに関してまるで無力なのだし、かといって本家から託されている以上、見捨てる訳にもいかない相手だ。それに、何故少年が狙われたのかというのも疑問だ。ゆきずりの、単なるエサとしてならいい。だが、あるいはあの少年を選んだ、なにがしかの理由が存在したならば。
その場合は、ひどく面倒なことになる。鬼獣が彼に目を付けているのなら、何度でも奴は現れるだろう。それに ――
知らぬうちに、手に力がこもった。
あるいは、少年の命を狙う何者かが、『あれ』を送り込んだのかもしれない。
あり得ないことではないだけの理由と、そして技術の持ち主が存在していることを、俺は知っていた。
「胸くそ悪ぃ……」
呟く。
勢力争いだか跡目問題だか知らないが。無力な、そしてまだ年若い少年を、いいように傷つけるやからにむかついた。それは単に肉体だけの話ではない。まだ十代も半ばの、子供といっていい年頃の少年が、泣きも笑いもしない。それは異常だ。悲しみにくれているというのならまだ判る。己を卑下し、周囲を呪い、暗い目であたりをにらみつけているのなら、それでもまだ良い。だが、彼はそんなことすらしないのだ。あの年で、ただ全てを諦めきったような、虚ろな眼差しを投げる ―― どんな扱いを受けていれば、そんな子供が育つのか。
笑った顔は、悪くないだろう。
想像してみようとしたが、できなかった。
けれど、顔立ちはそこそこ整っているのだ。口元を少し緩め、目をわずかに細める。それだけでずいぶんと変わるはずだ。
同じ顔をした、当主の姿を思い浮かべた。つい数ヶ月前に本家を継いだばかりの、少年には双子の弟にあたる方だ。やはり、笑った顔は見たことがない。俺が目にすることのできたのは、遠く末席から眺めた継承の議での盛装姿と、そしてその後内密に離れ屋へと呼ばれ、少年を預かるよう命ぜられた、ごくわずかな間の所作だけだった。どちらもくつろいだ状態からはほど遠い。
『このままでは、兄は死にます』
固い声と、表情だった。
『身体でなくとも心が。たとえ誰かに殺されずとも、自らによって』
だから、少年は本家にいてはならないのだ、と。
隣の座敷で布団に横たわる少年の、その手首に包帯が眩しいほど白かった。
ため息をつき、追想を追い払う。
そうして氷と水の入った洗面器を持ち上げた。
階段を上がり、少年の部屋を目指す。両手がふさがっているので、部屋の扉は完全に閉めず、わずかに隙間をあけてあった。蹴って開こうと足を上げる。
と、そこで動きを止めた。
上げた足を静かに下ろす。そして洗面器を床へと置いた。空いた手を背中にまわし、ズボンの後ろにつっこんでいた術具を取り出す。ゆっくりと気息を整えた。
それから一気に扉を開け、室内へと飛び込んだ。
素早く視線を走らせ、状況を確認する。
ベッドの上の少年は、目を覚ましていた。横たわったまま、ぼんやりとした表情で、飛び込んできた俺の方を向いている。そして、その上にのしかかる、乱れた毛布を踏みにじる巨体。
少年の身体に覆い被さるようにして、あの鬼獣がこちらを見ていた。
ベッド脇の窓が大きく開いている。鍵をかけておかなかったのは俺の失態だった。病人には良い空気が必要だからと、時々開けてそのままだったのだ。吹き込む風にカーテンがはためいている。妙に目障りだ。
「頭を下げろ!」
叫んで、俺は術具を投げた。
狭い室内で飛び道具を扱うのは、加減が難しい。壁に食い込まぬよう力を押さえた術具は、あっさりとかわされた。が、その隙に間合いを詰め、新たに取り出した術具を振りかぶる。
「破ァッ」
気を込めふるった切っ先に、鬼獣はまたも跳んだ。俺の頭上を越え、扉の方へと逃れる。ちょうど良い。退路を断たれたのはこちらも同じだが、少年は取り戻せた。もとより逃げるつもりも、そしてこいつを逃がしてやる気もなかった。今度こそ
調伏し、もしいるのなら背後で糸を引いている相手をもあぶり出してくれる。
唇を舐め、術具を構える。
戦いの予感に、心地よい緊張が全身を震わせる。室内の空気がぴんと張りつめた。互いの一挙一動を、研ぎ澄ました神経で探り合う。
均衡を破ったのは、傍らから伸びてきた一本の腕だった。
細く、力のない手が、術具を構えた俺の腕にからみつく。
「や、め……」
背後から、熱に掠れた声が届いた。
「やめて、下さい……」
もう片方の手が、シャツの背中を掴む感触。
俺は声も出ないほどに驚いた。投げられる言葉の内容よりも、むしろ少年がそれを口にしたという事実に。
鬼獣から目を離しこそしなかったが、意識のほとんどは、後ろの少年へとむいた。まだ力が戻っていないのだろう。ベッドからまともに身を起こすこともできぬまま、それでも懸命に腕を伸ばし、俺を制止しようとしている。
「ちがう、から……彼、は……」
ずるりと、身体を引きずる気配。手をかけられた腕が、体重を受けて震える。これではやばい。鬼獣に攻撃されたら対処できない。反射的に振りほどこうとした。が、いちど払われた腕は再びシャツを引き、肩に伸び、俺の動きを拘束する。
「馬鹿野郎ッ、放せ! 死にたいのか」
そう叫んで。背筋を冷たいものがよぎった。
伸ばされる左手の、目に鮮やかな包帯の白さ。
そうだ。この少年は、一度『そう』することを選んだのだ。自らの意志で。そして二度目はないと、いったい何者が保証するというのか。
巻き添えはごめんだった。
死にたいというなら一人で死ねばいい。
こいつが自身でその道を選んだというのならば、俺が止めてやる義理などありはしなかった。しいて邪魔などしないから、勝手にやってくれ。俺を道連れにするな!
本能的な嫌悪感に襲われて。加減を忘れてふるった腕が、少年の頭を殴りつけた。
たまらず彼は手を離した。細い身体がベッドに倒れ込む。鈍い手応えに、俺は我に返って息を呑んだ。握っていた術具に、わずかに血が付着している。
「おい……ッ」
片手で鬼獣を牽制しながら、一歩足をひき半身を少年に向けた。
「生きてるか。おい!」
伸ばした手はわずかに届かない。だがこれ以上鬼獣に背をむける訳にもいかず、焦りながら呼びかけた。やがて、身じろぎする。皺だらけになった毛布を掴み、なんとか顔を持ち上げた。乱れた髪の間から、光る眼がのぞいて俺を見る。
「やめて、下さい。彼は、私を、傷つけに来たんじゃ、ない」
途切れがちな、けれどはっきりと紡がれた言葉。
その声と、そして瞳に込められた意志の力に、俺は愕然とした。
こんな彼を、初めて見る。
俺の言葉に諾々と従い、うつろな表情で宙を見ていた少年ではなかった。
それはけして、殺されることを願う、暗い望みに支配された目でもない。
彼は、自分の意志で俺を止めようとしているのだ。
力のない腕が懸命に動き、寝間着の合わせ目へと伸びる。既に乱れ大きく開いたそこを探り、解けかけた包帯を引っ張った。無理矢理ゆるめ、下のガーゼを剥がす。
あらわになった傷口を見てまた驚いた。
ほとんどふさがっている。ついさっき包帯を換えた時には、そこまで回復してはいなかった。肉こそ盛り上がり始めていたが、まだ無惨に
抉れていたのだ。それなのに。
「彼、が。……だから」
その術具をおさめてくれ。
そう訴えてくる。
混乱した。
その傷を彼に負わせたのは、他でもないこの鬼のはずだ。それは俺がこの目で見ている。血にまみれたその牙を、爪を、ちゃんと確認しているのだ。それなのに、いまこいつが傷を癒してくれただと? 馬鹿な、道理が通らないにもほどがある。だいたい何故そんな真似をするのだ。理由がないではないか!
あまりのことに、一瞬だったが完全に鬼獣から注意がそれた。そしてその一瞬は、この場において致命的な意味を持っていた。
鬼獣の強靱な後足が絨毯を蹴り、俺をめがけて跳躍する。とっさに身体が反応し、かろうじて術具を鬼獣へと向けた。だが、間に合わない。
覚悟した俺の背中を何かが突いた。予期しなかった方向からのそれに、俺はバランスを崩し前のめりに倒れる。鬼獣の爪はギリギリを掠めていった。そのまま奴はベッドに着地し、俺は転がった床から跳ね起きる。足元に、もろともに転がり落ちた少年の身体。彼が背を押してくれたおかげで、命拾いしたのだ。
「大丈夫か!?」
床に片膝をつき、術具を構えて問いかける。頭が小さく上下した。そうして、首をひねり、ベッドの上の鬼獣をみやる。
「この人は、傷つけないで。私の、親族なんです」
鬼を相手にそんなことを訴える。
「私は、もう、大丈夫だから」
だから逃げろと。
「おい!」
冗談でも言っていいことではなかった。
いまこの鬼を逃がしては、今後に憂いが残りまくる。こいつがこうしてここに現れている以上、こいつにとっての少年は、通りすがりのエサではないと証明されたようなものだ。この先二度とは言わず、三度でも四度でも現れる可能性が高い。それどころか、背後で何らかの存在が糸を引いているかもという、その確率も多いに上がっているのに。断じて逃がす訳になどいかなかった。
しかし、どこにそんな力が残っていたのかという強さで、少年は俺の腕にしがみついた。焦って引きはがそうとするが、今度はどうやっても離れない。
「行って。早く!」
叫ぶ声は、抗いがたい力を秘めていた。
熱に潤んだ瞳が、吸い込まれそうな深さをたたえて鬼獣の姿を映す。
磨いた黒曜石のような、鮮やかに輝く漆黒の双眸。これまでの数ヶ月間、ただの一度も俺には向けられたことのなかった眼差し。
白皙の横顔を、どこか呆然と眺める。
なんだろう。どこかが ―― たとえて言うなら、心臓の血管のどれかだろうか。あるいは喉の奥の乾いた粘膜とか、血の気が引いて
凍えた指の先端とか。
痛いと、感じるそんな場所が、
何故なのか理解できない。
戸惑いは、ベッドのきしむ音で断ち切られた。鬼獣が動き、その体重を受けてベッドのスプリングが鳴る。はっと顔を上げ、鬼獣の方を見た。
丸い三つの目が、全て少年を見つめている。鋭い牙の並んだ顎が、幾度か不器用に動いた。
「オ、マエ」
不完全ながらも人の言葉が発せられる。錆びたような響きを持つ、耳障りなしゃがれ声。
腕があがり、節くれ立った指が少年をさす。
「モウ、死ナナイ……ナ」
語尾が上がる。問いかけの言葉。
少年はこくりとうなずいた。
「ナラ、イイ。……マタ、来ル」
付け加えられた再来の予告に、俺は緊張する。しかし、少年は……
「 ―― はい」
そう答えて。
微笑んだ。
口元をわずかに緩め。
優しく瞳を細めて。
それはごくごくかすかな表情でしかなかったけれど、俺の言葉を奪うには充分だった。
何故。彼は笑うのだ。今のこの時、この鬼に対して。
答えは返らない。彼らはただ互いだけを瞳に映し、そして確実に何かを交わしていた。
再びベッドがきしみ、鬼獣は窓の外へと身をおどらせる。少年がしがみつく腕に力を込めた。だが俺は、既に後を追う気を失っていた。しばし、無言で少年を見下ろす。
なにを言えばいいのか、思いつかなかった。
やがて、俺が動かないことが判ったのだろう。じょじょに少年の身体から力が抜けていく。彼が何かを言うかとも思ったが、俺にもたれ掛かるようにして力をなくした少年は、そのまま意識を失ってしまったらしい。
脇の下に手を入れ、身体を抱き起こした。ぐらりと首が揺れ、慌てて支えてやる。
そっとベッドに横たえて、窓を閉めた。頬にかかる乱れた髪を、指でどけ、そのまま額に手を当てた。興奮したためか少し熱が上がっているようだ。一度廊下に出て、置きっぱなしにしていた洗面器を持ってくる。
「…………」
術具が掠めたこめかみに、軽い裂傷ができていた。もう血は止まっているそこを軽く拭ってから、改めてしぼったタオルを額に乗せる。そしてもはや意味をなしていない包帯を完全に取り去った。新しいガーゼを用意しながら、改めて傷口を検分する。
やはり、ほとんど治っていた。この分なら、熱さえ下がれば普通に起きあがれるだろう。
これを癒したのが本当にあの鬼獣なら ―― 俺の術ではない以上、それしか考えられないことは事実だったが ―― なぜ奴はそんな真似をしたのか。そして……どうして少年はそれを受け入れたのだろう。得体の知れない、己を傷つけた化け物のすることを……
考えていても、答えは出ない。
俺はため息をつくと、包帯を巻き直していった。
それが終わると毛布をかけ直し、電気のスイッチに手を伸ばす。が、少し考えて明かりを消すのはやめた。鬼獣に蹴り倒されていた椅子を起こし、少年の枕元へと置く。
腰を下ろし、鬼獣が消えた窓の外を眺めた。
夜明けまでは、まだずいぶんと時間がある ――
* * *
しばらく日々が過ぎた。
そして、少年は少しづづ表情を変えるようになっていた。ただ俺の言葉に従うのではなく、できないことは否と言い、やるなという言葉に首を振るようになった。
わがままになったというのではない。相変わらず彼はたいていのことを文句なくこなしたし、その手際も申し分なかった。ただ、何度言っても、深夜の外出をやめようとはしなかった。
ひとりで出歩くのは危険だと。またいつ何時襲われるのか判らぬのだと。俺はくり返し口にした。怒鳴りもしたし、時には手を上げようとさえした。だが、その時ばかりはこの少年が、断固として首を縦に振らず、深く澄んだその目を伏せ、拳を握って否と言うのだ。
なによりも腹立たしいことに、実際あの鬼獣はまた姿を見せているのだ。それも幾度も。
夜の公園で少年がベンチに座っていると、奴がどこからともなく現れ、近付いてくるのだ。そして、少年の足元に腰を下ろし、あるいはくつろいだ格好で寝そべりさえする。
そうして。彼らは何時間でも共に時を過ごしていた。互いに、何をするでもなく。
時折り、低い声で話をしているようだった。少年の腕が鬼獣の背に伸びることもあったし、鬼獣の濡れた舌がその指先を舐めることもあった。
そこにはいさかいの気配など欠片もなく。
ただ、静かに落ち着いた、彼らだけの時間が存在していた。
どうしても聞き分けないのなら、仕方がない。影からその身を守ろうと後をつけていた俺は、身を隠した場所からその様子を見て、何か、言い様のないものを感じていた。
胸が、騒ぐ、この感情をどう表せばいいのか。
日に日に大きくなるそれを持てあまし、俺はじょじょに苛立っていった。道理が通らない鬼獣のふるまいも、それに対する少年の行動も、理解ができなくて。
久しぶりに新しいボトルを開けて ―― 気がついてみると、少年が襲われた夜から、俺は酒を呑んでいなかった ―― ふと少年を誘ってみる気になった。未成年だったが、そんなことはどうでもいい。俺だって中学の頃には盗み飲みぐらいしていたし、どうせこいつも儀式や親族との付き合いの場で、口にしたことがあるはずだ。
今晩はまだ出かける前だったのをつかまえた。もう行くなとは言わんから、たまにはこっちにつきあえと押し切ったら、案外素直にうなずいた。
どうやらいける口らしく、少々濃く作ったグラスでも当たり前に空ける。二三杯呑ませると、ほんのり頬が染まってきた。
「なぁ、おまえあいつが怖くないのか」
問いかけると、少年は不思議そうに俺を見返した。少し首を傾げるようにして見上げてくる。
「おまえはあいつに殺されかけたんだぞ。その ―― 」
シャツ越しに肩のあたりを指さす。
「傷は、ほっといたら腐ってえらいことになったはずだ。そもそも、あんとき俺が駆けつけなかったら、あのまま食われちまってたんじゃないのか」
少年はグラスを置くと、肩を押さえた。まだわずかに残っている傷跡をなぞるように、細い指を滑らせる。
「……うまい、って」
ぽつりと。
呟かれた言葉は、意味の通らないそれで。俺は間の抜けた顔で聞き返していた。
「はあ?」
「うまいって、おっしゃったんです。彼が」
もう一度繰り返して。彼は顔を上げて俺を見た。
そうして、うっすらと微笑む。
「嬉しかった」
その、微笑み。
俺は心臓を鷲掴みにされたような気がした。
息を呑んで、ただ呆然とする俺に、少年は静かに続ける。
「彼にとって、私は好ましい存在なのだ、と。だから、私は食べられて良かったんです。でも彼は、途中でやめてしまって。なんでだろうって、思いました」
「どうして……だったんだ」
かろうじて。別人のような声がそれを問うた。
「きれい、だったから」
まるで宝物かなにかのように。少年はそっとささやいた。
「嬉しくて。だから
微笑った私が、とてもきれいだったそうです。そんなふうに笑いかけてくる相手が、彼には初めてで。だから……」
もっと笑え、と。
微笑みかけてくれ、自分へと。
そのために、生きろと ――
「…………」
俺は、音をたてて持っていたグラスを卓に置いた。
―― 判った。
自分が何に苛立ちを覚えていたのか。胸の内にある、この言い尽くせないもやついたものがなんなのか。
少年の言葉を聞いて、その表情を見て、理解できた。
俺は、嫉妬していたのだ。あの鬼に。
少年と何かを共有し、その眼差しの、微笑みの先にいる、あの鬼獣に。
どうして、俺ではないのか、と。
数ヶ月を、ひとつ屋根の下で共に過ごした。共に飯を食い、寝起きした、同じ血を引く
同胞。その危機に駆けつけ、身を救い、この手で看病をしてやった。それなのに……
何故、あいつなのだ。人を喰らう、おぞましく醜い化け物が。彼の肉に牙をたて、その血を啜ったあのけだものが、どうして彼の瞳にその姿を映すのだ。動かない身体を引きずり、掠れた声で逃げろと叫ぶ、その相手が何ゆえ俺ではないのか。
彼がその傷を ―― 心に負った、その傷を癒すのに必要とした相手が。
自覚した想いに、俺は愕然としていた。
いつの間に俺は、こんなことを考えていたのだろう。
厄介だと、面倒だと少年をいとうていた、その気持ちは嘘ではなかったはずだ。しょせん自分には何もできないのだからと、優しい言葉ひとつかけることなく、傷ついた魂を放置していたのは、他でもない俺自身ではないか。
なのに ――
置いたグラスを再びつかみ、大きくあおった。苦い液体が勢い良く流れ込み、喉の粘膜を灼く。ボトルを取り、ストレートのままどぼどぼと注いだ。少年のまだ中身が残っているグラスにも注ぎ足す。そして手の中に押しつけた。
「呑め」
いきなりの乱暴な所作にも、少年は素直に従った。なみなみと満たされたグラスを受け取り、口をつける。俺もぐいぐいと呑んだ。そして酒がなくなれば、また新しい瓶を取ってきて栓を抜く。
酔い潰れるまでに、二人で相当の数を空けた。少年はいくらでも呑んだし、俺も一緒になって呑み続けた。
けれど、その晩の酒ほどまずかったそれは、ついぞ記憶にない。
いくら杯を重ねても、ただ、苦いばかりだった。
翌朝。
重い頭を抱えて俺は店番をしていた。
客などほとんど来はしない店だ。番と言ったところで、する事などあってないようなもので。
磨かれた ―― 少し前までは埃まみれだったが、暇潰しをかねて少年に磨かせた ―― 黒檀のテーブルに肘をつき、手近にあったチェスの駒をいじくりまわす。
頭の中は、自己嫌悪で一杯だ。
あいにく、酒で記憶を失うほど、俺の肝臓はヤワではなかった。夕べの自己分析の結果は、依然としてしっかりと俺の内に存在している。こうして酔いが醒めて、冷静にそれを眺めてみれば、いっそう情けなさがつのった。
要するに俺は、誰でも良かったのだ。
たとえ相手があの少年ではなかったとしても。
それが、俺の出した結論だった。
俺はただ、誰かに必要とされたかったのだ。
改めてそう考えてみて、思わず失笑した。
―― そんなにも俺は、と。
そう、多分俺は、ずっと思っていたのだ。心の奥底で、長い間。自分にはそんな価値などありはしないと、己を卑下しながら、それでも。
けれど、自分で動かなければ誰の役にも立つことはできない。当たり前のことだ。できることなどありはしないからと、はじめから背を向け、少年に手を伸ばそうとしなかった卑怯者の自分。そんな俺が、彼の目に映るはずなどなかったのに。
彼が必要としたのは、俺ではない。それは俺が何もしなかったからだ。差し伸べた手が宙に浮くことを怖れ、ただ自分が傷つくことを警戒していた臆病さの結果が、これだ。
嘲笑う以外にどうしろというのだ。
ただ一度の失敗で全てを諦め、世の中を斜に見て拗ねていた己。
いったい幾つだ、お前は?
くつくつと喉の奥で声をたてる。その拍子に指から落ちた駒が、テーブルの上で固い音と共に跳ね返った。象牙でできたそれのせいで、なめらかな表面に小さく傷がつく。指でこすってみるが、そんなことで傷が消えるはずもない。が、少し目立たなくはなった。
転がった駒を取り上げ、今度はそっと立てる。馬の首を模した精緻な細工のそれは、組となる全ての駒を失った半端な品だ。
ただひとりきりの
騎士。守るべき王様は、どこにもいやしない。
お前ならどうする?
問いかけてみた。
お前はどうしたい?
象牙の駒は答えない。当たり前だ。物に問うても、そして誰に問うたとしても、答えなど出はしないのだ。問いの答えを出すのは、いつでも自分自身だ。誰かの助言を受けても、どれだけ力を貸してもらったとしても。どうするかを選ぶのは俺自身でしかなくて。
ならば、俺は。
考える。
答えは意外なほどすんなり出た。
だから、と ――
今度は。
間違えないようにしよう。
そうして、自分の望みを自覚する。
叶えたい夢を、願う未来を思い描く。それはけして、存在しないものではなかった。
遠い昔に失くしてしまったと思っていたそれらは、この胸の奥深くに、確かに残されていた。
だから、
探しに行かなければ。
彼ではなかった、俺を必要としてくれる人を。
必要とされたいと願うこの想いを満たすために、まずその相手を捜してみなければ。
誰でも良いなんて、いい加減な気持ちでは駄目だ。そんな、自己満足でひとりよがりなそれではなくて。
そうだな……
思案する。
優しい人が良い。皆のことを考えるような。明るい人だと良い。そばにいて楽しくなれるような。そして、笑顔のきれいな人が良い。
―― 俺のために笑ってくれる。
夢想していると、口元が緩んでくるのを感じた。
そう、見つけよう。俺だけの誰かを。
俺の言葉を聞いて、笑い、泣き、俺の存在で心の傷を癒してくれる人を。
探せばきっと見つかるはずだ。なにしろ世界は広いのだから。
そのために、まず俺がしなければならないこと……
ふとあたりを見わたした。
俺の店を。住処を。
これを放り出して行く訳にはいかなかった。いかに厄介払いで放り込まれた店とはいえ、それでもここは本家から任された、大事な俺の仕事場だった。それに、一人暮らしさせるにはまだまだ不安な少年がいる。
と、なると。
―― まずは家事一般を仕込まなければ。
俺は指を折ってうなずいた。それから店の切りまわし。仕入れだの帳簿だのはともかくとして、曰く付きの品物の取扱いは、注意と熟練が必要だ。まぁ、いざという時はあの鬼が何とかするだろう。もし今後誰か少年の命を狙う者が現れた時も、然りだ。それぐらいは奴にとって当然のつとめだろう。
あとはそうさな……
次々と指を折っていくのは、これでなかなか楽しい作業だった。
こうして数え上げてみると、実にやりがいのある仕事だ。それはそれで、ずいぶんと楽しいことになりそうだ。
くすくすと笑いが漏れる。
少年が、住まいに続く奥の扉から顔を出した。どうやら食事のしたくができたらしい。
「ああ、いま行く」
そう答えて、俺は椅子から立ち上がった。
……そういや能面ってのは、どんな表情にも見えるんだっけ。
ふと思った。
元々が
無表情だからこそ。面は身につける者の喜怒哀楽を、豊かに表現するのだ。
ならば。
いつかきっと、少年も ――
だが、それを目にするのは、俺の役目ではなかった。
歩き出しかけて、出したままだったチェスの駒を振り返った。つまみ上げて、横の飾り棚に置く。木彫りの兵隊や、螺鈿細工の小箱といった雑多な品物が並んだそこに、ひとりぼっちのナイトはしっくりとおさまった。まるで最初からそこにあるべく作られたかのように。
扉の向こうから、いい匂いが漂ってくる ――
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