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 雨 月 露 宿あめのつきつゆのやどり  骨董品店 日月堂 第十六話
 第三章
 ― Makoto.Kanzaki Original Novel ―
 
神崎 真


 この季節でも枯れていない茂みを、空けた片腕でかき分けてゆく。
 人の手など入っていない森の中、道なき道をただひたすらに歩み続ける。

 ―― どれだけ進めば、充分だろう。

 雨と寒さのせいで、自分がどれぐらいの距離を来たかなど、ほとんど見当がつかなかった。
 それでも風霊の助けを借りれば、帰り道はすぐに判るはずだ。道に迷う心配のないことだけが、今は救いだ。

 ―― とにかく、誰も人間がやってこない場所へ。

 車が入れるような、林道の近くではまだまだ不安が残る。
 誰も、誰も、けして訪れることのない、山の奧深くへと。

 ―― 『これ』を、誰にも見つからないようにしなければならないから。

 かじかむ指で、ずっしりとした毛布の包みを抱え直す。

 ―― 深い深い山中に……

 ずっとずっと、いつかそうする事を、願ってきたのだから。
 ようやくその夢が、叶おうとしているのだから。

 歩いて、歩いて。
 もう充分だと思ったその場所で、やっと重かった荷物を放り出した。

 身体は冷えきって、靴の中の爪先などは、もう感覚が無くなっていた。
 防水のはずのジャンバーは、襟から雫が流れ込んで、ほとんどその用を為していない。
 吐き出す呼吸が白く煙り、息が上がっていることを嫌でも知らしめてくる。

 ―― これで、良い。

 深々と安堵の息をつく。
 ここならば、もう、きっと誰にも見つけられない。
 二度と、余人の目に触れることはないだろう。

 これで、やっと自分に許すことができる。
 長い間封印し続けてきた、その言葉を口にすることができるのだ。

 しみじみとその思いを噛み締めて、『それ』へと背を向けた。
 そうして、元来た方向へと、足を向ける。

 早く帰ろう。
 車を停めた、あの場所へ。
 そうして優しく暖かな人々が待つ家へと、それからあの店へと、足を運ぼう。
 今はただ、無性に『あいつ』の笑顔が見てみたい ――

 そんなふうに、胸の内の想いに気を取られていたせいだろうか。
 藪の向こうへ一歩を踏み出した瞬間、濡れた落ち葉に覆われた土が、靴の底でずるりと滑って……


◆  ◇  ◆


 ふ、と。
 もやが晴れるかのように、意識が浮上してきた。
 まだところどころかすみがかってはいるが、思考力が多少でも戻ったのは、ずいぶん久しぶりのような気がする。
 貼り付いたような目蓋を、懸命に持ち上げた。
 どこか現実感の欠如した視界に映るのは、梁がむき出しの板張りの天井だ。
 それから……

「お目覚めに、なりましたの?」

 細く澄んだ、たおやかな声が問いかけてくる。
 ゆっくりと首を動かし、どうにか声がする方向をむいた。
 そうしてようやく目にすることができた相手は、声の印象を裏切らない、頼りなげな風情を漂わせた年若い女性だった。
 今どき珍しい、すり切れた粗末な木綿の着物に身を包み、蒲団の傍らに膝を揃えて座っている。ほっそりとした首を傾げて、透き通るように白い面差しでこちらを見つめていた。まっすぐな癖のない黒髪を、背の半ばでゆったりと束ねている。
 蝋細工を思わせる繊細な作りの指先が、そっと伸ばされて額に触れた。
「まだ、お熱が下がりませんのね」
 夢うつつの中でも幾度か覚えがある、冷ややかな感触。
 発熱した身体にその冷たさは、ひどく心地が良くて。
 思わず息を吐くと、その女性は穏やかに微笑みかけてきた。やつれの濃いその顔には、しかし隠しきれない喜色がうかがえる。
「でも、ゆっくり休めば、きっとすぐに良くなりますわ。もう帰ってきて下さったのですもの。時間はいくらでもあるのだから……」
 肌を濡らしていた汗が、丁寧な手つきで拭われる。
 それから彼女は、そっと体重をかけぬように気遣いながら、横たわる胸元へと両手を当てて頬を寄せてきた。
「お帰りを、お待ちしておりました。あなた ―― 」
 最後に発せられたその呼びかけに、ぎょっと目を見開いた。
 いったいなにがどうして自分がこんな場所にいるのかも謎だが、それ以上に見も知らぬ女から良人呼ばわりされる心当たりなど、欠片も存在していない。
 慌てて上体を起こそうとするが、身体はまるで鉛か何かでできているかのように重く、思うように動いてくれなかった。
「ちょ……待……あんた、なんか……勘違い、を……」
 かろうじて、声だけはなんとか発することができた。
 力の入らない声を絞り出すようにして、すり寄ってくる女を説得しようと試みる。
「俺、は……秋月家の、和馬……だ。あんたの、旦那なんかじゃ……」
 必死に主張するが、女はまるで反応しようとはしない。和馬の言葉など、その耳にはまったく届いていないようだ。
 焦る和馬だったが、その時、第三者の声が小屋の中へと響きわたった。

「その人は、貴女がお待ちになっている方ではありませんよ」

 はっと視線をそちらにやれば、真円の三つ目を光らせた異形の獣を傍らに従えて、顔なじみの青年 ―― 安倍晴明が土間に立っている。
 何故か黒縁の眼鏡などかけて、顔の下半分もマフラーで覆うようにしていた。しかし和馬がその姿を見違えることはない。
 ぐるぐると喉を鳴らして威嚇している由良を、なだめるように片手で抑えている。
 前触れもなく現れた闖入者に、女はそれまでのしとやかな仕草が嘘のように、がばりと荒々しく身を起こした。
 艶やかに潤んでいた黒目がちの瞳が、まなじりを吊り上げ、鋭い険のある光を宿して晴明をにらむ。

「 ―― 誰だ」

 低い、皺枯れた声がその口から発せられた。
 まるで葉を裏返したかのように豹変したその態度に、和馬は驚きを隠せない。
 この女は、おそらく尋常の人間ではないのだろう。霊のたぐいか、はたまたあやかしに属するモノか。そうと考えれば、時代錯誤なその身なりも、道理の通らない物言いにも納得がいった。
 だがしかし、そのどちらにせよ、この晴明を相手にしてこれほど敵意をあからさまに見せる人外の存在など、滅多に見られるものではなかった。
 ぶつけられる拒絶の意志を受け流し、晴明はいつものように丁寧に礼を返す。
「お初にお目に掛かります。わたくしは安倍晴明と申しまして ―― 」
 一度言葉を切って、横たわっている和馬の方を目で指し示す。
「そちらにいらっしゃる、秋月和馬さんをお迎えに上がりました者です。どうやら怪我をしているところを保護して下さっていたご様子。深く感謝申し上げます」
 視線を伏せて、もう一度頭を下げる。
 晴明にそういった言葉をかけられたこの世ならぬモノは、ある程度その態度を軟化させるのが、これまでの常であった。
 しかし和馬に付き添う女は、険しい表情を崩さない。
 晴明を見返すその瞳は、いつしか針の先で突いたかのように小さく変じ、明らかに異形のそれと化していた。化粧気のない褪せた色の唇が、きゅうッと両端を歪める。

「 ―― うちの人を、奪いに来たのかい?」

 まるで老婆のような声が、ねっとりとまとわりつくように問いかける。
 晴明は困ったように、眼鏡越しに見えるその眉尻を下げた。
「和馬さんは、あなたの旦那様ではありません。お人違いなんですよ。貴女も、本当は判っていらっしゃるのでしょう?」

「 ―― 黙れ!!」

 絶叫が小屋の中に響きわたった。
 和馬の胸に優しく添えられていた両手は、いつしか蒲団を鷲掴みにしていた。その指は固く節くれ立ち、猛禽の足のように長く尖った爪が、薄い綿に食い込んでいる。

「 ―― この人は、アタシのあの人だ! やっと、やっと帰ってきてくれたんだァッ!!」

 まるで、獣のような叫びだった。
 慟哭、というのは、こういうものを言うのだろうか。
 限界まで見開かれたその眼尻まなじりが裂けて、赤い血の筋が、まるで涙のように白い頬の上を伝い落ちてゆく。
「…………」
 なおも口を開こうとした晴明だったが、しかしかける言葉を失ったのか。
 唇を閉ざして、鬼と化した女性を切なげに見つめている。
 彼女は必死になって蒲団をかき寄せた。そうして和馬の胸元へとすがりつくように、震える鈎爪を這わせる。その先端は鋭く尖ってこそいたが、和馬自身を傷つけることは、毛一筋ほどもしなかった。

「 ―― あなた……あなた……もうどこにも行かないで。私を置いて、行かないで……!」

 どうか、どうかと繰り返す女に、和馬は憐れみめいたものを覚え始めていた。
 無論、自分が何か厄介なものに魅入られてしまったことは、肌で感じられた。このままではまずい事態になるだろうことも、理解できている。
 それでも……それでもだ。
 まるで溺れる者が、たったひとつの拠り所にしがみつこうとするかのような、その姿。
 髪を振り乱し、般若を思わせる形相で泣き叫ぶ鬼女の姿は……

「……すみません」

 晴明が、ぽつりと小さく言葉を落とす。
 傍らの由良は、相変わらず威嚇の姿勢こそ崩してはいなかったが、それでも今にも飛びかかりそうな、敵意に満ちた様子ではなくなっていた。
「ですが ―― 身代わりで、貴女は満足できるのですか? 貴女が待っておられた旦那様は、もう……」

「黙れ、黙れ、黙れぇぇえええッッ!!」

 魂の奧底から、絞り出すかのような咆哮だった。
 同時に地の底から強い衝撃が突き上げ、粗末な建物を揺らす。
 壁が柱がギシギシと軋みを上げ、何かに激しく乱打される屋根から、細かい欠片が降ってきた。

「黙れ……黙れ……あああ、あなた……あなたぁぁああ……」

 揺れと音はじょじょに小さくなってゆき、和馬を呼ぶ声もその力を失ってゆく。
 むせび泣く鬼女の背がだんだんと丸くなり、和馬の胸元に添えた手へと重なるように、血涙に染まった頬が寄せられた。
 小刻みに震える背中が、ひどく小さな頼りないものに見える。
 洩れる嗚咽は次第に途切れがちになり……やがて、ひっそりと火が燃え尽きるように消えていって。

「…………」

 晴明は、ただ無言で目を伏せていた。
 和馬は身じろぎもできず、己にすがりついてくる女を凝視していた。

 二人の前で動かなくなった鬼女の肉体に、やがて見る見るうちに無数の皺が寄ってゆく。皮膚が乾いて剥がれ落ち、現れた肉や骨もまた、塵と化してさらさらと崩れ ――

 そうして、いつしか。
 気が付いた時には、和馬はぼろぼろになった廃屋の床で、肘をつき上体を起こしていた。
 掛けていた蒲団はほぼ襤褸らんる。崩れ去った女の肉体は、床板のそこここに空いた穴からのぞく土と混じって、もはや見分けがつかなくなっている。
 ポツリ、と。
 冷たいものが頬をかすめた。驚いて顔を上げれば、屋根もほとんどが落ちてしまっており、そこから曇天の暗い午後の光と、覆い被さる梢の影が覗いている。そして昨夜までの雨の名残か、したたり落ちる、冷たい露の雫。
 もともと粗末な作りでこそあったが、それでもここまでひどいあばら屋ではなかったはずだ。これではもう、建物などとはとうてい呼べない状態だ。
「……こいつは……」
 呆然とする和馬の近くへと、晴明が歩み寄ってきた。土足のままであったが、もはや床も土間も、ほとんど変わりはない。
「和馬さんを助けるのと……今の叫びで、残った力を使い果たしてしまわれたのでしょうね……」
 最後に女が座っていた場所の脇で膝をつき、しばしうつむいて黙祷を捧げる。
「俺を、助けた? なんで、そんなことを……」
「 ―― 『浅茅あさぢ宿やど』です」
 晴明が呟いた。
 はたと、和馬は目を見開く。
 上田うえだ秋成あきなりがものした、江戸中期の読本『雨月物語』。その中にある一編の短い話を『浅茅が宿』と言う。
 行商に出たきり帰らぬ夫を待って待って待ち続けて、死してさえまだなお、ただひたすらに待ち続けた妻の物語。何年もが過ぎゆきて、ようやく戻ってきた夫を、妻は昔と変わらぬ我が家で出迎えた。
 薄情だった夫を責めもせず、精一杯に温かくもてなして……そうして一夜が明けた朝の光の中、夫が目にしたものは。
 見る影もなく荒れ果てたあばら屋と、とうに命を落とした妻の菩提を弔う、心ばかりの粗末な塚のみで……
「あの女性が、果たしてどれほどの長い時間、ここで帰らぬ夫を待ち続けていたのかは判りません。ただ……生命を失い、残った魂の記憶すらもがすり切れて……もう、待っていたその相手の姿さえ、忘れてしまう程の時が過ぎていたのでしょう」
 ただただもう『待つ』という、そのことだけが彼女の心に、執念として焼き付いていたのではないか。
 長い長い時の流れの中で、住人を亡くした家は朽ち、村の存在までもが消え果てて。この山奥にはもう、誰も足を踏み入れることなどなくなっていた。このままであれば、やがて彼女は遠からず力を使い果たして、人知れず消えていったに違いない。
 しかしそこに……和馬が現れてしまったのだ。
 雨の中、濡れた落ち葉に足を取られて転がり落ちた彼は、山中で意識を失って行き倒れていた。そしてそれを見つけた彼女の、既に曖昧となりつつも失われずにいた強烈な執着心が、負傷した男を『傷を負ったせいで帰るのが遅れた夫』として認識させる結果となり ――
 彼女は和馬を、自身の力で往年の姿を取り戻させた家へ連れ帰り、彼女なりのやり方で、心を尽くした手当てを施していたのだろう。

「『さりともと 思う心に はかられて 世にもけふまで 生ける命か』」

 ―― それでもいつか貴方は帰ってくるだろう、そう思う心に裏切られながら、私の命はよくぞ今日までこの世に生き永らえていたものだ。

 かの物語の中で、夫を待ちながら死んでいった妻が、最期に遺していった辞世の句。
 朽ち果てた廃屋の中で、その歌は物寂しくも深く心に染み入った。

「……俺が、たまたまここにやって来なければ、彼女は消えずにすんだのか」
「確かに ―― 和馬さんを助けることで、彼女は残る力を使い果たしてしまったのでしょう。ですが、それは早いか遅いかの違いにすぎません。いずれにせよ遠くないいつか、彼女の力は尽きたはず。このまま誰にも知られずに……待っていたというその事実そのものごと、消えてなくなってしまうよりも、たとえ偽りであれ、待ち人と信じた相手を出迎えて、ひとときでも過ごすことができた。そのことの方が、彼女にとっては救いとなったのかもしれません……」
 晴明の述懐に、和馬は額に触れて、熱を冷やしてくれたその手の感触を思い返す。
 あの時の彼女は、ひどくやつれ心配する表情をたたえながらも、どこか嬉しそうな微笑みを浮かべていた。
 幸薄げな雰囲気をまとっていたあの女は、不幸なままにその人生を終え……終えてからも孤独の内に、魂だけでひたすら来ぬ人をずっと待ち続けて……それでもその最期に、ほんの少しは幸せを感じることができたのだろうか。

「 ―― お前の言葉に、納得して。それで成仏すれば、もっと良かっただろうに」
 そこにどんな事情があったのかは判らない。夫が妻を見限ったが故に、あえて戻らなかったのか。それとも何らかの事故や事情が、無念の内に永の別れを強いたのか。今となっては知る由もない。
 それでも……先に逝った旦那が待ってくれているかもしれないあの世へと、彼女が再会を信じて旅立つことができていたならば。
 それを思うと、やりきれなさが残る。
「……しかたがありません。彼女の心に、私の言葉が入る余地はありませんでした」
 うつむいた晴明を慰めるように、その頬を由良の舌が舐める。晴明は顔を上げぬまま、感謝するようにその頭を撫で返した。
「お前の言葉でも、届かないことがあるんだな……」
 思わず呟いた和馬に、晴明は口元を歪める。
「その方が、ずっと多いですよ? 私の言葉なんて、聞いてくれる人は誰もいなかった」
「あ……! いや、そういう意味じゃなくてッ」
 和馬は慌てて首を左右に振った。
 強く振りすぎて一瞬くらりと眩暈を覚えるが、必死にこらえて言葉を紡ぐ。
「霊とかあやかしとか……そういった奴らは、だいたいお前の話を素直に聞くだろう? そりゃ言葉を操れないような知能の低い奴とか、特別凶暴なのは別だけどさ」
 それでも、ああいった寂しさに囚われている相手ほど、晴明の言葉によって救われることが多かった。中には術者によって支配され、使役鬼として利用されているモノでさえも、そのくびきから解き放たれ、自由を取り戻すことがあった。
 しかし ――
 晴明は小さくかぶりを振って否定する。
「彼らが私の言葉に耳を傾けてくれるのは、それまで誰からも言葉をもらえなかったからです。誰からも愛されず、目を向けてさえもらえなかった。それだからこそ……私なんかの些細な言葉に、救いを見出みいだしてしまうんです」
 けれど、彼女の心の中は、夫への想いでいっぱいだった。
 その形は確かに、時の流れに晒されいびつに歪んではいたけれど。
 それでも唯一の相手に向けた、どこまでも一途な愛情に満ちあふれた彼女の心に、自分の言葉が入り込む隙間など、欠片もありはしなかった、と。

「心から大切な物を持っているかたは、人であれそうでないモノであれ、私の言葉になど耳を傾けたりしません」

 そう言って寂しげに笑う晴明へと、和馬は言葉を返すことができなかった。
 そんなことはない、と。口でそう言うのは簡単なことだ。
 実際、和馬は晴明の言葉で何度も ―― あらゆる意味で救われてきた。もし彼から何かを言われれば、それについてはいつでも真剣に耳を傾けるつもりでいる。
 しかし……今ここでどれだけそうと主張しても、彼の心に届くとは思えなかったのだ。


 しばらく、次に口にする言葉を探して、思案して。
 和馬はようやく質問することを見つけた。
「それで、お前……どうして、ここに?」
 自分は誰にも見つからない場所を求めて、深い山中へとわざわざ分け入っていたのだが。
 そこでさらに遭難したはずの自分のもとへ、何故、どうやってこいつが姿を現すのだろう?
「どこまで御記憶されているのか判りませんが……和馬さん、行方不明と言うことで、かなり大規模に捜索されているんですよ」
「はあっ!?」
 予想外の言葉に、思わず素っ頓狂な声を出してしまう。
「連絡が取れなくなってから、かれこれ一週間以上経っているそうで。しかも秋月家の方達だけでは見つけられなくて、フリーの術者の面々にまで協力を仰いで、今も探されています」
 どうやら彼女の力が結界となって、風霊や占術から姿を隠す形になっていたようですね。
 穏やかな声音でそう続ける。
「冗、談……ッ!」
 慌てて立ち上がろうとした和馬は、しかし鋭い痛みに歯を食いしばって身体を丸めた。
 その姿に、晴明は慌てたように和馬の身体へ手を伸ばした。
 そっと、しかししっかりとした手つきで全身を探り、状態をあらためてゆく。和馬が苦痛の呻きを噛み殺す箇所は、特に入念に確認した。
「はっきりとは言えませんが、生命に関わるような怪我はないようですね。もしかしたら肋骨が折れているかもしれませんけど、内臓は無事みたいですし。一番重傷なのは、右足でしょう」
 見下ろす晴明の視線を、和馬も追う。
 ズボンの裾がまくり上げられた右足の膝から下に、細く裂いた古い布が、幾重にも固く巻き付けられていた。布の間から、つんと鼻につく臭いが立ち昇っていて、草をすり潰したとおぼしき緑色のものが、わずかにはみ出している。
 指先に取って臭いを確認した晴明が、小さくうなずいた。
「消炎や鎮痛に効果のある薬草です。……この時期に、いったいどうやって見つけたのか」
 彼女は本当に、できる限りの力を尽くして下さっていたんですね。
 和馬の様子からして、なにかしら ―― 流動食のようなものだろう ―― 食事も与えてくれていたようだ。そうでなければいくら基礎体力のある彼といえど、一週間も飲まず食わずでここまで元気でいられるはずがない。
「…………」
「命の恩人、ですね」
 もしも怪我をし意識を失ったまま、冷たい雨の降る山中に放置されていたならば。一週間どころか一晩も保ったかどうか怪しいところだ。秋月家が不審を感じて捜索を始めた頃には、もう手遅れになっていた可能性が高い。
「 ―― そのうち、礼に来る」
 和馬は低い声で宣言した。
 彼女の魂は、もうここにはいないのだけれど。
 それどころか、あの世と呼ばれるどこかにも、あるいは来世にも、もう彼女がゆくことはないのだろうけれど。
 けれど、だからと言って、受けた恩義をないがしろにする訳には行かない。
 彼女が待っていたという男が、いったいどんな末路を遂げたのか。今さら調べることは本当に不可能なのだろうか。まともなやり方ならば、とうてい無理だと言えるだろう。それでも伝手を頼り、様々な術者の協力を仰げば、何とかならないものなのか。
 それが無理ならば、せめて彼女の墓だけでも作ってやりたい。名前も享年も判らない、そんな相手ではあるけれど。たとえ供養などしたところで、消えてしまった彼女の魂に、届くことはないのかもしれないけれど。
 それでも、せめて、それぐらいは ――


「秋月家の方々や術者のみなさまが上でお待ちですから、いまお呼びしますね」
 そう言って、晴明は膝を上げた。
 玄関とも朽ちた壁の残骸ともつかぬ穴から、あばら屋の外へと出てゆく。
 やがて、羽根が空気を打つばさりという音が届いた。おそらくかがりあたりに手紙を持たせて、使いに出したのだろう。

 和馬は深くため息をつくと、あの鬼女が消えたあたりの土を、そっと手のひらで撫でたのだった。


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