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 不帰永眠かえることなきとわのねむり  骨董品店 日月堂 第二話
 第三章
 ― Makoto.Kanzaki Original Novel ―
 
神崎 真


 そこは、漆黒に満たされた空間だった。
 光のひとすじだに存在しない ―― そして光と相反する存在としての闇、それそのものが支配する世界。
 室内に入ったとたん、目の前に広がった暗黒。直人は狼狽して周囲を見まわした。その視界には壁も天井も、何も映らない。足元にあるはずの ―― なければならないはずの床でさえも、その所在を確認することができない。
 ただ、ぼんやりと浮かび上がるような、晴明の姿だけがそばにあった。たった今通って来たばかりの扉は、いつの間にか背後から消えている。
 晴明はまわりの様子に動じるふうもなく、無言で前方を見つめていた。白いシャツにかかる長い黒髪が、まるであたりを満たす闇の一部のようだ。
 やがて、闇のむこうから声が響いた。二人の知るところではなかったが、それは毎晩一也に怨嗟の言葉をささやく声であった。
ウヌ……ハ、……ゾ……”
 低くかすれた『声』。耳に届くとも頭に直接響くともつかない。息を呑んだ直人の横で、晴明はすっとこうべを垂れた。片膝をつき、片膝は立て、物慣れた動作でひざまずく。手にしていた箱は傍らに置いた。
「わたくしは陰陽家おんみょうか土御門家つちみかどけが係累、安倍家第四十八代当主安倍孝俊あべのたかとしが長子、四十九代当主安倍清明あべのきよあきが兄、安倍晴明あべのはるあきと申す者にございます」
 滔々とうとうと名乗る。
 と、それに応えるかのように、晴明達の前方に白いものが現われた。
 『それ』は、晴明達と同じく照らすものもない闇の中で、不思議にはっきりと浮かび上がって見える。
 純白の、巨大な蛇。
 とぐろからもたげられたその頭だけで、優にひと抱えはあるだろうか。長さの見当もつかぬ身体を覆うのは、真珠から削りだしたかのような一面の鱗。煙るような白さの中で瞳だけが紅い。三日月型の瞳孔が、全てを貫く鋭さを持ってこちらを見すえる。
“陰陽……師……ト?”
 白蛇はずるりとその身体を動かした。固く、高く巻かれていたとぐろが一部ほどけ、その内側をのぞかせる。
“此奴等ヲ遣ワシシ者カ”
 そう言って蛇神が示したのは、ふたりの人間を囲む鳥達であった。蛇神に幾重にも囲まれた中、先刻晴明が送りだした鳥達に夜摩を加えた十二羽が、等間隔に並んで円を描いている。そしてまるでその円と同じ大きさの半球があるかのように、そこだけは覆い被さる蛇神の身体から守られていた。その僅かな隙間に、一也と友弘が身を寄せあうようにしてへたりこんでいる。
「な、直人! 来てくれたんかッ」
「安倍ぇ……ごめん。俺、ついうとうとっとしちまって……」
 一也が情けない声で謝る。晴明はそんなふたりをちらりと一瞥する。わずかに口元が緩んだ。が、すぐに視線を戻し蛇神の方を見上げる。
 顎をひいて問いを肯定すると、蛇神はその両目を細めた。しゅうしゅうと空気が抜けるような音をたてる。鮮やかな紅い舌が口先で踊った。
“面白イ。卑小ナル人ノ子ノ分際デ、ワレニ盾突コウトハ。愚カナコトヨ”
「愚か……? まことに、そうお思いになっておられるのですか」
 嘲りに満ちた蛇神の言葉に、晴明は穏やかにそう返した。そこに見下された怒りはない。あくまで落ち着いた、静かな表情だけがある。
“愚カデナクテ何ダト言ウノダ。人間ナドワレニトッテハ虫ケラニモ劣ル。ソノヨウナ存在ガ、ワレヲ僅カデモ傷付ケラレルト、本気デ思ウテオルノカ”
 晴明は顔を伏せた。しかしそれでも、その面に憤りの色は表れない。
「 ―― どうか無駄なことはお止め下さい。如何にわたくしを挑発なさったところで……どうにもなりはいたしません」
 え? と直人達が目をみはる。挑発? 蛇神が? 晴明を?
 膝をついた体勢から晴明はゆっくりと立ち上がった。それでもなお、蛇神の頭は目の高さよりも上にある。
“……何ガ言イタイ”
 戸惑ったように鎌首が揺れた。
「わたくしは、貴方様をしいし奉りに伺ったのではないということです」
“ホウ……ワレト戦ウ気ナド持ッテハオラヌト言ウカ”
「御意」
 肯定。
 そして、沈黙が下りた。
 各々の思いがこもった沈黙が。
 蛇神は晴明の心の内を探ろうと、細い目をいっそう針のように細めた。直人や一也達は驚愕と困惑をないまぜにした表情で声を出せずにいる。
 晴明は ―― ただじっと、微動だにせず蛇神の姿を凝視し続けていた。ほぼ無表情に近い横顔から思いを読み取るには、その目はあまりにも深すぎた。
“……汝ガ何ヲ考エテオルノカ、ワレニハマルデ判ラヌナ……”
 つぶやいて、蛇神はゆっくりと鎌首を下げていった。威嚇するよう上から見下ろしていた目線が、晴明のものとならび、更に下方へと移る。
 蛇神から敵意が消えたと感じて、直人達は思わず安堵の息をついた。どうやら蛇神と話し合いのテーブルにつけそうだ。そう感じて張りつめていた緊張が緩む。
 が、次の瞬間、蛇神の身体が跳ね上がった。その巨体からは到底信じられぬ動きだった。たわめていたバネが弾けたかのごとく、白い稲妻が漆黒の空間を引き裂く。
「安倍ッ!?」
 友弘の叫びが耳をつんざいた。はっと晴明が上を見あげる。とっさに上げられた右手が、硬直した直人を突き飛ばした。 振りむきすら伴わないその動作だけが、彼のとった行動だった。
 そして ―― 尻餅をついた直人の目の前に、蛇身がなだれ落ちた。圧倒的な質量の移動は、不可思議な空間さえも揺るがした。弾き飛ばされた木箱がかなり離れた場所まで転がり、中身を飛び出させる。
 晴明は、避けなかった。
 頭上に迫るぱっくりと開かれたあぎとを、鋭い牙を、ただじっと見つめ、立ち尽くしていた。
 その姿が白いうねりの中に埋没するのを、三人は呆然と見つめていた。



「……あ……安、倍……?」
 直人の頭の中では、思考がほとんど停止していた。数歩足を踏み出せば届く至近距離。すぐ目の前で起きた出来事に、神経が麻痺してしまっている。
 安倍が……呑み込まれ、た……蛇神、に……?
 切れ切れの言葉が脳裏を渦巻く。
 死……
 決定的な単語が形になろうとするのを、本能的に退ける。言葉にしてしまえば、それが現実になってしまうような気がした。
 小山のように盛り上がった蛇神の身体が、ずるりと動く。
 直人はぱっと顔を輝かせた。
「安倍ッ!」
 三度目の、これまでとは違う喜色のこめられた呼びかけ。
 巨大な蛇のとぐろの中で、晴明はしっかりと立っていた。傷ひとつなく、自分の足で。直径40pはあるだろう蛇神の胴体は、幾重にも身体に巻きついていたが、何故か締めつけているようには見えなかった。
“ナゼ……”
 蛇神がつぶやいた。 再び鎌首をもたげ、真上から晴明を覗きこむ。
“……ナゼニ……抵抗セヌノダ。ワレヲ、攻撃セヌノダ……”
 その『声』は、まるで苦しみに呷くかのごとく響いた。晴明はのけぞるように首をうわむけて答える。
挿絵5 「申し上げたはずです。私は貴方様を弑し奉りに伺ったのではない、 と」
“ワレハ其方ヲアヤメヨウトシタノダゾ! 人ヒトリ呪イ殺ソウトモシテオル。ダノニ陰陽師タル其方ガ、ナゼ止メヌ!?”
 蛇神は叫んだ。カッと開かれた真っ赤な口腔が、晴明の頭上で開閉する。叩きつけるような叱責の口調は、内包された怒りと苛立たしさに震えている。己を殺せとでも言わんばかりの言葉。そこにこめられた想いには、不思議と偽りが感じられなくて ……
 晴明は顔を歪めた。まるで咎は自分にあると言わんばかりに。
「貴方様をお止めできるような力がないからです、蛇神よ。現世にただひとつ残る陰陽家の長男として生を受けながら、私には一片の術力だに備わってはおりませぬ故……」
“馬鹿ナ!”
 蛇神はしゅうっと舌を吐いた。
“デハソノ式神共ハ何ダト言ウノダ。術力チカラ持タヌ者ガ、ドウシテ鬼ヲ使役デキル!?”
 言って、一也たちを囲う十二羽の鳥を示す。自分が現われて間も無くやってき、小結界を張って人間を守り続けた此奴等だ。どうしてただの鳥でなどあるものか。鬼、即ち呪術者が使う使役神が変化したモノとしか考えられぬではないか。だからこそ自分は、呪術者が現われたと確信し、こうして空間を閉ざして待ち受けたというのに。
 しかし晴明は首を振って蛇神の言葉を否定した。
「彼らは私の式神ではありません。彼らは私の……」
 いったん言葉を切り、どこか照れたような笑みを浮かべる。
「友、です」
“トモ……?”
「はい」
 目を細めてうなずく。
「命令し、される間柄ではないのです。彼らはただ彼らの意志でここにいらっしゃいます。私が行けと命じた訳ではありません。強制的に使役する術力など、どこにも働いてはいないのですよ」
 ただ共に協力して事にあたっているだけであって、無理矢理支配し、命に従わせている訳ではないのだ。そもそも何の術力も持たぬ自分にはそんなことなど出来ないし、やろうとさえも思わない。
 安倍家の当主たれと、望みもせぬ期待を負わされ、それに答えることができず、落ちこぼれとそしられ続けた自分。術力なきが故に、安倍家の人間は自分を蔑んだ。 けれど安倍家以外の人間は、陰陽師の家系に連なるという事実を持って、みな自分を怖れ敬遠した。
 一般人の中にも陰陽師の中にも混じることができず、晴明はいつも疎外感を味わっていた。かつての彼にとって、ただひとり血肉を分けた弟を除けば、異形の者達だけが心許せる友だったのだ。あるがままの安倍晴明を知り、その上で晴明を受け入れ、側にいてくれた数少ない存在。だからこそ晴明は彼らを ―― ヒトではない異形の者達をこそ、人間よりも大切に思うのだ。
「……蛇神よ。貴方様のこと、いささか調べさせて頂きました。いにしえの時において貴方様がどのような存在であられたのか。そして何故に封じられねばならなかったのかを……」
 蛇神は両の目を見開いた。鎌首が心の動揺を表わして揺らぐ。晴明は痛ましげな表情を浮かべた。
「待って、いらしたのでしょう? 彼に取り憑くことで、害をなすことで、己を再び封印してくれる、あるいは ―― 殺してくれる術者が現われることを」
 その視線から逃れるように蛇神は顔を背けた。重い身体を引きずってうずくまる。
“……ソノ通リヨ”
 ぽつりと答える。
“ワレハモウ、疲レタノダ ―― ”



 かつてこの地がまだ片田舎の平凡な山村であった頃。
 蛇神は村を守る土地神として崇め奉られていた。美しい白蛇の姿を持つ彼の守護によって、村は他の地がどんなに飢饉や凶作、流行病などに見舞われようとも、何の被害もなく平穏に暮らしてゆけたという。
 しかし時代は移り変わり、やがて日本の各地で人間同志の争いが起こり 始める。この島国を己が手で支配しようという野心を抱いた男達が、平和な暮しを望む農民達を巻きこんで戦火を広げていった。
 いかに神などと称せられてはいても、彼はしょせん多少ぬきんでた妖力を持っただけの蛇の変化に過ぎなかった。一国を大きく動かした歴史の流れに抵抗することは、けして容易でなかった。戦の為に兵糧を差し出せだの、足軽として男を徴兵するだのといった無理難題や、村それ自体を戦場にしたりといったことから村を守り続けるのは……
 それでも、蛇神は村人の祈りに応えた。その強大な妖力によって村を見事に守り抜いたのだ。
 戦乱の世はやがて終わりを告げる。ひとりの武将によって天下は統一され、都から離れたこのあたりになど、これといった特別なことは起こらなくなる。
 ようやく長年の重圧から解放された時、蛇神は既に疲れ果てていた。確かにその妖力こそ、長年にわたる行使により強大になっていた。だが精神が疲弊しきっていたのだ。戦を起こし、己の欲望を満たすことしか考えぬ戦人いくさびとの醜さ、愚かさ。自分が守り、愛する者達の儚さ、弱さ。そういったものを見つめ続けた蛇神は、もうこれ以上存在し続け、それらのものを目にするのに嫌気がさして いたのだ。
 戦の危機は去り、世の中は平和な時代へと移り変わりつつある。ならばもはや、この村を守り続ける必要もないのではないか。
 そう、蛇神は考えた。そろそろ数百年にわたる自分の生に、終止符を打っても良いのではないか、と。
  ―― ところがそこでひとつの問題が生じた。
 どうすればその存在を無に帰すことができるのか、既に彼自身にも判らなかったのだ。己が持つ妖力のあまりの大きさ故に、自らによって自らを滅することさえできなかったのだ。



「……苦しかったでしょう」
 しばらく言葉を切り、沈黙していたあとで、晴明はぽつんと言った。
「もう嫌なのに、たとえ一刻たりともそこにいたくなどないのに ―― なのに、どうやっても逃れられない。……死ねない。生きることも死ぬことも、そこから逃げることすらかなわない。そんなことが続いたならば……狂うほかありません」
 よわい十七の少年が口にするとは思えぬほど、その言葉は重みを持っていた。さながら生き疲れた老人のもののように。
“幸イ、ワレハ狂ワズニスンダ。ワレノ苦シミヲ知リ、救オウトシタ男ガ現ワレタカラ”
「なれどその術者とても、貴方様を滅することはかなわなかった。だからせめて眠りを。いずれ来るかもしれない、寿命の尽きるその日まで、夢すらもない深い眠りを望んだ……」
 けして悪事を働いたが故の封印ではない。人を愛し、彼らのために尽くし続けた土地神へ、最後に与えられた守護の報酬。 安らぎを求めて、真に眠りにつくことができるその時までの ――
 だが、いつしか時は流れ、人々は眠るかつての守護神を忘れてしまった。
 蛇神の寝所である祠を守る血筋は絶え、その家は人手に渡る。修復が幾度も繰り返されるうちに祠の存在さえもあやふやになっていった。そして現在に至り、
 ついに蛇神の眠りは破られてしまった。蛇神にとっては唯一無二であった安息が。かつて彼を封印した男はとうにこの世に亡く、晴明には再び封印を為す力などありはしない。
 この未来さき、二度と蛇神は安らげない。どんなに辛くても、苦しくても、逃れることなどできはしない。
 それでは ――
 それまで呆然とやりとりを聞いていた直人は、息を呑んだ。恐ろしい予感が胸の内に湧き上ってくる。
 それではこの蛇神が怒っても当然ではないか。彼は何も悪いことなどしていない。いやむしろ感謝されうるべき偉業を成し遂げたのだ。それのに、そんな彼の取り返しのつかない眠りを、自分達は面白半分に破ってしまったのだから。
『だから……』
 脳裏に浮かぶのは、日月堂での晴明の言葉。
『俺はその蛇の方に味方するかもしれないよ。その蛇の方が正しいって判断したら、他にどうしても方法がないって判断したら、俺はきみ達を見殺しにするよ。こればっかりは……譲れない』
 どこか苦しげな、哀しげな表情で、それでも彼はそう言い切った。
 何を言ってるんだと思わされた。人を祟り殺そうとしている蛇が、正しいなんてことあるはずないだろう、と。それに協力を決めた晴明は、本来なら自分には何の関係もなかったくせに、当事者のこちらがとまどってしまうくらいに積極的かつ行動的で。だから自分達は、晴明が一也を ―― 自分達を助けてくれるものだと思いこんでいた。
 けれど、蛇神は正しかった。
 非があるのは、どう考えてみても自分達の方。二度と眠ることのできない蛇神が、お返しに自分達を眠らせてくれなくなった。まさに自業自得ではないか。それで自分達が死んでしまったとしても、蛇神が気に病む必要など、まるで認められない。知らなかったからといって済まされる段階ではないことを、自分達はやってしまっている。
 己の考えを悟られるのが怖かった。ぎこちない動きで一人と一体から顔を背ける。
『見殺しにするよ』
 静かな口調が耳から離れない。
 横へ動いた視界に、鳥達に囲まれている友人達が映った。こわばったその表情は、彼らが同じ考えに至ったのを示している。
 ふと気が付くと、晴明と蛇神が三人を見つめていた。漆黒と深紅の、奥の見えない二対の瞳。射すくめられて、彼らは金縛りにあったかのように身動きがとれなくなった。地獄のような沈黙があたりに落ちる。
 口を開いたのは晴明だった。
「彼らが……憎うございますか?」
 軽く目を伏せて、静かな声音で問う。
“……憎イ。此奴等サエオラナンダラ、ワレハ今モアノ、安ラカナル『無』ノ内ニ漂ッテオラレタモノヲ”
 答える蛇神の声はしかし、その内容と裏腹に乾いた力のないものであった。もたげられていた鎌首は力無く下がり、身体全体がひとまわりもふたまわりも小さくなったようだ。
“ナレド此奴等ヲ殺シタ所デ、ワガ眠リハ戻ラヌ。ワガ妖力ヲモッテスレバ、コノヨウナ人ノ子ノゴトキ、骨マデ残サズ滅シ尽クスニ瞬キ程ノ時モカカラヌ。時ヲカケ殺サズニオイタハ、ヒトエニ術者ヲ呼バセ、ワレヲ滅セサセウルタメヨ。ソレガカナワナンダ以上、モハヤドウデモヨイ……”
 ずるりと身じろぎしてとぐろを小さくする。
 晴明はそんな蛇神を見てひとつ息をついた。どこか安堵するようなそれのあと、あたりを見まわしておもむろに歩き出す。
 数歩進んで足を止めた時、晴明の前にはひとつ木箱が転がっていた。
 それは、彼が日月堂から持ち出してきた物だった。早く一也を助けに行かねばと焦る直人を待たせ、店内に飾ってあった何かを手近な箱に入れてきたのだ。箱の大きさは縦1メートル、幅と厚さは5pくらいだろうか。蛇神が襲いかかったとき跳ね飛ばされて、蓋が開き中身が外にはみ出している。
 かがんでそれを拾い上げると、蛇神の方をふりむいた。
 掲げられたのは一本の鉄製の矢だった。尾羽根から鏃まで一体に打たれた、装飾品としてのそれ。鈍く光を反射するそれを手に口を開く。
「お諦めになるのは、まだ早うございますよ」
 蛇神がふと頭を上げた。生気の失せたその顔に晴明は柔らかく微笑みかける。
「何も待つばかりでおられる必要はございますまい。力ある術者が来てくれぬというのならば、こちらの方から出向いて行けばよろしいではありませんか」
“出向ク……? ワレガ、術者ノ元ヘ……?”
 蛇神は明らかに虚をつかれたようだった。戸惑いにか瞳孔が真円になるほど開いている。
 意表をつかれたのは、直人達三人も同じだった。あまりの予想外な提案に呆然を通りこしてぽかんとしてしまう。
 た、確かにそれはそうだ。目的の人物がやって来てくれないのならこちらから行く。まことに理にかなっている。発想の転換と言えば言えた。
 しかし、それは『ある意味では』ではないのか。そんな、蛇に祟られている一也が助けを求めに行くというのならともかく、祟っている蛇の方が封じてもらいに行くなど、絶対にどこかがおかしい。だいいち実際に蛇神が出向いて行ったところで、蛇神の言葉を真に受けて彼を封印、ないしは殺してくれるような術者が、いったいどこに存在しているというのだ。仮に術を為したところで、術者にとっては力の浪費にこそなれ、一文の得にもなりはせぬというのに。
 が、晴明は安心させるように笑みを深くした。
「現安倍家頭主清明は私の双子の弟。その術力は当代、いえ陰陽道史上でも随一と謳われております。かの者ならば貴方様を封じることはもちろん、弑し奉ることも可能でしょう。術も私の口添えがあれば、必ずや施してくれましょうほどに」
“殺セル……ワレヲ? 誠ニ……?”
「御意」
“オォ……”
 驚愕とも歓喜ともつかぬ声を蛇神はあげた。その身体に再び生気が満ちてゆく。殺されることが判って生気が満ちるというのもおかしな話かもしれない。しかし何の希望も目的もなく、長い時間をただ生き続けることと、たとえそれが『死』であろうとも、待ち望むものを目の前にした短い生とでは、どちらがより充実した生きがいのあるものか。
「ゆかれますか」
 確認する晴明に蛇神ははっきりとうなずいた。
「そうですか。……それでは」
 晴明は視線を転じて一也達の方を見た。
「黒川くん」
 凛とした声で呼ばわった。
「えっ!?」
 晴明達が駆けつけてきてからというもの、これまでほとんど無視され続けていた一也は、いきなり名を呼ばれてうろたえた。喉から出た返事はといえば、間の抜けたひと声だけだ。
 ところが晴明はさらにとどめを刺すかのように続けた。
「出てくるんだ」
 と。
「え……で、出ろって……ここ、から……?」
 鳥達が張る結界の中で、一也は呆然と繰り返した。顔がさぁっと青ざめる。
「早く」
 一也がカタカタと震えだしても、晴明は容赦しなかった。眉ひとつ動かすことなく、一也を苦しめていた蛇神の前へと来るよう促す。
 見えない糸に操られてでもいるように、一也はふらりと立ち上がった。ぎこちない動きで鳥達の間を抜け、晴明のほうへと歩み寄っていく。
「手を」
 言われるままにのろのろと両手を差し出すと、晴明はその上に持っていた矢を乗せた。冷たい鉄の感触とずしりとした重さが、痺れていた一也の意識をはっきりとさせる。
 が、何もできないでいる内に晴明の手で蛇神の方へとむきなおらされた。
「この矢はかつて、蛇を喰らうという孔雀明王の社に奉納されていた霊矢れいしにございます。かの術者、清明の元に出向かれるまでの一時、御宿りになるにふさわしいかと」
 一歩下がって跪く。
 蛇神はゆっくり鎌首を持ち上げた。礼を取りかしこまる晴明を見下す。軽く首を傾げて舌を吐いた。
“ヒトツ……其方ニ聞イテモ構ワヌカ?”
「私でお答えできることでしたら、なんなりと」
 面を上げた晴明に、蛇神は問いかけた。
“其方ハ、何者ゾ? 陰陽師ニハアラズ。サレド常人ノ身デアリナガラ、ワレラ異形ト心ヲ交ワセシ者。其方ハ不思議トワレラノ心ヲ惹キツケ、信ジサセ得ル。其方ハ一体……何者ゾ?”
 晴明は即答しなかった。視線を巡らせて、一也達を囲む鳥を ―― 友の異形達を見やる。やがて蛇神の方へと視線を戻した時も、その表情は曖昧な力ないものであった。
「……私は、安倍あべ晴明はるあき。異形の者達や古きいわれのある品々に宿る念、それらに親しみを感じている、ただの人間です」
 それ以外の何者でもありはしません。
 蛇神はしばし、じっと晴明を見つめていた。が、やがてその口をついて出た言葉は、ソウカモ知レヌナ、という一言のみであった。
 そして、白い蛇身は黒鉄の矢へとその姿を溶け込ませる。


 気が付いたとき彼ら四人がいたのは、夏の午後の光が眩く差しこむ一也の部屋の中であった。


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