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 不帰永眠かえることなきとわのねむり  骨董品店 日月堂 第二話
 第二章
 ― Makoto.Kanzaki Original Novel ―
 
神崎 真


 結局直人は晴明と一緒に図書館へと行ってしまい、一也に付き添うことになったのは友弘だけだった。二人と別れ、半病人のような友人を半ばひきずって家に送っていく。勝手知ったるなんとやら、というやつで一也を二階の自室へとひっぱりあげて、友弘はもう一度階下へ下りていった。洗濯中のおばさんにひと声かけて、昼食代わりのお菓子やパンや麦茶を頂戴する。
 食欲がないと冷えた麦茶だけを飲む一也をよそに、友弘はバクバクと食べまくった。ジャムパン3つにカレーパンとコロネ。一也と比較しなくても充分に大喰らいだ。なにしろ時は土曜日の午後。1日3食は欠かさない友弘としては、いつも通りにお昼を食べられなかったぶん腹が減って仕方がないのだ。下手に晴明の所でマドレーヌを数個口にしたために、かえって胃袋を刺激してしまっていたりもする。
 散々食べまくった後、残骸の空き袋などをゴミ箱につっこんで食後の麦茶を手にすると、友弘はようやく人心地がついたと息を吐いた。
「やっぱ食うモンはきちんと食わねぇとダメだぜ。お前も食えばいいのに」
 騒々しい口ぶりでベッドに寄りかかっている一也に言う。
「でも……マジで食欲ないんだ。今はいいよ」
 一也はやつれた顔で苦笑した。まるで顔面の筋肉がひきつったようにさえ見える。
 しかし、それは笑みだった。ここ数日というものろくに見せることのなかった表情。
 そう。この数日間に比べると、一也の精神状態は明らかに良くなってきていた。少なくとも友人に笑いを見せることができるくらいには。
 いきなり自分を襲った奇怪な現象。
 どうする手立ても浮かばず、ただ為すがままになっていたその事態が、友人達に相談をしたことで解決できるかもしれない方向に動いた。そんな事実が暗く沈みきっていた一也の心に一筋の光を投げかけたのだ。
 もっともそうとは言え、まだ問題がひとつとして解決された訳ではない。この異常事態の原因こそ判ったものの、解決することができるかどうかはおろか、その方法すらもいまだ定かではないのだから。
 だいいち頼みの綱の晴明からしてが ――
「こう言っちゃなんだけどさ……」
 友弘がちょっと表情を変えて後ろめたげに口を開いた。
「あいつ……あの、安倍さァ、ちょっと変じゃないか? なんか妙にもの慣れてるっていうか、詳しいっていうか……。普通いくら骨董屋の子供だからって、こんなことがそうそうある訳じゃないだろ?」
 いまさらながらともいえるが、もっともなことを言う。よくマンガなどではいわくつきの骨董品などといった存在が登場してくるが、そんな代物がそんなに幾つも実在し、まして日月堂に集まってくるとは思えない。
「ん……確かに、そうだけど……」
 一也も視線を落としてうなずいた。
 それは改めて友弘に言われるまでもなく、一也も感じていたことだった。なにしろ一也が晴明に対して相談を持ちかけた理由自体が、晴明はどこか他人とは違うと思ったからなのだから。よく狐憑きとかヒステリー発作といった問題になるコックリさんのトラブルを、いともあっさりと目の前で解決してしまう種類の人間。
 クラスの中でよく、だれそれが幽霊を見たとか、霊感が強いとかいう話は耳にした。よく『見る』人間は思ったよりも身近に幾人もいたし、その体験談を聞いたこともある。しかし晴明のようにただ『見る』だけではなく、霊などに対して積極的に働きかけたりできる人はいなかったし、これまでその中に晴明が数えられたことも一度としてなかった。
「あいつに霊感があるなんて知らなかった」
 一也がつぶやく。応えて友弘が大きく首を上下させた。
「だいたい元からして、あんまり人付き合いのいいほうじゃなかったしな」
「そうだった……っけ?」
 友弘の言い様に一也は首をかしげた。あいつが人付き合いが悪い? 俺はそんなイメージ持ってなかったけどな。いつも愛想はいいし、他人を怒ってるようなとこだって見たことがない。今日だってさんざん呆れられはしたけれど、怒られはしなかったし。どっちかって言うとおとなしくて温和なイメージしかないのだが。
「そりゃさ、確かに愛想はいいぜ。でも俺あいつが他人と一緒に弁当食ってるとことか、見たことないぜ。遠足なんかン時に誘っても断わりやがんだ。放課後なんていっつもHR終った途端、あっという間にいなくなっちまうし」
「それはほら、店番頼まれてるからだろ」
「けど毎日だぜ。それにそんなだったら誰かが知ってそうなもんじゃないか。おまけにさっきの店での態度。あれじゃまるで二重人格だぜ」
  ―― そういえば、彼に親しい友人がいるなどと聞いたことがあっただろうか。いつも誰にでも愛想が良くて、誰から嫌われているという話も聞かないが、クラスの中にいくつかある、いわゆる仲良しグループのどれにも属していないような気がした。今までまるで気が付かなかったが、晴明とある程度以上親しい人間はいないのではないか?
「だいたい、さっきだってなんか妙なこと言ってただろ。ほら、人間よりそうじゃないモンのほうが大切だとか何とか……」
「ああ、そう言えば……妖怪に友達がいるとか言ってた……ような……」
 日月堂で告げられた言葉を思い出す。何を話しているのかは良く判らなかったが、そんな感じのことを言っていた。
 あの時は協力してもらえるのが嬉しくて言葉の意味など考えてもみなかったが、今こうやって思い返してみると何やら背筋がうそ寒くなってくる。
「あれ、マジかな?」
「まさか……」
 二人で顔を見合わせてつぶやく。無意識にひそめた声がかえって不安を増長した。
 自分達がこれまでの生活で築いてきた価値観から、あまりにもはずれたそれ。二人はどちらからともなく笑っていた。まさかそんなことがあるはずはないだろう。あれはきっとなにかのたとえか、あるいは自分達を戒めるために言ったことだろう、とお互いを納得させる。
 だが、彼らの持っていた価値観は一也が蛇にとり憑かれたという時点で、既に今の事態に適応していないという事実に、彼らはまだ気が付いていなかったのだった。



 一方、直線距離にして3キロも離れていない場所でそのような会話がなされているとも知らないで、噂の主である安倍晴明は河原直人とともに、市立図書館へと足を踏み入れていた。
 全館に冷暖房が完備された図書館内は、炎天下のなか自転車をとばしてやってきた二人にとって、非常に心地がよかった。直人は思わず天国、などと口走ってしまう。入口をはいってすぐの所にある送風口の前から動けなくなりそうだ。
 が、晴明は後ろで束ねた髪を冷風になぶらせながら、躊躇することなく奥へと進んでいった。たっぷり何秒間か置き去りにされから、直人は慌ててその背中を追いかける。
「とりあえずは郷土資料……どっちだっけ」
 独り言のようにつぶやいてあたりを見まわしている。中学の頃からちょくちょくここを利用している直人は、こっちだと先に立って案内した。
 目的の棚の前には、ちょうど良い具合に閲覧机があった。本棚から出した本をすぐその場で開くことができる。二人は早速むかいあって調べ物を始めた。
 しばらく場にはパラパラとページを繰る音だけがあった。机の上にまで差しこんでいた日差しが、じょじょに角度を変えて床へと明るさを移してゆく。
 時計の短針がかなり角度を変えても、直人は手がかりになりそうな文章を見つけることが出来なかった。立ち上がって閉じた本を棚に戻すと、既に何冊目になるのかも判らない次の本を取り出して椅子に戻る。
 いくら親友のためにとは言え、いい加減うんざりしてくる。古い紙のめくりすぎで油分のなくなってきた指をこすりあわせ直人は嘆息した。開いた本はそのままに、むかいに座る少年をちらりと見る。そこにいるのは本来ならこんな作業とは何の関わりもなかったはずのクラスメートだ。
 彼はこれといって飽きた様子もなく、淡々と文字を追っていた。机に置かれた本の上で軽く伏せられた瞳が一定の早さで上下している。
 机上に軽く両手を乗せ、背筋を伸ばし、一見悠然と読書しているふうの晴明を、直人は改めてじっくりと見つめた。
 本当に、自分はこの人物と一学期間同じ教室で過ごしていたのだろうか。
 思わずそんなことを考えた。
 名札も校章も外した白いシャツと、明るい緑色のネクタイ。それらは確かに晴明の持つ雰囲気を大人びたそれへと変じていた。だが、直人達が通う西野学園の制服は焦茶色のブレザーで、夏服の今は違うが本来は校章の入った紺色のネクタイを締めることになっている。だから他の詰め襟の学校に通う生徒などとは異なり、自分達の世代のネクタイ姿などは毎日のように目にしている。入学して一年以上もたった今更、それに違和感を覚えるようなことはなかった。
 今の晴明を一般的な高校生から隔てているのは、けっしてそんな服装うんぬんではないのだ。それは腕に付けられた飾りにしても、光に透けてなおその黒さを失わない瞳にしても、首筋から肩を経て机に流れ落ちている滑らかな黒髪にしても同じだった。肝心なものは晴明自身。普段学校でとっている態度とはうって変わった、さりげない動作の中に垣間見せられる落ち着いた物腰。穏やかな、それでいて深みをたたえた表情。
 今の晴明を目にして、彼が高校生だなどと考える人間はまずいないだろう。今の彼には学生鞄や受験勉強などよりも、もっと浮世離れした……そう、あのアンティークショップの店内で、長い年月を経てきた品物に囲まれているのが一番良く似合う。
 しばらく晴明を見つめ続けて、直人は再び大きく息をついた。軽く首を振って視線を本に戻す。郷土の昔話を集めた全集。昔どこかで聞いたことのあるような話ばかりが延々と続いている。すでに活字を追う気力の失せている直人は、いい加減に文字を拾いながら無造作にページをめくっていった。
 次々と目の前を通りすぎてゆく文字をぼんやりと眺めていたが、しかしとある部分でぎょっと手を止めた。その動きはわずかに遅く、原因になったページは通り過ぎてしまう。慌ててその見開きへと戻った
 直人はそこに晴明の名を見たような気がしたのだ。ちらりと、ほんの一瞬ではあったが確かに。
 そのページは本文についての注釈が書かれた部分だった。1、2、と番号のふられた語句がずらりと並んでいる。ざっと見開きに目を走らせてみるが、なかなか目的のものは見つからない。仕方なく直人は初めから順番に読み始めた。そして ――
 11.陰陽師おんみょうじ
 中国古代の陰陽五行説、日月、十二支に基づく陰陽道の知識や、技術を持った人々。人の不幸や疫病、動乱などの際、その原因や処置を占い定めた。また式神と呼ばれる使役霊を用いることで、様々な霊的奇跡を行なったという、和風魔法使い。
 有名な陰陽師としては 芦屋道満あしやどうまん賀茂忠行かものただゆき保憲やすのり親子、 安倍晴明あべのせいめいなどがあげられる。
「あべの……せいめい……?」
 無意識に声に出して読みあげる。読みは違うが確かに同じ字面だ。
 これは、偶然なのだろうか。いともあっさりとコックリさん……降霊術の異変をおさめてしまった不思議なクラスメートが、昔の陰陽師とかいう魔法使いと同じ名前をしているなんて。
 直人は上目使いでちらりと晴明の方を見た。と、晴明も顔を上げて直人を見ている。真正面からもろに目があった。深い深い、瞳孔の位置も判らぬほどの闇色の瞳。
 どこか人間離れしたその目に、文字通り吸いこまれるような錯覚を覚える。その感覚に促されるまま、言葉がするりと口から出ていった。
「お前 ―― 何者なんだ?」
 はたから見れば唐突な、前後の脈絡もない質問。普通ならきょとんとして問い返しそうなそれに、しかし晴明は苦い笑みを見せた。軽く首をかしげ、困ったように直人を見る。
「……ただの高校生、と言っても信じてはくれないよね」
 こくりとうなずく。
「普通の学生はあんなに簡単にコックリさんの始末をつけられはしないだろ。それに……」
 唇を舌で湿し、ずっと、日月堂にいた時から気になっていたことを 口にする。
「さっき一也に渡したあの鷹。お前あいつのこと『やま』って呼んでたろ。学校でお前が身体をやるって言ってた霊も『やま』って言ったよな。それって、偶然か?」
 晴明はまるで直人を観察するかのように、じっと凝視していた。やがて、ほうと疲れたように息を吐く。
「いい勘してる」
「え……じゃ、じゃぁ、あの鷹やっぱり……!?」
「うん。彼」
「……なんだよそれ」
 自分で言ったとはいえ、あまりに突拍子もないことを肯定されてしまい、直人はあっけにとられたおももちで目の前の少年を見た。
 確かに、そりゃあ確かに、こいつはあの『やま』とか言う低級霊に『身体を用意してやる』と言った。それが単なるその場しのぎのはったりではなかったのだと言ってしまえば、それですむことなのかもしれない。しかしだよ、よもやまるで目にも見えなかった霊をだ、どうやったら誰がどう見ても普通でしかない鷹にすることができるんだ。それじゃまるで『魔法』じゃないか。
「つまり、さ」
 晴明は言葉を選ぶように歯切れ悪く口を開いた。
夜摩やまは身体を欲しがっていらしたんだ。だから用意してさしあげたんだよ。それは何もそんなに特別なことじゃない。俺がしたのは、その……下準備というか、きちんとした手順さえ踏めば誰にだって出来ることなんだ。だから、あんなふうに姿を変える『力』を持っていたのは夜摩自身で、俺は少しばかり手伝ってさしあげただけな訳で……」
 判る?
 不安そうに訊いてくる。直人はためらいながらもうなずいた。晴明の言葉を頭の中で判りやすく置きかえる。
「つまりだ、あの鷹を化粧した人と考えると、安倍がやったのは化粧品とか鏡を用意したってことなんだろ? で、それを使って実際に化粧をしたのは『やま』。安倍に化粧をしてやる腕はないけど、安倍が化粧品を用意してやらないと『やま』は化粧できない。と、こういう訳か?」
 直人のたとえに晴明はうなずいた。
「化粧品は店に行って金を払えば誰にでも買ってこれる。でもきれいに化粧をすることは、修行と素質がないと出来ないからね」
 そう補足を入れる。
「だけど、誰もが金を持ってるとは限らないし、たいていの奴はどんな化粧品を買ってくればいいのか判らないんじゃないか?」
 直人がもう一歩つっこんだ。どうしてお前はそんな道具や知識を持っているのか、 と。それを聞いて晴明は軽く肩をすくめた。浮かべる表情は、どこか自嘲めいたものだ。
「……俺は言うなればその化粧メーカーの息子でね。修行はさせられたから何をどうすればいいかは知ってるけど、素養がまるでなかったから後を継げなかったわけ」
「え……メーカーの息子って……つまり……」
 たとえがいい加減複雑になって、直人はとまどった。メーカーというのはつまり、今回のような事件に対する本職を指しているのだろう。そこの息子が安倍晴明。その昔の陰陽師とやらと同じ名前を持つ少年。と、言うことは……
「アベノセイメイって人と、なんか関係あったり……するのか?」
 その人名に、晴明はひどく複雑な顔をした。嘲り、自虐、悲しみ、そんなごちゃごちゃの感情に満ち溢れた表情。それらは一瞬で消えたが、答える声音はやはり低く暗いものだった。
「……一応、先祖だよ。直系のね。まったく、『晴明』なんて名をつけられたおかげで、どれだけ ―― 」
 言葉の終わりのほうは息と同化して聞き取れなかった。直人も前半の部分で受けたショックのせいで、ほとんど聞いてはいない。
 つまり、安倍は世が世なら陰陽師まほうつかいだったということなのか。それならばまあ、納得がいくことはいく。要は寺とか神社の息子が、仏教や神道に詳しいというのと同じことなのだろう。そういった血筋なら霊感があるのもうなずける。
 ……まてよ。でもそれなら素質がなくて後を継げなかったというのは、どういうことなのだろう。安倍の家がまだ陰陽師とやらをやっているとしても、安倍は充分いろんなことができてるじゃないか。コックリさんを鎮めたり、低級霊に身体を用意してやったり。それだけのことができても、陰陽師になるのにはまだ力不足なのか。
 そのことを指摘すると晴明はゆるく首をふった。
「さっきも言っただろう。俺には何の力もないよ。それこそひとかけらもね。彼女達から離れることを決めたのも、鷹の姿になる力を持っていたのも、全ては夜摩。俺がしたのは説得と準備だけだよ」
「相手が聞き入れてくれなかったなら、どうすることもできはしない?」
 日月堂での晴明の言葉を繰り返す。
「そう。人間同志ではそれが普通だろう?」
 脅迫や強制なんてものは卑劣な手段。本来ならばそれがあたりまえのことのはずなのだ。
 晴明とこうしてむかいあい、語りあっていると、何やら自分の考え方がひどくあさましいものだったような気がしてくる。
 なんとなく居心地が悪くなってきて、直人は視線を晴明からそらして本に落とした。あまりにも深くてまっすぐなその目から逃れるように、活字に神経を集中する。晴明もしばらくそんな直人を見つめていたが、やがて本へと目を戻した。二人の間には再び静かな空気が漂う。



 変化がおきたのは、さっきの会話からさらに小一時間程も過ぎた頃だった。
 つらつらとページをめくりながらも、今ひとつその内容に集中できずにいた直人だったが、その耳に涼しげな音が届いた。何か硬く小さい物が触れあうような、微かな音。その出所は机のむかい側だった。晴明が軽く目を見開いて自分の左手を見ている。
「あ、安倍……それ……ッ」
 あたりもはばからず大声をあげようとして、直人は慌てて口をふさいだ。静かな図書館の中でたしなめるような視線がむけられる。それに身をすくめて、直人は改めて晴明の手元を見た。もしかしたら見間違いではないかと思ったのだ。
 音を立てているのは左手首にはめられた腕飾りだった。しかも、まるでその内に碧き炎を宿すかのように、ゆらめく光を放ちながら。
 それは直人が知る限り、一度も外されたことのない物だった。いくら校則がゆるいとはいえ、れっきとした高校にも堂々とつけてきているのだ。幾度か教師に注意を受けてはいるらしいが、授業中だろうと体育の時間だろうと構わずはめている。
 大小様々な翡翠の勾玉が、細い銀鎖を編んだものに幾つも下げられている。玉石は単純に鎖に通されているのではなかった。ある部分には中くらいの玉が一列に、ある部分には大きな玉を囲むように小さなそれが幾重にも、複雑に絡み合い釣り下げられている。まるで古代の巫女か何かがつけた装身具を思わせる品だ。
 深い色を宿す半透明の石。濃いその緑は、かなりの値打ちものであることを示す。しかし、いくら上質な翡翠だからと言って、それが自ら輝くなどということがあるだろうか。ましてや、そのはめられた手は微動だにしていないのに、細かく振動し、音を立てるなどということが。
  ―― 否。そんなことはありえない。それが単なる翡翠である限りは。
 強く、弱く、時には途絶えまた戻る。まるで何かを伝えるかのように変化する光と音。その中から何かを読みとったのか、晴明はひとつうなずいた。
「どうしたんだ? それ……何かの合図、とか?」
 直人の質問には答えず、あたりを見まわして席を立った。読んでいた本もそのままに書架の間へと入っていく。
「お、おい、どこに……」
 置いていかれた直人は慌てて後を追った。よくは判らないが、どうやらただ事ではないらしい。
「何なんだよ、一体ッ」
「蛇神が現われたんだ」
 精一杯声を抑えた問いに早口の答えが返ってくる。えッと声をあげて絶句する直人をよそに、晴明は人気のない窓際で足を止めた。分厚い専門書の並べられた一角だ。本を取りに来る者もいなければ、カウンターからもちょうど死角になっている。
「夜摩が助けを求めてきたって。早く助けにいかないと」
 言いながら晴明は床にかがみこんだ。片膝を汚れたタイルにつく。
 胸ポケットから取り出されたのは小さな木の箱と携帯用の筆だった。箱に入っているのは和紙。先程メモ代わりに使ったものだ。
 床の上で和紙に筆を走らせ始めた晴明の傍らに、直人もしゃがみこんだ。興味津々で手元をのぞきこむ。
 まず目に入ったのは紙の上半分を占める星形だった。等間隔にならぶ五つの点をひとつおきに五本の線で結んだ、いわゆる茫星というやつだ。続いてその下には文字とも紋様ともつかぬ奇妙な図柄。複雑でいかにも書きにくそうなそれを、晴明は一瞬の停滞もなく書いてゆく。しかも筆で。書かれるのは一枚ではなかった。二枚、三枚、同じものを次々と書いてゆく。紙を押さえる左手では、翡翠の光がさらに強さを増している。
 あまりに真剣なその横顔に、直人は声がかけられなかった。何をしているのか訊きはしたいのだが、邪魔になりそうで質問できない。
 筆が置かれた時、晴明のまわりには十一枚の紙が散らばっていた。それぞれに黒々とした墨跡も鮮やかに星と紋様がえがかれている。
 晴明は立ち上がって左手を見た。光と音を失わない勾玉達へと語りかける。
「私達もすぐに行きます。どうかお気を付けて」
 その口調は日月堂での晴明のものだ。
 晴明の言葉に応じるかのように、光がいっきに輝きを増した。初めは翡翠を透かして碧色に見えていた光が、勾玉をはみ出し、それぞれに白や黄色や赤といった様々な色合いをあらわにする。
 そして、唖然と直人が見守る前で光は大きくはじけた。まるで花火のように四方へ尾をひいて飛び散る。
 十前後はあるピンポン玉大のそれらは、正確に床の和紙の上へ落ちた。ひとつもずれることなく全てが、五茫星の中心へと吸い込まれるように消える。
 続く一瞬に何が起こったのか、直人にはとっさに把握できなかった。床に落ちていた和紙がふわりと波うったように見え、え? と思った時にはもう、そこに鳥が現われていたのだ。一枚の和紙につき一羽。合計十一羽の鳥がだしぬけに出現する。
「あ、あ、あ……?」
 ぱくぱくと口を動かすが、言葉が出てこない。
 か、紙が鳥に変わった? そりゃあ確かにいろいろと書いてありはしたけれど、どう見たって単なる紙きれだったのに。
挿絵4  そんな直人を足元から見上げてきたのは、美しい白鷺しらさぎだった。純白の羽に長い足と嘴をもち、後頭部には一枚の飾り羽を伸ばした大柄な鳥だ。その目が妙に馬鹿にしているように見えるのは直人の気のせいだろうか。
 横にいるのはもっと小柄な中型の鳥。黒い頭部に青い翼、灰色の腹をしている。尾長おながだ。ばさりと翼を羽ばたかせて晴明の肩に飛び乗ったのは、温和そうな姿とは裏腹に鼠や兎を常食とする肉食の猛禽、ふくろう。他にもきじみさご、烏にかもめ、鳩までいる。一羽として同じ種類の鳥はいない。
「お気を付けて」
 鳥達に囲まれて、晴明はもう一度そう口にした。ぐるりと十一羽を見る。応えて鳥達は同時に鳴き声をあげた。あらゆる種類の混じった騒々しいそれに、直人ははっと我に返る。
 いっせいに飛びたった鳥達は、閉ざされているガラス窓を何の苦もなく通り抜けた。一路夜摩のいる、一也の家の方角へと飛んでいく。
 それをじっと見送っていた晴明は、鳥達の姿が庭に植えられた木々のむこうに隠れるとすぐに踵を返した。まだ状況が良く判っていない直人の腕をつかむ。
「行くよ河原くん。早く」
 そのまま早足で歩きだす。危うくひきずられそうになって慌てて足を動かした。直人が自分の足でついてくるのを確認した晴明はいっそう足を速める。
 明らかに人間ではないものの鳴き声が聞こえてきた一角から出てきた二人。しかもただならぬその雰囲気に、図書館内の人間が困惑した目をむけてきた。が、晴明はいっさいかえりみなかった。足早に閲覧室をつっきって図書館を出ていく。
「お、おい、だからいったい何がどうしたっていうんだよッ。きちんと説明しろよ!」
 直人がようやく問いを投げられたのは、二人がもう自転車小屋にたどり着いてからだった。ガチャガチャと自転車を出してまたがりながらわめく。晴明はふりむきすらしないでまっすぐに前を見すえていた。ペダルを踏む足には尋常でない力がこもっている。それでも、返ってきた言葉は比較的まとめられたものだった。
「つまり、黒川くんと中村くんの所に例の蛇神が現われたんだ。それで護衛をしていた夜摩がSOSを発したわけ。それをこの中にいた ―― 」
 いったん言葉を切って左手を掲げる。
「夜摩の『同類』がキャッチして、俺に知らせてくれたんだ。後は全員総出で『お化粧』。十二体いれば、いくら相手がかつて『神』と呼ばれた程の妖力を備えた存在だとしても、しばらくは持ちこたえられるそうだから」
「え……同類? それに神って……」
「元低級霊や雑多な『気』『念』の塊が変化へんげしたもの。魑魅に魍魎、妖怪、あやかし、雑鬼、鬼獣、その他。全部俺の友人だよ」
 あっさりとした口調で言い、絶句する直人に構わず続ける。
「蛇の方は伝承を見つけたんだ。その昔、蛇神を眠りにつかせたという祠の話を」
「え、本当にッ?」
 たったあれだけの時間で、と感心する。さすがに慣れているというか、取り組みかたが違うというか。直人の方は蛇の『へ』の字も見つけられなかったというのに。
「で、どんな話だったんだ? その蛇退治。そいつの弱点とか分かったのか」
 勢いこんで訊いた直人に、今度は返事は来なかった。視線をやれば硬い横顔がある。
「……殺してさしあげます。蛇神……必ず ―― 」
 微かにつぶやかれた声が強い風にさらわれる。
「あ、安倍?」
「急ぐよ。まずは日月堂だ」
 言って、晴明は赤に変わった信号を強引に渡っていった。わずかに遅れて追いかける直人目がけてクラクションが鳴らされる。
 そこから目的地までの道のりで、直人は確実に寿命が縮む思いを味わった。



 途中でいったん日月堂に立ち寄った二人が一也の家へとたどり着いた時、そこにこれと行った異変が起こっているようにはとても思われなかった。少なくとも外見上は、いつもとまるで変わらない様子であった。
 庭で洗濯物を干していた一也の母親は、二人の少年が息を切らせてやってきたのを見て、くすくすと笑った。若い子達は元気ねェ、などと彼等にとっては呑気きわまりない声をかけてくる。おじゃまします! とわめいて家の中に飛びこむのを見送った彼女は、何やら1メートルくらいある細長い木箱を持った方に少し首をかしげた。あんな子が今までウチに来たことあったかしら。ずいぶんと長くてきれいな髪をしているけど……。まあ、友達が増えるのは良いことだわ。彼女は微笑んで洗濯干しに戻った。後でお茶でも持っていってあげようと考えながら。
 いっぽう、階段を駆け上がって一也の部屋の前まで来た直人と晴明は、そこの所で立往生を強いられていた。一也が危ないと勇んでここまでやって来たのは良いのだが、ドアが開こうとしないのだ。しばらくガチャガチャとノブをまわしていた直人は、やがて青ざめた顔でふり返った。
「こ、この部屋、鍵ついてないんだ。なのに……何で開かないんだッ!?」
「……結界を張られてる」
 晴明も心持ち血の気のひいた顔でドアを見る。
「蛇神が室内の空間を閉ざしてるんだ。蛇神の意志がなければ中に入ることはできないし、出ることもできない」
「そんな! なんとかならないのかッ」
 晴明は右手をあげると掌をぴったりドアに押しつけた。扉の奥を見透かすかのように遠い目をむける。
「蛇神よ ―― 」
 静かな、落ち着いた声で晴明は呼びかけた。
「私のこの声は、貴方の御耳に届いておりましょう?」
 直人の傍らで、クラスメートのはずの少年はみたび不可思議な雰囲気を身にまとった。
「いま、その場にりしは私に助けを求めて来し者。私は彼等を助けたく思い、 また貴方様に申し上げたき儀がございます。故に蛇神よ、私を ―― 私達を中にお招きいただけませんか。我が提案、必ず利あるものにございますれば……」
 声を荒げる訳でなく、脅しをかける訳でもなく、ただ静かに語りかける。そこに含まれる敬いの念は、けして言葉遣いだけではない。はたで聞く直人の耳にさえ、疑いようもないほど誠意のこめられたもので……
 しばしの沈黙ののち、扉はカチャリと音をたてて内側に開いた。
「行くよ」
「……ああ」
 乾いた唇を舌で湿す。
 そうして、彼らは蛇神達の待つ室内へと足を踏みこんだ。


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