<<Back  List  Next>>
 不帰永眠かえることなきとわのねむり  骨董品店 日月堂 第二話
 第一章
 ― Makoto.Kanzaki Original Novel ―
 
神崎 真


 SHRも終ったその放課後、2年7組の教室は明るい喧騒でわきかえっていた。夏休みを数日後に控えた土曜の午後だ。生徒の自主性を尊重するという方針が売りで放任的なこの学校。生徒達がおおっぴらにはしゃぐのは当然のことだった。とっとと帰り支度をして教室を出る者。財布を片手に購買へと走る者。ひとつの机を囲んで弁当を広げる者もいれば、何やら数人で固まってごそごそやっている奴等もいる。
 いつもと変わらぬのどかな空気は、しかし破られた。
 数人の生徒達による、カン高い悲鳴が教室内へ響きわたる。
 クラスメートの視線がそちらの方へと集中した。何事かと数人が近寄っていく。そこでは机を囲んで座った女生徒達が青ざめた顔で硬直していた。
「ちょ、ちょっと誰よ、質問もしてないのに動かしてるの」
「あ、あたしじゃないよ。そっちこそ悪ふざけやめてよ!」
 彼女達の右手は机の上の紙に置かれていた。いや正確に言えば、伸ばした人差し指を紙に載せられた十円玉へと置いている。そしてその十円玉は、あいうえおといった五十音や1〜9の数字、YES、NOという言葉とハートのマークが書かれた紙の上でずずずとゆっくり動いていた。
 いわゆるコックリさんという遊びである。一部の学生の間ではやっている、コックリさんというものを呼び出して質問をする、一種の降霊術だ。
「どうしたんだ?」
「手が、手がひとりでに動いて……」
 女の子のひとり、長い髪をポニーテールにした子が泣きそうな顔で答える。どうやら彼女達の呼び出した霊が勝手に動きだしたらしい。まだ質問もしていないうちに十円玉が移動し始めたのだ。慌てて止めようとするがすごい力でどうにも止まらない。
「マジかよ。ふざけてんじゃないだろうな?」
「本当だってば!」
 裏返った声で怒鳴りつけられて、質問した生徒は表情を改めた。
「指離してみろよ」
「できたらとっくにやってるッ」
 お帰り下さいとくり返し頼んでみてもまるで効果がない。
「やだッ、誰かッ」
「誰か助けてよッ!」
 次第に顔色を失ってきた少女達が、震える声でまわりに助けを求めた。急なことにクラスメート達は誰も手出しができない。と、とりあえず先生呼んでくる、とひとりが駆け出しかけた。
 と、その時、カタンと椅子を引く音がした。皆が驚きのあまりざわついていた中、何故かその音はやけに大きく響いた。
 また何か起こったのかと全員がびくりとしてそちらを見た。急にしんとした教室の中、いたのはひとりの男子生徒。
 帰ろうと机の中身をしまっていた鞄を机に置いた彼は、女生徒達の方を見て深くため息をついた。ひとり落ち着いた様子でコックリさんの行なわれている机へと近付いていく。その動きにつれて少年と机の間にいた生徒は、道を譲るように脇へと退しりぞいた。
「お、おい安倍……下手に手ェ出すとヤバイんじゃないか……?」
 恐る恐るという感じでかけられた声に少年 ―― 安倍あべ晴明はるあき ―― は苦く笑った。
「放っておけば、もっとややこしい事になりかねないから」
 そんな妙に達観した答えを返す。
 そしてきょとんとした相手をそのままに、晴明は机に手をついた。軽く身体を前傾させ、女の子達の手元、十円玉を載せた紙を覗きこむ。後ろでひとつにまとめられた長い黒髪が、ぱさりと机に落ちかかった。
挿絵1 「貴方は……どうなさりたいのです?」
 低い、場違いなほど優しい声で晴明は語りかけた。するとそれまで滅茶苦茶に動いていた十円玉が一瞬動きを止める。しかしあっと顔を輝かせかけた一同の前で、再び十円玉は移動を始めた。しかも今度はきちんと文字を示してゆく。
 まずは『か』。続いてずっと左に進んだかと思うと『ら』の位置で止まる。そして今度は後戻りを始め『た』と『か』。
「からたか?」
「シッ!」
 声に出してくり返した誰かを別のひとりがたしなめた。いつの間にやら教室に残っていた全員が机のまわりに集まり、事の成り行きを見守っている。
 左斜め下に進んで『ほ』。右上にむかって『し』と『い』を指し、ハートマークに戻る。
「からたかほしい……身体が欲しい?」
 晴明の発音した内容に、皆がぎょっと息を呑んだ。特に実際にコックリさんをやっている少女達のショックは相当なものだった。さらに追討ちをかけるように、十円玉がYESの方へと移動する。
 それはつまり、この霊が彼女達の誰かへ、とり憑きたがっているということに他ならない。
 女の子達の紫色を通りこし、白くなった唇で震えている様子に気が付いているのかいないのか。晴明は霊の言ったことに驚いたふうもなく会話を続けた。
「そんなに実体をお持ちになりたいのですか?」
『YES』
「では、それは人間の肉体でなければならないんですか?」
『NO』
「でしたら人でも犬でも猫でも鳥でも、自分の意思で動かせる身体なら良ろしいんですね」
『……YES』
「判りました」
 晴明はそこで微笑んだ。ふわりとした優しい表情が十円玉の方、呼び出された霊へとむけられる。
「私が手配しますよ。今この場では無理ですけれど、必ず」
 晴明の申し出に十円玉は戸惑ったように動いた。ぐねぐねと何の方向性もなく紙の上を移動する。
「用意ができたらお呼びします。どう呼べば良いのですか?」
 しばらくあちこちと滅茶苦茶に動いていた十円玉は、やがて二つの文字を通過して止まった。
 『や』『ま』。
「……承知しました。では、彼女達から離れていただけませんか?」
 言って、晴明は左手を女の子達の手に重ねた。半袖シャツから出たその手首には、緑色をした数珠のようなものがはめられている。
 2、3秒のあいだ手を重ね続け、それで晴明は傾けていた上体を起こした。あっさりと手も外してしまう。
「すんだよ」
 穏やかな調子で言う。あまりにも簡単な物言いに、女の子達は狐につままれたような顔をした。それからこわごわと指を持ち上げてみる。
「あ!」
 そばで見ていた男子生徒が声を上げた。
「離れたぁッ」
 泣き笑いのような表情でポニーテールの子が叫んだ。あとの二人は緊張が解けたのかそのまま泣き出してしまう。
「 ―― 安倍、お前すごいのな」
「やったじゃん! 安倍って霊感あったんだ」
 ずっと不安そうに見守っていたクラスメート達が口々に賞賛した。
 バンバンと手荒に肩や背中を叩いてくる。しかし晴明は曖昧に応じた。机の紙を取り上げる。そして2、3度音を立てて無造作に引き裂いた。残骸を両手で丸めながら口を開く。
「これに懲りたなら、2度と狐狗狸こっくりさんなんかしないことだね。素人が狐狗狸さんなんてやったら、一体何を呼び出すか判ったものじゃないんだから。いいね」
 わがままな子に言い聞かせるような口調。しかしポニーテールの子は反駁はんぱくした。
「これはコックリさんとかじゃなくて、キューピットさんだもん。コックリさんは低級霊を呼んじゃうってよく聞くけど、キューピットさんが呼ぶのは天使なんだから。だから大丈夫だって本にも書いて……」
 クラスメートの言葉を、晴明は緩く首を振ることで否定した。
「キューピットさんだろうと狐狗狸さんだろうと ―― エンゼルさんだろうと星の王子様だろうとひとふで様だろうと、どれも降霊術には変わりがないんだ。多分どこかの少女雑誌でも読んだんだろうけど、いい加減な知識で心霊関係の事を扱うと、それこそ死んでも文句は言えないんだよ?」
「そ、そんなおおげさな……」
 横から口をはさんだ男子にも首を振ってみせる。
「そういう中途半端な心構えが一番いけないんだ」
 そして声もない女の子達に静かな口調で続けた。
「もし今度同じような事があっても、また俺が何とかできるとは限らないよ。君達がとり憑かれようと殺されようと、全ては自業自得。自分の責任なんだから」
「お、おい、ちょっと言いすぎじゃないか?」
「でも、そうだろう?」
 あっさりと言う。が、女の子達がいっそう激しく泣き出しそうになる前に、晴明は少し表情を緩めた。
「……だから、ね」
 丸めた紙を示して、
「こんな事はこの先、絶対にやらない方がいいよ。それと友達がやっているのを見かけたら即座にやめさせるといいし。それを守ればもう大丈夫だから」
「……う、うん」
 三人ともがこくこくとうなずく。こんな怖い目に会うのはもうごめんだった。
「ん」
 素直な反応に晴明はにっこりと笑ってうなずいた。先刻霊にむけられたものとよく似たそれに、泣いていたはずの女の子達が思わず見とれてしまう。
「じゃ、俺は帰るから」
 言って晴明が机に戻ってからも、女の子達はぼんやりと晴明を目で追っていた。
「え、もう少しいいじゃないか。もっと話聞かせてくれよ」
「悪いけど急いでるんだ。またね」
 数人が引き止めようとするが、すまなさそうに断わった。中断していた帰り支度をてきぱきと整え、ポケットから出した時計で時間を確認する。足早に教室を出た。
 全く、意外な所で時間を食ってしまった。早く帰って店を開けなければならない。
 それでも走る事はせず、早足で歩を進める。そんな晴明を後ろから追ってくる者がいた。こちらは完全に廊下を走っている。
「安倍! ちょっと待ってくれよ。安倍ッ」
 自分を呼ぶ声に晴明は足を止めて振り返った。ずいぶんと切羽詰まったものがその声からは感じられる。
「何か?」
 訊いた先にいたのはクラスメートのひとり、黒川一也だった。晴明にとっては、同じクラスの人間だというだけの、別段親しいと言う訳でもない、ろくに言葉を交わした事もない相手だ。
 一也は走ってきたためか膝に手をついて息を切らせていた。が、やがて顔を上げると訴えた。
「ちょ、ちょっと話、あるんだ。聞いてくれない、か……?」
 見上げながら言ってくるその顔は、晴明の記憶していたものに比べるとかなり面変わりしていた。顔色が悪くなり、目の下には隈ができている。心なしか頬のあたりもこけているようだ。白目の部分もかなり充血しているし、どうやら最近あまり眠っていないらしい。おまけに怪我でもしているのか首や腕など数カ所に包帯を巻いていた。
「な、頼む。相談にのってくれ。この通りだ」
 そう言って、廊下の真ん中で頭を下げる。
 晴明は困惑の表情で一也を見返した。
「相談って……俺に?」
 訊き返す晴明に一也はこくこくとうなずいた。晴明はますます困ったように眉を寄せた。
「別にいいけど……でも今日は早く帰らなきゃならないんだ。急ぎの事だって言うんなら俺の家に来てもいいけど、そうじゃなかったら、また月曜日にでもしてくれないかな」
「駄目だ! 今日じゃなきゃ。お前ンち行く! 行くからッ」
 あたりをはばからぬ大声で言われて、晴明は今度は別の意味で顔をしかめた。この様子ではどうやら、本当に只事ではなさそうだ。何があったのかは知らないが、果たして自分程度で力になれるのなら良いのだけれど……
 そんなことを考えていると、またしても追いかけてきた者がいた。
「一也! お前なんで安倍なんかに相談するんだよっ!?」
 ずかずかと大股で歩み寄ってきたのは、やはりクラスメートの中村友弘だった。一也とは、やはり一緒に追いかけてきている、河原直人との3人でいつもつるんでいる。中学の頃から付き合いがある、自他共に認める親しい間柄だ。
「この間からずっとおかしかったくせに、いくら理由訊いてもちっとも答えなかったよなぁ。なのにそいつには話すんかよ。ぇえっ!?」
 それこそ唾を飛ばさんばかりの勢いで詰めよってくる。視線をやれば、友弘のように口に出しこそしないものの、直人の方もかなり不満気な顔をしていた。彼らにしてみれば、何でも打ち明けられると思っていた親友が、いきなり自分達をつまはじきにして他人との間に秘密を持とうとしているのだ。自分達には何の断りもなく。腹がたってもそれは仕方ないと言える。
「あの……良いかな?」
 そっと口を挟んだ晴明を、友弘が何だとばかりにらみつけてくる。
「俺、本当に急いでるんだ。だから黒川くんに話があるのなら、中村くんも河原くんも一緒にうちに来ない? その方がゆっくり話も出来ると思うし」
 虹彩と瞳孔の差さえも定かではない、射干玉ぬばたまのような黒い瞳で見つめられて、友弘はじょじょに落ち着きを取り戻した。まだ不満そうではあるが、乗り出すようだった身をひく。
「……わーったよ。行けばいいんだろ。行けば」
 ぶすっとした口調で言う。直人も無言で顎を引いた。



 準備中と札が下げられたドアをポケットから出した鍵で開け、晴明はさっさと店内へ入っていった。
 骨董品屋アンティークショップ日月堂ひづきどう
 晴明の学校から徒歩十五分。市の駅からは五分といった、なかなかの場所に建っている店だ。
 少し待ってて欲しい、と晴明は店の奥に消えてしまった。残された3人は、どこか店の雰囲気に圧倒され、じっとその場に立ち尽くしてしまう。
 店内には骨董品という物にありがちなイメージである、古ぼけた埃臭い感じはなかった。あるのはもっと別の……たとえて言うならば、使いこまれて飴色になったマドロスパイプのような、とでも言おうか。長い年月を経てきたものだけが持つ、とろりと甘く、全身にまとわりつくような濃密な空気。深く色濃い重厚さ。床に敷かれた絨緞には落ち着いた色合いで植物をデザインしたとおぼしき模様が織りこまれている。壁にはタペストリーや数種の時計、ワードローブや飾り棚などがあり、室内にいくつも並べられた卓や出窓などには、様々な小物が飾られていた。
 窓からは陽光が降りそそぎ、壁のあちらこちらにある燭台を模した電灯の光が、明るく室内を照らしだしている。それにもかかわらず、そこはさながら時が止まったかのような、黄昏のごとき気配に満たされていた。
 カラン コン
 どれくらいぼんやりとあたりを見まわしていただろうか。
 入口に付けられた鐘の鳴る音がして、彼らははっと我に返った。思わず互いに顔を見合わせてしまい、そこで初めてぼーっとしてしまっていたことに気が付く。すっかり予想もしなかった店内の雰囲気に呑まれてしまっていた。
 照れ隠しもあって一同は競うように入口の方を見た。
 ドアを開けて入ってきていたのは、四十代くらいの男だった。麻のビジネススーツを着こんだ、実業家タイプの中年男性だ。この店に足を踏みいれるにふさわしいと思わせるような、柔らかく落ち着いた印象を与えられる。
 その男性はまるで何かを探すように店内を見まわしていた。が、やがて諦めたのか一也達に声をかけてきた。
「失礼だが、御主人がどちらにおられるか知らないかね?」
 いきなり見知らぬ人間に話しかけられ、一也と友弘はうろたえてしまった。御主人というのが一体誰を指しているのか判らない。
「あの、ちょっと判らないんですけど……それにまだ準備中だと思いますし……」
 自信なげに直人が応じた。と、店の奥、吹き抜けになった二階から晴明が姿を現した。
挿絵2 「いらっしゃいませ、早川様。お待たせいたしました」
 やはり絨緞の敷かれた階段を、彫刻の施された手摺にそって下ってくる。
 鞄を奥に置いてきた彼は、名札を外した半袖シャツの上から上品な緑色のネクタイを締めていた。さっきまでと違う所と言えばそれくらいなのだが、ネクタイの緑が制服の焦茶のズボンや手首の飾りに映え、がらりと印象を変えている。さらに穏やかで慇懃な語り口と物腰が加わり、今の晴明は実際よりもぐっと年を重ねた、青年のように思われた。一也達は一瞬お兄さんか誰かかと勘繰ってしまう。
「所用の為、少々開店が遅れてしまいまして。申し訳ございませんでした」
 頭を下げる晴明に男性はいやいやと手を振った。
「私の方こそ、準備中の札があったのにもかかわらず、中に人がいるからと失礼させてもらったのですから。ところで ―― 」
「ええ、御予約なさっていらした品ですね。ちょっと失礼」
 晴明は会釈すると棚のひとつに歩み寄った。鮮やかな螺鈿細工の引き出しを開け、20cm四方ほどの薄い木箱を取り出す。それをそっと両手で持ち、戻ってきた。室内の中央近くにある、何も置かれていない円卓の上に載せる。
「中国は清代の絵皿。どうぞお確かめ下さい」
 蓋の上で結ばれた紐を解き、つと男性の前に押しやる。男性はどこか緊張したような手つきで木箱を開けた。そしておお、と言う感じで目を見開く。
「御要望の品に、間違いはございませんね」
「……ええ」
 確認を取る晴明に男性はしっかりとうなずいた。蓋を卓に置いて鞄を開ける。取り出された封筒も卓の上に置かれた。晴明は丁寧な手つきで受け取る。
「確かに」
 中身を確認もせずうなずいた。そして木箱を鞄に収めた男性に言う。
「また良い品が入ったならば御連絡致しますので」
「ええ。よろしくお願いします」
 機嫌良さそうに帰ってゆく客を戸口まで見送る。ついでに準備中の札を外してきた晴明は、呆然と2人のやり取りを見守っていた一也達に微笑みかけた。
「お待ちどうさま。立ってないで、どうぞ」
 普段の口調に戻って椅子を勧める。大人びた言動にまたも圧倒されつつあった3人は、ほうと息をついて促されるままに腰を下ろした。円卓を囲んで並べられた椅子はクッションがきいていてなかなかの座り心地だ。
「コーヒーでいいかな?」
 どこからか取り出したサイフォンでコーヒーを淹れ始める。インスタントではない本物の豆だ。卓上の鉢には小さなマドレーヌが盛られている。店内にコーヒーの良い香りが漂った。
「しっかし、お前んトコが骨董屋だったとは知らなかったぜ」
 一服して気持ちに余裕が出てきたあたりで友弘が言った。改めてぐるりと店内を見まわしている。
「もしかして、急いでるって言ってたのは店番があったからか」
「まあ、ね」
 直人の問いに曖昧にうなずく。本当の所はそれだけではなかったのだが、まあそういうことにしておこう。
「さっきの皿、あれいくらで売ったんだ? な、教えろよ」
 興味津々で友弘が身を乗り出した。彼はさっき木箱の中身を盗み見していた。あの、自分にはさほど高価そうには見えなかった皿に、一体どれほどの価値があったのだろう。
「五十万」
 あっさり。
「ご、ごじゅう……?」
 何の感慨もなく口に出された金額に、直人の動きが止まった。黙ってコーヒーをすすっていた一也も唖然とした表情で晴明を見る。ちなみに質問をした当の本人は、食べていたマドレーヌを喉に詰まらせて目を白黒させていた。ことの元凶である爆弾発言をした晴明は、ひとり落ち着いて友弘に新たなコーヒーを差し出す。
「……お、お前ッ、ンな大金、無造作にほっといていいんかよ!?」
 ようやく喉の塊を飲み下してわめいた。なにしろいま彼らが使っている円卓には、まだ金の入った封筒が置かれたままなのだ。よくよく見てみれば確かにかなり分厚い。
 思い返してみれば、客に売った絵皿とかいう代物も、彼は平気な顔で扱っていた気がする。
「別に……誰かが盗る訳でもないし、粗末に扱ってる気はないけど。でも気になるって言うんなら、しまってこようか?」
「しまってこい。しまってこい。さっさと行ってこいっ!」
 しっしっと追い払うような仕草をする友弘に、晴明は不可解そうに首をひねった。立ち上がって封筒を手にすると部屋の奥、普段生活している部分につながるドアへむかう。
「どうせそのコーヒーカップだって、売れば十五万はするのに。割ったら弁償してくれる?」
「えッ!?」
 ぎくっと全員が一瞬硬直する。そんな3人に晴明は明るい笑い声を上げた。冗談だよ、冗談、と言い残してドアのむこうに消える。
 ややあって直人がぼそりとつぶやいた。
「……どっちがだよ」
 金額か、それとも弁償うんぬんか。低い声には疲労の色が滲み出ていた。



 しばらくして戻ってきた時、晴明は腕に一羽の鳥を止まらせていた。身体の斑点模様も鮮やかな、凛々しげな鷹である。珍しいペットだな、と触ろうとする友弘を軽くあしらい、空いた椅子の背もたれに止まらせた。そして改めて皆にコーヒーを淹れ、ようやく腰を下ろした。卓の上で両手を組み合わせ、深い瞳で一也を見やる。
「……で、相談したいことって?」
 穏やかな口調で問いかける。
 それまでのやりとりで心なしか明るくなっていた一也の表情が、ふぅっと沈んだものになった。さほど冷房が効いている訳でもないのに、手を温めるようにカップをかかえこむ。
「……眠れないんだ」
 しばらくためらった末に、視線を落としてつぶやく。いや、見りゃ判るけどよ、などと口にする友弘を直人が黙らせた。そんなふたりも一也と晴明は完全に無視する。
「眠ろうとすると必ず『あれ』が来るんだ。許さない、眠らせなどしないって邪魔しに来るんだ。もう3日になる。家でも、学校でも関係ない。このままじゃ睡眠不足で死んじまうッ!」
 手の中でカップがカタカタと震えた。きつく力のこもった指は関節が白く浮き出ているほどだ。
「一体何がやって来るんだい?」
 一也が落ち着くのを待って晴明が尋ねる。
「それは……」
「それは?」
 促すのにもかかわらず、一也は言い淀んだ。まるでそれを口にすることによって、そいつを呼び寄せてしまうのではないかと危惧するように。やがて意を決したように顔を上げはしたものの、やはり口に出すのはためらわれたのか、一也は自分の右腕に巻かれている包帯に手をかけた。結び目を解き、端を持っていっきに引きほどく。
 包帯の下から出てきたものを見て、晴明が眉をひそめた。
「これは……紐の跡かなんかか?」
 直人が評する。
 それは、2cmぐらいの幅の、何か細長い物で締めつけたような跡だった。赤黒い痣がぐるりと腕を二めぐりしている。よく見ればその中には細かい楕円形の跡がびっしりとあった。直人の言葉通り、まるで縄や組紐といった凹凸のある物で締めあげたかのように。
 だが、晴明は首を振ってつぶやいた。
「……蛇、だね。それもかなり霊力のある」
 一也はこくんとうなずく。そんな一也に晴明は厳しい目をむけた。
「一体何をやったんだ。蛇は全ての動物の中でも最も霊格の高きもの。故なくして他者に害を与えはしないよ。心当たりがないとは言わせない」
 険しい口調で促す。一也は後ろめたげに身をすくめた。ちらりと上目使いで晴明を、続いて直人と友弘の方を見る。
「多分、この間のことが原因だと思うんだ……」
 そう言って一也が始めた話は、あまりのことに晴明を呆然とさせる内容だった。
 何でも、一也の家はけっこう古い木造建てだった。一也がここに引っ越してきたのはまだほんの子供の時だったのだが、その頃から既に今とほとんど変わらないくらいには古かったらしい。庭などもかなり広くて手入れが行き届かず、夏場ともなれば人の背丈近い雑草で隅の方はほとんど見通せなくなってしまう。
 4日前の午後のことだった。期末試験も終った解放感から直人と友弘は一也の家に集まってだべっていた。くだらないことをしゃべったりTVゲームをやったりを続けた三人は、いい加減それらのことに飽きてしまい、庭に出てキャッチボールを始めていた。友弘の投げた球がとんでもない方向に飛び、雑草の中へと紛れこんでしまう。
 そして、ぶつぶつ言いながらもそれを探しに行った直人が、庭の片隅に古ぼけたほこらを見付けたのだった。
 呼ばれて駆けつけた一也も驚いてそれを見つめた。長年この家に住んではいたものの、そんな所にそんな物があるとは全然知らなかったのだ。いや、知ってはいたかもしれないが、それまで特に意識などせずにいたのだ。
挿絵3  木でできたひとかかえほどのそれはもうずいぶんと痛んでいた。長い間風雨に晒され続け、正面の扉などはいい加減穴が開き始めている。
 普段からあまり目にすることのない祠などという代物。小さな戸の穴からはわずかにその中が見てとれる。そんなそれの様子に彼らが好奇心をそそられたのは、あるいは当然のことだったかもしれない。しかもそれは自宅の庭にある。つまり何かをしても咎める人間はいないのだ。
 いったいこの中には何があるのか。何が祀られているのか。
 それはある意味とても純粋な疑問だった。何の悪意も、イタズラ心さえもそこには存在しなかった。彼らはその時、ただ祠の中を見たいという、それだけの考えで行動していた。
 黒ずんで腐りかけた戸を、開いてみたのは一也だった。そして祠の中に安置されていた物を ―― 一本の破魔矢をその手によって取り出したのも、また。
 破魔矢……その昔、邪を払うといわれた破魔弓の、矢。
 祀るよう、封ずるよう、それは祠に納められていた。何十年か、何百年かの長きにわたり。
 長い間湿気の多いそこにあった矢は、祠本体よりもさらに脆くなっていた。何かのはずみに軽く力をこめた手の中で、白アリと微生物に侵食されていたそれはあっけなくも折れ、ぼろぼろに潰れてしまう。
 その頃になって、ようやく一也達は何かまずいことをしたのではないかと気が付いた。何か、取り返しのつかないことをやってしまったのではないか 、と。
 だから彼らはその矢の残骸を慌てて祠の内に戻した。そしてわたわたと戸を閉めて、とっととその場から退散すると知らぬふりを決めこんでしまう。
「……そう言えば、そんなことやったっけ」
 と友弘。今思い出したと言わんばかりの口調だ。直人も言われてみれば、という顔をしている。
 何と言っても青春まっただなかの高校2年生。過ぎたことにいつまでもこだわっている世代ではないのだ。あれから特にこれといったこともなかった2人は、そんなことをやったなんてきれいさっぱり忘れ去っていた。
「で……その夜から蛇がやって来て、眠らせてくれなくなった、って?」
 話の途中からじょじょに頭に手をやってうつむきつつあった晴明は、疲れたような声でそう確認をとった。
「うん」
 こくりと一也がうなずく。その答えに晴明はどっとため息をついた。
「あ、あのね……」
 つぶやくが、しばらくその後の言葉が続かない。きまり悪そうに視線を合わせる3人を晴明は呆れた表情で見やった。額に手をあてて二、三度かぶりを振る。
「……どうしてそんな真似ができるんだい? どんな物とも知れない祠を面白がって開けたあげく、中身を壊した? しかもそれをそのまま放ってくるなんて……」
「やっぱり、それがまずかったんかな?」
「当たり前だろう」
 あっけらかんと訊いてくる友弘に何とか答えを返す。
「祠とか社っていう存在が何の為にあると思ってる? ああいった所はたいてい何かを祀ったり、あるいは封じたりしているんだ。それが良いものにせよ悪いものにせよ、何の準備もなしに解き放ったりすることが良いはずないじゃないか」
 深々と嘆息する。
「その……何とかなりそうか?」
「 ―― 難しいところだね」
 恐る恐る訊いてくる一也に複雑な表情で答えた。
「だって悪いのは、一方的に禁忌を破ったきみ達の方じゃないか。さっき学校でも言った通り、いい加減な気持ちでいい加減なことをしたんだ。たとえここで黒川くんが祟り殺されようと、続いて中村くんや河原くんがとり憑かれようと、全ては自業自得。自分達で始末をつけるべき事なんじゃないのか?」
 視線を皆からそらして言う。
 冷淡なその言葉に、一也はしゅんと下をむいた。あの蛇にとり憑かれて4日間。今日コックリさんに憑かれた少女を、ああもあっさりと救って見せたクラスメートの姿に、ようやく日の光が見えたような気がしたというのに。
 溺れる者は藁をもつかむというが、藁よりは確実に太いと思われたそれは、しかしぷっつりと切れてしまった。そんな風に言われてしまえばまったくの正論。彼の口からそう言われてしまうと、もはや強いて頼む気力すら湧いてこない。
 が、見かねた直人が抗議の言葉を口に出そうとした時、晴明がそれを遮っ た。
「俺には別に特別な力がある訳じゃないよ」
 それまで浮かべていた呆れや非難といった表情をきれいに消した、真剣な面持ち。
「俺にできるのは、ただ相手を説得することだけ。相手が聞き入れてくれなかったなら、もうどうすることもできはしない。判るかな?」
「あ、ああ」
 それぞれにうなずく。つまりどこぞのマンガや小説のような真似はできないと言っているのだ。
「それに……もしかしたら俺はその蛇の方につくかもしれないよ」
「えッ!?」
 予想外の言葉に耳を疑う。
 だが、その言葉にからかうような響きはなかった。ただ厳然たる事実のみを伝えてようとしている。
「俺は……人間よりも彼らが、人外の者の方が大切だから。妖怪、鬼、魑魅魍魎ちみもうりょう ―― みんな人間よりもよっぽど素直で、純粋な存在だよ。たとえ彼らが雑多な『気』の塊でしかなくとも、様々な『念』が物体に宿った結果生まれたものであろうと、その中には俺にとって大切な友人がたくさんいる。人間の、中よりも」
 晴明は左手にはめている、勾玉を連ねた腕輪をそっと撫でた。傍らから鷹が甘えるように喉を鳴らす。その鷹を愛しむような目で見て、晴明はわずかに表情を和らげた。
「……人外の者と人間。今まで俺を認め、受け入れてくれたのはほとんどが人外の者だったよ。
 人間なら他に守ってくれる人もいる。ただ人間だと言うそれだけの理由で、見知らぬ他人に好かれる事はなくても、無条件に嫌われる事もない。だけどそうでない存在は違うんだ。何も悪い事などしていない彼らを、無条件に受け入れ、守ろうとする人間は滅多にいない。ただ彼らが人間ではないと言うそれだけの理由で……
 人間も、そうでない者も俺は大好きだけど、人間は俺以外にも好きになってくれる人がいるから ―― 守ってくれる人が、いるから。だから、俺は人外の者の方を守りたいと思う。……その為にこそ、俺はここにいるんだ」
 優しい手つきで鷹を撫でてやる。
「ね、夜摩やま
 顔をすりよせてくる鷹の名を呼ぶ。
 そして、晴明は視線を一也達に戻した。晴明の言葉に戸惑っている彼らを見すえる。その表情は決して明るいものではなかった。
「だから ―― 俺はその蛇の方に味方するかもしれないよ。その蛇の方が正しいって判断したら、他にどうしても方法がないって判断したら、俺はきみ達を見殺しにするよ。こればっかりは……譲れない」
 苦しげな、哀しそうな表情で、それでも彼は言い切った。
「あ……? えっ……と、それって、つまり……」
 きょとんと狐につままれたような顔で友弘がつぶやいた。何やらややこしいことを言われていまひとつ頭がついていかないのだが、そういうふうに言うということは……
「助けて、くれるんだな」
 一同を代表し直人が確認をとった。
「場合によっては努力してみるだけだよ」
 素気ない答えが返る。
「それならそうって早く言えよ! 何だかんだややこしいこと言うから不安になっちまったじゃねぇか」
 怒っているのか喜んでいるのか、友弘がバンバンと晴明の背中を荒っぽく叩いた。一也もこわばっていた顔をほころばせる。
「だから絶対助けるって訳じゃないと……」
 つぶやく晴明の言葉は、どうやら二人の耳に入っていないらしい。晴明は深くため息をつくと額に手をあてた。
  ―― 考えてみれば、彼らはごく普通の一般人なのだ。人外の者についての知識はもちろんのこと、呪術や陰陽道などのこともろくに知りはすまい。それどころか妖怪や変化へんげ、鬼といった代物の存在さえも、今回のようなことがなければ信じていなかったかもしれない。そんな彼らにいきなりどうのこうのと言ってみた所で、自分のこだわりが理解してもらえるはずもない。
 だいいち、ずらずらとこの場でいろいろ言ってみたところで、まだ相手の蛇の事も全く不明なら、手の施しようがあるのかないのかもまるで判っていないのだ。机に座って考えこんでいる暇があるのなら、まずは行動を起こしてみるべきだ。
 軽く肩をすくめ、暗くなってしまった気分を変える。
「……とりあえず、今日の所は休店だね」
「えっ?」
「だってまずはその祠について調べなきゃならないだろ? でもって、図書館は6時には閉まってしまうから、それまでにとなると、店番のいなくなるここは閉めざるを得ない」
 きょとんとする3人に、何を今さらというように言う。
「だ、だけどまずいだろ。勝手に店閉めたりしたら、親に怒られるんじゃないのか?」
 気遣う一也に晴明は苦笑した。ひらひらと掌を振ってみせる。
「そこらへんは大丈夫だよ。どうせしょっちゅう休店してるしね。それより黒川くんの家の場所教えてよ。あと祠の位置も詳しく」
 言って、胸ポケットから木製の小箱を取り出す。箱の中にはメモ用紙くらいの薄い和紙がたくさん入っていた。その一枚を渡されて、一也はごそごそと地図を描き始める。いっぽう箱に蓋をかぶせてポケットに戻そうとした晴明は、ふと気が付いたように手を止めた。
「そうだな……誰かに護衛をお願いしたほうがいいかな」
 コツコツと人差し指で箱を叩きながら思案する。
なぎ蛍火けいか……それとも、由良ゆらがいいかな。いや……」
 何やら名前らしきものをぶつぶつとつぶやく。 と、鷹がクゥと喉を鳴らした。え、と晴明が視線をやると、鷹はまるで名乗りを上げるかのように羽ばたいて頭を上下させた。
「貴方が……行って下さるんですか? 夜摩」
 よろしいんですか? 訊く晴明に、鷹は頭をすりよせて応える。晴明は微笑むと人差し指で鷹の喉元を掻いてやった。箱をポケットにしまいこむ。
「じゃぁ、黒川くんは帰って休んでて。護衛に彼が付いててくれるから」
 地図を描きあげた一也に、腕に移した鷹を差し出す。いきなりつきつけられた猛禽に、一也はぎょっとして身を引いた。こわごわ指差す。
「ご、護衛って、これが?」
「うん。大丈夫、並の鳥じゃないから。何か判ったら連絡入れるよ。それまでは眠らないまでも、できるだけ休んでおいたほうがいい」
「……あ、ああ、判った」
 やつれた顔でうなずく。そんな一也の肩に夜摩を止まらせると、晴明は椅子から立ち上がった。手早く卓の上を片付けてゆく。
「二人とも、彼を頼むよ」
 店を出て鍵をかけながら言う晴明に、直人が答えた。
「一也は友弘がいればいいだろ。調べ物のほう手伝うよ」


<<Back  List  Next>>


本を閉じる

Copyright (C) 2000 Makoto.Kanzaki, All rights reserved.