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 紅 玉 残 夢こうぎょくのゆめ  骨董品店 日月堂 第十話
 第 六 章
 ― Makoto.Kanzaki Original Novel ―
 
神崎 真


 その時代、上流階級の間で結ばれる婚姻に、当人の ―― それも花嫁の意志など関与してはいなかった。彼女達はただ親や兄の言うままに、顔も知らぬ相手に嫁ぎ、夫を支え子を産むことをその勤めとするのが常だったのである。
 育子に取り憑いた彼女もまた、同様に式の席で初めて顔を合わせた相手と結婚し、その家へと入った。そうして家内をとりしきり、子を産み育て、良き妻良き母として年を重ねていたのだが ――
 夫に、愛人がいると知ったのはいつのことだっただろうか。
 その頃は男がめかけを囲うことも一種の甲斐性と見なされていた。妻にそれを責める権限はなく、むしろ夫を満足させられぬ己を恥じよとそう言われた時代である。
 だがそれで素直に納得できるはずもなく。
 妾宅へ向かおうとするのを、すがるように止めだてした彼女に、夫が向けたその言葉は……
『血筋と、持参金しか取り柄のない醜女がと』
 頬を伝う涙を拭いもせず、育子はそう呟いた。その瞳は宙を眺めたまま、現実のものを映そうとはせず。
『みっともなくて人前にも出せぬ、そんなお前にはまがい物の石ころで充分だ、と』
 震える右手が指輪へと重ねられる。
 夫から贈られたその大粒の宝石は、ルビーではなくただの贋物スピネルだった。その程度が相応な、お前などどうして愛せるものか、と。嘲るように投げつけられたその言葉が、耳に焼きついて離れない。
 ―― ならば、
『妾が万人に賞賛されるほど美しくあれば、夫は愛してくれたろうか。本物の宝石がふさわしい程に美しくあれば、妾を愛しんでくれたろうか』
 もっと美しくあったなら、この指を飾る石が、もっと鮮やかに赤くあったなら。
 夫が選んだあの愛人よりも、美しく高価な最上級の紅鋼玉ルビーよりも。
 はたしていつ、どこで耳にしたのだったか。
 西洋のある貴族の奥方は、永遠の美貌を求め、人の生き血を絞ってはその身に浴びていたのだという。そうすることでその肌はきめ細かに生き生きと輝き、目を見はるほどの美しさを、いつまでも保ちつづけたのだと。
 赤い赤い、宝石。
 どこまでも赤い、新鮮な、血。
 焦点の合わない茫漠とした瞳を巡らせ、育子は晴明の姿を映した。
『おくれな……妾がもっと美しくなれるように、この石が、もっともっと赤くなれるように』
 ゆっくりと、両腕を伸ばす。
『のう、おくれ ―― 』
 じょじょに近づいてくるそれを、晴明はまじろぎもせずただ見つめ返していた。


◆  ◇  ◆


 鈍い音とともに、厚い一枚板の扉は三つに分断されていた。
 蝶番で固定された上下の部分はそのままに、台形に切り取られた真ん中部分が自重で大きく斜めにかしぐ。
 とどめとばかりに蹴りつけると、板が向こう側に落ちぽっかりと穴が空いた。
「お見事だ」
 短く言った伯爵が、まず最初に内部をのぞき込む。戸口にかけた左手の袖口からも、既に巨大な蜘蛛が何体か顔をのぞかせていた。彼の命令があれば即座に這い出してくるのだろう。和馬もまた微妙に伯爵から距離を取りつつ、室内の様子をうかがった。その腕は胸元に引き寄せられ、いつでも次の風刃を放てるよう準備されている。
 沙也香と譲は一歩下がっていた。信じられない光景にあ然としている富川を後ろにかばい、なにかあった時のため譲が身がまえる。
 室内は、意外なほどに明るかった。
 理由はすぐに明らかとなる。扉の穴をくぐり中へと飛び込んでいった夜摩が、天井近くを飛び交う光珠の仲間に入ったからだ。同じような大きさ、光りかたのそれらに混じり、すぐにどれがどれだか判別できなくなる。
 そして降り注ぐ光を浴びて、二人の男女がいた。ひとりは晴明、もうひとりは予想していたとおり田島育子だ。ソファに腰を下ろした彼女も、その前にひざまずいている晴明も、和馬らに気づいているのかいないのか、顔すら向けてこようとはしない。
 晴明の頬に、伸ばされた育子の手が触れている。その薬指には赤い石の指輪が光っていた。大粒の紅玉に周囲をとり巻く金剛石、黄金の台座 ―― 伯爵が捜していたという指輪に間違いない。
「……奥方様」
 晴明がそう育子に呼びかけた。
 低い位置から見上げる彼の顔には、切り傷ができている。顔だけではない、二の腕や脇腹など、何ヶ所も服が破れ血で赤く染まっていた。だが彼は痛みを感じている様子など微塵も見せず、穏やかな表情で育子に語りかけている。
「貴女は既に、充分お綺麗だと思います。ですからもう、血を求めて闇をさまよう必要はありますまい」
『 ―― 妾は、美しいか』
 答える育子の声は、常の彼女に似ない高慢な響きを帯びていた。晴明を見下ろす横顔に、心なしかぶれたように、重なる薄い影が見える。
「ええ」
 晴明はまっすぐに育子の目を見つめ、誠意のこもったうなずきを返した。
「それに、いつまでも闇の中になどいらしては、せっかくのお美しさも人の目には映りません。愛されたいのならば、美しさを賞賛されたいのであれば、どうぞ多くの人に出逢える、光の下においで下さいませ」
 そう告げると晴明は、頬に触れる育子の手に己のそれを重ねた。
 そうしてそっとはずさせた手の甲に ―― はめられた指輪の紅玉に、静かな口づけを落とす。


 どれほどの時間が過ぎたのか。
 まばたきほどの間だったかもしれないし、数分が経っていたかもしれない。
 ぐらりと揺れた育子の上体を、膝を上げた晴明が抱きとめた。気を失っているだけであることを確認し、丁寧にソファへと横たえてやる。
 それからようやく、彼は戸口にいる面々の方へとふりかえった。
 数度目をしばたたかせ、口を開く。
「みなさまお揃いで ―― どうかなさったんですか」
 きょとんとしたようなその口調に、一同はどっと脱力した。
「どうかって……お前な……」
 晴明の言動に慣れている和馬が、かろうじてそんなことを呟く。
 いまのは間違っても、人を襲う化け物と共に閉じこめられていた人物が、開口一番言う台詞ではないだろう。
 化け物と相対すべく闘気をみなぎらせていた和馬は、またこのパターンかと嘆息する。要するに心配するだけ無駄というやつだ。これまでの経験からしていい加減判ってはいるのだけれど、それでも心配しないわけにはいかないし、心配してやることこそ己の役目だと自認してもいるのだが……それでもなんだか虚しくなってくるのは何故だろう。
 壊した扉によりかかる和馬をよそに、沙也香が室内をのぞきこんだ。後ろで控えていた彼女は、身長のせいもあって中の様子がよく見えなかったらしい。あちこち傷を負っている晴明を見て、途端に眉をはね上げる。
「ちょっと晴明、動かないで!」
「はい?」
 首を傾げながらも素直に動きを止めた晴明に、沙也香は扉の残骸を乗りこえ駆けよっていった。
「ああもう、そこ座って」
 育子が横たわっているのと向かい合わせになったソファへ、腰を下ろすよう指示する。それでようやく傷を診ようとしているのに気がついたらしい。晴明は手のひらを向けるようにして、沙也香を押しとどめた。
「あの、私なら大丈夫ですから。それより田島さんの方を」
 そう言ってソファを示す。
「……なんですって?」
 沙也香がすがめた目で晴明と育子を見比べた。
 育子は意識を失っているが、その顔色はそう悪くない。呼吸も穏やかだし、目立った外傷もみうけられなかった。いっぽう晴明の方はというと、ナイフで切りつけられたとおぼしき切り傷がざっと五ヶ所。ほとんどはかすり傷のようだが、左の二の腕にあるものはかなり深いようで、まだ血も止まっていなかった。結論から言うと、どう見ても晴明の方が重傷だ。
 しかし当の本人は幾分青ざめ、息さえ切らしながら、なおも穏やかに笑っている。
あやかしに取り憑かれたとあっては、なにかと負担も大きかったでしょうし」
 外部からは判らない支障が生じていることも考えられるから、早く診てあげてほしいと。
 そう告げる晴明を沙也香はまじまじと眺めていた。が、やがて大きく息を吸い、そして吐く。
「あのね、晴明」
 低い声で呼びかける。
 なんでしょうと問い返した彼に、沙也香は勢い良く指を突きつけた。
「手当てのしかたもその順番も、決めるのは私なの! 素人のくせに余計な口出しして、邪魔をしないッ!」
 唐突にはりあげられた怒声に、向けられた当人よりもその他の面々の方が飛び上がった。腰に手を当て仁王立ちになった沙也香は、高い位置にある晴明の顔を、顎を突き出すようにして傲然と見上げる。
「あ、はい。すみません」
 出過ぎたことを申しまして、と晴明が素直に頭を下げた。その光景を見た和馬は思わず内心で拍手する。さすがは沙也香だ、素晴らしい。
「……これが例の指輪か」
 そんな彼らの向かいで、伯爵が気絶した育子の手を持ち上げていた。ほっそりとした華奢な指に、豪勢な紅玉の指輪がはまっている。
「とてもイミテーションには見えないが」
 しげしげと眺める。
 深く澄んだ鮮やかな赤は、さながら血がそのままこごったかのような、美しくもあやしい輝きを放っていた。最上級のルビーは鳩の血ピジョン・ブラッドなどと称されるが、この石もそう呼ばれたところで、なんら疑問を感じさせない色合いだ。
 それはその造りが精巧だからなのか、あるいは友世や浅野の血を吸ったが故になのか。
「あ、あの……これは、このことは……」
 血だらけになっている晴明を見て、富川もようやく育子がやったのだと納得したのだろう。手当てを受けているそばでおろおろと口ごもっている。
 譲が慎重に口を開いた。
「このままでは、田島さんがすべての犯人ということになりますね ―― 」
「……それは、ちょっとまずくないか」
 和馬が唸った。
 育子は指輪に取り憑かれていただけであって、おそらく自分が何をやったのかすら、記憶していないだろう。彼女の言動のどこまでが自分の意志で、どこまでが指輪に操られてのそれだったのか、それはもはや確かめようもない。それでも和馬は彼女に好感を覚えていたし、弘泰のことを慕っていた彼女が本来の育子なのだと信じたかった。
 だが彼女が犯人だということになれば、仮に事件そのものはもみ消せたとしても、育子の立場が悪くなることは明白だった。この屋敷にも、居続けることはできなくなるだろう。
「彼女に責任はありません。たまたま年頃の女性だったことで、波長が合ってしまわれただけのようですし」
 晴明が痛ましげな目で育子を見やった。
 おそらく男と年寄りばかりだったこの屋敷では、指輪も目覚めることなく眠り続けていたのだろう。そこへうら若い彼女がやってきたばかりに、こんな事になってしまったのだが……それはけして彼女の罪とはいえなかった。
「だが、これのせいだと説明しても、水原の親族達は納得しないだろうな」
 指輪を抜きとった伯爵が、無造作に手のひらで転がした。
「じゃ、しょうがないわね」
 手当てが終わったのだろう。かがめていた腰を伸ばした沙也香が、肩をすくめて一同を見わたした。それぞれと順繰りに視線を合わせ、にこりと人の悪い笑みを浮かべる。
「口裏合わせましょ」
 逆らおうという人間は誰もいなかった。


◆  ◇  ◆


「なんかもう、えっらい疲れたな……」
 ひととおり建物内が落ち着いたのを見はからって、和馬はどっかりとソファに身を投げ出していた。余所様の屋敷でとる態度ではないが、もはや気にする体力も残ってはいない。 ―― 実際のところ、一晩徹夜したぐらいで疲労困憊するほどヤワではなく、もっぱら消耗させられたのは気力の方だったのだが。
「お疲れさまでございました」
 そんな彼の前へと、富川夫人が湯気の立つコーヒーを置いていった。
 どうやら夫からある程度の事情は聞かされたのだろう。彼女は先ほどから客達に愛想の良い笑顔を向けては、こまごまとした面倒を見てくれていた。
 その様子からしても、育子を庇った判断に間違いはなかったようだ。
 長かった夜も明け、既に時刻は昼が近い。


 あの後 ――
 手早く今後のことを打ち合わせた彼らは、まず育子を浅野と友世が寝ている部屋へと運び、それから譲と沙也香を除いた面々がもう一度もとの部屋に戻った。そうしておいて、いささかわざとらしく物音をたて立ちまわりを演出したのち、部屋の窓を思い切り叩き割ったのである。
 あとはここまで大騒ぎしてもなお、我関せずとリビングでただ息を潜めていた親族一同に、今度は晴明が襲われたが、犯人はそのまま窓を突き破り外部へ逃走したのだと告げ、強引に終わらせた。多少つじつまがあっていなかろうと、もともと水原の親族達は騒ぎを表沙汰にしたくないと考えていたのだし、客人である晴明が現実負傷しているのを目の当たりにして、むしろそちらの方への口止めばかりに意識が向いたようで、丸め込むのはそう難しくもなかった。幸い夜が明けるにつれ雨足も鈍くなってゆき、あたりが明るくなる頃には、麓からの救急車もようやく到着する。
 しかしそこでさらに怪我人の増えていることが発覚し、無線で新たに呼びつけるやら、いったい何があったのか問いかける救急隊員との間で悶着が起きるやら。そこへまたもってきて、もっとタイミングを選べばいいものを、例の指輪がイミテーションだったと伯爵が口を滑らし友美らが逆上するわ、意識不明だった弘泰が目を覚ましてその対応に追われるわで ―― それはもう本当にてんやわんやな有様だったのである。


「あら、あいつらもう帰ったの?」
 戸口からリビングをのぞき込んだ沙也香が、そう声をかけてきた。
 いまだ空はくもりぎみだったが、大きくとられた居間の窓からは雲越しに届く鈍い光が射し込んできている。昨晩の重苦しく陰気な暗闇を思えば、微笑ましくなるほどの心地よさだった。だがその過ごしやすいリビングにいるのは、和馬と晴明、伯爵の三人だけである。水原の親族達はひとりも見あたらない。
「爺さんの意識が戻っちまって、例の指輪も贋物だったっつうことで、もう用事はなくなったんだろ」
 和馬が大きな肩をすくめてみせた。
 実際ここまで見事にいなくなるとは、いくらなんでも予想外であった。普通ならもう少し体裁をつくろうというか、そんなところを見せるであろうに。
「まあ弘泰も、目障りだ、とっとと失せろとか怒鳴りつけてたしね」
「……そんなこと言ったのか、爺さん」
「あそこで『心配してくれてありがとう。もう大丈夫だから気にするな』なんて言えるようなら、家族仲ももう少しマシになってたでしょうよ」
 どうやら老人と娘夫婦らの間にある溝は、相当に広く深いものらしい。
 沙也香の言い分を信じるならば、弘泰老人の方はそれでもそれなりの愛情を抱いているらしかったが、それでもそんな物言いをされていては、家族の方とてたまったものではないだろう。
 結局のところは、どっちもどっちということなのか。
「なんだかなあ」
 たとえ血の繋がりがあったとしても、相容れない間柄というのは存在すると知っているし、他人様の家庭にわざわざ口出しするほど酔狂な性分でもない。それでも和馬などはため息をつかずにいられなかった。
「で、さ。弘泰が会いたいって言ってるんだけど、どうする?」
「こいつか?」
 和馬が親指で晴明を示した。
 指輪の売買について話し合うということだろうか。
 だが沙也香は曖昧にかぶりを振った。
「そうじゃなくて、全員。あのがやったこととか、いちおう全部話しといたから、その件じゃない?」
「ああ……なるほど」
 それぞれ得心したようにうなずき、立ち上がった。
 弘泰老人の寝室も、昨夜とはうってかわり明るく開放的な雰囲気を漂わせていた。
 寝台の上で上体を起こした老人は、枕を重ねたものに寄りかかってこそいたが、しっかりとした表情で入室してきた一同をその目に映している。
「このたびは、大変なところへお邪魔いたしまして」
 代表してまず晴明が口を開いた。老人の意志で招かれた客は彼だけなのだから、それが妥当なところだろう。
「ひどいお怪我だったとのことですが、皆さまを含めて、どなたもお命に障りがなかったのが幸いでした」
「……怪我をしたのはあんたもなんだろう」
 開口一番ぞんざいな言葉が飛び出しきて、晴明が目をまたたかせた。そんな彼を見つめる老人は、無愛想な表情のままじろじろと眺めまわし、鼻を鳴らす。
「もっともそうは見えんが。本当に襲われたのか」
 ベッド脇に立つ沙也香へと、問いかけるように顔を向ける。
「だ、旦那様……」
 茶を運んできた富川が、慌てたような声を上げ、主人と晴明とを見比べた。血まみれだった状態を実際に目の当たりとしている富川にしてみれば、ここまで平常通りのふるまいを見せているそのことの方が、むしろ驚きなぐらいなのである。
「わたくしはかすり傷でしたから」
 晴明は気に障った様子も見せず、ただにこりと微笑んだだけだった。けして社交辞令などではなく、心底からそう思っているのに違いない。
「沙也香さんに手当てもしていただきましたし、もうすっかり」
「とか言って、その左手動かしたら承知しないわよ」
 沙也香が低い声で呟いた。それから弘泰老人を見下ろす。
「アタシが説明したこと、疑うわけ?」
「……いや、そうは言わんが」
 目を伏せて一度咳払いした弘泰は、改めて晴明と一歩後ろに立つ二人を視界に入れた。
「こちらこそ、迷惑を掛けた」
 不自由な身体を枕から離し、そうして深く頭を下げる。
「あれの ―― 田島の孫のことも庇ってくれたそうで。すまなかった」
 その白髪頭を見下ろして、沙也香がうんうんとうなずく。頑固な老人がきちんと謝罪したことに、満足しているらしい。
「田島さんの罪ではありませんでしたから」
 晴明がかぶりを振って懐を探った。内ポケットからハンカチにくるんだものを取り出す。手のひらの上で広げようとするのを、沙也香が横からひったくった。
「左手使うなって言ってるでしょうが!」
 晴明をにらみつけ、かわりにハンカチを開く。
 丁寧に折り畳まれた中から出てきたのは、例の指輪だった。
「彼女はその指輪に操られていたのですが ―― ご連絡いただいていた品でしょうか」
 老人はろくに沙也香の手元を見ることもせず、いまいましげにうなずいた。
「それは私の母親が持っていたものだ。贋物だと判ってずっと埃をかぶっとったんだが、たまたま遺品の整理中に出てきてな」
 むすりとした表情のまま、低い声で説明する。
 母親の形見だという以外に、弘泰にとってはたいした価値も認められないそれだったが、さすがに若い娘だけあって育子はかなりの興味を覚えたようだった。目を輝かせて眺める彼女に、気に入ったならやろうかと差し出したところ、その場ではとんでもないと固辞していたのだが。
 しかし……
「それからどうもあれの様子がおかしくなってきて……ぼぅっとしとることが増えたり、夜中にふらふら歩いとったり。それに飼っていた猫が、野犬かなにかに襲われたのか庭で死んどったんだが、その時の反応も、な……」
 ずたずたに噛み裂かれ血まみれになっていたその死骸を、彼女は恐れるふうもなく素手で抱き上げ、頬ずりしたのだという。それだけならば愛猫の死を悲しんでいただけともとれるのだが、しかし弘泰は一瞬かいま見えた恍惚然としたその表情に、背筋を這いのぼる悪寒を感じたのだった。
 そしていっそ医者にでも見せるべきかと、たまたま尋ねてきた知人に相談したところ、いわくつきの骨董を引き取ってくれる店があると紹介されたのである。指輪の呪いだなどと冷静に考えれば馬鹿馬鹿しくもあったが、そこは弘泰も沙也香と長年つきあってきた実績がある。どうせさほど愛着のある品でもなし、手放すことで育子の様子が戻ってくれるのなら言うことはなかった。よしんば効果がなかったにせよ、それならそれで改めて医者に見せれば良いのだ。
 そう考え、日月堂とやらに屋敷まで来てもらえるよう、友人に仲介を頼んだのだが ――
「日時を知らせてきた電話を切って振り返ったところに、あれがナイフを持って立っておったわけだ」
 長くしゃべって疲れたのか、大きく息を吐いて枕にもたれかかる。
「まったくろくでもない。代金なぞいらんから、さっさと持って行ってくれ」
 いかに操られていたとはいえ、あやうく殺されそうになっていてなお、一言も友人の孫を責めようとはしない、そこのところはさすがと言えた。だがそれだけに原因となった指輪のことなど、視界入れるのもいとわしいのだろう。それで話は終わったとばかりに目を閉じてしまう。
「…………」
 晴明は困惑したようにしばらく立ち尽くしていた。その前に沙也香がハンカチをつき出す。
「タダだって、良かったじゃない」
 はい、と強引に握らせる。受け取らされた晴明は、きらめく赤い石に視線を落とした。それから改めて弘泰を見る。
「あの、水原さま」
「……なんだ」
 まだいたのかと言わんばかりに目蓋を持ち上げた弘泰に、晴明はハンカチに載せた指輪を見せるように差し出した。
「いただく以上、代価をお支払いしない訳にはいきません」
 弘泰の眉が不機嫌そうに寄せられた。
 首をねじ曲げるようにしてそっぽを向く。
「いらんと言っとるんだ」
「ですが」
「どうせ贋物だ。たいした値段でもあるまい。とっとと持って帰れ!」
 吐き捨てる弘泰に、晴明は唇を噛んだ。
「なぜ贋物ではいけないんですか」
 一瞬、その場にいた全員がは? と目を丸くした。
 あさっての方をむいていた弘泰までが、あ然とした表情でふりかえる。
 全員の視線が集中する中で、晴明は指輪をハンカチから取り上げた。親指と人差し指でリングの部分をつまみ、窓から差し込む光に赤い石をかざす。
「確かにこの宝石はルビーではないんでしょう。でもそれが何だというんですか。たとえスピネルだとしても、美しさになんの違いもないじゃありませんか」
 雲越しの柔らかな陽差しを浴びて、確かにその石は美しく輝いていた。深みのある真紅はまさに、流されたばかりの生き血を思わせる鮮やかさだ。
「いや、だけどそりゃお前……」
 和馬が呆れたように呟いた。
 宝石の価値とはそういうものではないだろう。たとえどれほど見た目が美しかろうと、どこにでもあるような手に入りやすい石に価値など認められない。希少さとか、またあるいは硬さとか比重とか、そういったものが判断基準となって、その宝石の代価を定めるのだ。
「スピネルの産出量は、ルビーの十分の一です」
「……はあ?」
 一同はまたも言葉を失った。
 ぽかんと口を開けている彼らを、晴明は確かめるように見やる。
「モース硬度は8。ルビーの9には一歩譲りますが、宝石の基準としては充分な硬さを備えています。比重や屈折率もルビーとほぼ同等ですし、見た目に至っては肉眼での判別はほぼ不可能。ルビーは紫外線下で蛍光色を発すると言いますが、それだって一部のものに限るんです」
 ルビーとスピネルが長いあいだ混同されてきたのは、それだけ両者がよく似通った性質を持っていたからだった。事実スピネルという鉱物の存在はかなり早くから確認されていたのにもかかわらず、それ以降も二百年以上にわたり混乱は続いていたのである。
「知名度が低いため、ルビーの贋物としての印象ばかりが先走ってしまっていますけれど、スピネルだって立派な宝石なんです。むしろルビーよりもずっと希少価値の高い石なのに……」
 どうしてそうも軽んじられなければならないのか、と。
 ため息を落とし、手の中の宝石を見つめる。
 近年になってようやくその価値を見直されつつあるスピネルだったが、それでも知名度は未だルビーに遠く及ばない。彩りの鮮やかさ、カラーバリエーションの豊富さなどは、ルビーやサファイヤといった鋼玉コランダム類よりもよほど魅力的だと、そう評価する販売業者もいるものの、まだまだ一般の消費者レベルにはほとんど知られていないのが実状だ。
「 ―― まったく、よく判らんやつだな」
 弘泰がかぶりを振って呟いた。
「いったいなにがしたいんだ、あんたは。ただでやると言っているものを、わざわざ値をつりあげるような物言いをして。そんなに金が余ってでもおるのか」
 こういった取引の場では、購入する側の人間がなんとか値下げしてもらえるよう交渉するのが普通だろう。にもかかわらず彼の言い様は、まるでもっと高くしろと言わんばかりのそれではないか。
 呆れたように見上げてくる弘泰に、晴明はしばらく言葉を選ぶように沈黙した。それから一言一言、確かめるように話し始める。
「かつてこの指輪を購入された男性は、最初からこれがルビーではないのだと、承知していたそうです」
 スピネルとルビーが混同されがちだというのは、既に十六世紀頃から知られていた。優れた鑑定士の目をもってすれば、当時でも両者を識別することはできたのである。
「政略結婚だった奥方に、醜いお前には贋物で充分だと言って贈り、愛人のもとへゆかれたのだとか」
 傍らで聞いていた沙也香が、物騒なうなり声をたてた。その他の面々もそれぞれに不快げな表情を浮かべる。たとえ愛せなかった相手に対してでも、もう少し接しようがあったであろうに。
「もしも、この指輪の価値がもっと認められていれば ―― けして紅鋼玉ルビーに劣るものではないのだと、そう認められていたならば、あるいはもう少し違った現在もあったのではないでしょうか」
 もちろんそれで、あの悲しい女性が夫に愛される訳では、ないのだけれど。
 それでも己をその贋物と同一視し、価値などない存在なのだと絶望してしまったあの奥方の、その心をわずかでも救うことはできなかっただろうか。子へ、孫へと伝えられるその指輪が、まがい物だと軽んじられるのではなく、親の、祖母の宝物だったのだと、大切に愛されたのではないだろうか。
 そうすれば……今になってこうして多くの人間を傷つけるようなことも、起きずにすんだのではなかっただろうか。
「だから、私はこれを安物として扱いたくないんです。この指輪に今も眠っている、あの奥方のためにも」
 晴明が口を閉ざすと、しばらく寝室には沈黙が横たわった。
 それぞれが複雑な表情で、晴明の手に光る赤い指輪を見つめる。
「指輪の価値、か」
 ふと。
 呟いたのは弘泰だった。
 晴明が顔を上げ、彼の方を見やる。枕に寄りかかった老人は窓の外を見ていた。室内にいる人間から、その表情を知ることはできない。
「我々の……私とあれと、それから浅野と友世だったか? その命では、不服なのか」
「それは ―― 」
 晴明達がいなければ、その四人がどうなっていたかは判らない。少なくとも浅野と友世の二人は助からなかっただろうし、育子とて死ぬことはなかったかもしれないが、殺人の罪を負っては社会的に抹殺されたも同然だったろう。
「私は、なにも」
 それらの人々を手当てしたのは沙也香だ。自分はただ、少しばかり奥方と話をしたにすぎない。そう続けようとした晴明を制するように、弘泰はひとつ咳払いする。
「だが、まあなんだ。釣りを出すというのなら、あれと浅野の見舞いにでもなるような、なにか、あれば」
「……お見舞い、ですか?」
「うむ。あれも若いし、もっと小さな、普段使えるような指輪とか、だな」
 浅野も、正式な場でつけられるタイピンだとかカフスだとか、そういった物をひとつぐらい持っていても良いだろうし。
「なにか、見つくろえんか」
 そう言って振り返った弘泰の前で、晴明はようやく意味が判ったのだろう。こくりとひとつうなずいて、それからみるみる明るい顔になった。
「 ―― はい」
 喜んで選ばせていただきます。
 にっこりと、屈託のない微笑みを浮かべてみせる。


 陶器のぶつかる、がちゃんという音が室内に響いた。茶を淹れていた富川が、手元を狂わせたらしい。だが誰もそれに反応しようとはしなかった。晴明だけが、大丈夫ですか? と気遣うように問いかけている。
 あーあ、と。
 とっさに目をそらしていた和馬が内心そんなため息を洩らしていたりしたのだが、そんなことを知る者などその場にいるはずもなく。
 ともあれ、
 一日遅れた商談は、これで成立したようだった。


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