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 紅 玉 残 夢こうぎょくのゆめ  骨董品店 日月堂 第十話
 第 五 章
 ― Makoto.Kanzaki Original Novel ―
(2005/01/25 17:07)
神崎 真


 その瞬間、乾いた炸裂音が室内の空気を震わせた。
 とどろく雷鳴すらをも一時かき消したそれは、強烈な静電気にも似て。激しい衝撃と刹那の閃光が、背後から襲いかかった人物を突き飛ばすように後退させる。
 その人物は持っていたナイフを取り落とし、顔を覆ってよろめいた。激しい息遣いの合間から、低い苦痛の呻きが漏れ聞こえる。
 晴明の方もまた、衝撃の余波を浴びていた。振りむきかけた不安定な姿勢だった彼は、バランスを崩し、まともに扉へと叩きつけられたのだ。それでも打ちつけた頭に手をやり、数度かぶりを振って痛みと眩暈をやりすごすと、なんとか顔をもち上げる。そうして部屋の中程まで後じさった人物をその視界へと入れた。
「 ―――― 」
 せわしなく宙を飛びまわる色とりどりの光珠によって、室内は明るく照らし出されていた。晴明の周囲を守るように乱舞するそれらの光は、一時もじっとしてはおらず、室内にある物の陰影を複雑に変化させる。
「……田島、さん?」
 おおった指の合間から、上目遣いににらみ返してくる相手の名を、晴明は確かめるように発音した。
 ―― そう。
 憎々しげな表情でそこに立っていたのは、老人の身のまわりの世話をしているという知人の孫、田島育子、彼女だった。
 老人をお爺さまと呼び、良い人なんですと笑っていた彼女が、ナイフを手に闇に身を潜めていた。そのことは、意外といえばあまりに意外な事実であった。
 だが晴明はさほど驚いた様子も見せず、ただ息を吐き、小さく呟いただけである。
「貴女だったのですか……」
 むしろ納得がいったといわんばかりの口調に、育子が身じろぎする。
 顔から手を下ろし、丸めていた背筋を伸ばして向きなおってきた。
 まっすぐに向けられたその瞳は、さながら挑むかのような力強い輝きを秘めている。
『……そなた、おかしなモノに守られておるな』
 発せられた声は、普段の彼女のそれと似ても似つかぬ響きを持っていた。
 幾重にもこもったかのような、そしてなにより相手を見下すことに慣れきったものを感じさせる、傲慢な言葉つき。
「そうおっしゃる貴女こそ、田島さん御本人ではいらっしゃいませんね」
 彼女に取り憑いた化生けしょうの存在なのでしょうと、落ち着いた声音でそう断じる。
 育子 ―― を操るその存在 ―― は、片手を口元に当てると楽しげに笑い声をたてた。鈴を転がすような、とはこんな声をいうのだろうか。高く澄んだ涼やかな響きに、室内の空気が場違いなほど華やいだものになる。
『いかにも。このような婢女はしためと一緒にされてはたまらぬわ』
 口元を覆ったその手の薬指に、飾られているのは紅い石。
 動きやすげだが質素な服装にはまったくそぐわぬ、豪奢な輝きを放っている。
 黄金の台座にはめこまれた、親指の爪ほどもある深紅の宝石の、その周囲を取り巻くのは小粒のダイヤだろうか。デザインからしておそらく、伯爵が依頼を受けて探していた品に相違ない。
「……弘泰さんや友美さん、浅野さんを傷つけたのは、貴女なのですか」
 この期に及んでなお、晴明はそんなふうに問いかけていた。
 ついたったいま、実際に刃物で切りかかられたこの状況で、たとえ違うと言われても信用できるはずがなかった。床に落ちたナイフも、この世ならぬ存在が育子の意識を奪っているという事実にしても、すべてが抜き差しならぬ証拠を示しているというのに。
 それでもなお、彼は問うのだった。
 本当に貴女がやったのか、と。
 返される答えは決まり切っていたけれど。
『無論、わたくしのやったことよ』
 刃を振るい、肌を切り裂き血潮を浴びた。紛れもなく自分のその手でと、誇るかのように指をかざしてみせる。そこには悔いる気色も葛藤もなく。
 晴明を見つめる瞳はどこまでも美しく輝いていた。笑みすら含んだその唇は、あでやかなまでに、艶めいている。
 自分のやった、そのことが。はたしてどうかしたのかと、全身から立ち上る空気で問いかけてくる。


 ―― 化け物と、人間とはな。


 耳の奥によみがえるのは、ほんのついさっき聞かされたばかりの言葉だった。


 ―― 相容れるものじゃない。
 ―― それは善とか悪とか、そういう次元の問題ではなくて。
 ―― 純粋に存在のあり方が違う以上、共存しようなんて考える方が無茶なんだ。


 それは、どこまでも正論だった。
 こうして目の前で、人をその手に掛けたと微笑みながら口にする、そんなあやかしと相対すれば、確かにその通りなのだと納得できること。彼らにとって人間を殺す行為は罪でもなんでもなく、ただその必要があるからそうしたという、それだけのことで。故に彼らは、己が必要と感じたならば、なんの躊躇も罪悪感もなく人間の命を奪おうとする。圧倒的な、その力をもって。
 事実もしもいま、勾玉から飛び出したもの達が守ってくれなかったならば、晴明はこれまでに襲われた他の人々と同様、一瞬で首を裂かれていたことだろう。抵抗する余裕など、欠片もなく。
「…………」
 晴明は、一度目を伏せると、改めて育子の姿をしたものを見なおした。
 美しく微笑みながら人の命を奪おうとする、恐るべき化け物を。
 人間として生きるのであれば、けして受け入れられぬ ―― 受け入れてはならぬ、異形の存在を。
 今も彼女は、隙さえあれば彼に襲いかかってくるだろう。それをとどめているのは晴明の力によるものではなく、ただひとえにこうして周囲を飛び、守ってくれているみなのおかげで。
 だから、
 いま彼がするべきなのは、すぐにこの部屋から逃げ出すことだった。
 そうして声を上げ、助けを呼び、和馬や伯爵といった面々に事態をゆだねるべきだった。
 それが、無力な彼のとれる、たったひとつの正しい行動。
 そんなことは、重々判っていたのだけれど。
 進んで人間に害を及ぼす、そんな存在には近づくなと、そう言った和馬の言葉を忘れたわけではなかったけれど。
 一歩、足を踏み出し、そうして彼は右手を持ち上げる。手のひらを上に向け、あでやかに笑うあやかしへと、さしのべるように。
 口を開いた時には、微笑みを浮かべていた。


「 ―― ひとつ、おうかがいしたいのですが」


 よろしいでしょうか、と。
 そんなふうに問いかけることが、けして正しい行為ではないのだと。
 それぐらい、言われるまでもなく自覚できていた。


◆  ◇  ◆


 唐突に立ち上がった和馬の姿に、リビングにいた人間達はぎょっとしたように視線を集中させてきた。
 どこか呆然とした表情で宙をにらんでいた和馬だったが、室内の様子に気がついて、はたと我に返る。
「あ……いや、すんません」
 ちょっと、と意味のない言葉を残して彼は足早に居間を出る。
 できるだけ静かに扉を閉め、次の瞬間には走り出していた。
 胸の奥底からわきあがってくる、ざわざわとしたものがある。どこかいてもたってもいられなくなるようなそれに突き動かされ、和馬は暗い廊下をひたすらに駆けた。
「なんだってんだ、いったい……」
 押し殺した声で呟く。
 次々と浮かび上がってくる、警鐘のようなイメージ。
 まるで耳元で怒鳴られているかのような錯覚すら覚えるそれを、払いのけるように大きく頭を振った。
 少なくとも、己の不安や緊張から来る錯覚などではない。それだけははっきりしているのだが。
 つきすぎた勢いを柱を掴むことでどうにか殺し、廊下の角を曲がる。途端、視界が光で覆われた。
「うわっ!?」
 とっさに避けようとして大きくつんのめる。
 数歩たたらを踏んだもののどうにか姿勢を立て直し、和馬は改めて顔を上げた。そうして反射的に構えていた腕から力を抜く。
「お前は ―― 」
 立ち尽くした和馬のまわりを、光の玉がぐるぐると巡っていた。激しく明滅しながら飛びまわる、薄桃色をしたピンポン玉ほどの光珠。ついさっき晴明と暗い廊下を歩いていたとき、あたりを照らすようその頭上に浮遊していたやつだ。常に晴明の側近くにつきまとっている異形達のうち、実体のない ―― いわばろくな力も持ち合わせていない、雑霊のひとつ。
 思わずあたりを見まわすが、暗い廊下に晴明の姿はなかった。
「なにがあったんだ」
 思わずさし伸べた手の中に、光珠が飛び込んでくる。和馬の手のひらで光珠は幾度も大きく光を放った。
「だから、なに言ってんだかわかんねえっての」
 伝わってくるのは、確たる言葉の形を持たない、曖昧な感情の色ばかりだ。さっきから和馬をいらだたせている焦燥感は、どうやらこいつが発信源だったらしい。ひたすら胸さわぎを感じさせる、しかしなにひとつ具体性を持たないその思念に、和馬はいらいらと声を荒げた。
 と、近づいてくる足音が耳に入る。
「何事なの!?」
 暗がりから投げかけられたのは、高く澄んだ少女の声だった。懐中電灯を持った譲を従え、沙也香が駆けつけたらしい。その後ろから数歩遅れて、黒衣の伯爵も姿を現す。
 新たに現れた人物達に、光珠が和馬の手を離れた。そうしてさっき和馬にそうしたように、彼らの周囲を飛びまわり始める。
「これは ―― 夜摩どの?」
 事前に紹介を受けていたのか、伯爵が軌跡を目で追いながら呟いた。
 彼らもまた和馬と同じく、光珠 ―― 夜摩が発したただならぬ思念を感じ取ったのだろう。それはある程度の感知力を備えている術者であれば、屋敷中どこにいても気がつくほどのものだった。だがこうして駆けつけてきた彼らは、そこで壁につき当たる。夜摩がなにかを訴えようとしているのは判るのだが、そのはっきりした内容を聞き取れる者が誰もいないのだ。
「もう、晴明はどこ行ったのよ!」
 たまりかねたように沙也香が叫んだ。
 そう、問題はそこだろう。晴明が ―― 実際は晴明ではなく、つきしたがう由良達がなのだが ―― いれば、夜摩の意志を通訳してもらえるのだろうに、こうして騒いでいるのにもかかわらず彼は姿を見せず、ただ光珠だけがむなしく飛びまわっているのだ。
 ならばソレが訴えんとしているのは、まさにそこのところなのか。
「晴明はどうしたんだ」
 和馬が問いかけると、光珠はふいと動きを変えた。それまでぐるぐるとまとわりついていたのが、一同から離れ、廊下に並ぶ扉のひとつへと誘導するように飛ぶ。
「そこの部屋にいるのか?」
 何故そんなところにといぶかしむ彼らの前で、夜摩は一度扉から離れると、勢い良く表面にぶつかっていった。
 実体のない彼は、さえぎられることなく扉をすり抜けるはずだった。そうして室内へと消えるだろうという予測を裏切り、まるでボールが壁に当たったときのように、もと来た方へとはじき返されてしまう。
 ありえないその光景に、一同ははっと息を呑んだ。状況を把握する一拍をおいて、同じ行為を繰り返す夜摩の元へと走り寄ってゆく。
「おい、晴明っ、いるのか!」
 和馬が扉越しにまず呼びかけた。それから慎重に手を伸ばす。なにか衝撃があるかと危ぶんだが、幸いそういったことはなかった。真鍮製のドアノブに触れ、警戒しつつ力を込める。ノブは抵抗なく回ったものの、扉は開かなかった。数度がちゃつかせながら押し引きしても、まったく動こうとしない。舌打ちした和馬を押しのけるようにして、伯爵が場所を譲らせた。鍵穴に指を押しつけ、短く呼びかける。
「菊江」
 袖口から這い出してきた小蜘蛛は、指を伝い鍵穴へと潜り込んでいった。しかしすぐに姿を現し、指先で戸惑ったようにうろうろ向きを変える。伯爵もまた困惑した表情で手を引いた。
「……鍵はかかっていないそうだ」
 つまり、尋常の方法で中に入ることはできず、そして晴明もまた内部に閉じこめられているということだ。
 どうするか思案すべく顔を見合わせた彼らだったが、そこへ廊下の向こうから光が浴びせられた。闇に慣れた瞳を突き刺すそれに、それぞれが目を細めたり手をかざしたりする。
 騒いでいるのを聞きつけたのか、姿を現したのは富川だった。部屋で浅野や友世の様子を見ていた彼だったが、晴明が戻らず、伯爵もいきなり部屋を出ていったことで不安になったのだろう。懐中電灯を手におそるおそるというふうに近づいてくる。
「あ、あの……田島を見ませんでしたか」
 それどころではないと一蹴しかけた彼らだったが、さすがにそういうわけにもいかなかった。
「見あたらないんですか」
「そういえば、いつの間にかいなくなっていたな」
 彼らと同じ部屋にいたはずの伯爵が、思い出したように呟いた。
「……田島って子、確かさっきもひとりでトイレ行ってたわよね」
 刃物を持った犯人が徘徊しているかもしれぬ、しかも明かりひとつついていない屋敷内で。
 沙也香の言葉に、譲が不審げに眉をひそめた。
「血だらけの負傷者を発見して、かなり怯えていたのではなかったんですか」
「え、ええ。ですから落ち着くまでそっとしておいたんですが」
 浅野の治療をしながら、晴明や富川が代わる代わる声をかけ、そこここを汚した血を拭いたり温かいものを飲ませたのち、隅にあるソファで休ませていたのだが。
「あんた出ていくのに気づかなかったの」
「外から来るものには注意していたんだが……」
 言葉を濁す伯爵に沙也香が呆れたように鼻を鳴らした。
「役立たず」
 にべもなく言い捨て、扉へと向き直る。
「 ―― あの子なら、近づくまで弘泰も警戒しないわよね」
「襲われた浅野さんを、最初に見つけた人物でもありますね」
「なるほど……第一発見者を疑えというわけだな」
 口々に言う一同に、富川が目をみはった。
「あ、あなたがた、いったいなにを……まさか田島を疑ってるんですか?」
 あり得ないとかぶりを振る富川に、皆がいっせいにふりかえる。
「それなら納得がいく、って話だ」
 代表して和馬が答えた。
「納得だなんて……あなた方は田島のことを知らないんです! あの気だての良い子が、こんな恐ろしい真似など……っ」
「彼女自身の意志でなら、そうかもしれないがな」
「なにかに取り憑かれてるってのが、一番ありえそうだけど」
「ああ。俺は晴明が買い取る予定だった、指輪ってのが怪しいと思ってる」
「って、例のルビーの?」
「いや、そいつ」
 のことではなくて、と続けかけた和馬は、しかし次の沙也香の言葉に目をしばたたいた。
「あれならイミテーションよ」
「 ―― はあ?」
 そんな場合ではないと判っていたが、和馬とそして指輪を捜させられていた伯爵とが頓狂な声を上げる。
「贋物!?」
「そうよ。あの時代の物には珍しい話じゃないんだけど」
 あっさりとうなずく沙也香。どうやらそれは富川も知っていたことらしく、複雑な表情ではあったが、特に否定する様子は見せない。
「だいぶ前に弘泰が鑑定させたら、ただのスピネルだったって」
「ああ、なるほど。それは確かに良く聞く話だな」
 伯爵が得心したようにうなずいた。
「どういう意味だ?」
 それだけでは判らない和馬が重ねて訊く。
「昔 ―― まだ鑑定技術なんかが発達してなかった頃にはね、ガーネットとかスピネルとか、赤い石はみんなひっくるめてルビーって呼ばれてた時代があったのよ。それが最近になって正式に鑑定してみたら、ルビーなんてそれこそ真っ赤な大嘘って判明して、騒ぎになるっていう例がよくあるわけ」
 有名なところを言えば、英王室に代々受け継がれてきた王冠を飾る、『黒太子のルビー』があげられる。重さ317カラット、大きさにして5センチ×4センチほどもあるその赤い石は、十四世紀半ばスぺイン国王ぺドロから英国のエドワード皇太子に贈られたもので、以降も数々のいわれ、説話を持つ逸品であったが、近年になって鑑定が行わた結果スピネルであったことが判明した。他にもエリザベス二世所有のネックレス『ティムール・ルビー』やロシア皇室エカテリーナ一世の宝冠にはめこまれたそれなど、ルビーと名づけられながら実際はスピネルであったという例は枚挙にいとまがない。
 歴史上に名を残す逸品でさえそんな具合なのだから、一般家庭 ―― とまでは言わずとも、ごく普通の貴族や華族らの間で流通した品々に、ルビーと称した別の石が混じっていたとしても、なんら不思議ではなかった。
 ちなみにスピネルの市場価格は、ルビーの十分の一以下だと言われている。
「はあ、なるほど。そりゃ確かに怒るわな……」
 道理で指輪の話題が出たとき、沙也香の反応が鈍かったはずである。値打ち物だと期待していた松本夫婦らも、それを聞けばさぞや気を落とすことだろう。
「ってことは、やっぱりその指輪が晴明の買うやつだったってことか?」
 伯爵が捜していた指輪と、晴明が買い取るはずだった指輪。両者が別のものだと判断したのは、単に価格上の問題からである。伯爵の言っていた指輪が実際は安価なそれだったとしたならば、同じものを指していると考えても良いかもしれない。
 だがそうである場合、贋物だというその指輪に、はたしてあやかしを宿すほどの『力』が内在するものなのかどうなのか ――
 考え込みかけた和馬だったが、次の瞬間、顔色を変えた。
 扉の向こうから物の倒れるような音が聞こえたのだ。つづいてなにかの割れる、高い響き。
「晴明どの!?」
 一番近くにいた伯爵が扉を叩いた。握りこぶしの下、厚い樫板が鈍い音をたてる。さらにノブにも手をかけがちゃつかせたが、それで開かないのはさっき和馬が実証済だ。
「くそ、どうすれば……ッ」
 ドンと激しく拳を打ちつけ、伯爵が歯ぎしりした。そんな彼の周囲を夜摩が飛び巡り、激しく明滅する。
「……っ、どけ!」
 和馬が伯爵の肩を掴んだ。
 力まかせに扉からひきはがし、さらに数歩下がるよう身振りで示す。
「秋月のっ」
 とがめるように呼びかける伯爵を無視し、和馬は大きく息を吸った。胸の前に両手をかざし、向かい合わせた手のひらの間へと意識を集中する。
 ふわりと、和馬の髪が揺れた。広い廊下の空気が音もなく動き、和馬の元へと集まるように吹き寄せてくる。
「な、なにが ―― 」
 ぽかんとしたように呟く富川を沙也香が黙らせた。そんな彼女の前に譲が立ち、守るかのように身構える。伯爵もすぐに何をしようとしているか察したのだろう。数歩後ずさって見守る姿勢になった。
「 ―――― 」
 必要な風を集めながら、和馬は慎重に狙いを定めた。
 室内で風霊を扱うのはなかなかに加減が難しい。近くに傷つけてはならないものが存在する場合はなおさらだ。まして相手はかなりの厚さがある一枚板であり、今は得体の知れぬ力で補強もされているだろう状態だ。
 やりすぎてはならないし、さりとて失敗すれば内部にいる存在に警戒心を抱かせることになる。
 一発勝負だ。
 手のひらの中で渦巻く風を意識し、そうして扉へと視線をすえる。
 視界が徐々に狭くなり、必要な部分だけが目に映るようになった。神経がその一点めがけて集中してゆく。
 振りかざした両手の間から、風の刃が放たれた。


◆  ◇  ◆


 何度目かになる白刃をかわし、晴明は数歩後ずさって壁に背をつけた。
 息が上がり始めているのは、激しく動いたからばかりではなかった。抱え込むように押さえた二の腕から、赤い血が袖を染めてしたたり落ちている。もっとも深いのはその傷だったが、他にも何ヶ所か切りつけられ、出血していた。
『そなたの血は、また格別美しいの』
 うっとりと見惚れているかのように、育子はささやいた。
 その頬にはほのかに血の気が昇り、上気して淡く染まっている。かざしたナイフの刃に目を止め、つと唇を寄せた。一筋伝う赤い滴がその唇をいっそう鮮やかに彩る。
「それは、光栄です」
 晴明の答えに、育子は満足げに微笑んだ。
『その血を浴びれば、妾はいっそう美しくなれような。だから、妾におくれ』
 もっともっとその血を。
 あでやかに笑いながら、鋭い刃を晴明へと向ける。
 突き出されたナイフを、晴明は相手の手首をつかむことで止めた。しばし力が拮抗し、二人は壁際で寄り添うかのような形になる。
 平均よりも細身とはいえ、晴明も男である。まともに力比べをすれば、育子をはねのけるなど造作もないはずだった。だが今の彼女は生身の女性とも思えない膂力を備えていた。それは無論、彼女に取り憑いているあやかしの力によるものなのだろう。さらにいうならば、たとえ相手があやかしであろうとも ―― いやそれだからこそいっそうに ―― 晴明が腕力で女性をねじ伏せるなど、できるはずもなかった。
 吐息すらかかるほどの至近距離にあって、彼らは互いの姿をその目に映す。
 晴明の、黒曜石を思わせる漆黒の瞳。そして育子のそれは間近で見れば、指にはめられた宝石の色そのままに、紅く染まっていた。
『のう、おくれ』
 そなたの血を、妾に、もっと。
 睦言をささやくかのように、幼児が玩具をねだるかのように。
 どこまでも澄んだ純粋な瞳が要求してくる。
 晴明はそれに対し、否定もうなずきも返しはしなかった。
「欲しいとおっしゃるなら、差し上げるにやぶさかではありませんが……」
 そう言って、しかし困ったような顔でわずかに眉を寄せる。
「あいにく、命に関わるほど差し上げる訳にはいかないんです」
 だから、いまのこれだけでこらえていただけませんか?
 目で育子の手首を捕らえている指を示す。
 さっきまで傷口を押さえていたその指は、まだ温かい血で真っ赤に染まっていた。出血したばかりの新鮮なそれは、固まり始めるきざしも見せず、鮮やかな真紅の色を見せている。
 促されるままに視線を向けた育子は、ふとナイフからその力を抜いた。そうして自らの手首を、珍しいものでも見るかのように引き寄せる。その動きに伴い晴明の指が開かれ、血にまみれた手のひらがあらわになった。育子は己の肌についた赤い指の跡をまじまじと眺める。
 やがて彼女は、そっと自身の手首に唇を寄せた。
 鮮やかな赤い舌が覗き、血のしずくを舐める。
 長い睫毛の瞳を伏せ、まるで猫がミルクを飲むように、丹念に舌を這わせてゆく。そのさまは、どこか扇情的なものを漂わせていて。
 自分の手が綺麗になると、次に彼女は晴明の指先を口に運んだ。血に濡れた手を両手で引き寄せ、ゆっくりと時間をかけて、ひとしずくも残さぬよう、丁寧に舐めとってゆく。
「…………」
 やがて満足がいったのか、育子はほぅと幸せそうな吐息を漏らした。
「 ―― おいしかったですか」
 晴明が問いかけると、にっこりと満面の笑みを浮かべる。
『格別じゃ』
「それはよろしゅうございました」
 応じて晴明もまた、柔らかく微笑んだ。
『もっとおくれな』
 育子はせがむように晴明の肩を揺さぶった。
 その手にナイフはもうない。足元に落としたそれのことなどすっかり忘れたのか、育子はしきりに晴明へとまとわりついてゆく。
「差し上げたいのはやまやまですが、これ以上は私にも……」
『おくれ、おくれったら!』
 ねだる育子を、晴明はそっと遠ざけた。そうしてその手を取り、貴婦人をエスコートする仕草でソファへと導く。
 丁重に腰掛けさせ、その前に膝をつき、彼は改めて育子を見上げた。
「先ほど、血を浴びれば美しくなれるとおっしゃいましたね」
『そうじゃ、そなたの血があれば、妾はもっともっと美しくなれる。だから、のう』
「妾とおっしゃいますが、貴女はいったいどなたなんですか」
『妾か? 妾は ―― 』
 そこでふと、育子はとまどったように言葉を切った。赤い瞳をさまよわせ、答えを捜すかのようにあたりを見やる。
『妾は……』
「貴女は?」
『…………』
 唇を噛んでうつむいてしまう。
 晴明は育子の両手を取り、指輪に視線を落とした。
「この、指輪は」
『夫が、くれたものじゃ』
「旦那様が。では、結婚していらしたのですね」
『そうじゃ、結婚して、子もおって……だが……』
 育子の身体が小刻みに震え始める。
 記憶をたどるその瞳が、うすぎぬにでも覆われたかのように茫漠とした光を宿した。
「……奥方様?」
 静かに問いかける晴明の前で、彼女の目にみるみる涙が盛り上がってくる。
『妾は、醜いのじゃ……』
 ゆっくりと閉じた目蓋から、きらめく雫が一筋こぼれ落ちた。


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