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 紅 玉 残 夢こうぎょくのゆめ  骨董品店 日月堂 第十話
 第 四 章
 ― Makoto.Kanzaki Original Novel ―
(2005/01/12 13:53)
神崎 真


 今度の犠牲者を最初に発見したのは、友世の様子を見ていた田島育子だった。
 何者かに首を切られ昏倒しているところを晴明らに発見された友世は、あまり動かすのは危険だろうと判断され、手近な客室のひとつに運び込まれていた。そして沙也香の手当てを受け、沙也香が弘泰老人の方へ戻った後は、育子と使用人の富川、浅野の三名で看病されていたのである。
 三名という人数はいささか多いようにも感じられるが、友世 ―― と、弘泰老人 ―― を襲った人物が判明していない以上、ある程度の数はいた方が良いだろうという判断で、その三人がついていることになったのである。もっとも当面のところは差し迫ってしてやれることもなく、彼らはうす暗い中で時おり雑談など交わしながら、時を過ごしていたのだが。
 まず席を立ったのが育子だった。手洗いに行くと言って部屋を出た彼女を、しばらくして浅野が追う。いくら異性のトイレにつきあうのは気まずいといえ、やはり一人で歩かせるのは不用心だから、と。
 しかしその気遣いが裏目に出た。
 手洗いを終え部屋へと戻る途中で育子が見つけたのは、やはり背後から首筋を切られ、血溜まりに沈む浅野の姿だったのである。
「まったく、忙しいったらありゃしない」
 傷口に手をかざしながら、沙也香が苛立たしげに吐き捨てた。
 大きく切られた首の傷は、放っておけば間違いなく致命傷となっただろうそれだった。
 沙也香の手のひらは淡い燐光を帯びて、傷口に触れるか触れないかの位置にかざされている。彼女がしていることといえばそれだけなのだが、その行為には確かに効果があるようだった。現に口を開きかけていた傷が、もう塞がり始めている。
「大丈夫ですか?」
「まあ、発見が早かったし。応急手当ても良かったから」
 晴明の問いに、沙也香が顔を上げて続けた。
「なかなかやるじゃないの」
「……いえ、私の力という訳ではありませんから」
 かぶりをふる晴明に、沙也香は意味が判らないらしく、不思議そうな表情をする。
 晴明と伯爵が食事を届けた時、一人部屋に残っていた老人は、なかなか戻らない二人にしきりと気を揉んでいた。そして不安がる彼をなだめ、代わりに迎えに出た晴明が、血まみれの浅野にすがりつきその名を叫ぶ育子を見つけたのである。
 半ばパニックになりながらも必死に傷口を押さえていた育子を引き剥がし、伯爵を呼ぶよう指示すると、晴明は代わって応急処置にあたった。育子に事情を伝えられた伯爵が駆けつけ、さらに沙也香の元へと走るのに、それほど時間がかかったわけではない。だが沙也香が怪我人の元へとやってきた頃には、既に傷からの出血はほぼ止まっていた。
 それは無論、晴明本人の力ではなく、彼につき従う異形達の手によるものだった。彼らは沙也香ほど治療に長けているというわけではなかったが、それでもこれまで幾度となく晴明の命を救ってきたことからも判るように、ある程度の力は備えている。
 誉められるべきは自身ではなく彼らの方であると、腕飾りを指し示す晴明だった。
 ―― 通常であれば、他者に興味など欠片も抱かないであろうあやかし達に対し、治療を依頼しそして聞き入れられてしまうそのことこそが、誉められるべき能力だろうに、と。なおも首を傾げる沙也香に、晴明は続ける。
「あの、それに私がお訊きしたかったのは、そのことではなくて」
「なくて?」
「立て続けにこんなに力を使われて、沙也香さんの方は大丈夫なのですか」
 そうお尋ねしたのですけれど。
 一昨日から今日にかけて瀕死の老人を治療し、ついさっきには同じく友世の命を救ったばかり。その状態で今度は浅野に手当てを施して、はたして沙也香の身に支障は生じないのだろうか。こう言うと沙也香は不愉快に感じるかもしれないが、どう見ても体力がある方だとは思えないし、力の使いすぎで身を損ねるようなことになっては大変である。
 気遣う晴明に、沙也香はくすりと笑ってみせた。
「大丈夫よ。弘泰みたいな年寄りとか長患いの病人ならともかく、この坊やもさっきのお嬢ちゃんも、健康でちゃんと基礎体力を持ってるから」
 沙也香の施す心霊治療には二通りのやり方がある。
 ひとつは患者に沙也香自身の“パワー”を分け与え、弱った肉体を活性化させる方法だ。既に自身では回復するだけの力を持ちえない相手に対し、足りない力そのものを補ってやるというものである。この方法は本来ならば治る見込みのない重症患者でも助けられる可能性がある反面、沙也香の側にかかってくる負担が非常に大きい。
 だがもうひとつの方法は、その患者自身が持つ“気”を利用し、外部から補助してやることで残された力を有効活用させるやり方だ。患者に体力が残っている場合にしか使えないが、その代わり沙也香への負担はほとんどない。
「突発で怪我した人間なら、たいていはそれで充分」
 ちょっと疲れはしたけれど、まあその程度だ。
 その説明を聞いて、晴明は見るからに安堵した表情になる。
「だがもし沙也香どのがこの屋敷に泊まっておられなかったら、大変なことになっていたわけだな」
 興味深げに治療の様子を眺めていた伯爵が、そう発言した。
 浅野が襲われたと知らせに来た時は、かなり動揺のうかがえた彼だったが、どうやらもう落ち着いたらしい。塞がっていく傷の様子に、無責任な感嘆など漏らしている。
「あ、あの……浅野は本当に助かるんですか」
 傍らからおずおずとした声がかかった。
「あたしが信用できないなら、別にそれでもいいんだけど?」
「い、いえ! そのような」
 慌ててかぶりを振る富川は、どうやら沙也香と旧知の間柄らしかった。古くからこの家に仕えているそうだから、何度か顔をあわせたこともあるのだろう。半ば冷や汗すら流しながらの返答は、彼女の気性を熟知しているが故に違いない。
「それにしても、犯人はいったい何を考えてるのかしらね」
「犯人の目的、ですか」
「そう。さっき和馬とも話してたんだけどね、なにを思って人を襲ってるのかさっぱり見当がつかないのよ」
 まあ別にあたしら警察じゃないんだし、犯人捕まえる義理はないんだからいいけどね。でもうっとおしいじゃない。
 薄情な物言いをする沙也香だったが、彼女にしてみればそれが正直なところだろう。沙也香がここにいるのは本来弘泰の治療をする為だけであって、こうして突発的な怪我人を診てやっているのも、あくまでなりゆきによる好意に過ぎない。それで感謝の言葉ひとつもらえずにいる訳だから、それは嫌気のひとつもさそうというものだ。
 もっとも彼女のことだから、後日報酬はきっちり請求するはずだが。
「被害にあったのは、屋敷の主人に、普段は別居しているそのお孫さん。そして使用人の男性」
 晴明が一本ずつ指を折りながら確認する。
「遺産相続に関するなら、使用人の方が含まれるのはおかしいし、日々生じる何らかのいさかいが問題であれば、滅多に会うことのないお孫さんの襲われる理由がない」
「使用人がなにかを知っていたため、口封じしたというのはどうかな?」
 伯爵が口を挟む。どこか楽しげな口調の彼に、富川が不快そうな目を向けた。もちろん伯爵は気づいていない。
「浅野さんに、そのような素振りはあったのでしょうか」
 代わって晴明が問いかけた。富川は伯爵をにらんだまま即座にかぶりを振る。
「なにも。そもそも電気が消えたときには私と納戸の整理をしておりましたし、その後もずっと一緒でした。友世さまの件で特別知っていることがあるとは思えません」
「弘泰が襲われた時のことについては?」
しかとは申せませんが、あの日、浅野は外出しておりましたから……」
 語尾を濁す。やはり何かを知っている可能性は低いらしい。
「ないない尽くし、か。となると考え方を変える必要があるかもしれないわね」
 沙也香が小さく息をついた。
 手当ての方は一段落ついたらしく、かざしていた手を引き戻している。救急箱を用意していた晴明が、立ち上がった沙也香と場所を変わった。ほぼふさがった傷口にガーゼを当て、丁寧に包帯を巻いてゆく。
「財産狙いでもなければ遺恨でもない。なら、目的は人を傷つけること、それ自体だとしたらどうかしら」
 沙也香の発言に富川が絶句した。
 その言葉が意味するものはすなわち、無差別殺人。もっとも忌むべき悪魔の所行だ。
 だが、他の二人 ―― 晴明と伯爵は、特に驚いた様子も見せない。
「そうだとしたら納得もいきますね。目についたもっとも襲いやすい相手を、そのつど手にかけていったというわけですか」
「となると、我々も無関係だからと気を抜いてはいられぬな」
 身辺を充分に警戒しなければ。
 口々に言ってうなずきあう。
 そんな彼らを富川は理解できぬように眺めていた。しかし晴明らにとってその考え方は、むしろ怨恨や遺産相続などによる惨劇よりも、よほど身近でなじみやすいものだったのだ。
 なぜなら……
「そうなると、相手が常人ただひとではなく、異能力者かあるいはなんらかのあやかしの類だという可能性も出てくるな」
「あんたや和馬がまったく気配を感じ取れずにいるんだから、むしろその方があり得る話でしょ」
「では人を襲う際、周囲に結界を張るなどして注意をそらしていると?」
「そう、異能を手に入れて有頂天になってる馬鹿とか、人の生気を吸い取る化け物とか、いかにもやりそうでしょ?」
 和馬などのように、幼い頃からあるべくして特殊な能力を持ち合わせていた者と異なり、ある程度成長してから突然そういった力に目覚めた人間は、往々にしてその能力に振りまわされる傾向にあった。制御するすべを知らず、不用意に力を発動させることももちろんだが、中には力を得たことで実際以上に己を過大評価し、周囲を見下すような言動にはしるタイプも出てくるのである。あげく力試しや世直しなどと称して一方的に他者を害する輩もおり、いずれ他の道理をわきまえた術者達の手によって処分される結果となる。
 同じ異能力者のうちに数えられるのも業腹な愚か者どもだったが、年に一件か二件はそんな例が発生していた。
「ああいう馬鹿に限って、勝手に他人の価値を決めつけた挙げ句、自分の役に立つのを喜ぶが良いとか、訳わかんないこと言って滅茶苦茶やるのよねえ」
「力はあくまで力に過ぎず、それ自体は善でも悪でもない。問題はそれを使って何をどのように為すか、なのでしょうに」
 晴明が小さくため息を落とす。
 あるべき異能を持ちえなかった彼にとって、せっかく得た力を他者 ―― そして自身をも滅ぼす方向にしか向けられぬ人間の存在は、ひどく複雑なものに感じられるのだろう。
「とりあえず、その方面も視野に入れておいた方が良いってことで。OK?」
 沙也香がまとめたのに、二人はこくりとうなずいた。
 傍らで聞いていた富川は、話についていけなかったらしく、ただただ呆然と三人を眺めている。


 空いた食器類を片付けるべく晴明と厨房へ向かいながら、沙也香との間で交わされた話を聞き、和馬もおおむねにおいて同意していた。
「俺も考えてたんだがな、ほら、お前が最初に買い取ることになってたあの指輪。それが怪しいんじゃねえか」
「早川さまからご紹介いただいた品ですか」
「そう。そいつがなんか因縁ありのやつだったんじゃないかってな」
 日月堂がいわくつきの品物を好んで蒐集していることは、一般の取引相手にもそこそこ浸透してきているらしい。あくまで物好きな変わり者レベルの認識ではあったが、それでも不思議な品は日月堂にという流れができつつあるようだ。
 ならば今回紹介された指輪についても、なんらかの子細が付随していたと考えて不思議はない。
「確かに古い物 ―― 特に大粒の宝石などは、強い賞賛や欲得ずくの感情にさらされることが多いせいか、長い間にそれらの念を吸収し、意志のようなものを宿す場合が多いですね」
 パワーストーンなどと称してもてはやされるようになったのは近年のことだが、もともと石には神秘的な力が宿ると、そういう考え方が古来から存在している。巨大な岩座いわくらや山岳が信仰の対象となるのはそのためだし、水晶やぎょくといった美しい鉱物もまた、同じように尊重されてきていた。
 そして彼らは、それらの信仰がけして単なる迷信ではないことを、よく知っている。
 晴明の身につけている、腕飾りの勾玉などが良い例だろう。多くの妖物達を内に宿しながら、ひびひとつくもりひとつ見せず輝くその翡翠は、それ自体に大きな力を秘めた極上の宝玉だった。
「言うまでもないとは思うが、今夜はそいつらを近くから離すなよ」
 和馬が光る勾玉を指さした。
 そうすることでその内部に宿るあやかし達に、晴明の身を守るよう言い聞かせる。
「いっそ誰かそばについてたらどうだ」
 勾玉内にいたのでは、いざという時に身動きが取りにくいだろう。そのままの姿でうろついていては大騒ぎになるが、彼らはそれなりに化けることもできる。化け三毛猫の蛍火けいかあたりなら、普通サイズで足元にでもまとわりついていれば、特に不審も招かないのではないか。
 そう楽観していた和馬だったが、返された答えに思わずぎょっと息を呑んだ。
「生憎ですが、今は実体のない方々しかいらっしゃらないもので」
 耳を疑い立ち止まった和馬に、晴明も律儀に足を止める。
「……実体がないヤツって」
苑樹えんじゅ夜摩やまと、あとは沙那さな石見いわみ志摩しまみお氷雨ひさめの七体ですね」
 指折り数え上げる。
 動物霊や、あるいは雑多な念が凝って意志を持った存在であったりする彼らは、蛍火や由良ゆら達のような実体を備えてはいなかった。当然、さほど強い力を持っているわけでもなく、ほとんど賑やかしのようなものだと和馬などは考えていた
「他の奴らはどうしたんだ!?」
「さあ……彼らも四六時中うちにいるというわけではありませんから」
「そ、そうなのか」
「ええ」
 晴明は目を伏せて言葉少なにうなずく。
 常に晴明の側近くにいるようでいて、実のところ彼らはしばしばその姿を隠すことがあった。どこに行くとも、いつ戻るとも言い残すでない彼らの行動を、ことごとに問いただす権利などないと、晴明はそう考えている。
 それは彼らがなにゆえに姿を消すのか、うすうす悟っていたからでもあった。
 たとえ生身でないとはいえ、それでもこの世に存在している以上、彼らもまたなんらかのかてを得ることでその生を繋いでいるはずだった。そして晴明と由良との邂逅が、人間ひとを襲う鬼獣とその獲物としてのそれであったことから考えるならば……
「 ―― たいていは誰かしらがいらっしゃるんですけれど、どうもタイミングが合ってしまったようで」
 和馬に対してはただそうとだけ告げる。
 それが彼らにとって存在し続けるのに不可欠な行為である以上、自身が口を出すことなどできるはずもない。それが晴明の持論だった。無論のこと、そこに屈託がまったく無いわけではない。だが己もまた生きるために様々なものを口にしている以上、一方的に異形達を責めることなど、彼にできるはずもなかった。
 そして異形達もまた、晴明の立場を尊重するが故に、なにも告げずどことも知れぬ場所へと姿を消すのだろう。 ―― 人間として生きていかねばならない彼が、なにも知らずにすむように。
「もしも、その指輪が人間を糧とする妖物であったとしたら……和馬さんはどうなさいますか」
 唐突ともいえるその問いかけに、和馬はとまどったような顔をしながら、それでも答えを返した。
「どうって……そりゃもちろん、壊すか封じるかしないとまずいだろ」
「そう、ですよね……」
 小さな声で呟く晴明に、和馬はすがめた目を向けた。
「お前また妙なこと考えてんじゃねえだろうな」
「妙な、と言いますと?」
「 ―― 人を喰う化け物と人間とは、本来相容れるものじゃない。それは善とか悪とかそういう次元の問題じゃねえ。純粋に存在のあり方が違う以上、共存しようなんて考える方がどだい無茶なんだ」
 判ってるのか、そこのところ。
 和馬がそう念を押すのも無理はなかった。なにしろ晴明は、人間とそうでないモノとの区別を一切つけようとしないのである。いやそれどころか、かつて人と異形とを比べた場合、自分は異形の方をこそ選ぶと断言したことさえあった。
 これまで彼も、和馬が異形を滅ぼす現場に立ち会ったことはあった。どうしても和解できず、共存しえない存在があることも、それなりに理解はしているはずだ。
 だが……普通、人間と異形とは和解も共存も『まったく』できないというのが本来なのだ。
 にもかかわらず、彼はどんな相手に対してもまずは話し合いを試みる。たとえそんなことをしている間に一撃で命を奪われかねない、強大かつ凶悪な化け物に対した場合にでも同様に、だ。
 それが晴明の晴明たる所以なのだと、そう言ってしまえばそれまでなのだが。それにしても見ていて危なっかしいことこの上ない。
 それでもこれまでは、その腕飾りに宿る ―― どうやってか共存を果たしてしまった ―― 異形達が彼の身を守っていたから、どうにか静観していることもできた。もちろんけして不安がないわけではなく、歓迎できる行為でもありえないのだけれど。
 しかしいまその守護たる異形達のうち、主立ったもの達が軒並み同行していないと聞いては、いつものように黙って見ているなどできるはずもなかった。
「俺も、お前が化け物とつきあうことを、今さらどうこう言うつもりはないがな」
 ため息混じりに和馬は続ける。
 実際、すっかり感化され凪や篝達と馴染んでしまっている時点で、彼は既にそれを非難できる立場になかった。
「 ―― だがな、進んで人間に害を及ぼす、そんな奴らに近づくのだけは止めとけ。相手が化け物でも、人間でもだ」
 たとえば庖丁を振りまわす強盗犯だとか、快楽殺人を繰り返す変質者だとか。そんな人間が目の前に現れれば、普通は脇目もふらずに逃げ出すだろう。多少腕に覚えがあるならば、取り押さえるぐらいはするかもしれない。だが、そんな相手をも庇って懐に受け入れようとすることは、それは既に優しさでもなんでもない、同じ犯罪者のすることだ。
「…………」
 和馬の言葉に晴明は沈黙を守った。
 和馬が言うのはどこまでも正論で、むしろ害を及ぼさないのであれば異形達の存在をも受け入れているという点で、至極懐の広い考え方なのだろう。
 とても優しくそして健全な、人間ひととしてこれこそが、在るべき立ち方と言えるのではないだろうか。そんなふうに気負いなく口にできるようになるまで、果たして彼はどれほどの努力をし、そしてどれほどの強さを身につけてきたのだろう。
 単純な、即物的な力に留まらぬつよさを。
 いつまでも口を開かない晴明に、和馬は内心でため息をついていた。かなうものなら襟首をつかんで揺さぶりたおし、力ずくでも『是』と言わせたいところだ。しかし確約できないことに対し、口先だけの返答ができる人間ではないということも、これまでに嫌というほど思い知らされている。
 だから、和馬が口にできることは、ごくわずかでしかなかった。
「お前は、死ぬ訳には行かないんだよな」
「え? ……ええ。そうです」
 それは彼が弟との間で交わした約定で、破った時に失われるものがあまりに大きすぎるそれだった。故に晴明がその約束を進んで破るとは考えられない。
「覚えてるなら、良いんだ」
 人を喰らう化け物を前に、自ら命を投げ出すような真似さえしなければ、と。
 うなずく和馬はしかし気づいていなかった。
 晴明が弟と約したのは、『自ら死ぬこと』を禁じるものでしかないのだと。それが事故であったり、あるいは避けようのない不可抗力であった場合は、仕方がないのだと解釈できるということに……


◆  ◇  ◆


 厨房の扉をノックし、運んできた汚れ物を富川夫人へと手渡した彼らは、ひとまず二手に分かれた。
 和馬はリビングにいる水原の親族達の元へ護衛として留まることになり、晴明は浅野と友世が寝かされている部屋へと戻って、伯爵と共に有事に備える手はずだった。そして弘泰老人と沙也香を守るのは譲の役目。
 相手が生身の人間ではない可能性がある以上、戦力として期待できるのは彼らだけだったし、その場合もっとも戦闘能力の高い和馬が一番多くの人間が集まるリビング周辺を担当するのは理にかなっていた。沙也香は本来の患者である弘泰を優先し、譲がそのそばから離れるはずもない。となると残るのは伯爵と晴明だけである。
 今になって、晴明のそばにいるのがいささか心許ない面々ばかりだと知った和馬は、ひとりで廊下を歩かせるのにもかなりの抵抗を覚えたらしい。だがそれには晴明が大丈夫だと言いはった。彼の言う『大丈夫』があてになった試しはついぞないのだが、しかし水原の親族達の前で、そんなことをおおっぴらに言い争うわけにもいかない。
 なにかがあったら、とにかく大声を出せ。そうすればすぐに誰かしら駆けつけるからと、くどいほどに念を押す和馬をどうにかなだめ、晴明は一人暗い廊下を伯爵らの待つ部屋へと向かったのだった。
 歩を進めるその傍らで、古風な木製の窓枠が風に吹かれ音を立てている。絨毯が敷かれたその床は、彼自身の足音さえをも吸い込んでしまい、まるで屋敷内にいるのはひとりだけであるかのような錯覚を覚えさせた。無論そんなことなどあるはずもなく、水原家の親族とその使用人達、そして和馬や晴明ら客人をも含めれば、実に二十人近い人間がひとつ屋根の下で夜明けを待っているのだが。
 しかしこうして闇に閉ざされた廊下をひとり歩いていると、まるで取り残されたかのような気がしてくるから不思議だった。
 と、視界の端で影が揺れ、晴明はふと面を上げる。
 先導するかのように数歩前を浮遊していた光珠が、何故か後戻りしてきていた。
「……夜摩?」
 なにかあったのかと、蛍のように舞う光へと手をさしのべる。
 いつもであればその意志を仲介してくれる由良達は、あいにく同行していなかった。問いかけるように包み込んだ両手のひらの中で、薄桃色の光は何度も柔らかく明滅する。
 そこからは、言語の形をとることのない、かすかな感情の色が伝わってきた。
「…………」
 やがて。
 晴明の口元がふわりとほころんだ。
 薄いその唇が、穏やかな微笑みを刻む。
 なにを伝えたいのか、それははっきりと判らないのだけれど。それでも向けられる温かい想いが、とても心地よかったから。
「ありがとうございます」
 そう口にすれば、手の中の光はますます優しい輝きを増した。
 やがて両手を開くと、光の珠は元のように浮かび上がる。まるで弾むかのように進み出すその動きは、ひどく上機嫌そうなものを感じさせた。
 微笑みを残したままそんな様子を眺めていた晴明は、やや置いてから後を追うように歩きはじめた。
 が ――
 そこでふと、彼はまたも足を止める。
 なにか物音を聞いたような気がしたのだ。
 あたりを見まわすと、少し離れた位置にある扉が目に入る。開くとも閉じるともいえない、中途半端な形で揺れているそのドアは、ついいましがた誰かがくぐったばかりであるように見えた。
 しかし屋敷中の電気が消えている現在、あたりを歩こうとすれば懐中電灯なり蝋燭なり、携帯用の明かりが不可欠だった。星明かりを頼りとしようにも、窓の外は垂れ込める暗雲で閉ざされている。なんらかの光源がなければ、漆黒の闇に視界を奪われ、文字通り鼻をつままれても判らない状態となるはずだった。それなのに、晴明はそういった光を目にした覚えがない。扉の隙間からも明かりの漏れてくる気配はなかった。
 彼はごく気負いのない足取りで扉へと近づいていった。
 気のせいだと判断しそのまま立ち去るか、あるいはもっと警戒するべきだったのだろう。誰ともなにとも知れぬ、人間を襲う何者かが屋敷内に存在しているのだと、そのことははっきりしていたのだから。
 しかし晴明はドアノブへと手を伸ばし、半端な位置で揺れていたそれを大きく引き開けていた。
「……どなたか、いらっしゃるのですか?」
 半身を室内に入れるようにして呼びかける。
 その声に反応してか、部屋の奥でなにかの動く気配が感じられた。
 のぞき込む背後から、戻ってきた夜摩の放つほのかな光が射し込んでゆく。それにあと押しされるように、晴明は数歩室内へと踏み込んでいった。
「あの ―― 」
 口を開きかけたその時だった。
 開いていた扉がいきなり音を立てて閉じた。
 厚い樫の一枚板に、廊下から届いていた光が不意に断ち切られる。突如響いた音よりも、不自然な扉の動きよりも、光が ―― 夜摩の存在が感じられなくなったことに反応して、晴明が背後を振り返った。
挿絵4
 一瞬、無防備にさらされたその背中。
 それをめがけ、闇のとばりを裂いて躍りかかる黒影があった。


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