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 紅 玉 残 夢こうぎょくのゆめ  骨董品店 日月堂 第十話
 第 三 章
 ― Makoto.Kanzaki Original Novel ―
(2005/01/09 22:29)
神崎 真


 明かりが落ちる前、晴明と伯爵の二人は、幾つ目かになる部屋で和気あいあいと歓談しつつ、それぞれの仕事をこなしていた。
 晴明の方は小物を主に鑑定を続け、伯爵は大小様々な蜘蛛を放っては戸棚の中や机の引き出しなどを調べている。
「すると松代さん達が越冬される場合の環境調整は ―― 」
「念のため温室を用意して高めの温度と湿度を保ってはいるが、うちの達は同種の蜘蛛よりも丈夫な傾向があってね。熱帯出身の種類でも、こうして私と一緒に外出できるし」
 なあ松代、と肩にしがみついているタランチュラに微笑みかける。
 見る者に相当なインパクトを与えるだろう巨大なその蜘蛛は、なんでも伯爵が子供の頃から共に暮らしている一番の古株なのだそうで。この種の蜘蛛の雌は、通常でも二十年以上生きた例がある。伯爵のもとでならば、よりいっそう長生きすることだろう。
「……ん、どうした。開かないのかね?」
 晴明の反応が鈍いことに気づいたのか、伯爵が顔を上げてその手元を見た。小物入れだろうか、木彫りの箱を手にした晴明が、困惑したようにためつすがめつしている。
「ええ、鍵がかかっているみたいです」
「どれ貸してみたまえ」
 伸ばした手に小箱が置かれる。伯爵はしばらくそれをひねりまわしていたが、やがて自分の右手へと視線を向けた。
「菊江」
 優しい声で呼ばわる。
 と、その声に応じて袖口から小さな蜘蛛が這い出してきた。体長ほんの数ミリ程度の、米粒のような大きさだ。小さいながらもしっかりと八本の脚を備えた蜘蛛 ―― 菊江は、伯爵の伸ばした人差し指を伝い、小箱の鍵穴へと潜り込んでゆく。
 待つほどもなく、かちりと言うかすかな音が聞こえた。鍵穴から菊江が這い出してくるのを待って、伯爵が蓋に手をかける。凝った浮き彫りの施された上蓋は、なんの抵抗もなく開いた。
「ああ、鍵が中に入っている。なにかの弾みに閉じ込んでしまったようだね」
 開いた小箱を手渡すと、晴明がにっこりと微笑んだ。
「ありがとうございます、伯爵。菊江さんも」
 伯爵の指先にいる小蜘蛛へと指を伸ばし、丁寧に礼を言う。
 菊江の伸ばした小さな脚が、晴明の指先へとかすかに触れていた。その様子を伯爵はとろけるような笑顔で眺める。
 己の可愛い娘達に対し、ふさわしい態度で接してくれる礼儀正しい青年を、伯爵はすっかり気に入ってしまっていた。
 なにしろ世の分からず屋どもときたら、彼女達を目にしただけで嫌悪の声をあげ、ときとして手すら上げようとするのである。まったくもって度し難いというものだった。しかるにこの青年は実に礼儀をわきまえている。このような人物の存在を今まで知らずにいたとは、本当にもったいことだった、と。
 そんなことを考えている伯爵を知ってか知らずか、晴明は小箱の鍵穴をしげしげとのぞき込んでいた。
「なるほど、鍵というのは内部の突起を定められた手順で動かせば良いわけですから、菊江さんなら中から直接開けることができるのですね」
 お見事です。
 全開の笑顔を見せる晴明に、伯爵は思わずくらりとめまいのようなものを覚えた。心なしかその肩にいる松代までもが、よろめいたような動きを見せる。
 タラされてるタラされてる。和馬がそこにいたなら、そう評したかもしれない。
 屋敷内の電気がいっせいに落ちたのは、そんな時だった。
 なんの前触れもない暗闇の訪れに、二人はしばし言葉を失い立ち尽くす。
「停電、ですか」
「……参ったな。なにも見えない」
 ややあってそんなふうに呟く。
 あいにく二人とも特別夜目が効くという方ではなかった。もちろんのこと、和馬のような周囲の様子を把握できる能力も持ち合わせていない。どちらからともなく、互いがいるのであろう方向へと視線をさまよわせた。
 と、ふわりと柔らかな光が室内に生じる。
 おやと視線を落とした先で、晴明の腕飾りが穏やかに明滅していた。
 伯爵が感嘆の息を吐く。
「美しいな」
「ええ、そうですよね」
 幻想的な光を帯びた翡翠の勾玉は、確かに目を奪われるほどに美しかった。同意してうなずいた晴明だったが、しかし彼は伯爵の感嘆に、光を浴びて闇に浮かぶ己の立ち姿も含まれていることに、まったく気づいていない。
 充分とは言えないが近場の視界を確保できた彼らは、しばらくそのまま待機していた。だが明かりが復活する気配はない。
「……他の様子を見てきた方が良さそうですね」
「そうしよう」
 連れだって廊下へと出た彼らは、ひとまず人を捜すべく居間の方へ向かうことにした。そうして足を踏み出した瞬間、けたたましい悲鳴があたりに響きわたる。
「なんだ?」
「あちらです!」
 晴明が走り出す。唯一の光源を持っている彼がそちらに向かうのだから、伯爵も必然的に後を追うこととなった。
 階段をひとつ駆け上がり、廊下の角を曲がったところで悲鳴のもとが目に入る。
「なにがあったんですか!?」
 問いかけると、長々と続いていた叫び声がぴたりとやんだ。いや、問いかけではなく、近づく光に反応したからかもしれない。廊下に直接座り込んでいた人物が、晴明達の方を振り返る。
「あ、あ……」
 口を開きなにかを訴えようとしているが、声が言葉にならないようだ。
「大丈夫ですか」
 晴明が床に膝をつき、相手の頬へと手を伸ばした。安心させるように、手のひらで包み込むようにする。
「あた……あたし……は」
 ソバージュのかかったロングヘアを振り乱した女性は、幾度も息を呑みながらがくがくと数度うなずいた。そうして震える指を持ち上げ廊下の先を指さす。その仕草に晴明と伯爵はそちらの方を見た。
「彼女をお願いします」
 晴明は腰を上げると、伯爵へと場所を譲った。
 そうして自身は光る腕飾りをかざし、新たに視界に入った人物へとかがみ込む。
「ど、どうだね」
 自身も動揺してきたのか。伯爵が不安げな口調で問いかけた。
 倒れている身体を検分していた晴明は、ややあって難しい表情で顔を上げた。
「息はおありですが……沙也香さんをお呼びした方がよろしいかと」
 そう言って持ち上げた手のひらは、べっとりと赤いもので染まっていた。


◆  ◇  ◆


「いったいどういうことなのよ! 誰が友世をあんな目にあわせたの!?」
 けたたましい声が部屋中に響きわたる。
 きんきんと耳に痛いその声質に、室内にいる何人かはあからさまに顔をしかめていた。
 停電はいまだ続行中である。暗いリビングに屋敷内から探し出した懐中電灯や蝋燭を集め、なんとか互いの顔が判る程度の明るさを確保してあった。同じく屋敷中から集まってきた人間がそこに顔をそろえ、浮き足だった空気の中、互いの様子をうかがっている。
 その真ん中で先刻から叫びたてているのは、松本友美 ―― 指輪を探すため伯爵を雇った末娘夫婦の片割れ ―― だった。つい先刻、廊下で倒れているところを見つかったのは、彼女の一人娘、友世である。怪我の状態から察するに、どうもなにか鋭い刃物で切りつけられたらしい。
 手近な部屋に怪我人を運び込み、沙也香を呼びにやろうとしていたところに和馬らが駆けつけ、一同はひとまず負傷者の手当てを沙也香に任せ、状況を説明するためリビングへ戻ってきたのである。
 真っ暗な中、持っていたライターの火を頼りに廊下を進んでいた佳美 ―― こちらは長女正美と孝臣夫妻の娘だ ―― は、倒れていた友世に行きあい、助け起こそうと手を伸ばしたところ、血に気がついてパニックを起こしたということだった。ライターを落としたせいであたりは再び鼻をつままれても判らぬ常闇に落ち、目の前には何者かに襲われたとおぼしき瀕死の従姉妹。うら若い女性に平静でいろと言っても、それは無理だろう。
 今も彼女はソファに沈むように座り込み、小刻みに震えている。
「ちょっと! なんとか言いなさいよ。まさかあんたがなにかしたんじゃないでしょうねッ」
 突如友美の矛先が向けられて、佳美はびくりと身を強張らせた。反応して言葉を返したのは、彼女ではなく母親である正美の方だ。
「いい加減にしなさい。いい年をしてみっともない」
 実の姉からの言葉に、友美はいっそういきりたつ。
「みっともないですって。娘がひどい目にあったのよ。姉さんにとってだって姪でしょうに、何よその言い草は」
「他人の迷惑も顧みず、そうやって大騒ぎしてれば友世の怪我が治るとでも? 少しは大人しくして待ってたらどうなの」
「なにを待つって言うのよ。あんな子供のすることを信用しろとでも? 冗談じゃないわ」
「他にどうしようもないでしょう。とにかくいま小池がふもとまで医者を呼びに向かってるから」
「……好き勝手言ってくれてるわよねえ」
 背後からぼそりと呟かれた言葉に、晴明と伯爵が振り返った。いつの間にやってきていたのか、和馬を背後に従えた沙也香が、すがめた目で言い争う二人を眺めていた。
「あ、沙也香さん、お疲れさまでした。友世さんの具合はいかがでしたか」
「出血が多いけど、傷は塞いだし雑菌の感染やショック症状も押さえておいたから、あとは輸血さえすればすむでしょ」
 すげない口調で言い捨てる。
 ちなみに言い争っている二人やそちらに気を取られているその他の面々は、まだ彼女の登場に気がついていないらしい。
「それは良かったです」
 晴明がほっと息をついた。
「誰がやったのか、判ったのですかね?」
 伯爵がそう問いかける。それには沙也香と和馬の両方が首を振った。
「まだ意識が戻ってないから、なにも話は聞けてないわ」
「それに後ろから首をやられてるんだが、もし電気が消えてからのことだったら、本人も誰にやられたかなんざ判りゃしないだろう」
 和馬が襟首のあたりを人差し指でなぞった。
「ところで、医者を呼びに行ってるって」
「ええ、なんでも電話まで通じなくなっているそうでして、直接車でお出かけに」
 救急車を呼ぼうとしたところ、線が切れたのか屋敷の電話はまったく使いものにならなくなっていた。
「今どき携帯が繋がらないっていうのも貴重よね……」
 沙也香がしみじみと呟く。この近辺にはどこの中継器も建てられていないらしく、誰の携帯電話もことごとく圏外を表示していた。世の中まだまだ広いのである。
「この天気だと、今夜中に戻ってくるのは難しいかもな。途中の道が崩れてなきゃいいが……」
 窓の外を眺めて和馬が嘆息する。夜が更けるにつれますます激しさを増してきた風雨は、屋敷そのものを揺らす勢いで荒れ狂っていた。たとえ昼間であっても、こんな天候の時に外出するのは愚か者のすることだろう。まして視界の効かない深夜ともなると、無事に麓までたどり着けるかどうか、それさえも怪しいぐらいだ。
「いま友世さんには、どなたがついてらっしゃるんですか」
「俺らが来たときに出てきた富川って爺さんと、田島って子と、あと浅野っていう若い男が見てる」
「すると譲さんは弘泰さんの方に?」
「ああ。あいつならなにかあっても一人で大丈夫だろうしな」
 たとえこの暗闇に乗じて老人に危害を加えようとたくらむ人物が現れたとしても、彼なら自分の身も含め確実に守り抜くはずだ。
 ちなみに和馬が沙也香にくっついているのも、護衛代わりとしてである。
「なにか、ですか。 ―― やはり友世さんと弘泰さんは、同じ方の手に掛かったのでしょうか」
「この人里離れたとこに、人を襲うような輩が二人もいるとは考えたくないがな」
「え、爺さんが、なに……?」
 突然発せられた第三者の声に、一同は口をつぐんで声の方を注視した。
 いっせいに視線を向けられて、声の主 ―― 佳美が身をすくめる。
「…………」
 あまりに静かだったので忘れていたが、晴明は怯える彼女の隣に座り、その肩へとなだめるように手を置いていたのだった。そうでもしていてやらなければ、この部屋まで歩くことさえおぼつかないような状態だったのだ。が、多少なりとも時間が経ったことで、まわりの言葉に気がつくぐらいには落ち着いたらしい。
「爺さんも誰かに襲われたの? え、なんで」
 問いかけてくるが、それを訊きたいのはむしろこちらの方である。
「佳美さん、でしたね。お祖父様が倒れられた理由はご存じないのですか」
「理由って、年とってあちこちイカレてるから、そんでって……」
 そこらの不良中学生じゃあるまいに、二十歳も過ぎて化粧や服もばっちり整えた大人の女が、ほとんど面識もない他人を相手にイカレてるはないだろうよ。
 和馬あたりは内心で突っ込んでいたが、他の面々は違う部分を聞きとがめたらしい。
「あんた達、いったい何を話してるの」
 言い争いをやめた正美と友美が、険しい目つきでこちらをにらみつけてきた。その向こうで椅子に座っていた河村 ―― 次女和美のヒモ ―― が驚いたように立ち上がっている。
「お義父さんが襲われたですって! どういうことですか」
「そうよ、聞いてないわよそんな話!」
 和美もまた加勢するように叫ぶ。
「黙りなさい。あなたに父を親呼ばわりされる筋合いはありません」
「こんな部外者の言うことなんて信用しちゃ駄目よ、姉さん」
 正美が河村に対してにべもなく言い捨て、友美が和美へとかぶりを振る。
「待って下さい、お義姉さん。今はそんなことを言ってる場合ではないでしょう?」
「誰がお義姉さんですか! だいたい何だってあなたのような人間が今ここにいるんです。私はあなたを水原の関係者だと認めた覚えなどないんですからね」
「って、あなたに認められようが認められまいが、それがなんだって言うんですか」
「こら、ちょっと二人とも落ち着いて」
「あなたは黙ってて! だいたいこの男が……」
 またも激しい言い争いが始まろうとしたところへ、和美のヒステリックな声が投げつけられた。
「友世が襲われたのは確かで、父さんもそうだって言うんなら、いまこの家にいる誰かがやったってことじゃないッ!」
 シン、と一瞬で室内が静まりかえった。
 立ち上がり顔を見合わせる形になっていた一同が、ぎこちない仕草で互いを見やる。
 誰かが息を呑むごくりという音が聞こえた。
「……だからなんで、今の今までそれを問題にしないのかしらね、このお馬鹿さん達は」
 沈黙を破ったのは沙也香だった。
挿絵3
 腕組みして立つ彼女は、蔑むような眼差しで一同を眺めていた。
「な ―― 」
「弘泰を襲ったのと同じかどうかはともかく、少なくともさっきの子に切りつけた人間は、まだこの屋敷内にいるんでしょうよ。まさかこの嵐の中、歩いて逃げ出すとは思えないし?」
 子供にしか見えない少女に馬鹿呼ばわりされ反論しようとした一同だったが、沙也香はその隙を与えることなくさらに言葉を重ねた。
「だいたい警察呼ぼうって発言がこれっぽっちも出てこないんだから、薄情なものよねえ。弘泰も子供の育てかた、完全に間違えたわね」
 だからもうちょっと判りやすい愛情かけてやれって、あれほど言ったのに。
 小さい肩をすくめつつ、最後はひとりごちる。
「沙也香さんはこちらの御主人と、古くからお知り合いなんですか」
「そこのお嬢ちゃんのおしめが取れる前からね」
 と正美を指さす。
 ちなみに彼女は既に五十近い。
「そうか、これはあれだな」
 それまで黙っていた伯爵が、唐突にポンと手を打った。
 そうして人差し指を立てると、得意げに口を開く。
「『嵐の山荘』ものだ」
「………………伯爵よ」
 和馬が絞り出すかのような声で呟いた。
 いったい何を考えこんでいるのかと思えば、この状況でその発言をかますか、この男は。
「なんですか、それは」
 聞いたことのない言葉だったのだろう。晴明が聞き返す。また沙也香が懇切丁寧に説明してやった。
「『嵐の山荘』っていうのはね、推理小説なんかで良く使われる構成のことよ。人里離れた別荘だとか、絶海の孤島だとかに集まった男女が、天候の悪化で身動きがとれなくなったあげく、外部とも連絡できないその閉鎖空間の中で、次々に殺人が起こっていくっていうパターンなの」
「限られた空間と限られた人物の中に犯人を見つける手がかりが存在する、論理的ロジカルな部分が魅力となってくる手法だね」
 伯爵がうんうんと頷きつつ補足する。
「はあ、なるほど。……確かに今の状況は似ているかもしれませんね」
 晴明の返答はどこまでも真面目なものだ。
「いっそアリバイ調査でもしてみる? 犯人を自分達で見つけられたら、警察に知らせる必要もないし、もみ消しも簡単だものね」
 にっこり笑って正美らを眺める沙也香に、一同は我知らず一歩身を引いていた。
 ……どうやら彼女は心底から怒っているらしい。
 にこやかに微笑むその小さな身体から、立ち上る怒りのオーラすら見えてきそうだった。
 あーあ、気の毒に。
 和馬は内心で水原の親族一同に深く同情していた。
 沙也香を怒らせるなとは、彼女を知る者達の間での不文律である。一度彼女を怒らせたが最後、水原の親族一同は今後沙也香の知人達からすっぱりと協力を得られなくなること請け合いだった。そして彼女の友人知人が、けして呪術者達の世界にばかりいるわけではないということは、沙也香と弘泰老人が懇意にしているという事実からもうかがえる。
 ま、俺の知ったこっちゃねえが。
 和馬はもちろん、いらぬ口を挟んで自身にまで火の粉を及ばせるような、そんな真似などしようとは思わなかった。


 リビングの雰囲気は最悪と言って良かった。
 明かりはいっこうに回復のきざしを見せず、室内を照らすのはテーブルに置かれた懐中電灯の光ばかりだ。電池を温存しようとひとつを残して消されたため、ぱっと見には隣にいるのが誰なのかも判別しずらい状態だ。
「まだ十一時か……夜明けまで当分かかるな」
 顔を近づけて腕時計を確認した和馬が、深々とため息をついた。
 別に夜なんだから眠ってしまえば良いと言えばそれまでなのだが、さすがに誰とも知れぬ相手に襲われ怪我人が出ているというこの状況で、それじゃあと寝にいく訳にもいかなかった。それにこの荒れ模様では、なにか男手が必要なことも出てくるかもしれない。
 そんなこんなで今夜は徹夜を覚悟した和馬だったが、この状況では時間の経つのがずいぶん遅く感じられた。ただでさえ電気がないためテレビもつかない、本も読めない、そんな状態なのである。ましてさっきの騒ぎ以降、明るく会話するという雰囲気でもなくなっている。
 伯爵などはそれでも晴明を相手にぼそぼそと何やら話しこんでいるようだったが、その他の面々は居心地悪げに ―― それでも明かりのあるリビングから出ていく気までは起きないらしく ―― そこここに数人ずつ固まっている。
「……あの、軽くつまめるものを用意しましたが」
 台所に通じる扉から、初老の女性が声をかけてきた。
 富川の妻だという彼女は、主に食事の面を受け持っているそうだ。停電でレンジや冷蔵庫の類は使えなくなっていたが、コンロの方には影響がないので、できるものを用意していたらしい。
「あ、手伝います」
 晴明が素早く席を立った。遠慮するのににこりと笑いかけ、サンドイッチが盛られた大皿へと手を伸ばす。
 和馬も重い保温ポットなどを運ぶのを手伝った。
「こちらは上におられる方の分ですね」
 別に分けられた二つの盆を、晴明が確認する。
 ひとつは弘泰老人の元へ戻った沙也香に譲の、もうひとつは友世を見ている育子ら使用人のためだろう。
「沙也香んとこは俺が行こうか」
「では、こちらは私が」
「ですが、お客様にそのような」
「今は女性の一人歩きは危ないようですから」
 おろおろとする富川夫人に微笑みかけ、晴明は盆を持ち上げた。
 人数が多いぶん、運ぶ量もそちらの方が多い。交代しようかと口を開きかけた和馬だったが、それより早く割り込んだ声があった。
「重そうだ。ご一緒しよう」
 幾つか皿やカップを取り上げた伯爵が、上機嫌な顔でそう告げる。
「……あんた、本当にこいつが気に入ったんだな」
 裕福な出らしい伯爵は、どちらかというと水原の親族達に近いタイプで、こういった場面では他人に働かせるのを当然と受け止めているふしがあったのだが。しかし茶の入った魔法瓶を抱えてにこにこ笑っている彼は、和馬の言葉もろくに聞こえていないようだった。
 三人で連れ立って階段を上り、廊下を二度ほど曲がったところで別れる。
「俺はこっちだから」
「はい、お気をつけて」
 懐中電灯代わりに薄桃色の光珠 ―― たぶん苑樹えんじゅ夜摩やま石見いわみか、そのあたり ―― を頭上に浮かべた晴明らと別れ、和馬は沙也香達のいる弘泰老人の寝室へと向かった。
「それにしても、いったい誰がなんの目的で物騒な真似してんだかな」
 大幅に歩を進めながらひとりごちた。
 狙われたのは屋敷の主である弘泰老人と、客である孫の友世。単純に考えれば遺産相続にまつわるなにかであろうし、それならば少なくとも晴明と和馬に危害が及ぶとは考えられなかった。犯人の邪魔をしなければ、という但し書きはつくが。伯爵もたぶん大丈夫だろう。当面この三人だけが安心して屋敷内を歩けるメンバーだった。沙也香と譲は負傷者の治療に当たっているという面で利害関係が生じている。いまの状況で彼女達になにかがあった場合、その後同程度の怪我人がさらに増えたなら、それらの人々は手当てが間に合わず死亡することになるだろう。
 とはいえ引っかかることはある。
 仮にも同じ屋敷内で人ひとり襲われていて、和馬はなにひとつ気がつかなかった。
 外では激しい嵐が吹き荒れているこの状況で、離れた場所での物音など聞こえるはずがない ―― 普通ならそう言うだろう。事実これが水原の親族一同や使用人達、また晴明などが言うなら、和馬もそりゃそうだと納得するのだ。なんら特殊な感覚を持ち合わせない一般人にとっては、それが当たり前なのだから。
 しかし風霊の声を聞く和馬や、また指輪を探すため屋敷中へ探索の蜘蛛を放っているだろう伯爵が、なにも気づかないというのはおかしかった。なにがあったと、そこまで具体的には断言できずとも、常ならぬ何事かが生じたと、そんな気配ぐらいは察知できるはずなのに。
 少なくとも、相手が普通の人間であれば。
「……まさかプロって訳じゃあるまいし」
 相手が気配を消すことに長けた、殺しの専門家であればまた話は別だ。だがそれは考えるまでもなく論外だろう。そんなプロフェッショナルがこの暗闇の中、女ひとりを殺すのに失敗し、とどめも刺さずに放置するはずがない。
 となると、他に考えられる可能性としては……
 そこまで考えたところで寝室の前にたどり着いた。片手を空けて、無造作にノックする。
「食いモン持ってきたぜ」
「あら、気が利いてるじゃない」
 開いたドアの隙間から弾んだ声が飛び出してきた。
「確かに、いまこの屋敷内に殺し屋がいるなんて、そんな考えはナンセンスだわ」
 三つ目のサンドイッチを取り上げながら、沙也香は和馬の意見を肯定した。
 その傍らへと、譲が茶のお代わりを置く。
「どんなことであれ、可能性はゼロではない。ひっくり返せば、果てしなくゼロに近いありえなさよ」
「だよなぁ」
 和馬もまた負けじと大皿へ手を伸ばす。
「だいたいさ、弘泰にしたって、狙われる心当たりなんかないのよね」
「そうなのか?」
 それなりの大会社の元社長で、引退後もこうして交通の便が悪いとはいえそこそこ立派な屋敷に住んでいるのだ。資産とかなんとか色々あるのではないのか。
「遺産なんて、生前分与とか言って引退するとき全部子供に分けちゃってるわよ。残ってるのはこの屋敷とその維持費ぐらい。ま、それでも一般人から見たらかなりの額であることは確かだし、弘泰がぶっ倒れたって聞いて喜んでもらいに来るぐらいはするみたいだけど。だからって、わざわざ人殺しのリスクを負ってまでとなると、ちょっと疑問が残るわ」
「会社経営に口出しされるのが邪魔だとか」
 頑固な老人だというから、いつまでも頭を押さえられているようでうっとおしくなるというのも考えられる。
 だが沙也香はため息をついてひらひらと手のひらを振った。
「それもなし。引退した人間に頼るなとか言って、きれいさっぱり身を引いちゃったもの」
 まあそれで逆に、助けてくれないってさか恨みするパターンはあるかもしれないけど。
「……ずいぶん徹底した爺さんだったんだな」
「判りにくいのよ、愛情の示し方が。本人は子供の意志を尊重して自立を促したつもりなんでしょうけど、子供の方からしてみれば、ただ金だけ与えて放ったらかされてるとしか思えなかったんじゃない」
 まったく不器用なんだから、と呟く沙也香は、それでも眠る老人の顔を優しい眼差しで眺めている。
 口さがなくあれこれ言うくせに、この老人と仲は良いらしい。さっきの話ではずいぶんつきあいも長いようだったし。
 ―― と、そこで和馬は思いだした。
「そういや、伯爵が言ってた指輪はどうなんだ」
 既にかなり高齢な弘泰の、さらに祖母の代から伝わっているという紅鋼玉ルビーの指輪。老人が倒れたためどこにしまい込まれているか判らないそれを探し出そうと、そのために伯爵は雇われたそうなのだが。
 友美が言うには相当な値打ち物だという話だった。それがことの発端になったとは考えられないのか。
「ああ、あの指輪」
 沙也香の反応はいまひとつ鈍いものだった。
「知ってるのか?」
「見せてもらったことはあるわ。確かに大粒で深みのある見事な石だったけど……」
 沙也香の言葉にかぶせるように、扉が荒々しくノックされた。あまりに激しいその勢いに、二人は思わず口をつぐんで振り返る。
 応答がないことに焦れたのか、返事を待たずに扉が開かれた。乱暴な扱いに蝶番が悲鳴のような軋みをあげる。現れたのは、喪服を思わせる黒スーツをまとった痩身の男 ―― 蜘蛛伯爵こと幸田伴道だ。
 もともと良いとは言えない顔色をさらに青ざめさせた彼は、数度唾を飲んで息を整えると、ようやく口を開いた。
「また一人、襲われた。……今度は使用人の男だ」
 沙也香と和馬は椅子を蹴って立ち上がった。


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