明かりが落ちる前、晴明と伯爵の二人は、幾つ目かになる部屋で和気あいあいと歓談しつつ、それぞれの仕事をこなしていた。
晴明の方は小物を主に鑑定を続け、伯爵は大小様々な蜘蛛を放っては戸棚の中や机の引き出しなどを調べている。
「すると松代さん達が越冬される場合の環境調整は ―― 」
「念のため温室を用意して高めの温度と湿度を保ってはいるが、うちの
娘達は同種の蜘蛛よりも丈夫な傾向があってね。熱帯出身の種類でも、こうして私と一緒に外出できるし」
なあ松代、と肩にしがみついているタランチュラに微笑みかける。
見る者に相当なインパクトを与えるだろう巨大なその蜘蛛は、なんでも伯爵が子供の頃から共に暮らしている一番の古株なのだそうで。この種の蜘蛛の雌は、通常でも二十年以上生きた例がある。伯爵のもとでならば、よりいっそう長生きすることだろう。
「……ん、どうした。開かないのかね?」
晴明の反応が鈍いことに気づいたのか、伯爵が顔を上げてその手元を見た。小物入れだろうか、木彫りの箱を手にした晴明が、困惑したようにためつすがめつしている。
「ええ、鍵がかかっているみたいです」
「どれ貸してみたまえ」
伸ばした手に小箱が置かれる。伯爵はしばらくそれをひねりまわしていたが、やがて自分の右手へと視線を向けた。
「菊江」
優しい声で呼ばわる。
と、その声に応じて袖口から小さな蜘蛛が這い出してきた。体長ほんの数ミリ程度の、米粒のような大きさだ。小さいながらもしっかりと八本の脚を備えた蜘蛛 ―― 菊江は、伯爵の伸ばした人差し指を伝い、小箱の鍵穴へと潜り込んでゆく。
待つほどもなく、かちりと言うかすかな音が聞こえた。鍵穴から菊江が這い出してくるのを待って、伯爵が蓋に手をかける。凝った浮き彫りの施された上蓋は、なんの抵抗もなく開いた。
「ああ、鍵が中に入っている。なにかの弾みに閉じ込んでしまったようだね」
開いた小箱を手渡すと、晴明がにっこりと微笑んだ。
「ありがとうございます、伯爵。菊江さんも」
伯爵の指先にいる小蜘蛛へと指を伸ばし、丁寧に礼を言う。
菊江の伸ばした小さな脚が、晴明の指先へとかすかに触れていた。その様子を伯爵はとろけるような笑顔で眺める。
己の可愛い娘達に対し、ふさわしい態度で接してくれる礼儀正しい青年を、伯爵はすっかり気に入ってしまっていた。
なにしろ世の分からず屋どもときたら、彼女達を目にしただけで嫌悪の声をあげ、ときとして手すら上げようとするのである。まったくもって度し難いというものだった。しかるにこの青年は実に礼儀をわきまえている。このような人物の存在を今まで知らずにいたとは、本当にもったいことだった、と。
そんなことを考えている伯爵を知ってか知らずか、晴明は小箱の鍵穴をしげしげとのぞき込んでいた。
「なるほど、鍵というのは内部の突起を定められた手順で動かせば良いわけですから、菊江さんなら中から直接開けることができるのですね」
お見事です。
全開の笑顔を見せる晴明に、伯爵は思わずくらりとめまいのようなものを覚えた。心なしかその肩にいる松代までもが、よろめいたような動きを見せる。
タラされてるタラされてる。和馬がそこにいたなら、そう評したかもしれない。
屋敷内の電気がいっせいに落ちたのは、そんな時だった。
なんの前触れもない暗闇の訪れに、二人はしばし言葉を失い立ち尽くす。
「停電、ですか」
「……参ったな。なにも見えない」
ややあってそんなふうに呟く。
あいにく二人とも特別夜目が効くという方ではなかった。もちろんのこと、和馬のような周囲の様子を把握できる能力も持ち合わせていない。どちらからともなく、互いがいるのであろう方向へと視線をさまよわせた。
と、ふわりと柔らかな光が室内に生じる。
おやと視線を落とした先で、晴明の腕飾りが穏やかに明滅していた。
伯爵が感嘆の息を吐く。
「美しいな」
「ええ、そうですよね」
幻想的な光を帯びた翡翠の勾玉は、確かに目を奪われるほどに美しかった。同意してうなずいた晴明だったが、しかし彼は伯爵の感嘆に、光を浴びて闇に浮かぶ己の立ち姿も含まれていることに、まったく気づいていない。
充分とは言えないが近場の視界を確保できた彼らは、しばらくそのまま待機していた。だが明かりが復活する気配はない。
「……他の様子を見てきた方が良さそうですね」
「そうしよう」
連れだって廊下へと出た彼らは、ひとまず人を捜すべく居間の方へ向かうことにした。そうして足を踏み出した瞬間、けたたましい悲鳴があたりに響きわたる。
「なんだ?」
「あちらです!」
晴明が走り出す。唯一の光源を持っている彼がそちらに向かうのだから、伯爵も必然的に後を追うこととなった。
階段をひとつ駆け上がり、廊下の角を曲がったところで悲鳴のもとが目に入る。
「なにがあったんですか!?」
問いかけると、長々と続いていた叫び声がぴたりとやんだ。いや、問いかけではなく、近づく光に反応したからかもしれない。廊下に直接座り込んでいた人物が、晴明達の方を振り返る。
「あ、あ……」
口を開きなにかを訴えようとしているが、声が言葉にならないようだ。
「大丈夫ですか」
晴明が床に膝をつき、相手の頬へと手を伸ばした。安心させるように、手のひらで包み込むようにする。
「あた……あたし……は」
ソバージュのかかったロングヘアを振り乱した女性は、幾度も息を呑みながらがくがくと数度うなずいた。そうして震える指を持ち上げ廊下の先を指さす。その仕草に晴明と伯爵はそちらの方を見た。
「彼女をお願いします」
晴明は腰を上げると、伯爵へと場所を譲った。
そうして自身は光る腕飾りをかざし、新たに視界に入った人物へとかがみ込む。
「ど、どうだね」
自身も動揺してきたのか。伯爵が不安げな口調で問いかけた。
倒れている身体を検分していた晴明は、ややあって難しい表情で顔を上げた。
「息はおありですが……沙也香さんをお呼びした方がよろしいかと」
そう言って持ち上げた手のひらは、べっとりと赤いもので染まっていた。
◆ ◇ ◆
「いったいどういうことなのよ! 誰が友世をあんな目にあわせたの!?」
けたたましい声が部屋中に響きわたる。
きんきんと耳に痛いその声質に、室内にいる何人かはあからさまに顔をしかめていた。
停電はいまだ続行中である。暗いリビングに屋敷内から探し出した懐中電灯や蝋燭を集め、なんとか互いの顔が判る程度の明るさを確保してあった。同じく屋敷中から集まってきた人間がそこに顔をそろえ、浮き足だった空気の中、互いの様子をうかがっている。
その真ん中で先刻から叫びたてているのは、松本友美 ―― 指輪を探すため伯爵を雇った末娘夫婦の片割れ ―― だった。つい先刻、廊下で倒れているところを見つかったのは、彼女の一人娘、友世である。怪我の状態から察するに、どうもなにか鋭い刃物で切りつけられたらしい。
手近な部屋に怪我人を運び込み、沙也香を呼びにやろうとしていたところに和馬らが駆けつけ、一同はひとまず負傷者の手当てを沙也香に任せ、状況を説明するためリビングへ戻ってきたのである。
真っ暗な中、持っていたライターの火を頼りに廊下を進んでいた佳美 ―― こちらは長女正美と孝臣夫妻の娘だ ―― は、倒れていた友世に行きあい、助け起こそうと手を伸ばしたところ、血に気がついてパニックを起こしたということだった。ライターを落としたせいであたりは再び鼻をつままれても判らぬ常闇に落ち、目の前には何者かに襲われたとおぼしき瀕死の従姉妹。うら若い女性に平静でいろと言っても、それは無理だろう。
今も彼女はソファに沈むように座り込み、小刻みに震えている。
「ちょっと! なんとか言いなさいよ。まさかあんたがなにかしたんじゃないでしょうねッ」
突如友美の矛先が向けられて、佳美はびくりと身を強張らせた。反応して言葉を返したのは、彼女ではなく母親である正美の方だ。
「いい加減にしなさい。いい年をしてみっともない」
実の姉からの言葉に、友美はいっそういきりたつ。
「みっともないですって。娘がひどい目にあったのよ。姉さんにとってだって姪でしょうに、何よその言い草は」
「他人の迷惑も顧みず、そうやって大騒ぎしてれば友世の怪我が治るとでも? 少しは大人しくして待ってたらどうなの」
「なにを待つって言うのよ。あんな子供のすることを信用しろとでも? 冗談じゃないわ」
「他にどうしようもないでしょう。とにかくいま小池がふもとまで医者を呼びに向かってるから」
「……好き勝手言ってくれてるわよねえ」
背後からぼそりと呟かれた言葉に、晴明と伯爵が振り返った。いつの間にやってきていたのか、和馬を背後に従えた沙也香が、すがめた目で言い争う二人を眺めていた。
「あ、沙也香さん、お疲れさまでした。友世さんの具合はいかがでしたか」
「出血が多いけど、傷は塞いだし雑菌の感染やショック症状も押さえておいたから、あとは輸血さえすればすむでしょ」
すげない口調で言い捨てる。
ちなみに言い争っている二人やそちらに気を取られているその他の面々は、まだ彼女の登場に気がついていないらしい。
「それは良かったです」
晴明がほっと息をついた。
「誰がやったのか、判ったのですかね?」
伯爵がそう問いかける。それには沙也香と和馬の両方が首を振った。
「まだ意識が戻ってないから、なにも話は聞けてないわ」
「それに後ろから首をやられてるんだが、もし電気が消えてからのことだったら、本人も誰にやられたかなんざ判りゃしないだろう」
和馬が襟首のあたりを人差し指でなぞった。
「ところで、医者を呼びに行ってるって」
「ええ、なんでも電話まで通じなくなっているそうでして、直接車でお出かけに」
救急車を呼ぼうとしたところ、線が切れたのか屋敷の電話はまったく使いものにならなくなっていた。
「今どき携帯が繋がらないっていうのも貴重よね……」
沙也香がしみじみと呟く。この近辺にはどこの中継器も建てられていないらしく、誰の携帯電話もことごとく圏外を表示していた。世の中まだまだ広いのである。
「この天気だと、今夜中に戻ってくるのは難しいかもな。途中の道が崩れてなきゃいいが……」
窓の外を眺めて和馬が嘆息する。夜が更けるにつれますます激しさを増してきた風雨は、屋敷そのものを揺らす勢いで荒れ狂っていた。たとえ昼間であっても、こんな天候の時に外出するのは愚か者のすることだろう。まして視界の効かない深夜ともなると、無事に麓までたどり着けるかどうか、それさえも怪しいぐらいだ。
「いま友世さんには、どなたがついてらっしゃるんですか」
「俺らが来たときに出てきた富川って爺さんと、田島って子と、あと浅野っていう若い男が見てる」
「すると譲さんは弘泰さんの方に?」
「ああ。あいつならなにかあっても一人で大丈夫だろうしな」
たとえこの暗闇に乗じて老人に危害を加えようとたくらむ人物が現れたとしても、彼なら自分の身も含め確実に守り抜くはずだ。
ちなみに和馬が沙也香にくっついているのも、護衛代わりとしてである。
「なにか、ですか。 ―― やはり友世さんと弘泰さんは、同じ方の手に掛かったのでしょうか」
「この人里離れたとこに、人を襲うような輩が二人もいるとは考えたくないがな」
「え、爺さんが、なに……?」
突然発せられた第三者の声に、一同は口をつぐんで声の方を注視した。
いっせいに視線を向けられて、声の主 ―― 佳美が身をすくめる。
「…………」
あまりに静かだったので忘れていたが、晴明は怯える彼女の隣に座り、その肩へとなだめるように手を置いていたのだった。そうでもしていてやらなければ、この部屋まで歩くことさえおぼつかないような状態だったのだ。が、多少なりとも時間が経ったことで、まわりの言葉に気がつくぐらいには落ち着いたらしい。
「爺さんも誰かに襲われたの? え、なんで」
問いかけてくるが、それを訊きたいのはむしろこちらの方である。
「佳美さん、でしたね。お祖父様が倒れられた理由はご存じないのですか」
「理由って、年とってあちこちイカレてるから、そんでって……」
そこらの不良中学生じゃあるまいに、二十歳も過ぎて化粧や服もばっちり整えた大人の女が、ほとんど面識もない他人を相手にイカレてるはないだろうよ。
和馬あたりは内心で突っ込んでいたが、他の面々は違う部分を聞きとがめたらしい。
「あんた達、いったい何を話してるの」
言い争いをやめた正美と友美が、険しい目つきでこちらをにらみつけてきた。その向こうで椅子に座っていた河村 ―― 次女和美のヒモ ―― が驚いたように立ち上がっている。
「お義父さんが襲われたですって! どういうことですか」
「そうよ、聞いてないわよそんな話!」
和美もまた加勢するように叫ぶ。
「黙りなさい。あなたに父を親呼ばわりされる筋合いはありません」
「こんな部外者の言うことなんて信用しちゃ駄目よ、姉さん」
正美が河村に対してにべもなく言い捨て、友美が和美へとかぶりを振る。
「待って下さい、お義姉さん。今はそんなことを言ってる場合ではないでしょう?」
「誰がお義姉さんですか! だいたい何だってあなたのような人間が今ここにいるんです。私はあなたを水原の関係者だと認めた覚えなどないんですからね」
「って、あなたに認められようが認められまいが、それがなんだって言うんですか」
「こら、ちょっと二人とも落ち着いて」
「あなたは黙ってて! だいたいこの男が……」
またも激しい言い争いが始まろうとしたところへ、和美のヒステリックな声が投げつけられた。
「友世が襲われたのは確かで、父さんもそうだって言うんなら、いまこの家にいる誰かがやったってことじゃないッ!」
シン、と一瞬で室内が静まりかえった。
立ち上がり顔を見合わせる形になっていた一同が、ぎこちない仕草で互いを見やる。
誰かが息を呑むごくりという音が聞こえた。
「……だからなんで、今の今までそれを問題にしないのかしらね、このお馬鹿さん達は」
沈黙を破ったのは沙也香だった。
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