意識を取り戻したとき、晴明はひとり崖下で力なく倒れ伏していた。
何か、とりとめのない夢を見ていたような気がする。
とりあえず起き上がろうと身じろぎして、全身に焼けつくような痛みを覚えた。思わずうめき声を上げ、身体を丸めるようにうずくまる。
しばらく荒い息をついて身を強ばらせていた晴明だったが、やがて痛みが薄れてくると、ほぅと息をついて力を抜いた。そうして改めて、あたりを見わたしてみる。
そこは、見覚えのある場所だった。
緑深い山中にあり、広大な敷地と庭園を擁する安倍家の一画である。
崖下とはいえ、裏手の山へと続くそこは、広い日本庭園を奥に進んだ方向にある、れっきとした邸内の一部だった。いくらか斜面を登った位置にあるため、屋敷が建つ場所よりもだいぶ高い所になっている。手入れされた庭のものか、それとも天然自然のものか、もはや判然としなくなりつつある木々をすかして、屋敷の様子がある程度見渡せる場所だ。
果たしてどれぐらいの間、気を失っていたのだろう。早く屋敷に戻らなければ。
今度は身に響かぬよう、そろそろと足に力を入れていく。が、左足に走った激痛に、晴明は再び歯を食いしばっていた。おそるおそる目をやれば、足首よりわずかに上のあたりで、不自然にねじ曲がっている。骨が折れているようだ。
「……まいったな」
これでは歩くことができない。平坦な場所なら、這っていくぐらいはできるかもしれないが、こんな足場の悪い岩場ではそうもいかなかった。手近に杖代わりとなりそうなものも、まるで見当たらない。
だが声を出せば、なんとか屋敷まで届くことだろう。そうすれば誰かが助けに来てくれるはずだ。
そう考えて、助けを呼ぶべく息を吸い込む。
しかし ―― そこまで考えたところで、晴明は何故自分がこんな場所にいたのかを思い出した。その瞬間、出そうとしていた声が、喉の奥で消えてしまう。
いま、助けを呼んだとして、はたして本当に誰かが来てくれるだろうか。
次期当主継承の儀に忙殺されているだろうあの家の人間が、はたして自分の声になど耳を傾けてくれるのだろうか、と。
そんな考えが、頭の中をよぎってゆく。
あそこに居場所がなかったからこそ、自分はひとりこんな場所にまでやってきてしまったというのに……
先代安倍家当主。自分達の実父である
安倍孝俊が突然の死を遂げてから、既に半年が過ぎようとしていた。
ちょうど、そろそろ高校受験に本腰を入れなければ、と考えていた頃である。
急性心不全という、あまりに突然すぎたその死は、安倍家の屋台骨を大きく揺らがせていた。いったい次の当主を誰にするのか、それを孝俊は明確にしておらず、だがそれはなによりも早急に定めねばならぬ問題であった。
第四十八代目の当主である孝俊の跡を継ぐに足る血筋を備えた存在は、ざっと数えあげて三名。
一人は孝俊の弟であり、優秀な術者として誉れも高い安倍孝秀。そして長男である晴明と、その双児の兄弟である次男の清明。
従兄だの甥だのといった、あまり血筋や能力に秀でていない者を除いていった結果である。
そして……その中で当主に立つ人物は、孝俊であろうと親族の誰もがそう考えていた。
長年当主である兄の片腕を務め、事実上安倍家のナンバー2と目されてきた男。
若さに似合わぬ落ち着きを備え、またその人望も申し分ない。未だ義務教育も終えていない、わずか十五才の少年達など、話にもならないだろうと。もちろんのこと、当の双子達もまた、それを当たり前に受け止めていた。
しかし ――
孝秀は四十九代目の当主に、清明を
推したのだった。
己より二十も年少の、年若い甥っ子を。
自分よりも清明の方が、遥かに強い術力と、当主としての器量を備えているのだから、と。そう断言して。
戸惑いに沸く親族達の中で、もっとも冷静であったのは、長男である晴明であったかもしれなかった。
このとき既に彼は、自分が人の上に立てる器ではないことを、誰よりも自身で承知していた。術力も、そして性格も、それだけのものなど持ち合わせていないことを、はっきりと自覚していた。
だからこそ長男である自分を飛び越えて、弟へと当主の座が移ってしまったことも、彼にとってみればそれほど衝撃的なことではなかったのだ。
そして、その冷静な目線は、弟の力量もまた正確に把握していた。
確かに未だ、年若い。人の上に立つには、あまりにも経験が足りなさすぎるだろう。それでも孝秀が側近くにあれば、そんなことはいくらでも補佐がきく。孝秀自身がそれを望むのであれば、己に何らの否やもあろうはずがない。
少なくとも ―― 自身がその座に祭り上げられるよりは、よほどふさわしい、と。
それははたして、いつの頃からだっただろう。
これ以上はないという、優れた血筋と教育をその身に受けながら、いつまで経ってもその
術力を開花させようという兆しを見せぬ長男に、安倍家の人間達は、徐々に失望の色を見せ始めていた。
文句など付けようもない、術力も人格も見事なまでに優れた陰陽師である、孝俊の嫡子だとはとても思えぬ、と ――
対して双児の弟は、周囲の期待に立派に応えていた。申し分のない術力を発揮し、それを使いこなすだけの技をも易々と身につけていっていた。
面と向かって口にする者こそいなかったが、それでも噂はどこからともなく耳に入ってくる。
どうして、彼ら二人は逆に産まれてこなかったのだろうかと。清明が兄として、晴明が弟として産まれていたならば、どんなにか良かっただろうに、と。
まったくもってその通りだ。
晴明は皮肉でなくそう思っていた。もしもそうであったなら、自分の望みもまた、あるいは叶ってくれたかもしれなかったのに、と。
当主になど、なれぬと言うのなら、それでも良かったのだ。
周囲の期待に応えようと、どれほどの努力をしてみせただろう。まだ年端もゆかぬ頃から、毎日毎日、文字通り寝る間すら惜しんで書を読み、厳しい修行を重ね……しかしそのすべてが徒労となって終わっていった。
足りぬ
技術なら
術力で補うことができる。足りぬ
術力もまた
技術で補うことができる。けれど ―― 始めから存在しない術力だけは、いかに知識を得ようと、技術を磨こうと、どうにもなりはしなかったのだ。
それでも……それでも晴明はまだ諦めなかった。
諦められなかったともいえる。
浅ましいと、情けないと思いながら、それでもなお、望まずにはいられなかった。
安倍家の ―― 叔父の役に立ちたいのだ、と。
実の父親である、安倍家当主孝秀の弟。その血の繋がりから来るもの以上に、彼は晴明にとって特別な存在であった。生まれてまもなく母を亡くし、安倍家当主としての責務を果たす父とはろくに顔を合わせることもなかった。そんな彼ら双児にとっては、日常的に側近くにいてくれる孝秀こそが、父親のようなものだったのだ。
幼き折りより、陰陽の
術を手ほどきしてくれたのも彼だった。
頭が良く、術力も強く、厳しくて、しかし心の底には優しいところをも持ち合わせた叔父に誉められたい一心で、晴明はずいぶんと頑張ったものだった。
呪をひとつ覚えるたび、書物を一冊読破するたび、良くやったと言ってもらえるのが、ひどく嬉しかった。
それなのに……
いつの頃からだっただろう。叔父が自分に笑いかけてくれなくなったのは。
少なくとも、十を迎える頃にはもう、向けられる笑顔を見ることはなくなっていたように思う。
あの人に嫌われたくない。ほんの少しでも良いから必要とされたい。
それは、心の底からの願いであった。
だから、懸命に考えた。
陰陽の術を会得できずとも、他の部分で役立つことはできないものか。
安倍家内部での様々な管理統制。あるいは他の諸々の呪術家などとの対外折衝など、術力を直接必要とせぬ仕事は、いくらでもあるはずだ。
その為にはと、晴明は一層学ぶことに力を入れた。歴史や地理、古典や社会経済。各種の言語学はもちろんのこと、学歴や成績も他者からの評価対象になるからと、中学では常に学年主席を保ち続け、末はどこの高校、大学であろうとも、確実に進学できるだけの実績を作り上げた。
だが……
清明は中学を卒業すると同時に安倍家を継ぐことが決定し、結果として高校進学は無いものとされた。そして同時に、双児である晴明のそれも。
お前のような者にものを学ばせたとて、いったい何の役に立つ。
進学させて欲しいと訴えに言った晴明に対し、孝秀はただ静かにそう吐き捨てた。どんな懇願をも受け入れえぬ、容赦のない拒絶をもって。
つまるところ叔父は、もう自分に何の期待もしてはいなかったのだと、そう悟るのには充分な仕打ちだった。
たとえどれほどの努力を目の前でしてみせようとも、叔父はそれを目に入れることなど最初からしていなかったのだ。たとえなにをどうしようと、どれだけ足掻いてみせようと、一度貼られた出来損ないというレッテルを、剥がそうなどとは考えてもくれていなかったのだ。
何をする気力も失って、晴明は言われるまま進学することなく中学を卒業した。学校関係者の一部からは彼の学力を惜しむ声もあがったが、それも孝秀には何の影響も及ぼさなかった。
そして。
今日は清明が孝俊の跡を継ぎ、安倍家当主に就任する、その儀式が行われる前日であった。邸内は、継承の儀の準備でせわしなくわき返っている。
末端の見習いまで誰もが忙しく立ち働いている中で、晴明だけなにもすることがなかった。
儀式の中で特別な役割を任されているわけでもなく、進行に口を出せるような立場でもない。さりとて下準備など、手を出そうものならかえって邪魔をすることになってしまう。
弟は当事者ゆえに誰よりも忙しく、側近くにいることなどとてもできはしなかった。
どこにも居場所のなくなってしまった晴明は、しかたなく人気のない庭をひとりで歩きまわっていたのだ。
「……どうしようか」
ため息をついて、晴明は背後の斜面へと上体をもたせかけた。呼吸をするたびに、全身がひどく痛む。
鬱々とした気分で周囲への注意を怠っていた晴明は、目の前に現れた十メートル近い落差に気付かなかったのだ。幼い頃より歩き慣れたはずの庭園だけに、我ながら情けないものを感じてしまう。自分でさえそうなのだから、家の者、ことに叔父がこれを知ればどんなにか嘆かわしく思うだろう。
落差に気付かなかったことも、またたかが十メートルやそこらの高さで負傷してしまったという、そのことにも。
自分で自分の身すら守れぬ、その不甲斐なさ。そしてまたこの忙しい時期に、むざと手をわずらわせてしまうことにも申し訳がない。
いや……それとも彼らは……自分になど、頼んだところで手を貸してはくれないだろうか……?
もしも助けを呼んだとしても、誰も来てくれなかったら? 儀式の準備の忙しさに、誰も自分の不在になど気付いてくれなかったら?
そう考えて、晴明は思わず唇を噛みしめていた。
目を閉じて、大きくかぶりを振る。
いくらなんでも、いくらなんでもそんなことはないだろう。こうしていれば、きっと誰かが探しに来てくれるはずだ。大丈夫かと言葉をかけて、そうして自分をあの屋敷へ連れ帰ってくれるはずだ。そうして傷の手当てをしてくれるのだ。寝床を敷いて、休ませてくれる。あの屋敷の中で、自分が居ていい場所を作ってくれるのだ。誰かが、きっと!
心の中で呟く言葉は、むしろ自身へと言い聞かせるような響きを持っていた。そして、そう考えれば考えるほどに、胸の内で不安がいや増してくる。
「……大丈夫……きっと、きっと誰かが来てくれる。ひどい怪我だって……そう言ってくれる……」
痛みをこらえる荒い息。
晴明は土くれに全身を預けたまま、全身から力を抜いた。
既に茜色に染まりつつある黄昏の空を見上げ、両の目を手のひらで覆う……
◆ ◇ ◆
―― 夢だと判っていて、見る夢がある。
悪夢であれ、良い夢であれ。それが現実のものではないと判っていながら、それでも見てしまう夢が。
だから、『それ』がいつも見ている夢なのだと、晴明にはすぐに判った。
幼い頃から、何度も目にしている、どこか不思議なところのある『夢』なのだと。
その中で彼は、いつも時代がかった服装をしていた。狩衣や水干、あるいは
袍といった、なにか術を学んだり儀式の折りにしか身につけぬような衣装ばかりを着ていたのだ。いや、おかしいのは晴明ばかりではなかったし、あるいは服装ばかりでもなかった。
衣冠束帯の公達、十二単をまとった女房達、
襖や『てなし』といった農、商人。寝殿造りの貴族の館や、通りに建ち並ぶ庶民の家々。碁盤の目のように張り巡らされた通りには、物売り達や牛車が行き交いしている。
西暦七九四年から一一九二年の四百年にわたって続いた、平安の時代。それまでの唐風文化に代わり、国風文化が花開いた時代である。陰陽道が発達したのももっぱら、藤原氏の勢力が頂点に達したこの頃からだった。内裏に設けられた陰陽寮では、賀茂家による
占卜や星見が貴族達の生活に多大なる影響を及ぼしている。
そんな時代の夢を、晴明は幼い頃からずっと見続けていた。
夢の中の彼にもまた、双児の兄弟が存在していた。弟ではなく兄ではあったけれど、優秀な陰陽師であることは、現実の自分達とも良く似ていた。
自身が陰陽寮に身を置きながら、なんらの術力をもその身にそなえていないことも、また ――
それでも。
夢の中の『彼』は、陰陽師として
公に認められていた。
術力こそ持たぬものの、彼には力を貸してくれる多くの異形の『友』がいたのだ。そんな友たちや兄の力を借り、帝からの信頼もあつかった彼は、宮廷内でもっとも著名な陰陽師として名を馳せていたのだ。
自分とは、どれほど違うことだろう。
時として、そんな嫉妬を覚えることすらあった。
友と兄弟に恵まれ、時の帝からの寵愛すら受ける陰陽師。同じように何の術力も持たない存在であるというのに、どうして彼はそんなにも恵まれているのだろう、と。
しかしその日の夢は、いつもと
趣を
違えていた。
土御門大路に設けられていた、彼の館が炎上している。
寝殿造りの広大な建物は、不自然なほどの速さで激しく燃え上がり、早くもその姿を炎の中に崩しゆこうとしている。
そして、火に包まれた屋敷の一画で、『彼』は逃げようともせぬまま、立ち尽くしていた。
その周囲を、友となる異形達がとり囲み、守るように結界を張り続けているが ―― それも長くは保たないように見える。
うっすらと、微笑みとさえ呼べるような表情を浮かべて、『彼』は呟いていた。
『忠行様……そんなにもこの私が……晴明が……邪魔だったのですか……?』
と ――
目覚めたときにはほとんど思い出すことのできぬそれらの言葉が、夢を見ているいまでは、彼とその敬愛する師匠との確執であるのだと理解できる。
彼が誰よりも尊敬し、和解を望みながら ―― ついに判り合うことのできなかった、師匠、
賀茂忠行。
その師匠が差し向けた呪詛を前に、『彼』は……平安の大陰陽師、
安倍晴明は、ただ微笑み立ち尽くすだけであったのだ。
早く逃げろと、炎の中へ飛び込んできてくれた兄、
安倍清明の言葉にすらかぶりを振って。
『……もしかしたら、ここで潔く私が死んだなら……忠行様も少しは私を見直して下さるかもしれませんしね』
誰よりも敬愛し、そして最後の最後まで憎まれ続けた師匠。たとえ誰から憎まれようと、呪われようと、あの人にだけは愛してもらいたかった。だから、それがかなわぬのならば、せめてこれ以上自分を憎まないでほしい。疎んじないでほしい。自分の存在そのものがあの方の憎しみをかきたてると言うのならば……
『さぁ、お前達も……私を解放しておくれ……』
両手を広げて、結界を張る異形達へと、その願いを口にする。
どこまでも穏やかなそれは、深い悲しみをも含んで、重く、そして静かな……
次の瞬間、炎が激しく勢いを増す。
すべてを包み込み、真紅に染め上げた炎が、『彼』の姿を呑み込んでゆく。
◆ ◇ ◆
それは、はたして夢か、それとも幻想か。
幾度目かの覚醒かも判らぬままに、既に数回の日没と夜明けが訪れていた。
極限状態において、脳はかつて得た知識を無作為に検索し、自らを救うすべを見出そうとするという。その検索からこぼれ、漏れ出た情報が継ぎ合わされ、白昼夢や走馬燈と呼ばれるものを生み出すのだと。
いま夢とも幻とも定かならぬままに見てきたそれは、これまでの研鑽で得てきた知識と疲弊した脳とが作り上げた、壮大な絵空事に過ぎぬのか。それとも……
知らず、唇の端が上がっていた。
もはや痛みも寒さも感じなくなった頬を、つ、と一筋の雫が伝い落ちる。
―― 否。
晴明には判っていた。
つい先刻までは知らず、しかし今では揺るぎない確信を持って断言できる。
あれは、かつて実際に起こった出来事であったのだと。
千歳を越えた、遥かな
過去。
名ばかりが先行した、無力で小心な
似非陰陽師の、迎えたあれがその末路であったのだと ――
どうしてそんなことが判るのか。自らの内に何故その男の記憶が存在するのか。そんなことはどうでも良かった。確実なのは、自分があの男の ―― 自らと同じ名を持つ先達の、想いを理解できるということだった。
かの男が何を想い、どのように苦しみ、そうして道を選びだしたのか。痛いほどに、それを理解できる。
何故なら、あの男と自分は、同じだった。
陰陽師となるべく修練を積み、己も、周囲の者も、末は大成するのだと信じて疑わなかった。それはごく当たり前に、約束されたはずの未来だった。
それなのに……得られなかった力。存在しえなかった素養。持てぬ力ならば、異なるそれら ―― 知識や、人脈といった ―― 努力によって得られるそれらで埋めようと、懸命にあがき……
そうして、すべては徒労に終わったのだ。
「私の存在は、邪魔なのですね……」
封じていた言葉は、あっさりと形になった。
それは、かつてあの男が口にしたそれと、そっくり同じ意味を持つもので。
宙に向ける、焦点の合わない視線。滲んだ視野に浮かぶ面影は、既に定かなものではなくなっていた。誰よりも尊敬し、その役に立ちたいと望んだ相手。それはかつて『彼』が師匠と呼び慕った老人であったのか、それとも晴明と血肉を分けた叔父のものであったのか。
どちらでも、もう構わなかった。
―― そう、陰陽五行とは、交わりくり返す輪廻思想の上にある。ならば『かの人』が、『自分』を受け入れてくれることはないのだ。この先も、おそらくずっと。
今生でもかの人の手をわずらわせるぐらいであれば……
小柄は、懐に常に持ち歩いていた。
安倍家の家紋。星形の桔梗印が刻まれたそれは、孝秀や清明の手中にあれば、様々な役目を果たす術具となる。だが晴明が使えば、ただの刃物でしかなかった。それでも手入れは一日として欠かしていない。細く短いその
刃は、素晴らしい輝きと切れ味を有していた。
「ごめんなさい ―― 」
生まれてきてしまって。
左手首に押し当てた小柄は、ほとんど抵抗も感じさせず。肉と、筋と、血管とを深々と切り裂いていった ――
◆ ◇ ◆
その瞬間、数日にわたる精進潔斎を追え、結界を張った道場から出てきたばかりだった清明が、びくりとその面を上げた。
「どうかなさいましたか」
突然とも言えるその動きに、付き添いをしていた青年と出迎えた数名とが、不思議そうに問いかけてくる。
しかし清明は、しばし呆然としたように宙を眺めていた。
そして ――
「……あに、うえ……?」
震える右手が、自身の左手首を押さえるように動く。
「清明様?」
次の瞬間、それまでの様子が嘘のように、清明は表情を厳しいものに改めていた。
そうして周囲の者達へと問いかける。
「兄上は、どうしていらっしゃる!?」
「は……?」
唐突なその問いかけに、一同はみな同じような表情を浮かべた。
すなわち、何を訊かれているのか判らない。誰もそんなことなど気にも止めていない。そんな表情だ。
それを確認した清明は、口中で小さく舌を打つと、右手の人差し指と中指を立て、一人の額へと押し当てた。
「き、清明様? なにを……」
「私はまだ、潔斎を終えていない。道場から出てきていない」
低い声でそう呟く。
途端に、額に指を当てられた男の顔から、全ての表情が抜け落ちた。
戸惑う男達全員の額へと、清明は次々と素早く剣指をつきつけてゆく。
「私はまだ、潔斎を終えていない。道場から出てきていない」
さらに数度同じ言葉をくり返すと、表情を失った全員が、平坦な口調で唱和した。
「清明様は、まだ潔斎を終えられていません。道場の中にいらっしゃいます」
それを見届けたか見届けないかのうちに、清明はまとっていた単衣の袖を翻して、庭の彼方へと走りだしていた。その足は裸足のままだったが、砂利によって足裏が傷つくことをも、まるで気に止めていない。
「兄上……っ」
絞り出すかのようなその呼びかけは、どこか祈るような響きをも孕んでいて ――
◆ ◇ ◆
「 ―― このままでは、兄は死にます」
人払いをした中、低く平伏する男を前に、清明は低くそう告げた。
「身体でなくとも心が。たとえ誰かに殺されずとも、自らによって」
静かに続ける言葉に誇張はなかった。
あの日、自らの手で手首を切り裂いてからの晴明は、正しく生ける屍とでもいうべき状態になっていた。
かろうじて、こちらの言葉は耳に届いている。清明の命を身の代とすることで、積極的に同じ事をくり返すことだけはやめさせることができた。
それでも、今の彼には生き延びようとする気力が欠片も存在していなかった。
ただでさえ、弟の身で当主を継承したばかりの現在。清明が繁忙を極める一方で、一部の頑迷な親族達はあらゆる意味で兄を利用しようとするか、あるいは邪魔に考えるかして、さまざまな手を打ってこようとしていた。それなのに守られるべき存在がこの有様では、いかに清明といえども守り抜ける自信は持てなかった。
だからこその、苦渋の決断。
別れたいだなどと、考えたことは一度たりとてない。
生まれ落ちたその瞬間より共にあった、誰よりも
親しい、魂の片割れ。
たとえどれほどその立場に隔たりが生じようとも、けして変わること無い親愛を抱いた己の半身。
けれど、
このままでは『またも』失ってしまうというのであれば。
一時の ―― わずか数年の別れなのだと、懸命に己へ言い聞かせる。
「兄を、よろしく頼みます」
「……はっ」
遠き地で、いわくつきの骨董の保管と管理を行っている、左遷されたにも等しい末端の陰陽師へと、清明は心から頭を下げていた。
畳へと平伏していたその男に、そんな彼の仕草が見えることはなかったけれど。
◆ ◇ ◆
―― 五行とは、輪廻思想の上にあるという。
千年の時を隔て、あまりにも似た境遇を持つ二組の陰陽師達は、やはり同じ運命をくり返し続けるのであろうか。
それは誰にも判らぬことである。
彼らが『それ』を知ったのは、くり返すためなのか、くり返さぬためなのか。
そして彼ら自身もまた、輪廻の輪に乗るものであるが故になのか。
それもまた、誰にも判らぬことではあったのだけれど。
それでも彼らは、彼らの
時間を生き続けなければならない。
廻り巡る、時の輪の中で ――
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