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 魔 鏡 遊 戯マジックミラー・マジック  骨董品店 日月堂 第十一話
 第一章
 ― Makoto.Kanzaki Original Novel ―
 
神崎 真


 十月も半ばを過ぎると、朝方はぐっと冷え込むようになってくる。
 起きる時刻は夏場と変わらないのに、世間はいまだ明けやらず、顔を洗う水の冷たさにふと驚かされる、そんな時節だ。
 布団の中で閉ざしていた目を開いた青年は、まだ薄暗い部屋の中で、しばらくそのまま宙を眺めていた。
 数分も過ぎたところで、ようやくゆっくりと起き上がり、室内を見まわす。
 ベッド下の床には大型犬のようなシルエットを持つ鬼獣が伏せており、掛け布団の上では巨大な芋虫が硝子玉に似た一つ目を眠そうにしばたたかせている。
「…………」
 枕元で丸まっていた三毛猫が、膝に乗り頭をこすりつけてきた。そうしてどうかしたのかと問うように、一声鳴く。
 慣れた手つきでその頭を撫でる青年の視線は、しかし他の場所を見つめていた。
 ベッドから床へと足を下ろし、素足で絨毯を踏んで、向かったのは窓際にある机の方だった。
 机上に置かれているのは、数冊の書籍と脱いだ手袋。折り畳み式の拡大鏡。そして。
 薄い桐箱の表面に指を滑らせて、彼は何かを思案するように静かにその目を伏せたのだった。


◆  ◇  ◆


 その日、日月堂を訪れたのは、三人連れの客だった。
 うち二人は、既に幾度か顔を合わせたことのある、馴染みの間柄だ。
 すぐに客をもてなす際、いつも使用する黒檀の円卓へと案内し、茶と菓子を用意してから、預かっていた木箱を取り出してくる。
 磨きあげた卓に静かに置かれたそれへ、一同の視線が集中した。
 大きさは縦横五寸程度、厚みが二寸足らずというところか。真新しい、まだ木の香りさえ漂う桐箱だ。その蓋には、なんの表書も為されていない。
 そっと蓋を取りのけ、さらに中身を包んでいる布をほどいていくと、出てきたのは一枚の銅鏡だった。ちょうど、大人が広げた手のひらほどの大きさか。背面に、鶴亀の浮き彫り文様が施されている。
「見積もりをということでお預かりしていた、こちらの魔鏡ですが」
 そう前置きして、晴明は席に着いた二人と背後に立つ一人を、順に眺めた。
 その視線を受け、正面に座った少年が緊張した面持ちでうなずく。
 隣に腰掛けている少女は、安心させるように少年の肩を叩いてから、再び晴明の方を見返してきた。二人を守るように立つ青年も、まっすぐに視線を向けてきている。
 そこに宿る期待と ―― そして信頼の色とに、どう言葉を続けるべきかと、しばし迷う。
 しかし、仕事を請け負った人間として、偽りを告げる訳にはいかなかった。自分ができるのは、ただ事実をつげること、それだけでしかない。
「申し上げにくいのですけれど……この鏡に、骨董としての価値はございません。近代、それもここ数年内に作成された、レプリカだと思われます」
 そう、己の見立てを正直に伝える。そして鏡の方へと目を落とし、驚愕を表す一同の反応から、失礼にならぬよう視線をそらした。
「贋物ってこと!?」
 まず少女 ―― 心霊治療師として名を馳せる遠野沙也香とおのさやかが、甲高い声で叫んだ。がたりと椅子を蹴る動きに、卓が大きく揺れる。
「贋物、という言い方は正しくないと思います。むしろ複製品と言った方が」
「どう違うのよ!」
 怒りを見せる彼女へと、丁寧に説明する
「贋物というのは、実物とは異なる品物が、本物と偽られた際に使う言葉です。しかし複製品というのは、本物の代わりに使うため、良く似せて作られた代替品のことです。つまり、はじめから本物では『ない』という前提のもとに、使用される品を言います」
 たとえばここに、著名な画家の有名な作品が存在していたとする。もちろん本物ではない。持ち主がそれを本物だと言いはれば、彼は贋物に騙されていることになる。だがそれを、好きな作家の複製画を飾っているのだと言えば、たしなみのある趣味人として評価されるだろう。
 贋物と複製品の差とは、つまるところそういうことである。
「この魔鏡は、ごらんの通りとても綺麗でしょう? 傷も緑青もついてはいないし、箱もごく新しいものです。それに……」
 失礼、と断って白手袋をはめ、木箱から銅鏡を取り出す。
 そのまま窓際へと移動し、差し込む午前の陽射しをなめらかな鏡面で受けた。
 反射光がまばゆく瞳を射る。ちらちらと揺れるその光を、余人の顔に当たらぬよう、注意して壁へと向けた。落ち着いた模様の壁紙に、丸い光の円が映し出される。
 ほぅ、と誰かが小さな息を漏らした。
 光の円の中に、十字架型の影がくっきりと浮かび上がっていた。十字といっても、交わる縦と横の棒がほぼ等しい長さを持つ、いわゆる正十字ギリシャ・クロスと呼ばれる形だ。
 無論のこと、壁自体にそういった絵が描かれているわけではない。丸い光の中に、その光の強いところと弱いところが存在しているのだが、その陰影によって正十字に見える像が形作られているのだ。
 くっきりとしたラインを持つその形状は、どう見ても偶然がもたらす映像のマジックではありえなかった。明らかに、何者かの意志が介在することによって作り出された、意図的な技術の産物だ。
「この光の像こそ、『魔鏡』と呼ばれる鏡の特性です。肉眼では確認できないほどの、微細な鏡面の凹凸によって、反射光にむらが生じる結果、こういった映像が浮かび上がるわけですが」
 魔鏡まきょう ―― 英語で magic mirror (マジック・ミラー)と呼ばれたものを、そのまま和訳したと言われるこの種の鏡は、古く中国の前漢時代にはその存在を知られていたという。映し出される光の像は、磨き上げられた金属製の鏡がその厚み自体を薄くすることで、背面に彫り込まれた文様が表側の鏡面にひずみをもたらす結果、生じるものらしい。
 ごくごくわずかなミクロン単位の凹凸によって光は集散され、背面に刻まれた文様と同じ姿が、反射光の中へと映し出される。
 ―― 実際に目の前にしてみれば、過去の人々が魔法マジックだと表現しても無理はないと思える、不可思議な現象だった。
「魔鏡そのものは日本でも各地に存在しています。その多くはやはり不思議な力を持つように見えることから、信仰の対象として扱われていたようですね。特にこの種の ―― 映し出されるものが十字架やマリア像といったキリスト教に関連する図柄であるものは、切支丹キリシタン魔鏡と呼ばれ、ことさら珍重され、隠匿されていました」
 手の中の鏡を一度裏返し、背面に彫り込まれた鶴亀文様を皆に示す。
「このとおり、彫り込みと映し出されている像に食い違いがあるでしょう? 本来、十字が映し出されるのならば、裏に刻まれているのも十字であるべきです。なのに異なっているのは、もともとある彫り込み模様の上から、鶴亀を彫った銅板を重ねた二層構造にしてあるからです。ではなぜそんな手間のかかる細工をしたのか。そこに隠れ切支丹信仰が関わってきているのだとか」
 江戸時代、弾圧を受け強制改宗を迫られた当時のキリスト教徒達は、表向き仏教徒を装い、様々な手段を用いてその信仰を守り続けた。観音像を聖母マリアに見立て、ロザリオや聖像、十字架などの聖具を人目を避けて秘蔵する。聖書の内容は口伝によって伝えられ、後には土着信仰などと結びついた結果、本来のカトリックとはまったく異なる宗教へと変化していった例もある。
 切支丹魔鏡も、そうした人目につかぬ形で聖具を信仰するため、考え出された方法だったという。
 一見すれば、なんの変哲もないただの和鏡であるが故に、弾圧の際にも見とがめられることはなく。しかし閉ざされた室内でひとたび光を当てれば、そこに聖なる姿が浮かびあがる ―― 余人の目から隠すには、もってこいのやりかたというわけだ。

「……で? 魔鏡の蘊蓄うんちくは、別にどうでも良いんだけど」

 沙也香が説明をさえぎった。その指先がコツコツと卓を叩いている。どうやら相当にいらだっているようだ。
 晴明はすみません、と一度頭を下げてから、再び壁に正十字を映しだした。
「つまり切支丹魔鏡そのものが、そうやって隠匿され続けた結果、現存するものが極端に少ない品なんです。現在、魔鏡として残っているものの多くは、使い込まれた鏡が、幾度も磨かれ薄くなることで、結果的に魔鏡となった ―― そういう存在がほとんどのようで。ですからこういった形の、あきらかに最初から魔鏡として製作されたもので、しかもここまで傷ひとつなく、映像もくっきりとしたものとなると……」
「骨董だと騙すのにも無理があるって?」
 うなずいた。
 骨董品に見せかけたいのであれば、鏡自体にもう少し傷や錆をつけたり、箱などもそれらしく、古びた時代のついたものを用意するはずだ。表書のひとつとしてあるわけでなく、鏡自体も手入れの行き届いた美しいもの。そして映し出される映像もとてもくっきりとしている。つまり、これはどこからどう見ても『新品』なのだ。ここまでくるともう、判って持っていたとしか思えない。
「持ち主の方は、銅鏡の蒐集家だとおっしゃってましたよね」
「あ、ああ、うん」
 沙也香の隣に座っていた少年が、慌てたように顔を上げた。どうやら延々と続けられた解説を、ほとんど聞いていなかったらしい。
 彼はたどたどしく両手を動かすと、胸の前で円を示すような仕草をしてみせた。
「もっと大きいのとか、小さいのとか。全部で十枚ぐらいあったかな。全部大事にしてたみたいだけど……とくに、それ」
 と、晴明が持ったままの鏡を指差す。
「それが一番、金になるから。もし自分が死んだら一番先に出せって、そんな感じに言ってたんだ」
「それは……失礼いたしました。亡くなられた方だったとは、存じあげませんで」
 晴明は表情を改めると、少年に向かい頭を下げた。
 その言葉を聞いて、沙也香が思い出したように大きく息を吐く。
「……そう言えば、詳しいことは何も話してなかったわね」
 予想外の結果に、彼女はまだ困惑しているらしい。カップを持ち上げて中身がほとんど残っていないことに気づくと、晴明の方をふり返る。
「説明するから、ちょっと座りなさい」
 ついでにお代わり、とカップを揺らしてみせる。


 冷めていた全員分の茶を淹れ直し、背後に立っていた物静かな青年 ―― 沙也香の義息にあたるゆずる ―― も席について、四人で卓を囲んだ。卓の中央には、蓋を開けたままの木箱に収め直した、魔鏡が置かれている。
「まずこの鏡の持ち主だけどね、あたしの友人で、坪倉達義つぼくらたつよしって爺さんだったの。死んだのは先月。急性心不全っていうけど、要はまあ年だったから無理もない。自然死だろうってことで。それについてはあたしも異論ないわ」
 心霊治療師ヒーラーを生業とする沙也香が異常なしと見立てたのであれば、それは本当に自然死だったのだろう。
「心臓も足腰もだいぶ弱ってて、ここしばらくは半分ベッドの上みたいな生活だったし。朝になったら目が覚めなかったなんて、大往生っぽくて良いわよね」
 沙也香はさばさばと続ける。もっとも鏡を眺めるその横顔には、やはりどこか淋しげなものが漂っていた。それなりに、親しい間柄の友人だったのだろう。
「で、さっきも紹介した中野聖也なかのせいやくん」
 手振りで示されて、少年 ―― 聖也が改めてひょこりと頭を下げる。
 日月堂のアンティーク家具に囲まれて、どこか居心地悪げな様子を見せている彼は、年の頃十六、七というところだろうか。普通であれば、平日のこの時間帯には高校に通っているだろう年齢だ。飾り気のないTシャツにジーンズといった格好で、適当に刈られた頭髪は、くすんだ赤茶色。一見すると、学校をさぼってふらふらしている手合いの人間にしか見えない。
 だが ―― よく注意してみれば、晴明達を見返す両眼が、かなり明るい灰色をしていた。男にしては白い肌に、長い睫毛。どこか日本人離れした彫りの深い顔立ちといい、西洋の血が入っているのは間違いないようだ。
 続く沙也香の説明が、その印象を裏づける。
「達義の孫なんだけど、戸籍上は繋がりなし。それっていうのも、達義の一人息子だった宜也たかやって言うのがね、恋人としてつれてきたがアメリカ人とのハーフだったのよ。おまけにもう両親がいなくて天涯孤独なうえ年上だったもんだから、昔気質の達義が結婚に反対しちゃって……で、怒った宜也はそのまま彼女とドロン」
 立てた両人差し指をクロスして×印を作る。駆け落ちしてしまったというわけだ。
 つまりこの少年は、四分の一アメリカの血が混じった、クォーターということになる。
「ですがそれなら、宜也さんとその女性はご結婚なさったんですよね?」
 駆け落ちした先で結婚したのであれば、聖也は宜也の実子となり、達義ともれっきとした血縁関係になるはずなのだが。
 晴明の問いに、沙也香が深々とため息をついてかぶりを振った。
「駆け落ちして一年もしない内に、宜也は事故で死んじゃったのよ。しかもその時、まだ十九だったものだから……」
「ああ、なるほど」
 この国では法律上、女性は十六、男性は十八から結婚することが可能だ。ただし未成年者の場合は、そこに保護者の承諾が必要となってくる。駆け落ちした彼らが自分達の責任で婚姻届を提出するのには、両者ともに二十歳を越えていなければならない。宜也が死亡した時点で十九であり、達義の承諾を得られていなかったというのならば、たとえ両者の間に子供が存在していようとも、あくまで二人の関係は同棲している恋人同士としかなりえない。
「相手の女性は、とても顔向けできないからって、ずっと一人で聖也くんを育ててたのよね。だけど……いろいろ無理がたたったみたいで、去年、亡くなったんだって。そのときはじめて、達義のことを聖也くんに教えて、そして達義もはじめて聖也くんの存在を知ったというわけ」
 この少年はつまりこの年にして、物心つく前に父を亡くし、昨年には母を亡くし、そしてついまた先月、祖父をも失ったことになる。
「御愁傷様でございました」
 丁寧に告げる晴明に頭を下げかえすが、その仕草はぎこちないようでありながらも、どこか慣れたもののようにも見受けられた。
 自分からも説明するべきだと思ったのか。しばらく言葉をまとめるように考えてから、口を開く。
「あの、俺。母さんも死んじゃって、父さんは最初からいないし。あとはもう、自分で働くしかないなって思ってたんだ。けど、それでも一応、爺さんだっていうから会いに行ってみたら、そしたら、いまどき中卒で働くなんてみっともない! って怒鳴られてさ。で、なんか気がついたら、いっしょに住むことになってて」
 そう告げる少年 ―― 聖也の言葉は、内容の割に不思議と悲壮なところがない。むしろどこか面白がるような響きさえ感じられる口調だ。
「そんで、爺さんも婆さんいなくて一人暮らしだったし、掃除とか飯作ったりとか、家の中のこと手伝ってたんだ。爺さんはああだこうだって、口うるさかったけど。でも、けっこう……楽しかった」
「……達義もたいがい、意地っ張りで口が悪かったからね」
 沙也香の声にも、苦笑いのようなものが混じっている。
 長い間離れていた祖父と孫は、どうやらそれなりに仲良くやっていたようだ。
「だからね、達義がちゃんと、聖也くんのことを認知してやってれば問題なかったのよ。どうせそのつもりでいたのは確かなんだから」
 なのにあの馬鹿、そのうちそのうちって言ってる間に、ぽっくりいっちゃうもんだから、事がややこしくなるったら。
 後半は独り言のようになり、沙也香は腹立たしげにカップを持ち上げた。まだ熱い茶に口をつけ、ちっと舌を打つ。
「認知というと……相続の問題ですか?」
「そうです」
 ぶつぶつとまだ口の中で呟いている沙也香に代わり、譲が答えた。
「達義さまには妹さんがいらっしゃったのですが、その息子 ―― つまり甥にあたる方が、現在書類上唯一の血縁となっています。その方達が、遺産の相続を主張してきたのです」
「達義が生きてた頃は顔を出しもしなかったくせに、死んだ途端にやってきて、残ってる親戚はうちだけだから、遺産も全部自分達が受け取るべきだとか言い出しやがって」
 行儀悪く卓に肘をついた沙也香が、腹立たしげに吐き捨てる。
 晴明はちょっと首を傾げた。
「遺産、とおっしゃいますが、その坪倉さまは、そんなに資産家でいらしたんですか?」
「昔住んでたあたりが、たまたまバブルの頃に高騰してね。その土地を売ったお金と、あとは千鶴 ―― 亡くなった奥さんの保険金とで、まあ四、五千万はあったはずね」
 その後は食い潰すだけだったとしても、しょせんは老人の一人暮らし。最近はそこに聖也も加わったわけだが、それにしたところで普通に暮らしていく分には、まだ充分な額が残されていたはずだ。
 ところがそれらが、見つからないのだという。
「通帳をかき集めてみても、せいぜい百万かそこらってとこかしら。もちろん当座の生活費としては充分なんだけど、それにしたって減りすぎじゃない? ……で、もしかしたら集めてた鏡につぎ込んでたんじゃないかと思って、持ってきたんだけど……」
 卓上の魔鏡を見やり、ため息を落とす。
「あの馬鹿が遺言も何も残さなかったせいで、その貯金さえ甥夫婦の物になっちゃいそうなのよ。家だって、老い先短い老人だからこれで充分とか言って、借家住まいだったし……かと言ってこんな子供が裁判起こして、それでどうにかできるとも思えないし」
「さ、裁判って」
 驚いたように問い返した少年を、沙也香はぎろりとにらみつける。
「裁判って、じゃないでしょ! このままじゃアンタ、身ひとつで追い出されて終わりよ? そうなったら行くとこないんでしょ!?」
 だん、と小さな拳が円卓を叩いた。
 が、これは怒る沙也香の方が無体というものだ。中学しか卒業していない一少年が、いきなり裁判だの遺産相続だのと言われても、まともに対応などできるはずがない。
 そのことに思い至ったのだろう。沙也香は自分を落ち着けるように大きく数度深呼吸した。
「……まあ実際、裁判起こすほどの蓄えもないわけだし、それは良いわ。とにかく! 私としてはなんとかして、この子に成人するまでやってけるだけのものを確保してやりたいわけよ」
 友人の孫息子。それも気難しかったその友人が、それなりに気に入っていた少年だ。せめてそれぐらいの面倒は見てやりたいのだと、そう言いたいらしい。
「貯金も駄目、家も駄目、趣味で集めてた鏡も駄目……まったくもう、あの馬鹿いったい何にお金使ったのかしら」
 爪を噛むようにして考えに沈む。
 譲や聖也少年も同じように考え込んでいるようだが、特にこれと言って思いつくものはないらしい。
「…………」
 一時、店内には沈黙が降りた。晴明もまた、なにかを思案するように視線を落とし、鏡の浮き彫りを眺めている。
 沙也香の言葉を吟味しているのか、それとも他になにか思うところがあるのか。
 やがて顔を上げると、三人に向かって確認した。
「他にもまだ、鏡があるということでしたね」
「え、ああ、うん。これが一番金になるって言ってたから、持ってきたんだけど。まだ、十枚ぐらいはあったよ」
 それがどうかしたのかと答える聖也に、晴明は先を続けた。
「拝見させていただいてよろしいですか?」
「そりゃ、いいけど。でも」
「できればお宅にうかがって、その場で確認したいのですが」
 銅鏡は金属でできているだけに、見た目よりもかなり重量がある。そんなものを何枚も持ち出すよりも、自分が足を運んだ方が手軽だし、事故 ―― なにかの弾みに傷つけてしまうなど ―― の怖れも少なくてすむから、と。
 そう説明する晴明の言葉に、聖也少年は少々面食らったようだった。そこには、よく知らない相手を家に上げることに対する、ためらいがうかがえる。だが専門家の意見に反論をとなえるだけのものも、見つけられなかったのだろう。
「えっと、じゃあ、いつぐらいに」
「差し支えなければ、今からでもうかがいますが」
 珍しく性急な物言いをする晴明に、沙也香はふと意味ありげな笑みを見せた。
「……なんか、心当たりがあるっぽいじゃない」
 物騒な雰囲気を持つその笑顔は、とても見た目通りの年齢で浮かべられるそれではなかった。
 どこか獲物を見つけた猫のような目で見つめてくる沙也香に、しかし晴明はかぶりを振って言葉を濁す。
「心当たりという程のものでは、ないのですが ―― 」
 それでも沙也香はもう、期待できるものがあると決めつけてしまったらしい。残っていた茶を一気に空けると、椅子から飛び降りるようにして立ちあがった。
「ほら、ぐずぐずしてないで行くわよ!」
 晴明に加えてそう促してくる彼女に、聖也少年ももたもたと茶を飲み干して、席を立たったのだった。


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