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 影 見 影 待かげをみかげをまつ  骨董品店 日月堂 第九話
 第 三 章
 ― Makoto.Kanzaki Original Novel ―
(2004/11/07 13:50)
神崎 真


 お前さえ、いなければ。
 そうすれば、すべてがうまくいっていたはずなのに。
 お前なんか。
 生まれてこなければ良かったのに。

 繰り返し繰り返し、壊れた機械のように、同じ呟きが吐き出され続ける。
 対象をおとしさげすみ続けるその言葉は、まるで脳裏に直接響いてくるかのようにすら感じられた。
 おそらく、耳をふさごうと目をそむけようと、きっとこの声はどこまでもつきまとい離れてくれないのだろう。

「死んでしまえ、お前なんか」

 既に、何度聞いたのかも判らない言葉。
 ゆらりと持ち上げられた手に、光るのは銀細工のナイフ。
 ためらいもなく振り下ろされた先に待つ、傷ひとつない白い手首。
 みるみる溢れ出す鮮血に、あたりが赤く染め上げられてゆく。
 崩れ落ちた女は、自ら作り出した血溜まりの中へと沈むように倒れ込んでいった。
 まるで花が落ちるようだと、そんなふうに思う。
 その口元に、満足そうな微笑みさえ浮かべながら、彼女はゆっくりと目を閉ざすのだ。
 けれど ――
 ほんの一瞬、まばたきした隙に、女の遺体も血溜まりもフィルムをつなぎ替えたかのように消え去ってしまう。
 かわりに現れるのは、うずくまり、またも同じ怨嗟の言葉を吐き続ける背中で……


◆  ◇  ◆


 意識が少しずつ浮上していった。
 半覚醒状態でまどろんでいるのは、ひどく心地がよいものだ。だが目が覚めたのであれば、早く起き上がってしまわなければならなかった。やるべきことはたくさんあるし、それにはいくら時間があっても足りないのだから。
「……っ」
 大きく息を吸い込んで、目を開けようとする。
 と ――
「晴明?」
 様子をうかがうような声が、間近から発せられた。
 閉じた目蓋ごしに影が落ちる。どうやら上からのぞき込まれているらしい。
 どうしてこの人がここにいるのか。脳裏を疑問がよぎる。眠っている間に何か問題でも起きたのだろうか。
「晴明……目が覚めたのか」
 頬に温かいものが触れる感触。
 ベッドがきしみ、横たわった身体がわずかに沈んだ。
「かず……ま、さん?」
 ようやく声を発することができた。
 薄く開いた目に、枕元に腰掛けこちらを見下ろしている大きな姿が映る。
「いったい、どうして……」
 ようやく持ち上げた手を、覆うように目元へと乗せた。そうして身体を反転させ、シーツに肘をつく。
「無理するな。大丈夫か?」
 起きあがろうとするのを止めるように、和馬が手を伸ばしてきた。それを辞去しようと挙げた右手が、ナイフを握っているのに気がつく。慌てて下ろして、怪我をさせなかったことを確認した。
「私は、大丈夫です。それよりなぜ、ここに?」
 なんとか上体を起こした晴明は、大きく深呼吸して意識をはっきりさせようとした。数度頭を振ってから、あたりを見まわす。
 ここはどこか ―― 日月堂の自室だ。
 いまはいつか ―― 窓の外はまだ暗かったが、時計の針は夜明けが近いことを示している。
 室内にいるのは和馬の他に、由良、篝、凪、蛍火に九十九つくも。いつもは腕飾りの勾玉に宿っていたりどこかに出かけていたりと、そろって現れることは珍しい異形達が、ベッドを取り囲むようにしてこちらを見つめてきている。
 そういった状況は、いままでにも幾度かあった。
 ああそうかとナイフを持ち上げかけたが、それより早く、和馬がナイフごとその手をとる。
「…………」
 ずっと握りしめていたせいかこわばっている指を、丁寧に一本一本はずしてくれる。
 無言で視線を落としているその顔を、晴明は不思議に思いながら見上げた。
 昏倒している自分を見つけた皆が、目覚めるのを待っていたのだろうことは判る。だが何故この人までここにいるのだろう。自分が入浴しようと部屋を出たときにはもう、客用寝室の電気は消えていたのに。
 あるいはもう目を覚まして、部屋をのぞきに来たのかもしれないが、これまで泊まったときの様子からすると、彼が起床するのはもう少し後のはずだ。
 それに、自分がベッドに寝ているのもおかしい。
 確か自分は入浴を終えて部屋に戻ってきたあと、髪を拭きながらナイフを手に取ったのだった。
 懇意にしている同業者からついでにと譲ってもらったその品に、アンティークとしての価値はさほどない。確かに素材は銀で彫刻も見栄えのするものだったが、飾りは色硝子だったし、来歴もはっきりとしていない。時代などせいぜい五十年経っているかどうかというところか。
 だが晴明が ―― 日月堂が着目するのはそこではなかった。
 アンティークショップという看板を掲げてこそいたが、この店は営利をその目的とはしていない。曲がりなりにも店を名乗り、商売の形を取っているのは、そうすることで同じ骨董や古道具を扱う店々との間につきあいを持ち、怪異を及ぼす品について情報を得たり、必要な場合に融通を利かせてもらったりといった、いわば業界に対する繋ぎを得るためである。
 その後背には安倍家の財力が控えているため、極端な話まったく収入などなくとも、この店が潰れることはあり得ないのだった。事実先代店主が采配していた頃は、ろくに店を開けることもなく、したがって売り上げなど無きに等しかったりしたのだが ―― それはさておき。
 持ち主に不幸が訪れるという噂話と共に出してこられたそのペーパーナイフは、そういった点でまさしくこの店が求めている品物だった。
 もちろんその手の因縁話は、商品に付加価値をもたらそうと、故意に語られるものが多い。悪気もなく冗談半分で語った話が、人の口を介するにつれ大げさになり、いつしかとんでもないものに発展してしまう場合もある。
 しかし昨夕このナイフを手にした和馬は、扱いに気をつけるよう忠告してくれていた。いったい何があったのか詳しくは訊かなかったが、有能な風使いとしての感覚に、なにか触れるものがあったらしい。店には出さない方が良いだろうと言われ、素直に奥へと持ち込むことにしたのだったが、しかしどういう物かもはっきりしないうちにしまい込んでしまうのはやはり気が引けた。一般的には危険だ、封印してしまった方が良いと言われる品物でも、扱いようによっては他人に害を及ぼさずに済む場合もあるのだ。中には数度話を聞いただけで、とり憑いていた霊が満足して消えてしまい、ただの古道具に戻ってしまったというケースもある。
 そういった例があるだけに、しばらく様子を見ようと自室で保管していた晴明だったのだが。
 いったいどういった来歴を持つ品なのか、なにか調べる手がかりはないかと手に取った瞬間、それは聞こえてきたのだった。
 低い、女の声。
 呪うかのような、蔑むかのような。
 繰り返し吐き出され続ける、存在を否定し死を示唆する言葉。
 ―― 気がついた時には、見慣れた自室の光景は消えていた。
 目の前にあったのは、うずくまり怨嗟の声を上げ続ける女の背中。そして、あたりの様子は ――
 ふ、とわずかに目を伏せる。
「……晴明?」
 ナイフを取り上げた和馬が、問いかけるように名を呼んだ。
 返事をしなければならないと判っているが、とっさになにを口にすればいいのか判断できない。
 すると和馬はナイフを枕元近くの出窓へと置いた。
 ことりと、かすかな音がする。
「俺はさっき、女が自殺する夢を見たよ。なんでか秋月本家の奥座敷でな、このナイフで手首を切るんだ」
 静かなまなざしが光る刃を見つめている。
「 ―― お前は?」
 目だけが動いてこちらを見やり、やはりなにか見たのではないかと、そう問いかけてくる。
「ええ……私も、見ました」
 そう明確に尋ねられれば、答えるしかなかった。
「『お前なんか生まれてこなければ』、『死んでしまえ』と繰り返して、御自分の手首を切る女性の姿でした。けれど何度切っても、すぐまた元通りになってしまわれて……何度も、何度も……」
 幾度死のうとしても、気がつけば消えている傷。消えている、血。
 気がつくと左手首を押さえていた。入浴のため飾りをはずしていたので、かつて自らつけた傷跡があらわになっている。わずかに盛り上がったそこを、指先で確かめるようになぞった。
「あれは、安倍家の……私の部屋でした。和馬さんは、秋月家の奥座敷……なぜでしょうね」
 あの女性が過去このナイフで自殺を図ったというのなら、それを行った場所が見えるほうが自然ではないのか。
「本家のっつっても、現実のとは違ったけどな。襖が全部閉め切ってあって、開けても開けても出られねェんだ。しまいにゃなんか息苦しくなっちまって……」
 夢の中の閉塞感を思い出したのか、襟元に指をやりボタンをいじっている。
「息苦しい ―― ですか」
 つられたように喉に手をやり、そうして晴明はひとつうなずいた。
 なんとなく判った気がしたのだ。
「共通点はそれかもしれませんね」
「……あ?」
「あの女性が感じていたのであろう閉塞感に、我々も影響を受けたということではないでしょうか」
 彼女が抱いていた息詰まるような苦しみを受けて、自身の経験の中でもっとも近しい情景が無意識に選択され、夢という形で具現化された。それが和馬にとっては礼儀やしきたりに厳しい本家の奥座敷に閉じこめられるという状況であり、そして晴明にとってはかの家で暮らしていた日々の象徴である ―― 自分の部屋として現れたのではないか。
 それはある意味、なんと判りやすい無意識のあらわれか。
「……なあ、晴明。俺にはちょっと理解できないんだが」
「なにがでしょう」
 問い返す晴明に、和馬は口元に手をやって考えをまとめようとする。
「あの女は結局、誰に対して『死ね』と言ってたんだ? お前なんか、お前などって繰り返してるくせに、誰かに襲いかかるでもなく自分を傷つけてるだろう。それが、な」
 まあ確かにあんな夢を毎日見さされでもしたら、気の弱い奴はノイローゼになったあげく、自分も自殺したりしかねないが、しかし……
 考え込んでいる和馬に、晴明はくすりと小さく口元をほころばせた。
 ああ、この人は本当にまっすぐだと、そう思ったのだ。
 きっとこの人は、どんな時もまっすぐに自身を見つめているのだろう。悔いる時も、力無い己に対して歯がみするときも、きっと素直にそれを認め、次なる未来へと努力する原動力にしてゆく ―― そんな強さを持っているのだろう。
 だから、判らないのだ。
「あの、和馬さん。お願いしたいことがあるのですが……」
 唐突とも言える言葉に、和馬はきょとんとしたようにこちらを振り返ってきた。
 そうして頼みの内容を聞くと、驚いたように目を見開く。
「そりゃ、できなくはないが……いいのか?」
 不審そうに問いかけてくるのに、晴明は無言でうなずいた。


 その場所に着いた頃には、そろそろあたりが明るくなり始めていた。
 どうやら今日もいい天気らしく、色を薄めつつある空には筋状の雲がわずかにたなびいているばかりだ。
 広くひらけた河川敷に、余人の姿は見あたらない。早朝から犬の散歩やジョギングなどで行き交う人々にとっても、この時刻はまだ少し早すぎるようだった。
 冷たく澄んだ空気を吸い込み、吐き出す。口元がほのかに白くけむった。
「人がこないうちにやっつけちまうぞ」
「はい」
 傍らに立ち、同じように川面を見下ろしていた和馬が促してくる。
 冬枯れて乾いた草を踏み、土手を下り始めた。数歩遅れて晴明も続く。
 できるだけ広い場所がいいと言われて案内したここは、和馬の求める条件に合致していたようだ。時おり宙に視線を投げるようにして歩むその口元に、機嫌の良さそうな笑みが浮かんでいる。
 建物の多い町中からこの場所へやってくると、その開放感にいつも思わず息をついてしまうものだ。風の流れを感じ取る和馬であれば、なおのことほっとするのかもしれない。
「その辺に立っててくれ」
 振り返って指示してくるのに、うなずいて足を止めた。
 和馬はあたりを見まわしつつさらに先へと進む。
 晴明は胸元に抱いていた包みへと目を落とした。くるんでいた布をそっとほどき、あのナイフを取り出す。
 朝の冷たい空気の中で、銀の刃は玲瓏とした輝きを宿していた。柄を握り角度を変えると、鍔元の硝子玉がきらきらと光る。吐いた息が刀身にかかりほのかな曇りを生じた。それを布で丁寧にぬぐい取り、和馬の方へと目を向ける。
 十メートルほど離れた位置で、和馬はこちらを見上げてきていた。
 片方の足に重心をかけるような姿勢で立っている。軽く右手を腰のあたりに挙げ、手のひらをうわむけていた。わずかに曲げられた指の中、心なし空気が揺らいでいるように感じられる。
 無言で促されて、晴明はナイフを持った手を伸ばした。身体から遠ざけるように肘を伸ばし、朝の冷たい空気へとその刃をさらす。
挿絵5
 ふわりと風が吹いた。
 静かに流れる川面かわもから岸へと吹きあがってきた風が、枯れ草を、和馬の短い髪を揺らし、晴明の立つ場所へと達する。束ねた長い黒髪から、後れ毛が一筋たなびいた。
 絵画をも思わせる、時が止まったかのような刹那。
 和馬が鋭く息を吐く。
 その手が一閃された次の瞬間、澄んだ音を立ててナイフが二つに折れた。さらにもう一度。

「 ―――― 」

 風の刃によって断たれた破片は、美しくきらめきながら足元へと落ちていった。受け止めるのは、乾いた柔らかい草むら。
 だが黙って見つめる晴明の前で、それらのかけらは壊れ物のように細かく砕け散った。手の中に残っていた柄の部分も同じように、脆くはじけ、開いた指の間から風にさらわれていってしまう。
 河の向こうから夜明けの最初の光が射し込んできた。暁の陽に照らされて、風に乗った破片が眩いきらめきをこぼす。
 しかしそれさえも、すぐに跡形もなく吹き飛ばされてしまい ――
 後に残されたのは、風の吹いていった先を見送るように眺める、ふたりの姿だけだった。
「 ―― 本当に、良かったのか」
 やがてゆっくりと土手を登りながら、和馬がそう問いかけてきた。
 それを振り返って、晴明はうなずいてみせる。
「ええ、これで良いんです」
「けどな……」
 なにか言いたげに口ごもる和馬から視線をはずし、晴明はもう一度破片がさらわれていった先を見はるかすようにした。そうして、呟くように言う。
「待って、いたんですよ。彼女は」
「……なにをだ」
「自分が消えて無くなる日を」
 一度言葉を切り、晴明は目を伏せた。それから和馬の方を見る。
「この世から、『自分』という存在が消えてくれる時が来るのを……ずっとずっと待ち望んでいたんです」
 無意識に口の端が上がり、微笑みを形作った。
 言葉の内容ゆえにかそれとも表情のせいか、和馬が太い眉をひそめる。晴明がなにかを語るとき、何故か和馬はよくそんな顔をした。その理由はよく判らないけれど、その表情を見るたびにひどく申し訳ない気持ちになる。
 だが理由を問えば、もっと複雑な顔をさせてしまうから、あえて尋ねることはもうしない。
「あの女性ひとは別に、誰かを殺そうとか、仲間に引き入れようとか、そんなことを考えていたのではないんでしょう。彼女はただ一心に自分が消え去ること、それだけを望んでいたんです」
 執拗に繰り返されていたその言葉が、耳の奥に蘇る。
「『お前さえ、いなければ』」
 小さく落とした呟きは、ひどくなじんだ響きを持っていた。
「鏡に向かって、同じように言ったことがありますよ」
 そう告げると、和馬は大きく目を見はった。ああ、また驚かせてしまったと思う。どんなふうに説明すれば、気を使わせることなく事実だけ理解してもらえるのか、それが判らないのがもどかしい。
「自分などいない方が良いと、そんなふうに思っても、でもどこかでそれを認めたくはない、そんな心理が働くのかもしれませんね。だから、『私』ではなく『お前』なんじゃないでしょうか。そうやって他人事のように言うことで、少しでもなにかを誤魔化そうとするのかもしれません」
 繰り返される女の声に、自らのそれが重なる。
 生まれてこなければ良かったと、せめて兄ではなく弟として生を受けていれば、事態はこれほど悪化しなかっただろうにと。果たして幾度、そんなふうに思ってきただろう。
 自分さえ最初から存在しなければ、千年に一度の逸材と呼ばれた弟、清明の元で、安倍家はなんの問題もなく繁栄することができたのに。
 努力でどうにかなることなら、いくらでも努力した。自分が身を引き、弟に譲るとそう宣言すれば済むというのなら、その程度の不名誉などいくら引き受けても構わなかった。ただ安倍家の一隅で、家のために己ができることをさせてもらえるなら、ただそれだけで満足できたのに。
 だが ――
 廃嫡した長男が中枢近くにあることを、安倍家の人間は快く思わなかった。自分には弟を妬む気持ちなどないと、彼に取って代わろうなんてだいそれた望みなどけして持ちはしないと、どれほど訴えても判ってはもらえなかった。
 また事実、こんな自分へと声をかけ、不遇な身に同情すると、そんなふうに言い出す者も少ないながら存在していたのだ。自分はけしていわれない扱いを受けているとは思っていなかった。自分が跡取りとしてふさわしい能力を持ち得なかったことは事実だし、代わる者として誰より優秀な弟が存在している以上、彼の方が跡を継ぐのは当然の成り行きだと納得できた。確かにそれはひどく悲しく無念なことではあったけれど、それでもそのこと自体に不満があったわけではないのだ。しかし、一部の血統を至上とする人達は、強固に自分を支持しようとしてきた。たとえ本人には大した術力など無くとも、次代もそうなるとは限らない。ならばより純粋な血が受け継がれる方をこそと、そう主張して。
 このまま自分が存在し続ければ、場合によっては家が割れる。
 そのことに思い至って、自身の存在を呪った。
 何故この家に生まれてきたのか、と。
 自分さえいなければ、なんの問題も起こることはなかった。すべてがうまくいっていたはずなのに、と ――
 そうして自身を否定し続けながらも、それでもなおあの頃の自分は、認めたくなかったのかもしれない。
 だから、鏡に向かって呟いていたのだ。
 『お前なんか』と。
 けして『私なんか』ではなくて。
 『お前』と、まるで自分ではない誰かをなじるように。
「……あのナイフにつきまとっていたのが、命を絶った女性自身だったのか、それともただ焼きつけられた強い思念のみに過ぎなかったのか……それは判りません。それでも『彼女』は確かにそこに居て、そして消え去ることを願っていました」
 誰の存在も目に入れることなく、誰に対して働きかけるでもなく。
 ただひたすらに、己を貶め、死を選び続けていたその姿。
 不幸になったというこれまでの持ち主達は、あるいは心のどこかに自殺願望のようなものを秘めていたのかもしれない。そういった思いを持つ人間は、存外多いと聞いている。そして本人すら気づかぬままに秘めていたそんな思いが、彼女の怨嗟に引きずられることで増幅されてしまったなら。
 自ら刃を取った者もいたかもしれない。またそういった負の感情にとらわれている時は、ちょっとしたきっかけでひどい惨事を引き起こしてしまう場合もある。
 そんなことが繰り返されるうちに、かのナイフは不幸をもたらす品だと呼ばれるようになったのかもしれない。
 彼女自身の意志とは、まったく関係ないままに。
 あの女性が見つめ、望み続けていたのは、ただ自身の『死』、それだけだったのに。
「寄り代となっていた品物がなくなれば、彼女をこの世に留めるくさびも失われます。あのまま縛りつけられているよりも、解放されて再び生まれ変わるか……あるいはほどけて消えてしまうか……どちらにせよ、かなうことない自死を繰り返し続けるよりも、彼女にとっては本望でしょう」
 救われたいと、彼女がそう望んでいたのなら違う道もあった。
 寂しいから側にいてくれと、そう言って他者を引き込もうとしたならば、辛いからお前も同じ目にと、襲いかかってきたならば。そんなふうにされたなら、もっと話を聞いて、彼女が少しでも幸せになれるよう、かなう限りの力を貸したけれど。
 けれど彼女は他人になど目もくれていなかった。
 彼女が見つめていたのはどこまでも自分だけで、願っていたのはただ『ここ』から消え去ること、それだけだったのだ。
 ならば自分ができることは……その望みをかなえ、終わることない繰り返しに終止符を打つ、ただそれしかなかった。


 ―― もしも、晴明のクラスメートである友人達がその場にいたならば、思いだしていたかもしれない。
 彼らが友人としてつきあうきっかけとなった、白き蛇神の存在を。
 長い生にみ疲れ、永遠とわの眠りを望んだ蛇神に、晴明が与えたのは。
 それは生きろという希望ではなく、死をもたらしてくれる者への道しるべであった。


 かつてそんな事件があったことなど、和馬は知らない。
 彼が知っているのは、いつもいつも自分の身すら省みず異形達のために心を砕く、そんな晴明の姿ばかりだ。
 だから、たとえその言葉に心底から共感はできなくとも、それが彼のできる最上のすべだったのだろうと、そのことだけは信じられる。
 だが同時に、和馬は不安を感じずにはいられなかった。
 自身の過去と、死ばかりを望み消えていったあの女とを、晴明はあきらかに重ねて見ている。自らの望みとあの女のそれとを、同一のものとしてとらえている。
 そうして彼は、あの女に対して消滅という名の解放をもたらすことを選んだ。
 ―― ならば、と。
 そんな懸念が胸の内を覆う。
 ならば、お前もまた願うのか。
 かつて自ら死のうと試み、しかしかなうことなく生き残ってしまったお前は。
「まだ、死にたいと思ってるのか」
 あの女と同じように、と。
 主語もなく唐突に紡がれた問いかけに、しかし晴明は聞き返すこともせず、ただ微笑んだままかぶりを振ってみせた。
「私は、ね、和馬さん」
 持ち上げた左手首、弟より贈られたという装飾に覆われた傷跡へと、目を落としながら。
「私はもう、自ら死ぬために死のうとしては、いけないんです」
「……どういう、意味だ?」
「弟が ―― 」
 重ねた右手の指の下で、透明な緑の石が澄んだ音をたてる。
「もし今度同じことをしたら、その時は止めないと。その代わり、かならず後を追ってやるからって、そう言うんです」
 そんな真似をさせるわけにはいかないでしょう?
 そう続ける。
 だから自分は死ぬわけにはいかない。少なくとも、自ら死ぬことを目的として、その道を選ぶわけには、と。
 それ故に、彼はあの家を出たのだった。
 あのままあの家に居続ければ、きっと同じことを繰り返そうとしただろう。たとえそうはせずとも、無用な争いの火種になることは免れなかった。
 死ぬわけにはいかず、さりとてあのまま家に留まることもできず。
 ならば選べる道は、他になかったのだ。
「……清明ときたら、本当に手首を切りまでしたんですよ。脅しや冗談じゃないと証明したかったのかもしれませんが」
 それにしたって無茶な真似をするものです。
 ひとりごちるように呟きながら、静かに腕飾りを撫で続ける指先。
 弟から贈られた、翡翠の装飾。弟の元には紅瑪瑙の装飾。そろいの飾りのその下には、やはりそろいの傷跡が隠されている。
「…………」
 晴明の言葉は、けして和馬の問いに答えるものではなかった。
 和馬が聞きたかったのは、どう『すべき』かなのではなく、彼がどう『したい』かだったのだから。義務ではなく、責任ではなく、彼自身がどんなふうに望んでいるのか、それを尋ねていたのだから。
 だが ――
 こと他者の命がかかった場合に、この青年がそれを無視して我を通すなどできるはずもなかった。ましてその他者とはほかでもない彼自身の血を分けた兄弟であり、何よりも大切に思っている安倍家の、その頂点に立つべき人物だ。
 ならば答えはどちらにせよ変わらないといえるのか。
 たとえ心の内ではどう思っているにせよ、彼が再び自死を選ぶことはありえない。たとえ今回のように、この世ならぬ存在に影響を受けたとしても、けして引きずられなどしなかったように。
 けれどそれは。
 あまりにも悲しい生き方ではないだろうか。
 死ぬわけにはいかないから、仕方なく生きている。そんなつまらない人生など、ただただ虚しいばかりで。
 だから和馬は言わずにいられなかった。
「……良かったよ、俺は」
 和馬がいたことに、改めて気づいたように顔を上げる晴明へと、先を続ける。
「お前が生きててくれてな、良かった」
「和馬さん?」
「だってもしお前がいなかったら……そうだな、まず俺は人麻呂鏡から現れたあの鳥に、あっけなく殺されてただろ。それがなくても、東北行ったときの碑文の件とか、日野の爺さんが呪われてた時のこととか……どれもこれも絶対、まともにカタなんざついてなかったはずだからな」
 指折り数え上げ、うんうんとうなずく。
 困った時にはちょこちょこと連絡を入れて知恵を借りている和馬だ。改めて振り返ってみると、世話になった回数は片手の指では追いつかなかった。
「あいつらだって、今頃は行き場もなしにそのへんふらふらしてたんじゃないのか」
 指さす方向を見ると、離れた位置の物陰から、異形達のしっぽや翼の端などがのぞいていた。沈んだ様子の晴明に戸惑ったのか、店を出るときにはついてこなかったのだが、やはり気になって後を追ってきたらしい。
 彼らの半分は日月堂で仕入れた品にくっついてきた存在だった。そしてもう半分は行きずりに晴明と出会い、そのままなし崩しに居着いてしまったもの達だ。
 どちらにしても晴明という存在がいなければ、今この場にあることはなく、先代店主の手で封じられたか、さもなくばどこか遠い場所で全く違うことをしていただろう。
 すべての出会いは重なり合った偶然がもたらすもので、幾重にも絡んだ要因のどれひとつが異なったとしても、いまと同じ現在は存在していないことになる。
 ただ寝起きし死ぬまでの時を過ごすためだけに訪れたかの店で、しかし晴明は確かに生活をしていた。
 様々なものと出会い、互いに影響を与え合いながら。
 傷を隠し、そして二度と同じことを繰り返さぬための戒めとして贈られた腕飾りは、いまや晴明を慕う者達の依代となり、その身を美しく飾っている。
 そして日月堂を訪れる客達は、店主の過去などまったく関知することなく、ただそこにある品々を愛しげに扱う彼だけを見いだすだろう。
 ―― 自分が何のために生きているのか、その理由なんて、そもそも知っている人間がこの世にどれほどいるだろう。そんなものは生きて生きて生き続けて、年を取り死ぬ寸前になって自らの人生を思い返したとき、やっと見えてくれば上等なのではないだろうか。
 だから、今は。
「……っ、さすがに寒いな」
 和馬が大きく身震いした。
 二月の明け方の屋外は、いかにボアつきの厚いジャンバーに身を包んでいても、長居したい場所ではなかった。ましてここは、川からの風がまともにあたる吹きさらしの土手である。
「帰ってなんか温かい物でも腹に入れようぜ」
「 ―― そうですね」
 促す和馬に晴明も同意した。
 その表情には、まだわずかに翳りめいたものが残っていたけれど。それでも先刻までよりはずっと明るい顔だった。物陰へと手を振り、応じておずおずと現れた異形達へと歩み寄ってゆく。
 その後ろ姿を和馬は見送った。
 たとえそこにどんな気持ちがあったにせよ、心の底で本当はどんなふうに思っていたにせよ、とにかく生きて、日々を過ごしていればそれでいいのではないかと、和馬はそんなふうに思っていた。そうして暮らす中で生まれてくるものが、温かく優しいそれであるならば、どうしてそれを否定できるだろう。
 そうやって繰り返す毎日がいつしか積み重なって、気がついたら一生それで埋まっていたりしたら ―― それならそれで万々歳ではないか。
 たとえ逃げでも、ごまかしでも。それでも一生続けたならば、それが真実だと呼べるかもしれないのだから。
「……そう思えるようになるまで止めていてくれる相手が、あんたにもいりゃあよかったのにな」
 ナイフの欠片をさらっていった、風が吹き抜けた先を見やり、和馬は小さく呟いた。その声もまた、あの欠片を追うように、口から出てすぐ風にさらわれしまう。
 けれどその言葉があの女性のもとに届くことは、もうけしてありえないのだった。


 
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