お前さえ、いなければ。
そうすれば、すべてがうまくいっていたはずなのに。
お前なんか。
生まれてこなければ良かったのに。
繰り返し繰り返し、壊れた機械のように、同じ呟きが吐き出され続ける。
対象を
貶め
蔑み続けるその言葉は、まるで脳裏に直接響いてくるかのようにすら感じられた。
おそらく、耳をふさごうと目をそむけようと、きっとこの声はどこまでもつきまとい離れてくれないのだろう。
「死んでしまえ、お前なんか」
既に、何度聞いたのかも判らない言葉。
ゆらりと持ち上げられた手に、光るのは銀細工のナイフ。
ためらいもなく振り下ろされた先に待つ、傷ひとつない白い手首。
みるみる溢れ出す鮮血に、あたりが赤く染め上げられてゆく。
崩れ落ちた女は、自ら作り出した血溜まりの中へと沈むように倒れ込んでいった。
まるで花が落ちるようだと、そんなふうに思う。
その口元に、満足そうな微笑みさえ浮かべながら、彼女はゆっくりと目を閉ざすのだ。
けれど ――
ほんの一瞬、まばたきした隙に、女の遺体も血溜まりもフィルムをつなぎ替えたかのように消え去ってしまう。
かわりに現れるのは、うずくまり、またも同じ怨嗟の言葉を吐き続ける背中で……
◆ ◇ ◆
意識が少しずつ浮上していった。
半覚醒状態でまどろんでいるのは、ひどく心地がよいものだ。だが目が覚めたのであれば、早く起き上がってしまわなければならなかった。やるべきことはたくさんあるし、それにはいくら時間があっても足りないのだから。
「……っ」
大きく息を吸い込んで、目を開けようとする。
と ――
「晴明?」
様子をうかがうような声が、間近から発せられた。
閉じた目蓋ごしに影が落ちる。どうやら上からのぞき込まれているらしい。
どうしてこの人がここにいるのか。脳裏を疑問がよぎる。眠っている間に何か問題でも起きたのだろうか。
「晴明……目が覚めたのか」
頬に温かいものが触れる感触。
ベッドがきしみ、横たわった身体がわずかに沈んだ。
「かず……ま、さん?」
ようやく声を発することができた。
薄く開いた目に、枕元に腰掛けこちらを見下ろしている大きな姿が映る。
「いったい、どうして……」
ようやく持ち上げた手を、覆うように目元へと乗せた。そうして身体を反転させ、シーツに肘をつく。
「無理するな。大丈夫か?」
起きあがろうとするのを止めるように、和馬が手を伸ばしてきた。それを辞去しようと挙げた右手が、ナイフを握っているのに気がつく。慌てて下ろして、怪我をさせなかったことを確認した。
「私は、大丈夫です。それよりなぜ、ここに?」
なんとか上体を起こした晴明は、大きく深呼吸して意識をはっきりさせようとした。数度頭を振ってから、あたりを見まわす。
ここはどこか ―― 日月堂の自室だ。
いまはいつか ―― 窓の外はまだ暗かったが、時計の針は夜明けが近いことを示している。
室内にいるのは和馬の他に、由良、篝、凪、蛍火に
九十九。いつもは腕飾りの勾玉に宿っていたりどこかに出かけていたりと、そろって現れることは珍しい異形達が、ベッドを取り囲むようにしてこちらを見つめてきている。
そういった状況は、いままでにも幾度かあった。
ああそうかとナイフを持ち上げかけたが、それより早く、和馬がナイフごとその手をとる。
「…………」
ずっと握りしめていたせいかこわばっている指を、丁寧に一本一本はずしてくれる。
無言で視線を落としているその顔を、晴明は不思議に思いながら見上げた。
昏倒している自分を見つけた皆が、目覚めるのを待っていたのだろうことは判る。だが何故この人までここにいるのだろう。自分が入浴しようと部屋を出たときにはもう、客用寝室の電気は消えていたのに。
あるいはもう目を覚まして、部屋をのぞきに来たのかもしれないが、これまで泊まったときの様子からすると、彼が起床するのはもう少し後のはずだ。
それに、自分がベッドに寝ているのもおかしい。
確か自分は入浴を終えて部屋に戻ってきたあと、髪を拭きながらナイフを手に取ったのだった。
懇意にしている同業者からついでにと譲ってもらったその品に、アンティークとしての価値はさほどない。確かに素材は銀で彫刻も見栄えのするものだったが、飾りは色硝子だったし、来歴もはっきりとしていない。時代などせいぜい五十年経っているかどうかというところか。
だが晴明が ―― 日月堂が着目するのはそこではなかった。
アンティークショップという看板を掲げてこそいたが、この店は営利をその目的とはしていない。曲がりなりにも店を名乗り、商売の形を取っているのは、そうすることで同じ骨董や古道具を扱う店々との間につきあいを持ち、怪異を及ぼす品について情報を得たり、必要な場合に融通を利かせてもらったりといった、いわば業界に対する繋ぎを得るためである。
その後背には安倍家の財力が控えているため、極端な話まったく収入などなくとも、この店が潰れることはあり得ないのだった。事実先代店主が采配していた頃は、ろくに店を開けることもなく、したがって売り上げなど無きに等しかったりしたのだが ―― それはさておき。
持ち主に不幸が訪れるという噂話と共に出してこられたそのペーパーナイフは、そういった点でまさしくこの店が求めている品物だった。
もちろんその手の因縁話は、商品に付加価値をもたらそうと、故意に語られるものが多い。悪気もなく冗談半分で語った話が、人の口を介するにつれ大げさになり、いつしかとんでもないものに発展してしまう場合もある。
しかし昨夕このナイフを手にした和馬は、扱いに気をつけるよう忠告してくれていた。いったい何があったのか詳しくは訊かなかったが、有能な風使いとしての感覚に、なにか触れるものがあったらしい。店には出さない方が良いだろうと言われ、素直に奥へと持ち込むことにしたのだったが、しかしどういう物かもはっきりしないうちにしまい込んでしまうのはやはり気が引けた。一般的には危険だ、封印してしまった方が良いと言われる品物でも、扱いようによっては他人に害を及ぼさずに済む場合もあるのだ。中には数度話を聞いただけで、とり憑いていた霊が満足して消えてしまい、ただの古道具に戻ってしまったというケースもある。
そういった例があるだけに、しばらく様子を見ようと自室で保管していた晴明だったのだが。
いったいどういった来歴を持つ品なのか、なにか調べる手がかりはないかと手に取った瞬間、それは聞こえてきたのだった。
低い、女の声。
呪うかのような、蔑むかのような。
繰り返し吐き出され続ける、存在を否定し死を示唆する言葉。
―― 気がついた時には、見慣れた自室の光景は消えていた。
目の前にあったのは、うずくまり怨嗟の声を上げ続ける女の背中。そして、あたりの様子は ――
ふ、とわずかに目を伏せる。
「……晴明?」
ナイフを取り上げた和馬が、問いかけるように名を呼んだ。
返事をしなければならないと判っているが、とっさになにを口にすればいいのか判断できない。
すると和馬はナイフを枕元近くの出窓へと置いた。
ことりと、かすかな音がする。
「俺はさっき、女が自殺する夢を見たよ。なんでか秋月本家の奥座敷でな、このナイフで手首を切るんだ」
静かなまなざしが光る刃を見つめている。
「 ―― お前は?」
目だけが動いてこちらを見やり、やはりなにか見たのではないかと、そう問いかけてくる。
「ええ……私も、見ました」
そう明確に尋ねられれば、答えるしかなかった。
「『お前なんか生まれてこなければ』、『死んでしまえ』と繰り返して、御自分の手首を切る女性の姿でした。けれど何度切っても、すぐまた元通りになってしまわれて……何度も、何度も……」
幾度死のうとしても、気がつけば消えている傷。消えている、血。
気がつくと左手首を押さえていた。入浴のため飾りをはずしていたので、かつて自らつけた傷跡があらわになっている。わずかに盛り上がったそこを、指先で確かめるようになぞった。
「あれは、安倍家の……私の部屋でした。和馬さんは、秋月家の奥座敷……なぜでしょうね」
あの女性が過去このナイフで自殺を図ったというのなら、それを行った場所が見えるほうが自然ではないのか。
「本家のっつっても、現実のとは違ったけどな。襖が全部閉め切ってあって、開けても開けても出られねェんだ。しまいにゃなんか息苦しくなっちまって……」
夢の中の閉塞感を思い出したのか、襟元に指をやりボタンをいじっている。
「息苦しい ―― ですか」
つられたように喉に手をやり、そうして晴明はひとつうなずいた。
なんとなく判った気がしたのだ。
「共通点はそれかもしれませんね」
「……あ?」
「あの女性が感じていたのであろう閉塞感に、我々も影響を受けたということではないでしょうか」
彼女が抱いていた息詰まるような苦しみを受けて、自身の経験の中でもっとも近しい情景が無意識に選択され、夢という形で具現化された。それが和馬にとっては礼儀やしきたりに厳しい本家の奥座敷に閉じこめられるという状況であり、そして晴明にとってはかの家で暮らしていた日々の象徴である ―― 自分の部屋として現れたのではないか。
それはある意味、なんと判りやすい無意識のあらわれか。
「……なあ、晴明。俺にはちょっと理解できないんだが」
「なにがでしょう」
問い返す晴明に、和馬は口元に手をやって考えをまとめようとする。
「あの女は結局、誰に対して『死ね』と言ってたんだ? お前なんか、お前などって繰り返してるくせに、誰かに襲いかかるでもなく自分を傷つけてるだろう。それが、な」
まあ確かにあんな夢を毎日見さされでもしたら、気の弱い奴はノイローゼになったあげく、自分も自殺したりしかねないが、しかし……
考え込んでいる和馬に、晴明はくすりと小さく口元をほころばせた。
ああ、この人は本当にまっすぐだと、そう思ったのだ。
きっとこの人は、どんな時もまっすぐに自身を見つめているのだろう。悔いる時も、力無い己に対して歯がみするときも、きっと素直にそれを認め、次なる未来へと努力する原動力にしてゆく ―― そんな強さを持っているのだろう。
だから、判らないのだ。
「あの、和馬さん。お願いしたいことがあるのですが……」
唐突とも言える言葉に、和馬はきょとんとしたようにこちらを振り返ってきた。
そうして頼みの内容を聞くと、驚いたように目を見開く。
「そりゃ、できなくはないが……いいのか?」
不審そうに問いかけてくるのに、晴明は無言でうなずいた。
その場所に着いた頃には、そろそろあたりが明るくなり始めていた。
どうやら今日もいい天気らしく、色を薄めつつある空には筋状の雲がわずかにたなびいているばかりだ。
広くひらけた河川敷に、余人の姿は見あたらない。早朝から犬の散歩やジョギングなどで行き交う人々にとっても、この時刻はまだ少し早すぎるようだった。
冷たく澄んだ空気を吸い込み、吐き出す。口元がほのかに白くけむった。
「人がこないうちにやっつけちまうぞ」
「はい」
傍らに立ち、同じように川面を見下ろしていた和馬が促してくる。
冬枯れて乾いた草を踏み、土手を下り始めた。数歩遅れて晴明も続く。
できるだけ広い場所がいいと言われて案内したここは、和馬の求める条件に合致していたようだ。時おり宙に視線を投げるようにして歩むその口元に、機嫌の良さそうな笑みが浮かんでいる。
建物の多い町中からこの場所へやってくると、その開放感にいつも思わず息をついてしまうものだ。風の流れを感じ取る和馬であれば、なおのことほっとするのかもしれない。
「その辺に立っててくれ」
振り返って指示してくるのに、うなずいて足を止めた。
和馬はあたりを見まわしつつさらに先へと進む。
晴明は胸元に抱いていた包みへと目を落とした。くるんでいた布をそっとほどき、あのナイフを取り出す。
朝の冷たい空気の中で、銀の刃は玲瓏とした輝きを宿していた。柄を握り角度を変えると、鍔元の硝子玉がきらきらと光る。吐いた息が刀身にかかりほのかな曇りを生じた。それを布で丁寧にぬぐい取り、和馬の方へと目を向ける。
十メートルほど離れた位置で、和馬はこちらを見上げてきていた。
片方の足に重心をかけるような姿勢で立っている。軽く右手を腰のあたりに挙げ、手のひらをうわむけていた。わずかに曲げられた指の中、心なし空気が揺らいでいるように感じられる。
無言で促されて、晴明はナイフを持った手を伸ばした。身体から遠ざけるように肘を伸ばし、朝の冷たい空気へとその刃をさらす。
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