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 影 見 影 待かげをみかげをまつ  骨董品店 日月堂 第九話
 第 一 章
 ― Makoto.Kanzaki Original Novel ―
 
神崎 真


「……なあ、晴明はるあきよ」
「はい」
「前から思うんだが、そいつ、ちょっと派手じゃないか」
「そうですか?」
 風使いの青年に指摘された年若き店主は、軽く首をかしげてその左手を持ち上げてみせた。
 日月堂の店内で、いつものごとくにお茶など飲みながらのやりとりである。
 麻のシャツの袖口から覗く、繊細な細工の装飾品。ごくわずかな動きにもともなう、しゃらりという澄んだ響きは、既に和馬かずまにとっても耳になじんだそれだった。
 銀鎖と翡翠の勾玉とで構成されたその飾りは、彼によく似合っている。時代を感じさせる落ち着いた造りをしていて、けしてごてごてとした下品さを感じさせる代物でもない。
 だがそれでも、二十歳にも満たない若者が普段使いとするのには、いささか大仰すぎるのではないかと思う。
「だいたい学校につけていくようなもんじゃないだろう、普通。なんだってまたそいつを選んだんだ?」
 その勾玉に異形達が身を宿しているというのは、和馬ももちろん知っていた。
 雑多な気の塊や念がこごり、自我を得て動き出した存在や、あるいは年経た生き物が妖力を帯びて変化へんげした妖怪などなど ―― その持つ力の強弱は様々だったが、それでも複数集まればけして無視などできない驚異となるものである。そういった存在がいくつも取り憑いていて、それでもなお曇りひとつひびひとつ見せぬというのだから、その飾りそれ自体に相応の力が内在してはいるのだろう。生半可な『器』では、それほどの異形達を受け止めきれるはずがないのだから。
 しかし ――
 と、和馬は店内を見わたした。
 この店であれば、代用品を見つけることなど容易そうだった。
 穏やかならぬいわれを持つ、種々雑多な品々を積極的に収集、管理する店、日月堂。ここは、他ではそうそうお目にかかることもできないだろう、珍奇な物品が数多く所蔵されている場所だった。その種類はなにも書画骨董ばかりではない。むしろ実際は店内に置かれている売り物の方こそが、あまたある収蔵品の、氷山の一角に過ぎない程度なのである。それらの中には、余人の目に触れさせるのは危険であったり、あるいは明らかに商品には見えないだろう代物などなど、店内に陳列するには不都合があると判断され、店の奥 ―― 歴代の店主らによって厳重に封じを施された地下倉庫へと、しまい込まれている物も多い。
 そういった中には、もっと目立つことなく携行でき、かつ十分な力を秘めた品だとて、きっと存在するであろうに。どうしてまたわざわざ『それ』を選んで身につけているのか、と。
 常々から思っていた疑問を、和馬はようやく機会をとらえて問いかけたのだった。
 重ねて言うが、その装飾品は晴明によく似合ってはいるのだ。
 むしろ似合いすぎるが故に、その身にまとう空気をいっそう浮世離れしたものとしてしまうきらいがあり ―― かもし出される一種神秘的とさえ呼べる雰囲気と、彼の実年齢とを考え合わせると、和馬としてはどうにも複雑な想いを抱かずにはいられないのだった。
「……弟、が」
 と、
 しばしの沈黙の後、晴明がぽつりとそう答えた。
「弟が……くれたんです。私が家を出た、最初の誕生日に」
「 ―― てえと、安倍家当主の」
 思わず呟いた和馬に、晴明は小さくうなずいた。
「もうずいぶん会ってはいませんけれど ―― 今でも時おり、いろいろなものを送ってくれるんですよ」
 柔らかく微笑む。その表情は、しかしどこか憂いを含んだ寂しげなそれだった。
 右手が、無意識のような仕草で勾玉を撫でている。
 この国の呪術者達の間で、強い勢力を保っている名門、安倍家。
 平安の昔より連綿と続くその血脈の、嫡流筋。名高き先代当主の長男として生まれながら、能無しとして廃嫡された晴明はるあきと、次男の身にも関わらず若くして当主の座に着いた弟、清明きよあき
 双子として生を受け、誰よりも近しい間柄であった彼らの立場は、今や遠く隔たりを生じ ―― それでもなお、互いが互いを思う気持ちには、なんら変わりがないらしい。
 そういえば、和馬と晴明が知り合うきっかけとなった件も、元はといえば清明によってもたらされた情報がきっかけだったという。
 和馬は、数週間前、初めて目にした人物を思い起こしていた。


 それは、毎年二月の初頭に行われる、新年の祝いの席でのことだった。
 現在一般的に使われている暦ではなく、旧暦における新年は、立春や節分と呼ばれる時期が年の移り変わりとなっている。
 全ての者がそうだとは限らなかったが、多くの呪術者達は現在でも旧暦を基本として様々な儀式、行事をとりおこなっていた。もともと旧暦は、この国の風土に合わせ、緻密な計算を重ねて定められた複雑なものだ。近年になって外国から輸入された新暦は、確かに判りやすく便利でこそあったが、どうしても細かいところで実際の季節とのずれが生じてくるため、なにかと不都合が起きやすい。
 特に暦を基本として発達した陰陽道では、毎年その一年の暦を正確に計算し定めていた。
 年によって微妙に異なってくる複雑なそれを正確に計算する技術は、現在となっては陰陽道の宗家たる安倍家にのみ伝えられている。
 すなわちそれは、この時代に真実信頼できる暦を手に入れたければ、安倍家に頼るしかないということを示していた。
 安倍家が呪術者達の間に強い影響力を持っている理由の何割かが、実にそこに起因している。正しく儀式をとりおこなうためには、正しい暦の存在が欠かせず、それは安倍家によってのみもたらされる。無論、暦を手にした者から、さらに第三者が譲り受けることは可能だろう。だがそれが露見した場合、情報を得た側は無論のこと、流出元となった側もまた、おおやけに咎めを受けるとまではゆかずとも、それなりの不名誉をこうむることは疑いない。
 故に、この国の主立った呪術者達は、みな低頭してかの家に一歩を譲る。
 言うまでもなく、払われる敬意がそればかりに起因するわけではないのだが。古くから連綿と受け継がれた血筋、知識、術力の強さやその統率力、どれも尊敬するにあたう見事なものであるからこそ、今の安倍家があるのだけれど。
 和馬が名を連ねる秋月家もまた、安倍家で行われる新年の祝いには欠かさず足を運び、新たな暦を入手していた。
 秋月家だけではなく、精霊使いの四家 ―― 風使いの秋月、水使いの綿津見、地使いの佐倉、火使いの立花などはもちろんのこと、国内のそれと名を知られた呪術者達の多くは、毎年この日この場へと足を運ぶ。自然そこには一種社交的な空間が生じ、普段めったに直接顔を合わせることなどない術者達の間で、貴重な交流の場とも見なされていた。
 秋月家からは、毎年当主とその供として数名が出席している。そして今年はその中に和馬の姿も含まれていた。秋月の血を引くとはいっても、傍系の中でもさらに末流の彼は、本来そのような場に臨席できるような身分ではない。だが、秋月家はその点かなりおおらかにできていて、力と本人の人柄さえ認められれば、たとえ血を引かぬ余所者であったとしても地位を上げることができる、そんな家風を持っていた。和馬自身はさほど出世に貪欲というわけではないため気軽な立場にいたが、それでもふとした折りなど、当主直々に声掛かりすることがある。
 今回もそうして慣れぬスーツに身を固め参加する羽目になった彼は、退屈な式典を終えた後も、さらに退屈な立食パーティーでなかなか過ぎない時間をもてあましていた。
 秋月家の代表として出席している以上、下手な振る舞いを見せれば、即座に家門の恥に繋がってしまう。しかし愛想笑いなどできる性分でもなく。仕方ないのでつとめて目立たぬよう当主の傍らに控えていた彼は、どうやら護衛かなにかだとでも判断されたらしい。おかげで周囲から話しかけられずにすんだのは幸いだった。
 結果、図らずも当主と言葉を交わす様々な術者達を間近で眺めることとなった和馬だったが、果たして何人目のことだったか、ある人物が現れたとき、彼は危うくとんでもない失態をさらしてしまうところだったのである。
 その人物とは誰か、言うまでもないだろう。安倍清明あべのきよあき ―― 現安倍家当主にして、晴明の双子の弟 ―― である。
 前もって一卵性の双生児だと聞いていたから、似ているだろうと予測はしていた。
 むしろどれほどそっくりなのだろうかと、どこか不謹慎な思いで期待していた部分もあったほどだ。
 だが、よもやここまで酷似しているとは。
 実際のところ和馬はもう少しで、なんでお前がここにいるのかと、そう問いかけそうになったのである。
 無論、一介の風使いにすぎない和馬が、一門の当主に対しそんななれなれしい態度などとれるはずがない。まして和馬と晴明が既知の間柄だなどと、そんな場でおおやけにする訳にもいかない。
 かろうじて無表情を保った和馬は、それでもまじまじと清明を凝視せずにはいられなかった。
挿絵1
 見れば見るほど、晴明本人がそこに立っているとしか思えない。
 首の後ろでひとつにまとめた闇色の髪も、男のくせに抜けるように白いその肌も、そしてなによりも、柔らかくあたたかなその微笑みが。年齢に似合わぬ落ち着きと、屈託ない子供の朗らかさとを兼ね備えたその表情が、まさしく晴明がいつも見せているそれ、そのままだったのだ。
 自分よりはるかに年かさである秋月家当主に対し、丁重な態度と声音で、しかしまったく気負った様子など見せることなく、言葉を交わしている。
 息を呑んで見つめる和馬の前で、ひと通りのやりとりを終え、清明が会釈する。
 そうして上げられた視線が、ふと後ろに控える和馬の姿を捕らえたようだった。
 その一瞬、彼の口元がかすかにほころぶ。
 が、はっと見直したときにはもう、青年は次の客へと挨拶するべく歩き始めており、その微笑みが錯覚ではなかったのか、また真実和馬に対して向けられたものであったなら、はたしてなにを意味してのそれだったのか ―― 確認することはできなかったのである。


 ……いくらなんでもあれは似すぎだろう、と。
 改めて晴明本人を目の前にしても、つくづくとそう思う。
 いかに一卵性の双生児ふたごとはいえ、普通は年をとるごとにそれぞれの特徴というか、個性が際だってくるはずだった。後天的に生じる嗜好や経験などが外見にも影響を及ぼし、じょじょに二人の間の差異は広がってゆくものなのだ。
 まして晴明と清明の境遇は、あまりにも異なっている。この何年かなどは、逢ったことすらないという話なのに。
 はっきり言って、いま二人同時に目の前に並ばれたとしても、和馬には見分けられる自信がなかった。
 そのとき目印にするならば、やはり ―― と、腕飾りに目をやって、そこでああそうかと腑に落ちる。
「もしかしてそれ、お揃いなのか」
 指をさして問うた。
「え……ええ、そうらしいです。同じつくりで、弟のは紅瑪瑙だとか」
 よく判りましたね、と訊き返す晴明には、適当に手を振って誤魔化した。
 ―― あの時。
 きびすを返した清明を見送った一瞬、その袖口できらりとなにかが光ったのだ。はっきりとは見えなかったので、赤い色のものだとしか判らなかったのだが……どうやら揃いの腕飾りを身につけていたらしい。
 晴明のそれは翡翠のみどり、清明のものは瑪瑙めのうあか
 目印とするならばごく判りやすい、それでもよく似た対の装飾。
 離ればなれになった片割れに、弟が贈ったそれは、いったい何を思ってのものだったのだろう。
「 ―― 和馬さん?」
 呼びかけにはっと我に返ると、晴明がいぶかしげに顔をのぞき込んできていた。
「さっきからなんだかお静かですけれど……お疲れなんじゃないですか。今日は長いこと運転されていたんでしょう?」
 例によって仕事で遠出をした帰り、近くまで来たからと言うにはかなり強引なまわり道をして日月堂に立ち寄った和馬は、実際ずいぶんと疲労していた。
 だからこそ疲れに良く効くというハーブティなど淹れてもらいつつ、売り物のソファセットでくつろいでいたりした訳なのだが。
「やっぱり泊まって行かれてはどうですか。今からだとどのみち、帰り着く頃には深夜になってしまうでしょう?」
「……あー……そうだな……」
 ため息をついて、和馬は空になっていた茶器をテーブルへ戻した。
「世話になるか」
 その答えに、晴明がぱっと表情を輝かせる。
「じゃあ、部屋の準備をしてきますね」
 手早く茶のお代わりを注ぐと、ゆっくりしていて下さいと言い置いて、生活スペースになっている奥の方へと姿を消す。
 どこか弾むようにすら見えるその足取りが、彼が心底から歓迎していることを示しているようで。
「…………」
 和馬は複雑な表情で晴明の背中を見送った。
 本来ならば、多くの親族達に囲まれて、あの広大な安倍家の屋敷で暮らしていたはずの彼だ。しかし実際はこの、店と住居を兼ねた一棟に、ただひとりで寝起きする日々を過ごしている。
 たしかに真実一人きりというわけではない。彼のまわりには常に雑鬼やあやかし達がたわむれるようにつきまとい、静かとはとても評し難い、さまざまな騒動をひき起こしていたりもする。
 だがそれでも ―― 彼はやはりひとりなのだ。
 ただひとりきりの、人間。
 どれほど近しく、親しく心を交わしたとしても、それでも人間とあやかしとは異なる生き物なのだ。どれだけ互いを理解し、思いやりあうことができたにせよ、そこには相容れることのない厳然とした違いが存在する。
 むしろ……誰よりもあやかし達のことを理解する晴明であればこそ、いっそうに、人間と彼らとの間に存在する違いを、誰よりもよく知っているのではないだろうか。
 たとえば、同じテーブルについて、同じ食事を摂る。
 たったそれだけのことさえも、晴明の日常には存在していないのだ。
 彼自身はけしてそれに不満を唱えたりしないけれど。食事の準備をみなが手伝ってくれるし、いろいろおしゃべりもしてくれるしと、嬉しげに微笑みながらそう口にするのだけれど。
 それでもはじめてこの店に泊まり、朝を迎えたときのことを、和馬は良く覚えていた。
 一人暮らしの高校生が作る朝食とはとても思えない、一汁三菜とりそろった朝食に、いい加減驚くのも疲れ黙って箸をつけた和馬は、鰹と昆布だしの味噌汁をすすって、うまいと呟いた。その瞬間、晴明が心底嬉しそうに破顔したのだ。
 それを見て初めて、和馬は彼がじっと自分の反応をうかがっていたことに気がついた。
 訊けば、彼に家事一切を仕込んでくれたのは先代の店主で、料理を食べさせたことがあるのも彼にだけだったのだそうだ。その先代との同居生活も一年ほどで終わり、それ以降はずっと一人で食事していたため、ちゃんとした味になっているかどうか自信がなかったのだという。
 言われて思い返せば、洗面所でおはようと挨拶したときも、彼は戸惑ったように一瞬間を置いていた。これも後で確認したが、朝起きてこちらから声をかけることはあっても、それに対しておはようと肉声を返されることはついぞなかったため、とっさに反応ができなかったらしい。
 ひとつひとつはささいな、そんな出来事にいくつも気付かされて。
 それ以降、必要なときには無理に断ることなく、素直に泊めてもらうようになった和馬だった。
「……なにやってんだとは、思うんだけどな」
 人気のなくなった店内で、ひっそりとため息を落とす。
 そうして彼は、勢いをつけてソファから立ち上がった。沈んでしまった気分を変えるように、両手を上げて大きく伸びをする。
 いつ来ても代わり映えなく、時が止まったかのような錯覚を感じさせるこの店は、しかしよく注意してあたりを眺めると、常にどこかしら変化していた。ことに室内のそこここに配置された飾り棚や卓の上 ―― 一見するとごく無造作に並べられているような種々雑多な小物類は、見るたびにほとんどが入れ替わっている。
 あたりに漂う全体的な雰囲気が変わらぬため、なかなか気付きにくいのだが、ちょっと意識して見れば、いつでも新しい発見があって飽きさせなかった。
 ゆっくりと歩を進め、和馬は見慣れぬ品々を鑑賞してゆく。
 見るからに高価そうな牙彫げぼりの小箱や、真鍮製の吸口がついた長煙管。すっかり黒ずんだ銀時計は、どうやら完全に止まってしまっているようだ。和馬の目には安っぽく見える合成樹脂のブローチには、しかし純金で縁飾りが施されているあたり、よく判らない。
 それらの価値や来歴は、晴明に問えばたちどころに答えが返ってくるのだろう。
 様々な曰わくを持つ、場合によっては周囲に悪影響をも及ぼしかねない品々を、この店は収集し管理している。アンティークショップという名称は、あくまでその仕事に都合が良いよう、表向き名乗ったに過ぎなかったはずだ。
 だが、いまこの店に並ぶ品々は、もちろん当初の目的通りの曰わく因縁を持つ、危険な品々も多いけれど。それと同じだけ、本来の骨董品という言葉の意味のみを持つ、古く価値ある品もまたあまた含まれており、晴明が店を空ける理由の何割かは、それらごく当たり前の骨董品を仕入れたり、また譲ったりといった仕事のためでもあるのだった。
 むしろ ―― 特殊な能力など何も必要としない、ただ知識と経験、人柄がものをいう、そういった仕事こそ彼には向いているのかもしれない。
 そう、この店で客や取引先を相手に商売を行っている彼は、そのすぎる若ささえ除けばなにも不自然な所など存在しないのだ。
 一人で店ひとつ立派に切り盛りしている、そんな人間を相手に、自分はいったい何をあれこれ気をもんでいるのか、と。
 和馬は我ながら失笑する。
 だが ――
 それでもやはり、放っておけないのだから仕方がないとも思う。
 だいたいあれは、本来なら未だ保護者の庇護下にあるべき人間なのだ。にもかかわらず、誰も彼を守ってやろうとはしていない。ならば少しぐらい自分が気遣ってやっても良いではないか。
 少なくとも……本家にいる弟が享受しているだろう愛情の、せめて何割かぐらいは……
 再び己の思考へと没入しかけていた和馬は、注意が散漫になっていたらしい。
 物がぶつかるがしゃんという音を耳にして、我に返る。
「げっ」
 蛙が潰れたような声が洩れた。
 方向を変えたはずみに肘があたったらしく、小物がいくつかなぎ倒されている。見た目は小さくとも、どれほど値の張るものが混じっているやら、和馬には想像もつかぬ品々だ。慌てて元通りに並べ直しつつ、壊れてはいないかと確認してゆく。
 幸い、どれも異常はないようだった。
 思わずほぅと安堵の息を吐く。
 あれこれ考え込むなど、己のがらではないということだろうか。下手の考え休むに似たりというが、ここで下手に思案にふけっていたりしては、かえって店に迷惑をかけることになりかねない。
 何はともあれ、壊れたものが無くて本当に良かった。
 おとなしく座っていようと、元いた場所へ足を向ける。と、ふとそこで絨毯に転がっている物に気が付いた。勢いがつきすぎて払い落としてしまったのか。
 反射的に腰をかがめ、拾い上げる。
「うわ、危ねぇな」
 それは、小ぶりな銀のナイフだった。
 全体的に華奢な造りといい、持ち手部分に施された細かい装飾といい、実用的なそれではなく、飾りかあるいはせいぜい紙を切るのに使う文房具のたぐいだろう。
 だがそれにしても、むき出しで置いておくのはいささか不用心ではなかろうか。
 ほっそりと長い細身のフォルムは、中世のヨーロッパあたりで使用された、儀礼用の剣を模しているらしい。柄の部分に宝石がはめ込まれ、繊細な紋様がびっしりと彫り込まれている。刀身自体はまるで針のようで、少し力を込めれば折れてしまうのではないかと不安になるほどだ。
 表面に指先を滑らせてみると、ちょっと意外なほど鋭い刃。かすかにしなる刀身と合わされば、かなり切れそうだ。
 気付かず踏んだりしなくて助かったと、和馬はひそかにほっとした。そんな間の抜けた理由で怪我でもした日には、恥ずかしくて合わせる顔がない。
「で、どこに戻せばいいんだ?」
 ナイフを手にしたまま、きょろきょろと周囲を見まわす。
 さっきひっくり返したあたりに間違いはないのだろうが、さてそれらしいケースなり台座なりはあっただろうか。
 空いた方の手で、卓上の品をひとつずつあらためてゆく。
 と ――
 誰かに呼ばれたような気がして、和馬は手を止めた。顔を上げて店内の様子を確認する。
 さほど広いとはいえない店内に、いるのは自分だけだと承知していた。さっき晴明が出て行ってから訪れた客はないし、それまでも彼と二人きりだったのだから、これは確かなことだ。
 だが無人だからといって何もいないのかというと、断言できないところがこの店のこの店たるゆえんだった。
 風もないのにほのかに揺れているカーテンの後ろ、広い窓から差し込む光さえ届かない、部屋の隅の暗がり。そんなちょっとした死角の中に、なにが潜んでいてもおかしくはない。それが異形達の友、安倍晴明が経営する日月堂での日常なのである。
「どうした? 誰かいるのか」
 そのあたり既に和馬も慣れたもので、特に警戒する様子もなく気軽に声をかける。この店に出没する異形達の何体かとは、とうに顔見知りとなっていた。それ故の気安さだ。
 耳をすますような要領で、あやかし達の声ならぬ『声』を聞き取ろうとする。
「…………?」
 確かに、何かが聞こえてくる気がした。
 低い、ごくごくかすかな呟きだ。実際に存在する物音ではない。もっと、別の、異なる次元から聞こえてくる、何者かの囁き声。

 ―― なけれ、ば ――

 と。
 ようやくとらえられた言葉の断片に、和馬はふと太い眉をひそめた。
 それは、暗く、沈んだ、どこかぞっとするような響きを宿した声だった。

 ―― お前、など……ば ――

 意識を集中し、とぎれがちな欠片から意味を拾い上げようと試みる。
 暗く、けして心惹かれるものとは言い難いそれを、だからこそはっきり聞き取ろうと努力する。
 いつしか和馬の顔から、気安げな表情など完全に消え去っていた。
 熟練した風使いの異変を察知する鋭い感覚が、不穏ななにかの気配を感じ取ろうとする。

 ―― お前、なんか……

 和馬は急に目を見開くと、己の手中へと視線を落とした。
 大作りな厚い手のひらの中、細身のナイフがきらめいている。
 鍔の部分にはめ込まれた、真紅の石が、一瞬鮮やかに輝いた。禍々しくも美しいその光に、瞳が無意識に吸い寄せられる。
挿絵2
 どこか、意識そのものさえをも引き込まれるような、そんな感覚が ――

「和馬さん」

 ぱしんと、耳元でなにかの弾ける音がした。
 いや、実際の所は錯覚だったのだろう。
 勢い良く振り返った和馬に、晴明が驚いたようにまばたきしてみせる。
「どうかなさったんですか?」
 問いかけてくる彼は、もちろん音の出るようなものなど持っているはずもなく、注意を引くため二の腕にかけていた手を静かにはなす。
 和馬はまじまじと数秒、見上げてくるその目と見つめ合ってしまった。それから、いつの間にか詰めていた息を少しずつ吐き出す。
「ああ……いや」
 答えになっていない言葉を返し、数度かぶりを振って落ち着こうとする。
 そうして彼は、もう一度確認するように手の中のナイフを眺めた。その仕草に自然と晴明も同じものに目をやる。
 あの声らしきものは完全に消えていた。
 再度耳を澄ましてみても、聞こえてくるのは外の道路を走る車や、時計の振り子が揺れる音ばかりだ。
 ナイフの飾り石も、改めて眺めれば、小さな安っぽい石でしかない。
 やがて和馬は肩をすくめ、入っていた力を抜いた。
「……すまん、こいつ落としちまったんだが」
 切っ先を自分の側へ向けて、柄の方を差し出す。
「なんか訳ありっぽいのだな」
「判りますか」 
 動じることなく受け取って、晴明はポケットからハンカチを取り出した。
 付着した埃を丁寧に拭い、傷はないかとあらためる。
「昨日仕入れた時計に、無料でついてきたんですけど」
「タダだ?」
「ええ」
 あ、時計はそれですと、壁際に鎮座する巨大な置時計を指し示す。大柄な和馬の身長よりさらに高さのあるそれは、いわゆるお祖父さんの古時計グランドファーザークロックと呼ばれるあれだ。
「以前から取り引きさせていただいている方からで、日月堂さんはこういう物が好きだと聞いたから、って」
 どうやら一般人ではなく、専門の業者が相手だったらしい。商売上のつき合いついでに、ちょっとした品をおまけしてくれたということのようだ。
「こういうって……」
 しばし視線をさまよわせて、結局手頃な例を見いだせず、晴明の腕飾りを指さす。
「『そういう』ものか」
 あやしげな曰わくのついた、訳ありの代物。
 晴明はこくりとうなずいた。
 ……一般の業者を相手に、良いのかそんなふうに認識されていて。
 よほどつっこんでやりたかったが、まあ和馬も初対面の折りには彼のことを、いわくつきの古美術好きな収集マニアなどというように解釈していたわけで、それぐらいならばまあ変わり者という範疇で納得されるのかもしれない。
「あくまで噂に過ぎないということでしたけれど、このペーパーナイフの持ち主になると、周囲に不幸が起きると言われているそうで」
「不幸ってぇと……怪我したり病気になったり」
「御本人や家族の方が亡くなられたり、行方不明になられたり」
「……まあ、良くある話だな」
「そうですね」
 はっきり言って、そんな噂がつきまとう程度の品など、この店では特筆するほど珍しくもなかった。むしろもうひとひねり、と言いたくなるぐらいである。
 だが……
「どうやら、根も葉もない話じゃなさそうだぞ」
「そうなんですか?」
「ああ。店に並べるのは止めといた方が良いんじゃないか」
 釈迦に説法だとは思ったが、念のために言っておく。
 少なくとも売り物にはしない方が良さそうだったし、ディスプレイ用の飾りとするにしても、迂闊に余人の目に触れさせるのはまずいだろう。下手に波長の合う人間が現れでもしたら、やっかいなことになりかねない。
「気をつけておきます」
 晴明はそばのキャビネットから天鵞絨張りの小箱を取り上げて、くぼんだ部分にナイフをはめ込んだ。蓋を閉じたそれを、あとで奥へ持ち込むつもりなのだろう、中央の円卓に乗せる。
 そうして和馬を振り返ってきた。
「で、和馬さん」
「なんだ」
 問い返すと、満面の笑顔で聞いてくる。
「夕食は、なにが良いですか?」


(2004/11/04 17:20)
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