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 鏡裏捕影かがみのうらかげをとらう  骨董品店 日月堂 第一話
 終 章
 ― Makoto.Kanzaki Original Novel ―
 
神崎 真


 ところどころ白い雪化粧をまといつかせた雑木林の木々が、窓の外を後ろへと流れてゆく。ちらほらと粉雪の舞う山道を、降る雪と同じ色の車が走っていた。道の前にも後ろにも、他の車は見あたらない。まるでどこか別世界に迷い込んでしまったような気さえしてくる。
 スピードが出過ぎないよう注意しながら、和馬はハンドルを操っていた。うっすらと雪が積もり始めた道路は、完全に覆われてしまったときよりもよほどたちが悪い。もう幾つ目になるかも知れぬカーブを慎重に曲がった。
 と、いきなり視界が開けた。だいぶ河原の石が小さくなった広い川が、二つの山の間を割って流れている。その一方の山肌を、車は川を右手に見る形で下ってゆく。
 川岸近くまで下りると道はぐっと緩やかになった。傾斜もカーブもさほど注意する必要はなくなる。
 そのあたりまで来て、ようやく和馬は口を開いた。
「……具合はどうだ? 辛くないか」
 宿を出発してからこっち、ずっと前に向けていた目をちらりと左横へ投げる。
 滅多に座る者のない助手席には、いま春彰が身を置いていた。きっちりとシートベルトを締めて行儀良く両足をそろえている。旅行するのにいったい何着服を持ってきているのか、白いピンストライプのシャツに落ち着いた色合いの、モスグリーンのスーツを合わせ、ネクタイは織り模様の入った重厚な金糸織りだ。とどめにタイピンは虫入り琥珀。膝の上にコートを畳んで置き、さらにその上に薄い木箱を大切そうに載せている。人麻呂鏡だ。
 窓の外を見ていた彼は、振りむいてにっこりと笑った。
「大丈夫です。もうすっかりいいですから」
 その声音と顔色は、とても三日前に死にかけた男のものとは思われない。
 あの晩から、既に三日ほどの時が過ぎていた。
 あの夜、旅館に戻った二人はそれぞれ治療やら血の付いた服の処分やらをした後、それこそ泥のように眠り込んだ。和馬の方は主に体力と術力を回復させる為。春彰の方は肉体の快復の為、『友人』達によって体内の新陳代謝が低下させられたからなのだろう。丸一日経って和馬が目覚めた頃には、旅館の人間が医者を呼ぶべきかと相談していたほど、その眠りは深く、静かなものだった。和馬が何とか誤魔化して余人を桔梗の間から追い出すと、待ちかねたように由良達が現れ、春彰を癒しはじめる。
 狭い部屋で化け物共と同室しているのは、あまり楽しい状況ではなかった。が、下手に放っておいて、こんな奴らを目撃でもされては目も当てられない。仕方なくその部屋に陣取った和馬は、春彰が目を覚ますまでもう一日半ほど待たねばならなかった。その間、暇つぶしと情報収集を兼ね、新聞やテレビを見まくって過ごす。
 それによれば、翌朝出勤してきた駅員によって発見された高村の死体は、連続殺人事件の新たな被害者として処理されていた。確かに使用された『凶器』は同じ物なのだから無理もない。無差別殺人、ついに男性までも標的にし始めたか!? と一同は騒然となったが、それから三日過ぎた現在になっても、続く犯行は行われていない。さらに現場付近の家々で最後の犯行時刻、なにやら人が争っているような声や、石が割れるような破壊音、果ては得体の知れない生き物の鳴き声のようなものが聞こえたという証言が相次ぎ、当の現場は地震と台風が一度に襲ってきたような惨状。
 もはや捜査現場は混乱の一途をたどっていた。
 幸いなことと言えば、実際の最終被害者となったあの女性が、何とか命をとりとめたということ。そして事件当夜に和馬達の姿を見かけた者はいないらしいということか。
 もっとも、あれだけの騒ぎを起こしたのにも関わらず、目撃者が一人もいないというのは、はっきり言おう不自然だった。それまでしょっちゅう被害者が出るほど人通りがあったのに、あの夜はまったく誰にも出会うことなく、騒ぎを聞きつけて見に来るようなやからも皆無だったのだ。
 首をかしげていた和馬だったが、ふと新聞の片隅に妙な記事を発見した。顔を寄せて熟読し、そして得心がいく。
 大きく見出しと写真がついた連続殺人事件、及び駅前駐車場の大破についての記事に押され、見落としてしまいそうなほど小さく控えめな記事。
 『夜道の集団幻覚?』
 昨夜 ―― 無論それは、和馬達が高村から人麻呂鏡を取り戻したあの夜のことだ ―― 午後6時から12時頃にかけて、町内のいたる所で化け物に会ったという人物が続出したのだという。普通ならそんな話は一笑に付され、新聞になど載りそうもないのだが、その時間帯に外出していた人間すべてが経験した事実となると、たたごとではない。
 ある者は子供くらいの羽のある化け物を見たといい、ある者は巨大な細長い虫に巻き付かれたと言い、またある者は見たこともない四つ足の獣に追いかけられたと言う。幸い誰も直接の危害は与えられなかったようだが、それでもさぞかし肝を潰したことだろう。おそらくはみな脱兎のごとく逃げ帰り、夜が明けるまで一歩も外に出ようとはしなかったに違いない。
 布団に横たわる春彰に、そして取り囲んでいる化け物達に視線をやって、和馬は深く嘆息した。
 やがて、いったん目を覚ました春彰は一通りそれらの情報を聞いた。それからたっぷりと食事を摂ると、もう一度眠りにつく。今度は純粋に疲れを癒すための、普通の睡眠だ。そして三日目の明け方に目覚めた時には、すっかりと元気を取り戻していた。
 旅館を発ったのは、二時間ほど前のことだった。方向は完全に違うが、病み上がりなのだし家まで送ってやろうと、遠慮する春彰を助手席に押し込んでの道行きだ。
 和馬は二時間もの間、何を話すでもなく、考え込むように黙りこくっていた。春彰の方もことさら話しかけることはせず、窓外の景色を眺めているだけだった。そうしてようやく言葉を交わしたものの、和馬は続くそれを見つけることができず、口を閉ざしてしまった。そんな様子に春彰が問いかける。
「何か……?」
 言いたいことがあるのに、だけど切り出すきっかけが掴めない。そんな状態だった和馬は、ほっとしたような、しかし決まり悪げな表情で春彰を流し見た。
「ん……その、な、お前に聞きたいことが、あるんだが……」
 台詞の歯切れが妙に悪い。
「何でしょうか。私でお答えできることならば、よろしいのですけれど」
 あっさりと答える春彰は、何の警戒も抱いていないようだ。それがいっそう和馬の口を重くしてしまう。
「……だから、さ。お前の名前……あの『あべ』ってやつ。もしかして安らぐって字に人偏のほうの倍って字で『安倍』って書くんじゃないのか?」
 春彰の表情が固くなるのを、和馬は前を向くことで見ないふりをした。その表情はすぐに取りつくろわれたが、声がそれを裏切っていた。どこか平坦な、空々しい声音。ほんのわずかな変化でしかなかったが、それまでのなめらかで落ち着いた語り口に慣れていた和馬には、違いすぎるほどの違いだった。
「よくある名前ではありませんか。それが、どうか?」
 聞き返してくるのに促され、何とか重い口を動かした。
「確かによくある名前だがな。……安倍晴明あべのせいめいっているよな。今から千年くらい前に活躍した、大陰陽師おんみょうじ
 その人物名に、春彰の肩がびくりと反応する。
 安倍晴明、もしくは清明。それは日本の歴史の中で屈指の力を持つとされ、また広く名を知られた大呪術士の名である。その業績は宇治拾遺物語や今昔物語集、古今著聞集、大鏡といった多くの文献に残されている。その術力の大きさに、数々の伝説を持っている存在でもあった。特に有名なのは古浄瑠璃『信田妻』であろう。それによれば彼は人間にあらず、人と契った白狐を母に持つ半人半妖であったという。彼を祭神とする神社が京都にあるというのは、前に述べた通りだ。
「安倍晴明の晴明って字は『はるあき』って読み替えられる。実際、文献によって呼び名は様々だ。セイメイとか、キヨアキとか……ハルアキとか。数多の鬼神を自由に使役したというかの陰陽師と同じ読みの……同じ言霊の名を持つお前が、化け物共を引き連れて歩いてる。それは ―― 偶然か?」
  ―― 史実に従うならば、現在安倍家というものは存在しない。
 安倍晴明の子孫達は、晴明の住んでいた地所から名をとり、土御門家と呼ばれる家系となったのだ。その家は後に陰陽道の宗家となり、日本の陰陽道を永きにわたって支配し続けた。が、それもじょじょに勢力を弱め、さらに明治時代に出された禁止令により、陰陽道は姿を消さざるを得なくなった。今の世に残されているのは、天社土御門神道と形を変えた流派とその宗家だけだ。
 しかし、それはあくまで史実の上のことであった。土御門家というのは安倍の血筋にとって、表向きの隠れ蓑に過ぎない。その正当な血筋と技を伝える安倍家は、歴史の裏側で着実に力をつけ続け、今や日本でも指折りの呪術家となっている。それは呪術者達の世界の常識でもあった。
 星の動きで未来を占い、鬼神を操ることであらゆる奇跡を起こしたという陰陽師。その宗家と同じ名字を持ち、その始祖と同じ響きの名を持つ、人ならぬもの ―― 鬼を友とする青年。無関係だなどと思えと言う方が無茶ではないか。
 それは、化け物達に囲まれて眠る、春彰を見ている間に気が付いた事実。一度思い付いた考えは、どんなに打ち消そうとしても、胸の内にくすぶり続けた。もしも自分の考えたことが……事実から導き出されたことが真実だったならば、自分は完全に騙されていたことになる。みすみす陰陽家安倍家に、秋月家の醜態をさらしてしまったということに。
 ぐっとハンドルを握りしめて答えを待つ。その耳に掠れた声が届いた。
「……いいえ」
「そうか」
 不思議と静かにうなずくことができた。怒りも、春彰を恨めしく思う気持ちもまるで湧いてはこない。
 春彰がいたからこそ、今度の件は無事片が付けられたのだ。高村の手から人麻呂鏡を取り戻せたのも、怪鳥の狂乱を無事納め、人麻呂鏡を風霊を閉じこめる道具でなくしたのも、すべて春彰の功績以外のなにものでもない。
 それは明らかな恩だ。
 人麻呂鏡は秋月家を、数百年にわたって悩ませ続けてきたいとわしい魔鏡だ。春彰はその存在をまったく異なる物へと変換してくれたのだ。もしもあの怪鳥が和馬を殺し、そのまま殺戮と破壊を行っていたならば……失われたであろう多くの人命と、秋月家の名誉を未然に救ってくれもした。その恩はどうやって返せばよいか判らないほどに大きい。
 それを忘れることはできなかった。むしろ安倍家に対し、正式な謝礼を秋月家としてせねばならないだろう。
 ただ、苦い悲しみが和馬の胸裏を満たした。
 春彰は、自分に本当のことを話してはいなかった。いつもにっこりと微笑んで、その裏では自分を本当に信頼していた訳ではなかった。その事実が、ひどく、辛い。
 馬鹿なことを悲しんでいるのは、よく判っていた。今回の自分達の関係は、あくまで利害が一致したが故の一時的な協力だったはずだ。そんな相手が手の内をさらさないのは当たり前ではないか。それが駆け引きというものだ。
 それに、そもそもなれ合いを渋っていたのは自分の方だった。それなのにいつの間にか、こんなにも春彰に入れ込んでしまったいた。勝手に思い入れて、勝手に騙されたと悲しんでいる。彼の信頼を得ることができなかったと、情けない気持ちでいっぱいだ。
 車はやがて、市街へと入っていった。ここもまだ都会とは言い難かったが、JRは通っているし、高速へと続く自動車専用道路もある。手頃な店を探すと、和馬は駐車場へと車を乗り入れた。休憩がてら昼食をとる。
 今度は春彰の方が運転席に座った。シートベルトを締めて座席を調整し、エンジンをかける。さほど車のいない平日の街中を、丁寧な運転で走った。そうしながらおずおずと口を開く。
「あの……和馬さん。聞いていただけませんか?」
「何をだ」
 先刻のやりとり以来、ほとんど口をきかなかった和馬が、短く問い返す。無愛想な声音に春彰は唇を噛んだ。和馬を怒らせて ―― 実際には、彼は自己嫌悪におちいっていたのだが ―― しまったのだと思うと、申し訳なさに胸が詰まる。
 許してなどもらえるはずがなかった。だが、それでもせめて、事実だけは伝えておきたい。
「確かに、私の本名は安倍晴明あべのはるあき。晴れた明るい空、の晴明と書きます。そして父は陰陽家安倍家第四十八代当主、安倍孝俊あべのたかとし。父が何を思ってこの名を私に付けたのかは判りませんが、かの陰陽師を意識していたことは確かでしょう。でも ―― 」
 言葉が切れる。前方にむけられた目が、感情の乱れを映して揺らいだ。
「でも……?」
 和馬は惹きこまれるように続きを促していた。
「……私には、何の術力もありませんでした。私には陰陽師としての素質がまるで存在しなかったんです」
 つぶやきに近い、力無い言葉。
「だから……私は安倍の名字こそ持っていますが、陰陽家である安倍家の人間ではないんです。今度のことを安倍家に報告する義務はおろか……権利すらありません。それどころか、こんなことに私が関わったと家に知れたら……」
 口を閉ざし、一瞬視線を落とす。その肩が小刻みに震えていた。語る言葉が嘘ではないと、全身が告げている。高村に襲われた時も、怪鳥と和馬の戦いに飛び込んできた時も、異常なほど怯えひとつ見せなかった春彰 ―― 晴明が、いま血の気が引くほどにその事態を恐れている。
「まさか……お前、長男なんだろう? いくら何でも、跡取り息子をそこまでないがしろにゃしないだろうに」
 それでも、にわかには信じ難くて言い返す。『晴明』などと大それた名を冠されているのだ。まさか次男や三男ではあるまい。
 しかし晴明は和馬の言葉にゆっくりと頭を振ってみせた。
「現安倍家当主のことを、何も御存知ありませんか?」
 言われて和馬は記憶をあさってみた。
「……そういえば、去年だか一昨年だかに代替わりしたとか。何でもまだ若いが、その術力は千年に一度の逸材と言われて……ッて!?」
 ぶつぶつとつぶやいていた和馬は、がばっと背もたれから身を起こした。運転席の晴明を見る。
安倍清明あべのきよあき。弟、です」
 晴明の口元は、それ以外浮かべる表情がないとでもいうように、笑みをたたえていた。
「もう、私は安倍家にとって本当に何の価値もないのです。むしろ当主よりも血筋的に勝っているせいで、弟をたてている方々にとっては、目障りこの上ない存在なのですよ。身の程知らずの長男が、当主の座を狙いはすまいか、とね」
「……狙わないのか?」
「狙いません」
 きっぱりと答える。もともと名誉とか権力とかいったものに対する執着は薄いのだ。それに ――
「術力の有無を抜きにしても、私は人の上に立てるような器ではありませんから。それくらいの自覚は持っています。でも叔父上がたは納得して下さらなくて……だから安倍家を出ることにしたんです。もっとも完全に縁を切るのは辛すぎて、それで日月堂に入ったんですが」
 店主を務めるアンティークショップの名をあげる。いわくつきの品々を収集・管理するための店。そこは安倍家が出資する店であった。もっとも京都の本家からは遠く離れ、その存在すら滅多に思い出されることのない、本家とは最も疎遠な場所だ。代々の店主はほとんどが役立たずと見なされた、左遷に等しい境遇の陰陽師達であった。今ではもう、当主だけが繋がりを持っているに過ぎない。
「実を言うと、今回の情報をくれたのも当主オーナー ―― 弟なんです。占トの結果で出たのだとか。あ、でもあちらで判っているのは、最初私が申し上げたことだけだそうですから」
 安心させるように付け足す。
「ちょ、ちょっと待て」
 混乱してきた和馬は、手を上げて晴明の言葉をとどめた。
「なんで安倍の当主が命じたことを、安倍家に知られちゃまずいんだ? おかしいじゃないか」
 家の頂点に立つ、いわばその家の象徴とでもいうべき存在が当主ではないか。いわば家と当主は一心同体。当主の命令は家の命令だ。その当主が晴明に命を下したというのなら、それは安倍家の命だということ。晴明の言葉は明らかに矛盾している。
「私は別に、何も命じられてはいませんが?」
 きょとんとした顔で晴明は問い返した。
「え? だってお前、当主が鏡の情報を寄こした……って」
「ええ。これこれこういうことが占えましたけど、興味がおありではありませんか、と。それだけですよ。私ごときに正式な命など下そうものなら、後見人である叔父上が黙ってはおられません。安倍家の実権は、ほぼ叔父上が握っておられますからね」
 安倍家前当主の弟、安倍孝秀あべのたかひでは和馬も知っている。前当主健在の折りにはその良き片腕として活躍し、術力は文句無しに強く、孝俊が没した時には息子達が年若いこともあって、次代は孝秀だろうと誰もが噂した陰陽師だ。が、孝秀は当主の座を兄の子へと譲り、自らは補佐として若い当主を助けているという。
 自分より十ばかり年長の男を思い浮かべる。背はさほど高くないが、それなりにがっしりとした体格の、割と温厚な人物だったと記憶している。そんなに晴明は疎まれているのだろうか。
「……けど、だったらなんで当主がわざわざ情報を流してくれるんだ?」
 廃嫡された兄に情報などやって、当主に何のメリットがあるというのだ。
「私が好きそうな情報だからですよ」
「はぁ?」
 あっさりとした答えに思わず呆けてしまう。
「……もしかして、仲良いのか? 弟と……」
「ええ」
 何を当たり前のことを、と言わんばかりの口調。そういえば前にそんなようなことを言っていたような気がしないでもない。
 しかし……しかしだ、どこの世界に己を蹴落として当主の座についた弟と仲の良い兄が、自分が当主の座を奪った兄と仲の良い弟が、いるというのだ。
 頭を抱える和馬の横で、晴明は何を悩んでいるのだろうと、首をかしげている。


*  *  *


 雲の切れ間からのぞく夕日があたりを鮮やかに染める頃、和馬は帰途につくべく日月堂の扉をくぐった。晴明も店の前に止めた車のところまで、見送りに出てくる。
 送っていただいたお礼に、とお茶をごちそうになっている間にすっかり遅くなってしまった。この分では秋月家につくのは深夜になりそうだ。晴明はどうせなら泊まってゆかれればよいのにと勧めてきたが、早く帰ってことの次第を報告したかったので、それは断った。
「それでは、お気をつけて」
「ああ」
 うなずいてドアに手をかける。と、晴明が確かめるように訊いてきた。
「あの……本当に、私が戴いてしまってもよろしいんですか?」
 既に数回は繰り返された問い。和馬は深々と息をついて晴明を振り返った。
「いいんだよ。もう、秋月家が封印しとく必要はないんだから」
 やはり何度も返してきた答えを口にする。
「ですが、何の謝礼もお支払いしていないのに……」
 晴明はそれでもまだぐずぐずとつぶやいている。
 結局、和馬は人麻呂鏡を晴明へと譲ったのだ。それではと差し出された代価を受け取りもせず。
 人麻呂鏡は、既に風霊を閉じこめる呪物ではなくなっている。だからもはや秋月家が封じておく必然性はないのだ。いわくつきの品に関しては晴明の方が専門なのだし、大きな借りもある。鏡を譲る程度で返しきれる恩でもないが、少しづつでも返していきたい。
「代償ならもう、充分すぎるほどもらってるんだ。遠慮なく受け取れよ。それとも精霊が入ってる訳じゃない鏡は欲しくないか?」
「いいえ! そんなことは」
「なら、黙って納めな」
「……はい」
 よしよしとうなずく。
「じゃあな。機会があったらまた寄らせてもらう」
「えっ?」
 何気ない挨拶に、晴明が意外そうな声を上げた。今度は何だ? といぶかしむ和馬をびっくりしたように見上げてくる。
「また、来て下さるんですか?」
「迷惑か?」
 返事はぶんぶんと首を振ることで返された。子供っぽい仕草に長い髪が揺れる。
 ……そういえばこいつ、人間の友達いなかったんだっけ。
 過剰な反応に驚いた和馬だったが、ふと思い出して得心がいった。これは寂しがりやの子供が、相手も自分を友達だと思ってくれているか、不安で仕方ない状態だ。いや、もしかしたら最初から期待さえしていなかったのかも知れない。
 和馬は苦笑いした。大きな掌を、子供にするようにぽんと頭の上へ乗せる。
「またこっちに来ることがあったら、必ず顔を出す。それからお前好みそうな代物が仕事に関わってる時もな。そん時は力を貸してくれ」
「力を、ですか」
 不思議そうに繰り返す。和馬はうなずいた。
「お前は自分に何の力もないって言ってるけどな、ンなことはねぇんだ。いいか、俺達精霊使いにとって精霊ってのは支配したり、使役したりするもんじゃない。俺達はただ、必要な時に頼んでその力を貸してもらってるんだ」
 貸して、を強調して言う。そこのところは晴明にもよく判っていた。それが精霊使いの基本姿勢であるからこそ、人麻呂鏡は悪しき物として封印されたのだから。
「だから、な」
 なぜ今そんなことを言い出すのか。そんな顔をする晴明に言い聞かせる。
「確かにお前は化け物 ―― 鬼神達を従わせて使役する能力はないかもしれない。だけどお前も立派な使つかびとだよ。化け物を友として、その力を貸してもらえる『鬼使い』だ」
 それはかつての大陰陽師、安倍晴明の異名でもある。
「そんな……」
 和馬の表現に晴明はうろたえた。
「よして下さい。私はそんな大それた呼ばれかたなど、してもらえるようなことは……」
「できる、だろ」
 台詞の最後をひったくる。
「あの怪鳥を説得したのはお前だ。あんな真似、俺にはとうてい出来やしない」
 もとは風霊であったあれを、風使いである自分は倒そうとすることしかできなかった。それを晴明は救ってのけたのだ。深い、知識と思いやりの心によって。それは下手な力を持ち合わせているよりも、もっとずっと大切で、強いことではないだろうか。 ―― 高村は、最後までそれに気付くことなく逝ってしまったが。
 晴明の袖口から光が洩れた。手を上げて袖を下ろしてみると、腕飾りが柔らかく明滅している。
「そいつらも同意してる」
 晴明は呆然と己の左手首を見下ろした。その頭を和馬はおおざっぱな手つきで撫でる。
「お前はもっと自信を持っていいんだ」
 お前にはちゃんと価値がある。だからあんなふうに、安易に盾として命を投げ出すな。お前はちゃんと生きていていい。安倍家での評価を絶対のものとすることはないんだ。
 和馬と怪鳥の命を、当たり前のように己のそれより上位に置いた。自らの命を失うことを、まるで恐怖しなかった。その根底にあるのは、かつて属する家から存在を否定されたがゆえ。いまこの瞬間にさえ、家に戻ることを許されぬ、その立場ゆえ。
「お前はいい奴だよ。俺はお前と友達になりたいと思う。俺だけじゃない。これからいくらだって、そんな奴は出てくるさ。お前はまだ若いんだから」
 和馬と光る勾玉とを、晴明は複雑な表情で交互に見ていた。驚きと、困惑と、とまどいと ―― そしてわずかな喜びの入り混じった顔。やがてそれは、泣き顔とも思えるような、極上の微笑みを形作った。
「……そう、ですね。せっかく無理して学校にも通っているのに、友人ひとり作らなかったら、もったいないですものね」
「そうそう……ッて」
 驚いて叫ぶ。
「お前、大学行ってんのか!?」
 意外すぎて声が裏返る。そこまで若かったのか、こいつわ。それにだ、バイト生じゃあるまいし、いくら雇われ店長だからといって、店の経営と学生生活とが両立できるものなのだろうか。
 愕然とする和馬に、しかし晴明はさらなる爆弾発言をしてのけた。
「私、高校生ですけど?」
 ………………気が付いてみると、晴明が目の前でひらひらと手を振っていた。
「和馬さん、和馬さん? どうかなさったんですか」
 わざわざ背伸びまでして、心配そうに覗き込んでくる。どうやらしばらく真っ白になっていたらしい。軽く小首をかしげて見上げてくる晴明の顔は、驚くほど邪気のないまっすぐなもので ―― 子供の持つひたむきさが溢れている。
「もう一度……言ってくれないか。どこの……何年生だって……?」
 質問の意味が判らないらしく、二三度瞬きする。
「この先にある市立西野学園高等部、1年C組ですが」
 その方向を指さして答えた。
 一年生。
 もはや驚く気力もなかった。
「幾つだ……十五か? 十六?」
「十七です。一年ほど浪人しましたから」
挿絵8  少し寂しげに答える。
 それでも高校生の年齢に違いはない。
 確かに、彼の年齢を二十代前半だと考えたのは和馬の勝手だった。昨今の高校生は良く育っているし、晴明は背もさほど高くなく、細身の体格だ。この程度の高校生はけっこう巷に溢れている。しかし ―― しかしだ、どこをどうやったら、十代でこれだけの落ち着きや知識を兼ね備えられるというのだ!
 ……まぁ確かに、情緒面に関してはいささか未発達なようだが。
 和馬はめまいを覚えて車のルーフに手をついた。掌で目元を覆うようにして下をむく。
「ご気分でも悪く?」
 晴明が気遣うように背中を撫でる。どうやら何も判っていないらしい。
 お前って奴は……
 和馬は胸の内で唸っていた。
 現代日本において、未成年というものには様々な行動に制約がついてくる。たとえば結婚ができるのは、保護者の許可があれば十八才から。パチンコや成人映画などの娯楽が許されるのも十八からである。原動機付き自転車及び自動二輪車の免許は十六才。そして自動四輪の運転免許が取得できるのは、十八才からなのだ。
 ただでさえ高校という奴はお堅くできていて、よほどの理由がない限り在学中に二輪や四輪の免許を取らせてはくれない。まして取得年齢に達していない晴明が、免許を持ってなどいようはずもなくて……
「和馬さん?」
 大丈夫ですか、としきりに声をかける晴明をよそに、和馬はどっぷりと沈みこんでいた。
 俺、こいつに半分は運転させたぞ。雪の高速道路を。
 ちなみに、交通事故において最も死亡率の高いのは助手席である。
 この時和馬が味わった恐怖は、一連の騒ぎの中でも最大のものであった。


― 了 ―


(1993/10/9 AM11:45)
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