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 鏡裏捕影かがみのうらかげをとらう  骨董品店 日月堂 第一話
 第三章
 ― Makoto.Kanzaki Original Novel ―
 
神崎 真


 冬の日は暮れるのが早い。五時を過ぎる頃にはもう、空は深い紫紺へと彩りを変え始める。
 満月から二日ばかりが過ぎた月の昇る頃、和馬と春彰の二人はだいたいの準備を整え、人麻呂神社の境内にいた。小さな社があるだけで、神主もいなければ明かりのひとつも置かれていないそこは、寒く暗い反面、無関係な者の目を避けるにはもってこいだった。
「果たして、彼がうまく引っかかって下さると良いのですが」
 前に落ちてきた髪をいじりながら春彰がつぶやく。
「まぁなんとかなるだろ。少なくとも、ただ闇雲に歩きまわるよりか、率はいいはずだ」
 少し離れて立った和馬は、暗がりを透かして見える春彰の立ち姿を満足そうにみる。
「その見てくれなら充分だ。立派に女に見える」
「そうですか?」
 断言する和馬に、春彰は身体を見下ろした。自分ではよく判らないが、彼が言うのならばそうなのだろう。
 夕べ髪をほどいた春彰で和馬に閃いたのは、春彰を囮にして高村をおびき寄せようと言う考えだった。つまり相手の居場所を突き止めるのが困難ならば、むこうから出向いてもらおうというのだ。
 囮というかなりな危険を伴う役割。しかも女装してなどと、普通の男なら青筋を ―― あるいは鳥肌を立てて嫌がりそうなものだった。しかし春彰は和馬の提案を驚くほどあっさりと受け入れた。いくらか口にした言葉は、すべて計画を補足するためで。
 もっとも春彰とて完全に女性の格好をしてみせた訳ではなかった。履いているのはれっきとしたズボンだし、化粧だってしていない。これまでと違うところといえば、腰にかかる長い髪を束ねずに下ろしていることと、コートの代わりに和馬のダウンジャケットを羽織っていることぐらいだ。前を開けたジャケットの下にはクリーム色のハイネックシャツが覗いている。つやのあるいかにも上質で柔らかそうな素材でできたそれには、刺繍だの飾りボタンだの細い金鎖だのがついていて、和馬にしてみればほとんど宝塚な代物だった。女性がネクタイをするのも変ですね、などと言いつつ旅行鞄から取り出された時には和馬も一瞬ぎょっとした。もしかしたらこいつ危ない趣味してるんじゃないだろうな『あっち』系の奴だとかお耽美主義者とか……なんて考えが頭をよぎる。
挿絵5  しかしいざ着ている姿を見てみると、そんな感想などまったく出てこなくなってしまったから不思議である。なにしろ全然派手にならないのだ。身にまとう雰囲気にしっくりと溶け込んでしまって、穏やかな上品ささえかもし出している。
 大きなジャケットはそんな春彰をすっぽりとくるみ込んでいる。身長にして頭ひとつ分、体重に至っては小学生一人くらいは余裕で差のありそうな二人だ。和馬の方は手足も長く、広い肩から胸板、腹筋にかけてたっぷりと肉が ―― 贅肉では断じてない ―― ついている。必然的にジャケットは春彰の体格に合わず、顔の半分はボア付きの襟に埋もれてしまっていた。袖などかろうじて指先が覗いているといった具合だ。暗く、あたりに比較する通行人のいない今では、実際よりもずいぶん小柄に見える。
 結果としてその姿はすらりとした中性的な女性で通るものだった。
「これで他の女が出歩かずにいてくれたなら最高なんだがな」
 ため息混じりに漏らす。ったくこの街ときたら、ろくに人口もないくせにどうしてこうも夜間に外出する女がいるのかね。昨夜だって六人も無差別猟奇殺人があったのにも関わらず、一人歩きしていた女がいたのだから……
「ああ、そのことでしたら」
 いきなり春彰が言い出した。
「一応それなりの手を打っておきましたから、大丈夫だと思いますよ」
 にこにことそうのたまう。そして唖然とした和馬をよそに手櫛で髪をすき始めた。
「えー……と、おい。それなりの手って、お前なにやったんだ!」
 はっと我に返って問いただす。春彰は手を止めると和馬に向かって指を三本立てて見せた。
「企業秘密その三、です」
「…………」
 沈黙が降りた。春彰は困った様な表情で見ている。和馬は疲れた声で聞いた。
「……本当に、大丈夫なんだろうな」
 とたんに春彰の顔が明るくなった。
「ええ! 完璧を期するとまではゆかないでしょうが、元々少ない外出者を、さらにぐっと減らすことはできるはずです」
「そうか」
 和馬はうなずいた。どうせここで無理に問いつめても、昨夜のやりとりが繰り返されるだけなのだろう。いい加減、無駄な労力と時間を費やすくらいなら、とっとと結果だけ認めて行動に移ったほうがいくらかましだ。
「行くぞ」
 無愛想に促す。春彰は気分を害したふうもなく従った。それではお先にと足を鳥居へむける。
 階段を下りて進路を右に取る足取りには、いささかの乱れもためらいもなかった。三流の腕しか持たぬとはいえ、常人ではとても太刀打ちできぬ殺人犯たる風使いが徘徊する夜の街。そんな場所に足を踏み入れようとしている、その状況にまるであわぬ態度だ。襲われることが前提である囮なのにも関わらず、悠然と歩を進めてゆく。
 100m程の間をおいて和馬も神社を出た。いざという時のことを考えると少々離れすぎているきらいもあるが、いかんせん人通りが少なすぎる。見失う心配がほとんどない反面、あまり和馬が近くにいすぎると高村に警戒させる結果となる。それに囮だとばれてしまっては現れないだけでは済まず、裏をかかれてしまいかねない。


 よく保つもんだ。
 前を歩く春彰の背を眺めながら和馬は舌を巻いていた。何に対してか ―― 春彰の精神力に対してである。
 月は既に天頂近くまで昇り、歩き始めてからもう三時間が過ぎようとしている。その間、二人は一度の休憩もとることなく夜の街を歩き続けていた。春彰のとったという策が功を奏したのか、それとも街の人間がようやっと懲りたのか、ひとりの通行人ともすれ違うことはない。明かりのついた窓から洩れてくる家庭内の雑多な生活音も、どこか控えめで空々しかった。
 そんな夜道を春彰は最初のペースを崩すことなく歩き続けていた。その視線はぴたりと前に据えられて、和馬の方など振りむきもしない。人麻呂神社を出てからただの一度も。
 もしも和馬とはぐれていたら、春彰の命はなくなってしまいかねない。これまで高村に殺されてきた人間達のように、為すすべもなく全身を切り刻まれ、その血 ―― 気を絞りとられてしまうだろう。和馬は高村に気取られぬよう、完全に気配を断っている。もちろん春彰にもその気配はまったく感じられないはずだ。なのに彼は振りむいて、和馬の存在を確認することすらしなかった。はたしてそれは、春彰の和馬に対する信頼の現れなのか、それとも見かけに反して彼が図太いだけなのか。
 どちらにしたところで、春彰の意思力がかなり強いというのは事実だ。
 ……だがまぁ、それにしたって限界があるわな。
 既に街を一通りまわり終え、二週目も半ばに来ている。あまり無理をしても集中が切れて危険だ。
 先を行く春彰が駅前を通りかかった。昨日の昼間、二人が初めて顔を合わせた場所だ。駅員が一人か二人の小さな駅は、とっくに終電も過ぎてひっそりとしたたたずまいを見せている。街灯で照らし出された狭い駐車場の片隅に、自動販売機があった。いくら厚着はしていても、ジャケットを春彰に持って行かれた和馬にとって、熱い缶コーヒーはあらがい難い魅力を備えていた。
 ここらで少し休むか。
 春彰を呼び止めようとする。片手を口の脇にあて、おーいのおの形に口を開けた時、和馬はぴくりと動きを止めた。
 何の前触れも感じさせず、突如なじみの気配が前方に出現する。群れ集う風霊の独特な動き。風の動きを読みとり、干渉できる者のまわりで見られるそれ。今この街で、その気配をまとう存在は二人だけ。一人は人麻呂鏡を奪還すべくやってきた、一流風使いの和馬。そしていま一人は ――
まもれッ!」
 叫びざま、伸ばした右手を横に払った。和馬の意思に応じて100m先の風霊が春彰の全身を包み込む。とっさに春彰も横っ飛びに地を蹴っていた。宙にあるその身体へと、いくつもの風の刃が襲いかかる。
 弾けるような音が続けざまに起こった。春彰が衝撃で跳ね飛ばされる。
「和馬さん!」
 飛ばされた勢いを転がって殺し、春彰は手をついて跳ね起きた。その時にはもう、和馬は走り出している。同じように春彰にほど近い電柱の影から人影が現れ、身をひるがえして駆け去ろうとした。
「逃がすかッ」
 和馬はいっぱいに指を広げた両手を、叩き付けるようにして振り下ろした。その手から放たれた風はあっという間に走る影を追い越す。そして目に見えぬ何かをたぐり寄せるように腕を交差させると、風はその動きのままに反転し正面から影にぶつかっていった。和馬とは比べるべくもない ―― むしろ並みより貧弱な体格の身体は、あっさりと倒され転がされる。
 がらんとした駐車場の真ん中近くまで転がって、ようやく影は身を起こした。アスファルトで擦った頬を忌々しげに押さえる。
 痩身の、まだ若い男だった。背格好も年頃も春彰とあまり変わらないだろう。特筆するほど整っても醜くもない容貌もそう。街を歩けばいくらでもいそうな、ごく平凡な若者だ。
 だが、雰囲気が違う。共に目を見れば判る。彼らがけしてありきたりの人間ではないのだと。そしてその二人の間でもまた、その性質は天と地ほども異なっていた。いや、光と影と評そうか。
 いつも柔らかに微笑み、穏やかな口調で他人を気遣う春彰は、闇色の髪と瞳を持ちながらも、暖かな光だった。そして己の欲望に両目をぎらつかせ、今は和馬達に対する警戒と憎悪、殺気を身にまとった高村は、見る者に暗くいとわしい印象を与える影となる。
 その手に抱え込まれた人麻呂鏡が、寒々しい街灯の光をぎらりと反射した。それは、直径三十pほどの銅鏡だった。長年封印されていたとはとても思えない輝く鏡面を持ち、周囲を雲をかたどったとおぼしき、渦巻状の彫刻が取り巻いている。
 駅を背に立ち上がった高村の退路を断つように、和馬と春彰は分かれて立った。和馬は左に、春彰は右に。それぞれ道路と駐車場の境を塞ぐ形だ。
 緊張のひととき。最初に口を開いたのは高村だった。
「やられたな……囮か。俺はまんまと罠に引っかかったのか」
 春彰を夕べ邪魔した男と認めたのか、口元を歪めて喉の奥で笑う。その表情が妙にいびつに見えて、和馬はひそかに唾を呑み込んだ。ぐっと下腹に力を入れ、高村を見すえる。
「残念だったな。昨日に引き続き気を手に入れそこねて」
 余裕の表情で言ってやる。
「いざことを起こすまで風を使えないお前には、目標が誰かなんて肉眼で確認するしかないもんな。もっとも、お前に風霊を目の代わりにするなんて、高等技術が可能かどうかは知らんが」
 あてこする和馬に、高村はぎりっと奥歯を噛みしめた。元々そのプライドの高さ故に人麻呂鏡を盗んだような男だ。己の力を侮辱されて黙っていられるような忍耐力は持ち合わせていない。
「よく言うもんだ」
 地を這うようなかすれ声。
「その俺に、夕べあっさりとやられた男が。秋月家屈指の実力者が聞いて呆れる。しょせんこの鏡には手も足も出ないじゃないか」
 痛いところをつかれ、和馬は一瞬返答につまった。油断していたとはいえ、夕べの自分は確かにおくれをとっている。しかもその隠形おんぎょう ―― 身を隠す術を見破ることすらできずにいる。しかし、
「お前に負けた訳じゃねェ。俺が負けたのは人麻呂鏡の ―― 人麻呂鏡の中に囚われている風霊の力にだ。お前がやってんのは、たんにでかい力を闇雲に振りまわしてるだけの力技じゃねぇか」
「何を……」
「もしも俺がその鏡を使ったら、もっとずっとうまく使いこなせるさ。ことの善悪を抜きにしても、お前にゃそいつは勿体なさすぎるぜ。さ、おいたはいい加減にしてそいつを寄こしな」
「やかましい! 小手先の技なんか、今の俺には必要ない!!」
 鏡を引き寄せて和馬をにらみすえる。そして前屈みになると、風を操るべく右手を構えた。和馬の方も最初から説得が通じる相手だとは思っていない。応じて体勢を整えた。軽く足を開き、腰は落として重心を安定させる。両手を胸のあたりに上げ、風霊の動きに神経を集中する。

 ばしゅっ

 仕掛けたのは二人ほぼ同時だった。高村のはなった大気の塊を、和馬が作った真空の渦が迎え撃つ。二つの相反する風は互いに打ち消し合い、袋から空気が抜けるような音をたてて消滅した。その一瞬の隙をついて和馬はダッシュする。狙うのは高村の手の内にある人麻呂鏡。高村の命ではない。
「せやッ!」
 気合いと共に右手を振った。開かれた五指から五つの小さなカマイタチが生み出される。各々の指に異なる微妙なひねりを加えたそれは、大きく散開して広がった。上下左右、バラバラな動きで高村へと襲いかかる。
 小さいぶん威力は低いが素早い動きをするカマイタチを、高村は必死にかわした。二つを風で潰し、ひとつは身体を動かして避ける。しかし残りの刃は避けきれず、ふくらはぎと顔をかばった右手を裂かれた。怯んだように高村の動きが鈍る。和馬は一気に距離を詰めようとした。
 と、いつの間に近づいていたのか、横合いから春彰が高村へと突っかかった。低い姿勢から飛びつくようにして鏡に手を伸ばす。これには正直言って和馬も虚をつかれた。まさか風使い同士の争いの中に、何の防御能力も持たない者が割り込んでくるとは。ほとんど自殺行為に等しい。ちょっと狙いを外した風刃のひとつだけで、あっさりと命を失いかねないというのに。
「触るなァッ!」
 突然現れた意外な方向からの攻撃に、高村はとっさに風を放つことができなかった。代わりに出たのは足。負傷をものともしない膝蹴りが叩き込まれる。それを腕で受けた春彰は、痛みに呻いて膝をついた。ちょうど夕べの傷の真上だ。その隙に高村はまたも二人から距離をとる。和馬は舌打ちすると、腕を押さえて立ち上がった春彰を怒鳴った。
「お前の出番は終わったんだ。危ねぇからおとなしくひっこんでろ!」
 動きの妨げとなるジャケットを脱ぎ捨て、髪を束ねた春彰は、きっぱりと首を振った。
「嫌です」
「嫌だって、お前、死ぬぞ」
 あまりにあっさりとした言い様に、怒りよりも呆れの方が先に立つ。が、かけられた言葉を春彰はきれいに黙殺した。顔を上げて視線をむけた方向にいるのは、人麻呂鏡を手にした高村。
「その鏡を、お渡しいただけませんか?」
 つい今しがたそれを奪おうとし、蹴りを入れられたばかりとはとても思えぬ声音。気負いもなければ、意識して感情を抑えているのでもない。穏やかで、ただ言葉通りのものを含んだ口調。
「渡せ、だって?」
 場違いとさえ言えるそれには、高村も意表をつかれたようだった。どこかきょとんとした表情で、言われたことを繰り返す。春彰は軽く頷いた。
「あなたの鏡の使い方は間違っています。その鏡は囚われた風霊の力を際限なく引き出してしまう。そんな使い方をし ―― 」
 ビキッっという音と共に、春彰のつま先でアスファルトに亀裂が入った。飛び散った石の破片がパラパラと靴やスラックスに当たる。
「 ―― ていては、風霊は力を吸い尽くされて消滅してしまいます」
 春彰の言葉には一瞬の停滞もなかった。足元の亀裂にも、目もくれようとしない。高村は振った右手を引き寄せると、再びカマイタチを生み出した。風の刃は春彰に届く前に、頭上から吹き下ろしてきた風壁によって阻まれる。その余波が春彰の髪をなびかせた。しかし春彰は軽く目を細めただけで話し続ける。
「あなたは風使いの一人でしょう? 和馬さんと同じ、風霊を友として扱う者達の。それなのに風霊を死に追いやっても平気だとおっしゃるんですか? それも何の罪もない他人を生贄にしてまで」
 その声に宿っているのは、昨夜和馬に聞かせたものと同じ、ただ哀しみだけだ。
 ……もしかしてこいつ、恐怖心ってものがないんじゃねぇか。
 いつでも春彰を護れるよう身構えつつ、和馬はそんなことを思った。よく考えてみると肌が粟立つような思いつきだ。
 高村は和馬を見て邪魔そうに鼻を鳴らした。そして春彰の方へと再び目を移す。その表情にはあからさまに蔑みの色があった。常人にはない特殊な能力のある者が、往々にして持つ奢りの意識から成るそれ。
「なんで俺がそんなことを気にしなきゃならない」
「何故って、彼らは ―― 鏡の中の風霊や、あなたが手に掛けてきた方々は、本来ならあなたと何の関係も持っていないではありませんか。恨んでいる訳でも、疎ましく思っている訳でもない。そんな相手をあなたの利己的な勝手でどうこうなさるなんて、迷惑でしょう? 気の毒でしょう?」
 高村は鼻で笑った。
「何の関係もなければこそ! 見も知らぬ女の五人や十人、どうなろうと知ったことじゃない。風霊も同じさ。たかが道具に過ぎない精霊ごとき、同情したところでどうなる。どっちもむしろ、俺のために役立てることを感謝して欲しいぐらいだね」
 己が手に掛かったことを喜べと言うのだ。人麻呂鏡の贄となり、ひいては彼が行使できる力を増す役に立ったことを。
「そんな……」
 春彰がかぶりを振る。
「それ程までに力を求めて何になると言うのです。あなたがそうまでして人麻呂鏡の封印を解いたとしても、それは所詮借り物の力に過ぎません。そんなものを振りまわしたところで、秋月家はあなたを認めてなど下さいません!」
「……借り物?」
 高村は視線を伏せるとくっと唇の両端を上げた。挑むように上げられた両目は、自信に満ちて輝く。
 高村を中心に風が音をたてて渦巻いた。砂利や空き缶、果てはガラスでできた空き瓶までも巻き込んで、駐車場をつむじ風が席巻する。
 春彰と和馬は両手で風や飛んでくる物から身を守った。特に細身の春彰は、強風にあおられてふらつく。そんな二人を見て高村はおかしそうに笑った。
「力は力だ。たとえ源が何であろうと、今この瞬間に俺が強いことに変わりはない」
 春彰の周囲で数ヶ所アスファルトがはぜ割れた。その破片は風に乗って春彰へと叩き付けられる。むき出しの手や顔にたちまち血が滲んだ。風の冷たさが痛みに拍車をかける。
 嬲るかのようなそのやり様に、和馬はぐっと唇をひき結んだ。何の能力も持たない春彰には、高村の仕掛けてくることに抵抗するすべなどないのだ。自分が守ってやろうにも、この強風が邪魔でうまく風を操れない。下手をすれば、作った防壁が逆に春彰の方をはじき飛ばしかねなかった。
 ……となれば、多少狙いが狂っても大丈夫なように。
 和馬はぐるりと向きを変えると、思いっきり右手を横に薙いだ。案の定、目標をわずかに逸れてしまったカマイタチは、高村の髪を数本断ち切ったに留まる。びゅおぅと一際強く吹いて、ぱたりと風がやんだ。
「そんぐらいにしとけや」
 ぱっと和馬を振りむいた高村と、息をついて両手を下ろした春彰の両方にむけて言う。高村にはもうそれ以上そいつに構う必要もあるまいと、春彰へはそれ以上そいつに何か言っても無駄だろう、と。
「和馬さん!」
 再び高村に対峙した和馬に、春彰は制止の声を上げた。だが和馬はちらりと視線を投げただけでそれを無視する。
「下がってろ」
 素っ気なく言い捨てる。言外に足手まといだと匂わせながら。春彰は辛そうに顔を歪めて沈黙した。二人の間に強引に割って入れるだけの力の持ち合わせはない。彼にできるのはただ黙って傍観していることだけだ。
 立ち尽くす春彰の前で、今度は和馬が先手をとった。弾幕を張る要領で、高村の周囲に多数のカマイタチを放つ。普通のカマイタチを刀にたとえれば、せいぜいカッターナイフ程度の威力しか持たない小さなものだ。が、それでも飛び回るカッターの群の中に、とっさに飛び込める人間はそういない。退路を断たれた高村目がけて本命のカマイタチを放つ。
 小さく鋭い、しかし巧みに手加減された風刃。 それは和馬にとってもまさに会心の一撃だった。放つタイミング、角度、速さに力の入れ具合。どれもが完璧に決まった。刃は鏡を持つ高村の手の甲を傷つけ、人麻呂鏡を地面へと取り落とさせる ―― はずであった。
 まるで糸でつないだかのように、まっすぐ襲いかかるそれに、避けられないと直感した高村はとっさに手首を返していた。和馬の風は人麻呂鏡のなめらかな鏡面へとぶつかってゆく。そして、鏡はそのままカマイタチを呑み込んだ。
「なッ!?」
 その様を目の当たりにして和馬は絶句した。人麻呂鏡がカマイタチを ―― 風霊を取り込んだ!? そんな……鏡面に触れた風霊を吸収してしまえるほどまで、封印の無効化は進んでしまっているのか!
 これは高村の方も意外だったらしい。目を見張って手元を見る。新たな『力』を得てぼぅと光を放つ人麻呂鏡に、ニヤリと口元を歪める。
「……こりゃぁいい。わざわざ贄を探す手間が省けるじゃないか」
 言って、それまで風を操るために空けていた右手を人麻呂鏡に添える。そして盾にするように身体の前で構えた。これから和馬が放つ攻撃 ―― それに宿る風霊を、その鏡面で受けようというのだ。受け止められた風霊はそのまま鏡の内へと取り込まれる。そしてその封印を無効化するべく、内圧を増してゆく。
「く……」
 迂闊に手が出せなくなってしまった。下手な攻撃を仕掛ければ、もうこの場で人麻呂鏡の封印が解けてしまいかねない。
 くそっ、一体どうしろっていうんだ!
 心中で毒づく。風を使う訳にゆかぬからと言って、身ひとつでつっこんでいってはまず勝ち目がない。高村の腕のひと振りで、首が宙に舞ってしまう。
 しかしまた、ここで再び高村を取り逃がしてしまっては、高村は自らの力で風霊を集めて鏡の中へ注ぎ込むだろう。
 つまりは今、この場で無事人麻呂鏡を取り戻さなければ、どう転んだところで結果は同じ。最悪の事態となってしまう。
 せめて直接組み付くことができたなら。
 思う。接近戦に持ち込めばむこうも風は使えなくなる。単純な肉弾戦ならば、体格からいってこちらが断然有利だ。
 が、今の状態から高村の風を封じる間合いまで接近するのは、ほとんど不可能だった、高村の方は当然警戒しているだろう。いかに素早く動いたとしても、高村が鏡から手を離して攻撃に入るには充分な程の距離が二人の間にはある。さっき春彰が高村に触れられたのは、高村が和馬に注意を向けていたからであり、また一般人である春彰など、高村の眼中には入っていなかったが為の僥倖だったのだ。
 風を高村にぶつければ人麻呂鏡に吸収される。それだけは絶対に避けなければならなかった。ならば……
 和馬はぺろりと唇を舐めた。両手を腰の両側で構える。掌を上に五指を開いて軽く曲げ、手首をいっぱいに反らせる。力を溜めるようにわずかに身を沈め……すくい上げる形で両腕を一気に振り上げた。
「はぁぁぁっ」
 周囲十数mの空気が、ぶわっと和馬に引き寄せられた。大気の流れは後から押されるように、前からひっぱられるように、絡み合いながら和馬の頭上へと立ち昇ってゆく。
「ふんっ」
 気合いと共に両手を開くと風の柱もまた二つに分かれた。両手を身体の両脇へと振り下ろし、そしてその勢いを殺さぬまま、弧を描くようにして高村目がけて振る。
 二つの風の塊は、磁石に吸い寄せられる鉄のように、和馬の腕の動きを忠実に追った。いったん地面へとぶつかった風は、駐車場の隅に吹き寄せられた砂利や、さっきできたアスファルトの欠片などをその内に巻き込み、反転して高村へと突進する。
 高村は笑いながら風の一方へ鏡を向けた。かなり巨大な風霊の集団だ。もしかしたらこれが決定打となるかもしれない。もう片方を防ぐべく右手をむけながら、高村は隠そうともせずあざ笑っていた。秋月の一流風使いが聞いて呆れる。にっちもさっちもいかなくなって、ヤケを起こしやがった。
 だが、笑みを浮かべたのは和馬も同様だった。つきだした手で拳を握る。
「これで……どうだッ!」
 バッと勢いをつけて拳を開く。
 と、今しも人麻呂鏡に触れようとしていた風霊の塊が、突如としてかき消えた。……いや、消えたのではなかった。渦巻きながら突き進む風を形成していた風霊が解放され、バラバラに飛び去ったのだ。その動きがあまりにも予想外かつ迅速だったので、一瞬状況が把握できず、あたかも消滅してしまったかのように錯覚をする。
 思わず目を見張った高村に砂の雨が降り注いだ。風霊の力から離れた塵芥が、慣性と重力に従って高村を襲う。
「うァッ!?」
 大きく見開いた目に大量の砂が飛び込んだ。高村は悲鳴をあげて顔面を覆う。
 俺の位置が判らなけりゃ、近づくのを防ぎようもあるまい。
 体格の割に音をたてない、しかし素早い動きで和馬は高村に接近した。もちろん一直線に近づくような馬鹿な真似はしない。気配を断ちながら大きくまわりこみ、右斜め後ろから近づいていく。
「おのれェッ!」
 残るはあと数m。一気に飛びつき組み伏せようと膝を曲げた瞬間、高村が吼えた。必死に目を擦っていた手を離し、拳を握って全身に力を込める。
 刹那、高村を中心に大気が爆裂した。大小様々な風の刃が、四方八方へと無茶苦茶に繰り出される。
 高村の足元でアスファルトが弾けた。亀裂が蜘蛛の巣状に広がり、破片がめくれ上がる。
「ぐッ!」
 気配を殺し、息を潜めていた和馬にとっさの防護壁など張れようはずもない。カマイタチのいくつかを、もろにその身で受けることとなった、さいわいどれもさほど強力なものではなかったが、それでも額から眉にかけて、身体をかばった左の前腕に、右足の太股に、ざっくりと裂傷を負う。
 反射的に傷を押さえて身を伏せた。体勢を低くした方がまだ風を避けられる。見れば春彰も同じように身を守っていた。こちらはどうにか無傷なようだ。
 頭に巻いていた包帯が、断ち切られて垂れ下がってくる。頭は小さな傷でも出血が多い。ひらひらと揺れる切れ端は既に赤く染まりつつあった。
 悪あがきしやがって……っ
 視界の邪魔になるそれを痛みも無視してむしり取る。はっきり言って和馬はキレた。役立たずになった包帯をその場に投げ捨て大声で怒鳴る。
「いい加減にしやがれェッ!」
 元来、そう気が長い方ではない。短気と言うほどでもないが、昨日からおくれはとるわ、馬鹿にはされるわで不愉快続きだったところへ持ってきて、この往生際の悪さだ。いい加減腹のひとつも立つ。
 がばっと勢いよく身体を起こし、片膝をつく。そして怒声に反応して振りむいた高村へと、思い切り右手を薙いだ。
「観念しろ!」
「か、和馬さん!?」
 いきなり無謀な行動に走った和馬に、春彰が驚きとも悲鳴ともつかぬ声を上げた。いかに目が見えぬ状態とはいえ、高村も風使いの一人。風霊の気配くらい造作なく感じ取れ、鏡をむけられるはずだ。
 大きくはないが鋭いカマイタチは、一直線に高村目がけてはしる。
 ここまで来て……!
 春彰が歯噛みする。
  ―― が、和馬は怒りのあまり理性を失った訳ではなかった。地面すれすれをゆく刃は冷静に計算された軌跡をたどっている。地面が邪魔をし、とっさに人麻呂鏡をむけるには低すぎるコースだ。
 高村の集中を乱し、この出鱈目な防御を崩させるのがその目的。狙いは高村の腕ではなく足首だ。
 しかし……その目論見は外されてしまった。意図されたのではない、ほんの偶然によって。
 和馬の風刃が高村の足元まで迫った時、文字通り盲滅法に放たれていたカマイタチのひとつがそれを掠めたのだ。そのことによって和馬のカマイタチは目標を逸れ、アスファルトに浅い筋を刻んだにとどまる。そして ――
 もう一つのカマイタチは、どういう具合でか大きく弾かれた形になった。ぶつかったことにより威力をがれながらも、勢いよく真上へと跳ね上がる。
 そこには、前屈みになった高村の、首があった。

 ひゅぅっ

 ぱくりと口を開けた傷から、空気の抜ける甲高い音が洩れた。
 おや、といぶかしむ様な表情で高村は喉元に手をやる。息を吸っても口腔内を呼気が移動しないのだ。それでいて肺に空気は入ってくる。喉のあたりがやけに冷たい。
 指が傷口に触れた。その瞬間、収縮していた血管が刺激によって緊張を緩める。
 鮮やかな深紅の飛沫が一瞬、街灯が照らす薄明かりの中で美しく映えた。
 ようやく砂の取れた目が、大きく見開かれた。両手と身体の前面を染める生温かい液体を驚いたように見下ろす。
 何かを言おうとした口から血の塊が吐き出された。
 高村は崩れるようにその場に膝をついた。その手から人麻呂鏡が取り落とされる。金属製の鏡は割れもせず、騒々しい音をたてて転がった。
 震える手で拾おうとしたが果たせず、高村は鏡の上に倒れ込んだ。それでもまさぐるように手を動かし、人麻呂鏡を引き寄せる。
「……わた……す、ものか……これは俺……の…………ちから…………」
 喉の血がごぼごぼと泡立つ。甘く金臭い濃密な血臭が高村の鼻腔を塞いだ。
 眼球がはみ出る程に目を剥き、血塗れの歯を食い縛るその表情は、この上なく凄惨で醜悪であった。こめかみや首に筋を浮き立たせ、なんとか身体を起こそうと足掻く。が脈打って流れ出る血潮が、肉体から力と体温を奪い去ってゆく。
 和馬と春彰は身動きもできずそれを見ていた。カマイタチの動きに思わず立ち上がった和馬も、ただ傍観しているしかなかった春彰も、まるで棒を呑んだかのように凍り付いている。
「お……れ……の……」
 どれほどの時が過ぎただろうか。
 弱々しく動いていた高村の動きが止まった。虚空を睨み付けていた瞳が輝きを失い、どんよりと濁った硝子玉と化す。
 それでも、二人はしばらく動くことができなかった。
 本来ならば、高村が抵抗できぬ傷を負った時点ですぐさま駆け寄り、しかるべき手当てを行うべきであったのだろう。だが、あくまで人麻呂鏡に ―― 力に執着する高村の鬼気迫る姿に、二人は完全に気を呑まれてしまっていたのだ。
「……何故」
 ややあって、春彰がぽつんと呟いた。ゆっくりと立ち上がり高村を見下ろす。その声には深い哀しみが満ちていた。
「何故そんなにまで力を求めるのです。大切なのはどれだけの力があるのかではなく、力をどのように使うかではないのですか? ……力が足りぬというのならば、技術を磨けばよろしいではありませんか。少なくとも彼には、技術を役立てられるだけの力はあったのに……」
 眉を寄せてうつむく。
 そこに憎しみや、自業自得と蔑む響きはなかった。全身には高村によって負わされた傷が幾つも刻まれ、顔や手にはまだ血の滲む痕が痛々しい。それにも関わらず、彼が高村に対してむけた感情は、ただ痛ましさだけであった。
 和馬は視線を巡らせて春彰を見た。そして高村の遺体へと目を戻し ―― もう一度春彰を見る。
  ―― それは建前だ。
  ―― 努力をしてもどうにもならない者もいる。
  ―― しょせん門外漢であるお前には、どうこう言う資格などない。
 そんな言葉が心の中を駆けめぐる。
 しかし、和馬が口にしたのはたった一言であった。
「……そうだな」
 ぶっきらぼうな、しかし心のこもった言葉。ふと春彰は冬らしからぬ暖かな風が頬を撫でるのを感じた。顔を上げるまでもなく、それが和馬の方から流れてきたものだと判る。
「帰ろう」
「そうですね」
 うなずく。軽く目を見交わして、和馬は高村のもとへと足を踏み出した。アスファルトに広がる血溜まりを避け、地面に膝をつく。そして高村の胸の内にがっちりと抱え込まれた人麻呂鏡へと手を伸ばした。
 が、そこで和馬は愕然として動きを止めた。
「な……に……ッ」
 開かれた口から切れ切れの叫びが洩れる。
「どうかなさったんですか?」
 不審に思った春彰が歩み寄ってきた。和馬の肩越しに覗き込む。春彰は息を呑んで身を乗り出した。
「こ……れはッ!?」
 頬から血の気が引いた。
 人麻呂鏡の表面が光を放っていた。見るのも禍々しい、どす黒く赤い色を。
 強く、弱く、光は脈打つかのようにその明るさを変え、鏡の中で渦を巻いている。その動きは二人の目に、まるでもがいているかのように映った。鏡の外に出ることを望み、身をよじっているかのように。
「しまった! 高村さんの……ッ」
 人麻呂鏡は血にまみれていた。最後の最後まで手放そうとしなかった、高村の流した血潮に。
 血は ―― 生命の源。体内を巡る『気』を色濃く溶かしこんだ液体。
 風使いである高村の気は、常人のそれよりもはるかに大きく、力を持っている。しかも和馬や秋月家に対する敵意によって、それがさらに増幅されていた。
「春彰ッ!」
 鏡の放つ光が一際強くなった瞬間、和馬は振りむきざまに春彰を抱え込んだ。体重と勢いにものを言わせてアスファルトに無理矢理押し倒す。ほぼ同時にあたりを突風が吹き荒れた。そのすさまじさはこれまで高村が放ってきたものの比ではない。
 発生源は、言うまでもなく人麻呂鏡だった。風のあまりの強さに、背をむけて身を伏せているのにも関わらず、満足に目も開けられない。
 呼吸すら苦しい嵐の中で、和馬は必死になって自分の頭と春彰の身体を庇っていた。その背中や手に何か ―― おそらくは石や空き瓶の類であろう、かなり重い物が容赦なく衝突する。食い縛った歯の間から呻きが洩れた。春彰がびくりと身を強張らせる。和馬が風よけになってくれているおかげで、春彰の方にはまだ多少の余裕があった。地面に押さえつけられて自由にならない身体をよじる。
「和馬、さんッ!」
挿絵6  ごうごうと鳴る風の音に負けぬよう大声で叫ぶ。
「離して下さいッ。私なら大丈夫ですから!」
 手を自分と和馬の間にねじこんで、なんとか引き離そうとする。
 和馬は耳を貸さなかった。大丈夫でなどあるはずがない。自分でさえ身を低くしてもなお、気を抜くと身体ごと持っていかれそうになるのだ。こんな軽そうな奴を放り出しなどしたら、どこぞに叩き付けられて大怪我をするのは目に見えている。
「やかましい。大人しくしてろ」
 唸るように言った。まわした手に一層の力を込め、覆い被さる。
 ですが、と反論してくるのを無視していると、ふっと身体に当たる風が勢いを弱めた。そして代わりにに圧倒的なまでの威圧感プレッシャーがぶつかってくる。
 和馬は頭を庇っていた手を春彰の横の地面についた。小刻みに震える手が拳を作る。干上がって貼りついた喉がごくりと動いた。
 ゆっくりと、緩慢な動きで身体を起こした。覚悟を決めて慎重に振り返る。弱まったとはいうものの、まだかなりの強さを持った風が顔面に吹きつけてきた。
 深紅の光が、鏡の中から溢れ出している。
 本来ならば実体など持たないはずの光が、揺らめきながら何かの姿を形造ってゆく。
 水を司るのは竜蛇、地を司るのは獅子、火を司るのは猿。では風を司るのは ――
「鳥……!」
 肘をついて半身を起こした春彰が呆然とつぶやいた。

 それは、猛々しく巨大な、一羽の猛禽の姿であった。



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