まじわりのことわり  骨董品店 日月堂 第五話
 ― Makoto.Kanzaki Original Novel ―
(2001/01/07 18:30)
神崎 真


 時刻はのどかな昼日中。
 灼けつくようだった真夏の日差しも徐々に厳しさをゆるめ、木陰でのんびりと時を過ごすのも心地よいと感じるような、そんな季節である。
 私立西野学園高等部。
 敷地の一角。校舎の影となり、あまり生徒達の目に止まることのないあたりで、弁当を囲む数人のグループがいた。数本の木が心地よい陰を提供する中で、思い思いに腰を下ろしている。全員が男子生徒だが、ひとりだけひどく髪が長い。
 わいわいと下らないことをしゃべっている様は、ごく普通の昼時に見えた。
 が ――


「お前さぁ、それ自分で作ってる訳?」
 友弘が、そう言いながら、晴明の豪華な弁当箱をのぞきこんだ。
「うん。だいたいね」
 晴明はあっさりとうなずく。そしてきんぴらごぼうをつまみ上げ、口に入れた。
「よくやるよ」
 パック牛乳を片手に総菜パンを囓っていた友弘は、思わずひとつため息をつく。
 別に特別高価な食材が使われている訳ではない。彩り鮮やかに、盛り方や見た目を派手に作っているのでもない。だが、一介の高校生が自作した弁当で、毎日おかずが五品目を越え、しかもけして冷凍食品やパックの総菜など、出来合いを利用することもないというのだから、これはもうため息をつく以外にどうしろというのだ。
「ああでも、たまにはみんなが作って下さることもあるよ」
「……みんなだ?」
 胡散臭そうに問い返す。晴明は一人暮らしだったはずだ。少なくとも、彼の家に『人間』は晴明しか存在しない。案の定、彼はにっこりと笑った。
「そう、皆さまが」
 そう答えて。つと空を見上げる。
 つられて上を見た一同は、さっきから意識の外に追い出していたモノを目に入れてしまい、うろたえて顔を伏せた。そうして視線を低くすれば、今度は嫌でも晴明の背後にいる『そいつ』を間近にとらえてしまう。
「あ、あのさ……あんま言いたくないけど、誰かに見られたらどうするんだ、それ……」
 一也がおずおずと箸で指した。と、閉じられていた三つ目がぱちりと開き、箸先を追って持ち主を見る。慌てて箸を引っ込めた。
 晴明は、柔らかな草に足を伸ばして座っている。そしてその背後には、大型犬に似た生き物が、背もたれのような形でのったりと身を伏せていた。組んだ前足に乗せた顎から、彼らの親指ほどもあるような牙がずらりとのぞいている。
 晴明が由良ゆらと呼んでいる化け物だ。
 はっきり言って、怖い。そんじょそこらの猛犬など足元にも及ばない迫力がある。実物を間近にしたことはないが、トラやライオンなどと同席したらこんな感じだろうか。ぼこぼこと盛り上がった筋肉はその持つ怪力をありありと示し、加えて長く鋭い爪の生えた前足は、その形状から人間並みの器用さを備えていると判る。
 しかもこいつは人間の言葉を理解する知能を持ち、なおかつ化け物という点で、その行動の予測がまったくつかないときている。
 なんだってこんな化け物と平気でいっしょにいられるのだ、こいつは。
 それが彼ら ―― 晴明のクラスメートである、中村友弘、黒川一也、河原直人 ―― の共通した意見である。
 そこそこ人当たりも良く、クラス内の評価もそう悪くない晴明が、なぜ昼休みになると誰とも食事を共にせず、いつもどこかへ姿を消していたのか。その理由が『これ』だというのだから。
 そろそろと上目遣いに頭上を見る。
 そこには、張り出した枝の間を飛びまわる仔鬼の姿があった。いったいなにが楽しいのか、きぃきぃと甲高い声で鳴きながら、あちらの枝こちらの枝ととりついては、身体を揺らしたり松ぼっくりをちぎったりしている。時折落ちてくる葉や虫などから、みなそれぞれに弁当をかばった。
「いちおう人に見られないように、ここまで来てるんだけどね」
 慣れているのか、仔鬼がそこだけは避けているのか。晴明の弁当はさほど被害をこうむっていない。彼はのどかに咀嚼そしゃくし、飲み込んでから先刻の問いに答えた。
「それに、割と見間違いで片付けられる方って多いんだよ。こんなものはいるはずがないって。自分で自分が見たものを認めようとされないんだ。……不思議なことに」
 ぽつりと付け加えた。そうして傍らにある、由良の頭を見下ろす。
「ちゃんと、ここにいらっしゃいますのにね」
 三つある真円の瞳がその視線を受け止め、物憂げに細められた。が、由良はそれだけでなにも言わず、再び目を閉じる。すり、と頭が太股に寄せられた。晴明は箸を置いて、軽く首筋をなでる。
 彼らはしばらく、箸を止めてその様子を眺めていた。
 晴明の言うことは、不思議でも何でもないことだ。
 そもそもこんな生き物の実在を信じろと言う、その方が無茶なのだ。彼ら三人にしても、実際に目の前にその存在を見せつけられ、こうして幾度も間近に接し、ようやく認められるようになったのだから。
 それでも。時として自分の正気を疑いたくなる。これはもしかして幻覚ではないか。自分達は何らかの手段で彼に担がれているのではないか、と。そんなことをしても、晴明には何の得もないと判ってはいても。


 それぞれ食べ終えた弁当に蓋をすると、手をそろえて合掌した。
「ごちそうさまでした」
 声をそろえて唱和する。
 これは晴明といっしょに食べるようになってからついた習慣だ。
「んじゃ俺、バスケの約束してっから」
 友弘が立ち上がって尻を払う。
「捨てといてくれよ」
 投げられたゴミの入った袋を、一也が受け止める。
「オッケ。つぎ音楽だから、移動遅れんなよ」
「俺のも頼む。図書館行かなきゃならないんだ」
「あ、直人も図書館行くの?」
 晴明が訊いてきた。
「お前もか」
「これ返そうと思って」
 傍らに置いていた本を取り上げる。分厚いハードカバーだ。
「直人も返却だったら、俺が行こうか」
 立ち上がりながら問うた。
「いや、借りに行く方だから。それより貸せよ。返してきてやるから」
「え、いいよ」
「いいから貸せって。それとも続き借りるのか」
「これで最後だけど……」
「じゃ貸せ」
 強引に本を奪い取った。これぐらいやらなければ、こいつは絶対に人に仕事を頼もうとしないのだ。自分の方はと言えば、もう良いというぐらいにまで気をまわすというのに。
 仕方ないので宙に浮いた手に弁当箱を押し込んでやった。
「机ん中つっこんどいてくれ」
「あ、うん」
 困惑したような顔が、ようやくほころぶ。
かがり、私は行きますけど、どうなさいますか?」
 上を向いてそう問いかけた。応じてコウモリのような羽根を羽ばたかせ、仔鬼が舞い降りてくる。晴明は左腕を持ち上げて迎えた。長い爪がシャツの前腕をつかむ。それなりに重さがあるだろうに、その腕は小揺るぎもしなかった。仔鬼の痩せた毛のない顔が、乱杭歯をむき出して笑う。
 と、その身体が忽然と消え失せた。それこそ幻だったかのように。晴明は動ずることなく腕を下ろし、今度は身を起こした四足獣を見やる。
 由良は無言で晴明へとすり寄った。そして巨大な獣もまた、ふっとその姿を消す。晴明は確認するように左手を引き寄せ、視線を落とした。
 細く、白い手首。男のものとしてはいささか華奢なそこには、精緻な細工の腕飾りが巻かれている。大小幾つもの勾玉を、銀の金具でつないだものだ。かなり古いものらしく、時代のついた黒ずんだ銀細工に、翡翠の深い緑が映えている。まるで古代の巫女かなにかの装身具を思わせる作りだ。
 洒落で身につけるにはいささか渋いデザイン。ましてこの晴明が、そんなことに気をまわすとも思えない。いかに私立校の強みで校則がゆるいとはいえ、さすがに目を引くアクセサリーだった。体育の授業時ですらはずさないそれを、直人達もかつては奇異の目で見ていたものだ。
 いま勾玉のうちの幾つかが、内にあやかしを宿して、ぼんやり淡く輝いている。
 よもや、このような意図でつけていたとは思いもしなかった。
「お待たせ。行こうか」
 顔を上げて微笑む。
「あ、ああ……」
 途中まではみな方向が一緒だった。校舎をまわりこんだところで体育館に向かう友弘と別れ、建物内に入りしばらく行ったところで、さらに二手に分かれた。直人は軽く手を振り、本を抱えて図書館に続く渡り廊下へと入る。
 先日借りられてしまっていた本の返却期限は、今日になっていた。はたして借りていった人間は、ちゃんと期限を守って返してくれているだろうか。司書の先生にはお願いしておいたから、よもや次の人間が借りてしまってはいないだろうが……
 そんなことを考えながら歩を進めていた直人は、しばらく話しかけられているのに気がつかなかった。
「河原っ」
 何度目かの呼びかけが、ようやく意識に届く。慌てて振り返った。
「え……あ、と……坂本、だっけ?」
 自信なげに訊くと、ほっとしたようにうなずきが返る。
 そこにいたのは直人と同じクラブ、天文観測同好会に属する同級生だった。もっともクラブとはいっても、週に一度集まってミーティングと称したおしゃべりをする程度の弱小だ。―― ちなみにちゃんとした天文部は他にあったりする。
 そこでも幽霊部員に近い直人の場合、顔を覚えていただけ上出来だった。
「緊急ミーティングでもあるのか」
 問いかける。そんな相手が話しかけてくる理由など、他には思いつかなかった。
 しかし……
「あ、あの、さ」
 坂本はひどく言いにくそうに何度も口ごもった。視線が床や壁など、あらぬ方向を行き来する。
「なんだよ」
 不審に思って水を向ける。
「その……河原って、安倍と仲いいんだよな?」
「はぁ?」
 意外な名前がその口から出て、直人はすっとんきょうな声を上げた。
 この相手から、クラブのこと以外で話しかけられるのも予想外なら、よりにもよってそれが晴明に関わることだなどとは、想像もできなかった。
「な、仲がいいって、そりゃ……」
 とりあえず答えかけて、ふと口ごもる。
 仲がいいという、その言い方にはいささか語弊ごへいがあった。
 いや、けして悪いという訳ではない。だがしかしごく普通の友人関係かというと、それはかなり首を傾げざるを得ないあたりで。
 そもそも、彼らと晴明が付き合うようになったのは、夏休み前にあったある事件がきっかけだった。
 中学以来の友人である、一也の家にあった小さなほこら。ちょっとしたはずみで、その中にあるご神体を壊したのが始まりだった。腐りかけた一本の破魔矢を折ってしまったというただそれだけが、一也と友弘と直人の三人を、下手すれば命をも落としかねないような事態へと陥らせたのである。
 そして、たまたまクラスメートのひとりである晴明がそういったことに詳しいと知り、助けを求め ――
 なんとか事なきを得、彼らは今もこうして無事日常生活を送っていた。
 夏休みの間には、世話になったことや、事件でかかった金銭を返すためもあり、なんとなくずるずると日月堂へ出入りしていた。その流れで新学期が始まってからも、なしくずしに飯を食ったり宿題見せあったりとしている訳なのだが。
 これって仲いいと言えるのかな。
 改めて思い返すと、そう首を傾げてしまう。
 少なくとも晴明の方から見た場合、自分達よりも化け物達との付き合いの方が、よほど親身で楽しげなそれのような気がする。単にこちらの方が声をかけるから付き合ってくれているだけであって、彼の方からは別に自分達などいてもいなくても変わらないというか……
「 ―― から、よろしく頼むよ。な」
 思わず考え込んでしまっていた直人は、反射的にうなずいてから、はっと我に返った。
「あ、おい、ちょっと」
 慌てて何か言おうとするが、坂本はもう背を向けて歩き出していた。足早に遠ざかるその後ろ姿は、まるで断られるのを怖れているようで。
 引き留めようとあげた手が、相手を失い宙を泳いだ。
「しまった……どうしよう……」
 呟いてみても、既にあとの祭りである。
 またも、厄介なことが起こりそうな気配であった。


*  *  *


 まずは、明かりを消した部屋の四隅にひとりずつ分かれて立つ。
 そして最初のひとりが壁に沿って歩き始めるのだ。当然その人間は次の角にたどり着き、二番目の人間に出会う。肩を叩かれた二番目は、やはり同じようにして壁沿いを歩き、三番目の元へとゆく。そして三番目は四番目へ。
 部屋の角は四つ。人間は四人。
 四番目の人間は、自然スタート位置にたどり着く。一番目の人間が最初にいたそこには、誰もいないはずだ。本来ならば。
 だが ――


 話を聞いた晴明は、大きくため息をついた。
「一番簡単な降霊術だね」
 呟く。
「そ、そうなのか?」
 いっしょに横で耳を傾けていた一也が、おそるおそる問い返した。
 その言葉は、一部このクラスの人間にとっては、聞き流しにできない単語である。
 五限と六限の間の休み時間。昼休みに立ち話で時間を食った直人は、結局チャイムぎりぎりで音楽室へと駆け込む羽目になり、授業終了まで晴明と言葉を交わすことができなかった。しかたなく、五時間目が終わって教室へと戻る道すがら、ようやく話を持ちかけたのだが。
「うん。道具も何もいらないし。必要なのは『場』と『人間』だけだから」
「いや、そういう意味じゃなくてだな……」
 話しているのは、天文観測同好会の誰かが聞き込んできたという遊びのことである。
 暗い部屋の四隅にひとりずつが立ち、順番に肩を叩きながら歩いていくと、いつの間にか人数がひとり増えているのだという、まぁ一種の怪談話だ。もともとは雪山で遭難しかけた四人組のパーティが、暗い山小屋の中で眠らぬためにやっていたのだが、夜が明けてからよく考えてみれば、四人ではできるはずのない動きだったとかなんだとか。
 眉唾な話だが、聞いた人間は、一様に試してみるらしい。
 そんなことなど起きるはずはない、と言いながらも、ついつい話の種として。そしてやはり五人目など現れることはなく、笑いのうちに座はお開きとなる。普通ならば。
 ところが、今回は話が違ったのだという。
「降霊術っていうのはやっかいでね。霊 ―― この場合、死者の魂に限らず『実体のないなにものか』と定義した方がいいんだけど ―― を呼び出すっていうのは、案外簡単にできるんだ。ちょっと勘のいい人がいたり、ものの弾みとかあるとね。でも、その呼び出したものを『返す』というのは、ちゃんとした手続きや力が必要なんだよ。だから素人が手を出しちゃいけないんだけど」
「……悪い」
 思わずあやまってしまう。
「別に直人がやったんじゃないんでしょう?」
「ん、まぁ、そうなんだが」
 その通りだ。馬鹿な真似をしたのは、坂本以下天文観測同好会の他のメンバーである。
 先週あったミーティング時。直人はとっとと帰ったのだが、何名かの人間はずるずるとしゃべりながら、遅くまで部室でだべっていたのだそうだ。そしてこの話が出た、と。
 折良く日も落ちており、わざわざカーテンなど引かずとも部屋は暗くできた。残っていた人数もちょうど四人。そこでさっそく試してみたのだという。
 結果的に言えば、成功だったらしい。
 四番目に歩いていた坂本は、暗闇の中で確かに誰かの肩を叩いてしまったのだ。
 一瞬あれ? と思い、そして誰かの悪ふざけだと思った。おいおい誰だよ、戻ってきてるのはなどと言いながら電気をつけ……笑いながらこちらを見ているみなを確認した。
 自分を含めた全員が、ひとりずつ部屋の四隅にいるのを。
「それからなんか変なんだってさ。部室が。んで、その……お前に見てもらえないかって、頼まれちまって」
 ようやく本題にたどり着けて、直人はきまりわるげに晴明を見た。
 晴明は、きょとんとした顔で目をしばたたいていた。
「俺に? どうして」
 問い返す口調は、本当に判っていないそれだ。そんな反応をされると、ますます口が重くなってしまう。
「いやだから、ほら、お前夏休み前にクラスの子コックリさんから助けたろ? なんかあん時の話が微妙に広まってるみたいでさ」
「ああ、それ俺も訊かれたぜ」
 友弘が横から口を挟んだ。
「晴明って髪長いじゃん? それってやっぱり霊感あるからか、とか」
「俺も」
 一也までうなずく。
「そう、なんだ」
 晴明の反応はいささか困惑し ―― 沈んだそれだった。
「晴明?」
 一也がいぶかしげに問いかける。
「どうかしたのか」
「ん……ちょっと、ね。あまりそういう噂は、流れて欲しくないから。俺には何の力もありはしないんだし」
 まして、こんな風にそれを真に受けて相談したがる人間が現れてくるとなると、それは、かなり、困る。
「どうする。断るか?」
 直人が訊いた。
 彼としても、あまりこういう仲立ちはしたくないのだ。夏休み前のあの事件で、こういった出来事には心底懲りている。それが本物であれ偽物であれ、わざわざ関わり合いになりたくなどなかった。
 そもそもなんでわざわざ、自分が晴明に頼まなければならないのだ。それもよく知りもしない相手のために。坂本だって頼み事があるのなら、自分で直接言いに来ればいい。これではまるで、自分が晴明を利用して周囲に貸しを作っているみたいではないか。
 むしろそうした方がと言外にすすめる直人に、しかし晴明はためらいながらも首を振った。
「一応、見に行くだけなら……その現れたという方も気になるしね」
 自分になど何ができるかは判らないが、それでも少しくらいは判ることがあるかもしれない。もしも本当に霊が呼び出され、その場に呪縛されているというのなら、放っておくのも気の毒だから、と。


 天文観測同好会の部室は、がらんとした物寂しいそれだった。旧校舎の三階の端に位置するそこは、ひどく狭く、普通の教室の半分ほどの広さしかない。がたついた古い会議机がひとつと、周りを囲むいくつかの椅子。そしてやはり木造の本棚がひとつ。備品と言えばそれだけだ。もとは物置として使用されていたらしい。だが、特にこれと言った活動もしていない弱小クラブ、たとえこの程度でも部室が存在しているだけましだろう。
 扉はちゃちな数字あわせの鍵で閉ざされていた。ナンバーを知っているのは部員だけ ―― と言うことになってはいるが、順番に試していけば誰にでも開けられる、あってないようなものだ。
 放課後。今日はミーティングの日でもないので、誰も来ることはないというそこに、晴明と直人は坂本と共にやってきていた。ちなみに友弘と一也は、触らぬ神にたたり無し、とそれぞれの部活に行ってしまった。直人もそうしたいのはやまやまだったが、彼の所属部は他でもないここだし、そもそもこの話を仲介した責任というものがある。
「それで、おかしいってどんなふうに?」
 入ってすぐの場所で立ち止まった晴明は、部屋の中を見わたしながら問いかけた。
 前回のミーティングから部室に来ていない直人は、特に心当たりがない。自然坂本の方を見る。二人の視線にさらされて、坂本は口ごもった。
「坂本くん?」
 晴明が首をかしげる。
「わ、わかんないのかよ。お前」
 何度かためらうようにして、ようやく口にしたのはそんな言葉だった。それを聞いた晴明の顔がわずかに曇る。
「ごめん。俺には霊視れいしの力も、破魔はまの能力もないんだよ。だから、ちゃんと説明してくれないかな」
「れい……は……?」
 きょとんとする坂本に、もう一度繰り返す。
「いったい、何がおかしいって」
 まっすぐ目を見て訊いた。
 坂本は、ぐっとつまり、床に視線を落とす。もぞもぞと居心地悪げに身じろぎした。
「声が、聞こえるんだよ」
「どんな」
「だから ―― 」
 落ち着きなく視線がさまよう。直人がしびれを切らした。
「何とかしてほしいんだろ。ちゃんと説明しろよ」
 いささか大きくなった声に、坂本がびくりと身をすくめる。どこか怯えを含んだ仕草だ。
 晴明は一歩近付き、その肩へと静かに手を乗せる。
「もしかして、今も聞こえてるんだ」
 坂本がうなずいた。
 しかし、直人の耳には妙なものなど何も聞こえてはいない。彼ら三人の声と、たてる物音と。それだけだ。そう言おうとする直人を晴明は手を挙げて制す。
「何て言ってるか判る? 判らないなら、どんな響きかでもいい」
「……呼んでる、みたいな」
 肩に置かれた手に勇気づけられたのか。坂本は耳をすまして余人には聞こえていない声を拾おうとした。
「どこにいるのか、とか。寂しいとか……そんな感じで……」
「聞こえるのは君だけなの」
「ああ、そうだよっ」
 いきなり声を荒げる。
「俺だけさ、こんなこと言うのは。おかしいかよ! お前も俺の方がおかしくなってるって言うのかっ?」
 晴明をにらむ目が底光りしていた。握りしめたその拳が小さく震えている。
 いっしょにゲームをやった友人達は、みな口をそろえて彼を否定した。そんなものは聞こえやしない、と。お前ちょっと気にしすぎだ、と失笑しさえする。
 だが、彼の耳にはその声が聞こえているのだ。確かに。
 ……もしもこの部屋に『何か』が存在しているというのなら、それはとても恐ろしいことだった。そんなことなどあって欲しくはない。だが、もしも何もいないというのなら、この『声』は? 何故こんなものが自分にだけ聞こえるのだろう。それともこれはただの幻聴なのだろうか? 俺がひとりでおかしくなっているだけなのだろうか。
「何もないのか? 俺が……狂ってるのか……?」
 絞り出すように呟く。
 得体の知れぬ自分だけに聞こえてくる声と、もしかしたら変調をきたしているのは己の精神の方かもしれぬという予感。その両方で、彼はひどく不安になっているのだ。
「いま調べてみるから、落ち着いて」
 なだめるようにその肩へ触れ、晴明がささやきかける。
「直人。ちょっと彼をお願いできるかな」
「ああ」
 うなずいて、直人は坂本を部屋の隅へとつれていった。
「な、なんだよ」
「邪魔になるから、ちょっと離れてようぜ。な」
 できるだけなんでもないように言いながら、軽く背中を叩いてやる。
 いっぽう晴明は、坂本から離れると部屋の中央へと進んだ。ぐるりと室内を見まわし、ひとつ息をつく。そして左手を持ち上げた。
「すみません。どなたか、何かお判りになりますか?」
 手首を飾る勾玉に、小さく語りかける。
「ええ、そうです……はい……」
 小声とはいえ、狭い部屋の中だ。ひとりでうなずき、なにやら納得している彼の姿を、坂本は気味悪げに眺めた。
「お、おい……あいつ何と話してるんだよ」
「ああ、ちょっとな。いいから気にするなって」
 内心あせりつつ、直人はごまかす。よもや他でもない『化け物』と、などとはとても言えないではないか。
 と、晴明が振り向いた。直人達の方に向かって歩きながら、軽く手を振る。
「ごめん、ちょっとそこを見せてほしいんだけど」
「え、ここか?」
「そう。始まりと終わりの場所を」
 晴明がそう言った途端、坂本は小さく声を上げて飛び退いていた。
 部屋に入ってすぐの右隅。そこは確かにあの夜、一人目が出発し、四人目である彼がたどり着いた場所だった。そして、暗闇の中、正体不明の『何か』と出会ってしまった、その場所。
 顔色が悪くなってきた坂本を、直人は仕方なく部屋の反対側へと連れていく。
 晴明は膝をついて床に手の平を当てていた。じっと眺めているのは、おそらく床ではなく、腕飾りの勾玉の方だ。真剣な表情で、何度かうなずいている。やがてつと立ち上がった。軽く膝を払いこちらへと歩いてくる。
「どうだ。なんか判ったのか?」
「うん……」
 答えは妙に歯切れが悪かった。
「ちょっと訊きたいんだけど、過去の部員の名簿とかってあるのかな」
「はあ?」
 いきなり関係のない質問をされて、直人は思わず眉を寄せた。が、晴明の話の飛びぶりには、彼もだいぶ慣れてきている。とりあえず答えはした。
「あんま昔のは知らないけど、何年分かだったらそこの棚に入ってるぞ」
 指さす。
 木造の本棚にはあらゆる物が乱雑につめこまれていた。整理整頓という言葉はとうの昔にどこかへ置いてきたらしく、下手につつけば全てが雪崩落ちてきそうだ。
「どれ?」
「……さぁ」
 としか答えようがない。
 晴明は、しばらく左手の指先で背表紙をたどっていった。やがてその手がぴたりと止まる。
「これですね」
 腕飾りに語りかける。そしてその一冊だけを器用に抜き取った。古びたバインダーを手に、再び部屋の隅へと向かう。
「い、いったいなんなんだよ……ッ」
 意味不明なその行動に、坂本がまた声を荒げる。何とか落ち着かせようにも、直人自身訳など判ってはいない。そんな二人をよそに、晴明は開いた名簿を床に置いた。そして一歩身を引き、ささやきかける。
「どうぞ。どなたにお会いしたいんですか」
 何もない空間に向けた、相手のいない問いかけ。
 ふわりと。
 室内に風が吹いた。
 窓も扉も閉じている。晴明も、直人も坂本も、空気を動かすほどの身動きはしていない。なのに明らかに不自然な、原因のつかめない、大気の流れが起きている。
 名簿のページが動いた。ほのかな風にあおられて、ぱらぱらと紙がめくられてゆく。
 やがて、止まった見開きを晴明がのぞき込む。細い指が紙面に落ち、並ぶ名前をゆっくりとなぞっていった。
「お、おい、晴明……その、手……」
 直人が震える指でさした。
 制服の、白いシャツ。薄い布地のその袖に、不自然な皺が寄っている。部屋のこちら側から見ていても、はっきりと判るほどに。誰かが。見えない腕が。彼の右手にしがみついている。しがみついて、動かしている。名簿の一点を指し示すために。
「大丈夫。『彼女』は会いたがっておられるだけだから」
 誰に、とは問うまでもない。いままさにそれが告げられようとしているのだから。
 直人はごくりと唾を呑んだ。
「あ、会って、どうするんだよ」
「さぁ」
「さぁって、おま……っ」
 思わず叫びかけて、慌てて口をつぐんだ。下手に大声など出して、この霊 ―― だかなんだか知らないが ―― を刺激してはたまらない。
「それは彼女とその相手の問題だからね。俺がしゃしゃり出ることじゃない。……この方、ですね」
 最後の一言は、見えない相手に向けてだった。
 名簿を閉じて立ち上がる晴明を、直人は複雑な表情で見る。
「下手に会わせたりしたら、その人に何かあるかもしれないじゃないか」
 相手は道理の通らない存在なのだ。もしも探していた人間に引き合わせたことで、そいつに何らかのケガや不幸や ―― あるいは命の危険などが降りかかることになったとしたら、いったいどう責任をとるというのか。
「……それは、その相手次第だよ」
 晴明はわずかに視線を伏せ、そう呟いた。
「『彼ら』はとても純粋な存在で。道理の通らない真似なんて滅多になさらないよ。道理が通らないのは、いつも人間の方なんだから」
 その言葉に、とっさに直人はかえせなかった。
 思い出したのは、数ヶ月前の出来事だ。安らかに眠る土地神の寝所を暴き、面白半分にその微睡まどろみを乱した、自分達の愚かなる振る舞い。
「知ってる? ばけものは、確かに人間を殺すことがある。けれどね、人間はばけものを殺すこともあれば、生み出すこともあるんだ。そして、そういった人間が生み出した妖こそが、一番恐ろしくて……哀れなんだよ」
 この、『彼女』のように。
 一瞬。
 部屋の隅を振り返った晴明の視線の先に、立ち尽くす人影が見えたような気がした。
 ブレザーにえんじ色のネクタイは、この学園の女生徒のもの。うつむいた顔は乱れた長い髪に隠されてよく判らない。だが、首のあたりだけが不自然なほどはっきり目に飛び込んできた。
 白い喉に、どす黒く刻まれた指の跡 ――
 まばたきした時には、もう消えていたけれど。
「多分、あと何年か放っておかれれば、彼女も自然に消えてしまったはずだよ。それを目覚めさせ、呼び出してしまったのは、人間きみたちの仕業だ」
 淡々と晴明が坂本に告げる。
「俺は彼女を浄化することはできない。ここから追い払うのも、封じるのもね。俺ができるのは、二つだけだよ」
「は、え……?」
 うろたえた声を上げる坂本には、ことの次第が全く判っていない。が、晴明は斟酌しんしゃくせず続けた。
「ひとつはこのまま彼女をここに置いておくこと」
 坂本の顔が引きつる。
 彼にもやはり、あの姿は見えていたのだ。しきりに口を動かすが、なかなか言葉が出てこない。
「置いといて、大丈夫なのか」
 代わって訊いた直人に、晴明は小さくかぶりを振った。
「そこまでは判らない。ただ、彼女には探している相手がいる。『彼ら』にとって人間の見え方っていうのは、我々のものと少し違うから……放っておけば、たぶん間違えられる人が出てくる。一番最初は……」
 彼女を呼びだした張本人のひとり。唯一その声を聞くことができた者。
「お、俺……俺が……? そんな、何で……ッ」
 坂本がうろたえた声を上げた。確かに自業自得、と言うにはあまりである。たかが四人で部屋をまわっただけだ。それだけのことで、どうして霊にとり憑かれなどしなければならないのか。しかも自分だけが。
 パニックを起こす坂本を、直人はなんとかなだめようとする。
「もうひとつはなんだよ。何か方法があるんだろ?」
 晴明の物言いは、こんなときひどく厳しいそれになる。いつもの穏やかで、誰のわがままも笑って聞き流すようなそれとは裏腹に、悲しげに、沈んだ声で、それでも厳しく現実を突きつける。
 けれど。
 それでも彼は助けてくれた。自分達を。自身の命さえも蛇神の牙の前にさらして。
 だから、今度だってきっと方法はあるはずだ。
 そう信じて問いかけた直人に、しかし晴明は変わらぬ沈んだ声で答えた。
「だからもうひとつは、彼女を探している相手本人に会わせて差し上げること、だよ」
「本人、に」
 うなずく。
「人違いは確かにまずいけれど、でも当人であれば問題はないだろう? それでその人が祟られようが、取り殺されようが、それは二人の問題だ。なにかがあっても……仕方がない」
 そう。彼女を化け物にしたのは、他でもないその相手なのだから。ならばその化け物の責任をとるのもまた、当の本人の役目だ。それが道理というものだろう。
「けど!」
 思わず叫んでいた。
 それはつまり、坂本の代わりに、その相手を差し出すことに他ならない。そしてその時なにが起こるかしかと判らない以上、それは坂本に己の命と他人のそれを秤にかけろと迫るようなもので。いくらその相手にしてみれば自業自得とはいえ、そんな過酷な選択を他者にしいる権利など、いったい誰が持っているというのか。
「そうだ、あいつらは?」
 ふと閃いた。
「『あいつら』に何とかしてもらえないのか? よそに行ってもらうとか、成仏させるとか……あいつらならできるんじゃないか」
 晴明と行動を共にする、何匹ものばけもの達。彼らであれば、幽霊のひとりやふたり、何とかなるはずだ。なにしろあの蛇神を相手にした時だって、ばっちり一也と友弘を守り抜いてくれたのだから。
 しかし、そう口にした途端、晴明の表情が曇った。名案だと信じて疑わなかった直人は、虚をつかれる。
「それは、できないことだよ」
「え……なんで……」
「彼らには『彼ら』のことわりがある。人間のそれとは大分違うけど、それでもそれは彼らなりに犯すべからざる道理ルールだよ。たとえその意志なくしてであれ、坂本くん達が『彼女』を呼び出してしまった以上、その両者の間に割って入ることは、彼ら妖達にとっては許されないことなんだ」
「け、けど、この間は」
 蛇神によって一也達が襲われた時、彼らは助けてくれたではないか。
「あれが、ぎりぎりだよ。あれはあくまで、蛇神と一也達の間に意志の疎通を持つために、時間を稼いでもらっただけだから。……もしもその結果、蛇神がみんなを許さないと……どうしても殺すとおっしゃったなら、もうそれ以上の介入はできなかったんだ」
 それは、厳然たる彼らの掟だった。彼らが『彼ら』たるうえの、不文律といってもいい。
「もしも俺が、ちゃんとした陰陽師で、彼らが俺の式神だというのならまた話は違う。彼らと俺の間に契約による使役関係があれば、彼らは『彼ら』のルールではなく、俺の……人間のそれにそって動くことができる。でも、違うから。彼らは、違うから……」
 視線を床に落とす。
 由良達を筆頭とする妖達が晴明の元にいるのは、ただ彼らがそうしたいと思っているからにすぎない。こうして目に見えぬ存在と言葉を交わすのに、協力してくれているのもまた同じだ。
 晴明が彼らに力を借りる時、そこに命を下す言葉はない。彼が口にするのはいつも、依頼の言葉だ。もしも不都合でないのならば、わずかばかり協力してはくれまいか、と。たとえそれで相手が拒否したとしても、それを腹立たしく思う権利など晴明にはない。晴明の言葉を耳にする、そのこと自体が既に、彼らの好意によるものなのだから。
 そう、晴明と妖達の間に存在しているのは、ただただ好意によって生じた信頼関係に過ぎないのだから ――
 晴明が何を言っているのか、正直な話、直人には良く理解できなかった。どだい化け物達の事情など、判れという方が無茶な話である。
 ただ、彼らに何とかしてもらうのが、できない相談だというのはのみこめた。
 そして、問いかけの言葉が喉元までせり上がってくる。
 化け物同志は手出しをすることができないというのなら、それが彼らの道理だというのなら。
 ならばお前は?
 と。
 人間であるお前は、なにもできないのか。なにも、しようとはしないのか、と。
 目の前でひとりの人間が窮地に立たされているいまこの時に、お前は化け物達の味方をして、何もせずただ傍観しようというのか。
 だが ―― 直人は気がついてしまった。
 身体の脇に垂らされた、血の気が引くほどに固く握られた拳。
 他でもない晴明自身こそが、彼らの間に介入できぬ術力ちからを持たないことを、誰よりも深く悲しんでいるのだ、と ――
「まだ、しばらく猶予はあると思う」
 ややあって、晴明はそう続けた。
「坂本くんさえ気をしっかり持っておけば……もともとそんなに強い力を持っておられる方じゃないし。多少夢見とか体調には影響が出てくるだろうけど、でも……ッ」
 が、その言葉は途中で無理矢理断ち切られた。
「じょ、冗談じゃねぇッ。何とかしろよ!」
 突然坂本が晴明へと掴みかかったのだ。
 とっさのことに避けられなかった晴明は、ものすごい力で襟首を締め上げられ、苦しそうに顔を歪めた。
「お前霊能力者なんだろ。訳判んねぇこと言ってないで、さっさとあんなもん消しちまえ! その為に呼んだんだぞッ!」
「ちが……さか、も……」
 切れ切れに呟く声など、頭に血が昇った耳には入っていない。
「ちょと待て、落ちつけって!」
 直人は慌てて間に割り込んだ。
「晴明は見てみるだけってっただろう。消すとか何とかできるなんて、一言も言ってないだろうが!」
 坂本の腕を掴み、怒鳴りつける。
 そう、晴明はあくまで『見てみるだけ』だと、『何も判らないかもしれない』と、最初にちゃんと断っている。そう……彼はできないことを無責任に請け負ったりなど、けしてしない。自分達の時もそうだった。もしも相手が説得に応じてくれなければ、その時は見殺しにすると、きっぱり宣言していた。
「うるせえ!」
 わめき返す坂本の目は、完全に血走っていた。無理矢理もぎ放した腕を力任せに奪い返し、再び掴みかかる。喉をかばった晴明の袖が、鈍い音をたてて裂けた。露わになった肌に、坂本の爪がぎりぎりと食い込んでゆく。その激昂げっこうぶりは、それこそ何かに取り憑かれたかのようで。
 もしかしてこれも『彼女』とやらの影響なのか。
 そんなことがちらと脳裏を掠めたが、とにかく坂本をどうにかする方が先決である。
 何とか両者を引き離そうと、懸命に力を込めた。と ――

 ばちっ

 高い炸裂音があたりに響いた。
 指先に鋭い痛みを覚え思わず身を退く。一瞬目の前に火花が散ったような気さえした。とっさに押さえた指が、まだかすかにしびれている。
 坂本の方はもっとひどかったらしい。突き飛ばされるように晴明から離れた彼は、上体を折って両手の痛みに震えている。
 晴明は喉を押さえて咳き込んでいた。その左手には、何本も引っ掻き傷ができている。手首の飾りが両者の間の床に落ちていた。どうやら引きちぎられてしまったらしい。
 勾玉の幾つかが揺らめくような光を放っている。今の衝撃はその内に宿るもの達の仕業なのか。
「大丈夫か?」
 一瞬どちらに声をかけるか迷ったが、とりあえず晴明の方に近づいた。肩を支え、背中をさすってやる。
「だ、だいじょう、ぶ」
 咳の合間にそう答えるが、様子を見る限りあまりあてにならない返事だった。爪が当たったのか、喉元に二三箇所血がにじんでいる。さらに左手を見て、直人は思わず眉を寄せた。肘から手首にかけて何本も爪痕が刻まれ、血がしたたり始めている。相当に深いようだ。
「なぁ、もしかあいつ、取り憑かれてんのか」
 まだ背を丸めている坂本には聞こえぬよう、小さな声で問いかける。え、と晴明が顔を上げた。
「ちょっとまともじゃない切れ方じゃないか。だから、憑かれた影響かなって」
 仮にも向こうから頼ってきておいて、いきなり逆ギレするとは何事か。しかも晴明に相談するに際して金品のやりとりでもあったというのならともかく、ほとんど見知らぬに等しい相手に、一方的な話を持ち込んできたのは坂本の方なのだ。困ったことがあったから、ちょっと様子を見てくれと言ったあげく、状況を説明した途端、問答無用で何とかしろとは、ずいぶん乱暴な話だ。
 晴明の物言いが厳しかったことは認めるが、それを考慮に入れても、坂本の態度は無礼きわまる。いくら腹立ちを覚えたからといって、いきなり首を絞めるなどやりすぎではないか。
 だから、もしやこれも道理の ―― 人間こちら側の道理の ―― 通らない『あちら』側の影響なのか、と思ったのだが。
 晴明はしばらくまじまじと直人の顔を見ていたが、やがてひとつ息をついて目を落とした。そして、かぶりを振る。
「彼女はまだ、ちゃんとあそこにいるよ」
 呟いた。
 これは、確かに坂本自身の所行なのだ、と。そして、
「……頼むから」
 下を向いたままで続ける。消え入りそうな、小さな声で。
「悪いことは、みんな『彼ら』のせいだなんて、思わないで」
「 ―― っ」
 カッと頬に血が昇った。
 人に危害を与えるのは、何も人間でないものばかりではない。
 そんな当たり前のことに目を閉ざし、化け物だからと、全ての責任を押しつけようとする。無意識のうちに発揮した己の偏狭へんきょうさに、直人は言葉を失い立ち尽くした。
「坂本、くん」
 そんな直人の横で、晴明は自分を傷つけた相手に語りかける。
「どうするか、決めるのは、君だから。俺でできることなら、手伝うから」
 放置するか、それともこの霊が行きたがっている所へとつれてゆくか。
 誰か別の霊能者を探すというのなら、それもひとつの方法だ。ただ、それは自分の手伝える範疇ではない。
「お、俺は……なんで俺が、こんな……」
 坂本は、床を見てぶつぶつと呟いている。
 果たしてその耳に晴明の言葉が届いているのか。それは定かではなかった。


*  *  *


 幸いにと言うべきなのかどうなのか。保健室には誰の姿もなかった。
 少なくとも、いったい何があったのかという説明をせずにすむのはありがたい。
「ほら、そこ座れ」
 治療用に置いてある回転椅子を指さして、それからあたりを物色した。だいたいどれをどう使えばいいのかは判っている。
 消毒薬に脱脂綿、傷薬に絆創膏。それから……
 一式そろえて振り返ると、晴明はまだそこに立っていた。
「あの、自分でやるから ―― 」
 そんなことを申し訳なさそうに言ってくる。
「いいから座れ」
 少し声を厳しくする。
 晴明は驚いたように二三度目をしばたたき、ようやく素直に腰を下ろした。
「手」
「あ、はい」
 差し出された腕を検分する。肘のあたりから指の数だけ伸びた傷は、長く手の甲近くにまで達していた。特にそのうち二本がかなり深い。が、血はもう止まっているようだった。
 どうやら医者に行く必要はないらしい。
 ほっと一息ついて、脱脂綿に消毒薬をしみこませた。大きくちぎったそれで、傷を中心に腕全体を拭ってゆく。いささか乱暴なその手つきに、晴明はくと唇を噛んだ。
「悪い、しみたか」
「ん、大丈夫だから」
 その答えに、思わずため息をつく。こいつが『大丈夫じゃない』などと答えることが、果たしてあるのだろうか。
 意味のない答えは聞き流し、つい手荒になってしまうのを意識して押さえる。
 無意識に力がこもるのは、腹立ちのせいだった。それはけして晴明に対してのそれではなく。
 怒りを覚えたのは、甘えた態度にだ。坂本の、そして自身の。
 坂本が知らないうちに降霊術を行ってしまい、その為に『彼女』とやらに取り憑かれそうになっている、そのことは仕方がないと思う。あんな部屋をぐるぐるまわる程度のことで、霊が現れるだなどと、想像する方が無茶なのだから。問題は、そんなところではない。
 何とかしろだなんて、そんな無責任な言葉がどうして吐けるのだろう。坂本が直人を通じて晴明に願ったのは、あくまで『部室がおかしいから見て欲しい』ということなのだ。だからこそ晴明はそれを引き受けた。何が起きているのかを確認し坂本に教える、それくらいならできるであろうからと。なのに、事情を知らせ、選択肢を示したとたんに『なんとかしろ』だと? ふざけるな。晴明はお前の手下でも、雇われものでもないのだ。それなのに……
「変なヤツ紹介してすまん」
 晴明の顔を見ることができず、ひたすら手を動かしながらあやまる。
 そして、無責任なのは自分も同じだった。
 晴明を利用するようで後味が悪い、なんて悠長なことを気に病んでいた自分。面倒をかけるだとか迷惑だとか、そんなことは思っていても、力が及ばないかもしれないとはこれっぽっちも考えていなかったのだ。
 晴明ならどうにかできるだろう、と疑いもせずに楽観して ――
「……俺こそ、かえって彼を落ち込ませちゃったみたいで」
 沈んだ声が帰る。慌てて直人は顔を上げた。
「それは」
「あとでまた行ってみるから」
 言おうとした直人に、被せるように続ける。
「もう少し彼女の話を聞いて、なんとかならないか考えてみる。うまく呪縛を解くことができれば、それが一番いいんだから」
「けど、あんな奴のために、そこまでしなくても……」
 思わず声に非難がこもった。
 晴明の喉にもまた、ところどころ血が滲んでいる。おそらくもうしばらくしたら、もっとはっきり指の跡が浮かび上がってくるだろう。低く語る声とて、まだわずかに掠れている。
 いきどおる直人に、しかし晴明は首を振る。
「坂本くんも悪気があった訳じゃないだろうし……それに、彼女を放っておくのも、ね」
 苦しんでいるのは『彼女』の方も同じなのだ。無理矢理呼び出されることがなければ、時と共に少しづつ想いを風化させ、やがてはゆくべき場所へと逝くべきだった魂。引き戻され、忘れつつあった想いを蘇らされた彼女もまた、哀れな被害者なのだ。
「俺なんかじゃ何もできないかも知れないけど、でもやるだけはやってみるよ」
 もしもどうにもできなかったら、その時は本当にごめん。
 そう言って、頭を下げる。
 直人は言うべき言葉を思いつかなかった。
 なんで。
 そんな短い単語だけが、頭の中をぐるぐると回る。
 なんでそこまで責任を持とうとするのだ、こいつは。
 ほとんど見ず知らずに等しい相手さかもとかのじょだ。それなのに。どうして彼はこんなにまで親身になろうとするのか。いや、親身などという言葉ではしっくりとはこない。もっと、こう……自分すらも、かえりみることなく……
 そんなことを思いながら、手だけが黙々と動き手当てを続けていた。おおむね消毒が終わった左手を、今度はひっくり返す。指を開かせると、指の間や爪に血が残っていた。汚れた脱脂綿を捨て、新しいものにかえる。
 さて、と改めて目を落とし、そこで直人はまばたきした。
「お前、これ……」
 まじまじと眺め、絶句する。
「直人?」
 きょとんとしたように晴明が問いかけた。はっと顔を上げてそちらを見れば、不思議そうに首をかしげている。屈託のないその表情に、直人は少し驚き ―― そして苦笑いした。
「あ、いや、ちょっとびっくりしただけ。……すごい傷だな」
 取り繕うようにつけ加えた直人に、晴明も己の手首に目を落とした。
「ああ、これ? うん。わざと消さなかったんだ」
 そう言って。
 ふと、微笑んだ。
「二度と、同じことをしないようにって、さ」
 顔を上げ、直人の方を見る。
 静かな、笑み。両の瞳はどこまでも深く、黒く、澄みわたり……奥底を見せないそれだ。
 綺麗ではあるけれど、どこか虚ろな硝子玉のようで。
 向けられたその表情に、直人は言葉を失った。
 直人の手の中にゆだねられている、男にしては細く白い手首。いつも精緻な細工の腕環で飾られたそこを、まともに見たのはこれが初めてだった。常に腕飾りを肌身離さずいるのは、その勾玉に彼の友人である妖達が身を隠しているからだと、そう思っていた。だが……
 利き手の逆。柔らかい手首の内側部分。細く、赤く、刻まれた傷跡は、やはり『そういう』意味を持つものなのか。
「その……」
 なにかを、言おうとした。
 なになのかは直人にも判らなかった。だが、なにか言わなければならない。そう思った。
 しかし ―― ちょうどそのとき開いた扉が、言葉を断ち切った。
「おい、晴明がケガしたって!?」
 それぞれ二人分の荷物を抱えた一也と友弘が、大声を上げながら保健室へと飛び込んでくる。
「大丈夫なのか?」
 手元をのぞき込んでくる友弘に、直人はとっさに晴明の手首をつかんでいた。そうして彼らの目から傷跡の存在を隠す。
「……あ、ああ。大丈夫。引っ掻き傷だけだ」
 そう言うと、友弘はほっとため息をついた。
「そりゃ良かった」
「ほんとに大丈夫か? うわ、シャツ血ぃついてるじゃないか」
 一也が目を丸くする。そうしてカバンを探り、サッカー部のユニフォームを引っぱり出した。
「こいつで良かったら俺の着るか? ちっと汚れてるけど、そいつよりいいだろ」
 袖が破れた上に点々と赤いものが散ったシャツだ。実際、ここに来るまでにも相当目を引いたのだろう。誰かが一也達に知らせる程度には。
「あ、うん。ありがとう」
 晴明はうなずいて受け取った。早速シャツを脱ごうとするのを制し、直人が傷口にガーゼをあてる。軽くテープでとめ、上から包帯でぐるぐる巻きにしていった。いささか大げさものになったが、晴明は何も言わない。
 端を切ってちょう結びにし、今度は首の傷に取りかかった。
「しっかし、そんなにすげぇ相手だったのか? その部室の」
 横の椅子に腰掛けた友弘が、足を揺らしながら問いかける。直人の手元で、晴明の首筋がわずかにこわばった。
「いや、問題はそいつじゃなくて」
 とっさに晴明より早く口を開く。が、簡単に一言二言で説明できるようなことでもなくて。
「……後で話すよ」
 とりあえずそう言った。二人が首を傾げる。後でなと重ねて言って、絆創膏を出した。ぺたぺたと何枚も貼り付けて、ようやく手当てが終わる。
 使い残りの包帯やガーゼを片付けようとして、思い出した。
「晴明、これ」
 ポケットを探り切れた腕飾りを取り出すと、晴明は慌てたように立ち上がった。両手でそっと受け取る。
「壊れちまったのか?」
 一也と友弘が両側からのぞき込んだ。
 晴明はしばらく金具をいじっていたが、やがてほっとため息をつく。
「大丈夫。金具が伸びてしまっただけだから、道具さえあればすぐに直るよ」
 にっこりと、嬉しそうに微笑む。
 その笑顔は、既にいつものそれとまるで変わらず。
「道具って、ペンチとかか?」
 それなら用務員室にでも行けば、とそちらを指さす一也に、晴明は首を振った。
日月堂うちに帰れば、細工用の工具がそろってるから」
 細かい作業ができる専用の道具だ。銀は柔らかいし、これだけ繊細な細工となると、間に合わせに下手なことをしては、かえって取り返しのつかないことになる。
「んじゃ、帰るか」
「うん」
 今日のところはもう、彼女にも坂本に対してもできることはないだろうし。
「じゃぁさっさと着替えろよ。あ、そのシャツどうする? もう駄目だろ」
「そうだね……このまま捨てるとまずいかな」
 破れて血のついたシャツを見下ろす。血だけなら鼻血だとでも何とでも言えるかもしれないが、それが破れているとなるといささか物騒だ。
「焼却炉につっこんでけば? この時間ならまだ火ついてるだろ」
 なるほど、とうなずいて着替え始める晴明をよそに、直人はてきぱきと使ったものを片付けた。そして着替え終わった晴明に手を差し出す。
「え?」
「シャツ、寄こせ」
「あ、はい」
 受け取ったそれをぐるぐると丸め、小脇に抱える。
「ちょっと行ってくるな」
 焼却炉の方向は、昇降口とは反対側だ。
 戸口に向かう直人を、晴明が慌てて追いかける。廊下に出る寸前で追いついた。
「自分で行くから」
 引き留めようとする晴明に、直人は振り返るとその耳元へと唇を寄せた。
「やるなよ」
 小さく呟く。
「え?」
 聞き取れなかったのか、晴明はきょとんと直人を見返す。
「だから、ほんとに二度とやるなよ。それ」
 もう一度、他の二人には聞こえないような声で言う。そして包帯の上から手首を指さした。
「…………」
 晴明が、まじまじと直人を見る。驚いたように目を見開いて。
 それは、深く考えた上での言葉ではなかった。
 何があったのか、事情など知らない。晴明がいま『それ』についてどう思っているのかも判らない。そもそも他人の一生を左右するような、そんな言葉に責任を持つ覚悟など直人にはなかった。友情がどうのとか、お前を失うのは悲しいだのと、臭い物言いをしたい訳でもない。
 言ってしまえば、知り合いに自殺などされては後味が悪い、という程度の、ほとんど成り行きから出た台詞にすぎなかった。
 だが。
 それでも。
 言わずにはいられなかった。
「 ―― うん」
 小さな、消え入りそうな声が返った。
「うん。……判ってる」
 わずかにうつむいた顔にどんな表情を浮かべているのか。直人からはよく見えない。
「どした?」
 一也が問いかけくる。
「いや、なんでもない」
 軽い口調で誤魔化した。
「それより、この怪我人おとなしくさせといてくれ」
 すぐ戻るから。
 晴明の肩をぽんぽんと叩き、廊下へと出ていく。


 ―― もう二度と、こんな話を持ち込むことはすまい。
 足早に廊下を歩きながら、直人はそう自分に言い聞かせていた。
 それは、ごくたわいのない決意かも知れなかった。だがそれでも、晴明の友人として自分なりにできることの、ひとつではあるだろう。
 そう、今度のように曖昧な態度で押し切られ、結果的に彼を傷つけるようなことになるのなら、たとえ相手の不興を買うことになったとしても、断固として仲立ちなど断ろう。そして一緒にメシ食ったり、宿題見せあったり ―― なし崩しに日々を過ごそう。化け物だの幽霊だのそんなものとは関わることのない、ごくごく当たり前の日常を。
 そうだ。特別なことなど何も必要ではない。
 友人関係というのは、もともとそういうものなのだから。
 そして、晴明は自分の友達なのだといま決めた。
 たとえ晴明の方でどう思っていたとしても、そんなことはどうだっていい。何故なら直人が自身でそう決めたのだから。だから彼は自分達の仲間うちなのだ。
 だから ――
 胸の内で呟く。
 もちろん、彼と化け物達の付き合いを否定するつもりはなかったけれど。
 それでもせめて、自分おれ達くらいは、と。


 楽しくつきあおう。人間おれ達の、ルールで ――


(2001/01/21 18:26)



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