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 かくれおに 第六章
 ― Makoto.Kanzaki Original Novel ―
 
神崎 真


 近付いてくる『明』の姿を、明は静かに待ち受けた。腕組みをして、上から下までじろじろと眺めまわす。そして目を細めた。
「似てないな」
 不満そうに鼻を鳴らす。
 今度の鬼も、『俊己』と同じ程度には明によく似ていた。目鼻立ちも手足のバランスも、髪一筋の長さまで完全に写しとっている。浮かべる表情はなかった。能面のような顔のまま、一歩づつ歩み寄ってくる。『俊己』のあまりに不自然だった表情を思えば、より本体オリジナルに近いといえるだろう。
 それでもそいつは、『彼』の完璧な写しコピーではなかった。
「なぁ、影はどれぐらいまで本体と同じだと思う?」
 明の問いに、俊己は少し考えた。
「……影とは言っても、とりあえず腕力は本体おれより上だったな。もし本体の全てを忠実に映し出しているんなら、勝負は互角になるだろう。なら持っている能力自体は、鬼自身のものなんじゃないのか」
 同じなのは外見だけ。生身かどうかは知らないが、ともかく『中身』は『明』も『俊己』もあまり変わらないのではないか。
「あるいは写した能力を増幅しているかだな」
 もしそうならば、こいつは『俊己』よりも強い明より、さらに輪をかけて強いこととなる。
「試してみるか」
「……ほどほどにな」
 無駄だとは思いながら、既に口癖となった台詞で釘を刺す。巻き添えをくわないよう、壁際へと移動した。
 近付いてくる鬼を、明は悠然と迎えた。伸ばされた右手を無造作につかみとる。続いて左手。まずは力比べだ。
「けっこう強いな」
 感心したようにつぶやいた。俊己の見るところでは、少々押され気味だった。もっとも明はまだ、まったく本気を出していない。
「反射神経はどうだ?」
 ひょい、といきなり足元を払う。両足をすくわれて、『明』はまともにひっくり返った。道連れにならないよう寸前に手を離した足元で、後頭部が床にあたる鈍い音がする。
「トロい……が、痛覚はないみたいだ」
 応えた様子もなく起き上がってこようとする。胸を踏みつけてそれを押さえながら、腰を曲げて顔を近付けた。
「神経は通ってるのかな? 首が折れてたから骨はあるかもしれないが、切ったら血も出るんだろうか」
 じたばたともがいているのも気にかけず、うにっと頬をひっぱったり、目蓋をめくってみたりする。
 離れたところで見物しながら、俊己は呆れて力を抜いた。教室側の窓枠に、背中から寄りかかる。
「楽しそうだな」
「極めて」
 俊己の揶揄にも迷いのない答えが返された。その間にも、五指を曲げてつかみかかる腕を片手でいなし、もう片手で口をこじ開けている。『中身』を確認しているらしい。
「脈は?」
「ないな。息もしてないし」
「ってことは、生身……生き物じゃないのか。だけど一応柔らかかったぞ」
「ゴムだって柔らかいし、肺呼吸してないから生身じゃないとも、心臓がないから非生物だとも言えないだろ」
 確かに。魚類だって生身だし、植物だって生き物だ。ミトコンドリアにも脈はない。
「そもそも生物と非生物の違いなんて、人間が適当に定義したいい加減なものだろう? 子孫を残す能力があるとか、物質代謝を行うとか、エントロピーの法則に逆らってるだとか、そんなものは人間が最初から『生物と認めている対象を』研究した結果の考え方なんだから」
「哲学的だな。だったらお前は何をもって対象を生き物だと判断するんだ?」
「別に生き物であることにこだわりはしないけどね。……大切なのは自己思考能力を持っているかだな」
「考える頭か」
「ああ。あとは品性かな。いくら知能があっても、話が通じないようじゃ意味がない」
 ひととおり調べて気がすんだのか、明は鬼の上から足をどけた。数歩後ろに下がり、起き上がる『明』の動きを観察する。
「目に見える範囲内では、中身も動きも人間そのものだな。ちゃんとした骨格にきちんと筋肉がついた動きだ」
 昨今のアニメやマンガに登場する人物は、時々とんでもない方向に関節が曲がっていたり、手足の付き方がおかしかったりするものだが、こいつは歪みのないなかなか正確な造りをしている。
「容姿に関しても完璧。これで表情や仕草、性格を模倣できる頭脳を持っていれば、もう少し扱いを考えてやってもいいんだけど」
 懲りずにしがみついてくるのを、めんどくさげにひっぺがす。頭をわしづかみにして遠ざけると、何とか逃れようとして暴れた。しかし動作が遅いのと腕力の差とで、それは大人に逆らう子供のようにしか見えない。
 俊己やさらわれた女生徒達にとっては脅威だった鏡の鬼も、明にはせいぜい手頃な玩具という風情だった。どうやら能力に関しては、俊己の説が当たりだったようだ。いいように遊ばれている様子からして、まだ何か力を隠しているとは思えない。おそらくあれがこの鬼の限界なのだろう。もしも俊己:『俊己』と同じほど能力の差があったなら、今ごろこのあたりは瓦礫の山と化しているはずだ。
「で、どうするつもりなんだ、『それ』?」
「そうだな……」
 この鬼、『明』の狙いはあくまで明のみのようだから、ほおっておいても他人に迷惑をかけるようなことはなさそうだった。明にしてもわざわざ退治する手間をかける気にはなれない。ただ、しつこくへばりついてくるのはうっとおしかった。いっそのこと窓から『外』に放り出してしまうぐらいがちょうどいいか。
 そんなふうに結論して、窓の方へと身体を向けた。明の視界からつかの間、俊己の姿が消える。
 からりと軽い音がして窓が開けられた。
 俊己の真後ろで。
 背後から突然伸びてきた腕が俊己の上半身を捕らえた。ものすごい力で後ろに引き倒される。そのまま彼は、教室内へと窓から無理矢理引きずり込まれた。
「うわぁっ!?」
 とっさに振りまわした足が窓ガラスを蹴り割った。派手な音と共に破片が飛び散る。窓枠を越える時したたかに下半身をぶつけたが、上体を捕まえられたままだったので、床に落ちることは免れた。痛みをこらえながら、自由を取り戻そうともがく。が、拘束する腕はびくともしなかった。その腕が着ている服を見て、俊己はぞっと総毛立つ。理性が止める暇もなく、反射的に振り返った。
 あり得ない角度で横倒しになった自分の顔が、笑みを貼りつけて出迎えた。乱れた前髪が顎に触れる。虚ろな光をたたえた焦点の合わない目が、間近くから見上げてきた。
  ―― 硝子玉だ。
 そんなことを思った。
 何の感情も浮かんでいない、死人の目玉。自分と同じ顔をした、動く死体が笑っている。顔の皮一枚で笑いながら、自分を喰らおうとぞろり歯をむき出す。
 この時、俊己の緊張は完全に緩んでいた。それまでが常にない刺激的な経験の連続だっただけに、明が現れてからは反動もあり、すっかり気を抜いていたのだ。それには明の不真面目な態度も一役買っている。無防備に警戒を解いていた神経に与えられた衝撃は、これまで酷使されてきた自制心の限界を超えていた。
「 ―― ッ」
 絶叫する。
 理性は欠片も残っていなかった。
 己が悲鳴を上げていることすら気付かずに、俊己は目茶苦茶に手足を振りまわした。何度か相手の顔や身体を殴ったが、得られたのは皮膚の下に虫が這うような、おぞましい嫌悪感だけだ。
 振りあげた手が横からつかまれる。そのまま鬼から引き離されても、俊己は暴れることをやめなかった。
「俊己!」
 『俊己』を蹴りとばして遠くへと追いやった明が、落ち着かせるように名前を呼んだ。しかしいつもならば、強がりではあっても即座に取りつくろって減らず口のひとつも叩いて見せる男が、今度ばかりはいっこうに冷静になろうとしなかった。言葉にならないことをわめきながら、相棒の手すらも振り払おうとする。
 なだめるのを諦めると、明はとらえた腕を解放した。はじかれるように身を離した俊己は、そのまま壁際まで逃げてうずくまった。がたがたと震えるその様は、普段『オニの副寮長』と呼ばれ恐れられている彼からは、想像もできない姿だ。
「…………」
 明はしばらく黙って立ち尽くしていた。複雑な感情がひそめられた眉に表れている。
 あらゆる意味で、見たくなかったものを見せつけられた心地がした。
 視線を巡らせ、『俊己』と廊下に放り出してきた『明』を順に見すえる。ゆっくりと落ち着いた動きだったが、それだけで二体の鬼は動きを止めた。金縛りにでもあったかのように、動きの途中の不自然な姿勢で停止している。
 明は静かに口を開いた。いつものものよりわずかに低い、落ち着いた声音。
「油断して、遊んでいた俺が悪かったな……」
 自らを反省する、後悔をにじませた言葉だ。
「おめおめと貴様等に俊己をさらわせて、死体は見つけさせるわ、危うく殺されそうな目に合わせるわ……まったく、失態続きにもほどがある」
 ふっと視線を床に落とした。
 それで呪縛が解けたのか、鬼達が身体を揺らす。『俊己』はバランスを崩して倒れこみ、『明』は割れた窓を乗り越え教室に入ってきた。明はそれを止めるでもなく、さりとて迎えうつでもない。手を両脇に垂らしたままで立っている。下をむいた顔に前髪がかかっていて、その表情はよく見えなかった。
「……だが」
 かろうじて見える口元が、にいっと吊り上がって笑みを形作った。
「それで貴様等を許してやる筋合いはない」
 おもてを上げる。前髪の間から、不敵な輝きをたたえる瞳が覗いた。
 俊己を恐れさせるその本性が、いまこそ表面に現れようとしていた。
「おまえ」
 まさにつかみかかろうとしていた『明』を、ひたりと見すえる。
「そんな姿では、俺の影とは言えんぞ」
 すぐそこで見つめ合う二つの顔。表情の有無を除けばまったく差異のないそれ。
 と、
 一方に変化が現れた。
 まず、髪の色素が抜けていった。つややかな黒髪だったのが、みるみるうちにその色を薄める。脱色したような茶色になったのではない。柔らかさ、つややかさはそのままに、鮮やかな黄金色に染まっていくのだ。さらに、くせひとつないその髪は、さらさらと乾いた音をたてながら、長さを伸ばしていった。
 わずかに遅れ、もう一方も変化の後を追った。
 変わるのは髪だけではない。相手を見つめる双眸そうぼうの、その虹彩も鮮やかに色づいた。鋳溶いとかした金属を流し込んだかのような、灼熱を封じた輝き。髪も、瞳も、胸元で組んだ両腕の爪までもが、上級の貴金属のきらめきを宿す。
 上げた顔に浮かべるのは、自信に満ちたと傲岸さえ言える笑みだ。吊り上がった唇から、尖った犬歯が先を覗かせている。
豪奢ごうしゃな金髪の間から、象牙のような二本の角が伸びた。

 みしり

 硬いもののきしむ音がした。
「どうした?」
 理由が判っていて訊く声には、不遜なまでの嘲りが満ちていた。はたしてそんな感情を理解できるのだろうか。『明』もまた、変化を終えようとしている。
 身に帯びる色彩を変え、髪の長さを変える。そして髪の中から角を……
 再びきしむ音がする。
 何か、硬くて ―― もろいものがきしむ音。
 それは即座に大きくなり、やがて破壊の音へと成長していった。明が声を上げて嘲り笑う。
 『明』の全身に、無数の亀裂が生じていた。
 まるで鏡に映った像が、その鏡ごとひび割れていくかのように。割れ目はみるみるうちに広がり、やがて『明』の身体を覆いつくす。
「身のほど知らずが。貴様のような影ごときに、たとえ姿だけでも俺を写しなどできるか!」
 哄笑する。明のその姿はまさしく鬼だった。
 砕け散ってゆく『明』を見下す目には、一片の哀れみすら浮かんでいない。腕の一振りでたやすく粉砕できるであろう姿を、ただ楽しげに眺めている。貴様などを始末するのには、指一本動かす必要もないと無言で主張しながら。
 そして、それは事実だった。
 軽く開いて立つその足元から、放射状に床が割れる。割れ目は瞬く間に床から壁、天井へと伸びていった。座り込んでいた『俊己』もまた、床を走る亀裂に胴を両断される。床の間から下の階の床が見え、それもすぐに破壊された。バラバラになった壁の向こうは灰色の空間が現れる。
 破片はさらに細かく砕けながら、灰色の中へと流れていった。机も、ロッカーも、この鏡像の学びやを構成していた全てのものが、自ら粉砕しながら灰色の空間へと呑みこまれてゆく。
 明はただ、立っているだけだった。
 ただ腕を組み、背筋を伸ばしてあたりを睥睨へいげいしているだけ。腰にかかるほどに伸びた長い髪が、風もないのに揺らめいている。その色が映えているのか、周囲の大気もが染まっているように思えた。黄金玉の瞳が動くたび、目の先にあるものが破壊される。彼は別に睨みつけるでもなく、ゆったりと視線を運んでいるに過ぎないというのに。
 俊己が何時間かを過ごした鏡像の校舎。
 そこはただ明の存在それだけによって、あえなく崩壊していった。


*  *  *


 あたりに存在しているのは、もはや二人だけだった。
 校舎の破片は全て砂粒ほどまでに細かくなり、灰色の空間に消えていった。灰色とはけして『色のない』色ではない。むしろ全ての色を内包した、根源とも言える。全てはこの灰色から生まれ、そして還元されたのだ。
「……強すぎるぞ、お前」
 疲れきった声で、俊己がつぶやいた。何もない空間にしっかと立つ明の足元で、やはり虚空に座り込んでいる。片方の膝を抱えこみ、その上に頭を乗せてぐったりとしていた。
 見下ろした明は、相棒が正気に戻ったことを確かめて、表情を和らげた。 先ほどまでの尊大な笑みとはうってかわり、温かに微笑する。安心したような笑顔だった。
「今さら何を。もっともこの場合は、相手がもろすぎたという方が正しいな」
 口調は変わることなく、そんなことを言った。俊己の体勢では明の膝から下しか見えない。顔を上げる元気もないらしい俊己は、深々と嘆息した。
「だったら最初からやれよ」
 ぼやく。せめて『俊己』にとどめぐらい刺しておいてほしかった。己の死顔デスマスクを目前で見たショックは当分消えそうにない。しばらく夢に出てきそうだ。
「すまん」
 即座に降ってきた謝罪に、俊己はぴくりとも動かなかった。
「二度とごめんだからな」
「あぁ」
 うなずく。
 ……それでも彼は、また同じようなことがあれば間違いなくつき合ってくれるだろう。この頑固で冷たくて口の悪い……けれど一度受け入れた相手には、とことんふところの広い男は。
 明は最初にこの姿を見られた時を思い出す。青ざめて小刻みに震えながら、それでも彼は言ってのけたのだ。変わった芸だな、と。
 恐れられていない訳ではなかった。人間として当たり前に持つ生存本能が、自らと相容あいいれぬであろう存在を敏感に察知し忌避する。俊己にとって明達の存在とは、厭うことこそ自然なものだった。それをきちんと理解した上で、彼は明達のそばにいる。本能を忘れた怖いもの知らずの愚か者としてでもなく、さりとて明達の力を利用しようと取り入るのでもない。ただ相棒と ―― 友人として。
「で……どうやって帰るんだ?」
 目だけ動かしてあたりを見ながら、俊己が口を開いた。道しるべのようなものは一切見あたらないが、明がここまで来た以上、帰り道の確保ぐらいしているだろう。
「いま迎えを呼んでるところだ」
「迎え?」
「ああ。……来たな」
 言って、身体の向きを変える。俊己もようやく頭を持ち上げた。
「おーい、こっちですよぉっ」
 そちらでは、いずみがぶんぶんと手を振っていた。虚空に浮いた窓から上体を乗り出し、大声で二人を呼んでいる。
「行くぞ」
 明が手を差し出す。握ると、軽々と引き起こされた。
「うん……せっ」
 立ち上がってからも、肩に手を置かせてもらった。もっとも、それはあくまで自分を支えているだけだ。断じて『支えられて』いるのではない。
「どーしたんです、ケガでもしたんですか?」
 迎えたいずみが目を丸くした。
「何でもない。少し疲れただけだ」
 無愛想な俊己に、それ以上訊かない方がいいと判断したらしい。そうですか、とだけ言って身体をずらす。順に窓を乗り越えて、二人は室内に入った。
「派手にやったらしいな」
 明の言葉に、いずみは照れたように頭を掻いた。そのてっぺんから、一本角が生えている。髪型はそのままだったが、両目が南の海の色に染まっていた。
「えらくこたえない相手だったもんで、つい」
 牙をむき出し、てへっと笑う。
若様わかさまもでしょう?」
 明はそれには答えず、きらめく髪を掻きあげた。
「ここはどこだ。それに……」
 部屋の隅へと視線を投げる。俊己もそちらを見て眉をひそめた。
 そこは6畳ほどの部屋だった。置いてあるものからして、年頃の女の子の私室らしい。
「砂原の家ですよ。鏡の気配を追っかけてきたら、この部屋だったんです」
 いずみが言うには、一昨夜に鏡が発動した時と同じ気配をたどってみると、この彼女の部屋に着いたのだという。そこではおりしも鬼 ―― 『陽子』が陽子を襲っている最中だった。下手に騒いで家人に見つかっても面倒なので、物音が洩れないよう陽子の部屋を結界で封じ、鬼退治を行ったという訳だ。
 その無神経さに手こずらされ、つい本性を現しもしてしまったが、一応陽子もいずみも無傷で始末がついた。そして少々散らかった室内を簡単に片付けているところへ、明の声が窓の向こうから聞こえてきた、と。
「なるほど。こちらの『人喰い鏡』は窓ガラスか」
 コンとなめらかな表面を指で叩く。さっき二人がくぐった窓は、しっかり錠が下りたままだ。
「人喰い鏡はあの姿見だけじゃなかったのか? そんなにぽこぽこ湧いて出られちゃたまらんぞ」
 いわくのついた姿見だけならともかく、どこにでもある大量生産のガラス製品にまでそんなものになられては、おちおち生活もしていられないではないか。
「なに、『あの』校舎はもうないんだ。大丈夫だろうよ」
 明が保証する。たとえ空間がつながったとしても、あるのは灰色の虚空だけだ。それより、当面問題なのは ――
「ヒ……ッ……」
 部屋の片隅にうずくまって、陽子は震えていた。その瞳は現実を見てはおらず、どことも知れぬ中空をさまよっている。パジャマ姿で男達 ―― 見知らぬ相手とは言わないが、不法侵入の上、うち二人は角まで生やしている ―― の前にいるというのに、彼らのことなど存在に気付いてすらいないようだ。
「俺が来た時には、もうああだったんですよ」
 いずみが弁解した。別に怪我をさせた訳でも、その姿で怖がらせたのでもない。いずみが『陽子』から救出する前に、彼女は既に正気を失っていた。
「…………」
 俊己が近付いた。絨緞に膝をついて覗きこんでも、陽子の様子は変わらない。肩に手を置いてみようとしたが、途中で思い直した。錯乱している人間は、下手に刺激したりしない方がいい。自分がついさっき似たような状態だっただけに、そっとしておいてやりたかった。
「眠らせておこう」
 明がかがみこんだ。陽子の目の前に手をかざす。
 意識を失った身体をベッドに寝かせる間、俊己も室内の片付けを手伝った。二三の壊れてしまった物はどうしようもないが、おおむねきれいにする。
「よっしゃ」
 いずみが満足そうに掌をはたいた。そして窓へと歩み寄る。クレセント錠を回転させ、からりと開けた。
 明るい部屋から見る外の景色は、闇に沈んでいて物の形もよく判らない。けれど、そこにはあらゆる物が、確かに存在していた。
「帰りましょ」
 振り向いて促すいずみに、二人ともうなずいた。いずみと明が窓から出る。俊己は部屋の電気を消しながら、ベッドで寝息を立てている陽子を見下ろした。
 ……彼女の錯乱が、一時的なものであればいいのだが。
 心の底からそう思う。
 考えなしの行動をとったあげくの自業自得と言えなくもない。彼女が音頭を取ったことで、少なくとも人ひとり命を落としているのだ。それを思えば二度もただで救われた分、彼女は恵まれているだろう。
 が、それでも彼女のことが哀れだった。明といずみがあまり気に留めていないからこそ、いっそう。
 この先、自分もこうならないとは言えないのだ。
  ―― 彼らの近くにいる限り。
「俊己」
 呼ぶ声に顔を上げると、二人が窓の外から手招きしていた。足場もろくにないはずの場所から、それぞれに手を伸ばしている。その背後では、傾きつつ ある細い月が、それでも明るく冴えた光を放っている。
「置いていかれたいのか?」
「ダメですよ。ここ学校からけっこうあるんですから」
 ほら早く早くといずみがせかす。
 逆光で影になった顔の中、エメラルドグリーンと金色こんじきの瞳が光を放って浮かび上がった。角と牙は異形いぎょうの証し。彼らこそは、古代日本において恐怖、忌むべきものを具現化したとされた存在だ。追儺ついなの儀式で石もて追われ、今もなお、節分と名を変えたそれで排斥される、罪穢れ。厭わしい悪しきもの。
 けれど……
「朝の会議の資料、作らなくても構わないなら置いていってもいいぞ」
 手を重ねながら言うと、明はぎょっとしたように目を見開いた。声に『ふり』ではない焦りの響きが混じる。
「まだできてなかったのか!?」
 ひょいと肩をすくめる。
「起きてから作るんだ」
「おい、間に合うんだろうな」
「さて。誰かさんのおかげで、予定外の時間を割かされたし」
「俺、手伝いますよ」
「がんばってくれよ、二人とも ―― 」
 窓から吹きこむ風に声は消え、カーテンがふわりとひるがえる。


 そこにはもう、月光に四角く切り取られた絨緞が、ほのかに青白く浮かび上がっているだけだった。


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