<<Back  List  Next>>
 かくれおに 第三章
 ― Makoto.Kanzaki Original Novel ―
 
神崎 真


「……あいつ、ずいぶんと不機嫌だったな」
 暗い階段の中ほどに立つ明は、誰に言うともなく、ぽつりとそうもらした。とん、とそばの壁に背中を預ける。
 腕組みをしてぼんやりと立ち、じっと時を待ち続ける。そこからもう少し下がった位置では、いずみが手摺りにまたがって同じように時間をつぶしていた。
「俊己さんのことですか?」
 返事を求めた言葉ではなかったが、いずみはそんなふうに訊き返してきた。
「ああ。とりつくしまもなかった」
 数時間前の会話を思い出しながら、しみじみとつぶやく。
 放課後たまたま廊下で顔を合わせた時、今夜、例の姿見を見に行こうと思う。お前も来るか? というふうに訊いてみたのだが。返答は実に素っ気ないものだった。
『そんな暇はない。行くなら二人で行け。俺は忙しい』
 無表情に言い捨てて立ち去ったきり、その後、寮の部屋に戻ってからも、一言も口をきいてはいない。
 あちゃぁ、といずみが口元を押さえた。
「 ―― この週末からこっち、けっこう大変だったそうですからね」
 寮長オニのいぬ間の何とやらというやつで、葵荘ではけっこういろいろなトラブルが起きまくったのだという。その影響は、明が戻ってから一日たった今で もそこここに残っていた。完璧主義というか神経質というか……融通のきかぬ所がある俊己ひとりでは、苦労もひとしおだったことだろう。なのに予定を遅らせてようやく戻ってきた明が、今度は七不思議などにうつつを抜かしていれば、それは気のひとつにもさわろうというものだ。
「感謝してるさ」
 それはわざわざ口にするまでもない、明確な事実だ。彼の存在があったからこそ、明は安心して長々と留守にできたのだ。たまった仕事、かけた世話は当然きちんと清算する。いかに予定外のことに興味を持ったといっても、それでやるべきことの手を抜くようなつもりはさらさらなかった。
「それ、ちゃんと言っといた方がいいですよ。俊己さんってけっこう頑固だから、下手に怒らせると大変でしょう?」
「そうだな」
 うなずく明に、いずみは安心したように頬を緩める。元々は明を目当てにこの学園へとやって来たいずみだったが、俊己のことも出会ってすぐに好きになっていた。彼に嫌われるのは、明にそうされるのと同じぐらいにいやだと感じている。
「まぁ、人助けしようという訳じゃないからな。あいつが怒るのも無理はない」
「そうですね」
 二人でうなずき合い、そろって姿見の方を見る。そろそろ『その』時間がくる頃合いだった。
「さて、はたしてどちらの影が『鬼』となるかな?」
 明が壁から身体を起こす。いずみが手摺りから飛び降りた。暗闇の中、かろうじて動く人影が判る鏡へと、肩を並べて姿を映す。
「今度こそとっ捕まえてやる」
 いずみが気合いを入れて鏡の奥を睨みつけた。



  ―― 昨夜、校舎に忍び込んだところで悲鳴を聞きつけたいずみは、即座に階段の下まで駆けつけた。が、そこから見上げた先で展開していたのは、まさに語られる怪談そのままの、不可思議で異様な光景だった。
 何故か深夜の校内にいる女生徒達。それだけでも充分、非日常的な感覚を覚えさせられるものだったが、さらにその少女達が絶叫し、恐怖に怯え錯乱しているとしたならどうであろう。しかも、そのうちの一人が『二人いる』としたら?
 腰を抜かし2階への階段の途中でへたり込んでいた仁美は、その時いずみの視界には入らなかった。瑞江は足をすべらせて踊り場まで転がり落ちた後、壁際に這い寄って縮こまっている。陽子は伸ばした右手で手摺りをつかみ、必死になってふんばっていた。そして、奈々子 ――
 奈々子は、陽子の左腕をかかえ込んでいた。そして同時に『奈々子』は、奈々子の身体に抱きついていた。
 泣きわめき、怯えながら陽子の腕にしがみついている奈々子と、笑いながら奈々子を陽子から引き離そうとしている『奈々子』。
 表情も行動もまったく異なっている二人は、しかし寸分違わぬ容姿をしていた。顔も、身体つきも、髪も目も。ただひとつ、着ていたブラウスの合わせが逆になっていたことの他は。
 思わず息を呑んで立ちすくんだいずみの目に、踊り場の鏡が飛びこんだ。奈々子の姿だけが映っていない、その鏡が。いずみの脳裏に昼休みの会話が蘇る。そしてこの場所で起こるといわれている、怪異の内容も。
『楠木!』
 我に返ったいずみの動きは、見事なものだった。踊り場までの十数段を数歩で駆け上がり、『奈々子』を引きはがすべく、その腕をつかもうとする。
 しかし、それは一瞬だけ遅かった。
 伸ばしたいずみの手は虚しく宙をきった。驚愕に目を見開く奈々子の姿が、はじかれる勢いで陽子からもぎ離される。その肩越しに向けられた『奈々子』の笑顔が、全員の目に残像となって灼きついた。二人は背中から鏡にぶつかり、そのままするりと呑み込まれてしまう。あとにはいずみ達4人の姿が映されているばかり。



  ―― そうして奈々子はいなくなった。
 踊り場にとり残された一同はしばらく呆然と自分を失っていたが、それも長くは許されなかった。荒々しい誰何すいかの声と共に、懐中電灯の眩い光が階下に現れた。そして宿直教員が駆けてくる騒々しい足音。
 深夜の校内であれほどの悲鳴を上げていれば、見つかってしまうのも無理はなかった。面々の中でも一番見とがめられてはまずい立場にあるいずみは、仕方がないのでそのまましらばっくれることにした。幸い一同はみな混乱の極にあり、誰もいずみの存在などまともに認識してはいなかった。素早く校舎を抜け出し明の待つ寮へと戻ったいずみの存在は、学園側に気付かれることもなく、事件は彼とは無関係に展開していった。
 深夜の学内に無断で侵入した少女達。そのうち一人が行方不明。残された3人は、七不思議だの鬼だのといった訳の判らないことをわめき散らしており、錯乱している模様。親側としてはしばらく自宅療養させ反省を促すとのことだったが、これは生徒の自主性を重視するという従来の校風の弊害を表わすものであり、今こそ校則の見直しと改正を……云々。
 最後の下りは蛇足だが、とりあえず学園側の反応をまとめてみれば、生徒が校内に侵入したのち姿を消したのは事実だが、それと七不思議とかいう噂話との因果関係を認めることはできない。かと言って事故があったような形跡は見あたらないし、校内に変質者等がいたとも考えられない。楠木奈々子はおそらく何らかの理由で、自ら姿を消したのであろう。ただ生徒達が校内に侵入する口実としたという点で、七不思議の存在を完全に無視する訳にはゆかず、問題の鏡がある階段を当面使用禁止にした、というところか。
 いずみの報告を聞き、翌日の学園側の対応を見ていた明は、呆れる気持ちを隠そうとしなかった。つまるところ学園は、消えた生徒を見つけるつもりなどさらさら持ってない。七不思議などという自分達に理解できない現象は黙殺し、行方不明なんて不名誉なこととは一切関わりない、騒ぎはごめんだと黙ってそっぽを向いておく訳だ。なんと無責任な、ことなかれ主義だろうか。
 ……もっともそれを言うなら明達とて、学園に代わって自分達が彼女らを救ってやろう、などと発起した訳ではないのだが。
 確かにそういう想いも多少は持っているが、しょせん彼らも正義の味方ではない。いくらか見知った人間とは言え、別に特別な感情を抱いている存在でもなし、そんな相手の為に力を尽くして学園や怪異に立ち向かうような義理もないではないか。彼女達が葵荘の住人だというのならば、ともかく。
  ―― そんなふうに考える彼らの性格や行動パターンは、ちまたで思われているそれとはいささか異なるものがあった。わざわざ俊己の怒りを買ってまで『人喰い鏡』の元へとへやってきた最大の理由は、はっきり言って好奇心であった。いくつか実話が混じっていることは以前から承知していたが、それでも実際に七不思議のひとつをこの目で見ることができるとなると、これを見物しないですませる手はない。そしてそういう考えの展開をしっかり把握されているからこそ、忙しい時に面白半分で首をつっこみおって、と俊己の怒りを買ったのだが。
 しかしまぁやはり、ほったらかしにしてはおけないとも思いはする。この先また同じようなことがくり返されないよう、何らかの手段を講じる必要はあるだろう。その為にも、とりあえず自分の目で怪異の確認はしなければ。目の前で奈々子をさらわれた、いずみの雪辱もある。
 そんなこんなで明といずみは、厳しい監視の目をくぐり、問題の踊り場で怪異が起こるのを今や遅しと待ち構えていた。
 しかし ――
「あ、あれ? ヘンだな……」
 狼狽したいずみが、鏡の表面を両手でなでさすった。
 二階の窓から差し込む光を浴びて、姿見は美しく輝いていた。あたりは鏡が反射する蒼い光に満たされて、先刻までの暗闇が嘘のように浮かび上がっている。まるで一幅の名画のように幻想的な光景だ。
 だが……それはそれだけでしかなかった。
 鏡に映る二人の鏡像は、あくまで虚像。影法師。
 それらは本体の動きを忠実になぞり、おとなしく鏡の中におさまり続けていた。


*  *  *


 翌日の夕刻、元気のいい音を立てて201号室の扉が開かれた。寮長達の部屋にノックもせずこんな真似ができるのは、葵荘広しといえどいずみぐらいなものである。
「借りてきましたよーっ」
「ご苦労」
「いやぁ、運が良かったっすよ。例の先輩、部室のパソコン使ってて、データが丸々ハードに残ってたんです。フロッピーに落としてもらってきました」
 目を通していたバインダーから顔を上げてねぎらう明に、フロッピーディスクを振ってみせる。岩城学園情報倶楽部から、森口鈴香が書いていた原稿を借りてきたのである。左の脇の下には、ノートパソコン。113号室に住むパソコンオタク、槙野正志まきの ただしの物だ。 ―― ちなみに一時間三百円でレンタルされている。
 コタツで本を読んでいた俊己が、無言でその場所を譲った。何冊も積んでいたのを小脇に抱え、ベッドの上へと移動する。ありがたくそこに陣どって、蓋兼用のディスプレイを起こした。
 さすがに好き者の持ち物らしく、中に入っているソフトは最新式のものがそろっていた。たくさんありすぎてよく判らない中、どうにかワープロ機能を探し出す。それからフロッピーをセットして中身を呼び出した。
 機械を操作するいずみの横から、バインダーを片付けた明が覗きこむ。
「なるほど、おおむね調べてあるんだな」
 文書名がずらりと一覧表示されていた。不思議ひとつごとに題名をつけ記録された文書の数は、優に二十を越えている。後ろの方は画面に入りきらず、はみ出してしまっていた。
「これはまだ整理前の、下調べ段階のみたいですね。有象無象がごちゃ混ぜだ」
 マウスを動かして画面を進めながら、いずみ。
「『幽霊ピアノ』、『トイレの花子さん』、『笑う肖像画』あたりはオリジナリティがないな。『終わらない廊下』とか『ゴール下の異界への穴』なんていうのは、他ではあまり聞かないが」
「中見ます?」
「ああ」
 文書の内容を表示させる。
 『終わらない廊下』とは、部室棟の1階廊下で起こる現象だと記録されていた。
 部活で遅くまで残っていた生徒が、下校しようと部室を出たまではいいのだが、いつまでたっても部室棟から出ることができない。歩いても歩いても廊下が終わらないのだ。昇降口につながる曲がり角はすぐそこに見えているのに、どれだけ足を進めても近づくことができない。何時間も歩き続けて疲れ切った頃、はたと気が付いてみれば、目の前の廊下は消失点まで延々と伸びていた。後ろを振り向けばもちろん後ろにも。
 数日の後に疲れと飢えで衰弱した生徒が見つかることもあるが、そのまま 死ぬまで終わらない廊下をさまよう羽目になる者もあるという。もしも部活で帰りが遅くなった場合は、廊下を通るのはやめた方が良いだろう。多少危険でも部室の窓から直接脱出することをお勧めする。たとえ二階の窓から落ちたとしても、そうそう死ぬことにはならないのだから……
「行方不明者のリストがついてますよ。十年間で3人。ただし部活棟でいなくなったかどうかは、はっきりしない、と。そう断ってるあたりが、かえって信憑性を増してる感じですね」
「実際に衰弱して見つかった人間もいるんだな。名前だけじゃない。当時のクラスと住所まで調べてある。ずいぶんしっかりした調査だ」
 さすがは名高き『岩城学園情報倶楽部』。そこらの三流ミニコミ誌とは比べ物にならない。その他の文書もいくつか開いてみたが、単なる噂話にとどまらないものには、どれも綿密な調査による裏付け資料が添えられていた。
「……こうして見ると、案外ホントにあったことって多いですね。行方不明者とかケガ人とか、けっこう出てるじゃないですか。なんで今まで騒ぎになってないんでしょうね」
「人がいなくなったなんて聞いたとしても、結局のところは単なる噂話だと思ってるんだろ」
 七不思議はあくまで七不思議。日常生活にはそうそう関わりはしない、と。
「なるほど。考えてみれば中途退学者なんて、毎年何人かはいますもんね。そのうち二人や三人が実はいなくなってたんだとしても、誰も気が付いたりしませんか」
「そういうことだ」
 二人でうなずいて納得する。それから再びパソコンに注意を戻した。
「で、『人喰い鏡』は……と」
 本来の目的であった文書を画面に呼び出す。
 昨夜の張り込みが空振りに終わったことから、二人は何か自分達の知らない部分で怪異の発動する条件が足りなかったのか、と考えたのだ。一番確実かつ手っ取り早くそれを調べるには、七不思議についてまとめられた最新の資料を読んでみればいい。そう、他でもない森口鈴香の原稿を。
「……目新しいことは書いていないな」
「ですね。確かにいなくなった人はいますけど、聞いてる話ほどじゃないですし」
 行方不明者は過去に一名のみ。現場に残されていたのも血痕と、皮膚の一部が付着した髪の束が少しだけだ。彼らが耳にした話では、これまでに最低でも3人が犠牲になっており、翌日踊り場にはひきちぎられた腕だの、腹を裂かれた死体だのが転がっていたという具合だったのだが。
「……噂っていうのはそういうもんだ」
 おもむろに、二人のものでない声が割り込んできた。振り返れば、いつから話を聞いていたのか、ベッドの上で読書していたはずの俊己がこちらを見ている。
「口伝えという情報伝達をくり返していると、どうしたって細部が曖昧になってくる。その曖昧さが曲者なんだな。はっきりしないものははっきりしないまま伝えていけばいいのに、人間てやつはつい確実さを求めては、いい加減なことを言ってごまかすからな」
 そう言って肩をすくめた。
 噂話の中では、だろう、じゃないか、などと不確かな推定形で語られた言葉が、いつしか断定形へと変化する傾向がある。おまけに人間は誰しもがおもしろい話を好む。こうであった方がおもしろい、こうであった方がスリルがある。そんな思いが無意識に、語る言葉へ脚色 の筆を加えてゆく。そうして伝えられる『真実』は、やがて当初起こった『事実』から歪んでいってしまう。人が意識しないままに期待する、センセーショナルでショッキングな出来事へと。
「おもしろければ、事実なんて二の次ってことですね」
 いずみの言葉に、俊己は満足そうにうなずいた。
「七不思議がパターン化されていったのも、そこらへんの心理が大きく働いたらしいな」
 さっきから読んでいる本を持ち上げ、二人に題名を見せた。
 『口頭伝承の展開と諸相』
 あぐらをかいたまわりには、さらに『うわさと誤報の社会心理』、『学校における不思議伝承の考察』、『学園七不思議総説』、『現代民話考 ―― 学校 ―― 』などといった本が散らばっている。
「さっき言ってた『トイレの花子さん』だの『笑う肖像画』だの『幽霊ピアノ』だの、夜になると増える階段や二宮金次郎の銅像が歩くなんて話は、どこの学校でも聞くよな。あれは生徒がそんな怪異を期待して語るからこそ、同じような話が複数地域で発生するんだとさ」
 学校というものは、大体どこでも同じような造りをしている。構成要素の位置関係はそれぞれ異なっていても、校舎には様々な特別教室があり、保健室やトイレや階段がある。体育館やプール、校長の写真や銅像。まったく違う場所に建ちながら、きわめて似通った構造を持つのが『学校』という空間だ。そうした共通する舞台装置がそろっている状況は、他校に伝わっている怪異の話をそっくり移植してくるのに、実に都合がいいのだという。
  ―― あそこの学校では、こんな怪異が起こったらしい。ならばうちの学校でも起こるのではないか、と。そう言えば先日、トイレで白い影のようなものを見た気がする。あれは話に聞く花子さんというものではないのか。あの学校にいるのなら、うちの学校にもいておかしくない。そう、きっといるはずだ。
 期待は推定を呼び、推定は間を置かずして断定と化す。そして断定された瞬間から、それはおそるべき勢いで成長を始めるのだ。
 女子トイレの『ある』個室に入り『1、2、3、花子さーん』と叫ぶ。するとどこからともなく返事をする声が聞こえてくる。基本はこうだ。そこに様々な要素が加わってくる。
 花子さんその人が、呼び出した人間の後ろに現れる。トイレットペーパーが切れていると、ドアの向こうから投げてくれる。ひとりで呼び出すと、便器からナイフを持った手が出てきて殺される。赤いはんてん着せましょか、青いはんてん着せましょか、と問いかけて、赤と答えると上から血が降ってくる。青と答えると全身の血を抜かれて殺される。などなどバリエーションは数限りない。
 しかし、それだけ多様化しているにも関わらず、なおもそれらはどこかで聞いたような話として類型化できるのだ。即ち、それらはすべて伝聞を原形に、よく似たような発想を持つ同年代の人間達の想像力を加え、『言葉の上だけで』構築されていった、『期待された』怪異なのだから。
「……なるほど」
 興味深げに拝聴していた明が、深くうなずいた。
「つまりパターン化された七不思議とは、『学校』という各地に共通した場を舞台とすることで、全国のあらゆる学生が共有し、力を合わせて作り上げた巨大な仮想現実バーチャルリアリティと言える訳だな」
 実際にそこにある訳ではない、しかし大勢の心の内には厳然として存在する共通認識。信じる者達にとっては真実であるそれは、摩訶不思議なもうひとつの現実と言えた。
「……でもさ、俊己さん」
 ベッドの本を手に取りめくってみていたいずみは、ぱたんとそれを閉じると俊己を見あげた。
「今回それ、関係ないんじゃないですか? だって『人喰い鏡』って、ちゃんと本物だし」
「そ、それは……そうなんだが……」
「それに俊己さん、忙しいんじゃなかったんですか? なんでわざわざこんな本読んでるんです?」
「うっ……」
 無邪気ないずみの質問に、俊己はあせって言葉につまった。あちこちへと視線を投げながら、どう答えるべきか必死に考えている。それを見る明はひそかに笑いをこらえた。
 何だかんだと言うものの、彼はこういう男なのだ。ぱっと見には冷淡で、一部からはオニとまで呼ばれているくせに、その実ひどくじょうが深い。明といずみがこの件を調べたいと言うのなら、ちゃんと協力してくれるであろうことは予測していた。なにしろ俊己は明にとって、実に頼りになる補佐役なのだか ら。
 それに、彼のことだから行方不明になった女生徒達のことを、心の底では気にかけていたのだろう。だからこそ、明達の不真面目な態度に気分を害しながらも、夕べの張り込みをやめさせようとはしなかったのだ。
( ―― いい男だよな)
 内心の笑みが顔に出ないよう注意しつつ、明は俊己に声をかけた。いずみの追及から解放されて、安心したように振り返る。
「今夜も鏡を見に行くが、お前も来るか?」
「無駄足なんじゃないのか?」
 夕べ何も起こらなかった理由は、結局判っていない。今晩も待ちぼうけになる可能性は高かった。
「大丈夫だ」
 明はきっぱりと断言した。その両目がすっと軽く細められる。
 途端、それまでの彼とはがらりと雰囲気が変わった。普段漂わせる好青年然としたものが消え、一種剣呑な空気がその身を包む。
「どうしても現れないというのなら、引きずり出してやればいいんだから」
 口の端を上げ笑う表情すら、別人のように猛々しかった。強い光を宿す瞳が、まっすぐ俊己と目を合わせる。
 いずみが表情を改めて、姿勢を正した。俊己は気圧されたように、一瞬息を呑む。しかし視線をはずすことはしなかった。
「ほどほどにしとけよ」
 そう言って、まっこうからその目を見つめ返す。
 そのまま数秒、二人は動かなかった。奇妙に緊迫した空気が室内に満ちる。
 ふっと明の目から剣呑な光が消えた。
「……判ってるさ。無茶はしない」
 にこっと笑った笑顔は、既にいつもの明だ。
「そう願うね……」
 ため息をつきながら、俊己はそうひとりごちた。
 それは、小さなつぶやきではあったが、かなり切実な響きを帯びていた。


*  *  *


 陽子は、自室のベッドの上でひとり、膝を抱えて震えていた。
 もう日付けが変わってずいぶんになる時刻だというのに、彼女の部屋の明かりは小さくされる様子もない。
 室内を明々と照らしているのは、天井の蛍光灯だけではなかった。机にあるスタンドも、枕元の読書灯も。すべての照明器具がスイッチを入れられ、あたりを満たそうとする夜の気配へと抵抗を試みていた。
 何かから身を守ろうとするように、彼女は小さくうずくまる。頭から布団をかぶり、息をひそめ、怯えた瞳だけがびくびくと外部をのぞく。
 今の彼女にとっては、己をとりまく全てが限りない恐怖の対象だった。家具の間のわずかな隙間や床に落ちる小さな影、そして ―― 机に置いた鏡はもちろんのこと、窓や棚にはめ込まれたガラスから、なめらかなおもてを持つプラスチックテーブル、壁に貼ったポスターの表面までも。
 それは、そこに己の姿を映し出す物体。たとえ映るのが色のない陰影のみであろうとも、ぼやけた人型の影にすぎなかろうとも、それは紛れもなく自身の分身だ。あの時現れた、あれと同じに。
 思い出したくないものが記憶に蘇り、陽子は喉の奥で悲鳴を上げた。布団をつかむ指に力がこもり、全身をしっかりと包み隠す。
 あれは、鬼だ。
 月の光に誘われて、鏡の中から現れるという、人喰い鬼。あれによって鏡に引きずり込まれた人間は、二度と帰ってこられぬまま、無残に喰い殺されてしまうのだ。そう、かつて見つかった、遺体の一部の持ち主のように。
 そうだ、先輩はあれに連れていかれた。きっともう、生きてはいないだろう。だってあれは、人を餌にしている鬼なのだから。先輩は殺されてしまった。二度と戻って来ることはない。もう自分に話しかけてくれることも、一緒に取材してまわることもないのだ。
 すすり泣く声が厚い布団を通して外に洩れる。
  ―― 連れていかれたのは、先輩だけではなかった。ひっこみ思案で怖がりで、けれど小さくてかわいくて、いつも自分の後をついてきてくれた、大事な大事な幼なじみ。彼女までもあの鬼は奪ってしまった。同じ姿をした鬼にしがみつかれ、鏡の中へと消える瞬間、彼女は信じられないという目で陽子を見ていた。こんなことは嘘だ、あるはずがない、と訴えていた。力づくでもぎ離 された両腕が虚しく空をつかむ様は、悪夢のように陽子の瞳に灼きついていた。
「ごめんね……奈々子……ごめん……」
 嗚咽混じりに謝罪する。
 自分があんな所に連れていったりしなければ、彼女はさらわれなどせずにすんだのに。あんなに怖がりなあの子なら、自ら七不思議に首を突っ込んだりするはずがないのだ。陽子が無理にでも連れていかなければ。そして……自分があの手をきちんとつかんでさえいたならば……
「ななこぉ……」
 どれだけの間、そうしてすすり泣いていただろう。
 脳裏に浮かぶのは、鏡の中で鬼に追われ、悲鳴を上げている奈々子の姿だ。それとも彼女はもう、とっくに殺されてしまっているのか。
 それを考えると、その情景が目の前に浮かぶようだった。
 力を失った白い手足が、まるで壊れた人形のように真っ赤な血だまりの中に投げ出されている。うつろな表情を浮かべた頬に、柔らかな髪が数筋貼りついている。ひどくうっとおしそうなのに、彼女はもう身じろぎひとつできないのだ。光を失った瞳が、口元を血に染めた同じ姿の鬼を、虚しく映していることだろう。恐ろしくて、むごたらしい、たとえようもなく悽惨な光景。
 自ら想像したそれに、陽子はなおのこと恐怖をかき立てられた。
(怖イ)
 目を閉じて、頭からその光景を振り払おうとする。しかし閉じた目蓋の裏側は、果てしなく続く闇の中でしかなかった。そしてその暗黒のスクリーンは、残酷なシーンをよりいっそう鮮明に浮かび上がらせる。
 慌てて目を開けると、頭からかぶった布団に包まれて、そこもやはり闇だった。陽子は自分から、全身を闇へと閉じ込めていたのだ。それに気が付いた彼女は、悲鳴を上げて布団から飛び出す。
(怖イ)
 ベッドから転げ落ちるように逃げ出して、丸まった布団を怯えた目で見る。どうして今までこんな格好でいて平気だったのだろう。盛り上がった形を残した空洞の、そのわずかな暗がりでさえもこんなにおぞましいというのに。
 ベッドに目を据えたまま、絨緞の上をずるずると後ろ向きにいざる。と、その背中が何かにあたった。反射的に振り返れば、目の前に戸棚のガラス。
「ひ ―― ッ」
 吸い込んだ息が喉を鳴らす。鏡像から逃れようと立ち上がれば、カーテンの間からのぞく窓が、慌てて下をむけば床に放り出していたCDのケースが、さらに別の方を見ればタンスに置いた時計の文字盤が、嫌でも目に入る。それら全ての中から、『陽子』が陽子を見つめてくる。
 陽子はゆるゆると首を振った。
(嫌ダ)
 どちらをむいても『陽子』がいる。
(怖イ)
 目を閉ざしたところで、待っているのはなお恐ろしい闇ばかりだ。
(怖ガルコトハナイハズダ)
(コレハタダノ影法師)
(自分ノ姿ガ映シ出サレテイルダケ)
 必死に自分に言い聞かせる。しかしそれも効果はなかった。
( ―― ダケド)
(二人ハ自分ノ鏡像ニ喰イ殺サレタ)
(タダノ影ガ、鏡ヲ抜ケ出シテ)
(奈々子ハ『奈々子』ニ連レテイカレタ)
 思い出す。奈々子と同じ顔をして、鏡の中から現れた鬼。あれは確かにそこにいた。そこにいて、同じ姿の奈々子をさらっていった。
 いま、ここには陽子と同じ姿をした鏡像が存在する。どの鏡像を見ても、それは確実に陽子の方を見つめている。
(コノ鏡像ハ、私ノコトヲ見テイル)
(私ト同ジ姿デ、私ノコトダケヲ見テイル)
 それが何故なのか、陽子は理解したような気がした。緩慢な動作で両手を上げ、口元を覆う。既に、悲鳴を上げるだけの気力もなかった。
 呆然と見つめる陽子の前で、『陽子』はゆっくりと微笑んで見せた。口元を押さえていたその手が下ろされて、陽子の方へと差しのべられる。
 陽子は、絶望の中でその手を待ち受けた。

( ―― 次ハ、私ノ番ナンダ)


<<Back  List  Next>>


本を閉じる

Copyright (C) 2000 Makoto.Kanzaki, All rights reserved.