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 かくれおに 第二章
 ― Makoto.Kanzaki Original Novel ―
 
神崎 真


 深夜、岩城学園男子寮、葵荘が201号室。
 代々の寮長、副寮長が住まいしてきたその部屋では、3人の少年達がそれぞれに時を過ごしていた。二人部屋なのにも関わらず人数が一人多いのは、言うまでもなくいずみが来ているからだ。
 扉から見て左右の壁際に、机と椅子とベッドが二つづつ、対称的に並んでいる。向かって右側が俊己の、左側が明のものである。ベッドとベッドの間には、四角い小さなローテーブル。冬には布団をかけて暖房器具にもなるというすぐれ物だ。 ―― またの名をコタツとも言う。
 上履きを使うとはいえ、とてもきれいとは言いがたいリノリウムにも頓着せず、いずみは床に直接あぐらをかいていた。ローテーブルの上にノートを広げ、びっしりと並ぶ数式を前に、シャーペンの尻を噛んでうなっている。明はそのそばまで椅子を引きずってきて、のぞき込むような姿勢で勉強を見てやっていた。自分の手の中には、休んでいる間に出された英語の課題。少し離れた窓際の机では、俊己が足を組み肘をついたくつろいだ格好で、書きかけのレポートに目を通している。
 のどかでありきたりな、平和な夜の場景。
 破られることは、初めから決まっていたのかもしれない。
「ん……?」
 最初に動いたのは明だった。いぶかしげな顔で上体をひねり、窓の方を見やる。
「あれ?」
 その視線を追ったいずみも、わずかに遅れて首をかしげた。窮屈そうに折りたたんでいた細長い足をひょいと伸ばし、立ち上がって窓へと向かう。
「どうかしたのか?」
 後ろを通ったいずみに、俊己がレポートから顔を上げて振りむいた。
「ええ、ちょっと……」
 曖昧に答えて窓を開ける。
 そこから外を眺めてみても、目に入るのはただ静かな夜の闇だけだった。
 この寮は、入居する学生達にとってありがたいことに、学園の敷地内に建てられていた。もっともなかなか広大な敷地なので、遅刻の心配がまったくないという訳ではないのだが。ともあれ学園内ということで、夜間になれば近辺に明かりを放つような施設はない。街灯はそこここに点在しているが、それも建物の入口付近を照らしている程度。電気のついた部屋の中からでは、かなり明るい月の光をもってしても、物の輪郭すらろくに捕らえられはしなかった。
 彼らの部屋の窓は ―― グラウンドとテニスコートと、雑木林と憩いの広場とを挟んで ―― 校舎のある方を向いている。いずみは真剣な表情でそちらを見つめていた。
「どうだ」
 椅子に座ったまま、明が訊く。
「なんか……変ですよね。けど、ここからじゃちょっと」
「目に見える範囲では、何もおかしなことはなさそうだけどな」
 頼りない答に俊己が言いそえた。そもそも窓際にいた彼の方は、何も異常など感じていない。
 二人の言葉に、明は軽く目を細めた。暗がりの向こうを見透かすように、視線を窓の外へ向ける。
「 ―― いずみ」
「はい」
「見てきてくれ」
「はい」
 いきなりな指示に、しかしいずみはあっさりうなずいた。時刻は既に消灯をまわっている。消灯後に寮内の部屋を行き来するのは、黙認されている状態 だったが、それでも建物から出ていこうというのはいささか大胆な所業だ。出入口脇の詰め所には寮監が詰めているし、戸締まりをされているから窓からの出入りもままならない。そしてなにより問題なことに、そもそも明は寮長だ。そういったことを取り締まるのがその役目。率先して門限破りを命じたなどと寮監にばれれば、大目玉どころではすまされないだろうに。
「じゃ、行ってきます」
 ちょっと頭を下げて、いずみは窓枠を乗り越えた。上履きがわりのつっかけのまま、ぽんと地面に飛び降りる。
  ―― ちなみに、ここは2階だったりする。
 駆けていく後ろ姿を見送った俊己は、ひとつ息を吐くと肩をすくめた。座ったまま手だけを伸ばし、開けっぱなしの窓を閉めると、再び手元へと目を落とす。明も中断していた英訳を再開した。
 そのまま数分間。部屋は元通り平和な静けさを漂わせていた。明は切りのいいところでテキストを閉じ、立ち上がる。
「そろそろ点呼に行ってくる」
「ああ」
 そちらを見もしない返事。明は点呼用紙のある詰め所へゆくべく、ドアに向かった。そして、ふと立ち止まる。
 ドアの音がしないのに気が付いて、俊己は視線を上げた。部屋の真ん中につっ立っている背中を見やる。しばらくそのままでいた明が、やがてゆっくりと振り返った。
「……俊己。点呼を代わってくれないか」
 細められた両目が俊己を見返す。そこにどんな色を見てとったのか。めんどくさげに鼻を鳴らしながらも、俊己は読みかけのレポートを置いた。
「はいはい。五回代わるのが六回になったところで、大差はないからな」
 憎まれ口を叩きつつ立ち上がる。
「悪いな」
 詫びる明の横をすり抜け、部屋を出ていく。そしてそれと入れ替わるように、派手な音を立てて窓が開けられた。
「明さん!」
 一体どうやったのか。ろくに足がかりもない二階の窓から、いずみが勢いよく飛び込んでくる。
 応じる明は、まったく動じていなかった。慣れた口調で問いかける。
「ご苦労さま。で、何を見てきた?」


*  *  *


 その晩、砂原陽子は友人ら3人と連れだって、夜の校舎へと忍び込んでいた。3人とは、昼休みに食堂で一緒にいた、楠木奈々子と舟木瑞江ふなきみずえ佐倉仁美さくらひとみ、である。
 昼間奈々子があれだけ怖がるほどの怪談をしておきながら、何を好き好んで夜中の学校などという、不気味な場所に足を踏み入れているのか。余人が見たらそう言いたくなるような行動だ。
 しかし陽子には、れっきとした目的があった。それもこの時間、この場所でなければならないそれだ。
「ねぇ……やめようよぉ」
 先に立って廊下を行く陽子の服を、奈々子が後ろからひっぱった。
「駄ぁ目。絶対に確かめるんだから」
 ささやくような声で、しかしきっぱりと言い切る陽子に、奈々子はすがりつくように身を寄せた。その顔は既に半泣きに近い。
「そんなに怖がることないって」
「そうそう。ちゃんとお守りだって持ってきてるんだし」
 瑞江と仁美が口々に慰 めた。それでも奈々子は陽子から離れようとしない。
「ほんとに怖がりなんだから……」
 仁美が苦笑する。
 彼女達は奈々子が怖がっているまさにそれ、昼間話題にしていた七不思議を見に来たのだ。それは本当に実在しているのかを確かめ、また実在しているのならば、はたしてその現象は語られる話の通りであるのか、を見に。
 実際のところ、岩城学園七不思議といえば、数が多いこととその信憑性の高さで、他校のそれとは一線を画しているものだった。まことしやかに語られる伝説は、あるいは又聞きであり、またあるいはどこの誰とも知れぬ『とある人物』による体験であったりするのだが、中には実際に怪異に出会ったと、自分自身の体験を口にする者もわずかながら存在しているのだ。
 言葉の上では、そんなものはただの気のせいだ、愚かな噂話だと笑い飛ばしながらも、心の底ではまさかという気持ちを拭いきることができない。冗談と、おもしろいおしゃべりの話題という名目の下に、口にせずにはいられない。そんなものは『話』に過ぎないのだと、誰かに言って欲しいから。自分の心を安心させて欲しいから。
  ―― そうして伝説は、口から口へと伝えられてゆく。友人達へ、後輩達へ。
 今回の件もそうだった。尊敬する先輩が行方知れずになった。原因はおそらく学園七不思議。身近な存在が巻き込まれたことで、陽子の語り口はより真実味を帯び、噂にまたひとつ箔をつける。
 さらに陽子は、自らの目でその事実を確認することで、いっそうの信憑性を求めた。それによって、先輩が失踪したのは紛れもなく、七不思議の故なのだと証明しようとしていた。
 昼間、俊己が察したような心理を、陽子はおおむね自覚していた。
 彼女には鈴香を探す手だてとして、鈴香本人をおとしめるような方法を選ぶことはできなかった。たちの悪そうな交友関係の訊き込みや、行動範囲の捜索などしては、鈴香に対して申し訳がない。けれど、何もしないではいられないこともまた事実。
 そうだ。学園七不思議が原因であれば、先輩の名誉は守られる。そしてその実在を証明できれば、先輩の行方を突き止めることだってできるかもしれないし、うまくいけば特集記事だって完成させられる。
 行方知れずになった先輩を見つけたい。またその仕事を完成させたい。そんな二つの願いを共に叶えるためのキーワードに、ちょうど『学園七不思議』がぴったりとはまったのだ。
  ―― そう。彼女はきちんと自分の理論展開を理解していた。
 ただ、二つの点にだけ、気が付いていなかった。
 ひとつ目は、不思議が本当に実在するのかどうかもはっきりしない段階で、ためらいなく怪異を原因とすることを選んでしまった、その思いこみの強さ。『それ』が理由であれば、誰もが鈴香に責任がないことを認めてくれるだろうと考えてしまった、その考え方の狭さ。俊己のように客観的な冷静さを伴 わないそれは、自分の主張が人によっては一顧だにしない与太に過ぎないのだ と、彼女に自覚をさせていない。
 そして、もう一点。
 それは『自分こそ』が彼女を見つけるのだ、『自分こそ』が記事を完成させるのだ、という想い。
 人間は誰しもが自らを誇ろうとするものだ。何かすごいことを行いたい。他人から一歩でも抜き出たい。そんなふうに考える。当たり前のことだ。それ自体は何も悪いことでなどないし、むしろそういった向上心を持たぬ人間のほうが、よほど愚かであると言って差し支えないだろう。
 ただ、その心理を人は自覚しておくべきなのだ。己のずるさ、利己的な心をきちんと理解し、許容して日々を生きることを覚えなければ、いつかどこかで取り返しのつかないことを引き起こす可能性がある。それがどんな形で現れるかはその時々で異なるが、あまりみっともいいものでないことだけは確かだ。
 いま陽子は友人達と共に、懐中電灯であたりを照らしながら歩いている。何故ひとりで来なかったのだろうか。
 ひとりで怪異を確認するよりも、人数がいた方が他人に信じてもらいやすいからだ、と彼女は考えている。けっして、ひとりでは怖かったからだとは思っていない。何故なら彼女は、自分がそう思っていないと信じ込んで疑わないのだから。自分は先輩のために正しいことをしている。だから自分の行動に間違いはない。怖いなんて弱々しいことや、誰かに頼るなんて情けないことなど、考えたりするはずがない、と。
「 ―― もう。そんなにくっついてたら、歩けないじゃない」
 陽子は首をひねると背中に貼りつく奈々子を見下ろした。
「だって……」
「そんな顔しないの」
 不安そうな奈々子の頭を、ぽんぽんと撫でてやる。ふわふわと波うった茶色い髪が、柔らかい手ざわりを伝えてきた。なんだか毛並みのいいペルシャ猫か何かを撫でているような感じがする。つぶらな目といい、下から見上げてくる仕草といい、かわいい盛りの仔猫だ。
「仕方ないわね。手つないどく?」
 明かりを持っているのとは逆の手を差し出すと、奈々子はしっかと両手でしがみついた。その体勢ではやはり動きにくい。陽子はため息をつくと奈々子を引き寄せた。
「ほら、ここ持って」
曲げた腕の肘あたりを示す。女の子同士で腕を組むのも何なのだが、奈々子の方が10cm以上背が低いので、けっこう様になるあたりがちょっと悲しい。
「よッ、熱いねお二人さん」
 仁美と瑞江がヤジを飛ばした。ひゅーひゅーと口笛を吹く真似をする。
「言ってなさい」
 陽子は相手にしないで歩き出す。
 面倒見が良くてはっきり物を言う陽子と、人見知りで気の弱い奈々子とは、幼なじみなこともあってひどく仲が良かった。何かというと陽子が奈々子の世話を焼いている形だ。
「やだ、置いてかないでったら」
 さっさと行ってしまう二人を、仁美と瑞江はおどけた素振りで追った。ぱたぱたと足音があたりに響き、瑞江の持つ懐中電灯の光が激しく揺れる。
 やがて四人は、体育館に続く渡り廊下の入口で立ち止まった。暗がりの中、大きな建物がそびえ立っているのが、窓ガラス越しにぼんやりと見てとれる。
「『ゴール下の異界への穴』」
 陽子が低い声でつぶやいた。
 岩城学園に伝わる不思議のひとつだ。曰く『第一体育館、ステージ側のコートの北側バスケットゴール。その下には、目には見えない穴が開いている。もしその穴に踏み込んでしまった者は、二度と帰ってくることのできない異世界へと落ちていく』という。
「……それってさぁ、本当にいなくなった人いるの?」
 仁美が訊いてきた。続いて瑞江も口を開く。
「だって、試合中とかにいなくなっちゃうんでしょ? 目撃者がいっぱい出るじゃない。本当にあったら大騒ぎになるわよね」
 二つの頭が同時に上下する。
 陽子も難しい顔で視線を体育館からはずした。
「うん。先輩もこの話は眉ツバだって言ってた。十年ぐらい前からある話なんだけど、実際にそれらしい行方不明者はいなかったって」
 取材している鈴香とよく話をしていただけあって、陽子はこの話題についてかなり詳しくなっていた。知っている話の数と内容は、おそらく明をも上まわるだろう。
「体育館は鍵がかかってるだろうし、いま確かめるのは無理よね。つぎ行こっか」
「……つぎって?」
おそるおそるという感じで奈々子。陽子は唇に人差し指をあて、しばし思案した。
「ん〜っと『終わらない廊下』は部室棟の話だから後まわし。旧校舎の『人喰い鏡』にはまだ早いし、『開かずの扉』が近いか……そうだ、『赤・白・黄色』はそこのトイレだっけ」
 ぽんと手を打って廊下の先を指差す。非常灯の光に照らされているのは、階段脇の女子トイレだ。
「あ、『赤・白・黄色』?」
 どうやら奈々子はその話を知らないらしかった。それならわざわざ訊かない方が良さそうなものだが、やはりそこは怖いもの見たさというか、あるいは知らない方がかえって想像力を刺激されて怖いという心理が働くのだろう。
 陽子はここぞとばかりに低い声で語り始めた。もっともその内容は、どこかで聞いたことのあるような、パターンにはまったものだ。
「あそこのトイレの奥から二番目に入っているとね、どこからともなく声が聞こえてくるの。『赤・白・黄色、どれがいい?』って。そこで白と答えたならば、何事もなく出てこられるわ。ところが……」
 言葉を切って、ぐるりと3人の顔を眺める。誰かの喉の鳴る音がした。
「赤、と答えた人は喉を切られて、全身血まみれになって死んでしまう。そして黄色と答えた人は……便器から手が出てきて引きずり込まれるの。中に、ね」
「中って……『あの』中、に?」
「そう」
「い、いくらなんでも無理でしょ、あんな小さいとこ」
「そうね。でも ―― その個室、何度か人が入ってないのに、鍵がかかってたことあったんだって。ドア閉めた人、まさか上を乗り越えて出るようなまねしたのかしら」
 一瞬、場には重い沈黙が下りた。そんなのは鍵の故障だろう、という当たり前の台詞を、誰もがとっさに口にできなかったのだ。人気のない、暗い校内で聞かされたその話に、もしかしたら……と。
 語った陽子自身さえ、こわばった面持ちで視線を落としている。が、すぐに顔を上げ、明るく言ってみせた。
「だからぁ、白って答えればいいのよ」
「そ、そうよね」
「赤、白、黄色の『白』ね」
 瑞江が確認する。奈々子は陽子の腕を抱え込んで、白白白と念仏のようにくり返していた。
「さ、いこ」
 促して歩き始める陽子の足取りは、その言葉や表情に比して、いささか重いものに思われた。



 トイレの怪と『開かずの扉』 ―― 開いた時には、どこに通じているか判らないという ―― の見物を終えた4人は、次の不思議を求めて旧校舎へと向かっていた。いまのところ結果は芳しくない。
「人がいなくなるような話は、あと三つか」
 指折り数えていた陽子がため息をつく。既に半分を検証したが、すべてハズレだった。はたして残りの中に、手応えのあるものが存在するか否か。もう半分。いや、まだ半分だ。ぐっとこぶしを握って力を入れる。
 ……それにしても、行方不明者が出るという話に限定しているのにもかかわらず、それだけで六つに達してしまうあたり、さすがは岩城学園というべきものがあった。
「あ、月がきれい」
 仁美が窓の外を見て声を上げた。満月をいくらか過ぎた銀盤が、それでも見事な輝きを放って夜空にある。
「時間はちょうどよさそうね」
 陽子が月を見あげて笑う。二階の窓から眺める臥待の月は、目的地に近づくにつれ、向かいの校舎の後ろへと姿を隠していった。
 旧校舎西棟の南階段、中二階の踊り場には、毎晩数十分の間だけ月の光が差し込んだ。中庭を挟んで西棟の向かいにある東棟は、二つの校舎を渡り廊下で結んだ構造をしており、踊り場から二階の窓を見あげると、その二つの校舎と窓枠のすき間から、わずかな間だけ月を見ることができるのだ。
 そして、その踊り場にある姿見は、生徒達から『人喰い鏡』と呼ばれていた。月光が踊り場を照らす一時いっとき、その鏡に姿を映すと、鏡像が自分そっくりの鬼と化し、鏡の中に引きずり込まれるとも、喰い殺されてしまうともいうのだ。
 かつてひとりの少女が、鏡の前に血痕と毛髪を残して失踪した。その事実が記載された新聞の写しを、陽子は実際に鈴香から見せられていた。
「ねぇ、ここはやめない? ほんとに行くの?」
 またも奈々子がぐずり始めた。ぎゅっと腕に力を込め、歩く陽子を引き止めようとする。
「まぁまぁ。ここまで来たんだから、ね」
 最初は内心の恐れを隠すため、いつも以上にはしゃいだ言動をしていた仁美達も、いいかげん夜の校舎に慣れてきていた。奈々子を宥める態度も適当なものだ。陽子はポケットから小さな手鏡をとり出す。
「鏡から出てくる鬼は、鏡で追い返すことができるの。これで月の光を反射させて鬼を照らせばいいから」
 そう説明して奈々子に渡した。かわいいネコの絵がついたそれをおずおずと受け取り、しっかりと胸に抱きしめる。もちろん陽子の腕も離さない。
 二階の廊下から見下ろした踊り場は、闇のたまった巨大な穴のように見えた。懐中電灯の光を向けると、丸く床の一部が照らされて、それ以外の部分は逆に闇が濃ゆくなる。少しづつ明かりを動かして、壁の姿見を照らし出した。豆電球の黄色い光に、身の丈を越える大きな鏡は安っぽくきらめいた。はね返った光芒が、暗さに慣れた目を貫く。
 慌てて明かりをよそにむけ、一同はしばらく目をしばたたいた。網膜に灼きついた紫色の残像が、視界を覆って何も見えない。
「ちょっと、よ〜こぉ」
「ごめん、ごめん」
 苦情の言葉に、陽子は片手拝みで謝った。いきおい持ったままの懐中電灯が振りまわされ、再び反射した眩しさが襲ってくる。しかたないので陽子はス イッチを切った。それに、そろそろ月光が差し込んでくる頃だ。
「あんた達も消しなさいよ」
「やッ」
 明かりがなくなることに、奈々子が身を強張らせて抗議した。が、既に彼女の要望をいれる者はいない。
 完全に明かりが消えると、むしろ視界は広がった。四人は無言で半階下を見下ろす。待つこと数分。静かにその時はやって来た。
 背中を向けていた廊下の窓から、柔らかな光が差し込んでくる。懐中電灯のような、強いくせにむらのある無粋な光ではない。かすかな、しかしはっきりとあたりを浮かび上がらせる、なめらかに広がる透明なベール。振り返れば、向かいの校舎と校舎の間から、輝く姿の覗いているのが見えるだろう。
 固まって立っていた4人の影が、長く伸びて踊り場に達した。影の先端から十数センチのところに姿見がある。蒼い月光に照らされて、さっきとはうって変わった神秘的なきらめきを宿した鏡が。
 しばらくの間、陽子は目を奪われたように立ち尽くしていた。それから視線を鏡の方にすえたまま、一歩を踏み出す。はっとした奈々子が、とっさに引き止めようとした。が、陽子はうるさそうにその手をふり解こうとする。陽子と離れたくない奈々子は、しかたなくいっしょに階段を下り始めた。
  ―― 進むにつれて、影もいっしょに下ってゆく。頭の部分が鏡に触れ、吸い込まれるように見えなくなる。そして首が、肩が、胸が、腰が……
 ふたり鏡の正面に立った時には、足元の影はほとんどその姿を鏡へと呑み込まれていた。代わるように目の前には、自分達と寸分変わらぬ姿がある。左右を逆にしただけの精密な影法師、鏡像が。
「自分そっくりの鬼、か……」
 つぶやいて、陽子は右手をそっと鏡に伸ばした。鏡の中の彼女は、左手を伸ばす。同じ速さ、同じ角度で近づいた指先が、鏡を境にして静かに触れ合う。指に続いて掌を押しあてると、鏡像も掌を合わせる。表面に手をすべらせればやはり同じ仕草。
 奈々子は、じっと息をつめて陽子の動きを見守っていた。
 まったく思い切りの良さにも、程度というものがある。こんなに鏡に近寄ってもしも、もしも本当に鬼が現れたらどうするつもりなのだろう。鏡に姿を映すだけならば、階段の途中からでも充分にできるというのに。
 心臓が音を立てて脈打っていた。早さは普段の倍近い。陽子の腕と手鏡を抱える掌に、じっとりと汗がにじみ出た。間近にある姿見が、忌まわしい物に思えて仕方がない。
 もしも鬼が現れたら、すかさずこの手鏡を構えて……
 挑むように鏡を見すえる。
 鏡に映る自分は、隣に立つ幼なじみよりもずいぶん背が低かった。肩口で切りそろえたウェーブがかった髪は、ちょっと湿気があるとすぐにくしゃくしゃになってしまう悩みの種だ。すらりとひきしまった陽子と違い、ぽっちゃりとしたお子さま体形も気に入らない。とどめは顔。陽子はあんなに美人なのに、自分ときたら目は大きいわ、鼻は低いわ唇は厚いわで、いいところなんてひとつもない。今だってこんなに情けない表情をしていて……自分は精いっぱい睨みつけているつもりなのに。
 ぐっと目に力を込めて見つめる。しかし映るのは相変わらず情けない表情のままだ。やはり自分では、陽子のように毅然とした表情は作れないのだ。
 嘆息しようとして、ふと思った。本当に自分には無理なのだろうか。ひょっとしたら、鏡の方が嘘をついているのではないか。
 そんなことを考えて、しばらく。その意味することに思い至った時、奈々子の全身から一気に血の気が引いた。
「奈々子?」
 いきなりすごい力でひっぱられた陽子は、後ろへ下がろうとする奈々子をいぶかしげに振りかえった。その鏡像がはたして同じ動きをしているのかどうか、奈々子に確かめる勇気はなかった。
「もうイヤ! 帰ろうよッ。ねェ!!」
 ぐいぐいと陽子の腕を引き、鏡の前から離れようとする。
「ちょ、ちょっと、奈々子」
 階段の上で見ていた二人が、大声に慌てて下りてくる。下手に騒いで宿直に見つかったりしたら大変だ。
しかし、半分ほど階段を下りたところで、二人はぴたりとその足を止めた。
「ね、ねぇ……」
「まさか ―― 」
 呆然とした目が奈々子達を通りこし、壁の姿見へと向けられる。動作の途中、不自然なポーズで止められた身体。その表情に宿っているのは、驚愕と不信、そして……恐怖。
「な、何よ……」
 奈々子を落ち着かせようと階段の方を振りむいていた陽子は、そんな二人の反応を見て顔を強張らせた。問いかける声がわずかに震えている、瑞江と仁美の尋常ではない様子が、陽子にも伝染した。二人の視線を追って鏡を見ようにも、身体がうまく動こうとしない。
 ひとり、ひたすら陽子を動かそうと努力していた奈々子が、様子の変わった陽子を見あげた。その目が陽子の後ろの鏡を捕らえる。
 奈々子の喉から、今までの比ではない絶叫が放たれた。手鏡がすべり落ちて床に硬い音を立てる。

  ―― その場にいずみが駆けつけたのは、それから数秒の後であった。


*  *  *


『……ねえ、聞いた?』
『うん。行方不明の話でしょ?』
『一年生の女の子だって』
『私は二年生って聞いたよ』
『両方じゃないの?』
『夜中に学校で』
『鬼にさらわれたんだって』
『鏡に呑み込まれたとか』
『いっしょにいた子は、熱を出して休んでる』
『え、階段落ちてケガしたんじゃなかった?』
『旧校舎の階段の姿見』
『七不思議の』
『人喰い鏡よ』
『何年か前にも同じようなことがあってさ』
『知ってる知ってる。鏡の前が血だらけになってたって』
『食べ残された死体が残ってたそうよ』
『じゃぁ、今回も……』
『鏡の鬼に喰い殺されちゃったんだ』
『かわいそうに』
『夜中にそんなとこ行くのが悪いんじゃない』
『言えてる』
『月の光があたってさえいなきゃ、ごく普通の鏡なんだから』
『そうよねぇ』
『ねぇ……』


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