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 ぬえの集う街でV  前日譚 ... Netherlandish Proverbs.
 後編
 ― Makoto.Kanzaki Original Novel ―
 
神崎 真


 その後、意識の混濁を見せ始めたシルバーを、フェイはベッドへと移動させ、問答無用で解熱剤と鎮痛剤を投与した。それからクローゼットや水場などをあさり、汗に濡れた身体を手早く清拭せいしきして着替えさせる。たとえ相手が若い女性であろうとも、そのあたりは別段何とも思わない。職務上いつもやっている、慣れた行為だ。
 ついでにむき出しの左足もざっとチェックしたが、目視だけでは特におかしな部分は確認できなかった。
 ただ ―― 作業の間、うわ言のように呟かれる内容が、ひどく耳に残った。
 途切れ途切れで前後の脈絡もなく、発音もはっきりとはしていなかったが ―― それでも繰り返されるのが、何らかの制止や謝罪、そして……己ではなく他の誰かを救おうとする、命乞いのたぐいであることは察せられた。
 何かから逃れるように、そして何かを引き止めたがるように、その腕は力なく藻掻き、あるいは宙へと伸ばされる。たとえ手のひらで受け止めてみても、すぐに振り払い、再度虚空をさ迷う。
 リュウの口ぶりからするに、これは珍しいことではないのだろう。少なくとも彼が『ときどき』と表現する程度には、繰り返されてきた状態のはずだ。
 いくら医師であるとは言え、しょせんは他人である自分に対し、詳しく説明などできるはずもない。口を濁すのも当然だと思えた。
 それでも薬が効いてくれたのか。容態が落ち着きを見せ始めた頃には、とっくに午後の診療が始まる時間になっていた。呼び出しがかからないのは、レンがうまく取り計らってくれているからか。
 小さく息を吐いて額の汗を拭ったフェイは、突如響き渡った聞き覚えのない電子音に、びくっと肩を跳ね上げた。自身の携帯端末の着信ではない。慌てて音の方向を探すと、床から拾ってサイドボードに置き直しておいた、シルバーの端末が目に入った。画面に表示されているのは、『リュウ=フォレスト』の文字と、彼の市民証にも登録されている、生真面目な表情のバストショット画像
 このままでは、せっかく入眠できたシルバーが、またうなされ始めかねない。なんとか音だけでも止めようと手を伸ばしたものの、生体認証でロックが掛かっている端末は、他人の操作を受け付けなかった。
 それでも弄り回しているうちに、向こうがあきらめたのか呼び出しが止まった。
 シルバーの様子に変化はない。ほっと安堵し、元通りの場所へ端末を戻す。それから改めてリュウへと事情を説明するべく、自身のそれを取り出した。待機モードになっている画面を復帰させ、連絡先リストを呼び出し、目的の番号を探す。

 と ――

 半開きになった扉の向こうから、玄関が開かれる騒々しい音が聞こえてきた。
 そういえば、電子錠ロックが掛かっていなかったかもしれない。一瞬焦ったフェイだったが、続く聞き慣れた声に、ああと状況を把握する。

「大丈夫ですかっ! サーラ!!」

 慌ただしい足音と共に、銀狼種の青年が飛び込んできた。同居人である彼ならば、錠の有無など最初から関係がない。
 恐らく応答がない通話を切って、すぐ最上階まで駆け上がってきたのだろう。呼吸を乱したリュウは、室内にいるフェイを見て驚いたように一瞬動きを止めた。しかしその視線がベッドのシルバーを捉えた刹那、その枕元へと走り寄ってくる。
「サー……ッ!?」
 無意識にだろう。その身体へ伸ばされた腕を、フェイは阻むように横から手を伸ばして押し留めた。
 ばっと振り向いた色違いの瞳は、この青年らしからぬ強い非難 ―― というよりもむしろ、敵意とすら思えるほどの、ぎらついた光をたたえていた。
 いつになく乱暴な仕草でフェイの身体を押しのけようとする。
 しかしフェイは動じることなく、わずかに上体を動かすだけでそれをいなした。そうしてもう一方の手で人差し指を立て、己の口元へ当てる。

「やっと眠ったところだ。騒いで起こすな」

 真っ直ぐに視線を合わせ、落ち着いた声音で言い聞かせた。
 威嚇するかのように睨みつけていた青年の耳に、ようやくその意味が浸透したのだろう。身体に入っていた力が少しずつ抜け、表情からも険しさが薄れていく。
 それを確認してから、フェイは上げていた腕を静かに下ろした。するとリュウの右手は再びシルバーの方へと伸ばされる。だが先程までのように、掴みかかる激しさはない。ただそっと、触れるか触れないかの位置で口元に手のひらをかざす。呼吸の具合を確認しているのだろう。
「 ―― 本人はいらないっつったが、一応、市販の鎮痛剤と熱冷ましを飲ませといた。本当はもっときちんと診察して、然るべき治療をしたいところなんだが」
「無理、でしょうね」
 きっぱりとした否定が返される。
 重篤な状態ではないと納得したのか。口元を離れた指先が、額と首筋に貼った冷却用シートをなぞった。
「……事情は聞かれましたか?」
「いや。起きてからしばらくして、着替えようとしたところでこうなったようだが……なんでなのかとか、詳しい話は聞いてねえ」
 言葉を切り、フェイは床に放置された補助装具へと顔を向けた。
 その視線を追ったリュウが、どこか納得した表情で眉を寄せる。やはりあれがきっかけと見て、間違いはないようだ。
「私が、風邪など引いたから」
 小さくこぼれ落ちた呟きは、深い悔恨に満ちていて。
 確かに、リュウの看病をするため、彼女はあの装具を持ち出してきたのだろう。そしてその存在が余人の知るところとなり、フェイの耳にまで届いた。そうでなければフェイはシルバーに、あの装具を見せろと要求することもなかったはずだ。
 しかし ――
「……そいつぁ、違うだろ。そもそもはシルバーの、ここの問題だ」
 フェイは親指を立てて、自らの胸元を指し示した。
「あんなもんが作ってあるってことは、それがシルバーの症状の改善なり、日常生活の補助なりに有効だと、過去に診断されたからだろう。なのにそれを使おうとしない。医師の指導に従わないってのは、シルバー自身の選択だ。……厄介なことに、な」
 フェイは溜息をついてかぶりを振る。
 これがただの我儘からくる反抗なら、簡単な話である。多少強引にでもリハビリを受けさせ、それでも従わないようなら……さじを投げるという選択肢もある。フェイとて忙しいのだ。治ろうとする意志を持たない者にいつまでも関わり合って、他の患者達をなおざりにする訳には行かない。

 けれど、

「俺には……シルバーが治療を受ける行為、それ自体に強い罪悪感を持っているように見えた。肉体的な不便さや苦痛をあえて甘受することで、精神的には一種の救いとなっているんじゃないかとな」

 脂汗を流しながらも、この痛みは自身が受け止めるべきものだと、投薬すら拒んだシルバー。
 そして『自分さえ』という、否定的な意味合いを含んだ、その呟き。
 人間種ヒューマンとして、本来であればもっと高度な治療も、あるいは機械義肢の手配なども可能であろうに。それでも補助装具を使うことすら厭い、頑なに杖のみに頼ろうとするその不自然さは、そこに起因しているのではないか。
 長い沈黙ののち、リュウはためらいがちに、視線をさまよわせながら口を開いた。

「……この足を……ここまで、治療……するのに」

 慎重に、言葉を選びながら。
 本人に許可を得ず、ここで話をすることが、本当に正しいことなのかと迷いながら。

 リュウは生粋の第一世代だ。所有者の命令に疑問なく従うことを、絶対とされてきた存在である。そんな彼が、自らの意思でシルバーの過去についてを口にしようとしている。
 そんな判断を下すことは、果たしてどれほどの葛藤と、そして恐怖を感じるものか。
 自分の発言が、己だけでなく、大切に想う相手の未来をも左右するかもしれない。そして絶対的な『正解』など存在しない中で、もしも『間違えて』しまったならという、答えの判らない怖ろしさ。
 それはこの都市で、ある程度の差別こそ受けながらも、それでも自由意志を持つ一個人として生きてきたフェイなどにはとうてい計り知れない、それこそ真っ暗闇の中で薄氷を踏むような想いなのだろう。
 リュウは幾度も口唇を舐め、大きく深呼吸する。
 横たわるシルバーの、額に貼り付いた髪を、そっと指先で取り除いた。その指が、強く握り込まれる。

「 ―― 人を……死なせた、と」

 ようやく告げた声は、振り絞るかのような響きを持っていた。
 シルバーの不利益となるかもしれない。しかも彼女が他者に知られたくないと思っているだろう情報を、リュウはかろうじて最後まで言い切った。
 フェイ=ザードという医師にそれを告げることで、結果的には彼女のためになるのだと、そう信じて。

「そう、か」

 予想はできていた。だからこそフェイは、問い返すことも、驚きを見せることもせず、ただ静かにうなずくだけに留めた。その反応に拍子抜けしたのか、リュウの表情が一瞬呆けたものに変わる。
 そんな彼へと、フェイは柔らかく笑いかけてみせた。

「……よく話してくれたな。感謝するよ」

 それは今後シルバーに対し、どのような治療を行うべきかという、その指針として役立つ情報だからというだけに留まらず。
 リュウという存在が、自身の精神に幾重にも課せられた目に見えない枷を、またひとつ己の手で打ち壊した。 その事実へのねぎらいでもあった。

「え……?」

 もっと詰問なり非難なり、何かしらの反応があると思っていたのだろう。リュウは不思議そうにフェイを見返してくる。しかしそれには構うことなく、フェイはふいと枕元から離れた。二人に背を向け、寝台の足元側へと進む。
「あの、ドクター……?」
 訝しげなリュウへと肩越しに手を振り、そうしてフェイは、腰を曲げて補助装具を拾い上げた。
 主に金属とベルトからなるその機巧は、予想以上に軽くできていて。フェイの手の中でかちゃかちゃと音を立てて揺れる。
「とりあえず、こいつ借りてっていいか? しばらくは、シルバーの視界に入らない所にやっといたほうが良いだろ」
 上体だけで振り返り、リュウへと補助装具を見せる。
「え……あ、はい。お願いします」
 躊躇いながらもうなずいたリュウに、フェイは手の中のものに視線をやりながら、ただ低く呟きを落とした。

「 ―― よっぽど大事な相手、だったのかね」

 リュウの意志を無視して強引に言い寄り、あげくその過去を知るや侮蔑の色を見せた、フラン改めビアンカ=タッソ。
 そして以前に居住していた都市を離れる原因となった、その相手とやら。
 シルバーが彼らに対して行った ―― あるいは行おうと口にした報復の内容は、漏れ聞くだけでも苛烈な代物だった。
 己 ―― というよりもむしろ、その懐へ入れた存在に害をなすと、そう判断した相手に対しては、まったく容赦のない対応を見せるのが彼女である。たとえそれが獣人種であろうと人間種であろうと、ある意味平等に、いっさいの手心を加えはしない。
 そんな人物が、今さら単なる有象無象を手をかけた程度で、ここまで罪悪感に苛まれるとは考えにくい。

「そ、う……ですね。私も、そこまで詳しく聞いた訳では、ないのですが」

 それでも、時に意外なほど情の深さを見せるこの女性ひとが、半ば意識を失いながらも治療を拒むほど、気に病む相手なのだ。よほどにちかしい間柄であったのだろうと、想像はできる ――
 ならば、ろくに事情も知らぬ自分達が、どうして声高に糾弾などできるだろう。

 それに……

 フェイは小さくひとつ、肩をすくめた。
 そうすることで、場の空気を変える。

「……アウレッタには俺から言っとくから、お前はこのままここで看病しとけ。病み上がりなんだから、いきなりフルで働くこともねえだろ」

 ベッド脇へと再び戻り、床に置いていた診療鞄を回収する。それからほれ、とリュウへ手を伸ばした。
 まだ今ひとつ状況が呑み込めないでいる彼へと、一言。

「エプロン」

 朝食にも昼食にも現れないシルバーが、通話に出なかった段階で、大体の事情を察して頭に血が上ったのだろう。店を飛び出してきたらしいリュウは、シンプルなロングエプロンを着けたままであった。改めて己の身体を見下ろして、ようやくそれに気がついたらしい。
 あたふたと脱ぎ、律儀に畳もうとするのを横から奪い取って、装具とまとめて小脇に抱えた。

「とりあえず、明日また様子見に来るわ。もし容態が悪化するようなら、真夜中でも遠慮すんな。連絡しろ」

 記憶喪失だった頃のリュウは、たとえ深夜に悪夢を見て錯乱しそうになっても、けしてフェイやその他の者を頼ろうとはしなかった。暗い部屋の中で膝を抱え、PTSDから来るフラッシュバックにただ一人で耐えて。そうして少しずつ、壊れていこうとしていた。
 けれど、シルバーのためであれば。
 こうして暗闇の薄氷の上にも、一筋の灯明を差し出しておけば、もう進む道を迷うことはないだろう。
 たとえ時には、立ち止まることがあったとしても。
 それでもきっと、手を伸ばすことができるはずだ。
 どうか助けてくれという、そんな意思を込めて ――


§   §   §


 診療所へ戻ると、数人の患者が待合室に座っていた。しかし緊急性のある者は特におらず、例の風邪が完治したかの最終確認であったり、持病の薬を使い切ったのでもらいに来たという程度だった。一番ひどかった手首を捻挫したという者も、既にレンがひと通りの手当てを終えており、フェイは骨折などの見落としがないかと念の為の検査をするだけで済んだ。
 そうして最後の患者を送り出したフェイの元へと、薬品保管庫経由で白髪の看護師がやってくる。
 机に置かれたサンドイッチとコーヒーに、フェイの腹が音を立てた。なんだかんだで昼を食べそこねていたので、非常にありがたい。
 さっそくひと切れ目に手を伸ばしながら、フェイは机の陰に置いていたものを取り出し、膝の上に乗せた。かちゃかちゃという金属音に、レンが水色の眼を見張る。
「それが、例の ―― ?」
「ああ、シルバーの長下肢装具だ。まだちゃんと調べちゃいねえが、ざっと見ただけでもいろいろと面白えわ」
「……足腰が弱った高齢のかた向けの介助装置については、いくらか学びましたが。これはずいぶんとコンパクトですね」
 レンは老人介護用として作成された第一世代だ。どうやら飼い主に恵まれたらしく、それなりに穏やかな関係を築いたのち、さしたるトラブルもなくこの都市の市民権を与えられたのだという。長く老人介護を続けていた経験が生き、こうしてフェイの診療所でも優秀な看護師として役立ってくれている。
 興味ありげな彼女へ、フェイは先に見るかと差し出してやった。
 遠慮なく受け取ったレンは、可動部を屈伸させてみたり、固定用のベルトに触れて締め方を確認している。そうしてふと、首を傾げた。
「あの、これって」
「ん、どした?」
 口の中身をコーヒーで流し込んでいたフェイは、いぶかしげな声を上げたレンへと聞き返す。
「……アヒムさんは、確か服の上から装着しておられたと、おっしゃってましたよね」
「ああ。ゴウマもそう言ってたぜ。スラックスごと、ベルトで巻いてたって」
 もちろん種類や服装にもよるが、装具 ―― それも太腿までをサポートするタイプは、服の上から着けるようになっているものも多い。別段、不思議がるようなことでもないと思うのだが。
 しかしベルトの感触や靴底パーツの形状、そして各所に配置されているセンサーなどをチェックしたレンは、眉を寄せてフェイを振り返った。そこには困惑と ―― そしてわずかだが怒りめいた感情が浮かんでいる。
「これ、素足用です」
「……は?」
 間の抜けた声が出た。そんなフェイへと、レンは装具を突き出してみせた。
「だってほら、この部分についている緩衝材とか、ベルトの材質も ―― それにこのセンサー、体重移動ではなく、神経系の活動電位を測定するものですよ。皮膚に直接接触させなければ、正確な数値が出る訳ないじゃないですか!」
「はぁッ!?」
 フェイは飲みかけのカップを叩きつけるようにして置いた。
 そうしてレンの手元へと顔を近づけ、言われた箇所をひとつひとつその目で確認していく。

「……ふ……ふふ……」

 やがて、その口唇から低い笑い声が漏れ始めた。

「まさかここまで医者の指示ってやつを、ガン無視してやがるとはなあ」

 眼鏡のむこう、赤褐色の瞳は完全に座りきっていた。
 先ほど清拭時に見たシルバーの左足と、この装具を比較したところ、目分量でも判るほどサイズが合っていなかった。どうやら最後に調整した時よりも、かなり足が細くなっているようだ。あるいはリュウが行方不明になった時のごたごたで、身体全体の肉が落ちたのかもしれない。
 久しぶりに使おうとしてその事実に気が付き、手っ取り早く太さを合わせるために、服の上から無理やり締め上げ、多少の動きにくさは無視したのか。それともほとんど使用していなかったが故に、こんなものだったと気にも止めなかったのか。
 どちらにせよ、医者の努力と装具製作者の開発技術を、まったく無にする行為である。

「ふざけてんじゃねえぞ……」

 シルバーが、この装具に関して思うところがあるのは目の当たりにした。
 足の回復に関して積極的でないのも、自身の精神を守ろうとするが故の、自傷行為に近い行動であるのだとおおむね推察ができた。

 しかし ―― それとこれとは話が違う。

 仮にもここは、キメラ居住区でただ一箇所の医療機関だ。その真向かいに住んでいる人物に、こんな適当と呼ぶのすらはばかられる代物を、使わせている訳にはいかない。
 罪悪感? 贖罪?
 そんなものなど知ったことか!
 仮に、もしもまたシルバーがこの装具を使用しているところを誰かが目撃して、それが己の指示によるものだとでも誤解された日には……軽く死ねる。自身の持つ医者としての矜恃が、断じてそんな屈辱を受け入れられない。


 これでも口は回る方だ。そして人でなしの自分は、彼女が持つ罪悪感につけ込むことなど、屁とも思いはしない。
 無理に足を引きずっていると、見ている者の方が不快な思いをするだとか。
 あるいは己の医療技術に対する、風評被害を招く結果になるのだとか。
 彼女が苦しんでいるのを間近で目にする結果、リュウの精神状態にもまた悪影響が出るかもしれないだとか。
 そんなふうに少しずつ誘導していけば……そうして積み重なった罪悪感が、見も知らぬ過去の『誰か』とやらに対してのそれを、上回るものとなれば……


 それはけして、医師として褒められるような、『正しい』行動ではないのかもしれない。
 患者のためを思って施す治療だなどとは、口が裂けても言えない。ただただ自身のプライドを保つための、自己満足に過ぎない行為だろう。
 けれど、そんなものは今さらの話だ。
 だって、

 ―― ひとごろし、だなんて。

 そんなこと。
 自分にとっては、ああそうですかと、あっさりうなずいてしまえる程度の話でしかないのだから。
 そんな人物は、このキメラ居住区にはけして少なくない数、存在している。
 たとえば彼女達のひとつ下のフロアに入居している、元要人警護用のニシキヘビなどのように。
 そう。自分など、もう何人殺したかなんて、とっくに覚えてはいない。
 それは、救えなかった患者がいるだなんて、そんな綺麗事を修辞的な言い回しで包んでみたのでは、けしてなく。
 間接的な意味でも、直接的な意味でも、フェイの手はとっくに赤すら通り越して真っ黒に染まっている。
 それを後悔したことなどさらさらないし、これからだとて、自分は自身とその大切な者達を守るために、汚いことなどいくらだってやってのける。
 だから今さら、シルバーが誰かを死なせたなどと言われても、別段驚きなどしない。そしてそんな彼女を、己が満足感を得るために無理やり治療することだって、どうとも思いはしないのだ。

 ただ ――

 けれど、それでも。

「……なあ、レン」
「なんでしょう」

 細い首をかしげつつ問い返したクラレンスを、フェイは肘掛けにのせた腕で顎を支え、見上げる。

「シルバー、な」
「はい」
「あの足を治すために、人を死なせたんだと」
「そう、ですか」

 うなずいたレンは、続く言葉を待っている。
 それで? と言わんばかりのその反応に、フェイは思わず失笑していた。

「当人から直接聞いた訳じゃねえが、かなり気に病んでるみてえだ。まあ、守秘義務のひとつってことで、念頭にほど置いといてくれ」
「判りました」

 こくりとうなずいた彼女へと、つと片方の手を伸ばす。そうしてなめらかなその頬を手のひらで包み、そっと引き寄せた。

 互いの口唇が、静かに触れ合う。

「……フェイ?」

 職務時間中にどうしたのかと、淡い水色の目が瞬いた。
 ごく間近からその美しい瞳を見つめながら、フェイは内心で思う。

 シルバーが『死なせた』というその人物と、果たしてどんな関係で、そこにどんな事情があったのかなど、まだ何も知りはしない。
 いったん敵だと判断した相手には、微塵の躊躇いも見せず、容赦ない対応を取る彼女のことだ。ならばあの過剰とも言える反応は、とても ―― とてもとても大切にしていた相手を、已む無く犠牲にしてしまったからなのかもしれない。
 だからこそシルバーは、贖罪という名目のもと己の肉体を傷つけることでしか、精神を守ることができないのだとしたら。

「ん、ちょっとな」

 フェイは口の端をかすかに持ち上げ、嗤う。

 あるいは、

 仮にもしも、この手でクラレンスを殺す羽目になったならば。
 その時には、己でもあんなふうに、見ている方が苦しくなるような深い罪悪感を、抱くことになるのだろうか ――

 確かにそれは、できる限り避けたい『もしも』の話に違いない。
 そんなことを、フェイは考えたのだった。


 〈 鵺の集う街でV 前日譚 終 〉        
(2020/01/03 22:58)
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