<<Back  List
 ぬえの集う街でV  ―― Love is blind.
 エピローグ
 ― Makoto.Kanzaki Original Novel ―
 
神崎 真


 翌朝。
 【Katze】のいつもの席で、シルバーとジグは向かい合わせに座っていた。
 今日も彼女は、テーブル脇に杖を立てかけている。いつもの前腕をU字型のカフで支えるタイプのものだ。そして左足の補助具は装着していない。長年調整もしないまま放置されていたそれは、ドクターの手によって見た目も着け心地もかなりの改善がなされたのだという。それでもあまり使いたくないらしく、彼女がこの店を訪れる際に使用していることは、ほぼなかった。
 そんな彼女とジグへと、周囲の客達が時おりちらちらと視線を向けている。しかしシルバーはいつものようにまったく気に留めていないし、ジグもひとまずは意識の外へ置くことにしていた。
 すっ、と。
 細い指先でテーブルの上を滑らせて、小さな紙片が寄越される。
「新しい連絡先を用意した。今後はこちらを使うと良い」
 視線を落とせば、特徴的な数字と文字の羅列が一行。携帯端末用の番号だ。
 保証人の名義がアルベルトからシルバーへ移譲された結果、エルニアーナはもうジグの個人情報にアクセスできなくなっている。通信端末の設定さえ変更してしまえば、もう連絡が来ることはないはずだった。
「……手間を掛けてすまない」
「いや、これは簡単な手続きで作成できる、無料のものだ。大した労力ではない」
 獣人種にとってはまだ様々な面で所持や活用が難しい電脳機器だが、シルバーは人間種ヒューマンである上に、その種のことに関しては専門家だ。それこそ人間であれば子供でも利用している無料サービスの登録など、数分で終わったという。
「それから、六階の角部屋の番号を入れ替えておいた。データ上では、階段側にある空室が六〇一号室となり、お前の住んでいる部屋はこれから、六〇三号室という形になる」
 これで仮にエルニアーナからこのアパート自体に問い合わせがあったとしても、六〇一号室には誰も住んでいないと跳ねのけることができる。何も嘘をつく必要などない。ただドアの番号表記が変わったのだと、馬鹿正直に告げなければ良い話だ。
 そもそもこのビルの5Fと6Fには、ワンフロアに2LDKが3部屋存在している。六階中央の六〇二号室にはルイーザが居住しているが、その左右を入れ替えただけなので、彼女には何の影響も与えずに済むし、ジグが実際に引っ越しする必要もない。ただ、他のフロアとは部屋の並び順が逆になっただけのことである。
「扉の番号表示は、自分で貼り替えてくれ。そのあたりはアウレッタかリューに訊けば判るだろう」
 この建物の実質的な保守管理を行っているのは、その二人だ。作業に必要な道具や資材についても把握しているだろう。
 何から何まで行き届いた手配りに、ジグはもう頭を下げるしかない。
「あんたには、本当に……迷惑ばかりかけた」
 もともとは、ほんの少しの間、名前を借してもらうだけのつもりだったのだ。
 なのに蓋を開けてみれば、危険な襲撃に巻き込んでしまったうえに、〈シルバー・アッシュ〉としての仕事に支障をきたしかねない事態に陥らせてしまった。あげくに保証人の名義変更である。

「……こちらとしても、充分に利はあった。特に、あのカタクス商会に貸しを作れたというのは、悪くない」

 食前のアイスコーヒーへと口を付けながら、シルバーがそんなふうに呟く。

「貸しというが、あの男はそれぐらい平気で反故にするぞ。なぜあの場で代価として、口止めでも要求しなかったんだ」

 一晩が過ぎていくぶん冷静さを取り戻したジグは、改めてシルバーに苦言を呈する。
 商売人である彼がはっきり対価を払うと言った以上、それに関しては信頼がおける。しかしシルバーはあくまで土産だと称して、無償で映像データを渡してしまった。いったん対価は必要ないと言質を与えてしまった以上、貸しなどという不確かなものを当てにするのは、あまりに危険がすぎる。
 しかしシルバーは気分を害した様子も見せず、ただグラスをコースターへ戻す。

「代価を受け取ってしまえば、そこで取り引きは終了する。取り引きが終われば、あとは赤の他人同士。互いの関係も白紙に戻る。故にあの手の人種と関わりを持つならば、あちらにある程度の利益を与えた上で、あえて少し貸しを残す程度がちょうど良い。切り捨てるのも、足元を掬うのも惜しいが、首筋を押さえてくるほど窮屈でもない。そう思わせるぐらいがな」
「それは……しかし……」
 確かにその理屈も判らなくはない。あくまで物事を損得で勘定する相手には、侮られすぎるのも問題だが、逆に脅威とみなされても厄介になる。そのあたりに関しては、十年前まで嫌というほど見聞きしていた。
 それでも懸念は残る。
「あちらに渡した、あの……『あれ』のせいで、あんたに不都合が起きることも考えられるだろう?」
 あの防犯カメラ映像には、シルバーの姿も映っているはずだ。それがどう巡り巡るか……場合によってはあの男自身が積極的に利用して、彼女に不利となる状況を作り出す未来も、ありえないとは言えなかった。
「その可能性に関しては、限りなくゼロに近いと断言できるな」
「シルバー!」
 楽観的すぎる答えに、思わず声に力が籠もる。周囲のテーブルにいた客達が数名、びくりと身を震わせるのが視界の隅に映った。しかし気にしている場合ではない。
「あの男は……っ」
「一部が欠損していると、言っただろう」
 シルバーの視線は、伏せられていた。覆いかぶさる睫毛によって、そこに浮かぶ光は見て取れない。
「私の姿も、お前の姿も、あの映像には残っていない。角度とタイミングが悪かったのだろうな」
 テーブルの上で、細い指が組み合わされる。今日は素手のままで、象牙色の肌がむき出しになっていた。
「記録媒体はどこにでもある量産品だし、指紋も付着していない。そして向こうが指定したあの公園には、防犯カメラが設置されていなかったうえ、妨害装置ジャマーを作動させている反応もあった。あちらも余計な証拠を残したくなかったと見える」
「まさか……」
 この暑い時期にわざわざ手袋など嵌めていたのは、あくまで正装の一環なのだと思っていた。事実、整えられた衣服の雰囲気を乱すものではなかったし、むしろ正体不明の凄腕プログラマーという彼女の肩書を後押しする、どこか現実離れした雰囲気を演出する小道具ともなっていただろう。
 まさかそれが、指紋を残さないためにと、最初から計算されたものだったというのか。
 そして20分にも及ぶ映像の中に、ジグとシルバーがまったく映り込んでいないなど、偶然では到底考えられなかった。いくら復元できない部分があり、そして二人が早々に現場を離れたからと言っても、それはあまりに不自然が過ぎる。
 つまりシルバーは、意図的にその部分を復元しなかったのか。
 いや……
 そこまで考えて、ざわりと背筋が粟立つのをジグは感じた。

 ―― 違う。

 シルバーは、自分達に不都合な部分を、復元しなかったのではない。
 不都合な部分以外を『残した』のだ。
 たとえシルバーの卓越した技術力を駆使することで、ようやく成し遂げられたこととは言え、それでも復元できる可能性が残るデータを、彼女が無防備に他者へと渡すだろうか。
 いかに証拠能力がないそれとは言え、あまりにもリスクが高すぎる行動だ。
 そもそもその映像が、襲撃者の妨害装置ジャマーによって破壊されていた事態すら、幸運だったのだ。そうでなければ当事者の一人として、当局に身元を割り出され、後からでも事情聴取の要請を受けただろうことは想像に難くない。
 ならば、防犯カメラ映像が残されていなかったのは……当局でさえも復元不可能なレベルにまで、徹底的にデータ破壊されていたのは……

「 ―――― 」

 現場から離れるタクシーの中で、この端末では処理が追いつかないと不満を漏らしていたシルバー。
 あのとき彼女が行っていたのは、けして『破損した』データの入手と、その『復元』ではなかったとしたら……

 ジグの頬を、冷たいものが伝う。

『改めて思い知らされたよ。貴女は敵に回しちゃいけない存在だ』

 昨日聞いたばかりの、あの男の言葉が耳の奥に蘇った。

『僕は貴女を正当に評価しているつもりで、その実はまだ見誤っていたってことか』

 それは己もまた、同じではなかったか。
 いったいどこからどこまでが計画通りで、そして不測の事態においてはどれほどの速さで決断を行い、実行に移しているのか。想像ができていたつもりで、けれどまったく追いつけていない。

 自身を落ち着けるべく、ジグは太腿の上で拳を握った。
 そうしてできるだけ平静を装い、軽口を叩いてみせる。

「……いっそのこと、あのメモリになにか仕込んでおけば良かったな」

 下手な端末に記録媒体を差し込むなど、データの流出に繋がりかねないと、会議の場へ自身の端末を持ち込むことに拘った彼女だ。ならば逆に外部メモリを差し込ませることで、厳重なセキュリティに守られた相手の端末に対し、何かしらの影響を及ぼすぐらいやってのけられるかもしれない。
 そう、冗談めいて口にしたジグだったのだが。

「…………」

 目線をテーブルへと落としたまま、シルバーは再びグラスへと手を伸ばした。
 半ば溶けた氷がぶつかり合って、澄んだ音を立てる。
 褐色の液体によって隠されたその口角が、わずかに上がっているように見えたのは、果たして気のせいであったのか ――


§   §   §


 食事を終えたシルバーは、いつものような無表情で淡々と今後の外出に関する必要事項を確認すると、ペントハウスへ戻っていった。
 と、一人残されたジグの、向かいの椅子が再度引かれる。
 つい先程までシルバーが座っていたそこへと、黒髪を後頭部で束ねた白衣姿の青年が腰を下ろした。

「よっ、なんか災難だったらしいな」

 丸眼鏡のレンズ越しに、赤褐色の瞳がウインクを寄越した。

「……昨日のあれは、何だ?」

 ジグは驚くでもなく、ただ低く唸るような声でそう問いかけた。
 そんな彼の言葉に、キメラ居住区唯一の医師は、わざとらしく肩をすくめる。
「人聞き悪ぃな。ちっとばっかの、好奇心ってやつじゃねえか」
 ってか、やっぱ気付いてたのな、お前、と。
 そう呟くドクター・フェイに、ジグは何を当然のことをと鼻を鳴らす。
「あの時の俺は、シルバーの護衛だった。周囲に不審な者が存在していないか、目を配るのは当然だ」
 そうして針のように細くなった目を、ぐるりと店内へ向ける。それを受けた客達の数名が、いささかバツの悪そうな表情になって、頭を低くした。
 その中には、公園のゴミ箱を片付けていた老人や、池の柵を塗り直していたペンキまみれの青年など、見覚えのある姿がいくつも混じっている。
「言っておくが、シルバーも気付いていたぞ」
 帰りのタクシーの中で、お前は大切にされているな、などと呟いていた。が、むしろそれは彼女の方へ向けられた想いだったのだろうと、ジグは思っていた。
 少なくとも、ルディの両親の元同僚達あたりは、あの誕生会で一度顔を見たことがある程度の、ほぼ他人だ。いくら獣人種同士とはいえ、一般居住区にまで足を運んでもらえるほど、親身な助力をされる覚えはない。
「その割にゃ、あっちの連中は気付いてなかったみたいだがなあ?」
 ベンチからわずかに離れた芝生へしゃがみこんで、小麦色の肌に意外と馴染むタンクトップ姿で草むしりなどしていたドクターは、軽く首を傾げつつそううそぶいた。
 数名が、うんうんと同意するようにうなずく。
 そのお気楽な調子に、ジグは深々とため息をついた。
「……戦闘訓練を受けていないことが丸判りなど素人など、警戒の対象にはならなかっただけだ」
 事実、あの場でひそかに様子をうかがっていた面々が一斉に飛びかかったとしても、かつてジグの上官であったあの護衛の獣人は、容易に制圧してみせただろう。その際に容赦などするはずもない。下手な行動をとれば命すら危うかったのだと、彼らは理解しているのだろうか。
 眉間に皺を寄せるジグへと、ドクターは苦笑してみせる。
「そりゃまあ、そうなんだけどよ。でもいざとなったら、お前らが逃げるぐらいの時間は稼ぐ覚悟だったんだぜ?」
 その言葉とともに、テーブルへと何かが置かれる。
 ごとりと重い音を立てたそれは、つい最近目にしたばかりの発煙弾 ―― ではなく、正真正銘の催涙弾であった。
 それも感覚の鋭い獣人種相手ならばかなりの効力を持つ、強力なタイプだ。
 いったいどこでこんな代物を、と。一瞬ジグが沈黙した間に、それは手品のようにまたどこかへ片付けられてしまう。

「……だいたい、ムカつくんだよ。獣人種にも市民権を、なんてお綺麗で耳障りの良いお題目を唱えといて、その実はひとっ欠片もこっちを『ヒト』としてなんか見ちゃいねえ。そういう『お優しい飼い主サマ』ってやつはよ」

 空いたテーブルへと頬杖をついたフェイは、どこか投げやりな口調で独り言のように吐き捨てた。
 実験の一環として高等教育機関への進学をした彼は、半ば強制的に人間種ヒューマンに囲まれる学生生活を余儀なくさせられた過去がある。その中で受けてきたもっとも性質たちの悪い差別は、本人にまったく自覚のないそれであったという。
 口では人間も獣人種も同じだと言って朗らかに笑いながら、完全に無自覚なレベルで言動の端々に明確な蔑視を垣間見せる。そう言う相手こそが、どれほどこちらの自尊心を傷つけてきたか。酒の席などで時おりこぼされるそんな愚痴を、耳にしたことがある者はごく限られていたが。
 そういった経験を持つ彼にしてみれば、一度市民権を与えて無計画にジグを放り出した挙げ句、今になって帰ってこいと笑顔で『命令』してきたエルニアーナに、嫌悪の情しか湧かないのだろう。

「それに比べりゃ、昨日のあの男……旦那の方が、ちったあマシだったな」

 そんなことを言い出す。

「あれは飼い主としちゃ、けっこうまともな部類だろ。何も獣人種に限らず、誰かを雇って使うってんなら、そこにはきちんとした線引きが必要だ。ただ甘やかすだけなら、馬鹿にでもできる。だがあの男は当たりこそ穏やかだが、根っこでは明確な上下関係を作っておいて、がっちり手綱を握ってくるタイプじゃねえの」
 シルバーが置いていった空のグラスをつつきながら、ドクターは分析を続ける。
「護衛とか言う連中も、横に立たせてた奴をトップに据えて、きちんと体系化させてるみたいだったしな。人間社会での組織運営と、やり方は同じだ。あれの下でなら、まあそれなりに働きやすかろうよ」
 その評価は恐らく正しいのだろう。
 少なくともジグがいた先代の頃も、ジグ以外の者達はそういった形で動いていた。
 獣人種も、人間種の従業員も、そう言う意味では基本的に変わらなかった。
 失敗すれば相応の罰がある代わり、与えられた仕事を達成すれば、やはり相応の報酬が与えられる。信賞必罰がはっきりしていて、組織内での上下関係も判りやすかった。上の者は下の者を指導し、下の者は上の者の指示に従って補佐をする。とても効率的なシステムになっていた。
 ただ獣人種達の場合は、その賞罰の種類や軽重 ―― そして何より、働く側の意識が、異なっていただけで。

 ……そう、多頭飼いとはよく言ったものだ。

 あの男の言い回しを思い返し、苦い笑いが漏れる。
 獣に例えられて良い気はしない。しかしエルニアーナが連れていた護衛達の様子と、そして過去の己を顧みれば、それはまさに言い得て妙だ。今ならばそう思えた。
 敬うべき飼い主のために、競い合うように献身していた、かつての己とその他の使用人達。そんな周囲の獣人種らに、彼女はいつだって優しい笑顔と、温かな言葉を向けていた。
 どこまでも優しい ―― 優しい『だけ』の、飼い主。
 彼女にとって、周囲にいる獣人種達は、あくまで従属物にすぎなかったのだろう。
 愛玩用ではない。けれどけして、対等な存在でもない。
 ただただ笑顔で、思いつきのままに甘やかし、上から慈悲を垂れるだけの、そんな対象だったのだ。

 首輪を外され、この都市で独り立ちするようになって、何年もが過ぎ ――
 そうして先日のあのやり取りを経て、ようやく理解することができた。

 彼女はジグのことを、本当に大切にしていた。ひたすら大切にして、自分だけのモノとして……そうしてジグを、他の獣人種達から孤立させたのだ。
 許されない想いを抱いてしまったのも、そのせいだと言えるだろう。
 彼女が飼い主として、きちんと一線をわきまえて接してくれていれば、そんな間違いはけして起こらなかったはずだ。
 他に目を向け、また悩みごとのひとつも腹を割って相談できる同族の仲間がいれば、もっと早くに引き返すことができた。
 ジグが己の立ち位置を誤認してしまったのは、紛れもなく彼女の行動故だ。
 それは、獣人種と人間種という禁忌以前の ―― 雇用主とその使用人としてのあり方の問題だろう。
 使用人が、雇用主に対して持つべきではない感情。それをジグが抱いてしまったのは、彼女がジグを、中途半端に同列として扱ったからだ。

 そして彼女は、まったくそれらのことを自覚していない。
 たとえばシルバーのように、すべての責任を取ると覚悟した上で、リュウを家族扱いしているのとはまったく次元が異なる。
 シルバーは、それが必要だと感じればリュウとの間に距離を置き、時には憎まれることすら承知の上で、同族の仲間との暮らしを見守っていた。そして市民権を取らせる前に、一人で生きるために必要なすべを教え込み、そして自らの意思で離れる自由があることも認めている。
 そんなシルバーとは、まったく異なっている、そのありよう。
 エルニアーナは、ジグを仲間達から遠ざけ、自分の傍だけにいろと束縛し ―― そうして後先考えない優しさを与えるだけ与えて、結果的に破滅への道を突き進ませていた。

 地獄への道は、善意で舗装されているという。

 彼女の婚姻を機にジグが殺処分されなかったのも、市民権を与えられてこの都市へとやってきてから、なんとか生活基盤を整え独り立ちができたことも。それらは本当に、偶然と幸運が重なった結果に過ぎなかった。
 何よりも、戦闘の経験 ―― すなわち純粋に物理的な力、腕っぷしがなかったならば……

 ある日突然、わずかな金銭だけを恵まれて、そのまともな使い方も新たな稼ぎ方も教えられぬまま放り出された、世間知らずの元首輪付き。
 そんな彼らの悲惨な末路など、この街には掃いて捨てるほどに転がっている。
 そのほとんどが、『心優しい飼い主』の『慈悲』によって、『自由』を『与えられた』存在だ。

 そう、彼女は本当に典型的な、『優しい飼い主』だった。

 可哀想だとその胸を痛め、籠の中の小鳥を大空に解き放つ。そんな ―― 心優しく、無責任な飼い主。
 外の危険も餌の探し方も知らない小鳥など、一日もしないうちに野良猫や鴉の餌食になるだなんて、想像だにせず。ただただ『良いこと』をして『あげた』と、無邪気に笑う子供と同じなのだ。

 ―― けれど、

 「それでも……俺は、幸運だった」

 噛みしめるように、ジグは呟いた。

 そこには本当に、様々な感情がこもっていた。

 たとえ身勝手で無責任なものであったとしても。それでも確かに向けられていた、愛情。
 たとえ許されないとしても。それでも抱いてしまった、この胸の内の想い。
 どちらもかけがえのない、大切なものであることは、今でもやはり変わらない。

 そうして生きて、この街へとやってきて ―― 今では多くの友人や仲間を、得ることができた。
 いざという時に、何の見返りもなく、危険を犯してでも助力してくれようとする人々もいる。

 果たしてどれほどの幸運が重なれば、こんなにも恵まれた環境にいられるというのか。

 そうしてまた、新たに得られた、ひとつのえにし

「…………」

 先ほど渡されたばかりの、ただ文字列が一行書き連ねられた紙片を見下ろす。

 手の中に収まる、ごくごく小さな薄っぺらい紙切れ。
 たとえこの世界中を探したところで、これほどに得難く貴重なものは、そうそう存在していないだろう。

 それは、まったく一人の個人として獣人種を認め受け入れ、そして心を砕いてくれる人間ヒューマンが存在するという、そんな信じがたい事実の証拠で ――


§   §   §


「……っていうかさ、あの旦那、完全にお前に嫉妬してたよな」

 唐突に投下された突拍子もない言葉に、ジグは手にしていた紙片を吹き飛ばす勢いで咳き込んでいた。
 唾液を変な方向へ吸い込んでしまい、しばらく苦しむ羽目になる。
 ようやく呼吸が整ってから、ジグは半ば涙目の状態でドクターを睨み返した。
 いったい何を妙なことを言い出すのか、と。強い視線で訴えると、ドクターはさも楽しげに笑ってみせる。

「だってどう見たってあの旦那、お前っつー男がてめえの嫁に近づくのが許せねえ。視界にも入れたくねえって態度、ばりばりだったじゃねえの」

 あのシルバーですら、気付いてただろうが。
 そう言われて、彼女が昨日の帰り際、なにやら口にしかけて止めたことを思い出す。
 もし、本当にそうであったならば。

 ジグは愕然とする。

 まさかシルバーにも、またあの男にも、気付かれていたというのか。自分がエルニアーナに対して抱いていた、禁忌とも呼べる許されざる想いを。
 そして気付かれていたからこそ、十年前の自分は排除の対象となり……たまたまエルニアーナの気まぐれな提案によって、かろうじてこの都市へと放逐されるだけですんだ。そういう経緯であったのならば。

 ならば、それは……その事実が、示すものは……

「少なくともあの男は、お前ってえ個人をちゃんと認識してたと思うぜ。たとえ嫉妬の対象としてでもな」

 そうとだけ言い残して、ドクター・フェイは椅子から立ち上がった。
 もともと自分が座っていたのだろう、食べかけの皿が乗ったテーブルへと戻ってゆく。
 その背を見送る余裕もないままに、ジグはただただ呆然と両目を見開いていた。

 もしもそれが、真実であれば。
 それはあの男が ―― アルベルト=カタクスという人間種ヒューマンの男が、ジグラァト=オークという獣人種キメラの護衛を、一人の『男』として見ていたということになる。
 みずからの婚約者となるだろう女性の周囲にまとわりつく、目障りな異性と ―― 敵対するライバルの一人として。

 それは、上辺ばかりの優しさを振りまいていた、あの女性ひとのそれよりも。
 ただただ笑顔で、耳触りの良い無責任な言葉をくれていただけの、彼女の認識よりも。

 ある意味ではもっと、ずっと、強く、そして ――

『たとえ彼女にとっては空気みたいな存在にすぎなかろうが、それでも『特別』だなんて表現するような相手を呼び戻そうだなんて、見過ごせる訳がないだろう?』

 満面の笑顔で告げた、アルベルト=カタクス。
 あの時、彼のその瞳は、はたしてどのような光を浮かべていただろうか。

 ジグは砂色の両目をゆっくりと閉ざした。
 そうしてすべてを断ち切るかのように、深く、深く……肺の底から呼吸を吐き出したのだった ――


 〈 鵺の集う街でV 終 〉        
(2019/10/17 21:29)
<<Back  List



本を閉じる

Copyright (C) 2020 Makoto.Kanzaki, All rights reserved.