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 ぬえの集う街でV  ―― Love is blind.
 第三章 見えていないもの
 ― Makoto.Kanzaki Original Novel ―
 
神崎 真


 先に立ったジグがガラスの嵌め込まれた扉を押し開けると、瀟洒な鈴の音が店内に鳴り響いた。
 すぐさま内部へと視線を走らせる。昨日この店の予約をした時と、そして先ほどの待ち時間に再度の下見をした時から、何かしらの変化は起きていないか。必要が生じた場合の退路は確保されているか。そこここの席に散在する、他の客達の中に不審な者は混じっていないか。
 そして ―― ここで交渉を行う予定である、目的の人物達は、どうしているのか。
 それら必要な事項を一瞬でチェックし、問題がないことを確認してから、扉を押さえたまま一歩脇へと退しりぞく。
 遅滞なく行われた一連の動きを当たり前のように受け止めて、シルバーは店内へと歩を進めた。
 そうして店の中央部で席を占める集団へと、その眼差しを向ける。
 適度に配された衝立や観葉植物などによって、それぞれのテーブルのプライバシーは、それなりに守られていた。しかし一方が立ち上がっている状態であれば、様子を窺い見る程度は可能だ。
 店内で最も大きい、六人がけのテーブルに座っていたのは、一人の女性であった。既に三十歳を迎えているはずだったが、それよりはいくらか若く見える。けして華美ではない、上品な仕立てのワンピースに身を包み、その上から花を意匠にした、透けるようなオーガンジーのボレロを羽織っていた。
 シルバーが待ち人だと、気がついたのだろう。席を立って出迎える姿勢を取る。そんな物腰もごく洗練された優雅なもので。
 豊かなハニーブロンドを後頭部へ結い上げ、控えめに微笑むその姿は、いかにも上流階級の奥方といった風情であった。
 そんな彼女の背後には、揃いのダークスーツを着た体格の良い男達が、四名ほど並んで立っている。全員が獣人種だ。その襟元から細身の首輪が覗いて見えている。装飾品と言えなくもないデザインでこそあるものの、そんなものを身につける獣人種など、この都市にはまずいなかった。つまり彼らは他の都市から連れてこられた、市民権を持たない首輪付きであると、容易に知ることができた。
 同じような首輪をした獣人種が、他にも二人。それぞれ裏口へ向かう通路脇と、厨房近くにひっそりと佇んでいる。他の者とは異なり幾分砕けた装いをしているが、彼等は恐らく控えの護衛、なのだろう。
 果たしてそれらの存在に、気付いているのかどうか。シルバーは一度止めた足を、再び前へと踏み出した。タイル張りの床を左足が踏むたび、服の下で補助具の擦れ合うかすかな金属音が生じる。
 杖と補助具の助けを借りてもなお、消しきることができない、歩みの不自然さ。そんな彼女の姿に、待ち構えていたその女性ひとは、わずかに目を見開いていた。しかし驚きはすぐに覆い隠され、いっそう柔らかな微笑みがその面差しを彩る。
 まるで、すべてを慈しみ受け入れるかのような、どこまでも優しい、笑顔 ――

「お待ちしておりましたわ。セルヴィエラ=アシュレイダさん……で、よろしかったかしら」

 声もまた、銀鈴を転がすかのような、澄んだ心地の良い響きを持っている。
 機械越しではなく、直接耳にしたその肉声に、ジグは我知らず目眩のようなものを感じた。
 十年もの時間が、一瞬にして巻き戻っていくかのような、圧倒的なまでの吸引力。
 抗おうとすら思えない、絶対的な何かが、その意識を絡め取って……

「そうだ。そちらはエルニアーナ=フェセディン=シア=カタクスで相違ないか」

 淡々とした低い声が耳に届いた瞬間、ジグははっと我を取り戻した。
 ここ数ヶ月で耳に馴染んだ、抑揚のない ―― けれど凛とした響きを備えた、時に威厳すらをも感じさせる、その、声音。
 無意識にこめかみを押さえそうになり、動こうとする腕を懸命に抑制する。
 そんな隙を、いまこの場で見せる訳にはいかない。表面上は何事もないかのように無表情を保ちながら、ジグはシルバーが座るべき椅子の背を引いた。
 自然な仕草で腰を下ろしたシルバーに続き、待っていたジグの身元保証人 ―― エルニアーナもまた、再び椅子へと座り直す。
 そうして、彼女が再度口を開きかけたのを遮るように、シルバーは軽くその手を挙げた。一瞬生じた短い間に、端的な言葉が発せられる。

「 ―― 席に着け。ジグ」

 驚いて視線を下げると、見上げる漆黒の瞳と目が合った。
 いつもと同じ、深く澄んだ、透徹な ―― 感情の色を伺わせない眼差しだ。けれどいつもと同じであるが故にこそ、それはジグの心を日常へと引き戻してくれるように感じられて。
 彼女の発言に、店内がわずかにざわめいた。
 それもそうだろう。見るからに上流階級にあると思われる二人の人間ヒューマンが、いざ話を始めようとしているその場に、獣人種キメラを、それも使用人だろう者を同席させようとしているのだ。いくら獣人種に人権を認めたこの都市にあっても、完全に常識から外れた行動である。
 事実、エルニアーナの背後に立つ獣人種の護衛達は、見るからに不快そうな表情を浮かべていた。主人が軽んじられていると、そう受け取ったのだろう。しかし彼らに背を向けているエルニアーナはそれに気付かず、ただ驚いたように目を見張っている。
 そんな彼女へも一瞬視線を投げてから、シルバーは再びジグを見た。

「これは、お前の今後についてを話し合う場だ。ならばお前も市民権を持つ一個人として、意見を述べるのが筋というものだろう」

 彼女にとってジグは、正式な雇用契約を結んだこの都市の住人であると同時に、一人の専門職プロフェッショナルである。けして一方的に命令し、されるのではなく、互いに意見を出し合って方針を決めるのが当然だと、そういう認識でいる。
 故にこの場において、ジグもまた当事者として、話し合いのテーブルに着くことを提案する。
 彼女にとっては配慮とすら呼べない、ごく当たり前の感覚なのだ。

「…………」

 こくりと、小さく喉を鳴らし。ジグは恐る恐るシルバーの隣にある椅子へと、その手を伸ばした。
 広いテーブルには、充分な数の席が残されている。それでも、そこに座るのはすさまじい勇気と覚悟を必要とした。
 硬い表情で、それでも腰を落ち着けたジグに、テーブルの向かいにいる者達は、信じられないという目を向けていた。当然だ。仮にかつて所属していた都市ホーフェンゲインでこんな真似をすれば、即座に ―― 物理的な意味で ―― 首が飛びかねない。あるいはエルニアーナひとりが相手であれば、それでも笑ってなかったことにしてくれるかもしれなかった。だが、こんな衆目のただ中で身の程知らずな行動をとれば、庇われるにも限度というものがある。
 ジグはテーブルの下で、堅く拳を握りしめた。
 大丈夫だ。いつもと何も、変わらない。【Katze】でシルバーの向かいに座る時と、同じようにしていれば良い。そう、己へ言い聞かせる。

 そんな彼の葛藤をよそに、シルバーは再び手を上げ、店員を呼んだ。
 おどおどとした様子で近づいてきたのは、若いウェイトレスではなく、店長と思しき年配の男だった。一般居住区にある、一流ではないが、目立ちすぎない中ではほどほどの格式を備えたカフェのあるじだ。当然ながら人間種ヒューマンである。
「あ、あの……」
「ブラックコーヒーを。お前は」
 問うてくるシルバーに、ジグは無言でかぶりを振った。この状況でものが喉を通るとは思えないし、そもそも護衛の任務中に、出所のはっきりしないものなど口にできない。
 しかし席を占領しておいて、何も頼まないという訳にも行かないのだろう。
「では、レモネードをシロップ増量で」
 代わってシルバーが注文したのは、ジグが【Katze】で時おり頼んでいるものだった。水分と各種ミネラルの補給にちょうど良いのと、実はそれなりに甘いものが好きなことから、糖分を多めにしてもらうのがジグ向けのカスタマイズである。
 そんなことまで記憶しているのかと、一瞬緊張を忘れ、純粋に驚いてしまった。しかしシルバー自身はというと、何も特別なことをしているという自覚はないらしい。
「わたくしも、紅茶のお代わりをお願いしますわ」
「しょ、承知しました。すぐにお持ちいたします」
 エルニアーナも追加の注文を出し、うなずいた店長がそそくさと去っていく。そこでようやく、シルバーは交渉相手の方を真っ直ぐに見た。
 さて、とでも言うように、テーブルの上でゆるくその両手を組み合わる。

「まずは、そちらの要求を再確認するべきだろうな。こちらが把握しているのは、ジグからのまた聞きという形での情報だ。当事者自身の口から、主観を除いた正確な内容を聞かせてもらいたい」

 シルバーの口調はいつもの ―― そしてジグ達は知る由もなかったが、先ほどまで商社ビル内で、依頼者クライアントやプロジェクト関係者達と打ち合わせをしていた時とも同じ ―― それである。重ねて言うが、二十代半ばの女性にしては、違和感ばかりを生じさせる態度だ。
 そのことに、護衛達はますます態度を固くしてゆく。
「……そうね。誤解があってはいけないから、改めてお話ししましょうか」
 エルニアーナは、榛色の瞳を柔らかく細めた。それはまるで、若輩の者が張る虚勢を、年長者が暖かく見守るかのような微笑だ。

「ジグラァトはもともと、わたくしの専属護衛だったの。わたくしが八つの時に、父が連れてきてくれてね。そしてそれから十二年間、片時も離れることなく、わたくしをガードしてくれていたわ」

 レースの手袋に覆われた指先を、揃える形で合わせる。その向こうに見える口元は、つややかなピンクに彩られていて。
「父はそれなりに大きな商会を経営していたから、その関係であらぬ恨みを買うこともあったようね。わたくしも何度か、危ない目に遭ったりしたわ。でも、そのたびにジグラァトが助けてくれた ―― 」
 どこか遠くを見る眼差しは、恐らく過去の光景へと向けられているのだろう。
 懐かしそうに、嬉しそうに、エルニアーナは懐かしい思い出を語り続ける。
 通学途中に誘拐されかけた時のこと、買い物に出た先で車に爆発物を仕掛けられた時のこと、旅行先のホテルに侵入者があった時のこと……
 ひとつひとつ挙げられるたびに、その時の記憶はジグの中にもはっきりと蘇ってくる。
 本来であれば、要人護衛には何人かが交代で当たるものだ。しかし何が気に入らなかったのか、あるいは気に入ったのか ―― エルニアーナはジグ以外の護衛を、頑として寄せ付けようとしなかった。それは年齢が近いこともあったのだろう。任についた当時、ジグは十二歳だった。もちろん、同年代の人間種ヒューマンに比べれば、すでに並外れた体格を備えていた。それでも屈強な大人にばかり囲まれていた幼い少女にとっては、馴染みやすい存在であったのかもしれない。
 ある程度歳を重ねてからは、他の護衛達も受け入れるようになった。しかしそれでも、常に一番側近くに侍るのは、ジグの役目であった。
 エルニアーナに危害を加えようとする相手に対しては、微塵の容赦もなく武器を取り、時に圧倒的な戦力差の中へも、必要とあれば躊躇いなく飛び込んでゆく。その無謀なまでの戦いぶりと、血だらけになりながらも生きて戻る彼を、いつしか他の護衛達は遠巻きにし、悪鬼オークという二つ名で呼ぶようになった。
 別に、他の護衛達にどう思われていようと、そんなことなど気にもならなかった。
 敵と、そして己の血で真っ赤になったジグを、エルニアーナはいつも笑顔で出迎えてくれた。そうしてありがとう、さすがはジグラァトねと、誇らしげに言ってくれたのだ。

 ―― あなたはけして、血にまみれた残忍な悪鬼Orcなんかじゃない。とても大きいけれど、誰よりも優しくて、忍耐強い……そう、森の生き物をその恵みで守り育んでくれる、あのブナの木Oakのようだわ。

 そんなふうに告げてくれたその日から、オークという呼び名すらも、その意味を変えた。
 自分はこの人のために生き、この人のために死ぬ。そのために産み出されたのだと、心から信じた。
 その忠誠と崇敬の歯車が狂ったのは、果たしていつのことだっただろう。
 無私の献身を捧げるべき主人あるじに対して、けして許され得ぬ願いを抱いてしまったのは。
 その眼差しを、声を、己一人のものとしたい。その小さく華奢な肢体を、自身のこの手にいだきたい。―― そんなふうに、願うようになってしまったのは。
 その想いを自覚した瞬間の恐怖を、ジグは一生忘れることができないだろう。
 貴人の側に侍る護衛として、そして獣人種キメラとして、絶対にあってはならない、その欲望。
 己は狂ったのだと、いや ―― 壊れたのだと、そう思った。こんな不良品は、即刻排除しなければならない。それが彼女のためだと理解しているのに、それを実行すらできない、明らかなる矛盾 ――
 綱渡りのような日々を送る中で、彼女が成人を迎え、そして縁談が舞い込んだその時も、ジグは手放しで祝福することができなかった。
 ひっそりと、他の者には秘密だと言いながら。自分に対してだけ縁談に対する不安をこぼす彼女の姿に、歪んだ庇護欲と充足を感じてはいなかったか。
 そんな状態だったからこそ、失敗したのだ。
 常であれば、たとえどれほど大人数で襲撃を受けようとも、彼女を守り抜いてみせていた。
 それをむざむざと誘拐させた挙げ句に、監禁場所を突き止めて他の者へ知らせるのに、半日もかかってしまった。
 そうして突入部隊を指揮し、結果的に彼女を救い出す役目を担ったのは、いつものようにジグではなく……

「 ―― でもね、わたくしが二十歳になって、夫との結婚が決まった時に言われたの」

 それまで楽しげに語り続けていたエルニアーナの口調が、ほんのわずかに翳りを帯びた。

「これからはあの人と一緒に動くことが多くなるから、護衛も彼が使っている者を中心にして、編成し直すんだって」

 そこで一度言葉を切り、エルニアーナは紅茶のカップを取り上げた。
 立ち上る香りを楽しんでから、口唇を湿らせる程度に傾ける。

「それに、ジグラァトもずいぶん長くわたくしの側にいたから、もう休ませたほうが良いだろうって。そう言われて……」

 かすかな音とともに受け皿へカップを戻し、エルニアーナは悲しげに眉根を寄せた。

「……『休ませる』、と?」
「ええ。言われてみれば、お休みなんて考えたこともなかった。これはわたくしの落ち度ね。他の護衛達はみんな、交代で休みをとっていたみたいだけれど、彼はずっとわたくしと一緒だったから」
「それで……市民権を取らせることにしたのか」

 シルバーの問いかけは、いつもにもまして低く抑えられた単調な声音であった。
 それにエルニアーナは、我が意を得たりと表情を綻ばせる。

「だって、あのまま他の部署へ回されたら、やっぱり忙しく働かなければならないわ。それにジグラァトだって、わたくし以外の誰かを守るなんて、したくないって言ってたもの」

 上品な仕草で口元を覆い、くすくすと邪気のない笑みをこぼす。

「市民権を取って他の都市へ行けば、自由になれる。無理に働かなくてもいいし、関係のない人間ヒューマンから、理不尽な命令をされたりもしないわ。ゆっくりと、好きなだけ休むことができるでしょう?」

 だから、父に頼んだのだと。
 これまで休暇もなく働いてきたジグへと、せめてもの埋め合わせとして、自由をあげたいのだと。
 獣人種でも人間と同じように暮らせるという都市で、しばらく骨休めさせてあげたいのだと。
 そう、頼み込んだのだ。

「本当は、半年か一年もしたら、また戻ってきてもらうつもりだったの。でも父がずっと、まだ早いって言い続けて……気がついたら、十年も経ってしまっていたわ」

 ふう、と。憂いを帯びた息を吐く。
 伏せられた睫毛が、白い頬に影を落とした。

「……少し前に、父が亡くなって……それでジグラァトの身元保証を相続したの。父を亡くしたのはとても悲しいことだけれど、でもそれでやっと、連絡を取ることができたわ」

 再び上げられた眼差しがひたとシルバーを見つめる。

「まさかジグラァトが、他の人のところで働いているなんて、思いもしなかった。けれど……ねえ、あなた。ジグラァトはわたくしにとって、特別なの。あなたは別に、ジグラァトでなくたって構わないんでしょう? 彼をわたくしに、返してちょうだい」

 手袋越しにも、その細い指先が震えているのが見て取れた。
 エルニアーナはエルニアーナなりに、ジグを連れ帰りたいと本気で願っているのだ。
 しかし ――

「…………」

 途中から目を伏せて耳を傾けていたシルバーは、やがて小さくひとつ、ため息を落とした。
 それからコーヒーカップへと手を伸ばし、黒い液体をわずかだけ口に含む。
 そんな一連の仕草は、まるで何かを一度体外へと吐き出し、そしてまたコーヒーと共に飲み下そうとしているかのようで。
 カップを置いた彼女は、純白のテーブルクロスへと目線を落としたまま、口唇を開いた。

「……お前が住んでいる都市 ―― ホーフェンゲインでは、獣人種に市民権を与える制度がない。それでもなおジグに戻れと要求するのは、現在持つ市民権を放棄し、再び首輪を着けろと命じるに等しい。その意味を、本当に理解しているのか」

 淡々と……いや、むしろ固く張り詰めた印象すら与えるその口調は、抑揚のなさこそ普段と同じでありながら、ひどく冷たい響きを放っていた。
 それ以前に、彼女がエルニアーナに対して『お前』という呼称を使用した時点で、背後に立つ護衛達の気配が、いっきに剣呑なものへと変化する。
 それに応じて、ジグも反射的に意識が切り替わり、いつでも動き出せるよう体勢を整える。
 その呼ばれ方は、さすがのエルニアーナも聞き過ごしかねたのだろう。細く整えられた眉をひそめて、そっとたしなめるように囁く。

「ねえ、あなた。年頃の女性が、そんなふうに乱暴な喋り方をしていては駄目よ。それに……目上の相手に対しては、もう少し態度を改めたほうが良いわ。恥をかいてしまってからでは遅いのよ?」

 どこまでも優しく、穏やかに。席を同じくする者の耳にしか届かぬよう配慮されたうえでのその戒めを、しかしシルバーは完全に黙殺した。

「……こちらの問いに答えてもらおう。言っておくが、仮に今の状態でジグを護衛に戻したとしても、一ヶ月と保たずに死ぬぞ」
「まあ!」

 己の忠告が無視されたことに驚いたのか、それともシルバーの発言した内容が予想外だったのか。
 エルニアーナはこれまででもっとも大きな声を上げ、しかしすぐにまた平静を取り戻す。

「ジグラァトは本当にすごいのよ。まだほんの小さな頃から、私を守ってきてくれたわ。彼以上の護衛なんていないぐらいよ。なのにどうして、そんな言い方をするのかしら」

 手放しでジグを褒め上げるエルニアーナの称賛に、その後ろにいる護衛達の表情が、それまでとはまた異なった不穏さを帯び始めた。尖ったその視線が、シルバーと並んで座るジグの方へと向けられる。

「……要人の護衛は、通常チーム単位で行われるものだ。しかし現状において、ジグがお前の護衛達に加わったとしても、連携が取れるとは到底思えん。信頼できないメンバーに背後から撃たれるだろう未来を計算に入れれば、一ヶ月という予測すら楽観的だろう」

 シルバーはようやく視線を上げると、護衛達を端から順に眺めていった。
 エルニアーナは不思議そうに首を傾げて、自身の背後を振り返る。その瞬間、彼らは表情を消し、何事もなかったかのように態度を取り繕った。いつも通りの姿に安心したのだろう。エルニアーナは再度姿勢を戻し、居住まいを正す。

「彼らがジグラァトを撃つだなんて……みんなとても優秀なのよ。間違えて味方を攻撃するなんて、絶対にありえないわ」

 エルニアーナの言葉に、護衛達は無言でいっせいにうなずいてみせる。
 そんな彼らを従えて微笑むエルニアーナに対し、シルバーは深々と息を吐いた。

「……話にならんな」
「どういう意味かしら?」
「現状ですら管理しきれていないその有様で、これ以上玩具おもちゃを欲しがるなと言っている」
「 ―― 玩具、ですって」

 この言い方には、エルニアーナも不愉快さを露わにした。

「ジグラァトも彼らも、断じて玩具なんかじゃないわ。それに、管理だなんて……あなたも獣人種のことを、けだものと同じだって言うの? 彼らだってちゃんとした知性と意思を持つ、れっきとした『ヒト』なのに」

 それでも淑女の嗜みを動員したのだろう。声を荒げるような真似はせず、ただ切々と訴える。
 しかしシルバーは、もはやまったくそれを相手にしていなかった。いつの間にか手のひらに収まる大きさの携帯端末を取り出し、なにやら操作している。

「あなた、人の話をちゃんとお聞きなさいな。会話中に端末を出すなんて、とても失礼なことよ」
「……礼を失しているのは、お前の方だ」

 画面を落とした端末を再び懐へと仕舞い込んで、シルバーは背凭れにその身を預けた。腹の前で指を組んだその姿勢は、もう交渉は終わったとでも主張しているようで。

「先ほども言った通り、お前ではまったく話にならん。だから、代わりの相手を呼んだ」
「代わり、ですって?」

 訝しげに繰り返すエルニアーナへと、シルバーは褪めた目を向ける。
 そこにはもう、相手への興味を完全に失った色だけがあった。ジグを介した不確実な情報ではなく、実際に接してその人となりを推し量った結果 ―― 彼女にとってエルニアーナという存在は、交渉に値しない相手だと、そう結論が出たのだろう。
 そもそも、と。
 さらに言葉を続けたのは、時間潰しと……そしてジグに対する説明を兼ねていたのかもしれない

「最初の前提からして、間違っている。お前はジグの、保証人ですらない」

 それまでずっと警戒を続けていたジグも、その発言には思わず振り返ってしまった。あまりにも予想外過ぎて、己の耳を疑う。
「どういうことだ」
 完全に素の口調で尋ねてしまったが、シルバーはそのあたりをまったく気に留めないため、それはそのまま流された。
 小さく肩をすくめた彼女は、平坦な口調で応じる。
「お前の身元保証を行った、故エキノマスタ=ホールバレッド=カタクスは、確かに彼女の実父であり、そして三ヶ月前に死亡している」
「そう、よ。……長く患って、最後はとても苦しそうで……」
 当時の様子を思い出したのか。エルニアーナは伏せた睫毛を震わせた。そんな彼女へと、護衛達は姿勢こそ崩さぬものの、気遣わしげな眼差しを送る。
 しかしシルバーは、もはやそちらに注意を向けることすらせず、ただ事務的に情報を開示していった。
「カタクス家の資産を受け継いだのは、血の繋がった娘ではなく、婿養子に入ったその夫の方だった。もちろんお前の保証人としての名義もまた、同様だ。エルニアーナ=フェセディン=シア=カタクスは、あくまで身元保証人の、『配偶者』に過ぎない」
 どうやら彼女は、一昨日話を聞いてから今日外出するまでの間に、そのあたりのことを調べ上げていたらしい。いったいどうやったのかまでは判らないが、既に調査済であったと思われるジグの個人情報と、先日その通信端末で確認したエルニアーナの滞在先を手がかりとして、情報を手繰り寄せていったのだろう。
 当事者であるジグすら知らなかった衝撃の事実に関しては、もう呆然とするしかない。
「おそらく、配偶者の暗証番号パスコードを不正使用して、お前の連絡先を調べたのだろうな。つまり彼女は最初から、お前の今後を左右する権限など、持っていないんだ」
「そ、う……なの、か」
 問い返すジグの声は、掠れて消え入りそうなそれだった。
 しかし返された答えは、はっきりと力強い。

「ああ、そうだ」

 きっぱりとした肯定を耳にして、ジグの身体からは驚くほどの力が抜けていった。
 思っていた以上に己が追い詰められていたことを、その状況から解放されることで、改めて強く自覚する。
 しかし緊張の反動で脱力しかかっていたジグの耳へと、再びエルニアーナの声が届く。

「いったい何を言っているの? あの人とわたくしは家族なんだもの。不正使用になんてならないわ。それにジグラァトは、わたくしの護衛だったのよ。あの人は彼のことなんて知らないのだし、よく知っているわたくしが、代わって手続きするのが当たり前でしょう?」

 どこまでも澄んだ、優しく邪気のない ―― 心の底から不思議そうな、その響き。
 真っ直ぐにシルバーへと向けられる、榛色の、その瞳の輝きが ――

 前触れもなく店内に響き渡った耳をつんざく破砕音によって、かき消された。


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