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 ぬえの集う街でV  ―― Love is blind.
 第二章 導く光
 ― Makoto.Kanzaki Original Novel ―
 
神崎 真


 すっかり冷めてしまったランチセットへ、それでも手を伸ばしたジグを前に、シルバーはしばらく沈思黙考していた。その指が幾度か携帯端末の上で舞い、何かしらを確認しているようで。
 やがて、一段落ついたのか。手を止めた彼女は、やはり放置されて温くなってしまったアイスコーヒーへと、手を伸ばそうとした。
 と、そこで、からんと氷がぶつかると音とともに、よく冷えたグラスが差し出されたことに気が付き、目を瞬かせる。

「どうぞ」

 新しく淹れ直されたそれを前に、シルバーはわずかに首を傾けた。
「注文はしていないが」
「そうですね」
 短く答えた銀狼種の青年は、氷が溶け水っぽくなったグラスをさっさと取り上げ、新しいものをテーブルへ置いてしまう。
 そうして一礼するときびすを返し、キッチンカウンターの内側へ戻っていった。
「…………」
 訝しげにそれを見送った彼女だったが、すぐにまた意識を切り替え、冷気が心地よい液体を口へと運ぶ。

「 ―― お前の案では、私が雇用主に扮するという計画なようだが、それではいささかリスクが高い」

 とん、と。グラスの底がコースターに触れ、かすかな音をたてた。
 固くなったトーストを噛み締めていたジグは、慌てて口の中のものを飲み込む。
「っ、リスク、と、言うと」
「明確な虚偽を以て交渉へ臨めば、それが発覚した場合、それだけでこちらが圧倒的不利となる。場合によっては後日、それを根拠に交渉結果そのものが無効とされ、お前はレンブルグの住民として相応しくないと、そう見做みなされる仕儀ともなりかねん」
 そうなれば、身元保証契約の解除要件を満たし、自動的に市民権を剥奪されてしまう。
「では、どうすれば……」
 シルバーは言及しなかったが、仮にそうなった場合、彼女にも詐欺行為に加担した罪が問われるのだろう。
 たった一度、わずかな時間を誤魔化してもらえればそれで済むと考えていたジグは、想像以上に危うい橋を渡らせようとしていたことに気が付いて、顔色がんしょくを失った。
 しかしシルバーは、眉ひとつ動かしていない。
「だがそれは、虚偽を虚偽でなくせば良い話でもある」
 そう言って、小さくひとつうなずいた。

「お前の保証人は、その交渉をいつ、どのように行うと言っていた?」

 シルバーの問いに、ジグは答えを返す。
「……あの人は、いまこの都市を訪れているらしい。今日の夕方、もう一度連絡をするから、その時までに面会の時間と場所を整えておくようにと」
 ずいぶんと性急な話だ。しかしどういった理由でかは知らないが、現在この都市へ来訪しているというのであれば、滞在期間が限られているのは想像できなくもない。
 ならば向こうを出立する前に、あらかじめ連絡を寄越しておけとも、思うのだが。ここで言っても詮無い話だろう。
 シルバーは携帯端末を確認すると、ちょうど良いと呟いた。

「ならば、時刻は明後日の15時半以降。場所は ―― そうだな、キメラ居住区からこの建造物の間を目安として、適切なところを設定できるか」

 携帯端末を向けられて、ジグはその画面へと目を落とした。
 表示されているのは、レンブルグの地図であった。一般居住区を中心とし、画面端にわずかだけキメラ居住区との境界が映り込んでいる。その地図の一点、そこそこの大きさを持つ商社ビルへと、人差し指が伸ばされていた。
「明後日の昼、私はこの場所へと赴く用事がある。その帰りに場を設ければ、無駄を省くことができるだろう」
「あんたが、外出を……?」
 この店と診療所とペントハウスを除けば、めったに外へ出ることのない半引きこもり、と。銀狼の青年をそう称したのは誰だったか。そんな彼にさらに輪をかけて、まったく建物から出ようとしないのがシルバーという存在である。
 彼女がこの集合住宅へ引っ越してきて、もう数ヶ月が過ぎる。しかし入院のため診療所に運び込まれた時を除けば、他の場所で見かけたことなど一度もないのだ。
 そんな彼女が、外に ―― しかも一般居住区まで足を伸ばすと言う。驚くほかなかった。
「新しく請けた仕事の、打ち合わせだ」
 語尾のあたりにわずかだったが、気が進まないといった色が滲んでいる。
「……仕事を任せる相手の顔は、直接見なければ信用できない。メールや電子会議バーチャルチャットなどもってのほかだと、依頼主クライアントが譲らないものでな」
 おかげで関係する他の者達も、わざわざ遠方から足を運ぶ羽目になっているのだ。公共交通機関を使用すれば一時間程度で着く地域であっただけ、彼女はまだましな方であった。
「これまで、そういった依頼は断っていたんだが……」
 その視線が泳ぎ、ちらりと一瞬、カウンターの方を向いた。
 都市を跨いだ拠点の移動と、そしてリュウが記憶喪失となった一件を発端とした騒動で、シルバーは経済的にかなりの負担をこうむっていた。いますぐどうこうという程でこそなかったものの、それでも仕事を選ぶ基準は、大幅に下げざるを得ず。
 プログラマー〈銀の塵シルバー・アッシュ〉は、その年齢も性別も公表していない。あくまで正体不明の存在として、電脳上でのみ活動を行ってきた。それで充分生活はできていたし、そもそも無理に仕事をする必要など覚えてもいなかった。何故なら先代である〈黄金の塵ゴールド・アッシュ〉を失った後の彼女は、ただその功績を汚さぬことだけを考え、彼が過去に請けた仕事のアフターケアと、その名声を頼りに持ち込まれる仕事だけを、淡々と消化するだけだったからだ。
 それらの仕事がなくなれば、自身もまたいずれひっそりと消えてゆく。当時の彼女にとって、仕事をするというのは、せいぜいその程度の比重でしかなかった。
 しかし、現在の彼女には、守らねばならぬ家族が存在する。その家族が ―― そして彼が気にかけてくれる、自身もまた ―― それなりの生活水準を保つためには、どうあっても先立つものが必要で。
 たとえそれが、これまで避けていた、現実世界における他者とのやり取りを余儀なくさせようとも、だ。
 とは、言うものの。

「先週行われた第一回の打ち合わせでは、スイに頼んでキメラ居住区の外まで届けてもらった」
「は?」

 いきなり説明されたその光景が、うまく脳内で形にならず。
 ジグは思わず間の抜けた声を発していた。それは他の客達も同様で、驚きの目が店内の一角へと集中してゆく。
 そこでは引きつった笑いを浮かべたカワセミの少女が、椅子の上で身を小さくしていた。
「……最初は、一般居住区から車を呼ぶつもりだったんだ。だがこの場所への出迎えは、どの会社からも断られてな」
 さりとて、この建物から一般居住区に出るまでは、獣人種の足で普通に歩いても十五分はかかる。足を引きずっているシルバーには、かなり厳しい道のりだった。まして彼女が一人でキメラ居住区を歩いてなどいれば、人間種ヒューマンを快く思わない見知らぬ獣人達に、いらぬ因縁をつけられる恐れが多分に存在している。それはリュウと二人でも大差はなく、かえって見目良い首輪付きを侍らせる傲慢な飼い主とでも誤解された日には、目も当てられない。
 そこで思い至ったのが、スイのバイク便だったと言う訳だ。
 もちろんスイは、旅客自動車 ―― 客を乗せて運ぶ仕事 ―― の営業許可など取ってはいない。報酬と引き換えに人を乗せることは、当然違法となる。しかし荷物を運んでいる彼女の自動二輪に、私的に乗せてもらうのであれば、それは無許可営業と言えないのではないか。
 ほとんど詭弁とも言える暴論ではあったが、打ち合わせの時間が迫っていたシルバーに、その場で他の手段を考案することはできなかった。そこで急遽スイに手荷物の配達を依頼。伝票を発行してもらったうえで ―― キメラ居住区の直近にあるバスストップまで、同乗させてもらったのだ。で、降りる際に伝票へサインしてから、手荷物と引き換えにタクシー代金と同等のチップを支払った。
 あまり何度も使える手段ではなかったが、とにかくその時は切迫していたのだ。
 なお帰りはどうしたのかと言うと、今度は時間に余裕があったため、獣人種が運転しているタクシーを探し出し、目的地を『ドクター・フェイの診療所』と指定して戻ってきた。これは最初にこの街へやってきた時にも採用したやり方で、たとえ人間の客であっても、獣人種を治療してくれるただ一人の医師が待っている相手だと匂わせておけば、余計な手出しはされないはずだ、と。フェイ自身からそうアドバイスを受けての選択だった。

「そこで、だ。ひとつ提案がある」

 なんというか、それまでの深刻な空気がいろいろと台無しになった感が否めない中、シルバーは改めてジグへと問いかけた。

「今後、私が一般居住区へと出向く際に、護衛と送迎を依頼したい」

 なんでそうなる、と。
 店内にいる者達の考えが、ひとつになった瞬間だった。
 しかしシルバーは、そんな様子など気にもとめず、先を続ける。
「頻度は月に、二度から三度。期間は一年から長くても二年程度。お前の身元保証期間が満了する頃合いとも一致するだろう。その間、私とお前の間でその旨契約書を交わしておけば、私が雇用主と称しても虚偽ではなくなる」
 唐突に話が元の場所へと戻ってきて、ジグははっと目を見開いた。
 たとえ連日の出勤や長時間の拘束がなくとも、その労働に対して相応の対価が支払われると書面に残してあれば、それはれっきとした雇用契約だ。シルバーは誰はばかることなく、堂々と雇い主を名乗ることができる。
「契約書の日付を多少いじる必要はあるが ―― まあそれぐらいは、どうとでもなる。まずは書面を準備しよう。細かい部分は、後で調整できるよう遊びを持たせて……その方向で、構わないか」
 最終確認を取るシルバーに、ジグは半ば呆然としながらうなずきを返した。
「ああ……その、本当に良いのか」
 話が具体的にまとまろうとしていることで、逆に不安が生じたのか。こちらもまた改めて問うたジグに対し、シルバーはゆっくりと一度目蓋を上下させる。
「 ―― 持ちかけたのは、お前のほうだろう。それに、私にも充分利のある取り引きだ。問題はない」
 そう言って、腰掛けていた椅子を引く。
 テーブルへ立てかけていた杖を取り上げようとして、ふと思いついたようにその手を止めた。
「携帯端末を見せてくれ」
 唐突に手のひらを差し出されて、ジグは一瞬戸惑った。
 獣人種の間ではまだあまり普及していない携帯通信端末だったが、仕事の関係上、緊急呼び出しを受ける可能性もあるジグは、個人で一台所有していた。シルバーやリュウが使用しているそれほど高性能ではなかったが、それでも連絡を取り合うだけであれば、充分に用を足せる機種だ。
 ポケットから取り出したそれを手渡すと、シルバーは慣れた手つきで操作していった。生体認証や暗証番号機能などは搭載されていないので、誰でも簡単に扱える。
「……相手の番号はこれか。携帯用の個人端末ではなく、ホテルに備え付けの物から発信したようだな」
 滞在先を探す手間が省けた。
 そんなことを呟きつつ、返して寄越す。
 何やら物騒なことを言われた気がするものの、ここは聞かなかったふりをしたほうが良いのだろう。
「では、私は上で契約書類の作成をしてくる。お前は面会場所の選定と手配を頼む」
「 ―― 判った」
 そういった段取りは、かつて護衛を専門としていた頃より慣れた作業だった。今の警備会社に務めるようになってからも、守るべき対象と周囲の状況を調べ上げ、もっとも効率良く動ける条件を設定、調整するのは、日常的に行っている業務だ。
 慣れ親しんだ ―― 己の専門と言っても良い分野の指示を出されて、ジグはようやく落ち着きを取り戻せたように思えた。
 自分がいま、やるべきこと。それが明確な展望ビジョンと具体的な計画を伴って、次々と脳内で組み上がってゆく。
 会計を済ませて店を出るシルバーを見送って、大急ぎで残りの食事を口の中へと詰め込んだ。まずは食べられる時にきちんと食べる。それが警護を生業とする者として、疎かにしてはならない、最初の心得だ。
 それから ―― とりあえず、勤務先へ明後日までの休暇を申請しなければ。そして代理で出てくれる者への申し送りを兼ねて事務所に顔を出しつつ、蓄積されている資料を使わせてもらおう。先ほどシルバーに提示された商社ビルと、その周辺の状況をチェックして、移動手段とその経路も考慮に入れつつ、安全が確保できる場所を選定する。
 次に来るという連絡まで、残された時間はわずかだ。少しでも早く取り掛からねばならない。
 最後の一欠片まで食べ終えたジグは、すぐに席から立ち上がった。
 その横顔には、店を訪れた時に浮かべていた、不安と迷いに満ちた表情などまったく残っていなかった ――


§   §   §


 なお、二人が出ていったあとの【Katze】では、残された者達が複雑な表情でそれぞれに顔を見合わせていたのだが。

「……うぉッ!? いったい何事だ、この通夜みてえな空気は!」

 ようやく患者が途切れてくれて、遅すぎる昼食を摂りに現われた医者がそんな声を上げたりしていたのは、また別の話であったりする。


§   §   §


 レンブルグの一般居住区、その中心部からはいささか外れたビジネス街にある商社ビル前に、一台のタクシーが停車した。昼休みもそろそろ終わろうかという、そんな時間帯である。
 あたりを行き交う顔触れは、人間種ヒューマン八割、獣人種キメラが二割と言ったところだろうか。その身なりにも大きな隔たりがあり、小奇麗なスーツやデザイン性の高い制服などをまとって笑いさざめく人間達の間で、ほとんどの獣人らは汚れた作業着やラフと言えば聞こえの良い程度の衣服を身に着け、清掃作業や土木工事などに従事している。
 タクシーを運転していた男もまた、獣人種であった。着ているものこそ会社からの支給品らしく、それなりに見栄えのするものだったが、明らかにサイズが合っておらず、逆にバランスの悪さが目についてしまっている。
 運転しながらも、ちらちらとミラーに映る後部座席や隣の助手席に目を向けていたその男を無視して、ジグは素早く扉を開け歩道へと降り立った。さりげない仕草で周囲に視線を巡らせ、問題となるものが存在していないのを確認する。
 そうして車体の後ろへ移動し、後部座席のドアを開いた。
 無言で差し伸べた手のひらに掴まり、右手に杖を持った黒髪の人間女性 ―― シルバーがその姿を現す。
 彼女が足を踏み出すと、金属の触れ合うかすかな音が生じた。よくよく注視すれば、左足のスラックスの裾、磨かれた革靴との間から、わずかだが銀色のものが覗いているのが見て取れる。ゆったりとしたラインのスーツの内側で、太腿から膝関節を経て靴底にまで、足を両脇から挟むような形で金属の棒を装着しているのだ。なんでも歩行を補助する装具なのだという。
 太いベルトで何箇所も固定されているそれの具合を確かめるように、彼女は視線を落として数度立ち位置を調整した。その動きに応じて、かちゃかちゃと小さく音が鳴る。
 やがて、満足が行ったのか。
 シルバーはすっと、その背筋を伸ばした。
 右手に持つステッキは、いつも使っている前腕を支えるカフが付いたそれとは違い、握り手があるだけのものだ。全体が黒く塗られていて、装飾もないシンプルな作り。介助用具というよりは、どちらかというと正装用の装飾小物に見える。

「会議は15時に終了する予定だ。前後するようなら、改めて連絡を入れる。それまでは自由にしていて良い」

 そう告げる彼女へと、後部座席の足元から取り出した手提げ鞄を差し出す。そして再度確認した。
「……本当に、付き添わなくて良いのか」
 今後の予定は事前に打ち合わせてあったが、それでも念を押さずにはいられない。
 屋外の雑踏の中で立つ彼女は、初めてそれを見る目に、あまりにも無防備に映った。ここは一般居住区で、人間種ヒューマンである彼女にとっては、キメラ居住区にいるよりもよほど安全が保障されているはずだ。仮に何かしらの事故や事件に巻き込まれたとしても、この都市の住人として当たり前に享受できる救いの手が、きちんと差し伸べられることだろう。
 それでも、
 こんな、馴染みのない場所で。
 親しい者さえほとんどいないだろう、そんな状況で。
 護衛対象を一人にするというその行為に、抵抗を覚えずにはいられない。

「ああ、大丈夫だ。ここには先日も訪れている。通行証パスも必要だから、むしろ私だけの方がスムーズに運ぶはずだ」

 ここ最近は、暑さから多少は崩しがちだった服装を、今日のシルバーはきっちりと整えている。皺ひとつない上質な麻のパンツスーツの懐へと、真っ白な手袋を嵌めた指先が入っていった。そうしてカード状のものをわずかに覗かせて見せる。
 艶が出るほど丁寧にくしけずられた長い髪も、今日は結ぶことなく背中に流していて。
 それでも、暑さを耐えているようには、まるで見受けられない。無表情でありながらも自然体であると、そう周囲に感じさせる佇まいだ。
 ―― やはり彼女は、人の上へ立つことに慣れているのだろう。
 たとえ内面ではどのように感じていようと、公の場では周囲へと悟らせることなく。そして差し出された手を当たり前のように取り、そして戸惑いも見せず離して、一人凛と立つ。
 守らねばならぬと思いながら、実際には己の内にあるこの後への不安を、そう考えることで紛らわせようとしている。そんな自身の矮小さを突きつけられたような気がして、鞄を手渡したジグは一歩その身を退いた。
 そうして小さく頭を下げる。
 鷹揚な仕草でうなずいた彼女は、ビルの入口へと向かおうとして、ふと一度ジグの方を振り返った。

「二時間後に会おう。……さっさと終わらせて帰るぞ」

 その、さっさと終わらせるという言葉が指し示しているのは、けして今から行われる会議などではないのだろう。
 そんな一言で、波立ちかけていた心が、不思議なほどに、凪ぐ ――
 わずかに足を引きずりながらも、いつもよりは自然な足取りで歩むその背が、自動ドアの向こうへと消えてゆく。
 その姿が見えなくなるまで、ジグはタクシーの横に立ったまま見送っていた。



 受付で通行証を提示し、今回使用を予定されている会議室への案内を取り付けたシルバーは、乗り込んだエレベーターの扉が閉まりかけたところで、慌ただしく駆け込んできた人物へと顔を向けた。
 彼女よりも、いくつか上 ―― ちょうど別れたばかりの、ニシキヘビの獣人と同年代ぐらいか ―― 三十代前半といった年頃の、人間ヒューマン男性である。
「やあ、こんにちは。先日ぶりだね」
 胸元を押さえ、わずかに切れた息を整えてから、彼はにこりとシルバーへ笑いかけた。
 そうしてから、操作盤の前で固まっていた案内の女性へと目線を移す。
「行き先が同じだからと、つい飛び乗ってしまったよ。驚かせてしまって申し訳ない」
 けして美形とまでは言えないが、目尻がわずかに垂れたその面立ちは、どこか人懐っこさを感じさせる。そんな相手から爽やかな笑顔を向けられて、女性もまた表情をほころばせて会釈を返した。
 続いて滑り込んできたもう一人が音もなくその傍らに立つと、男性はエレベーターの外に残った自身の案内役へと軽く手を掲げた。
「僕は彼女と一緒に行くから、ここまでで良いよ。ありがとう」
 一礼した女性の姿が、閉じる扉に遮られて見えなくなる。男性は改めてシルバーの方を振り返った。
 中肉中背で、髪と瞳の色もこれと言った特徴のない茶褐色。だがその言動が、どこか相対する者の気持ちをふと和らげる。そんな印象を持った人物である。
「この間の初顔合わせでは、あまり話をできなかったけれど……貴女のことは、ちょっと気になっていたんですよ」
 にこにこと笑みを浮かべたまま、男性はシルバーへとその左手を差し出す。
「改めまして。僕はカタクス商会の会長を務めている、アルベルト。貴女のことは、〈シルバー・アッシュ〉とお呼びしても?」
「……ああ、構わない」
 杖を持たない方の手で提げた鞄へちらりと視線を向け、シルバーは握手を受け入れずに流した。
「カタクス商会の評判は聞いている。歴史ある商会だが、数年前に婿養子が会長の座を継いでからは、さらに商売の規模を広げているとか」
 その態度は、とても年頃の女性が、立場ある年長の男性に対して向ける代物ではなかった。
 キメラ居住区で、【Katze】を訪れる常連達を相手にしている時と、まるで変わらない。それはある程度年かさの、地位も経済力も兼ね備えた壮年の男が、対等かそれ以下の相手を前にした時に見せる類いの振る舞いであった。
 事実、彼女の物言いを耳にした案内の女性は、目を丸くしている。男性 ―― アルベルトの横に立つ護衛と思しき存在も、その眼差しに険しいものを滲ませた。
 しかしそんな応対をされた当の本人はと言うと、全く気にした様子もなく、むしろますます楽しげに破顔してみせる。
「噂の天才プログラマーに記憶してもらえているとは、うちもずいぶんと有名になったものだ。光栄の至りってものだね」
「……都市を跨いだ大プロジェクトに、一枚噛もうと言うんだ。よほどの競争を勝ち抜いてきたのだろう。謙遜も過ぎると嫌味になると聞くが」
「ふふふ、それを言うなら貴女こそ、何人もいたプログラマー達を差し置いて、システムプログラム立ち上げのトップに躍り出たと言うじゃないか。電脳世界では、年齢も性別も、立場さえ意味がない。実力こそが全てなんでしょう? その若さで並み居る猛者達に認められたんだから、本当に大したものだよ」
 差し出していた手をそのまま、ぱっと大きく広げてみせたアルベルトにも、シルバーは表情を崩さない。
「ああ、やっぱり貴女とは、うまくやっていきたいと思うな。これは商売人としての勘 ―― なんて言い方をしたら、貴女達のような人種には笑われてしまうかな?」
「計算だけではけして理解することが不可能な、鋭敏な感覚や熟練した職人の技術 ―― そして人間的感情と言ったものは、けして無視できない重要な要素ファクターだ」
 実際、電脳の世界であっても、どうしてそうプログラムすれば効率が上がるのか、あるいは起こるはずのないエラーが発生するのか、どれだけ検証を繰り返しても証明できないという事例は、頻繁に起こっている。それらを感覚的に察知し、理屈を超えた部分で的確な取捨選択を行えることが、真に天才と呼ばれる一握りの中に名を連ねられるかどうかの、ひとつの試金石ともなっているのだ。
 そこでエレベーターのケージがかすかに揺れた。目的のフロアに到着したらしい。
 滑るように開いた扉を横目に、アルベルトはほぼ同じ高さにあるその瞳を、ぱちりと片方閉じてみせた。
「さて、だったら人間的な感覚とプログラムの、すり合わせに行くとしましょうか。僕達が現場で必要とするシステムを、貴女がどんなふうに構築してくれるのか。本当に楽しみだ」
 そう言って、シルバーが左手で提げていた鞄へと、自然な仕草で手を伸ばしてくる。
「女性の荷物ぐらい、持たせておくれよね」
 そう言って彼は、小型端末と資料が収めてある鞄を、丁重な手付きで取り上げたのだった。


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