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 ぬえの集う街でIV  ―― Chicken or the egg.
 エピローグ
 ― Makoto.Kanzaki Original Novel ―
 
神崎 真


 数日が過ぎ、ドクターに完治したというお墨付きをもらったリュウは、晴れて【Katze】へと出勤してきていた。まだ病み上がりということで、調理はアウレッタと半々で行っている。また客達のうちカウンターに近い席にいる者は、ちょこちょこと食器を運ぶ手伝いなどしていた。それでもまあ、おおむね平常通りの営業に戻ったと言って良いだろう。
 窓際でゴウマが炒飯を頬張り、アヒムは目玉焼きを乗せたカレーに舌鼓を打っている。
 ごついベルトで締め上げたトランクを足元に置いた、風変わりな風体の若者は、最近になって時おり顔を見せるようになったトカゲ種の露天売りだ。今は水のグラスを片手に、さて何を頼もうかとメニューを眺めている。
 カウンター正面の定位置には、シルバーとドクター・フェイが向かい合って座っていた。
 いつものように、U字型のパーツで肘を支えるタイプの杖が、テーブルに立てかけられている。シルバーの左足も、ただ細身のスラックスに包まれているだけだ。そんな彼女を相手に、ドクターはなにやら質問を繰り返している。
「……じゃあ装具を作ったのは、だいぶ前なんだな? 短下肢じゃなくて長下肢か ―― 目標レベルと使用頻度は……って、ちょっと待て。医師からの指導は ―― ああそりゃ、受けてる訳ねえわな」
 専門用語が多分に混じっていて、横から聞いていても何のことだかさっぱり理解できない。ただドーベルマンの青年の表情が、徐々に険しいものへと変化していっているのだけは、傍目はためにも明らかだった。
「そもそも、最後に調整したのはいつなんだ? まさかとは思うが……」
 唸るように喉の奥で呑み込まれた問いに、黒髪の人間ヒューマン女性はしばし記憶をたどるように、視線を動かす。
「そう、だな。確か義父ちちが死んだ……二ヶ月ぐらい前だったか。三……いや、四年と……」

「阿呆かぁぁあああッッッ!!」

 突然店中へ響き渡った怒鳴り声に、みながびくっと身体を震わせた。
 常連以外の者などは、半ば腰を抜かし、椅子から落ちそうになっている。それもそうだ。いきなり大声を出されるだけでも驚きなのに、その内容が思い切りの罵倒で、しかも相手が人間種ヒューマンなのである。獣人種の常識からすれば、完全にありえない、あってはならない所業だった。
 しかし椅子を蹴って立ち上がった医者はと言うと、半ば威嚇するかのように尖った犬歯をむき出しにしながら、その人差し指を向かい側へ突きつけている。

「専門家の指示舐めんな!? 正しい用法を守らねえ患者がいるから、治るモンも治らねえし、悪化させまくった挙げ句に手の施しようのなくなる奴がいるんだよ! まして長下肢装具なんざ、定期メンテどころか、ちょっと体調が変化しただけでも微調整が必要なんだ。使いたくない? 着けると痛えか!? 当ったり前だ!!」

 気炎を吐くその背後には、文字通り立ちのぼる業火の幻が見えるような気すらした。
 この街のキメラ達から恐れられている、医者ドクターの本気の怒り。
 医師の言うことに従わない者は、たとえ屈強な大男でも、問答無用で殴り倒され ―― そのまま無理矢理治療されるという噂である。……いちおう医療従事者としての倫理上、治療せずに放り出すという真似はしない、らしい。
 そんな迫力を直近からぶつけられても、シルバーはいっこうに気圧される様子がない。
 反応の鈍い彼女へと、ドクター・フェイは苛立たしげに足を踏み鳴らす。
「ああもうとにかく! 明日でも今日でも構わねえから、なるたけ早いうちにそれ持って診療所うちに来い。さもねえとこっちから押しかけるからな!!」
「…………覚えておく」
 消極的な回答に、がりがりと頭をかきむしった彼は……これ以上言っても無駄だと判断したのだろう。大きくため息をついて、倒した椅子の背へと手をかける。
 既に昼食を終えていたドクターが帰っていくと、客達はようやく緊張を解いた。
 たとえあれほどまでに怒鳴りつけられても、シルバーは特に反発や怒りなどを見せない。それはそれで、人間だの獣人種だのに関わりなく、他者と付き合う上でどうかと思う反応でもあるのだが ―― それはさておき。そうと判ってはいても、やはり店内に穏やかならぬ怒声が響き渡るのは、精神衛生上よろしくなかった。
 料理はとっくに完成していたのに、運びあぐねていた女将が、ようやく盆を手にテーブルへと歩み寄ってゆく。
「お待たせしました。新作のアヒージョ、ポーチドエッグです」
 卓上に置かれたのは、耐熱容器に盛られたスープのようなものだった。海老やイカなどの魚介類とキノコを、オリーブオイルで煮込んだものだ。ところどころに散った赤いものは、細かく刻んだ鷹の爪。
 上に乗った半熟卵の存在と、ガーリックの香ばしい匂いが、見るからに食欲を刺激してくる一品だ。
 数日ぶりに店を訪れることとなったシルバーは、女将から精のつく新しいメニューがあると聞いて、内容を訊ねたのち注文を決めていた。
 ポーチドエッグは骨付きの手羽元肉に変えることもできるようになっており、もっとがっつり食べたい男連中などは、もっぱらそちらを選択している。
 シルバーは、添えられた薄切りのパゲットを手に取ると、一部をオリーブオイルに浸した。しっかり油が染み込んだのを確認して、口へと運ぶ。

「…………」

 一瞬、その動きが止まる。表情は変わらない。
 ややあってから咀嚼が開始され、ごくりと喉が上下した。手元に残ったパゲットをいったん皿へ戻し、スプーンに持ち替え卵へと突き立てる。半分固まった黄身がとろりと流れ出し、オリーブオイルの表面に広がっていった。
 存分に黄身が絡んだ具材をすくい上げて、落ちかかる長い髪を片手で押さえつつ口唇を開く。
 と ――

「サーラッ!!」

 先程の、ドクターの怒声にまさるとも劣らぬ、鋭い叫びが店内に響き渡った。
 この妙に発音しづらい本名と、判りやすいシンプルな通り名を持つ彼女を、そんなふうに呼ぶ人物は一人しかいない。
 カウンター内で洗い物をしていた銀狼の青年は、がしゃんと音を立てて食器を置き、手近なタオルを掴みざま走り出てきた。
 泡だらけの両手を素早く拭いながら、テーブルへと駆け寄るその姿に、客達は驚きを隠せない。
 普段から、ことあるごとに人間ヒューマンを叱りつけるという暴挙に出ているリュウであったが、これほどまで声を荒げることは滅多になかった。それこそドクターの診療所で、半ば錯乱した彼女が輸血の針を抜いてしまった時、以来ではなかろうか。

「失礼します!」
「リュー、待……」

 有無を言わせず、しかし丁寧さは失わないという器用な手付きでスプーンを奪い取ったリュウは、とがめられるよりも早く、己の口内へとそれを招き入れた。
 そうして ―― 次の瞬間、すさまじい勢いで咳き込む。
 とっさに口元をタオルで押さえていたが、そうでなければかなり見苦しいことになっていたかもしれない。それほどの激しさだった。背中を丸めてむせているリュウへと、珍しく動揺を露わにしたシルバーが、テーブルにあったグラスを掴んで差し出す。
 涙目になって咳き込んでいた青年は、返答する余裕もないようだった。無言でグラスを受け取って、中身を一気にあおる。
「お前には辛すぎるだろう。氷を口に含んでおけ」
 シルバーはそう言って店内を見渡し、女将の姿を探す。そうして目を丸くして立ち尽くしていた彼女へと手を挙げて合図した。
「追加の水を……いや、冷たいミルクを頼む」
「え……あ、はい!」
 アウレッタは、取るものも取りあえずカウンター内へと駆け込んだ。そして大急ぎでコップに入れた牛乳と、数枚のおしぼりを持って出てくる。
「リュウ、大丈夫かい?」
 まだ咳き込んでいるリュウの顔色は、尋常でないほど赤く染まっていた。指示通り氷を含んだその口唇も、まるで紅をいたかのようになっている。まだ時おり咳をしながら、牛乳へと手を伸ばした。
「いったい、何が……」
 事態が把握できず問いかけるアウレッタへと、返答したのはシルバーだった。
「味が、かなり濃い。おそらく、唐辛子の量を間違えていると思う」
「え……」
 言われた内容が、一瞬理解できず ―― 理解できた瞬間、アウレッタは一気に血の気が下がるのを感じた。
 慌ててアヒージョの皿へ目を向け、放り出されていたスプーンを拾い上げる。
 オリーブオイルを掬おうとしたその手を、上から押さえるようにしてシルバーが止めた。
「やめておけ。獣人種の舌にはきつ過ぎる」
 汗だくになって、少しずつ牛乳を飲んでいるリュウの様子を、視線で示す。
「この料理は、途中まで作り置きをしているのだろう。そして客に合わせて仕上げを調整しているな」
「そ、そうです」
 手が足りなかったこの数日、できるだけ手間がかからず、それでいて腹に溜まるものをと考えてメニューに加えたのが、このアヒージョだった。にんにくと鷹の爪で風味を付けたオイルは量をまとめて作ることができるし、具材も事前に下味をつけて火を通しておけば、あとは器に盛り付けて自動調理器で温めればいい。子供や辛いものが苦手な客には、鷹の爪を少なめにしてあるそのままで。人間種ヒューマンは獣人種よりも味覚が鈍いのか、濃い味付けを好む傾向にあるので、他の客達よりもいくらか多めに追加、し……て?
「あ ―― 」
 そうだ。
 仕上げをしていた際に、新たな注文や別に調理していた作業がいくつか重なっていた。しかもまだ作り慣れていないメニューで、考えずに身体が動くとまでは、いかなかった。そんな中で、
 多めに入れようと心がけた鷹の爪を、それも複数回、入れてしまったのでは……なかったか。
 記憶を探って思い当たったアウレッタは、リュウとは対象的に真っ青な顔色になっていた。
 まるで壊れた人形のようにぎこちない動きで、皿を見下ろす。
 彩りも兼ねて表面に散らした赤は、そう思って見直せば、明らかに、多い ――

「も、申し訳ありませんでした!!」

 深く腰を折り、勢いよく頭を下げた。
 これは、相手が人間だとか獣人だとか、そんなこととはまったく関係ない。完全に店側の落ち度だった。味付けを失敗した料理を出すなど、飲食店としては絶対にやってはならない、最悪のミスである。
 あまりのことに弁解も、顔をあげることすら、できない。
「…………」
 ひたすら頭を下げ続けるアウレッタの前で、しかしシルバーはと言うと、わずかに眉を寄せただけで、沈黙していた。
 その、感情を読み取りにくい無表情を、じょじょに見慣れつつある一部の常連達は ―― 彼女が困惑しているようだと、なんとなく察して、首を傾げてしまう。
 ここは怒るか、あるいは苦笑のひとつでもして作り直しを要求するか、そのどちらかを選ぶぐらいしかないだろう。何をそんなに、戸惑ったような反応をしているのか。
 やがて、シルバーは口唇を開いた。
「……別に、食べられない訳ではない。仕事に戻ってくれ」
 そう言って女将の頭を上げさせると、その手からスプーンを取り戻し ―― 改めて失敗作のアヒージョへとさし込む。そしてそのまますくい上げて、口へ運ぼうとした。

「えっ……ちょ……オーナー!?」

 何事もなかったかのように食事を再開しようとするその行動に、焦った声を上げたのは誰であったか。
 大の男がたった一口で咽せるような代物を、何故この人は普通に食べようとしているのだ。
 いくら人間種の舌は獣人種よりも鈍いらしいとは言え、それでも限度というものがあるだろう。
「やめて下さい」
 彼女を止めたのは、ようやくコップを置いたリュウであった。
 すくった油が飛び散らぬように、しかし断固とした仕草で再度スプーンを取り上げる。そしてテーブルに置かれていた耐熱容器自体も、タオルで包むようにしてシルバーの前から遠ざけた。
「新しい、きちんとしたものと交換します。少し待っていて下さい」
「いや、別に。そのままで構わない」
「こちらが構うんです!」
「……カプサイシンの過剰摂取は、日常的に行えば問題だが、一度程度なら大丈夫だろう。この量なら、特に健康を害することも」
「そういう問題じゃありませんっ!」
 リュウの主張に、シルバーはなおも続ける。
「しかし、勿体無いだろう」
「…………具材を足して、味を薄めた賄いに作り変えます。無駄にはしません」
「だから、そんな手間をかける必要は ―― 」
「っ、サーラ!」
 一度その名を呼んで、リュウは何かをこらえるように、大きく一度深呼吸した。
「ここは、対価に応じた食事を出す店です。失敗した料理で、お金をもらうことはできません」
「…………」
 その言葉に、シルバーはぱちりと瞬きをした。ようやく何かが、その心に届いたらしい。
「それに、ミスを有耶無耶にしていては、また同じ失敗を繰り返す可能性があります。だから、経験を積むためにも、やり直しをさせて下さい。お願いします」
「…………」
 思案するように沈黙したシルバーへと、リュウが頭を下げる。アウレッタもまた、その横で再び深く腰を折った。

「…………判った。正しいものを、待とう」
「すぐにお持ちします!!」

 弾かれたように顔を上げたアウレッタが、先ほどよりもはるかに早いスピードでキッチンへ駆け込んでゆく。
 リュウもまた、安堵したように表情を緩めると、自身が飲み終えたグラスなどと共に、アヒージョの器をトレイに乗せて、回収していった。


§   §   §


 迷惑をかけたのだからと懸命に断ろうとするアウレッタに対し、正しい料理も食べたと、シルバーはきっちり正規の金額を支払っていった。店を出たその姿が内窓からも見えなくなると、どこからともなく店内を、ため息混じりのざわめきが満たしていった。
「あー……びっくりした……」
 背中を丸めたアヒムが、すっかり冷めてしまったカレーを前に、ぐったりとテーブルへ肘をつく。
「なんでそのまま、普通に食べようとするんだろうねえ……」
 カウンター席にいた羊種の男が、どんな表情をすれば良いか判らないと言うように、太縁の丸眼鏡を押さえる。
 止める相手がいなくなったので、回収された失敗作を改めて味見したアウレッタは、スプーンがほんのわずか舌先に触れただけで、涙目になって空咳を繰り返す羽目になった。
 こんな代物を口に入れて、何故吐き出すどころか眉ひとつ動かさず嚥下えんかして、なおかつ平静を保っていられたのか。まったくもって理解できない。実際、リュウがいきなりスプーンを奪い取って確認したからこそ、事態が発覚したのだ。そうでなければ、誰も味付けを失敗していたことなど気付かなかっただろう。
 痛いのか熱いのか、もはやよく判らない感覚を訴える口を覆いつつ、アウレッタはリュウの方へと視線を向ける。
「あんた、なんで味付けが違うって、判ったんだい?」
 少しでも刺激を逃がそうと、口で小刻みに息をしながら問いかける。
 その質問に、リュウは小さくため息を落とした。こちらはだいぶ回復したようで、多少汗ばんではいるものの、ほぼ平常通りの態度に戻っている。
「……あの人は、予想外の出来事が起きると、一瞬動きが止まるんです。何か、自分の勘違いではないのかと、改めて確認しているらしいんですが」
 だから観察していれば、何かがあったという事実だけは、案外読み取ることができるのだ。
 ただ、問題なのは ――
「勘違いではないのだと結論が出ても、それはそれで納得して、そのまま流してしまわれることが多いので……いったいどう対応したものかと」
 汗で貼り付いた前髪をかきあげ、後ろへと流す。露わになった形の良い眉の間には、くっきりと皺が刻まれていた。
「以前にも……まだ私が料理をし始めたばかりの頃に、とんでもない味のものをお出してしまったことがあったんです。あの人の部屋に届けてから、私もキッチンで食べようとしたところで、初めて失敗していることに気がついて ―― 」
 慌てて回収しに駆けつけた時には、もう遅く。該当する品は既に完食されてしまっていた。
「味が、判らない訳ではないんです。調味料を変えればちゃんと気が付くし、隠し味にも反応してくれます。味付けの、どこを間違えていたのかという分析も、的確ですし……」
「……ああ、そう言えば、確かに」
 前にルディと、隠し味についての話をしていた気がする。先ほどのアウレッタへの指摘も、判りやすいものだった。
「それなのに、何をお出ししても、健康に問題さえなければ全部食べてしまわれるんです。食べ終えてから、火の通りや栄養の偏りについて指摘をいただくことはあっても、味付けに関する感想はまったくなくて……」
 だからリュウは、無理を承知で願い出て、再び食卓を共にするようになったのだった。
 ひと通りの調理ができるようになって、それで一度は別々に食べる生活形態に変わった。けれどその状態では、また料理を失敗した時に、その場で気付くことができない。同じ場所で同じ時間に、同じものを口に入れる。そうすれば、おかしな味付けをした時にはすぐに気付くことができるから、と。
 それに ――
「何がお好きで、何がお嫌いなのかとか。どんなものをより食べたいのかといったことを、あの人はほとんど口にされないので……その場で具体的な質問を繰り返したり、食べている時の様子を少しずつ窺って、やっと好みの傾向を掴めてきたかというところなんです」
 一度言葉を切って、リュウはわずかにその目を伏せる。
「その、いつか……美味しい、と。そう、言ってもらえたら、と」
 食事など、生きるための栄養を摂取する手段に過ぎないと、そう言い切ってしまうあの人に、そんなふうに思ってもらうことができたならば。

 それは、どんなにか ――

「まだまだ、先は遠いのですが」

 そう続けて、リュウは再び息を吐くと苦く笑った。
 確かに、あんな代物を表情ひとつ変えず食べようとする相手に、食の好みを推し量ろうとするのは、ずいぶんな努力が必要だろう。
 そんなふうに皆が同情しかけたところで、しかしアウレッタがふと、その首を傾げた。

「え、だけど、さ ―― 」

 思わずこぼれ出たといった呟きに、リュウだけでなく、しっかり話を聞いていた他の客の視線までもが集中する。
「いや、ね。前にシルバーさん、言ってたじゃないか」
 アウレッタは記憶をたどり、確かにそうだとうなずいてみせる。
「自分で淹れるより、ここの飲み物のほうが美味しいって」
「え……」
「ドクターにも、うちの料理は旨いって、そう言ってくれてたって」
 目を見張るリュウを余所に、常連達はそういえばと拳で手のひらを打つ。
「ああ!」
 そうだ。そういったやり取りが、確かに存在していた。まだリュウが記憶を取り戻す以前で、常連達もまた得体の知れない人間ヒューマンに対し、警戒心をむき出しにしていた頃のことだ。
 当時はただ一人 ―― いや、レンと合わせて二人か ―― 事情を知っていたドクター・フェイが間に入り、店内に長居する代わりに上階へデリバリーを届けるという、そんな取り決めがなされた。その時の会話である。
 当時はできうる限り人間シルバーから距離を取り、その言葉を心にめるどころか、姿を視界に入れることさえ極力避けていたリュウだ。故に彼は、あまりにもささやかすぎるその一言を、完全に聞き流してしまっていた。
 衝撃の事実にショックが大き過ぎたのか。リュウは愕然とした表情で棒立ちになっている。

「……い、一番良かった時でさえ、『喉を通りやすい』止まりだったのに……」

 その口唇から、そんな呟きが漏らされた。
 今にも膝から崩れ落ちそうなその有りさまに、常連達は何も言うことができない。

 ―― そもそも、だ。

 そんなふうに思ったのは、何も一人ではなかった。
 あの、必要がなければ一歩も部屋から出ようとしないだろうオーナーが、わざわざ動きにくい足を引きずってまで、一階にあるこの店に通い続けている。その行動自体が、既にもう、リュウの ―― ついでにアウレッタのもだ ―― 料理を、好ましいと感じているのだと、何より雄弁にもの語っているだろうに。

「なんで、気付かねえのかなあ……」

 そんなゴウマの呟きに、隣でアヒムがしみじみとうなずく。

「トマトとか、けっこう好きっぽいですよね、オーナー」
「割とな。酸っぱい系のもんをよく頼んでるだろ。ヨーグルトとか」

 あれで彼女は、暑さなどで食欲が失せている時以外は、ちゃんとそれなりに自分でメニューを選んでいる。またリュウが注文を聞かずに作る場合も、出来上がる品はそれらと傾向を一致させていた。
 故に、彼女がある程度の好みを持っており、リュウがそれに応えられていることなど、女将や常連達はとっくに気が付いていたのだ。
 だからこそ、彼らは思う。

 はたから見れば一目瞭然なその事実を、どうして当事者である本人だけが気付いていないのか、と。

 そうして一部の者達は、さらに思考を巡らせる。
 リュウが記憶を失う前には、味に関してのこだわりなどまったく見せなかったという、あのオーナーが。今では多少判りづらくとも、それなりの嗜好を他者に推察させるようになっている。
 そんな変化を与えたのは、目の前で落ち込んでいる、この銀狼の青年なのだろう。
 そしてこの青年もまた、あのオーナーから多大な影響を受けていることは明白で。

 ならば……

 最初に変えられたのは、リュウの方なのか、それともあるいはオーナーの方であるのか。
 鶏が先か、卵が先か。今となっては、それは誰にも知る由のないことなのだけれど。
 それでも、ここにある、確かな事実。

 その、現実こそが ――

 〈 鵺の集う街でIV 終 〉        
(2018/12/23 17:56)
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