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 ぬえの集う街でIV  ―― Chicken or the egg.
 第一章 発病の発覚
 ― Makoto.Kanzaki Original Novel ―
 
神崎 真


 やはり職業柄だろう。最初にそれに気がついたのは、キメラ居住区唯一の診療所で看護師を務めている、アフガンハウンドの獣人、クラレンス=シャンであった。
 胸元まである白い髪をさらりと揺らしながら、彼女は耳に届いた音の発生源を求めて、ぐるりと店内を見わたす。
 昼下がりのカフェレストラン【Katzeカッツェ】は、今日も多くの客で賑わっていた。そのほとんどが顔馴染みの常連で、道向いにあるレンの勤務先にも、一度ならず訪れたことがある者ばかりだ。

「…………」

 その顔触れと、ここしばらくの患者達とを脳内で照らし合わせ、さらに来院理由が負傷や以前からの持病などであった人物を除いてゆく。一致する該当者は ―― いない。
 わずかに首を傾けて、落ちかかる髪を耳へとかける。そうしてから、ひとりひとりの様子を再度注意深く観察していった。

 こほ

 ごくごく小さなそれが、再び聞こえた。尖った耳先が、ぴくりと小さく反応する。

「リュウ、さん?」

 確認するべく対象の名を呼ぶと、ゆるく握った手の甲を口元に当てている青年が、うつむき加減だった顔を上げた。極上の白大理石で彫刻したかのような秀麗な面差しに、磨いた貴石を想起させる青灰と金褐色がはめ込まれている。色違いの稀有な双眸。その両眼が、レンの姿を認めて穏やかに細められた。
「なんでしょう。水のお代わりですか?」
 柔らかな口調で、そう問いかけてくる。それはいつも通りの、とても自然な物腰だった。
 しかしレンは、聞き漏らさない。彼のその声が、ほんのわずかに掠れていることを。
 食べかけの皿をそのままに、椅子を引いて立ち上がる。そうして静かだが無駄のない体捌きで銀狼種の青年へと歩み寄って行った。相手が身を引くよりも早く、問答無用で額に手を当てる。流れるようなその一連の動作は、日々の職務で培われた熟練の早業であった。
 びくりと動きを止めたリュウの前で、レンは整った柳眉を寄せる。
「熱がありますね」
 脈を測るべくそのまま頸動脈へ指を移動させようとし ―― 寸前で、リュウが身を固くしていることに気が付く。断りもなく触れてしまった手をさり気なく戻した代わりに、胸ポケットから細い器具を取り出した。それはバイタルチェック用の、小型計測器だ。
「どうぞ」
 咥えるようにと差し出す。
「いえ、私は……」
 かぶりを振ろうとするリュウに、レンはにっこりと花が開くような笑顔を見せた。
 それはいつもの、どこか男の庇護欲を掻き立てるかのような、清楚でたおやかなそれとは異なっている。看護師としての彼女が時おり見せる、静かだが有無を言わせぬ迫力を備えた笑みだ。
「喉の調子もおかしいようですし。なんならこの場で口をこじ開けて、ついでに炎症がないか確認して差し上げてもよろしいんですよ?」
 その発言に、近くの席でカレーライスを掻き込んでいたアヒムが、っわ! と背筋を震わせていた。
「リュウ、あんた具合が悪いのかい」
 空いた食器を運び終えた女将 ―― 鯖猫種のアウレッタは、心配げに声をかけてくる。
「悪いと、言うほどでは。喉も……少し、空気が乾燥しているだけで」
 躊躇いがちに告げられた答えに、アウレッタもレンと同じように顔をしかめた。大した事ではないと主張するリュウの態度など、全く信用していないというていだ。
「ちょっと、よしとくれよ。もし風邪でもひいたまま仕事されちゃあ、かえって迷惑になるんだからね」
 恰幅のいい腰に手を当てて、微塵の容赦もなくきっぱりと言い切る。
 飲食店の従業員。しかも主として調理を担当する者が感染症にかかった状態で働き続けていれば、それは訪れる客すべてに対して病原菌をばら撒いているのと同義である。ことにこの店は、上階の住人だけでなく、近在にも常連を数多く抱えている。やまい伝染うつすまでは行かずとも、彼らが身体に菌を付着させた状態でそれぞれの仕事先へ向かい、そこで発症者を出してしまったりすれば、それこそ洒落にもならなかった。
「ほら、さっさと測りな!」
「大丈夫だとおっしゃるのなら、その証明をお願いします」
 種族も年齢も体格も異なる、二人の女性に断固として詰め寄られて、
 リュウはようやく、突きつけられた計測器を受け取ったのだった。


§   §   §


 いつもは日替わり定食の内容が書かれている、小さな黒板。出入り口近くに立てかけられているそれを覗き込んで、早めの昼食に訪れたカワセミの少女が、不満げにその唇を尖らせた。
「今日のメニューって、これだけしかないの?」
 光の角度によって金属質の輝きを放つ、エメラルドグリーンの髪。そこに混じるオレンジ色の房を指先で弄りながら、カウンターの方を見やる。彼女はそこで、おやと目を見開いた。
「みんな、何してるの?」
 そこではいつもの客達が手に手にトレイを持って、列を作っていた。カウンターの中ではアウレッタが、せっせと器に料理を盛り付けては、客が差し出すトレイに乗せている。その横の流しには、汚れた食器がまだ洗われないまま、いくつも放置されていた。
 列の最後尾にいた、白と黒と茶がまだらになった髪をした若者 ―― 三毛猫のアヒムが振り返って、レジ脇に積まれているトレイの山を指し示す。
「しばらく手が足りねえからさ、セルフサービスだってよ」
「え、なんで。リュウ、お休みなの」
 とりあえずは素直にトレイを一枚取り、スイもアヒムの後ろへ続く。
 リュウが不在とあれば、献立の種類が減るのも納得できる。そもそもこの規模の店を、普段から二人で回せているのが不思議なぐらいなのだ。従業員がアウレッタ一人だけになれば、客の方もいろいろ配慮しなければ、にっちもさっちも行かなくなるだろう。そしてなんだかんだでそれを受け入れる程度には、みなこの店を気に入っていたし、店自体を休業にされるよりはずっとマシだと考えていた。
「ああ、スイは知らねえんだ。風邪だよ風邪。ほら、最近タチ悪いのが流行ってんじゃん。んで昨日の午後、リュウがちょい咳してて。レンさんがその場で熱測らせてから、そのまま先生んとこに強制連行」
 すっげー血相変えてた。馬鹿みたいな熱出てんのに、なんでそんな平気な顔してるんだって。
 アヒムの説明に、客達の何人かがうんうんと同意している。
「熱は薬で下げられるけど、他の人にうつしちゃったらマズイもの。菌が死ぬまで五日ほどは、外出禁止だって。幸い人間種ヒューマンには感染しないタイプだから、入院せずに上で寝てるそうよ」
 やはり列に並んでいる、黒髪の美女が補足する。その綺麗に彩られた赤い爪が、天井側 ―― 最上階のペントハウスの方向を指し示していた。

「上で……寝て、る……?」

 スイが、どこか懐疑的な口調で最後の一言を繰り返した。

「…………」
「…………」

 客達は、はたと無言で目と目を見交わした。
 昨日も、レンに指摘されるまでは、何食わぬ顔をして普通に働いていたリュウである。
 事情はシルバーにも伝えられているはずだった。しかし解熱剤で一時的に平熱に戻った当人が大丈夫だと言えば、そうかとうなずいて納得する。そんな光景が、一同の脳裏には容易く思い浮かんでしまったのだ。
 薬で体温を下げるのは、あくまで体力の消耗や神経組織などへの悪影響を防ぐため、一時的に行う対症療法である。その間にしっかりと肉体を休めて、発熱のもととなる根本的な原因を解決しなければ、本当に完治したとは言えないのだが。
 そのあたりを、あの二人はどちらも理解していないような気がする。
 そもそも『あの』シルバーが、まともに病人の世話ができるとも思えないし。

「うっわ、なんかすげえ不安になってきた……」

 自分達は、献立の種類こそ少ないものの、なんとかこうしてまともな食事にありつくことができている。
 しかし『あの』二人が一緒に暮らしている状況で、リュウのほうが寝込んでいるとなると ――

「オーナー、今朝は食べに来てたか?」

 ちょうど料理をよそってもらっていた客の一人が、アウレッタへと問いかけた。
 女将はそれに、かぶりを振って返す。
「夕べから一度も降りてきてないし、デリバリーの依頼もないんだよ」
 大丈夫なのかねえと、不安げに嘆息する。
 シルバーは仕事に没頭すると、すぐに寝食をおろそかにするという話である。リュウが無理をして家事をしていても問題だったが、そもそも自分達が何か食べなければならないということを、すっかり失念しているという可能性すらあった。
「あとでなにか用意するから、誰か上まで届けてくれないかい?」
 その言葉に、列の数箇所から口々に了承の声があげられたのだった。


 一時間ほど後、三人の男女がエレベーターに乗っていた。
 身体能力に優れる獣人種達は、わざわざエレベーターを待つよりも、手っ取り早く階段を選ぶ傾向が強い。しかし今回はそれぞれが荷物を持っているため、揺れの少ないこちらの昇降手段を選んだのである。
 スープの満たされた両手鍋を持ったアヒムは、うっかり斜めにしないよう注意しつつ、階数表示を見上げていた。野菜が大量に入っている栄養価の高いそれは、具材が細かく刻まれているおかげで、短時間で作った割にはよく火が通っている。弱った胃腸にも優しそうな一品だ。ルイーザが抱えている紙袋には、蓋付きの器に小分けされた、粥や惣菜が詰め込まれていた。そのまま冷凍庫に入れておいて、一食ごとにひとつずつ解凍すれば良いようにしてあるのだ。水牛種のゴウマは腕力に物を言わせ、両手に大きなバッグをぶら下げている。水分と同時に塩分や電解質も補給できる清涼飲料のボトルや、保冷剤のパックなど、重いものを担当していた。

「……オーナー、スープ温めたり解凍するだけなら……できます、よね?」

 口を開いたアヒムだったが、言っている途中で不安になってきたのか、言葉尻が途切れがちになる。
「そりゃお前、自動調理器に突っ込むだけなんだし、それぐらいできる……だろ」
 応じたゴウマも、改めて訊かれると断言しきれず、つい目が泳いでしまう。
 少なくとも、茶を淹れることはできていたらしい。もっとも本人の納得いく味にはならなかったそうで、買った合成キューブも結局は無駄になっていたとのことだったが。
 世の中には、自動調理器の使い方を知らない者も多いことを、ゴウマは知っている。そのほとんどは他都市から移住してきた、世間知らずの獣人種達だった。彼らは自分で料理をするという環境になかったため、自動調理器そのものを目にすることすら、ほとんどなかったのだという。
 そもそもゴウマ自身、市民権を得る前は、獣人種用の宿舎に備えつけだった旧式の自動調理器で、一人前ずつ個別包装して積まれていた保存食を温める、そんな食事しか知らなかった。そのおかげで使い方を覚えていただけで、それ以外のまともな自炊をできるのかと問われれば、彼が【Katze】の常連であるという一事から答えは察せられるだろう。
 シルバーはといえば、まったく事情は異なるはずだった。彼女はむしろ、料理を作らせる側にいただろうことが、ありありと察せられる。少なくともリュウのことを、ハウスキーパーだと自然に表現する程度には、金を払って他人に家事をさせることが、普通であると考えているのは確かだった。
「…………」
 上昇してゆくケージの中に、沈黙が満ちる。
 やがてかすかな揺れと共に動きが止まり、扉が左右に開いた。階数表示は7F。
「……オーナーなら、マニュアルにしておけばなんとかなるんじゃないかしら」
「あ? ああ、なるほど。確かにそんな感じはするな」
 手順を整理してメモに書いておけば、きっちりそれに従いそうな性格ではある。そのぶん融通は効きそうにないが、そのあたりは注記を細かくすれば対応できるだろう。
 とりあえず、紙とペンを借りて、書いたものを冷蔵庫と自動調理器の扉に貼り付けておけば ―― などと会話しつつ、エレベーターを降りて廊下を歩く。
 そうしてたどり着いた、この階にある唯一の玄関扉の前で、三人はその足を止めた。
 脇にあるインターホンのボタンを、唯一片手を空けられるルイーザが押す。呼び出し音が鳴り、しばらくしてから通話装置が起動した。

『 ―― どうした』

 一瞬、合成音かと勘違いしそうなほど平坦な、女性の声が応答する。
 こちらを誰何する言葉はない。ただ短く問うて沈黙した通話装置に、一同は思わず顔を見合わせた。
 互いに譲り合ったのち、そのままルイーザが答えを返す。
「あ、あの……リュウのお見舞いに、って。その、どんな具合な……んでしょう?」
 最近はだいぶ砕けた会話ができるようになっていた彼女だったが、それでもこうして顔を見ずに声だけでやり取りをすると、相手の素っ気なさが際立つように感じられ、言葉遣いが改まってしまう。

『……熱は、だいぶ下がったらしい。起きている、が……会って、ゆくか』

 返答するその言葉は、どこか不自然に途切れているように聞こえた。まるで、そう、別の何かに気を取られているかのようだ。
「え、ええ。お渡ししたいものもありますし、できれば……」
 ルイーザがうなずくと、またしばしの沈黙があり、それからかすかな電子音が生じた。

ロックを解除した。すまんが、いま手が離せん。入ってくれ』

 その言葉を最後に、ぷつりと通話が切れる。
 三人は再度、視線を見交わしていた。そこにはどこか、釈然としないものが漂っている。
「……リュウが寝込んでても、やっぱり仕事の方が優先ってことか」
「そりゃあまあ、どうしてもズラせない納期とかあるんでしょうし、仕方ないっちゃあ仕方ないっしょ……」
 普段、客先や上司から無茶な注文を押し付けられることも多いアヒムが、フォローめいたことを口にする。しかし納得は行きかねているようで、その眉尻がわずかに下がっていた。
 もちろん、この場で門前払いにされないだけ、シルバーの対応が人間種ヒューマンとして突出した寛容さなのは、百も承知している。見張りもなしに私的な空間へ迎え入れてもらえること自体が、こちらを信頼してくれている、何よりの証左だろう。
 それでも、あまりにも無愛想なその応対に、つい不満を覚えてしまうのは……それだけここ数ヶ月の付き合いで、こちらが過剰な期待を寄せるようになってしまったからなのか。
「とにかく、まずは用事を済ませちゃいましょ」
 リュウの様子を確認して、無理をしているようならきちんと休ませる。それから預かってきた食料品類をしかるべき場所に片付けて、シルバーでも扱えるようメモを残す。
 やるべきことを改めて数え上げ、ルイーザはドアノブへと手を伸ばした。


 他の階よりも幾分重厚な作りの扉を押し開けると、まず手前にテーブルセットが並んだダイニング、その奥に大きな窓が二方向に開いた、明るいリビングが存在するのが目に入った。ふたつの部屋は衝立によって区切られているだけで、それを取り払えば実に広々とした空間になるだろう。ルイーザの住む六階の2LDKも、そこそこ余裕のあるスペースを確保していた。が、この二部屋だけでもう、同じぐらいの床面積を占めていそうだ。
 初めてペントハウス内を目にした彼女は、空間の無駄遣いとも言えそうなその開放感に、条件反射で感嘆の声を上げようとし ―― そこで吸い込んだ室内の空気に、つと眉を寄せてしまった。
 その背後では、数度目の来訪となるゴウマとアヒムが、似たような表情で顔をしかめている。

「おい、こいつぁ」
「ええ、案の定ッスね……」

 呆れ混じりに、二人はそんな言葉を口にした。
 ダイニングから続く、キッチンへの入り口。
 そこから漏れてきているのは、湿気を含む温かな空気と、食欲を刺激する柔らかな匂い。
 そして包丁がまな板へ触れる時に立てる、規則的な、音 ――
 明らかに料理を作っている真っ最中の気配に、三人は揃って深々とため息を吐いたのだった。


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