発作のような爆笑の波がようやく収まって。落ち着きを取り戻した店内では、一時まったりとした空気が流れていた。
笑いすぎて乾いた喉を飲み物で潤したり、痛む腹筋をさすったりと、取る行動はそれぞれであったが、その表情はどれも明るく晴れやかなものばかりだ。
ルディは未だに笑顔のまま、両親の『絵』を握りしめては、様々な角度で目を近づけたり指先で表面に触れたりと、飽きることなく眺め続けている。
そんな中、何やら一人様子のおかしかったアンヌが、おずおずとシルバーに声をかけてきた。
「あ、あの……オーナー、さん?」
「どうした」
シルバーもまた、声をたてて笑うことこそしなかったものの、いくぶん雰囲気が柔らかくなっている。呼びかけに気が付くと、腰を下ろした椅子の上から振り返ってきて、話を聞く姿勢になった。
「その、どうして私まで、いっしょに写……描いて、あるんですか」
戸惑いの色濃いアンヌの表情に、シルバーはわずかに首を傾ける。
あ、これはなにを質問されているのか判っていない顔だ。アンヌを含めた常連達のほとんどが、そう思った。なのでアンヌはさらに言葉を足す。
「皆さんには、姉さんと
義兄さんのことしか、訊いてませんでしたよね。見せてもらった途中経過のものも、二人分しかなかったですし」
彼女もすべての打ち合わせに同席していた訳ではない。日々の仕事で忙しかったし、ルディのためにケーキを焼く練習もあった。元同僚達とシルバーを引き合わせたあとは、台所へこもっていたり、どうしても時間を取れないアンヌに代わって、ネイや既に打ち合わせを終えた他の者が間に立つ場合もあった。だから彼女が完成した写真 ―― 『絵』を目にしたのは、さっきが初めてだったのだ。
故にアンヌは、てっきり姉夫婦が二人で並んでいる構図になっているのだと思い込んでいた。膝に赤子を ―― ルディを抱いているのは、それでもまだ理解できる。だが何故そこに自分まで……しかも若い姿で混ざっているのだろう。
頭の中で、疑問が渦を巻いている。しかしようやく質問の意味を理解したらしい、シルバーはというと、
「アンヌとルディは、充分な資料があったからな」
わざわざ誰かに話を訊く必要はなかった。
それだけで説明は終わったと判断したようで、グラスを持ち上げ飲み物に口をつける。
「し、資料って?」
「……入居時に提出された
写真があったし、この建物内の防犯カメラ映像も、設置当時からのデータがすべて残されていた。雰囲気や表情は、こうして実物を見知っている。充分だろう」
そこでわずかに表情が動く。
「どこか、おかしな部分があったか。できうる限り、当時の姿を再現したつもりだったが」
姿勢を変え、ルディが未だに抱え込んでいる紙面を確認しようとする。アンヌは慌てて制止した。
「いえ! おかしくはないです!! ほんとに、ほんとに……びっくりするぐらい、ちゃんと私で……」
それはもう、本当に。
自身の目で見ても、写真ではないのが信じられないぐらいに、あれは十年前のアンヌそのままであった。
ルディを抱いて、たった一人でこのアパートへやってきた、あの頃の姿。
ああ、だけど。
アンヌは内心で嘆息する。
あの頃の自分は、あんな笑顔など浮かべていただろうか。まだ若い身空で、赤子とたった二人で取り残されて。生きることにただただ精一杯だった。もっと気を張って、いつもいっぱいいっぱいで。今にも泣きそうな顔ばかりしていた気がする。
今だって、ルディには寂しい思いばかりさせている。だからせめて、こんなふうに誕生会を開いてこそみたものの、それだってしょせんは自己満足に過ぎないのかもしれず。
もしもあの『絵』に描かれているように、兄夫婦が生きていたら。あの二人がルディを育てていたならば。もっとずっと、ちゃんと……
眉尻を下げたアンヌを、シルバーはじっと見返してくる。
「……アンヌは、ルディの家族だろう」
「え、ええ。そうです」
「家族写真には、家族が揃っているのが自然だ」
「で、でも……私は、本当の親じゃ、ないですし……」
思わずスカートの布を握りしめる。みっともなくよった皺が視界に入ると、ますます気分が落ち込んできて。
「……血の繋がりなど、あったところで何になる」
抑揚の乏しい声が、情を感じさせない口調で発せられた。
「親兄弟で潰し合う者はいくらでもいる。何も珍しい話ではない。お前とて、ルディと二人遺された時点で、自分一人だけで生きる道を選ぶこともできた。己が生き延びるためならば、たとえ相手が
幼子だろうが、血の繋がった相手だろうが、通常は保身のために切り捨てる。それが生き物として当然の選択だ」
漆黒の眼差しが、一時もそらされることなく、アンヌを捉え続けている。
その冷徹な内容を耳にした者達は、愕然とした表情でシルバーの方を振り返った。場の空気が変わったのに気付いたのか、ルディが不思議そうに顔を上げる。
「ちょ、シル……」
「 ―― だが」
ドクターが制止しようとするより早く、彼女は言葉を続けた。
「お前はルディを守り、育ててきたのだろう。たとえ負担がかかろうとも、甥と家族になることを自分の意志で選んだ。ならばお前とルディは、れっきとした家族だ。まったくの他人同士であれ、そうなろうという意志さえあれば、家族になれる。ましてお前は、ルディの実の叔母だ。……いったい何を、問題にしている?」
まっすぐに見返してくるその瞳には、呆れも蔑みもなかった。そこにあるのはただただ純粋な、疑問の色だけで。
この人は、嘘を言わない。いい加減なことも、言わない。
そして、できないことはできないのだと、最初から断ったその上で、できうる限りの力を尽くしてくれる。
そう、そんな、人だった。
―― だから、この言葉も。
建前や体面を考えたうえの、上辺だけの慰めなどではけしてなく。ひたすらに心底から、そう思って口にしているのだろう。
あの写真も。ああいう光景が、幸せの形なのだろうと。ルディがいて、両親がいて、そこにアンヌも当たり前のようにいて。四人が揃って、穏やかな表情で寄り添っている。本来ならばあり得たはずの、そんな家族の姿を、ルディに見せてやりたいと。きっと心からそう思って、作成してくれたのだろう。
「……紛い物では、やはり不快なだけだったか?」
ごくごく小さなそのつぶやきに、アンヌははっと息を呑んだ。
飲みかけのグラスをテーブルに戻した、細い指。それがかすかに揺れているように見えた。しかしすぐに指先は握り込まれ、視界から消えてしまう。
「始末に困る贈り物ほど、迷惑で手に負えないものはない。気をつけた、つもりだったが……」
伏せられた瞳に睫毛が影を落とし、その感情を隠してしまう。表情は、いつもと同じ。ほとんど動くことなく、何を考えているのかほとんど読み取れないままだ。
けれど ――
「サーラ」
落ち着いた声音の、静かな呼びかけ。
椅子の背もたれに、そっと乗る手のひらがあった。
ふ、と。再び上げられた視線を、青灰と金褐色の色違いの瞳が穏やかに見下ろす。
座る女と、そのすぐ傍らで寄り添うように立つ、背の高い男。
二人の間に、それ以上交わされる言葉はなく、目立った動きもない。ただ無言のままに視線を合わせるその姿は、しかし場にいる者にどこか既視感のようなものを覚えさせて……
静まり返った店内の空気を再び動かしたのは、この場の主役であった物怖じしない少年だった。
「シルバー?」
にゅっと。
背後から顔を出したルディが、シルバーの首へ両腕を回すようにして、遠慮の欠片もない力でしがみついた。
「どしたの、シルバー。なんか、ヤなことでも思い出した?」
同年代の中でもまだ小柄な少年にとって、椅子に腰掛けた状態の大人の首は、ちょうど良い高さにある。ぎゅうぎゅうと首筋を絞められて、シルバーは小さく咳き込んだ。軽くその腕を叩かれて、ルディは慌てたように力を抜く。
苦しかったかとのぞき込んでくる少年へ、シルバーは真っ正直に問いかけた。
「その……CG、だが」
「うん」
「迷惑、だったか」
ルディのどんぐり眼が、こぼれ落ちんばかりに見開かれた。
明らかに、予想もしなかったことを訊かれた表情だ。
「え、なんで!? オレ、すっごい嬉しいのに!」
未だ大事に持っていた『絵』を、両手で胸に抱きしめる。
その仕草はまるで、返せと言われるのを恐れるかのようで。
「不愉快では……なかったか?」
「ないってば! なんで急にそんなこと言うの!?」
どこまでも真剣に尋ねてくるシルバーへと、ルディは困惑して眉尻を下げる。
その返答の裏の裏まで探ろうとしているのか。シルバーはじっとルディの表情を見つめ続けている。観察しているようにも思えるその眼差しを、しかしルディは臆することなくまっすぐに受け止めた。
「シルバーや、姉ちゃんや、父さんや母さんの友達が、みんなで描いてくれたんでしょ? オレ、父さんや母さんのこと、全然知らなかったから、ものすごい喜んでるのに。シルバー、わかんないの!?」
「……本当か」
「本当だってば!!」
ねえ、と。同意を求めるように、ルディがアンヌの方を振り仰いでくる。
その視線を追って、漆黒の瞳もまたアンヌを見上げてきた。いつもはまるで感情の読み取れないそこに、今は心なしか、揺らぐ想いがわずかながらかいま見えるような気がして。
アンヌは内心で、ぐっと腹に力を込めた。
ここできちんと答えなければ、この人は ―― ルディのために精一杯の力を尽くしてくれた、この不器用な女性は ―― 心の底に罪悪感を抱き続けてしまいかねない。自分が気後れをして、言葉選びを間違えてしまったがために、不要な気を回して、後ろ向きな誤解をしたままで。
「あ、あのっ」
アンヌは決死の思いで声を出した。
「私も……私も、嬉しかったんです。ちょっと、驚いて。びっくりしただけで。本当に……っ」
当たり前のように、自分もルディの家族なのだと認めてもらえて。どんなにありがたく感じたことか。そう続けようとして、アンヌは己の頬を伝う熱い感触に、思わず言葉を失った。
気づかぬうちに、両目から涙が溢れていた。
今日は、ルディの誕生日なのに。
ルディを祝う、席なのに。
自分までもこんなに、幸せな気持ちになって良いものか、と。
詰まる呼吸に、アンヌはとっさに口元を手で覆った。
嬉しくて涙が出るなんて、そんな経験など今まで一度もしたことがないのに。
こみ上げてくる嗚咽をこらえていると、服の裾を引っ張られる感触がした。目を落とせば、いつの間にこちら側へ移動してきたのか。スカートを握りしめたルディが、どこか心配そうな顔で見上げてきている。
そんな甥の小さな身体へと、アンヌはもう片方の腕を回し、しっかりと抱きしめた。
「本当に……ありがとう、ございました」
途切れそうになる声を、懸命に押し出して。アンヌは最後までそう、言い切った。
「 ―――― 」
シルバーは、その言葉に対して、答えを返すことはしなかった。
ただ……音もなく伸ばされた細い手が、静かにそっとアンヌの頬へと触れる。
どこかおずおずとした手つきで、流れる雫を拭おうとするその指先を。
アンヌはなおも
零れてくる涙をそのままに、穏やかな気持ちで受け入れたのだった。
§ § §
場の雰囲気が、どこか温かくもしんみりとしたものになった頃。
ふと思い出したように、リュウが小さな包みを取り出した。
いきなり差し出されたそれを、ルディがどこかきょとんとした表情で見る。
「……あのなあ、リュウよ……」
どうやらまだプレゼントを渡していなかったらしい青年に、誰ともなしに苦笑いが漏れる。
今のこの流れで、しかもシルバーによるこれ以上はないであろう贈り物を披露された、その後で。
たとえなにを出したところで、見劣りするのは避けられないであろう。もう少し空気を読めよと無言で忠告してくる周囲を気にも留めず。彼はそれを受け取るよう、身振りでルディを促した。
「
写真立てだ。そのまま持っていては、折れたり汚れたり、するだろう?」
これに入れて、どこかへ飾っておくと良い。
そう続けられて、意味を理解したルディはみるみる笑顔になった。
「ありがとう!!」
歓声を上げて包みを手に取り、家族写真と合わせて抱きしめる。
踊るように飛び跳ねているその様子は、嘘偽りなく、心の底から喜んでいるのが誰の目にも明らかで。
―― なるほど、そうきたか。
これは確かに、シルバーの後でなければ渡せないし、なおかつこのタイミングでもっとも喜ばれる贈り物であろう。
そして同時にシルバーのプレゼントを、より強く引き立てる結果にもなっている。
最後の最後で一番良いところを持っていった感のある青年に、一同は先程とは異なる意味合いの苦笑を漏らしたのであった ――
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