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 ぬえの集う街でIII  ―― Too much of a good thing.
 第二章 驚きと喜び
 ― Makoto.Kanzaki Original Novel ―
 
神崎 真


 その当日は、【Katze】の定休日にあたっていた。
 いつもであれば、ルディは自宅でアンヌが作り置いていた夕食を、一人で温めて食べる。時には住人の誰か ―― 最近は主に七階のペントハウス ―― にお呼ばれすることもあったが、さすがにそうそう頻繁に世話になる訳にもいかない。それぐらいは、いくらルディが子供であってもわきまえている。
 なのでいつもと同じように、灯りのついていない店の前を通りすぎて、建物脇の路地にある非常階段からアパートの二階へと上がった。二〇三号室の扉の前で、解錠装置に指を伸ばそうとする。
 と ―― その前に、廊下の奥から声がかかった。
「少し、遅かったか?」
 ここで耳にすることなどまずない、しかしよく聞き知ったその声に、驚いて顔を上げる。
 エレベーターの扉の前に、杖をついた黒髪の人間ヒューマン女性が立っていた。
「え、シルバー? どしたの」
 ルディは驚いて、足早にそちらへと駆けてゆく。
「夕食をどうかと思ってな」
 その視線が、ちらりとエレベーター脇へ投げられた。そこは狭いがロビーになっていて、簡素なソファやテーブルが置かれている。この建物がホテルだった頃の名残で、現在では半ば物置きになりかけている空間だ。それでもまだ、座って時間を潰すぐらいのことはできる。膝丈の小さなテーブルに、キーボード付きの端末が置かれていた。画面に表示されているのは、ルディにはまったく理解できない数式の羅列。どうやら仕事をしながら、帰宅するのを待っていてくれたらしい。
 誘いを受けて、沈み気味だったルディの表情が、ぱっと明るいものに変わった。
「良いの!?」
「……お前が、迷惑でなければ」
 相変わらず、シルバーはどこか一歩を引く傾向にある。それに対し、ルディはどこまでも己の感情に率直だった。
「ううん! すっごい嬉しい。行く行く! ありがとう、シルバーっっ」
 その場で跳び跳ねているのを静かな眼差しで見やり、彼女はテーブルに歩み寄って端末を終了させた。折り畳んだそれをトートバッグに入れる。そして杖を持っているのとは逆の肩へかけつつ、ルディを振り返った。
「では、行こう」
「うん!」
 エレベーターは、彼女が二階へやってきた時のまま止まっていたのだろう。ボタンを押すとすぐに扉が開いた。二人して乗り込んで、シルバーが操作盤へと指を滑らせる。
 身体に掛かる加重に違和感を覚え、ルディはあれ? と目をしばたたいた。
 シルバーを見上げて問いかけるより早く、エレベーターが止まってドアが開く。いくら何でも着くのが早すぎだ。
「こっちだ」
 先に立つシルバーの後を追って、ルディは廊下へと出た。
 案の定そこは、ペントハウスのある七階ではない。
「シルバー?」
 ルディの疑問に答えようとせず、彼女は薄暗い廊下を進んでいった。左側にかつてフロントであったカウンターがあり、正面には道路に通じる玄関の自動ドアがある。右手は【Katze】の店内を見渡せる大きな窓だ。
 ここは七階ではなく、どう見ても一階だ。
 めったに人が通らない玄関ホールには、非常灯のわずかな明かりしかなく、どこかがらんとした雰囲気がもの寂しい。いつもは賑やかな喧騒が漏れてくる店の窓も、定休日である今夜は薄暗がりに沈んでいる。
 閉ざされたままの店の入口で立ち止まって、ようやくシルバーは振り返った。
「ルディ」
 名を呼んで招かれ、ルディはとまどいながらも近づいてゆく。
「どしたの。今日は店、お休みだよ?」
「ああ、判っている。だが、ここに用事があるんだ。すまんが、扉を開けてくれるか」
 またも意外なことを言われて、ルディは数度まばたきした。暗い店に用があるというのもそうだが、そもそもシルバーは基本的に、自分のことは自分でやる人間だ。リュウに対してはそれなりに手を借りたりもしているが、そこは給金を支払って雇用しているからという、彼女なりの明確な基準があるらしい。それ以外の者達に対しては、たとえ相手が獣人種であっても、顎で使うような真似など一切しない。
 しかし右手で杖をつき、左手は肩にかけた鞄を押さえているその状態を見て、ルディはあっさりと納得した。今の彼女は両手が塞がっている。一方バックパックを背負っているルディは両手とも自由だ。ならば手の空いている方がドアを開ける。ごく当たり前のことだろう。
 一瞬生じた疑問をきれいに忘れて、ルディは毎日のように通っているドアへと、何の警戒もなく手を伸ばした。
 その背後で、シルバーがさり気なく杖をずらし、扉正面からわずかに外れた位置へ移動したことにも、まるで気付かないままに。
 いつもは気にならないドアベルの音が、からんころんと空々しく響いた。
 そうして次の瞬間、
 立て続けの破裂音が、ルディに襲いかかった。

「「「「「ハッピー・バースデイ!!」」」」」

 重なり合ったいくつもの声と共に、いっきに店内が明るくなる。
 驚いて立ち尽くしたルディの前で、見知った多くの面々が、いたずらっぽい笑顔でこちらを向いていた。
 その手には、たったいま音を鳴らしたクラッカーが握られている。色とりどりのテープや紙吹雪がひらひらと宙を舞って、ルディの身体へゆっくり降り注いできた。

「……え、え?」

 状況が判らぬまま、狼狽して周囲を見まわす少年を、アパートの住人や常連達が勢い良く取り囲む。

「誕生日おめでとう、ルディ!」
「どうした、びっくりしたか? ん?」
「これサプライズって言うらしいぜ。驚いただろ!」

 荒っぽく頭を撫でたり背中を叩いたりしながら、口々にそんな言葉をかけてくる。
 どの声もしてやったりといった、楽しげで、そしてどこか得意そうな響きにあふれている。
 誕生日、と。オウム返しに呟いて、ルディはもう一度あたりへと視線を向けた。いつもは落ち着いた、けれど簡素な調度の店内が、見違えるように飾り立てられている。色紙を細く切って繋いだ鎖やリボン、やはり紙を折って作ったらしい花や星が、壁や柱にいくつも取り付けられていて、とてもカラフルになっていた。柱のひとつには、普段日替わりメニューの内容を書くのに使われている、小さな黒板もぶら下がっている。いささか斜めになったそれには、はみ出さんばかりの勢いで【HAPPY★BIRTHDAY Rudi!】の文字が踊る。

 ぽかんと口を半開きにしたルディの前へと、一人の女性が歩み寄ってきた。
 皆が心得たように場所を開けると、膝をついて姿勢を低くした彼女は、ルディと視線を合わせて微笑んだ。

「お誕生日、おめでとう」
「……アンヌ、姉ちゃん」

 今頃は仕事に行っているはずの叔母が、慈愛に満ちた眼差しでルディを見つめていた。
 よく似た焦茶色の瞳が、互いの姿を映し出す。
「シルバーさんに調べてもらったら、誕生日ってその人が生まれてきたことや、無事に育ってくれたことを、感謝する日なんですって。だから、ね」
 彼女は、ルディの小さな身体を優しく引き寄せた。
「生まれてきてくれて、ありがとう、ルディ。どうかこれからも、ずっと元気で……大きくなっていってちょうだい」
「……姉、ちゃ……」
 ルディはしばし戸惑うように、浮いた両手を彷徨わせていた。
 が、やがて小さなその手のひらで、アンヌの服をぎゅっと握りしめる ――


 二人はしばらくそうして抱き合っていた。やがて互いが互いの身体を離すと、常連達はほらほらと急き立てるようにして、ルディをテーブルの方へと連れてゆく。
 そこに並んださまざまな料理を見て、ルディは思わず歓声を上げた。
「うわあ、うわあ!」
 いつぞやのシルバー退院パーティーの時もすごかったが、今回のメニューは子供向けを意識されているためか、ルディにとってはまさに御馳走と呼べるものばかりだった。
 唐揚げにフライドポテト、ドライカレーを半熟卵で包んだふわとろのオムライスや、ケチャップで真っ赤になったナポリタン。サンドイッチの具もハムやチーズやフルーツといったものがほとんどで、ルディが苦手な生野菜は見当たらなかった。代わりに最近食べられるようになった、彩り鮮やかな夏野菜たっぷりのキッシュに、ほうれん草とキノコのバター炒め、アスパラガスのベーコン巻きなどがある。
 皿いっぱいに積み上げられたパンケーキは、緑やオレンジといった見慣れない色合いをしていた。実はすりおろした野菜を混ぜてあるのだが、これも見た目が楽しいので、そうと気づかないまま興味をそそられる。
 お菓子としては、薄くスライスしたポテトをカリッと揚げたチップスや、グラスに盛られた色とりどりの角切りゼリー。
 それから……

「これって、バースデーケーキ!?」

 どんぐり眼をさらに大きく見開きながら、ルディがアンヌを振り仰いだ。
 ルディの席の真正面に置かれているのは、純白のクリームでデコレーションされたホールケーキだった。中央に空いた丸い穴を囲むように、つやつやとした赤いイチゴが、尖った先端を上に向け輪を描いている。そしてイチゴの合間を縫うように立つ、細いロウソク。その数はちょうど年齢と同じで。
 人間ヒューマンのクラスメイト達が話していた、誕生日にだけ食べられる特別なケーキ。まさにそのままの姿だ。
 ルディの問いに笑顔で頷いたアンヌは、隣に立つ女性を指し示した。
「それはネイさんと二人で焼いたのよ」
 その言葉に合わせて、女性 ―― ネイはルディへと笑いかける。
「久しぶりだね、ルディ。って言っても、アンタは覚えちゃいないだろうけど」
「……ネイ、さん?」
 ルディはきょとんとした表情で、まるで知らない相手を見上げた。
 年はアンヌよりもだいぶ上だろう。女将さん、アウレッタよりは少し若いだろうか。褐色の肌をしていて、女の人にしてはずいぶんと大柄というか、格好いい雰囲気の人だ。大きく広がった長めの髪は、白と黒と黄色が筋になっていて、よく見ると一筋一筋が鳥の羽毛のような形をしている。ずいぶん目立つ人だと思うが、このアパートの住人ではないし、【Katze】で見かけたこともない。
「アタイはハヤブサのネイ。ダンさん ―― アンタのお父さんや、お母さんと、同じところで働いてたんだよ」
 アンタにも、まだ赤ん坊だった頃に何度か会ったことがあるんだ、と。
 どこか寂しげな表情でそう言いながら、大きな手の平でルディの頭を撫でてくる。
「シフォンケーキは、アタイの得意料理でさ。ダンさんもディアーヌも、美味しい美味しいって喜んでくれてたんだ。だからアンタにも食べてほしくってね」
 ルディには、両親の記憶がまったくなかった。
 父親はまだルディが生まれる前に事故に遭ったというし、アンヌの姉に当たるのだという母親も、ルディを産むのと引き換えのように命を落したらしい。だからルディにとって、血の繋がった家族というのはアンヌただ一人だった。物心ついた時から、叔母あねだけがルディの家族だったのだ。
 だが ―― そんな遠い存在であった両親のことを、ネイは知っているのだと言う。
「……父さんと……母さんが、好きだったケーキ?」
「ああ、そうだよ。特にダンさんなんて、甘いものに目がなくってさ。いつか丸ごと全部、一人で食べてみたいって言ってたぐらいだよ!」
 その言葉に、周囲で聞いていた女性陣の多くは同意するようにうなずき、ほとんどの男性陣は微妙に複雑な顔をした。一切れや二切れならともかく、一人でワンホールすべてというのは、さすがに想像するだけで胸焼けがしてきそうだ。
 これまで知らなかった父親の意外な一面に、ルディはなんだかそわそわと落ち着かなくなってくる。けして不快な感覚ではなくて、むしろ胸の奥が浮き立つような心地よさを感じるそれだ。
「ダンさんやディアーヌのこと、アンタにはいろいろ話してあげたいよ。でもまあ、その前に……さ」
 言葉を切ったネイが、手の平でケーキの方を指し示す。
 と、横からライターを持った腕が伸びてきていた。見れば、これまた楽しそうな笑みを浮かべたドクター・フェイがいる。彼は次々とロウソクに火を点けてから上体を起こした。
「誕生日といやあ、まずはこいつだろ?」
 そう言って眼鏡越しに片目を閉じる。
 人間ヒューマン社会での暮らしが長かったドクターは、それなりにこういった習慣に対する知識も備えている。彼の合図を受けて、リュウが再び店内の電気を消した。しかしあたりは真っ暗にはならず、揺らめく小さな炎によって、テーブルの周囲がぼんやりと浮かび上がった。
 オレンジ色の、どこか柔らかさを感じさせる、暖かな灯火ともしび ――

 誰ともなしに視線を交わし合い、タイミングを図っていっせいに歌い始める。

 ところどころ調子の外れた、慣れないなりにも思いの込められた歌声に囲まれて。
 ルディは満面の笑顔で肺いっぱいに息を吸い込んだのだった。


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