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 ぬえの集う街でII  ―― The binding cover to crack-pot.
 第十一章 そして戻る日常は
 ― Makoto.Kanzaki Original Novel ―
 
神崎 真


 翌日こそさすがに休んだものの、週明けにはもう、リュウは【Katze】のカウンター内に姿を現していた。そんな彼を客達は心配し、口々に気遣うのだが、本人は困ったようにかぶりを振るばかりだ。
「……お見苦しいところをお見せして、申し訳ありませんでした」
 そんなふうに言って、眉尻を下げる。
 単なる謝罪だけでなく、心底から恥じ入っていると言わんばかりのその顔を見ると、かえってその話題に触れる方が、嫌な記憶を甦らせる結果になるのではと思い、みな何も言えなくなる。
 それでも、そんなふうに判りやすく表情が動くようになった分、あの女フラン=ビアンカが出入りしていた頃よりも、ずっとましだった。
 特にバックヤードにまで付き添っていった面々は、ドクターと入れ替わりにシルバーがやってくるまでの状態を目の当たりにしていただけに、きちんと自分の足で立ち、姿勢を正した状態で視線を合わせて会話をするその様子に、安堵の息を漏らしてしまう。

 嘔吐した直後のリュウは、自分達が誰なのかを ―― けして害意を持つ訳ではない、顔なじみの知り合いなのだと ―― ちゃんと認識していて、それでもなお、反射的に逃げようとする身体を止められずにいた。すみませんと小さく繰り返し、壁の角に背を押し付けて。長い手足を引き寄せるように身を縮めるその姿は、まさにアウレッタが表現したように、怯えながらも必死に自分を守ろうと試みる、傷ついた野の獣のようで。
 彼女は、そんなリュウに、いきなり近づこうとはしなかった。
 拳ひとつ分ほど置いた距離で、腰を落とし、同じように床へと直接座り込む。
 そうして、ただその名を呼んで。リュウの方から動くのを待ったのだ。
 やがて、そろそろと伸ばされた手が、震えながらシルバーの服を掴み、すがるように力を込める。
 その、指先が。
 そんな手の甲へと、音もなくそっと、重ねられる手のひらが。交わされる眼差しが。
 些細な仕草のひとつひとつが、互いが互いへ向けている思いを、溢れんばかりに叫んでいるようで。

 無言で合図しあい、全員が席を外して静かに扉を閉ざしたのは、なにも怯えるリュウから距離をとってやるためばかりではなかった。

 あの二人の間に流れている何かを、邪魔することはできない。してはいけない。
 その場にいた誰もが、暗黙の内にそう思ったのだ。

 あれは確かに、性的な意味合いを含む、一種即物的とも言えるような触れ合いでは、ないのだろう。
 もっとずっと、根源的で、切実な ―― ごくごくささやかな温もりを、分かち合うかのような。
 溺れる者が掴む、一筋の藁か。
 あるいは泣く子が懸命に伸ばす手を、やはり必死になって捉えようとする、小さな子供の手のひらか。

 リュウをかばって大怪我をした際に、シルバーは精神の均衡を崩し、一時は錯乱状態にすらなった。
 あの時に彼女を抱きしめ、寄り添い、その心を支えたのはリュウの方であったけれど。
 けれど、今は。
 シルバーがリュウの存在によって、ある程度の落ち着きを取り戻したように。
 リュウの方が弱った時には、シルバーの存在だけが、と。

「あの……なんか裏の扉が、開かなくなってる、よ?」

 表通りに通じる玄関ホールから入ってきた住人の一人が、おずおずとそんなことを言ってきた。

「階段降りたとこの、外に出るドア……なんだ、けど」

 巻き毛の金髪に太縁の丸眼鏡をかけた羊種の男が言っているのは、ビル脇の路地に通じる、非常口のことだ。
 非常用の脱出口として作られたものではあるが、実際に使われている頻度はかなり高い。前述の通り体力のある獣人種達は、エレベーターを待って時間を浪費するよりも、さっさと階段で移動する方が多いからだ。建物の外から直接階段室へ出入りできるその扉は、むしろ表通りへの自動ドアよりも頻繁に利用されているほどである。それが使えなくなっているのであれば、困る住人は多いだろう。
 しかし今のリュウに、修理をさせるのは、さすがに気が引ける。
 そんな具合で力のこもらない訴えに、しかしリュウは迅速に反応する。
「判りました。見てきます」
「あ、ちょっと……」
 とっさに引き止めようとしたアウレッタは、一瞬遅かった。リュウはバックヤードに通じる開口部から、奥へと入っていってしまう。そのままロッカールームや事務室を通り抜け、裏の廊下から階段室へ向かうか、あるいは勝手口から一度建物の外へ出て、外部から扉の具合を確認するかのどちらかだろう。
「少しぐらい、ゆっくりすれば良いのにさ……」
 ため息混じりに呟くアウレッタの言葉に、客達の咎めるような視線が、訴えを持ち込んだ住人へと突き刺さった。彼は恐縮して首をすくめていたが、それでもリュウが思いのほか回復しているのを確認できて、どこか安心しているようにも見える。
 実際、シルバーのことを忘れていた頃のリュウは、たとえ調子を崩しても誰にも頼らぬまま、いつもと変わらぬ量の仕事をこなし続けていたのだ。それを思えば、寄り掛かる相手ができた今は、本当に無理を押している訳ではないのだろう。少なくとも、睡眠薬が足りなくなるとよく見せていた、寝不足で血の気が失せたひどい顔に比べれば、まだずっと楽そうだ。

 再び入り口のベルが鳴り、客が姿を現す。
 杖をつきながらゆっくりと入ってきたのは、長い黒髪を下ろした人間ヒューマンの女性。シルバーだ。
 杖の先端のゴムと床のタイルが擦れる音をたてながら、左足をひきずりつつ、いつもの席へと向かってゆく。
「あ、オーナー。おはようさんッス」
「……おはよう」
 アヒムが挨拶すると、一瞬遅れたが、それでも答えが返った。
 椅子を引いて腰を下ろす彼女へと、アウレッタがちょっと困ったように声をかける。
「あの、リュウはいま、少し席を外してるんですけど」
「……ああ」
 空のキッチンカウンターをみやり、大真面目にうなずく。
 それで、と。無言のまま目だけで先を促されて、女将は恐縮しつつ問いかけた。
「その、どうされます? 一応、私でもだいたいのメニューは作れますが」
 ただどうしても、リュウが調理した場合とは微妙に味が異なってくる。それはそれで客達の間では、自分はアウレッタの味付けが好みだ、いやリュウの方が旨い、むしろその日の気分でどっちも楽しめる、などと盛り上がるネタになっていたりするのだが。しかしことシルバーに関しては、今さら聞くまでもないだろう。なにしろせめて彼の料理を食べたいからと、わざわざこのキメラ居住区へ引っ越してきて、【Katze】に通いつめていたぐらいなのだ。
 あまり待たせるようなら、いっそ修理を中断してでもリュウを呼んできたほうが ――
 気をまわすアウレッタへと、しかしシルバーはあっさり告げる。
「では、サンドイッチとヨーグルトを。……それから、野菜を何か、適当に」
 最後にぼそりと付け足されたのは、先日受けた注意を思い出したからか。
「え、その、よろしいんですか」
「何がだ」
 不思議そうに、首を傾げている。
 まっすぐに見上げてくる瞳は、相変わらず感情の読み取りにくいものであったけれど。それでもかすかに感じられるのは、どこまでも純粋な疑問の色ばかりで。
 なにもリュウ本人が調理していなくとも、別にこだわらない。ただこの店で食事を摂るという行為を、ごく当たり前に受け入れている顔だ。
「えっと……はい。サンドイッチとヨーグルトとサラダですね。少々お待ち下さい」
 もろもろを飲み込んでアウレッタが復唱すると、こくりとうなずいて、いつものようにポケットから手のひらサイズの携帯端末を取り出した。
 素っ気ない反応ではあったけれど、なんだか少し嬉しく思えてきて。キッチンに入ったアウレッタは、口角が自然と持ち上がるのを感じる。
 この間はカプレーゼを頼んでいたことを考えて、鮮やかなプチトマトを瑞々しいレタスの上に並べる。水にさらした玉ねぎのスライスを加え、さらに彩りを求めて黄色いパプリカを細く刻んだ。味付けはシンプルに塩のみだ。
 ヨーグルトはプレーンが好みらしいが、ひとさじほど蜂蜜を混ぜる。少食の彼女にはそれぐらいしないと、すぐにブドウ糖が足りなくなるのだとか、いつぞやのリュウがこぼしていた。
 鼻歌交じりに手を動かしていると、またひとり客がやってくる。

「いらっしゃい!」

 掛け声に、禿頭の大男が軽く手を上げて応じた。
 夜間に働く彼が、午前中の内にやってくるのは珍しい。やはりまだ、今回の騒ぎがもたらした影響を気にかけているのだろう。長い足をゆったりと運び、わずか数歩でカウンターへと近付いてくる。
「シルバー」
 気負いのない発音で呼び捨てされたその名に、店内のみながぎょっとしてふり返った。
 呼ばれた方はごく自然な態度で、操作していた端末から顔を上げている。
「……?」
 視線だけで投げかけられる問いへと、ジグが短く答えた。
「構わないか」
 二人掛けのテーブルの、空いている席の背もたれへと手をかける。
 これまで彼女を ―― いくらビジネスネームとはいえ ―― 呼び捨てにし、そして同じテーブルを囲もうとしたのは、子供であるルディを除けば、あの豪胆なドクター・フェイだけだった。看護師のレンでさえ、店が混んでいる時は相席に同意するものの、それでもいちおう敬称をつけて呼び、丁寧な言葉遣いを保っている。
「ああ」
 肝を潰している周囲をよそに、シルバーは迷う素振りもなく受け入れ、端末へと目を戻した。
 ジグもまた、それ以上は話しかけるでもなく。ただ向かい側に腰を据え、持参した新聞を読み始める。
 それぞれが好きなことをしながら、それでも同じ席で向かい合う。
 アウレッタがそろそろと近付いてシルバーの朝食を並べてゆくと、ジグはモーニングセットを注文した。

「あ、シルバーさん、やっぱここだったんだ!」

 元気の良い声とともに、カワセミの少女が駆け込んでくる。
「リュウがまだお店には来てないって言うから、上まで行ってピンポン鳴らしてみたんだけど。反応なかったし、入れ違っちゃったのかなって」
 軽く息を弾ませたスイは、手に小さな箱を抱えている。どうやら七階まで往復してきたのだろう。エレベーターを使うシルバーとは、丁度タイミングがずれたようだ。
「あれ、階段とこのドア、開かなくなってたんじゃねえのか」
 客の一人が、そんなふうに訊いてくる。
「うん、なんか動きが悪くなってるって、リュウが油とかしてた。でもいちおう、くは開いたから、通らせてもらったの」
 そう答えて、スイは持っていた小箱をシルバーの前にある皿のそばへ置く。
「はい、これ。ご依頼の荷物です。ご確認下さい!」
 箱の脇には、伝票を並べる。
 先日、代理で受け取ってきてくれと頼まれた、都市外部からの局留め小包みだ。嫌なことはさっさと済ませるに限ると、届いたという知らせを受けた朝一番で、一般居住区まで足を伸ばしてきたのだ。
 案の定、不愉快な扱いはいくぶんなりと受けたが、不思議とそこまで嫌な思いは感じなかった。むしろこれを渡した時に、シルバーがどんな反応を見せるのかと、そちらの方ばかり気になって、局職員の嫌味など右から左に通り過ぎていったぐらいである。
 シルバーは丁寧な手つきで小箱を取り上げ、宛先と発送元を指でなぞり、品書きや取り扱い上の注意点、包装の傷み具合などをチェックしている。
「 ―― 確かに、間違いない」
 言葉に出して確認し、スイの方を見上げてきた。
「本当に助かった。また、頼んでもいいか」
 それはつまり、彼女の仕事に満足してくれたという意思表示に他ならず。
「う、うん。いつでも請け負うよ。その時は、よろしくお願いします!」
 ぺこりと一礼すると、シルバーはわずかに ―― 本当にほんの少しだったが ―― 目元を柔らかくした。
「こちらこそ、よろしく頼む。……ありがとう」
 短く、単語も簡素なものだったけれど。それでもその言葉は、何故かとても心に響いた。
 満面の笑顔を返したスイへと、ふとシルバーは、何かに気がついたように眉をひそめる。
「……そう言えば」
 急に改まって向き直られて、スイは思わず目をしばたたいた。そんな彼女へと、シルバーは小さく頭を下げる。
「先日は、無神経な発言をしてすまなかった」
 いきなりの謝罪に、スイは意味が判らずうろたえた。
「え、なに。シルバーさん、いきなりどうしたの!? やめてよ、そんな」
 慌ててとっさに肩へ触れると、伏せていた視線が上げられる。
 磨いた黒曜石を彷彿とさせるその瞳が、逸らされることなく朱色の目を見つめ返してきた。
「……『この街育ちの第三世代』などと、ひとくくりにするのは配慮が足りなかった。スイも、ルディも、あの女とは違う。生まれや育ちで、その人品が決定される訳ではない。当たり前のことだが……冷静さを欠いていたようだ」
 悪かった、と。
 もう一度、詫びを重ねられる。
 その言いまわしは、リュウを侮辱したフラン ―― いやビアンカに対して、発せられたものだった。第一世代の実情を知りもせず、ただ己が両親を持つ自然出産の第三世代というだけの理由で、首輪付きだったリュウを蔑み、不潔だとすら言った。そんなビアンカへと、シルバーが向けた強い怒りの現れ。
 今も、あの時も。彼女の態度は一貫して、静かなものだ。一目見ただけでは、とても平静を失っていたとは思えないだろう。
 ―― それでも、
 常に落ち着き払い、平常心を保っているように見える、この人間ヒューマン女性が。
 ことリュウに関してだけは感情的になってしまうというその事実が、スイにはどことなく嬉しい ―― というより、微笑ましくさえ思えて。
 自分より、そしてあの女よりもまだ年長で、ちゃんと己の力で自身や家族を守り養っている、立派な大人の女性ひとであるはずのシルバーなのに。
 ずっと年下の自分に対しても、こうして不器用な部分をかいま見せてくれると、なんだかすごく身近な存在に感じられてくる。
「ううん」
 だからスイは、かぶりを振ってみせた。
「大事な人に、ひどいことされたんだもん。カッとなるのも当たり前だよ。どっちかって言うと、怒ってくれて、こっちもスッとしたぐらい。全然、気にしてないから」
 そんなふうに告げる自分の笑顔が、シルバーの黒い目に映り込んでいるのが見える。獣人種とは異なる形状をしたその瞳を、苦手だとはもう、これっぽっちも思わない。
 彼女もまた自分達と同じように、誰かを大切に思ったり、そのせいで怒ったり ―― そして苦しむこともある、同じ『ヒト』なのだと。はっきりこの目で見て、知ったから。

「ただ、正直ちょっと、びっくりはしたかな。いくら目には目をって言っても、まさかシルバーさんまで、あの女にキス仕返すなんて、思わなかったもん」

 それだけビアンカの行動が、腹に据えかねたということなのだろうが。
 いきなり目の前で見せつけられたあれには、さすがに驚いた。

「……私に言わせれば、ただ口の粘膜が接触したという、それだけなんだがな」

 それでも一部の者には、かなりのダメージが与えられるようだから、と。
 あまりにも味気ない回答が返ってきて、スイの目が点になる。

「え……キスって、そういう……も、の……?」

 恋に夢を見がちな年頃の少女にとって、シルバーの見解はビアンカのそれとはまた異なった意味で衝撃的だ。
 ショックを隠せないでいるスイへと、シルバーはふむと薄い口唇を指先でなぞる。
「 ―― 本当に好ましい相手とであれば、また話が異なってくると聞く。そういったふうに感じられる特別な存在が、スイは見つかると良いな」
 そう言って、どこか慈しむような眼差しを向けてくる。
 穏やかな、柔らかいものに包み込まれるような感覚を覚えて、スイは頬を染めてうつむいた。
「う、うん」
 両親とは早くに死に別れ、兄弟もいないスイだったが、もしも姉がいたとしたら、こんな感じだったかもしれない。そんなふうに、思う。


 そんな二人の、どこか微笑ましさを漂わせたやりとりへ。
 向かいに座るジグや店内の客達は、それとなく耳を傾けていたのだが。
 とりあえず、なぜシルバーは、住人であるルディはともかく客の一人でしかないスイが、この街で生まれ育った第三世代であると、知っているのかとか。
 リュウとはまた逆の方向で、肉体的な接触に対するその認識が、あまりにも無味乾燥すぎるのではないかとか。
 いろいろと突っ込みたい部分が、多々存在していたりした。
 思えばシルバーは、わずか数日でフランことビアンカについて、その過去や行状をこと細かに調べあげることができたのだ。それは彼女が、リュウの現在や未来に関わってくるかもしれないと考えたからで。
 ならば、
 実際にいま、同じビルに住み、勤める店を訪れ、毎日のように関わりを持っている人物達については。
 奇しくもゴウマがビアンカへ言ったように、面と向かって名乗った覚えもないのに、当たり前のようにフルネームを呼ばれた経験を持つ者は、一人や二人ではきかない。
 あるいはシルバーは、このビルの全住人どころか、【Katze】に出入りする常連達、そのすべてのプロフィールを調査し、把握しているのでは……ないだろうか。
 そして、もしも。
 自分達がリュウを、傷ついた同胞のひとりとして、それなりに気遣いながら受け入れるのではなく。
 忌まわしい首輪付きとして、手荒く接し ―― あるいは、最初にチンピラどもに襲われた怪我が元で、死亡させていたりしたら。
 そんな仮定へと思い至った何名かは、背筋に冷たいものが生じるのを禁じ得ない。

「…………」

 起こらなかった『もしも』を、どれほど突き詰めたところで、しょせん時間の無駄でしかなく。
 シルバーはいま、こうしてキメラ居住区内で、【Katze】の常連達と穏やかに言葉を交わしている。
 そして、『もしも』アパートの住人や常連達の誰かに困ったことが起きたなら、彼女なりのやり方で手を貸してもくれるのだろう。たとえその根本的な動機が、リュウを取り巻く環境に悪影響を及ぼさないようにという、ただその一点に集約されていようとも。
 だから、仮定などする必要はないのだ。
 そう結論して、客達は不吉な想像を脳裏から追い払う。

 シルバーが、伝票にペンを走らせ、受領のサインを記していた。
 カウンターの内側では、アウレッタが盛り付けを終えたモーニングセットを盆に乗せて、出てこようとしている。今日のメインは、焼いたソーセージとスクランブルエッグのようだ。ポテトサラダの横に盛られているロールパンは、ジグの食事量を考えて通常の倍の数がある。

 いつもと変わらない、朝の店内。
 【Katze】のカウンター正面の席に、端末片手に人間ヒューマン女性が座っているのも、既に常連達には馴染んだ光景だ。
 そのすぐ向かいにルディ以外の客がいるのは珍しかったが、おそらくそれも、遠からぬうちに『いつものこと』として、受け入れられてゆくのだろう。

「 ―― あっ、と」

 アウレッタが少し慌てたような声を上げた。
 通りすがりに袖が引っかかったのだろう。カウンターに乗っていたコーヒーポットが、床へと落下したのだ。
 幸い中は空だったため、床に液体が飛散するのは避けられた。が、耐熱ガラスの本体に、大きく一筋亀裂が走ってしまっている。
「ああ、やっちまった」
 彼女は拾い上げたそのポットをため息とともに眺め、そっとカウンターへ戻した。
 騒がせてごめんよと断る女将へ、常連達は気にするな、怪我しなくて良かったと口々に笑いかける ――


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