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 ぬえの集う街でII  ―― The binding cover to crack-pot.
 第十章 二人の関係
 ― Makoto.Kanzaki Original Novel ―
 
神崎 真


 ドクター・フェイの指は、長いが節くれだっており、ところどころにいくつも切り傷や火傷の跡が残っている。それは実習の過程や、様々な研究、実験の結果としてそうなっていったものだ。
 そんな彼の指の間で、細いプラチナブロンドがぶちぶちと音を立てて抜けてゆく。

「俺の、患者を、異常者呼ばわりする気か、てめえは」
「……やッ、痛い……やめ……ッ!」

 ビアンカが涙混じりに泣き叫ぶと、ようやく彼は、ずっと掴んでいた髪を解放してやった。
 その指には、長い毛髪が何本も絡みついている。それをうっとおしげに振り払いながら、フェイは顎を上げてビアンカを見下みくだした。
「だいたい、てめえはなんで何も知らねえんだ。あいつが第一世代の『首輪付き』だったのも、俺の患者でほんのこの間まで、ろくに口を利きもしねえ有り様だったってのも、この界隈の連中なら、みんな知ってることだぜ」
 つい先日、それで大騒ぎが起きたばかりなのだ。上階の住人や常連達はもちろんのこと、この店とはほとんど関係のない、単なる近所を行き交うだけの人々であっても、大なり小なり噂は耳にしている。
 いわく【Katze】の店員の銀狼は、かつて行き倒れの状態でドクターの元に運び込まれた、記憶喪失の患者である。たとえ獣人種が相手でも見えない壁を張り巡らせ、身だしなみすらろくに整えず、雇い主であるアウレッタとさえ最低限の会話しか交わそうとしない、極端な『ヒト』嫌い。
 そんな彼を、誰しもが同情的に受け入れていた訳ではなかった。
 まして、あの事件の後、市民権を得た今でもなお、コックスカーフの下には隷属の象徴である首輪をはめられたままなのだと、さらなる噂が広まった。しかも人間であるシルバーに対し、まるでかしずくかのように接している。
 しょせん『首輪付き』かと、あからさまな侮蔑の目を向ける者も、多くはなくとも確実に存在していた。
 この店に出入りし、ほんのわずかでも周囲の声に耳を傾けていれば、それぐらいの情報はすぐに得られたはずである。むしろあえて耳を塞ごうとしたところで、そういった話は嫌でも聞かされるものだ。
 なのにビアンカが、その一切を知らなかった、その理由は。

「 ―― そのは、興味のあること以外、まるっきり無視してたものね」

 胸の前で両腕を組み、深々とため息を付きながらそう告げたのは。同じ職場に勤める先輩である、黒豹のルイーザだった。
「ここに来ても、誰とも会話なんかしやしない。リュウは忙しいから、今は邪魔するなって声をかけても、まるで知らんぷり。自分の聞きたいことしか聞こうとしないから、こういうことになるのよ」
 フランと名乗っていた後輩を見るルイーザの目は、やはりどこまでも冷たい色をたたえている。同僚をかばう気など欠片もないのだと、その態度ではっきり意思表示していた。
「ね……姐さん、助け……っ」
「いやよ」
 すがるように栗色の瞳を向けられても、ばっさりと切り捨てる。
「あんたはあたしの知り合いに、たくさん迷惑をかけたわ。リュウや、この店の客達や……オーナーもよ。みんな、毎日みたいに顔を合わせてる、大事なご近所さんだわ。そんなみんながあんたのせいで、さんざん嫌な思いをさせられて。なのにどうして、ここであんたを助けなきゃいけないの」
「そん、な……」
「そう言えば、リュウのことは知らなかったで通せても、オーナーはそうは行かないわよ。あれだけ手酷い暴言吐いて、血が出るほど殴りまでしておいて、ただで済むとでも思ってるの?」
「え…………?」
 ルイーザの言葉に、ビアンカは心底不思議そうな表情をした。
 ぽかんと口が半ば開いたその顔は、何を言われたのかまったく理解していないものだ。
「なに、言って」
「なに言ってるは、こっちの台詞よ。まさかこの期に及んで、まだ判ってないの」
「 ―― なあ、この女、本当に馬鹿なのか」
 常連の一人が、そんなふうに呟いた。
「演技とか、まだこっちを丸め込めるとか、そんなふざけたこと考えてるんじゃなくて。マジで本気で判ってないのか」
 別の一人がそう続ける。
「な、なによ。なんでアタシが、バカなんて……」
 狼狽するビアンカを遮ったのは、怒りに満ちた甲高い叫び声だった。

「バカをバカだからバカって言ってるんじゃない! この、バカ女ッ!!」

 肩を怒らせ、身体の両脇で拳を握りしめているのは、カワセミの少女、スイだった。
 オレンジのメッシュが入ったきらめくエメラルドグリーンの髪を振り乱し、白い頬を憤怒に紅潮させながら。まだ十代の半ばを過ぎたばかりの少女は、年上の女へと精一杯の罵倒を浴びせかける。
「アンタなんて、大っ嫌い! シルバーさんが、どんなにリュウのこと大事にしてるのか、知ろうともしないで、勝手なことばっか言って。リュウにも、あ、あんな……ひどいことして! 好きでもない人に、無理矢理キスなんかされたら、そんなの……っ」
 己に当てはめて想像したのか。瞳をうるませ、大きく身体を震わせる。
 まだ子供を脱したばかりの潔癖な少女にとって、それは身の毛がよだつほどおぞましく、忌まわしい行為としか感じられなかった。
「不潔なのは、アンタの方よ。リュウも、シルバーさんも、とんだ災難だわ! この、犯罪者の変態女!!」
 興奮のあまり息を切らせながらも言い切ったスイの肩を、よくやったとばかりにゴウマが叩いた。
「 ―― あれ、ゴウマさん、なんで」
 奥にいるはずの彼が、いつの間にか店内へ戻ってきていることに、今さらながら気が付いて。リュウは良いのかと視線を奥へ向けると、アヒムもディックもアウレッタも、レンまで全員が姿を現していた。
「……オレらがいると、やっぱ落ち着けないみたいで、さ」
 アヒムが複雑な表情で頭を掻きつつ、そんなふうに言う。
「扉は全部閉めてあります。こちらの声は聞こえていないと思いますよ」
 レンが安心させるように、叫んでいたスイへと微笑みかけた。
「放ってきた訳じゃないから、心配しなくていい。ちゃんとシルバーさんがついててくれてる。あれなら大丈夫。ほっとしたよ。なにしろ前は、いつも部屋の隅で、一人で膝抱えてうずくまってたからね」
 まるで手負いの獣みたいだった、と。アウレッタがそう述懐する。
 医者であるドクターも、看護師のレンも、ましてや雇い主かつ拾い主でもあるアウレッタの手さえ、これまでのリュウは受け付けられなかった。普段は理性で押さえていたが、悪夢が続いたり何かのきっかけで精神的に弱ると、それもできなくなる。そうなったらもう、誰も寄せ付けようとせず、落ち着けるまでたった一人、狭い物置部屋に閉じこもっていたのだ。
 ……客達は知らなかっただろうが、吐いたのも別に今回が初めてではない。それこそ営業時間のただ中に、奥のシャワールームで隠れて嘔吐していたことなど、一度や二度ではきかなかった。
「ほんとに、シルバーさんのおかげでリュウはすごく安定したよ。夜中に目が覚めても、シルバーさんの顔を見に行けば、薬飲まなくてももう一度眠れるんだって。またシルバーさんがそれを知ってて、寝る時にドアを閉めないで、いつも半分開けてくれてるってんだから……頭が下がるとはこのことさ」
 別居だの、誰かと結婚して独立するだの。そんな真似など、最初からできるはずがないのだ。
 リュウが現在、まがりなりにも『まとも』と呼べる日常生活を送ることができているのは。経済的にも精神的にも、あらゆる面でシルバーの支えを受けていてこそ、初めて可能となっているのだから。
「リュウを口説いて、シルバーさんから引き離そうっていうのなら、あの人と同じだけの真似がしてやれなきゃ、まず無理なんだよ。仮にあんたがほんとに性根のいいむすめで、心底からリュウのことを想ってくれてたんだとしても ―― それでもあたしはやっぱり、止めとけって忠告しただろうさ。支えきれずに共倒れになるのが、目に見えてるんだから」
 もっとも、それだけ真剣にリュウのためを考えてくれる女性ならば、最初にルイーザから制止された段階で潔くあきらめ、秘めた恋のまま終わらせたのだろうが。
 口々に責められたビアンカは、それでもなお意味が呑み込めないと、かぶりを振っている。

「なんで……なんでみんな、人間ヒューマンなんかをかばうのよ。人間ヒューマンのくせに、キメラ居住区までずうずうしくやってきて、好き勝手してる、あんな女……」

 自分は同族で、あの女は人間ヒューマンなのに。他の人間の目がある一般居住区であればともかく、このキメラ居住区ならば、あんな女の一人や二人、闇に葬るなど造作もない。同胞達みなで口裏を合わせ、死体すら見つからぬよう『処理』するのは、そう珍しいことではないはずだった。たとえ直接見知った相手でなくとも、人間ヒューマンを相手にした場合における、獣人種の結束は堅い。獣人キメラに対し人間ヒューマンがあんな脅迫などしてのければ、それを耳にしたその場に居合わせるすべての獣人種達の手によって、袋叩きにされても不思議はないのに。

 ―― なのに、何故。

 ここにいる獣人種キメラ達は、全員が険しい眼差しを、自分の方へ向けているのか。
 それが向けられるべきなのは、あの人間ヒューマンであるはずなのに。

「……あのさあ」

 そう口火を切ったのは、がりがりとまだらの頭を掻いているアヒムだった。
 背を曲げた姿勢の悪い立ち方で、作業着姿の彼はビアンカを見やる。
「オーナーが好き勝手してるって、なんで決めつける訳? っていうか、誰がいつ、そんなこと言ったんだよ」
 琥珀色の瞳の中で、縦に長い瞳孔がきゅぅっと細く変化する。
「あの人はさ、そりゃ確かに人間ヒューマンだよ。ちょっと空気読めねえとこあるし、物言いとかめっちゃえらそうに聞こえることもある。最初の頃とか、店にすげえ長居されて、ほんっとマジカンベンとか正直思ったさ。でもあの人は、ちゃんとこっちの言うこと、聞いてくれてる。営業妨害になるから迷惑だっつったら、怒りもせずに来る時間減らしてくれた。メシ食ってるとき、ルディがどんだけしつこく話しかけても、嫌な顔ひとつせず相手してる。……リュウが刺されそうになった時なんて、代わりに大怪我して入院までしたんだぜ? それで、なにが、勝手だって?」
 アヒムの後を引き継いだのは、水牛の獣人、ゴウマだ。
「なあ、フラン……じゃなくて、ビアンカだったか。お前さん、俺の名前、知ってるか」
 その問いに、ビアンカは答えられない。小柄な姿に見覚えがあるような気はしたが、何か面倒なことを言ってきた、説教臭いうっとおしい中年という印象しか残っていない。
「……あのオーナーはな、俺のことを、フルネームで呼んだよ。ゴウマ=バックスってな。俺だけじゃねえ。ここにいるスイも、女将も、ドクターも……たぶん、俺が知らない他にも、呼ばれたことのある奴はいるはずだ」
 ゴウマは当初、シルバーのことを毛嫌いしている内の一人であった。みなを代表して、そのことでドクター・フェイと揉めたことさえある。
 しかし……
「このビルの住人なら、家主として入居者の資料を確認したのかもしれないさ。……それを記憶してるってだけでも、人間としちゃあ破格だけどな。だが俺は、単なるこの店の客の一人だ。スイだってそうだし、ドクターなんざ『医者』ってだけ言えば、それでなんも不自由はねえ。それでもあの人は、俺達の名前と顔をちゃんと覚えて、呼んで、区別をつけてる。リュウだけを見てるんじゃない」
 良い仕事をしてもらえて、助かった。
 頼むのであれば、プロにしたい。
 そんなふうに言って、けして一方的に命令するのではなく、相手の都合を確認し、報酬を提示して正式な依頼を出し……そうして請けてもらえれば、礼を言う。
 それは社会生活を営む上で必要とされる、当たり前の礼儀とも言えるだろう。
 人間と獣人種の間においては、めったに払われることなどないものでもあったが。
「 ―― お前さんは、確かに俺達と同じ獣人種キメラだよ。だけど、だからなんだってんだ? お前さんがいつ、俺達をちゃんと見て、礼儀を払ってくれた。迷惑だっつっても耳ひとつ貸さねえで、店がクソ忙しい時にもテメエの都合でリュウの邪魔しまくって。それでこの店にも客にもさんざっぱら迷惑かけてきたくせに、なんで今さら『同じキメラだから』なんて一言で、味方してもらえると思ってんだ?」
 常連や上階の住人達はみな、ゴウマの言葉に同意するように、じっとビアンカを見すえている。

「……な、なんなのよ、あんた達まで……」

 ビアンカは、呆然と呟く。

人間ヒューマンや、あんなキチ……ッ」

 言いかけたビアンカの手首を、ジグが強く捻り上げる。
 途端に顔を歪めて言葉を飲み込んだ彼女へと、ドクター・フェイは呆れの目を向けた。
「……ここまで言われても、まだ判らねえのか。どうやら、頭がおかしいのはお前の方みてえだな」
 大仰な仕草で息を吐く。
「お前は、やり過ぎたんだよ。同族だからって理由で無条件に味方をしてやれる、その限度を超えた。いまこの場所に、お前を許す奴は誰一人いねえ」
 これまでの、我がまま放題なふるまいだけでも腹に据えかねていたところへ、たび重なる先刻からの無神経な暴言の数々。
 意識してやっていてすら正気を疑うようなその発言を、まったく無意識に垂れ流しているのだとしたら、本当に気が違っているのは彼女の方だろう。シルバーが暴き立てたその過去の所業と合わせても、倫理観とか、罪悪感とか、そいういった類のものが根本から欠けているとしか思えない。
「今までは、それでもお客だと思ってたから我慢してたけどね。でもうちの関係者にあれだけの真似をしてくれた以上、あんたはもうただの迷惑で悪質なストーカーだ。二度とその顔、見せないでおくれ」
 アウレッタが、恰幅の良い腰に手を当て、出入り禁止を言いわたす。
「今後、またこの界隈に姿を見せたり、余計な真似をしでかすようなら……覚悟しておけ。人間シルバーの力を借りるまでもねえ。俺がこの手で、しかるべき報いをくれてやる」

 失せろ、と。

 そう告げると同時に、フェイは顎を動かしてジグを促した。
 それを受けたジグが、拘束していた腕から力を抜く。あらわになった細い手首には、くっきりと指の跡が、紫色に刻まれていた。

「 ―― ッ!!」

 ひったくるように腕を取り返して抱え込んだビアンカは、そのまま脱兎のごとく逃げ出した。
 体当たりする勢いでドアへと突進し、店の外へと駆け去っていく。
 乱暴に開け閉めされた扉の立てる、けたたましい音だけが店内に残された。
 しばし無言でそれを見送っていたジグは、やがてフェイの方をふり返った。
「……良かったのか」
 短くそう、問いかける。
 こちらでカタをつけると、シルバーへ請け負っておきながら。あんな忠告ひとつで済ませるなど、生ぬるいのではないか。あの女ならば、逆恨みのあげくに何らかの報復を考えてもおかしくないだろうに。
「心配すんな。ちゃんと手は打つ」
 ドクターは、底光りのする目をすがめて笑った。
「下手にここで取り押さえようもんなら、また【Katze】に余計な悪評が立つかもしれねえからな。あの女は、あくまでテメエのやった行いのせいで、自業自得の目にあってもらう」
 言いながら、白衣のポケットから携帯端末を取り出す。
 獣人種の間にはまださほど普及していないそれも、医者である彼はきっちり使いこなしていた。特に、やはりある程度の経済力を持ち、さらに細々とした情報を重要視する裏社会の面々とのやり取りにおいて、活用されているらしい。
「ルイーザやスイが集めてくれた噂をとっかかりに、こっちでもあの女の行状を、ある程度は掴んできてたんだ。そいつにさっき、シルバーが言ってた情報を加えて、これまでコケにされてきた連中に流してやりゃあ……」
 ピロンと小さな電子音を最後に、操作を終える。
「ろくでなしのDV男や、やべえ組織が背景バックについてる店、恋人や親兄弟が実はそこそこ有力者だったってえ面子なんかも混じってるんだ。どんな末路を迎えても、まあ身から出た錆ってもんだろうよ」
 再び端末をしまいながら、ひょいと肩をすくめる。
 あんな女のために、この店やシルバーが泥を被ってやる必要など、どこにもない。こことはなんの関係もない場所で、知らぬ間に始末がついてくれれば、それが一番なのだと。

 ―― このキメラ居住区において、もっとも敵に回してはならない人物。
 そう噂される医者を、ビアンカは完全に怒らせたのだ。
 単に、お気に入りの店や知り合いに、迷惑をかけられたからというだけではない。ほかならぬ、医師として面倒を見ている、その患者に悪影響を及ぼされたのだ。しかも知らず知らずにではなく、事前にきっちり注意を受けておいてなお、その忠告を無視した形で。
 さらには共に力を合わせ、懸命に病と戦っているその相手を、よりにもよって気狂きぐるいの異常者呼ばわりされたとあっては、逆鱗に触れるどころかひっぺがしたあとを抉りまわされたぐらいの心境だ。どうして警告程度で、済ませてやれようか。

 普段は、少々口こそ悪いものの、面倒見の良い医者としての姿しか見せないドーベルマン種の青年、フェイ=ザード。
 その隠された本質を匂わせるかのような、そんな姿に。
 常連達は背筋に冷たいものを感じつつ、一方でこれで厄介な問題が片付いたのだと、確かに安堵してもいたのである ――


§   §   §


 迷惑料だと、アウレッタが客達へ無料で飲み物を振るまい、床の掃除を終える頃には、店内の雰囲気もだいぶ落ち着きを取り戻し始めていた。
 氷の浮かぶ派手な色の炭酸飲料へと目を落としながら、アヒムが低い声で呟く。
「……リュウはもう、すっかり普通になったんだと思ってた」
 バックヤードに続く、開口部の方をちらりと見る。
「すごく笑うようになったし、オレ達とも話すようになったし。カッコとかも、身奇麗になったろ。オーナーとだってさあ、その、こう……」
 どう表わせば良いのかと、もどかしげに手を動かす。
「いちゃいちゃ?」
 客の一人が、助け舟を出した。
「……あー、まあ。そんな感じ?」
 その表現はいささかどうかとも思うが、ある意味、正しくあの二人のようを指し示しているかもしれない。
 本人達にはまったく自覚がないようだったが、彼らのやりとりやごく自然に行われる肉体的接触の多さは、完全にでき上がっている恋人同士の ―― それも相当に熱烈な ―― それにしか見えなかったのだ。
 だからこそ、恋愛感情など存在しないと、リュウもシルバーも口を揃えて否定したと聞いて、みなが驚きと戸惑いを隠せなかったのだが。
 ましてやリュウが、たとえ好意の欠片も抱いていない相手からであったとしても、口付けを仕掛けられた程度で、あそこまで過剰な反応を見せるとは。確かに執拗な誘いに迷惑そうにこそしていたが、まさかあれほどの拒絶を示すなど、客達の誰ひとりとして予想だにしていなかった。
 小声で交わされる困惑を含んだささやきに、香り高いコーヒーを味わっていたフェイが、かちゃりとカップを受け皿へ戻す。

「あの二人は、な」

 真面目な顔で、口火を切った。

「……肉体的な欲求を覚えないから、互いに対して持ってるものを、『恋愛感情ではない』と分類カテゴライズしてるんだ。『恋愛とは、性的欲求を含むものだ』と、知識の上でそう定義してる。だからそれを伴わない以上、どれだけお互いを大事にしてようが、執着してようが、自分達のそれはあくまで親愛の一種であり、家族に対して抱く感情だと信じて疑わない」

 確かに、友情と恋愛を区別する上で、性的な欲望を感じるか否かは、大きな問題となってくる。ことにタブー視されがちな、同性間や、それこそ獣人種キメラ人間ヒューマンという異なる種族の間におけるそれでは、その可否こそが互いの関係を親愛に留めるか、あるいは恋愛に発展させるかの、重要な分かれ目のひとつとなるだろう。
「特にリュウは、今が一番、不安定なところだ。性的な接触が耐え難いほどに嫌な行為なのだと自覚して、意識的にも無意識の条件反射でも、とにかく拒否ができるようになった。それは回復の途上とも言えるんだが……ここで対応を誤ると、それこそ一生取り返しがつかなくなる」
 心も肉体も傷つけられきっていたかつては、抵抗する意志すらもが乏しかったのだという。幾度もへし折られた精神が、無駄な反抗によってよりいっそう傷つけられることを学習し、それらを『たいしたことではない』と自身に誤認させていた。だから、こんなことでは傷つかないのだと、意識しないレベルで己に言い聞かせる。歪んだ ―― 痛ましいとも言える、自己防衛の形だ。
 シルバーと出会い、関わり、そうしてこのレンブルグで市民権を得て。
 リュウはそこから、ようやく一歩を踏み出せたところなのだ。
 もう、黙って虐げられていなくても良い。嫌なことは嫌だと主張しても許されるのだと。そう思い、無意識下に存在していた枷がひとつ外れた。その結果、彼は他者の手を容易に受け付けられなくなった。一見しただけでは、むしろ症状が悪化したように思えるかもしれない。
 しかし、問題の根本となるものを直視することこそが、それに立ち向かう上での、まず一番の前提条件となるのだから。
「……最初の枷は、シルバーが取り除いた。そして記憶を失ってこの街で暮らした一年あまりも、少しずつだが確実に、いい影響を与えてきてる。少なくとも以前のあいつだったら、たとえシルバーが相手だろうと、手のひらにキスなんてまずできなかったはずだ」
 リュウの記憶が戻ったことと、シルバーの退院祝いを兼ねた、あの席で。
 彼がそれを行った時、シルバーはあれで相当に驚いていた。そして長い間カウンセリングを続けてきたフェイと、それに立ち会ってきたレンもまた、内心で仰天していたのだ。
「まああれは、やっぱり親愛とか尊敬の表現っていうか……そういう意味合いでやったことなんだろうが。それでも相当な進歩にゃ違いねえ。ただ、その程度の行為でさえ、あいつができる相手は、今んとこシルバーひとりだけなんだよ」
 フェイは嘆息する。
「……要するにあの二人は結局、お互い同士が一番大切で特別で……例外中の例外なのさ。性的行為を伴わないから、これは男女の関係じゃない。あくまで親愛で結ばれた家族に過ぎないって、本人達は言い張ってるがな」
 一度言葉を切って、小さくかぶりを振った。

「……あれがそんな、可愛らしい代物かよ」

 相手の幸せに繋がるのであれば、たとえ自身や他人の犯罪行為さえも気に留めず。
 すべてにおいて最優先されるのは、ただ互いの幸福、それのみで。

「どうせこの先だって、お互い以上に優先できる相手も、幸せにしたいと願える相手も現れるとは思えねえ。だからあいつらはきっと一生、自分達は『家族』だっつって、二人で支えあいながら生きていくんだろうさ」

 それは、きっと。
 書類一枚を書くだけで、他人同士が『夫婦』という呼ばれ方をするようになるよりも。
 ずっと強固で、揺るぐことない、結びつき。

「 ―― そもそも、性交渉を持たないカップルなんて、そう珍しかねえんだ。それにあいつらがいつか気付いてくれれば、また話も変わってくるんだろうがな」

 まあそこらへんは、時間をかけてじっくり相談カウンセリングしていくさ、と。
 そう結んで、キメラ居住区唯一の医師は、湯気の消えたカップを再び取り上げる。

「…………」

 話を聞いていた客達もまた、それですべてを納得し、受け入れられたとは言いがたいのだけれど。
 それでも各々なりの思いを胸に、無言で手元の飲み物へと意識を戻したのであった ――


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