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 ぬえの集う街でII  ―― The binding cover to crack-pot.
 第七章 異変
 ― Makoto.Kanzaki Original Novel ―
 
神崎 真


 店内に響きわたる甲高い声に、客達のほとんどが程度の差こそあれ、苦い表情を浮かべていた。
「それでですね、そこのお店の服、きっとリュウさんに似合うと思うんですよ。その目とかにも、絶対に映えますって! だから今度のお休み、いっしょに見に行きましょ?」
 カウンターのスツールに陣取って、野菜を刻んでいるリュウへとしきりに話しかけているのは、もちろんフランである。
 雇い主シルバーのお墨付きを得たことで自信を持った彼女の行動は、日に日にエスカレートしてきていた。店内に滞在する時間はますます増え、お茶一杯で何時間も席を占領しては、ひっきりなしにリュウとの会話を試みる。どれだけ忙しそうにしていようと、混雑して席が足りなくなり始めようと、いっさいおかまいなしだ。
「……予定が、ありますので」
 刃物を使っているリュウは、低い声で断りを入れる。当然ではあるが、その視線は手元に落とされたまま、ちらとも動かされない。
「予定ってなんですか? まさかお掃除とか洗濯とかって言うんじゃないですよね。ダメですよ、そんなの!」
 お休みの日ぐらい仕事から離れなきゃ、リュウさんおかしくなっちゃいますっ、と。
 天板の上で拳を握りしめ、そう力説している。
「…………」
 フランが言いつのればつのるだけ、リュウの態度は反比例するかのごとく硬化してゆく。最近では表情すらもが抜け落ちることがあり、アウレッタなどは気を揉んでいるようだった。
「だから ―― 」
 言いかけたフランの声を、熱した鍋に材料を投入する音が遮った。そのまま強い火力で炒め始めると、店内に食欲をそそる香ばしい匂いと、じゅうじゅうという響きが広がってゆく。
「卵炒飯、できました」
「あ、ああ。ご苦労さん」
 こんもりと盛られた湯気の立つ皿を出されて、アウレッタが客の元へ運ぶべく、受け取りにゆく。


「……おい、どうするよ」
 窓際の席で料理を待つゴウマが、向かいに座るアヒムへとひそめた声で問いかけた。
 ドクターからああは言われたものの、基本的に面倒見の良い性格である彼は、どうにも焦れったい気持ちを抑えきれずにいた。何か少しでも手助けができたらと、そう思ってしまうのだ。しかし相手が妙齢の女性とあっては、現場の若い衆を勢いで叱り飛ばすのとはまるで勝手が違う。
 それでもゴウマなりにかなり毅然とした態度で、他人様の仕事を邪魔するな、時間と場所をわきまえろといった内容の注意をしてはみたのだ。が、それもまったく効果なかったのである。
 だからお休みの日にってお誘いしてるんじゃないですか。そう言われてしまえば、それ以上はどうしようもない。あげく、誰なんですかこのオジサン、とさらなる会話のダシに使われたうえに『オジサン呼ばわり』という精神的打撃まで受ける始末だ。
 あの時のショックを思い出したゴウマは、懸命にそれを脳内から振り払う。
「オーナーは、リュウの様子が変だとか、気付いてねえのかね?」
 休日には連れ出して良いと、シルバーが許可を出した。そのことは、みながドクターに相談を持ちかけた日の翌日、当のフランの口から悪びれる素振りもなく披露されていた。人間の雇い主と直接交渉して、当然の権利を勝ち取ってきたのだと。そう誇らしげにすらしているフランの前で、リュウは完全に動きを止めて絶句していたのだが。幾重にもフィルターのかかったフランの目には、それさえもが感極まっているように見えたらしい。
「……オーナーが店に来ると、途端にいつもの調子に戻っちゃいますからね。むしろ反動で、普段よりさらに五割増し? ぐらいの勢いっていうか」
 あの調子だと、閉店してペントハウスに戻ったあとも、溜まった鬱憤を晴らすかのごとく、これでもかとシルバーの面倒を見倒しているのではないだろうか。
 その落差は、それこそシルバーがリュウをかばって大怪我したあの夜の、翌日に見せられた豹変ぶりを思い出させる。あの時の変わりようも、相当に周囲へ戸惑いと衝撃をもたらしたものだった。今回は一瞬にして変化が起きるだけに、なおいっそう違和感が大きい。
 しかし常に変化後の状態にしか接しないシルバーからしてみれば、魅力的な同族に秋波を送られて、ずっと気持ちが高揚しっぱなしなのだと……そう誤解するのも、無理はないというべきなのかどうなのか。
「じゃあなにか、オーナーはリュウが美人に言い寄られて、それで浮ついてると思ってんのか!?」
 実際にはシルバーの世話を焼くことで、なんとかストレスを解消しているというその現状を、受けている当の本人は、フランへ向く好意のおこぼれを頂戴しているだけだと、そういう認識でいるのか。
「前々から思っちゃいたが……オーナーは、なんかこう感覚がズレ過ぎてねえか」
 獣人種に対し、差別意識をほとんど持っていないというその点とはまた別に。どうにも他者に接する時のものの考え方が、一般的とは言い難い経路を辿っている気がするのだ。
 特に自身に対する評価が、極端に低い印象がある。
 自分一人を思い出すよりも、いま周囲にいる同胞達を忘れないほうが良いはずだ、とか。
 入院をした際に見舞いへ訪れてみても、己が心配される対象であることを、言葉で説明されるまで理解しなかったりとか。
 ごく当たり前のように、そんな思考をしているのだ。
「他所から来たばっかりの、元首輪付きとかなら、そういうのも時々いるんだけどよ」
 幼い頃から道具や家畜と同等にみなされ、獣人種の中でもことさらに酷い扱いを受けてきた一部のキメラ達は、市民権を得て自由になってもなお、その呪縛からなかなか逃れられない場合がある。
 もっとも、そういった境遇にあったキメラが、解き放たれこの都市までたどり着けるケースは、残念ながら非常にまれだ。それゆえゴウマ自身も、そんな相手と実際に接したことは、あまりない。しかしその少ない経験を思い返すに、とにかく彼らは自分に価値や能力が備わっているのだと、いくら説明されても理解できないようなのだ。二言目には『自分なんか』が口癖になっていて、あげく新しい仕事を教えようとしても、わずかな失敗をするたびに自分には無理だ、他にもっとうまくできる代わりがいくらでもいるだろうと繰り返す。そうしていつの間にか、ふと気が付くと姿を見なくなっている。消えた彼らがどうなったのかは、正直考えたくない。
 アウレッタに拾われたばかりのリュウもまた、それに近いものがあった。どうして己などにこれほど良くしてくれるのかとひどく困惑し、なにか騙されているのではという警戒と猜疑すら抱いていたのを、周囲の者達はみなうすうす察していた。
 それでも、大怪我から回復したリュウは、受けた恩義を返すべく立ち働くのを厭わなかった。未知の仕事に対しても臆さず挑戦し、同じ失敗を繰り返さぬよう努力を続け、そうして【Katze】の店員という自らの居場所を己の力で掴み取ったのだ。
 いささか話がずれたが。
 そういった次第で、シルバーがもし仮に獣人種であったならば、あの自己評価の低さや人付き合いの下手さ加減も、まあ理解できなくもないのだ。しかしシルバーは人間ヒューマンの ―― それもかなり裕福な階級にあることは明白だ。
 もちろん、人間ヒューマンで金持ちであれば、それで幸福な人生が約束されているだなどと、そんな単純なことはさすがにゴウマも思わないが。
 それでも彼がシルバーに対し、幾分かなりとも親近感のようなものを覚えてしまう理由のひとつには……かつて見た虐待を受けてきたキメラ達と同じ臭いが、彼女からも感じられるような気がする……そんな印象も働いているかもしれない。
 リュウの話によれば、シルバーはゴルディオン=アシュレイダの養女だったのだという。十二歳の頃に、引き取られたらしいと言っていた。
 では、それ以前は?
 そもそも、まともな両親が存在していれば、養子縁組などという手続きなど行われないだろう。
「もしかしてオーナーも、自分に自信が持てねえような、何かしらの事情でもあんのかね……」
 それ故にこそ、彼女は獣人種への対応が寛容なのかもしれない。そしてリュウに対して、過剰でありながらもどこか一歩引くという、複雑な気遣いのしかたをする。その理由もまた、そこに根ざしているのだとしたら ――
「そういや先生、オーナーはリュウへ、絶対に恋愛感情を向けないって言ってましたよね」
 あの時は、リュウのことにばかり気が行っていて、そのあたりを聞き流してしまっていた。しかし思い返してみれば『絶対に』という強い表現は、あの二人の親密さを知ったうえで使うには、いささか不自然な単語に思えてきて。
「もしかしてオーナー、『自分なんか、リュウにはふさわしくない』なんて……そんなふうに思ってたり、とかなんて」
 まさかねー、と自分の発言を自分で打ち消しているアヒムの表情は、しかしどこか疑惑の色が残っている。
 あのシルバーならば、そんな素っ頓狂なことさえ大真面目に言い出しかねない。ここしばらくの付き合いから鑑みるに、なにを馬鹿なとあながち笑い飛ばせないのだ。
「……ある意味、今日はチャンスかもしれないわね」
 唐突に割り込んできた声に、ゴウマとアヒムはぎょっと顔を向ける。
 いつの間にかアヒムと背中合わせになるテーブルに、ルイーザが座っていた。カウンターからもっとも離れた位置のため、こちらに背を向けているフランは、まだ先輩の来店に気付いていないようだ。
 その向かいではカワセミのスイが、膝を揃えるようにして身を小さくしている。やはり二人の様子が気になるようで、鮮やかな朱色の瞳がちらちらとカウンターの方へと向けられていて。
「チャンスって、どういう意味だ」
 ゴウマが問いかけると、周囲の客達も気になったのか、声の届く範囲にいる者がみな振り返ってくる。
 ルイーザはカウンターまでは聞こえないよう、低くおさえた声で答える。
「今日はまだ、オーナー来てないんでしょ。でもリュウが食事届けに行く気配はなし。なら仕事の手が離せないって訳じゃなさそうだから、近いうちにお昼食べに降りて来るはずよ」
 これまではシルバーが昼食を終えて帰宅するのを見計らったかのように、フランは【Katze】を訪れていた。しかし彼女から許可をもぎ取ったことが、自信となったのだろう。じょじょに来店時間を早めてきたフランは、ついに今日、その境界線を越えたのだ。
「いくらオーナーでも、あのさまを目の当たりにしたら、何かしらの手段を講じるでしょ」
 視線で、黙々と立ち働いているリュウを指し示す。
 現在の彼は、整えた身なりや丁寧な口調を除けば、記憶を取り戻す以前の状態に近くなってきている。話しかければ答えは返すが、その口数は格段に減り、声の抑揚や表情の動きさえも乏しい。特にフランに対している時が顕著で、ほんの少し前まではあれが平常だったのかと思うと、その変化の大きさに改めて驚かされるほどだ。
 シルバーの前では取り繕っているというか、ある意味自覚すらしないままに調子を取り戻しているようだったが。しかしこのままの状態が続けば、それも遠からず限界を迎えるだろう。
「誰かちょっと行って、エレベーターのとこでオーナー捕まえてくれない? それで窓からこっそり、中の様子を見せたらどうかしら」
 玄関ホールとの間にある大きなガラス窓は、ホールが薄暗いこともあって、店内からは半ば鏡のようになっている。しかしホールの側からは内部がよく見えるので、気付かれぬよう観察するのにうってつけだろう。
「らじゃッス」
 アヒムが小さく指で敬礼し、そっと席を立った。
 そこはさすが猫科なだけあって、その気になればこの騒々しい若者も、物音ひとつたてずに動くことができる。
 ドアベルすらほとんど揺らすことなく、扉をほんのわずかに開けて隙間からすべり出た彼は、そのままエレベーターがある方向へと消えて行った。シルバーが階段を使うことはまずありえないし、仮にそうだとしても、階段の降り口はエレベーターの前まで行かなければ視界に入らない。どちら側も一人でチェックできるはずだ。
「窓越しじゃ、声は聞こえないのがちょっとアレだけど。でもリュウのあの目を見れば、オーナーが黙ってる訳ないわ」
 ルイーザの言葉に、常連達はしみじみと同意する。
 今のリュウは、整髪料を使って前髪を上げ、右が青灰、左が金褐色という珍しい双眸を露わにしている。しかしそこに浮かぶ光は、あまりにも暗い。記憶を取り戻す前も、長い前髪の下で人知れずあんな目をしていたのだろうか。そう思うと、彼が過去にシルバーと出会い、そうしてその事実を思い出すことができたのは、本当に幸運が重なったのだと心から実感する。
 ―― と、その時である。
 ガチャンという大きい音が、店内に鳴り響いた。息を呑んで全員がそちらを向くと、テーブルから下げてきた食器を、リュウがカウンターへ置いたところだった。いつになく乱暴なその仕草で、重なった食器同士がぶつかり合ったのだ。
 カウンターの外側に立ったリュウは、首を曲げて深くうつむいている。客達からは、ほとんど背中しか見ることができなかった。だがスツールに腰掛けたフランだけは、驚いたように横から見上げている。
「……申し訳、ありませんが」
 それはごく小さな、絞りだすかのような声だった。
「今は、仕事中なんです。他のお客様の、迷惑になりますから……集中、させてくれませんか」
 一言一言、区切りながら告げるリュウの指が、天板の端を握りしめている。関節が白く浮き出すほどに力の込められた手は、細かく震えていた。
「リュウ、さん?」
 フランがスツールから腰を上げ、一歩リュウへと近づく。
 するとリュウは、小さく肩を跳ね上げた。勢い良く起こされた顔が、フランの方を向く。久しぶりにまっすぐ視線を合わせられたのが、嬉しかったのか。フランは笑顔を浮かべる。それを見たリュウは、無意識のように一歩後ろへと下がった。
 大きく深呼吸して、それから彼は、覚悟を決めたかのように口を開く。
「……あなたに、どれだけ好意を向けられようと、私には受け入れられません。どうしても、無理、なんです」
「リュウさん? 汗、すごいですよ」
 フランはリュウの言葉など聞いていないように、首を傾げて手を伸ばしていた。リュウもまた、それが目に入っていないのか、どこかもどかしげな口ぶりで先を続けようとする。
「私は、誰と、も……っ」
 しかし頬にフランの指が触れた瞬間、断ち切られたように声が呑み込まれる。
 そうして、これまでになく無防備な状態で接近したその好機を、彼女は逃さなかった。頬をすべった指先が素早くリュウの後頭部へと回りこみ ―― そうして、強い力で己の方向へと引き寄せる。

「……ッ!?」

 スイが口元を押さえ、小さく悲鳴を上げた。指の間からのぞく彼女の頬は、真っ赤に染まっている。
 店内のそこここから、食器を落としたり椅子をひっくり返す音が発生した。
 角度的にはっきりとは見えなかったが……フランはその口唇を、リュウのそれと重ねていた。それも首を両手で抱え込むようにして、触れるだけではない、相当に深い口付けを仕掛けている。
 それが、数秒だったのか、それとも数分であったのか。
 あまりのことに呆然と見ているしかできなかった者達には、判らなかった。
 ただ顔を離したフランが、リュウを抱き寄せたままにっこりと満足そうな笑みを浮かべたことで、ようやく終わったのだと思っただけだ。
「無理だなんて、そんなつれないこと、言わないで下さい。最初は、お試しでも良いんです」
 付き合っていく内に、ほんとに好きになってもらいますから、と。
 ピンク色に塗った口唇で、間近から囁きかける。
 そんな仕草は、可憐な容姿に似合わぬ蠱惑的な魅力を漂わせていて。フランに対して苦々しげな思いを抱いていた客達でさえ、何人かはどきりと鼓動が高鳴るのを感じてしまったほどだった。
 果たしてリュウは、どう答えるのか。
 みなが注意をリュウに戻そうとした、その瞬間。

 ―― 激しい響きとともに、ガラスが揺れた。

 すぐ背後から発せられたそれに、フランが飛び上がるようにして振り返る。
 そこには、玄関ホールへと通じる大きなガラス窓があった。向こう側は薄暗く、通るのはアパートの住人のみという、ほぼ身内に等しい常連客で占められている。故にそちらへと注意を払う者は、めったにいないのだが。
 腰の高さから素通しになっているそこには、いまふたつの人影が存在していた。
 一人は黒と茶と白のまだらの髪を、短く刈り込んだ三毛猫種の若者 ―― アヒム。
 そして、いま一人。
 握りしめた拳を、窓ガラスに叩きつけたままの姿勢でいる、その人物は、

「オー……」

 ルイーザがその呼び名を口にしようとしたが、それもまた中断させられてしまう。
 何故ならば、
 硬直したかのように、それまで身動きを止めていたリュウが。

「…………ッ」

 突き飛ばすようにフランから身をもぎ離すと、数歩よろめいてカウンターへとしがみつき、
 そのまま床へ、膝から崩れ落ちたのである ――


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