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 ぬえの集う街でII  ―― The binding cover to crack-pot.
 第一章 正式な依頼
 ― Makoto.Kanzaki Original Novel ―
 
神崎 真


 その日もカフェレストラン【Katzeカッツェ】は、いつもと変わらない賑わいを見せていた。
 半ばが埋まった席を占めるのは、上階の集合住宅に入居している店子か、近所から通い詰める常連達。カウンター内で料理を作る灰色の髪の青年と、忙しそうにテーブルの間を行き来しては、料理を運んだり注文をとっている、恰幅の良い中年女性の女将。
 ここがキメラ居住区である以上、客も店員もみな獣人種キメラで占められている。
 ―― たった一人の、例外を除いては。
 その唯一の例外にして、このビル自体の家主オーナーでもある人間ヒューマンのシルバー・アッシュは、すっかり指定席になっているカウンター正面の二人掛けテーブルに座を占めていた。
 かっちりとしたパンツスーツの背中に長い黒髪を流し、腕に装着する型の杖を傍らに立てかけて、様々な端末を操作している。そのまだ年若い人間女性の姿は、もはやこの店の名物と化しつつあった。
 けして社交的でこそないが、声をかけられれば、たとえ相手が獣人種であろうともきちんと受け答えするし、人間という立場を笠に着た横暴な振る舞いをすることもない。仕草や言葉遣いなど、第一印象こそ尊大なものを感じさせるが、実際には繊細な部分や不器用な気遣いを時おり垣間見せる、愛すべき存在なのだ、と。住人や常連達の間では、そのように認識されつつある今日この頃であった。
 シルバーが朝食をとる時間はいつも遅めだったが、今日はさらに輪をかけて遅いようだ。もう昼も近くになって最上階のペントハウスから降りてきた彼女は、食べ終えた後も席を立つことなく、ゆっくりと食後のカフェラテを傾けている。
 ちなみにシルバーの本来の好みは、ぬるめに淹れた濃いエスプレッソなのだが。どうやら胃に悪いからという店員の独断で、大量のミルクを追加されたらしい。
 まあ、それはさておき。
 手のひらに収まる大きさの情報端末で何かを調べていた彼女は、出入口の扉が開閉するたび、視線を上げてそちらの方を確認していた。何度かそのようなことが続いたのち、ことりと端末がテーブルへ置かれる。
「少し、良いだろうか」
 軽く手を上げ、そんなふうに声を上げた。
 珍しい事態に、店内にいた殆どの人物が、その言葉が向けられた先を追う。

「……えっ!? な、なに?」

 店に入った途端、客達から視線の集中砲火を受けて。鮮やかなエメラルドグリーンにオレンジのメッシュが入った髪をなびかせた少女が、驚いたように立ち尽くしていた。自らを指差す少女 ―― カワセミの獣人キメラ、スイに、全員がこくこくとうなずいて、その目を次々と店の奥へ移す。
 そこで黒髪の人間女性が手を掲げているのを見て、スイは朱色の瞳を大きく見開いた。
 再度、自分を指差して確認する彼女に、シルバーははっきりとうなずきを返す。
「え、えっと、じゃあ……」
 おそるおそるといった足取りでテーブルへ歩み寄ってゆくスイへと、客達は同情とも励ましともつかない眼差しを向ける。
 前者は、まだ人間シルバーとの直接対話に腰が引けている者、後者はそろそろ慣れ始めて、そんなに恐れることはないぞと応援する気持ちを持っている者達からだ。
 スイも一度はかなり無遠慮に言葉を交わし、髪の毛などもいじらせてもらったことがあるのだが。いかんせんあの時はパーティーという場のノリというか勢いと、何よりアルコールの助けがあった。だがこうして真っ昼間に素面で目の当たりにすると、やはり理性では悪い人物ではないと判っていても、感情的な面で怖気づいてしまう。
 しかしシルバーの方は、そんな葛藤に気づく様子もなく。時間をかけてたどり着いた少女へと、ごく普通に向かい側の席を勧めた。
 この段階で既に、シルバーの行動は一般的な人間ヒューマンのそれから大きく逸脱している。おかげで肩に入っていた力がわずかに抜け、スイは躊躇いながらも椅子に腰を下ろした。
 それでもどこか上目遣いになって言葉を待つ彼女の前で、シルバーは視線をあさっての方へ向け、もう一度手を上げる。今度呼ばれたのは、店の女主人 ―― サバ柄猫のアウレッタだ。
「彼女の注文を」
「あ、ええ。はい。スイちゃん、今日のお昼はなんにする?」
 馴染みの女将に問いかけられて、スイはぱちりとまばたきする。確かに自分は、ちょっと早めの昼ご飯にやって来たのだが……今はそんな場合ではないのではなかろうか。
「先に注文をしておけば、時間の無駄にならないだろう。……ああ、食べながらで構わない」
 淡々と、そんな言葉が向かいから発せられる。
 感情の読み取りにくい、抑揚の少ない声音だったが、どうやら社交辞令ではないらしい。ちらちらとあたりの反応を伺えば、女将も他の客の何人かも、大丈夫だというようにうなずいたり親指を立てたりしている。
「じゃ、じゃあ、あの……日替わりランチで」
「今日は白身魚のフライと、メンチカツから選べるけど」
「お魚!?」
 思わず声が大きくなったスイに、アウレッタがにこりと笑いかける。
「リュウ、日替わりランチ、魚のフライでね」
「判りました」
 カウンターキッチンの中で調理をしていた青年が、穏やかな表情で首肯する。そうして羞恥に頬を赤く染めたスイに向かい、わずかに会釈してみせた。
 この青年と、向かいに座る人間女性との関係は、常連達みなが大なり小なり聞き知っている。スイもこのアパートの住人でこそなかったが、ほぼ毎日訪れるひとりとして、そしてかつてこの店で起きた流血を伴う騒ぎに居合わせた者として、だいたいのところは承知しているつもりだった。
 そう、かつて人間にひどい目に合わされてきたというあの銀狼の青年 ―― リュウが、心を開いている相手なのだ。なにも緊張することはない、と。
 スイは目の前に座る女性を、改めてまっすぐに見つめ返した。
 うっすらと黄みを帯びた象牙色の肌に、癖ひとつない真っ直ぐな黒髪。そして同じ色の漆黒の両目は、綺麗に磨いた上質のガラスのようだと思う。人間の目は獣人種に比べて白い部分が多く、どこか酷薄な印象を感じさせることが多い。でも彼女の瞳は、なんとなく違う気がした。そこに浮かぶ光は、けしてこれみよがしに好意的なそれではないけれど。それでも ――

「スイ=ペンネ?」

 いきなりフルネームで呼びかけられて、スイははっと我に返った。とっさに背筋を伸ばして勢いよく返事する。
「は、はいっ!」
 いささか過剰とも言えるその反応に、シルバーはちょっと首を傾けた。
 が、詳しく追求する気はないらしく、卓の上で両手の指を組み合わせる。
「宅配を請け負っていると聞いたが、間違いないだろうか」
「え、はい。そうです。やってます」
 昨年義務教育を終えたばかりのスイは、自動二輪スクーターを利用した宅配業、いわゆるバイク便で生計を立てている。足腰の丈夫なキメラ達は、たいていの用事を自分の足で済ませるが、それでもちょっとした届け物などは、やはり面倒に思う場合もあった。それに手入れの行き届いていないこのキメラ居住区では、昇降設備などが故障したまま放置されている建物も多い。そういった建物の高層階など、行き来が面倒な場所へ手紙や小包などを送りたいといった場合に、彼女の出番となるのだった。
 カワセミの遺伝子を持つスイは、見た目や声の美しさの他に、群を抜いた目の良さと身の軽さを兼ね備えている。十階や二十階を階段で上がり下りするなど、年若い彼女にとっては朝飯前の仕事だった。
 しかし、なぜシルバーが自分の生業なりわいを知っているのか。内心で疑問に思うスイをよそに、彼女はひとつうなずく。
「では、その配達先……いや違うな。発送元に、キメラ居住区の外も含んでいるだろうか」
「え……それは、まあ。たまに、ですけど」
 いくらキメラ達ばかりで固まって暮らしている街とはいえ、すべてが自給自足で賄えている訳ではない。むしろ外部の都市へ直接繋がる駅や空港を持たないが故に、食料を含めた殆どの物資は、人間の住む街から運び込むことになる。
 スイのようにまだ仕事を始めたばかりの、しかも個人営業ではめったに請け負うこともないが、中にはキメラ居住区と外部との間で物資をやり取りする、専門の業者も存在していた。
 なにしろ人間の業者は、たとえ一番下っ端の作業員でさえ、キメラ居住区に好んで足を踏み入れようとはしない。それはキメラに対する差別意識もあるだろうし、また実際に危険だからという理由もある。
 人間に虐げられた過去を持つ獣人は、その当人だけに留まらず、事情を聞いた関係者達も含めて、人間に対して良い印象を持っていない。そして他の人間の目がない、キメラ達だけが存在する場所で、少数の人間が横暴な振る舞いを見せた場合 ―― ある程度の確率で、穏やかならぬ事態に発展することもありうる訳で。
 けして表沙汰にするような、下手な手は打たない。同じ獣人種という仲間意識が、たとえ見知らぬ他人同士であってさえ、互いに協力し合い、あらゆる証拠を隠滅する。
 結果として、立件できず証明もできない、『どこか』で消えた『行方不明者』が、少ないながらも確かに存在するという現実があるのだ。
 とまあ、そういった裏の事情もあって、外部からキメラ居住区に何かを運び入れる場合、いったん境界近くの人間の居住区に設けられた集積場に多くがまとめられ、そこでキメラの業者に一括して引き渡されるのが慣例となっている。そしてキメラの業者はまた、キメラ居住区内の集積場にその荷を運び込み、そこからキメラ達によって構成される下請け各業者に分配され、それぞれの宛先へと送り届けられるのである。
 ある程度の時間と様々なトラブルを経て、そのようなシステムが築きあげられてきた。しかしどこにでも、そしていつの世にでも、『慣例』とか『一般的』といったカテゴリから外れたがる者も、必ず存在しており。
 たいていは急ぎだからとか、少しでも安くすませたいという理由から、獣人種の一般宅配業者を、人間の居住する地区まで呼びつける輩もまた、少ないながらもいるのだった。
 あまり気持ちの良い仕事ではなかったが、そういった仕事は実入りが良い。人間にとっては安いという価格設定でも、キメラにしてみれば、普段支払われている料金よりもずっと高額だ。
 そういった次第でスイもまた、外部からの宅配を請け負った経験が、ない訳ではないのだが。
 ただし重ねて言うが、お世辞にも気持ちの良い仕事ではない。
 キメラが人間の住む一般居住区を行き来する場合、周囲から向けられる視線は、けして好意的なものではない。ごく自然に根付いた当たり前のような差別意識が、出会う人間全てから滲み出るように浴びせられ、どうしても心をささくれさせる。
 義務教育を終了し、もう毎日のように人間の居住区にある学校へ通わなくても良くなった時、スイは心から安堵したものだった。
 人間であり、なおかつ最近この都市に引っ越してきたばかりのシルバーが、そういった事情に疎いのは仕方がない。とは言えやはり、想像するだけで気持ちが落ち込んでゆくのは止めようもなく。
「…………なにか、悪いことを訊いただろうか」
 知らず知らずのうちに、うつむいてしまっていたらしい。
 いつの間にか、テーブルのすぐ脇に盆を持ったアウレッタが立っており、その彼女をシルバーが見上げ、そんなふうに問うていた。アウレッタの持つ盆には、スイが注文した日替わりランチが乗っている。思いのほか長い時間、黙り込んでしまっていたのかもしれない。
「ああ、うん……どう説明すれば、良いんですかねえ……」
 質問されたアウレッタも、いったいどこから話せば、この根が深い問題について理解してもらえるのかと、言葉を選びかねているようだ。

「……あー、その、ちょっと良いか」

 三者三様に目を見交わしている間に、野太い声が割り込んできた。
 全員が振り返ると、小柄ながらもがっちりとした体格をした作業着姿の男が、隣のテーブルから半身を乗り出していた。刈り込んだ茶褐色の髪があちこちに飛び跳ねている彼は、水牛のキメラ、ゴウマ=バックスだ。

「そこらへんはだな、ちっとばっかややこしいんだ。俺が説明させてもらっても、構わねえか」

 伺いを立てるように訊いてくるゴウマに、アウレッタがちょうど良いと目を輝かせる。
「そういえばあんた、しょっちゅう集積場に行くって言ってたっけ」
 その言葉に、周囲で耳をそば立たせていた客達も、ああと納得の声を上げる。
 日雇いで荷運びをしているゴウマは、個人的な引っ越しや工事現場などにも入るが、やはり一番頻度が高く安定して回ってくる仕事は、輸送業者の下請けであった。それも集積場で大量の荷物を前に、若手を指揮して八面六臂というパターンがもっとも多い。小柄だが腕力と持久力に優れる水牛種の彼は、この仕事について長いこともあり、周囲からそれなりに慕われているベテランのひとりである。結果、輸送業界の事情にも通じていた。シルバーとの対話に ―― 比較的、という程度ではあるが ―― 慣れていることもあり、説明役としては適しているだろう。
「集積場、とは?」
 シルバーがそちらを向いたことで、横からの口出しを受け入れられたと判断したのだろう。ゴウマが椅子を引きずりながら、二人のテーブルへと移動してくる。
「ええとだな、そもそも……」


§   §   §


 ゴウマとシルバーの話は、スイがランチを食べ終えるまで続いた。長くなるから先に食えと言われて手をつけたものの、正直味などほとんど判らなかった。
 せっかくのお魚だったのに、と。地味に気落ちしているスイへと、カウンターから出てきたリュウが、注文していないオレンジジュースを運んでくる。
「……ふむ。理屈的には、おおむね把握できたと思う。しかしそうすると、どうしたものか……」
 レンブルグにおける輸送業界の裏事情を聞き終えたシルバーは、口元を覆うようにして考え込んでいた。
「なにか、外部と直接やり取りする予定があるんですか」
 スイの前にグラスを置いたリュウが、思案しているところへ前置きもなく声をかける。
 客達のうち何人かは、反射的に身をすくめた。だが当の本人達はというと、まったくの自然体だ。
「ああ、ちょっと変わった集積回路チップが、北部の辺境都市で開発されたらしくてな。入手できないかと、調達屋に手配してもらってるんだが……」
「もしかして、外部は外部でも『レンブルグの外』と、なんですか?」
「そうだ」
「では……駅か空港で、そのまま局留めにするつもりだったんですね」
「気休め程度にしかならんとは言え、それでも自分から奴に住所を知らせるつもりはないからな」
「『知られる』と『知らせる』では、まったく意味が異なる、でしたか」
「ああ。奴ならレンブルグというキーワードさえあれば、私の居場所ぐらい容易く突き止められるだろう。だが、必要さえ覚えなければ、あえて追求してくることもないはずだ。ならばこちらも、強いて痕跡を隠すような無駄な真似はしない。それでも、不用意に個人情報を垂れ流すのは、電子情報を扱う者としての心得に反するからな」
 たとえ形式上にすぎなくとも、ここからは踏み込むなという一線は引いてみせる必要がある、と。
 そんなふうに返答するシルバーに、リュウはなるほどとうなずいていた。
 しかし聞いている周囲の者にとっては、なんのことやらさっぱり意味不明の会話である。
「……おい、どういう意味なんだ」
 ゴウマがリュウの服を引き、低くなった耳元へと小声で問いかけた。ただでさえ小柄なゴウマが椅子に座っていると、長身のリュウはかなり屈まなければならなくなる。
 別に、そんなふうにこそこそする必要などない ―― というよりも、目の前でやっている時点で、すでにまったくひそめていないのだが。
 そこは気分というか、やはりまだ完全には、シルバーの前でおおっぴらに振る舞えないという葛藤が彼にもあったりする。
 スイとシルバーの間にはゴウマが入り、ゴウマとシルバーの間にはリュウが入る。互いの打ち解け具合がどういう段階にあるのか、ある意味判りやすい構図だった。
「ええと、つまりですね。この人はシルバー・アッシュというHNハンドルネームで仕事をしていますが、本来ならその名はあくまでネットワーク上でのみ使用される、ビジネス用のものなんです。仕事で関係する相手は、発注する側も、必要な品を購入する取引先も、シルバー・アッシュを名乗る人物がどこに住む何者なのかということを、いっさい知りません。住所はもちろん、顔も年齢も、性別すら公表していないんです」
「は……? なんだそりゃ。そんなことができるのか?」
 仕事をとるために営業をし、各種打ち合せや引き渡し、金銭の授受からアフターケアまでしていく中で、素性はおろか容姿まで隠すような真似が、はたして可能だというのか。
 その疑問には、空になったカップを脇へずらして置いたシルバーが返答する。
「仕事相手とは、すべて電脳回線ネットワーク上でやりとりをしている。……つまりメールや、電子会議バーチャル・チャットと呼ばれるものを介してだな。仕事の受注も、引き渡しも、みな回線上で行う。メールや通常のチャットは文字情報のみだし、電子会議でも合成した分身アバターを表示させるのがこの業界の通例だ。もちろんのこと、そのアバターは現実の私とはまったく異なる姿をしているし、それは相手の側も変わらない」
 滔々とうとうと解説するシルバーの手元では、リュウが当たり前のようにカップへおかわりをそそいでいる。
 その言葉と姿にどことなく圧倒されつつ、ゴウマはなんとか内容を理解しようと、話された内容を頭の中で反芻する。
「ああっと……つまりだ。全部を通信ですませるか、その、あ、『あばたー』ってやつで、別人になりすましてるってことか」
 程よいぬるさのカフェラテを一口飲んで、シルバーはうなずく。
「そんなところだ。要は姿があったほうが多少なりと話がしやすいから、互いに着ぐるみを被っているようなものか。それにどれほど高度な分身キャラクターをデザインし、さらに自然な動きで操作してみせるかで、己のプログラマーとしての伎倆を他者に披露してみせるという、一種の宣伝、あるいは示威的効果もある」
「……自分はこんなすげえ真似ができるんだぞ。だから仕事をよこせ、って?」
「大雑把に言えば、そういうことだ」
「わっかんねえな……なんでそうまでして、素性を隠す必要があるんだ」
 ゴウマの疑問は、普段ほとんど電脳世界に関わることのない者に、共通するものだろう。
 しかしいくらかなりとネットワーク上で活動した経験を持つ者ならば、個人情報の流出を防ぐのに、どれほど警戒をしても足りないことは、よく理解できるはずだ。
 ましてやそれが、ある程度以上の水準を持つプログラマーの世界であれば、必要なセキュリティの度合いはいっきに跳ね上がってくる。
「なまじ一定水準以上の技術を持ち合わせたプログラマー ―― あるいはハッカー ―― は、時にマイナス方面へとその腕を振るおうとする傾向があってな。他人のパスワードを盗みとって改竄し、その人物の名義で勝手に買い物をしたり、預金を己の口座に移し替えたりといった犯罪行為は常道だし、作成途中のプログラム・コードを横取りして、己の名で公表しようと目論む者もいる。あるいは他者のプライバシーを暴きたて、根も葉もない誹謗中傷を周囲にばら撒き、社会的に抹殺するといった悪質な攻撃を仕掛けるやからも多い」
「…………はあ!?」
 今度こそゴウマの目が真ん丸になった。
 いや、ゴウマだけではない。向かいに座るスイや、話を聞いていた他の客達も同じような反応をしている。
「なんだって、そんな真似……いや、人の金を盗るってのはまだ判るぜ? そりゃ犯罪だけど、儲けになることに違いはないからな。でも、誹謗中傷だの、社会的に抹殺だのって、そりゃあ……」
 心底理解不能だと頭を振るゴウマに、シルバーはわずかにその口元を緩めた。
「……気にいらない相手だったから。面白そうだから。単にやってみたかったから。理由は様々だが、くだらないものがほとんどだ。自分は力を手に入れたと錯覚した駆け出しほど、そんな犯罪行為に手を染めやすい。その程度の輩にやすやすと破られるような、甘いセキュリティなど私は組んでいない。逆に私のセキュリティを突破できるほどのプロフェッショナルが相手であれば、どれほど自衛に努めようと無駄だ。ただ、形式上であれ『守りは固めている』と判りやすく明示しておかなければ、それすら理解できない愚か者を引き寄せる結果にもなる。これは電脳に関わる者としての心得……というより、暗黙のうちに了解された、不文律とでもいったところか」
 たとえ誰にも破られない厳重な金庫と警備システムを導入している銀行であっても、その建物内には必ず目立つ場所に監視カメラや、生身のガードマンを配置しているように。
 誰にでも理解できる形で『ここは警備されているのだぞ』とこれ見よがしに主張しておけば、未然に防がれるトラブルもある。そういうことだ。

「なるほどねえ……」

 判ったような、判らないような。
 そんな表情ではあったが、ひとまずは納得したらしい。奇しくも先ほどシルバーが口にしたように、『理屈』として『把握したと思う』といった塩梅あんばいだ。
 顎をさすっているゴウマに、シルバーが続ける。
「データのやり取りだけでなく、実際に形のある物品を届けてもらう以上、レンブルグに住んでいる事実だけは隠しようがない。だが、この都市に届いた段階で局留めにしておけば、あくまで『レンブルグという都市のどこかに住む、誰か』という立場スタンスを貫くことができる」
 奴もプロの調達屋を名乗るからには、そのあたりの礼儀はわきまえているはずだ、と。
「しかし……キメラ居住区ここに配達される荷が必ず集積場を経由せねばならぬとなると、さすがに条件が限定されすぎる」
 性別も年齢も容姿も秘匿されている、謎のプログラマー〈シルバー・アッシュ〉。だが、ひとつだけ極めて高い確率で断定できることがある。それは人間ヒューマンであるという点だ。
 けして獣人種それ自体が、能力的に劣っているという訳ではない。それでも現実的な話として、高度なプログラミングを行えるレベルにまで電脳世界に精通するためには、ある程度の時間をかけて相応の教育を受け、かつ充分な性能スペックを備えた機器類を整えられるほどの資金力を持たねばならない。その条件を満たすことができる獣人種キメラというものは、残念ながらほぼ皆無と言っていいのが現在の実情であった。
 事実、このキメラに寛容であることを謳う都市レンブルグであってさえ、高等教育を受けた獣人種はごくわずかしか存在しておらず ―― その筆頭と言ってもいいだろう医師、ドクター・フェイでさえもが、人間社会ではまともな医療活動を行えずにいた。
 そんな現状を鑑みたうえでだ。
 仮にその荷を、スイでも出入りのしやすいキメラ居住区の集積場で、受け取ってもらうことにするとしよう。
 そうするためにはまず発送元へ、届け先が『キメラ居住区内』だと知らせなければならない。
 仮にこちら側の住所は適当にでっち上げるなり、誰かのそれを借りるなり ―― あるいはそういったサービスが存在するのならば、集積場内での留め置きを依頼するとしても ―― それでも集積場を経由させる以上、最終的な到着地点がキメラ居住区の内部であることだけは、誤魔化しようがない。
 そして現在、キメラ居住区で生活している人間ヒューマンとなれば、彼女の他には誰も聞いたことがなかった。
「……一発で特定されますね」
 リュウがぽつりとつぶやく。
 しかも成り行き上ここでの彼女は、本名のセルヴィエラ=アシュレイダではなく、もっぱらシルバーの呼び名で通っている。キメラ居住区に住むただ一人の人間、シルバー・アッシュ。わざわざ調べようとせずとも、噂の方から向こうの耳へ飛び込んでいく可能性すら、なきにしもあらずだった。
「あの頃は、正直そこまで考えてなかったからな……」
 シルバーが、どこか自嘲気味に嘆息する。
 自身のフルネームが、発音しにくいものであることは承知していた。だがこれまで略称で呼ぶことを許したのは、ごく限られた相手だけだったのだ。それ以外とはみな仕事上の付き合いで、そこでは当然、シルバー・アッシュの名を使っていた。
 そしてアウレッタが名を呼ぶのに苦労しているのを見て、訂正しようと思った時、とっさに出てきたのは使い慣れた仕事上でのそれだったのである。
 ……そこには、記憶を失っている状態のリュウを、無用に刺激したくないという意識も働いていた。冷静になった今ならば、そう分析することもできる。
 本来であれば、HNとは電脳世界から持ち出すべきではないものだ。だが、それでも……義父ちちと『彼』だけが呼んでいたその名を告げることは、あの段階では抵抗があったのだ。
 今後の業務活動に支障が出ることへと思いが至らなかったのは ―― やはり当時は相応に、余裕というものを欠いていたということか。
「やはり今からでも、皆にはサー……」
「局までなら、私が取りに行きますよ」
 言いかけた提案を、リュウが被せ気味にさえぎった。
「以前もそうしていたじゃないですか」
 かつて住んでいた都市では、当たり前のように仕事のひとつとして行っていたことであった。それにもともとこの都市に移り住んだ時点では、人間と同じ一般居住区に、二人で住む予定を立てていたのだ。その場合も、そういった外出を要する用事は、当然リュウの担当になっていた訳で。
 しかし、その頃と現在とでは、もはや状況がずいぶんと異なってしまっている。
「お前には、ここでの仕事があるだろう。キメラ居住区から出た経験も、ほとんどないと聞いている。それならプロに依頼した方が良いと思ったんだが……」
 記憶を失うことで極度の人間不信を復活させたリュウは、レンブルグに来て間もない時点からこれまでの時間を、ほとんどキメラ居住区内 ―― どころか、このビルと向かいの診療所を行き来するだけで過ごしていたのだという。当然土地勘などまったく養えていないし、この都市における人間と獣人種との微妙な距離感覚も、身に着けていない。
 それにただでさえ人手不足の気がある【Katze】において、リュウが長時間業務から外れるのは、正直かなり厳しかった。
「……私が自分で行ければ、一番話は早いのだがな」
 シルバーは、目を伏せて小さく息を吐いた。その手が無意識らしい仕草で左の膝に伸びる。
 彼女の足については、常連達の間でも疑問の的であった。
 人間の、しかもそれなりの資金力を持つ者であれば、きちんとした病院で正規の治療が受けられるはずだ。そして現在の医療技術なら、既に機械義肢も実用段階に入っている。足そのものの快癒が見込めない場合は、機械式の義足を移植するという選択肢があるのだ。メンテナンスなどの手間はそれなりに必要だろうが、機能は生身と比べてもさほど遜色ないと聞く。下手に杖など使っているよりも、その方がよほど楽だし、悪目立ちすることもないであろうに、と。
 ドクターやリュウの話によれば、痛みもあるらしい。事実、時おり食事に降りてこない日などは、何も仕事が忙しいばかりが理由ではないという。


 太ももの上で、拳を握りながら交わされる言葉を聞いていたスイは、プロに依頼した方が、というくだりではっと顔を上げていた。
 そうして膝をさするシルバーの細い指と、立てかけられた杖を交互に見る。

「あ、あの……っ」

 ずっと黙っていた彼女が声を上げたことで、リュウとシルバー、アウレッタにゴウマの全員が振り向いた。いっせいに注目されて居心地悪げに身体をもぞつかせながらも、スイは懸命に言葉を続ける。
「あの、空港か駅まで、代理で荷物を受け取りに行けば、良いんだよね。アタシ、やるよ。引き受ける」
 つっかえつっかえになりながら、それでも言い切った彼女に、シルバーがいぶかしげに問い返す。
「……だが、行きたくないのだろう?」
 たとえ委任状を渡していたとしても、人間の職員は疑いを持ち、引き渡しを渋りかねない。スイに対して何らかの暴言を吐くかもしれないという予測も、ゴウマの説明を受けたあとでは想定できた。
 確認されて、スイは一度ぐっと唇を噛み締める。
「ほんと言うと、ヤダとは思う。……でもさ、アタシはそれを仕事に選んだんだから、届け先や配達元がどこでも、ワガママ言ってちゃダメなんだよね」
 改めて居住まいを正し、座ったままで背筋を伸ばす。
「それに、さ。シルバーさんは、別に嫌がらせしようとか、安い料金でこき使おうとか、そんな理由でアタシを選んだんじゃなくて。本当に誰かに任せなきゃいけなくて、それでアタシがバイク便やってるって聞いて、普通に仕事として頼もうと思ったんだよね」
「……嫌がらせ?」
「その……たまに、いるんだ。『外』まで呼ぶだけ呼びつけて、無理難題めちゃくちゃ言われて、それでゲラゲラ笑いながら、しまいにはそこの角まで捨ててこいとかって、生ゴミ投げつけられたりとか。そういう、嫌がらせ」
 金さえもらえれば、なんでも運ぶんだろう、と。
 彼らにとっては小遣い程度だろう現金を地面に落とし、さあ拾えと楽しげに笑っていた人間達の姿を思い出す。
 似たような経験は、話を聞いていた皆が皆、多かれ少なかれしてきているのだろう。
 ざわついていた店内が、しんと静まり返る。
「……度し難い愚か者は、どこにでもいるのだな」
 ふう、と。
 シルバーが深く息を吐く。
「『獣人種にも、平等な権利と自由を』が、この都市レンブルグのモットーだと聞いて、ここを選んだのだが……」
 そんなものは、人間ヒューマンが勝手に掲げている、対外的に聞こえの良い建て前でしかない。
 けれどこの人は、そんな綺麗事を心から信じて、それ故にこの都市への移住を決めたのだろうか。
 ちらりと、テーブル脇にたたずむ銀狼の青年を見上げる。

 ―― 彼の、ために。

 そんな考え方をする、彼女の依頼だというのならば。
「そういうのと違って、シルバーさんのは、ちゃんとした『仕事』なんだから。正式な仕事を、正式に発注されたのなら、都合がつく限り引き受けるのが『プロ』ってものだよね。アタシはもう社会人で、これでご飯を食べてるプロなんだから。仕事の話をもらったなら、まずはお礼を言わなきゃダメだったよね」
 ぺこりと緑色の頭を下げる。
 引き受けられるのか、そうでないか。場所がどこなのか、相手が誰なのか。そんなことは関係なく。一番最初に口にするべきだったのは、

「当方へのご依頼を検討いただき、ありがとうございます」

 スイのその言葉に、店内の空気が変わる。
 ゴウマが無言で腕を伸ばし、スイの頭を乱暴に掻き回した。
 途端に顔を上げたスイが、ぐしゃぐしゃになった髪を押さえて抗議の声を上げる。その反応に店のあちこちから笑い声が上がった。
 だがそれは、どれも陰湿さのない、温かな響きを持つもので……


§   §   §


 具体的な到着日はまだはっきりしていないからと、料金や手はずの他に、とりあえず日付を抜いた委任状を用意することなどを打ち合わせて、スイは長くなった昼食の席を立った。

「あれ、計算間違えてるよ?」

 レジスターに表示された金額を見て、財布を手にしたまま首を傾げる。
 見慣れた金額は、よく食べている日替わりランチのもので。オレンジジュースの代金が含まれていない。
「ああ、ジュースなら、シルバーさんが払うってさ」
「え、でも……」
 とっさに店の奥を振り返ると、シルバーは右腕に杖を装着しているところだった。視線が手元を向いているため、こちらには気付いていない。食べ終えたうつわを下げていたリュウが、代わりに小さく手を上げた。
 確かにスイが自分で注文した訳ではなかったが、それでもあれのおかげでずいぶん落ち着けたのだ。払うのに否やなどないのだが。
 それに、キメラ居住区内から外へ出る仕事だからと、彼女は出張費まで気前よく見積もりに入れてくれたのだ。それなのに。
「どうかしたのか」
 帰る準備を終えたらしいシルバーが、端末を入れた鞄を肩にかけ立ち上がっている。
 ゆっくりと歩み寄ってくる彼女に、スイはレジスターの金額を目で示した。自分も支払い用のカードを出しながら、シルバーはああとうなずく。
「昼休憩を邪魔してしまったからな。詫びと言うには微々たるものだが」
「いいの?」
「……やはり迷惑だったか」
 問い返す声がわずかに沈んだような気がして、スイは大慌てで首を左右に振る。
「ううん! あ、あの」
「なんだ」
「ごちそうさまでしたっ」
「……ああ」
 応じるシルバーの口元は、心なしかいつもよりも柔らかくほころんでいるように見えた。
「ほら、スイちゃん。後ろ詰まってるよ」
 アウレッタに促されて、スイは慌てて表示されている金額ちょうどを支払う。
「はい、確かに」
「女将さんも、ごちそうさまでした」
「お粗末さん。午後も頑張ってきな」
「うん。行ってきます!」
 アウレッタやシルバー、店内の客達にまとめて手を振って、スイは【Katze】をあとにした。
 前の通りに駐めておいた自動二輪へと、足取りも軽く駆け寄り、鼻歌交じりにエンジンをかける。

 そのまま風を切って走り始めた彼女は、すれ違うように脇を通り過ぎ、自分が出てきたばかりのビルへと向かってゆく見慣れぬ獣人女性の姿など、まったく意識に止めてはいなかった ――


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